三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』より

三田村武夫『大東亜戦争とスターリンの謀略』より

 日華全面和平工作を打ち壊した者

 新聞紙上にも報道されたが、ここで昭和十三年春、即ち蒋政権相手にせずの政府声明直後に試みられた日華全面和平工作と、これを失敗に導いた裏面の事情を明らかにしておこう。

 犬養毅、頭山満、宮崎滔天等と共に孫文の中国革命に協力し、蒋介石以下国民党首脳部の面々とも極めて親しい間柄にあった茅野長知氏は、日華事変勃発後間もなく、昭和十二年十月、当時の支那派遣軍司令官松井石根大将の依嘱に依り、 上海に渡り、景林巷アパートに事務所を設けて、独自の立場から、事変処理の裏面工作に奔走し始めた。

 この時茅野老の秘書兼協力者として終始行動を共にしたのは、かつて幸徳秋水らの無政府主義思想に共鳴して社会運動に投じ、後、宮崎滔天の一門に参加し、殆んどその半生を支那問題に捧げて来た松本藏次氏であった。

 茅野老は終戦後既に故人となったが、以下は筆者が松本藏次氏を訪ね、直接聞いた和平工作の経過と、この和平工作を誰が如何にして打ち壊したかの真相である。


 昭和十三年三月の末、中国側の要人賈存得(ペンネーム、国民政府行政院長兼財政部長孔祥熙の恩人の息子で、同院長の意を体し、日華和平工作に奔走してゐた人物)といふ人物が松本藏次氏に連絡をとつて来た。 そこで松本氏が上海のカセイホテルで会ってみると、賈存得は率直に、(P150)

「このままで行けば日支共倒れとなり、亜細亜全体の不幸を招来する。何とかして全面和平の道を講じなければならない」

と言った。松本氏はこの賈存得の意見を茅野老に伝へ、協議した上で四月二十日頃、前と同じやうにカセイホテルで第二回の会見を行った。

 この時茅野老の出した和平条件は、満蒙問題の承認(満州国の独立承認と、内蒙に於ける日本の立場の承認)であり、中国側の条件は、日本軍の全面的撤兵であったが 、この日本軍の撤兵については、日本側が原則的に承認すれば、実際問題としての時期、方法等の具体的処置については、日本側の希望もいれて協議する用意があるといふ意見であった。

 そこで現地軍の意向を一応確めておくこととなり、松本氏は賈存得と同行して、特務機関の臼田大佐と会った。臼田大佐も、漢口政府が真剣に全面和平を考へるならよからうといふことになったが、 扨て具体的にこの工作を如何にして進めるかといふ問題になると、賈存得は、

「日本側の言ふことは、何時でも信用が出来ないから、責任ある者の書面をくれ」

といひ出した。

 そこで臼田大佐は「それでは僕が書こう」といふと、買は、「臼田大佐の名前は漢口政府で誰も知らない。誰も知らぬ人の書面など信用しない」といふ。 「それなら特務機関長原田少将の書面にしよう」と臼田大佐が言ふと、買はまた、「原田少将の名も知らない。信用しない」といふ。

 そこで松本氏が「茅野長知の書面でどうか」といったところ、買は非常に喜んで、「茅野先生なら書面でなくても名刺で結構です。政府首脳部で、茅野先生を知らぬ者は一人もありません」といった。

 この時臼田大佐は、「あっけにとられたような顔をしていた」と松本氏はいっているが、この賈存得の言葉には深くあじはふべきものがある。臼田大佐の名も、原田少将の名も知らないといつたのは、 名前を知らないといふことよりも、軍部の者のいふことは信用出来ないといふ意味で、茅野先生なら名刺でもよいといつたのは、信用の出来る人物と話したいといふ意味だ。(P151-P152)

 そこでそれなら茅野先生に直接会おうといふことになり、四月二十一日か二日、賈存得と茅野老の会見となつた。

 この会見で茅野老は、孔祥熙宛に二尋余に及ぶ日華全面和平の必要を説いた漢文の手紙を書いて賈に託した。

  茅野先生なら名刺でも結構ですといつてゐた賈は躍りあがって喜び、此の手紙を持つてすぐ香港に行き、当時香港にゐた孔祥熙夫人と同道、夫人の自家用飛行機で漢口に飛ぴ、五月初め孔祥熙行政院長の長文の返書を以て上海に帰つて来た。 (「ゆう」注 賈存徳回想では六月初め

 この孔祥照の手紙は、茅野老宛のものであったが、内容は日華和平の条件、其他今後の日華問題処理に関する詳しい意見を孔院長自身の筆で書いたものであったが、内容は勿論蒋介石とも協議したもので、

一、日華双方共即時停戦すること
二、日本は中国の主権を尊重し、撤兵を声明すること
三、日本側の要求する満蒙問題の解決については、原則的にはこれを承認するが、具体的には日華両国で協議すること


等であった。

(「ゆう」注 劉傑「日中戦争下の外交」P198  「しかし、先の賈存徳の回想によれば、孔祥熙が萱野への手紙の中で具体的な提案を行っていない。 それどころか、 賈存徳への指示の中で孔祥熙は、萱野の背後に誰がいるか、松本蔵次はどういう経歴の人なのか、などについて賈存徳に調べるよう命じている。 つまり、孔祥熙が萱野の手紙を見ただけで、それほど重大な条件を日本側に提示するわけがなかったはずである。」)

 そこで茅野老は、この孔祥熙の書面を携へ、日本政府及ぴ、軍部と協議するため、五月六日上海を出発し、九日東京に着いた。(「ゆう」注 実際は六月。日付が一ヶ月ずつずれている。以下同様)

 東京に着くと軍部では、現地軍からの連絡で茅野老が軍の非行でも暴く為に帰つたものと誤解したらしく、茅野老の行動を警戒し始め、先づ影佐大佐が老を呼び出してどなりつけ、又憲兵隊に呼び出して調べたりしたが、 そんなことを気にするような老ではなく、茅野老は小川平吉氏とも協議した上で、板垣陸軍大臣、近衛首相と談判し、全面和平の実現に努力したのである(P152-P153)

 その結果板垣も、近衛もこの茅野老の交渉と孔祥熙の提案を承認し、この線で日華双方共、和平実現に努力することとなった。そこで茅野老は、五月十七日か八日頃東京を出発、上海に行き、上海に到着と同時に賈存得に連絡した所、 丁度その頃親日派要人の暗殺事件などあって、賈との会見に警戒を要したため、二三日空費したのである。

 その頃同盟通信の上海支局長をしてゐた松本重治氏が、丁度上海にゐた。松本氏は前から近衛とも親交があり、当時日華和平交渉はいくつかの線で試みられており、 松本氏もその一人であることをかねて聞いていた茅野老は、賈存得との会見を待ってゐる間に、松本氏と会つて、香港方面の事情を聞き、又茅野老からは、賈存得との交渉経過をありのままに松本重治氏に話した。

 あとで茅野老は、この松本重治氏との会見を、「運命の日だった」と述懐していたそうであるが、歴史の方向は僅かなところで全く思ひもよらぬ方向に切り変へられるものである。松本重治氏の真意が何処にあったかは別として、 この松本氏に茅野老が孔祥熙との交渉経過を打ち明けたことが、日本の運命に決定的な方向を与へたことは事実のやうである。この点については後で一言する。

 かくて賈存得と会ったのが二十三、四日頃、話はすぐ行動に移され、茅野老、松本藏次氏、賈存得、それに和知大佐を加へた一行四人は、五月二十六日船で上海をたち、香港に向った。 二十九日香港着、中村総領事の出迎へを受け東京ホテルに入り、早速漢口政府との交渉に入つた。これは後でわかつたことであるが、この頃松本重治氏は東京に帰つておつた。(P153-P154)

 六月十二、三日頃、居正(国民政府考試院長)夫人が、香港の宿舎に茅野老を訪ねて来た。茅野老はこの居正の娘を養女として育て上げた親戚の間柄で、両者の間には日本も中国も区別はなかつた。

 この居正夫人は孔祥熙行政院長の代理として来たのである。一人は生みの親、一人は育ての親、この二人が一人は日本を代表し、一人は中国を代表して、両国の運命を決する重大問題を談じたのである。

 両者の間に話はすぐまとまつた。その要領は、

一、日華双方から正式に代表を出して、即時全面和平のとりきめを行ふこと
一、中国側の代表は、主席孔祥熙行政院長、副主席居正、何応欽、他に戴天仇又は張群の五名とする
一、日本側は近衛首相又は宇垣外相を主席とし、陸、海軍の代表を加へて構成する
一、場所は、香港港外、日本側軍艦を用ひて洋上会見とする
一、日華両国代表によって行ふとりきめ内容は、日華双方とも、即時停戦命令を発することに署名すること
一、停戦後の条件は、両国の聞で具体的に協議すること

等であった。

 このとき居正夫人は茅野老に対して、

「茅野さん、これでいいでせう。戦争をやめてしまへばあとはどうにでもなります。それに日本側から言へば、中国政府の代表としてこの五人を日本の軍艦に乗せて談判するんじやありませんか。捕虜にしたのも同然でせう。 これで日本側の面白が立つでせうし、中国側もこれだけの政府首脳部五人が頭をそろへて日本側の軍艦に乗りこみ、日本に停戦を承認させたといふことだけで面目が立ち、あとは何とかおさまります」(P154-P155)

といつている。実に堂々たる政治交渉である。

 これで話は決つた。そこで六月二十一日、茅野、松本(藏次)、中村総領事の三人はエンプレス・ジャパン号で香港を立ち、上海に帰つて来た。その頃上海には松本重治氏が東京から帰って来ており、 国民政府外交部亜州司長をしていた高宗武も来て居つた。この両人が何をしてゐたかは後の話になる。

 茅野老と松本藏次氏は、すぐ船の手配をして六月二十八日東京に着いた。着京と同時に茅野老は先づ板垣陸相に会って、右の居正夫人との交渉の結果を報告し、日本側の態度決定を要求した。

 ところが板垣陸相の態度は前と全然変っており、板垣は「中国側に全然戦意なし、この儘で押せば漢口陥落と同時に国民政府は無条件で手を挙げる。 日本側から停戦の声明を出したり、撤兵を約束する必要はなくなった」といふ。

 そこで茅野老は「それはとんでもない話である。国民政府には七段構への長期抗戦の用意が出来てゐる。中国側に戦意なし、無条件で手を挙げるなどの情報は一体どこから出たのだ」とひらきなおったととろ、

  板垣は、「実は君の留守中に、松本重治が国民政府の高宗武をつれて来た。これは高宗武から直接聞いた意見で、中国側には全然戦意がなくなつた。 無条件和平論が高まつており、この無条件和平の中心人物は、元老汪兆銘だといふ話をして行つた。軍の幕僚連もこの情報を信じてゐるから、君のとりきめた話は、折角だが、とりあげることは出来ない」といふのだ。(P155-P156)

 この板垣の意見に憤慨し、且失望した茅野老は、早速近衛首相に会って談判したところ、近衛も板垣と同様、松本重治と高宗武の情報を信用し、亦、軍の態度がそうなつた以上仕方がないといひ出した。

 丁度その頃、松本藏次氏は大川周明、白鳥敏夫、後藤隆之助など近衛及陸軍と連絡ある連中に会つて話してみたが、何れも板垣、近衛と同様の意見で固つており、日本の政府及陸軍の、 この強硬方針はどうにもならぬところへ来てしまつたことがわかつた。

 そこで松本藏次氏は茅野老を東京に残したまま出発し、七月始め長崎から上海に船で行き、十日か十一日の夜、賈存得に会つて板垣、近衛の意見を率直に話し、東京の空気が一変したことを伝へた。

 すると賈は非常に驚いて、直ちに上海国民銀行六回に設けられてゐた秘密連絡所から、漢口政府に電報でこの旨を連絡した。すると漢口政府からすぐ返電して来たが、それによると 、高宗武が東京から漢口政府に対し全く正反対に、日本側に戦意なし、中国が飽迄抗戦を継続すれは日本側は無条件で停戦、撤兵するといふ秘密電報が入つていることがわかつた。

 つまり高宗武は日華双方に全く正反対の情報を送つて、切角ここまで進んで来た和平交渉を打ち壊してしまつたのである。

 高宗武が何故こんなことをやつたのか、彼自身の真意は不明であるが、後で述べるごとく、松本重治氏が同道して上京し、板垣、近衛に会はしてゐること、 又この松本重治氏と尾崎秀実とは年来最も親しい間柄であったこと(この点は彼の手記にも出てゐる)、 (P156)

 更に同じブレーンのメンバーとして尾崎の思想的影響下にあった西園寺公一、犬養健及汪兆銘新政府のたて役者として登場する統制派幕僚の一人、影佐禎昭らとの連絡関係を掘り下げて分析してみるならば、 この高宗武の背後に容易ならぬ遠謀深慮が潜んでいたことを窺ひ知ることが出来る。

 高宗武のこの奇怪なる行動を知った漢口政府は直ちに彼の逮捕命令を発したが、ここから高宗武、松本重治、尾崎秀実、犬養健、西園寺公一、影佐禎昭一派の汪兆銘引出し工作に転じて行くのである。

 しかし、尚全面和平の希望を捨てず、東京に残って政府、軍部と接渉を進めていた茅野老は七月二十九日付で、先発した上海の松本藏次氏宛に出した手紙の中で、

「天運未だ来らず、近衛、宇垣両相の決断出来ず遂に今日に及び申し候。その理由、漢口政府外交部司長の職にありたる高宗武といふ者、軍部関係者より運動して来京、蒋介石下野を、 汪兆銘、張群其他二、三十名の協力一致を以て余儀なくせしめる方法ありと申し入れたるを以て、小生等の提案より至便なる故この方法に賛成して、我等の提案を後廻しにしたものの如し」といつてゐる。

 かくてせつかくの日華和平交渉も実現の一歩手前で打ち壊されてしまった。漢口は陥落し、国民政府は重慶に移つたが、高宗武の言ふごとく、蒋介石政権は手を挙げず、茅野老のいふごとく、七段構への長期戦態勢に入った。

 然し茅野老は飽迄も重慶政府との和平交渉に望みを捨てず、八月始めに上海をたち、賈存得と共に再び香港に渡り、重慶工作に専念した。松本藏次氏は上海の茅野公館を足場とし、香港、上海間の連絡に当つておつた。

 バイアス湾上陸の行はれた頃、松本氏は茅野老との連絡の為、上海より船で香港に行つた。この船は独逸から受けとつた何とかいふ船だつたと松本氏は言つているが、この船に偶然乗り合せたのが尾崎秀実と西園寺公一であつた。(P157-P158)

(「ゆう」注 実際には尾崎と西園寺の旅行は1939年夏。松本の記憶違い?)

 松本氏は尾崎とも面識があり、尾崎が船中で西園寺相手に西さん、西さんと何事かしきりと話し合つていたといつている。この頃松本重治氏も香港に行つており、ハノイに飛んで行つた高宗武との連絡に当つていた。

(「ゆう」注 「バイアス湾上陸」は1938年10月。実際には松本重治は1938年9月より12月まで腸チフスで入院中。従ってこの時期、尾崎・西園寺・松本が香港で「共謀」したことなど、ありえない)

 松本藏次氏は、香港滞在一週間位で上海に引き返して来たが、帰りの船中でも、尾崎、西園寺と一緒であつたといつてゐる。

 暫くして汪兆銘が重慶を脱出し、ハノイにきたことが報ぜられた。そして、東京の近衛との間に連絡がつけられ、十二月二十二日あとで述べる、かの所謂近衛声明となつたのである。(P158)



新政権工作の謀略的意義

謀略政権の足跡

 漢口政府、即ち蒋政権との全面和平工作は遂に失敗した。そして汪兆銘を中心とする新政権工作が始つたのであるが、この問題は十三年一月十六日声明に遡つて考察する必要がある。(P161)

 一月十六日の蒋介石相手にせずの政府声明は、その後段に既に新政権への含みがあつたことを注意する必要がある。

  即ち声明は「帝国政府は、爾後国民政府を相手にせず、帝国と真に提携するにたる新興支部政権の成立発展を期待し、 これと両国国交を調整して、新生支那の建設に協力せんとす」とあり、 この新政権への含みは、同年十一月三日の、東亜新秩序宣言なり「帝国の中国に求むるところは、この東亜新秩序の任務を分担せんことにあり、帝国は中国国民がよく我が真意を理解し、 以て指導政策を一擲し、その人的構成を解体して、更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於てはあへて之を拒否するものに非らず」となり、新政権工作の具体化をほのめかしてゐる。(P161-P162)

 此頃既に先に述べた高宗武の入京によつて秘かに進められてゐた汪兆銘を中心とする新政権工作が極秘のうちに具体化しており、 上海を中心として、軍側からは参謀本部今井大佐、軍務課長影佐大佐、民間では犬養健、中国側では高宗武、梅思平らが中心となり、日華国交調整の基礎条件を協議してゐた。

 そしてこの上海を中心とした新政権工作は、高宗武、梅思平によつて汪兆銘に連絡し、影佐、犬養の線は近衛に結ばれてゐた。この裏面工作が、近衛内閣の方針として表面化したものが、かの十二月二十二日の近衛三原則声明である。

 この声明は言う。

 「政府は本年再度の声明に於て明かにしたる如く、終始一貫、国民政府の徹底的武力掃蕩を期するとともに、支那における同憂具眼の士と携へて、東亜新秩序の建設に向つて邁進せんとするものである」

 「日満支三国は東亜新秩序の建設を協同の目的として結合し、相互に善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げんとするものである」

 「日本が敢て大軍を動かせる真意に徹するならば、日本の支那に求めるものが、区々たる領土にあらず、又戦費の賠償に非ざることは明らかである。 日本は実に支那が新秩序建設の分担者としての職能を実行するに必要なる最小限度の保証を要求するものである」(P162)

 この同じ日、汪兆銘は重慶を脱出してハノイに到着し、同時に近衛に呼応して声明を発することになつてゐたが、汪兆銘の声明は連絡の手違ひで二十九日の「反共、和平」の通電となつた。 この汪兆銘の行動に対し、重慶国民政府は、越えて十四年一月一日、敵国に通謀した反逆者として逮捕命令を発してゐる。

 こゝで若し近衛声明の言葉を逆にして、日本の軍及政府首脳部に真の具眼の士がいたならば、中国から反逆者として逮捕命令を発せられた汪兆銘を、おそらくは相手としなかつたであらう。

*「ゆう」注 順番が逆。汪と日本側が合意に達したのは、「逮捕命令」の以前。合意時点ではそれなりに実現性のあるプランであったが、同調者が予想外に少ないため失敗しただけの話。


 然るに、この新政権工作を画策せる一派の者は、飽迄も強引にこれを推進し、十四年五月にはハノイから上海に汪兆銘を迎へ、着々新政権樹立の準備を進め、 十五年三月三十一日国民党改組還都の形式で汪兆銘を主席とせる南京新政権の樹立となつたのである。(P163)



汪政権の正体

 こゝで筆者は、この南京政権が何を意味したかの謀略的意義に付き一言しなければならない。

 この二十二日の近衛声明は一体何人の筆になつたものか、当時の書記官長風見章氏は、その内容も文章も近衛が独自で決めて出したものであり、最初の文案は中山優氏の執筆であつたと記憶するといつているが (文芸春秋、二十四年十一月号六十二頁)、 実際はその構想も、文案も尾崎秀実の筆になつたものである。

 この問題に関し、尾崎秀賓はその手記で次のように述べている。

「昭和十三年春頃より当時同盟通信上海支局長であつた松本重治と、南京政府亜州司長高宗武との間に日支間の平和回復に関する努力が行はれてゐました」。(P163)

「十三年春には高宗武が秘かに渡日し、下相談が進められ、松本重治等の斡旋により、近衛内閣も直接工作に携り、松本重治の友人である犬養健、西園寺公一等も直接交渉の当事者としてこれに参加するに至りました。 私はこの工作には直接参加しなかつたのですが、犬養、西園寺等と友人関係にあることや、近衛内閣の嘱託であつたことから、この間の情況を屡々耳にし、又同人等より、この工作に付き意見を求められておりました」 といひ(P163-P164)、

 又犬養健との関係に付て「犬養は父親同様、支那問題に異状な関心を持つており、支那事変以後は、支那問題の専門家である私につき種々意見を求め、相談するといふふうで、私と同人との関係は極めて親しくなつて行きました。 汪兆銘工作が始まつてからは、犬養は当初よりこれに関係し、爾来支那問題に終始して来たのであります」

 「犬養は私を信頼するに足る友人として取扱ひ、特に支那問題に関しては、私をよき相談相手として種々意見を求めておつたのであります」といつている。

 この尾崎の手記は、前にも一言した如く、政治的な考慮から、関係者への影響を考へ多分にボヤケタ所があるが新政権工作の中心人物はむしろ尾崎秀実であつたのである。

*「ゆう」注 一見して飛躍。尾崎が真の起草者である、という根拠になっていない。歴史学的にも「中山優」起草が定説。西園寺調書参照。どの研究書を見ても、尾崎が中心人物であった、という記述はないし、 そもそも尾崎の名前自体、登場しない。

 彼はまた別の検事調書の中で、

「日本と蒋介石との直接交渉は早くより香港を中心として小川平吉、茅野長知氏、軍関係者、外務省関係者など夫々別な路線を通じて工作が行はれて居つたことは新聞記者仲間の話、現地での聴き込み、 反対の立場に立つ汪兆銘運動関係者の話等から聞いて居た。− 」

といつているが、反対の立場に立つ汪兆銘派とは犬養、西園寺、松本重治の線であり、実は尾崎自身であつたのだ。(P164)

 何故かく断言するか、それには理由がある。彼は既に屡々述べた如く、共産主義社会の実現に全生命を賭し、一切を犠牲にして傾倒して来た真実の共産主義者であり、日華事変から太平洋戦争へ、 そして敗戦への現実的進行は、彼がその手記に描き出した第二次世界大戦から世界共産主義革命への構想と余りにも一致しているからである。(P164-P165)

*「ゆう」注 そんなもん、根拠になるか。

 近衛内閣は十一月三日声明及び二十二日声明で「東亜新秩序建設」といふ用語を用ひ、これを事変処理のスローガンとして来たことは周知の通りであるが、この新秩序なる概念は、 尾崎によれば、共産主義的秩序を意味したものである。即ち彼の手記を重ねて引用するならば、

 「帝国主義政策の限りなき悪循環、即ち、戦争から世界の分割、更に新たなる戦争から、資源領土の再分配といふ悪循環を断ち切る道は、国内における搾取、非搾取の関係、 国外に於ても同様の関係を清算した新たなる世界的体制を確立する以外にはありません。即ち世界資本主義に変る共産主義的世界新秩序が唯一の帰決として求められるのであります。然もこれは必ず実現しきたるものと確信したのであります」

 「日本自身は、私の以上の如き考へ方からすれば頗る敗退の可能性を多く含んだ国といふことになります。(註、日本は対米英戦の緒戦に於ては一応必ず勝利を占めるが、六月後にはその情勢が不利となつてくるといふ意味)

 勿論戦争は飽く迄、世界的な米英陣営対日独伊陣営の間に行はれるものでありますから、欧州での英独対抗の結果といふものが亦直接問題となるのでありませう。つまり東西何れの一角でも崩壊するならば、 やがて全戦線に決定的な影響を及ぼすことになるからであります。

 この観点から見る場合、独逸とイギリスとは同じ位の敗退の可能性を持つものと思はれたのであります。(P165)

 私の立場から言へば、日本なり独逸なりが簡単に崩れさつて米英の全勝におわるのでは甚だ好ましくないのであります。(P165-P166)

(大体両陣営の対立は長期化するであらうとの見通しでありますが)万一かかる場合になつた時に英米の全勝におわらしめないためにも、日本は社会的体制の転換を以て、 ソ連、支那と結び、別な角度から英米に対抗する体勢をとるべきであると考へました。

こ の意味において日本は戦争の始めから、米英に抑圧されつつある南方諸民族の開放をスローガンとして進むことは大いに意味があると考へたのでありまして、私は従来とても南方民族の自己開放を、 東亜新秩序創建の絶対要件であるといふことをしきりに主張しておりましたのは、かゝるふくみをこめてのことであります。

 この点は日本の国粋的南進主義者とも殆んど矛盾することなく主張されるのであります」

といつている。又彼は、

「日、ソ、支、三民族国家の緊密有効なる提携を中核として、更に、英、米、仏、蘭等から開放された印度、ビルマ、泰、蘭印、仏印、フィリッピン等の諸民族を各々一個の民族共同体として、 前述の三中核と、政治的、経済的、文化的に緊密なる提携に入るのであります。

 この場合各々の民族共同体が、最初から共産主義国家を形成することは必ずしも条件でなく、過渡的には、その民族の独立と、東亜的互助連環に最も都合よき政治形態を一応自ら選び得るのであります、 尚この東亜新秩序社会に於ては、前記の東亜民族の他に、蒙古民族共同体、回教民族共同体、朝鮮民族共同体、満州民族共同体等が参加することが考へられるのであります。(P166)

 申す迄もなく、東亜新秩序社会は当然世界新秩序の一環をなすものでありますから、世界新秩序完成の方向と、東亜新秩序の形態とが相矛盾するものであつてはならないことは当然であります」(P166-P167)

と言つている。

 要するに、尾崎の所謂東亜新秩序とは、アジア共産主義社会の実現を意味し、世界共産主義社会完成の方向と矛盾してはならないのである。

 この目的達成の為には、日本や独逸が簡単に敗れ去ることは好ましいことでなく、亦日本と蒋政権と和平して、 日華事変に終止符をうつことも困ることであり日本帝国主義と蒋介石軍閥政権と更にアメリカ帝国主義、イギリス帝国主義が徹底的に長期全面戦争を戦ひ抜かねば都合が悪いのである。

 この尾崎の構想をもつて日華事変の進行を判断すれば、日本政府と重慶政府との和平を成立せしめないために何等かの手を打つことが必要であり、その為の手段として考へられたものが汪兆銘の新政権樹立工作と見るべきである。

 即ち日本改府及軍部と一体不可分の関係に立ち、新政権を作り上げることにより、汪兆銘を敵国通謀者とし、反逆者として逮捕命令を発した重慶政府との和平交渉を永久に遮断する楔を打ち込んだものであり、日本改府と汪兆銘政権が、 共同防共を闘争目標として掲げたことは、国共合作の上に立つ重慶政府を対照とした苦肉の策と見るべきである。

こ の尾崎をよき相談相手としてその意見を徴し、彼の構想の上に作られた南京政府が如何なる性質のものであるかは説明を要しないであろう。

 この謀略の犠牲となつた汪兆銘は、昭和十九年十一月十日、名古屋帝大病院で淋しく死んで行つた。彼もまた近衛と同じように見えざる影の糸にあやつられて悲劇の主役を演じたロボットだつたのである。(P167)


戸部良一氏『宇垣・孔祥熙工作』より

 また、この宇垣工作の新たな展開に対しては、戦後の宇垣の回想にあるように中国側が積極的であったというよりも、むしろ彼自身が過大なほどの期待を寄せたように思われる。

 孔祥熙との直接談判については五相会議の承認を得、天皇への上奏もなされたが、中国側が和平成立前に講和後の蒋下野を公式に表明することに同意するかどうかは疑問であったし、 日本軍鑑上での会談に中国側が積極的であったとも思われない。 (『防衛大学校紀要』1987年9月 P59)



 なお、三田村『戦争と共産主義』では、上海で萱野が松本重治に賈存徳との交渉経緯を語り、それによって高宗武工作を急いだかのように記述されているが(一七三頁)、 萱野の情報が松本重治の行動にどれほどの影響を与えたかは疑問である。

(同 P70)

(2007.5.20)


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