三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』より
日華全面和平工作を打ち壊した者
新聞紙上にも報道されたが、ここで昭和十三年春、即ち蒋政権相手にせずの政府声明直後に試みられた日華全面和平工作と、これを失敗に導いた裏面の事情を明らかにしておこう。
犬養毅、頭山満、宮崎滔天等と共に孫文の中国革命に協力し、蒋介石以下国民党首脳部の面々とも極めて親しい間柄にあった茅野長知氏は、日華事変勃発後間もなく、昭和十二年十月、当時の支那派遣軍司令官松井石根大将の依嘱に依り、
上海に渡り、景林巷アパートに事務所を設けて、独自の立場から、事変処理の裏面工作に奔走し始めた。
この時茅野老の秘書兼協力者として終始行動を共にしたのは、かつて幸徳秋水らの無政府主義思想に共鳴して社会運動に投じ、後、宮崎滔天の一門に参加し、殆んどその半生を支那問題に捧げて来た松本藏次氏であった。
茅野老は終戦後既に故人となったが、以下は筆者が松本藏次氏を訪ね、直接聞いた和平工作の経過と、この和平工作を誰が如何にして打ち壊したかの真相である。
昭和十三年三月の末、中国側の要人賈存得(ペンネーム、国民政府行政院長兼財政部長孔祥熙の恩人の息子で、同院長の意を体し、日華和平工作に奔走してゐた人物)といふ人物が松本藏次氏に連絡をとつて来た。
そこで松本氏が上海のカセイホテルで会ってみると、賈存得は率直に、(P150)
「このままで行けば日支共倒れとなり、亜細亜全体の不幸を招来する。何とかして全面和平の道を講じなければならない」
と言った。松本氏はこの賈存得の意見を茅野老に伝へ、協議した上で四月二十日頃、前と同じやうにカセイホテルで第二回の会見を行った。
この時茅野老の出した和平条件は、満蒙問題の承認(満州国の独立承認と、内蒙に於ける日本の立場の承認)であり、中国側の条件は、日本軍の全面的撤兵であったが
、この日本軍の撤兵については、日本側が原則的に承認すれば、実際問題としての時期、方法等の具体的処置については、日本側の希望もいれて協議する用意があるといふ意見であった。
そこで現地軍の意向を一応確めておくこととなり、松本氏は賈存得と同行して、特務機関の臼田大佐と会った。臼田大佐も、漢口政府が真剣に全面和平を考へるならよからうといふことになったが、
扨て具体的にこの工作を如何にして進めるかといふ問題になると、賈存得は、
「日本側の言ふことは、何時でも信用が出来ないから、責任ある者の書面をくれ」
といひ出した。
そこで臼田大佐は「それでは僕が書こう」といふと、買は、「臼田大佐の名前は漢口政府で誰も知らない。誰も知らぬ人の書面など信用しない」といふ。
「それなら特務機関長原田少将の書面にしよう」と臼田大佐が言ふと、買はまた、「原田少将の名も知らない。信用しない」といふ。
そこで松本氏が「茅野長知の書面でどうか」といったところ、買は非常に喜んで、「茅野先生なら書面でなくても名刺で結構です。政府首脳部で、茅野先生を知らぬ者は一人もありません」といった。
この時臼田大佐は、「あっけにとられたような顔をしていた」と松本氏はいっているが、この賈存得の言葉には深くあじはふべきものがある。臼田大佐の名も、原田少将の名も知らないといつたのは、
名前を知らないといふことよりも、軍部の者のいふことは信用出来ないといふ意味で、茅野先生なら名刺でもよいといつたのは、信用の出来る人物と話したいといふ意味だ。(P151-P152)
そこでそれなら茅野先生に直接会おうといふことになり、四月二十一日か二日、賈存得と茅野老の会見となつた。
この会見で茅野老は、孔祥熙宛に二尋余に及ぶ日華全面和平の必要を説いた漢文の手紙を書いて賈に託した。
茅野先生なら名刺でも結構ですといつてゐた賈は躍りあがって喜び、此の手紙を持つてすぐ香港に行き、当時香港にゐた孔祥熙夫人と同道、夫人の自家用飛行機で漢口に飛ぴ、五月初め孔祥熙行政院長の長文の返書を以て上海に帰つて来た。
(「ゆう」注 賈存徳回想では六月初め)
この孔祥照の手紙は、茅野老宛のものであったが、内容は日華和平の条件、其他今後の日華問題処理に関する詳しい意見を孔院長自身の筆で書いたものであったが、内容は勿論蒋介石とも協議したもので、
一、日華双方共即時停戦すること
二、日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること
三、日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的にはこれを承認するが、具体的には日華両国で協議すること
等であった。
(「ゆう」注 劉傑「日中戦争下の外交」P198 「しかし、先の賈存徳の回想によれば、孔祥熙が萱野への手紙の中で具体的な提案を行っていない。
それどころか、 賈存徳への指示の中で孔祥熙は、萱野の背後に誰がいるか、松本蔵次はどういう経歴の人なのか、などについて賈存徳に調べるよう命じている。
つまり、孔祥熙が萱野の手紙を見ただけで、それほど重大な条件を日本側に提示するわけがなかったはずである。」)
そこで茅野老は、この孔祥熙の書面を携へ、日本政府及ぴ、軍部と協議するため、五月六日上海を出発し、九日東京に着いた。(「ゆう」注 実際は六月。日付が一ヶ月ずつずれている。以下同様)
東京に着くと軍部では、現地軍からの連絡で茅野老が軍の非行でも暴く為に帰つたものと誤解したらしく、茅野老の行動を警戒し始め、先づ影佐大佐が老を呼び出してどなりつけ、又憲兵隊に呼び出して調べたりしたが、
そんなことを気にするような老ではなく、茅野老は小川平吉氏とも協議した上で、板垣陸軍大臣、近衛首相と談判し、全面和平の実現に努力したのである(P152-P153)
その結果板垣も、近衛もこの茅野老の交渉と孔祥熙の提案を承認し、この線で日華双方共、和平実現に努力することとなった。そこで茅野老は、五月十七日か八日頃東京を出発、上海に行き、上海に到着と同時に賈存得に連絡した所、
丁度その頃親日派要人の暗殺事件などあって、賈との会見に警戒を要したため、二三日空費したのである。
その頃同盟通信の上海支局長をしてゐた松本重治氏が、丁度上海にゐた。松本氏は前から近衛とも親交があり、当時日華和平交渉はいくつかの線で試みられており、
松本氏もその一人であることをかねて聞いていた茅野老は、賈存得との会見を待ってゐる間に、松本氏と会つて、香港方面の事情を聞き、又茅野老からは、賈存得との交渉経過をありのままに松本重治氏に話した。
あとで茅野老は、この松本重治氏との会見を、「運命の日だった」と述懐していたそうであるが、歴史の方向は僅かなところで全く思ひもよらぬ方向に切り変へられるものである。松本重治氏の真意が何処にあったかは別として、
この松本氏に茅野老が孔祥熙との交渉経過を打ち明けたことが、日本の運命に決定的な方向を与へたことは事実のやうである。この点については後で一言する。
かくて賈存得と会ったのが二十三、四日頃、話はすぐ行動に移され、茅野老、松本藏次氏、賈存得、それに和知大佐を加へた一行四人は、五月二十六日船で上海をたち、香港に向った。
二十九日香港着、中村総領事の出迎へを受け東京ホテルに入り、早速漢口政府との交渉に入つた。これは後でわかつたことであるが、この頃松本重治氏は東京に帰つておつた。(P153-P154)
六月十二、三日頃、居正(国民政府考試院長)夫人が、香港の宿舎に茅野老を訪ねて来た。茅野老はこの居正の娘を養女として育て上げた親戚の間柄で、両者の間には日本も中国も区別はなかつた。
この居正夫人は孔祥熙行政院長の代理として来たのである。一人は生みの親、一人は育ての親、この二人が一人は日本を代表し、一人は中国を代表して、両国の運命を決する重大問題を談じたのである。
両者の間に話はすぐまとまつた。その要領は、
一、日華双方から正式に代表を出して、即時全面和平のとりきめを行ふこと
一、中国側の代表は、主席孔祥熙行政院長、副主席居正、何応欽、他に戴天仇又は張群の五名とする
一、日本側は近衛首相又は宇垣外相を主席とし、陸、海軍の代表を加へて構成する
一、場所は、香港港外、日本側軍艦を用ひて洋上会見とする
一、日華両国代表によって行ふとりきめ内容は、日華双方とも、即時停戦命令を発することに署名すること
一、停戦後の条件は、両国の聞で具体的に協議すること
等であった。
このとき居正夫人は茅野老に対して、
「茅野さん、これでいいでせう。戦争をやめてしまへばあとはどうにでもなります。それに日本側から言へば、中国政府の代表としてこの五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじやありませんか。捕虜にしたのも同然でせう。
これで日本側の面白が立つでせうし、中国側もこれだけの政府首脳部五人が頭をそろへて日本側の軍艦に乗りこみ、日本に停戦を承認させたといふことだけで面目が立ち、あとは何とかおさまります」(P154-P155)
といつている。実に堂々たる政治交渉である。
これで話は決つた。そこで六月二十一日、茅野、松本(藏次)、中村総領事の三人はエンプレス・ジャパン号で香港を立ち、上海に帰つて来た。その頃上海には松本重治氏が東京から帰って来ており、
国民政府外交部亜州司長をしていた高宗武も来て居つた。この両人が何をしてゐたかは後の話になる。
茅野老と松本藏次氏は、すぐ船の手配をして六月二十八日東京に着いた。着京と同時に茅野老は先づ板垣陸相に会って、右の居正夫人との交渉の結果を報告し、日本側の態度決定を要求した。
ところが板垣陸相の態度は前と全然変っており、板垣は「中国側に全然戦意なし、この儘で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。
日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」といふ。
そこで茅野老は「それはとんでもない話である。国民政府には七段構への長期抗戦の用意が出来てゐる。中国側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出たのだ」とひらきなおったととろ、
板垣は、「実は君の留守中に、松本重治が国民政府の高宗武をつれて来た。これは高宗武から直接聞いた意見で、中国側には全然戦意がなくなつた。
無条件和平論が高まつており、この無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だといふ話をして行つた。軍の幕僚連もこの情報を信じてゐるから、君のとりきめた話は、折角だが、とりあげることは出来ない」といふのだ。(P155-P156)
この板垣の意見に憤慨し、且失望した茅野老は、早速近衛首相に会って談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を信用し、亦、軍の態度がそうなつた以上仕方がないといひ出した。
丁度その頃、松本藏次氏は大川周明、白鳥敏夫、後藤隆之助など近衛及陸軍と連絡ある連中に会つて話してみたが、何れも板垣、近衛と同様の意見で固つており、日本の政府及陸軍の、
この強硬方針はどうにもならぬところへ来てしまつたことがわかつた。
そこで松本藏次氏は茅野老を東京に残したまま出発し、七月始め長崎から上海に船で行き、十日か十一日の夜、賈存得に会つて板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝へた。
すると賈は非常に驚いて、直ちに上海国民銀行六回に設けられてゐた秘密連絡所から、漢口政府に電報でこの旨を連絡した。すると漢口政府からすぐ返電して来たが、それによると
、高宗武が東京から漢口政府に対し全く正反対に、日本側に戦意なし、中国が飽迄抗戦を継続すれは日本側は無条件で停戦、撤兵するといふ秘密電報が入つていることがわかつた。
つまり高宗武は日華双方に全く正反対の情報を送つて、切角ここまで進んで来た和平交渉を打ち壊してしまつたのである。
高宗武が何故こんなことをやつたのか、彼自身の真意は不明であるが、後で述べるごとく、松本重治氏が同道して上京し、板垣、近衛に会はしてゐること、
又この松本重治氏と尾崎秀実とは年来最も親しい間柄であったこと(この点は彼の手記にも出てゐる)、 (P156)
更に同じブレーンのメンバーとして尾崎の思想的影響下にあった西園寺公一、犬養健及汪兆銘新政府のたて役者として登場する統制派幕僚の一人、影佐禎昭らとの連絡関係を掘り下げて分析してみるならば、 この高宗武の背後に容易ならぬ遠謀深慮が潜んでいたことを窺ひ知ることが出来る。
高宗武のこの奇怪なる行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したが、ここから高宗武、松本重治、尾崎秀実、犬養健、西園寺公一、影佐禎昭一派の汪兆銘引出し工作に転じて行くのである。
しかし、尚全面和平の希望を捨てず、東京に残って政府、軍部と接渉を進めていた茅野老は七月二十九日付で、先発した上海の松本藏次氏宛に出した手紙の中で、
「天運未だ来らず、近衛、宇垣両相の決断出来ず遂に今日に及び申し候。その理由、漢口政府外交部司長の職にありたる高宗武といふ者、軍部関係者より運動して来京、蒋介石下野を、
汪兆銘、張群其他二、三十名の協力一致を以て余儀なくせしめる方法ありと申し入れたるを以て、小生等の提案より至便なる故この方法に賛成して、我等の提案を後廻しにしたものの如し」といつてゐる。
かくてせつかくの日華和平交渉も実現の一歩手前で打ち壊されてしまった。漢口は陥落し、国民政府は重慶に移つたが、高宗武の言ふごとく、蒋介石政権は手を挙げず、茅野老のいふごとく、七段構への長期戦態勢に入った。
然し茅野老は飽迄も重慶政府との和平交渉に望みを捨てず、八月始めに上海をたち、賈存得と共に再び香港に渡り、重慶工作に専念した。松本藏次氏は上海の茅野公館を足場とし、香港、上海間の連絡に当つておつた。
バイアス湾上陸の行はれた頃、松本氏は茅野老との連絡の為、上海より船で香港に行つた。この船は独逸から受けとつた何とかいふ船だつたと松本氏は言つているが、この船に偶然乗り合せたのが尾崎秀実と西園寺公一であつた。(P157-P158)
(「ゆう」注 実際には尾崎と西園寺の旅行は1939年夏。松本の記憶違い?)
松本氏は尾崎とも面識があり、尾崎が船中で西園寺相手に西さん、西さんと何事かしきりと話し合つていたといつている。この頃松本重治氏も香港に行つており、ハノイに飛んで行つた高宗武との連絡に当つていた。
(「ゆう」注 「バイアス湾上陸」は1938年10月。実際には松本重治は1938年9月より12月まで腸チフスで入院中。従ってこの時期、尾崎・西園寺・松本が香港で「共謀」したことなど、ありえない)
松本藏次氏は、香港滞在一週間位で上海に引き返して来たが、帰りの船中でも、尾崎、西園寺と一緒であつたといつてゐる。
暫くして汪兆銘が重慶を脱出し、ハノイにきたことが報ぜられた。そして、東京の近衛との間に連絡がつけられ、十二月二十二日あとで述べる、かの所謂近衛声明となつたのである。(P158)
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