尾崎秀実論文集
尾崎秀実 論文集

尾崎秀実『南京政府論』

一、南京政府の特質

 支那の中央政府を南京政府の名をもって呼ぶことは或いは国民政府の誇りを傷つけるものの如くである。『中国には国民政府があるが、南京政府というのは別に存在しない』というが如きである。しかしながら筆者はこの言葉を敢て用いようとするのはただ歴史的に見て現在の国民政府の性質をもっともよく表明するのみならず、国民政府の現実の地盤に最もよく適応しているからである。

 孫文を首班とする広東時代の国民政府(国民政府は正式には孫文の死後一九二五年七月一日広東に成立した。)、一九二七年一月一日漢口に移転した国民政府(武漢政府)とは現在の国民政府は本質的に異なるものを持っている。ここに南京政府と呼ぶのは一九二八年四月十八日、南京に成立して今日に及んでいる国民政府を指すのである。(南京政府は一九三七年十二月、首都南京を失った。)

 十一年十月十日、国民政府は武漢革命記念日をトして辛亥革命二十五年祭を催し、この機会に国民政府の統一を内外に誇示した。時あたかも国内最大の敵国を形造っていた西南派の圧伏の直後であり、国民政府の鼻息当るべからざるものがあった。

 蒋介石は英文のステートメントによって、経済建設、行政機能の増進、社会衛生の普及、義務教育の実施、財政の改良等に於て顕著なる成果を収め得たとし、「余は敢て云う、この八ヶ年の短期中にこれだけの成績を挙げたことは支那の歴史上に於て未曾有の現象である」と豪語した。

 その後世界的に支那の統一と建設を謳歌する声は鬱然として起ったこと周知の如くである。我々はこの間にあって支那の統一と建設とが行われつつあることを喜びつつも、その内容の精細なる検討の結果、頗る危険なるものを内包せることをしばしば種々なる角度から批判したものであった。(例えば「支那の経済建設批判」1日本国際協会太平洋問題調査部編、「太平洋問題」中の一篇。「日支経済提携批判」『改造』、十二年六月号。」)

 南京政府の一層の強化と、国際的、国内的信用の増大を謳はしめた西安事変に際しても敢て、「半植民地的、半封建的支那の『統一』に内在する基本的矛盾の爆発」ではないかとの疑問を提出したのであった。(十二年一月号、『中央公論』)

 南京政府は今日未曾有の困難に遭遇しつつあると思われる。とはいえそれは日本との現下の抗争の事実のみを指すものではない。実に、半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョア政権たる南京政府の質的転位を不可避としている点に於て特に重大なる時期に立ち到れるものといわざるを得ないのである。(P3-P4)

 一般には南京政府の危機が日本の攻勢によってのみ齎されるとの見方が支配的である。当面そのことは事実の如く見られるが、その見方は必ずしも本質的な見方ではない。かくいうならば、南京政府の統一と強化を促進したものもまた日本であったといい得るであろう。その意味は一部にいわれる如くに、日本の急激なる進出の結果、支那の中央政府たる南京政府に対する全民族的支持となって南京政府の統一を促進したという事実を指すのである。

 日本の進出は一つの重大なる契機ではある。しかしながら本質的には、南京政府の現在の立場の困難なる理由は、半植民地支那・半封建支那の根本的な究明の中にこれを見出さねばならないであろう。

 これらの支那社会の持つ根本的な特徴は当然南京政府の特徴として現われて居り、また南京政府の性質を規定しているのである。

 この特質が一方に於ては南京政府をして「僅か八年の中に」未曾有の躍進を遂げしめたのでもあり、また他方南京政府をして「遂に最後の関頭に立たしめた」所以でもある。

 ここには一々支那社会のこの基本的特質を究明している暇を持たないしまた小論の目的の範囲外でもある。ただこの特質の支那知会における集中的な現われである、官僚・軍閥・買辨の特質が、如何に深く南京政府の本質を決定しているかを観察して見たいと思うのである。

 この意味において南京政権の特つ数多の特質中から基本的なものを拾い出して見ると、南京政府と、一、国民党との関係、二、地方実力政権との関係、三、浙江財閥との関係、四、列強との関係の中に求め得られるであろう。以下これについて箇別的に観察を進めることとする。(P4)

(『尾崎秀実著作集2』 初出『中央公論』昭和12年9月号)

*青字下線は中川八洋の引用部分。


尾崎秀実『南京政府論』

二、南京政府と国民党

 国民政府は国民党独裁政権の統治機関であることはいうまでもない。国民党の性質は国民政府の性格を決定する。国民党は地下的な秘密結社の時代から、革命の目的の一半を達して今日支那の政治的権力の中枢たる地位に達する迄その名前だけでも幾変遷を経ている。

 一八九四年 孫文ホノルルに興中会を組織す。
 一九〇五年 秋、孫文東京に同盟会を設立。
 一九一一年 同盟会合法党となる。
 一九一四年 孫文日本で中華革命党組織。
 一九一九年 中華革命党正式に中国国民党となる。
  (一九二一年を以て国民党復活の年とするものもある。)

 勿論問題はその名称ではなくその内容の変遷である。この見地から見るならば、一九一一年までを第一期とすれば、一九二四年までは第二期であり、一九二七年までは第三期であり、一九三七年までは第四期であるといっていいであろう。そして今や第五期ともいうべき新なる段階にある。(P4-P5)

 国民党の発展に意想外に好望なる前途を与えたのは、それが、国内における封建的残存物の堪え難き性格からと、外帝国主義による重圧とから支那を解放することをその任務として掲げた点にあったのである。国民党の急速なる発展が支那を目標とする帝国主義的戦いの嵐の中に育ったものであることを理解することは国民党の一般的理解に必要なる鍵でなければならない。

一八四〇−四二年の阿片戦争の結果たる南京条約によって香港はイギリスに奪われ、一八五八年の天津条約、一八六〇年の北京条約によって英仏に数多の特権を許した。一八九〇年代の終リ、世界資本主義の成熟につれて列強の支那への攻勢は俄に加重された。支那は一八九五年の日本との戦によって台湾を失い、一八九八年には膠州湾をドイツに取られ、威海衛をイギジスに、旅順港をロシアに取られた。

これらの領土だけの問題ではない償金を支払わされ、関税の支配を始め数多の特権、利権を外国に与えねばならなかった。

 しかもこの間内にあって満清政権は全く腐朽しこの外国からの攻勢に全然抗する力を欠いていたのである。唯一つの血路があるのみであった。それはまず満清朝廷を倒すことであった。これこそ支那革命のインスピレーションであり、理論であり、推進力であった。ここにこそ国民党による一九一一年の革命の成功の秘訣とその以後今日にいたるまでの全支的統一のすみやかさの秘密が秘んで居るのである。

しかしながら支那の革命にとって満清朝廷の支配を倒すことは、いわば、目的達成のための一つの手段にしかすぎないのである。支那の自己解放のための終局の目的を達するために、国民党が立たされている困難さは、腐朽せる満清政権を倒す場合の幾層倍の困難さであるということは自ら明かなのである。孫文が「革命未だ成就せず」と遺言したことは当然なことといわねばならない。

 国民党は元来進歩的な民族ブルジョアジーの政党であった。従ってその本質は革命の進行につれてかえってこれにブレーキをかける作用をなして来たのである。一九一一年辛亥革命以後一九二四年にいたる間の驚くべき停滞性は、その欠陥を遺憾なく表わしたのであった。党は全然個人主義的基礎に置かれて居り、かつ一方自己の力でない、軍閥的武力の上に依存していたのである。

一九二四年の国民党の改組は、共産党の勢力を包括することによって革命に一大飛躍を与え、この力によって北伐を決行し得たのであったが、革命が更に自己解放のための徹底的闘争を要求する段階に達すれば、土地問題の徹底的解決を要求する農民、帝国主義資本に対する非妥協的闘争を要求する労働者に対して、国民党は階級的に連合し得ざる矛盾を感じたのである。

連合戦線は三年半にして崩壊したのである。それ以後、即ち一九二七年から一九三六年にかけて十年間、国民党は労働者農民の政党的勢力を根絶すべくあらゆる精根を傾け尽した観があった。

 国民党の具体的分析の結果は国民党が、官僚(郷紳)階級、地主階級、及び新興資本家階級、軍閥の代表者を主として構成されていることを教えるのである。これらはこの十年間の統一の経過の中に、次第に融合混和しつつあったことは事実であるが、しかもこの間に於て蒋介石及びその一党の独裁的傾向が漸次整えられ来ったことは周知の如くである。(P5-P6)

しばしば指摘されたところであるが、蒋、宋一族の国民党及び国民政府内に於ける地位を示すためにその系統を示そう。

(略)

 或人の計算によると、(一九三四年、但し今日と雖も大体変化はない)蒋介石、汪兆銘、宋子文、孔祥煕、孫科等十五人の高級党員が百八十一の官職を占めて居リ、平均一人で十二以上の官職を兼ねて居る。その中蒋介石は二十一、汪兆銘が十二、孫科が十三、孔祥煕十一の兼職であり、しかもこれらの職務は、多く非常に重要なもので例えば行政院長、軍事委員長、立法院長、財政部長、中央銀行総裁、全国経済委員長等の如きものである。

 支那に於て国民党は党を以て国を治めるの建前をとっている。しかしながら国民党は事実かくの如き寡頭的、血縁的・地縁的・ギルド的な支配の性質を呈しているのである。而してこの支配を維持強化するためには、青幇を始め、陳立夫陳果夫兄弟の指揮するC・C団或いは監衣社の如き秘密結社が重要なる役割をつとめることとなるのである。

 最近における支那の抗日民族運動は、民族解放運動における国民党の独断的決定を許さざる点にまで到達し、共産党との或る程度の諒解が行われていたことは事実で、この意味において、十二年二月に行われた国民党第三期第三次中央全体会議の意義は、たとえ外部に現われたところが不明瞭なものであったとしても、極めて注目すべきものであったといい得るのである。

然しながら国民党と共産党との真実の合作は日支戦争初期に於ては未だ実現されていなかったのである。真の合作が遂げられる場合は国民党及び国民政府は既にその質的転換を遂げた場合であろうと信ぜられる。(P6)

(『尾崎秀実著作集2』 初出『中央公論』昭和12年9月号)


尾崎秀実『南京政府論』

六、むすび

(略)

 支那における抗日民族運動の進展につれ、十一年暮の西安事件を契機として急速に展開されつつある所謂国共再度の合作による変化こそ支那における根本変化であらねばならぬ。(拙稿「転換期支那の基本問題」『中央公論』、七月号) この変化がそのまま発展するならば、南京政府は本質的な変化を受けることとならねばならない。(その後の事変の経過はまさにその方向を示しつつある。)

 今次の北支問題発生以来南京政府が示しつつある態度は遺憾なく、ここに南京政府の特質として示したところを暴露しつつある如くである。抗日問題を終局的に決すべき国防会議は、南京政府の軍閥的性質を露呈した機関であるが、その小田原評定は結局何等具体的帰結に到達し得なかった如くである。

共産党は事件発生以来頗る控目な態度をとって民族戦線の統一均衡を維特せんと努めつつあるかの如く見えるのである。しかも南京政府の陥りつつある窮地から脱せんために、南京政府は再び国共分裂の中に血路を見出さんとする場合も考え得られるのである。

(十二・八・十)
(P14)

(『尾崎秀実著作集2』 初出『中央公論』昭和12年9月号)


尾崎秀実『時局と対支認識』



 盧溝橋事件が日本に伝へられた時、筆者はこの事件の重大性について述べ、『恐らくは今日両国人の多くはこの事件の持ち来すであらう重大なる結果につきさまで深刻に考へてゐないであらうが、必ずやそれは世界史的意義を持つ事件としてやがて我々の眼前に展開され来るであらう。』(改造八月号)と警告した。

その後の事態の推移はまさにかかる見方が過度の敏感から生じたものではないことを不幸にして立証しつつある。

だがしかし真実の「世界史的意義」が完全に人々に感得せられるのは更に遥に後のことであらう。今はただ当面の敵を完全に打倒することにのみ死力が尽されてゐるのである。

「局地的解決」も「不拡大方針」も全く意味をなさないことになつてしまつた。国民の大多数はただ敵に向つて突進する、そして少数の気弱な者が事態の成行に対して見透しを持たないまま呆然として眺めてゐるといつた状態である。

 日支戦争が起り、かつ大規模に発展して行くべき素地は充分存在してゐたのである。

 顧みるに昨年の暮から今年の春にかけて支那の統一と一応の成功にともなつて支那の資本主義的な発展を高く評価しこれを支持し、更にこの線に沿ふて日支間の協調提携をはからんとする主張が台頭したことは周知の如くである。松本忠雄氏はこれを次の如く述べてゐる。

『最近我国に於ても、支那の統一と建設とが異常の進展を遂げつつあることを指摘し、今日の支那は最早旧態依然たる支那にあらず、宜しく支那を見直すべしとなす、所謂支那再認議論なるものが台頭し、殊に支那の現地から来る人々の中にこの説をなすものが多い。是等支那再認識論の根底をなすものは、大体に於て蒋介石の民国二十五年記念声明と同一の事実である。(P43-P44)

 現に支那の現場から帰つた責任の地位にある人が、一人ならず二人迄も三人迄も、(一)南京政府は統制力、支配力が支那全地域に及ぶに至つたこと。(二)軍備の充実が非常なる速力を以て進められてゐること。(三)各種建設事業の発展目醒しきものがあること。(四)愛国心の発揚著しきものあることを挙げ、更に幣制改革事業の功と、西安事件に際し支那の政界も財界も微動だにもしなかつたことを以て、有力なる証左として、支那を再認識するの必要を力説して居る。』と。(「支那再認識論の検討」東洋)

 松本氏が責任ある二三の人々といふのは、前駐支大使有吉明、前南京総領事須磨弥吉郎、前南京駐在武官雨宮中佐等の人々を指すのであらう。これらの有力な人々の口から支那の変りつつある現状を説かれたことは支那を相も変らぬ軍閥混戦の支那としてのみ考へてゐる多くの日本人に対して少なからぬ衝撃を与へたことは事実である。

 なほ松本氏は看過してゐられるが、この支那を見直せとの主張の中には支那における民族運動の新なる昂揚を見、この方向を尊重する立場から説く一派の論者もあつたのである。

 だがこの主張に対しては当然反動が存在するのである。理論的に国民政府による支那の統一及び建設の内容を批判し、これを無批判に容納支持することが危険であるとする立場の外に、有力なる反対は日本の大陸政策の信奉者の側から起つたのである

それは畢竟、

一、国民政府の国力の発展は日本の大陸に於ける政策遂行を阻むにいたるであらう。

二、国民政府の統一と建設の発展には常にイギリスの勢力の浸透と拡大が伴はれるのであつて、日本は支那における最大の競争者英国の脅威の増大を座視することになるのだ。

三、国民政府が外国の圧力に抗して統一を遂行しつつある過程に於て民族意識の昂揚は国民政府を左翼化せしめ同時に共産党の勢力を伸張せしめつつある。

といふ三点の考慮に関連してゐる。

 これに対しては断乎たる手段を講じなければならないとの意見が支配的な層にかなり広く台頭しつつあつたのである。(P44)

(『改造』昭和十二年秋季増刊号)


尾崎秀実『時局と対支認識』



 北支事変発生の直前における雑誌「東亜」の所論の如きはこの意見を代表したものと見られるのである。

 『日本の対支世論が混乱して居るのは、結局それが二つの異なれる基点に立つからである。一つは日本の外交政策如何によつては日支親善の途があるとするものであり、今一つは今日の両国の国情よりしては相対立すべき要素こそ発展すれ、両国融和の部面は狭少になる一方である。両国の国状が現状にある間は日支親善の途なしとするものである。』(P44-P45)

 『最近でも日本は幾度となく支那に働きかけた。廣田の三原則、昨秋の南京交渉に於ける国交整調案、佐藤前外相の互恵平等によつて新関係を樹立せんとする声明、実業団の渡支などはその主要なものである、しかし何れも支那側に軽くあしらはれて、すごすごと引き下つた形になつて居る、これらは一貫して日支関係の改善が出来るとの確信のもとに出発したものである、何れも始めから出来ない相談として立案されたものではないのである、それが現実には出来ない、どこかに錯誤がなくてはならない、両国の客観的状勢に対する認識の不足からそんな結果になつて来るのである。』

 この論者の見解によれば三原則以来経済提携までの一連の平和的手段は、非現実的で実現の可能性無く、相手方に『軽く鼻であしらはれるのは無理ないことである』 そこで『毒を以て毒を制するといふことは或る場合には甚だ有効である、今日の支那の抗日運動に対しては毒をもつて制する方法しかないのである、これをやらない間は、支那の抗日運動は如何なる方法をとつても消滅しないことをここに預言して置く。』と断ずるのである。

 『日本の生産機構や、金融機構の本能は、実業家の個々の頭と反対の方向を歩いてゐるかも知れない、日本人の祖先伝来の血は一部インテリの頭と別な方向に向ふかも知れない、日本の産業の性質、軍部動力、財界の性質、官僚の気質、外力の圧力等々と夥しいエレメントを総合して、日本の行き方は決まつて来るのである、一言論の力や、一政治家の口頭禅ではどうにもならないものが強く流れてゐるのである、

 この流れに沿はなければいかに一部が日本を引つぱつても大勢は動かない、日本が一部の力に引きづられて居るように見へるのは結局土台に流れてゐる、総合された力の方向と同じ方向を指して居るからである、

 この総合された力の方向は、外に向つて伸長せんとする、大陸に伸びんとするのはその一部である

 従つて日本の伸長せんとする力を阻止せんとするものに対しては、日本の本能は或る場合は破壊力となつて爆破するのである』(「東亜」本年七月号)と警告するのであつた。(P45)

 俄然、「預言」は実践に移されたのである。ともかくもかかる感情が日本の支配者層に広く瀰慢してゐたことは事実であり、しかもこの行き詰りを打開する方法としてはこの論者が暗示せる如き『破壊』の方法以外に無しとする感情が高まりつつあつたのである。

 一方に於てはこの事実を見、他方支那に於て急激に展開されつつある事情を知るものは、外人中に於ても勢の赴ところを察し、アメリカの評論家ナザニエル・ペツフアの如く、支那を戒しめんと試みたものもあつたのである。

 ペツフアの有名な論文「支那は戦つてはならない」は雑誌「亜細亜」六月号に発表された。これに対しては支那側各方面からの反駁が試みられたが、その代表的なものは「チヤイナ・ウヰキタリー・レヴユー」六月二十六日号に発表された国民党新進論客孟長冰の論文であつた。

 その趣旨は『支那は既に忍耐の限りを尽して来た、支那は目覚め且抵抗を準備するのである。これは実力の誤算でもなければ過信でもない』と答へた。なほペツフア氏は八月一日紐育タイムズ紙上にて再び同様趣旨を述べてゐる。

 しかしながらかかる角度から取扱はれた問題は未だ表面的なものに過ぎないのである。日支関係の破局は日本資本主義発展の特殊事情に即然としてこれに内在するものであつて、いはば日本の大陸政策の必然的帰結であることは筆者がかつてしばしば論証を試みんとしたところである。(「日本の大陸政策と満洲・北支問題」朝日時局読本、第七巻二〇九頁−二三八頁)

 ここに支那側の事情をしばらく考慮の外に置くならば現に日本が「一部の力に引きづられゐるやうに見へる」のは、日本資本主義の性格から見て、「結局土台に流れてゐる、綜合された力の方向と同じ方角を指してゐるからである」といふ「東亜」の論者の言は誤りではないのである。

 このような条件のもとに於ては一局部の衝突も全局に拡大しなくてはならない必然性を有してゐるのである。

 北支事変の発端に際して、

『北支事変の解決方法はただ北支の局地的方法でこと足りた。南京政府に於ても大体その方法に拠つて来たのである。しかし最早問題はかかる方法を以てしては解決し得ない段階に到達したのである、今次の北支問題に対する日本の解決方法はかかる準備と規模とをもつてせんとする如くである。支那もまた当然その国家全体を挙げて回答を与へざるを得ない立場に立たされてゐると思はれるのである。ここに今次の北支問題の特別な重要性が横つてゐるのである。北支問題は今や全支問題なのである。』(前掲、改造八月)(P46-P47)

と述べた。

 ここに全支問題と化した場合に於て、問題は国民政府の問題に留まることなく、全支那民族の問題と化し、また支那人に入り組んだ錯綜せる列国の諸関係は否応なしに世界の問題たらしめたのである。まさしく世界史的意義を帯びつつあるのである。(P47)

(『改造』昭和十二年秋季増刊号)


尾崎秀実『時局と対支認識』



 支那に対する政策の驚くべき混迷は、政策の対象たる支那に対する科学的研究の殆んど完全に近い欠如に基づくことはいふまでもないのである。

日本に於ける長年の支那研究家として知られてゐる長野朗氏は近著『支那の再認識』の中に於て『日本人よ支那を知れ』と冒頭まづ述べてゐる。多年日本に於て支那知識の啓蒙的活動に従事して居る氏にしてすらも、今更ながら日本人の支那に関する知識の低さに驚ろいてゐると見へるのである。

 『支那のことは常識として日本人の頭の中に入つてゐて宜い位だが、今まで日本人は余りに支那に無関心であつた。西洋のことは割合に知つてゐるが、支那のことは知らないといふ変な傾向があつた。所が最近の非常時局は、どうしても日本人としては支那を知らずに居られなくなつた。それは非常時局の源が支那にあるからである。』といつてゐられるのは至極同感である。

 但し支那の複雑なる特殊性の理解の鍵をまづ心理作用の解明に求めることがはたして妥当なる方法であるか否かは疑問である。(氏は支那の特質として一、スロー・モーション、二、悠長、三、複雑性をあげてゐる。)

 長谷川如是閑氏は本誌前号に於て支那社会について社会学的説明を試みられた。

氏によれば、支那社会の依然たる封建的性質、その支那的な形態が頑強に持続される所以は、『支那が地域的に厖大であるといふ事情以外に別に重要な条件のあることが考へられる。それは支那といふ国の数千年来の歴史的条件である。』とされる。

而してこの歴史的条件として、支那に於ては古来政治社会と原始的産業社会との遊離が徹底的であつたことが挙げられた。農業的自治社会とギルド的商工社会とは遊離を続け、

『国民革命後の軍閥に至つてギルド的商工社会との密接な関係を生じ、軍閥自身資本家としての一面を持たないものは少なかつたのだが、それも高利貸資本家に過ぎないので結局、厖大な全支那の地域における封建的産業形態による全体的機構に対して徹底的に影響する力のなかつたことは明かで、従つて伝来の政治社会と産業社会との遊離は依然として続けられて来たのである』と。(P47)

(『改造』昭和十二年秋季増刊号)


尾崎秀実『時局と対支認識』



(略)

 今日支那の問題を最も正確に把握するためには、支那における民族戦線の動向を明瞭に理解することが第一でなければならない。

 次にはこれとこの民族運動の同情者であるソ連ととの、及び日本と対立関係にある列強との関係を見究めることであり、更にこの内部に於てソ連と、この種の列強との間の関係を見ることでなければならない。

 我々は正直なところこの支那における抗日民族運動の真剣さ、深刻さを充分理解してゐなかつた。従つて共産党の急激な政策転換についても、国民党側からの充分なる反応を果して期待し得るかどうかを疑つてゐたのであつた。

 毛沢東が外人記者に与へたインタビユーに於て『外部では共産党のこの政策は国民党に屈伏し、投降し、かつ悔悟したのだと伝へてゐるが如何』との質問に対して昂然として

『中国共産党はソヴエート及び紅軍の名義を改変し国民党との対立を取り除き、地主の土地没収を停止することを約束した。共産党のこのやうな手続は疑ひなく、国民党に対する一個の大きな譲歩である。だがこのやうな譲歩は必要なものである、といふのはこのやうな譲歩が一個の更に大きな、更に重要な原則の上に建てられてゐるからである。それこそは抗日救亡の必要性と緊急性である』

と述べた時もなほ多少国共合作の前途について危惧を感じたのである。

 しかしながら、日支事変の現実の掩護があつたとはいへ、今や国共は完全に同一の陣営にあるのである

(九・二十三)

(P50)

(『改造』昭和十二年秋季増刊号)


尾崎秀実『長期抗戦の行方』



日支事変が始つて以来既に八ヶ月の月日が流れてしまつた。

戦争はなほ引つづいて居るし今のところいつになつたら終るかといふことは誰にも見当がついてはゐない。戦の今日までの跡を振りかへつて見て深い感慨を覚えるのである。

自分等の村には新らしい幾本かの墓標が立ち、幾人かの若き友人たちは大陸から永久に帰つては来ない。ふりかえつて見ればいつの間にか自分の日常生活の様式にもはつきりと目に見える変化が生じてゐる。

だが戦に感傷は禁物である。目前日本国民が与へられてゐる唯一の道は戦に勝つといふことだけである。その他に絶対に行く道はないといふことは間違ひの無いことである。(P80-P81)

「前進! 前進!。」その声は絶えず呼び続けられねばなるまい。

それにしてもいろいろな感慨や反省が生れてくることはどうしてもやむを得ない。

日本は元来支那民族を粉砕して支那を揚子江と黄河との流れてゐるだけの自然に帰してしまふ気でこの戦を始めたのでは無かつた筈である。日本に対して都合の悪い政策を信奉、遂行しつつある国民政府に一撃を与へてこれに反省させる気でかかつたことであつた。


しかしながら事件の自然生長的な発展はこのことが容易に実現し難いことを明らかにしたのである。今となつてはどこまでも全力を傾けて目的を達するところまで行かねば立ち停まることの出来ない事情にあるのである。

我々はこの事件が始まつた時に、これが、一般に日本人に考へられてゐるやうに物易しい性質のものでないといふことを叫んだ、勿論我々が絶叫して見てもそのために特別な効目のある筈のものではない。従つて今その予想の適中を誇らうなどといふ気は毛頭ない。

人によつてはこの事件の発生を「あの時ああすれば喰ひとめ得た」とか「あの場合ああなつたのは、この点が喰ひ違つてゐたからだ」などと今から回顧して見て残念がるものがある。

それは今からでは何の役にも立たないことだ、といふ意味からではなく、やはり日本としては必然的なコースを歩いて来たのだ、という意味から、戦争の発端に当つてのあれやこれやの偶然的な事柄をあまり問題にしたくはない。この道こそは日本資本主義の七十年来の発展の仕方の、恐らくはどうにもならない帰結であつたに違ひないのである。

 特別の説明を必要としないであらうが、日本経済の発展は必然的にその所謂大陸政策の遂行を必要とし、これが遂行には武力の充実を必至の要件とし、またそれらの関係が、国内における政治的機構の権威を特徴づけるといふことになり、日本政治における軍部に特別な重要性を付与することとなつたことは当然であらう。(P81)

 大陸政策遂行の場合に軍部が指導的地位に立つてゐることは云ふまでもない。だが今日日本が国をあげて支那大陸ととつ組み合つてゐるといふ場合に於ては、もはやそれは単に大陸政策遂行のみの問題ではなく実に否応なしに日本全身の問題なのである。

この場合には日本が解決しなくてはならない問題は軍部が指導し得る範囲より遥に広いのであるし、また国民が軍部にだけ委して置いていいといふ性質のものでは断じてないのである。

海外から帰つて来るものが皆一様に感じることは日本全体が案外静かで落ち着いて居るといふことである。もつと大きな困難と緊張を予想して帰つて来る者にとつては一応はホツとした安心である。

確かに日本は素晴らしく組織化された力を持つてゐるのである。支那に比べるとあらゆる部門に亙つて日本の組織の堅さが感じられる。これは支那のやうな未組織の国家と比べてどれだけ大きな力であるかは、ひとり戦闘部門ばかりでなくあらゆる部門に確実に示されてゐるのである。

しかしこのやうな現象をもつてこれを単に日本の余裕とのみ見てよいであらうか。

現に外国人などは、これをもつて日本人が戦争に冷淡であるとか、無関心であるとか評してゐる。この感想はかなり一般的であるやうに見受けられる。我々から見ても確かにさういふ点があるらしく思はれる。

筆者はこの点をここで科学的に分析しようとする気はない。しかし少くとも次のやうなことがこの根本原因となつてゐると思はれる。

まづ何といつても支那の武力と比較して日本が圧倒的に優れてゐるといふこと、これだけは確実である。その考へが或る種の心安さを日本人一般に植ゑつけてゐることは確かである。

日本軍が支那の抵抗を排除しつつ次第に占領地域を拡大しつつあることは事実で、これが新聞によつて絶えず報道されてゐる。更に輝かしき報道は占領地域に生じてゐる新しい事実の報道である。新政権が打ち樹てられ、日本を枢軸とする新なる経済建設が着々行はれつつあるといふ印象は日本の大衆に自身の周囲に生じつつある犠牲と、不愉快とを忘れさせるに足りるのである。(P82)

 しかしながらそのことは一方に於て真実に日本が直面してゐる多くの困難をも忘却せしめる結果となつてゐるのではあるまいか。

 いはば、日本人は支那といふ得体の知れない怪物に、正体を見極めずして取組んでゐるといふ事情にあるのである。元来この正体をはつきりさせる努力といふものは従来少くなかつたと思ふのである。我々はこの正体を正確に認識する努力をあくまで続けなくてはならないと思ふがそれと同時に或る程度まで、この怪物と取組んでゐることの困難を明らかにした方がいいと思ふのである。

 欧州大戦の場合に於ては連合国側も、同盟国側もともに民衆はあらゆる敵国の邪悪と、自国の勝利のみをきかされてゐたといふ話である。現にドイツ国民など屈伏の最後の時期まで勝利の報道のみをきかされてゐたのである。

 確かに国民にいらぬ心配事をきかせて士気を沮喪させたりしてはならないのであるが、我々の考へでは支那との戦争の場合の如きにあつてはさうした心配は少ないと思ふのである。だから或る程度まで困難の正体を明らかにして国民に真剣な心構へをさせることが正しいと考へられるのである。

 日本国民は、この支那事変はこれが大陸での事件であると考へ、大陸で軍が戦つてゐるといふ点にのみ重点を置いてゐることが、現在における日本国民一般の心の持ち方に微妙な作用をなしてゐるやうに思はれる。

 ところで我々の考へるところではこの日支事変は何よりも深いところで日本の生存と直接に結びついて居り、しかも余力を傾けつくしてしかも長い忍耐の期間を要する困難な問題であると考へるのである。

 恐らくは日本に本質的な根本的な改造を齎すことを伴はないではこの問題は解決し得る性質のものではないであらう。我々は明るい方面からのみ観察せられる如き蟲のいい解決方法の予想に対しては十分腹を据ゑて検討してかかる用意が絶対に必要であらう。

 それにしても戦争の遂行に必然的に伴はれる破壊と、次第に抜け難きものとなるつつある民族的乖離とは真の将来の日支提携をますます困難ならしめつつあるものとして我々をして深き嘆息を感ぜしめずには置かない。(P83-P84)

 それは戦争に伴ふ避け難き産物である。これに対する善後処置はまた必ず忘れられてはならないのである。(P84)

(『改造』1938年5月号)


尾崎秀実『長期抗戦の行方』



 支那が上海から南京を中心として後方に退いた際、支那側から講和の要求が当然齎らされるものと考量されてゐたのである。これは去年の十二月の半から終りにかけてのことである。しかるにこの見透しは美事に外れて支那はさつさと奥地に退いてしまつた。

 始めから日支両国の国民と、当局との心構へから見て果して平和克復のための努力が物になつたかどうかは客観的に見て大いに疑問であるが、ともかくも殆んど有効な手段が支那側から執られなかつたといふことは相当考へさせられることである。

 支那側では、始めから日支の全面的抗戦の結果は、終局の勝利は支那側にあるといふことを宣伝し、何とかして国民にこの点を信じこませようとしたのであつた。また南京の陥入る前に、都を奥地に移して長期抗戦の姿勢を示しはしたが、しかし少くとも国民党政権の主脳部の腹は、長期抗戦が自分たちの支配する支那をどのやうに破壊し、どのやうに変質せしめるかの予想を持つてゐたから、何とかして戦争をやめたいと思つてゐたことは間違ひの無いところである。

 長期抗戦といふことはいはば彼等にとつては肉を切らせて骨を斬ることが出来るかどうかといふ最後の期待を与へてゐるに過ぎないのである。骨が切れないでただ皮を切るだけに終るかもしれない、しかし肉を切られることだけは絶対に明らかなのである。或ひは骨まで切られるかもしれないのである。いはば背水の陣である。

 これについてある支那人は、非常に如何にも残念さうに、日本は支那に和睦の余裕も与へてくれなかつたのだといつた。この人の意味は大場鎮の陥落までは戦局は膠着状態であつたがそれからあとは急に早く進展してしまつた。杭州湾上陸作戦は戦略的には絶対的な成功であるが、それから以後の軍の進み方が早すぎたために支那側としては否応なしに奥地に追ひこまれて、講和問題をとりあげる余裕が無かつたといふ意味なのである。(P84-P85)

 日本側としてはあくまで優越せる軍事的力量を発揮して戦果を確実に掴むといふことが正しいであらうから、さうした政策的考慮を抜きにして敏速に進むのが正しいのであるが、一般に、政策が戦略乃至軍事行動に比較して乏しく貧弱なやうに見えることは確かである。

 武力で挙げ得た戦果といふものはたしかに或る程度までは政治的効果に変はつては行くのであるが、真に大きな政治的効果をあげるための政策は、初めから武力を手段として内包する大きなものでなければならない。武力とこの政策との比率が逆になつてゐて、この意味での政策が武力のお供になつてしまつては大きな効果をあげにくいと思はれる。

 南京陥落の後、ドイツ大使トラウトマン氏の調停的活動があつたことは一般に知られてゐるとほりである。その労を多としなくてはならないことは無論だが、あの場合真に有効な調停は結局イギリスが本気になつてかからなくては問題にはならなかつたのだと思はれる。しかし日本側一般の気分としてはイギリスをひどく嫌つてゐたし、イギリスも斡旋に乗り出すやうな事情ではなかつたのである。

 それからこの点は我々も随分予想に違つたのだが、上海の経済界、所謂浙江財閥が愈々南京政府が奥地に去らうとする場合、これをとどめようとする努力がどうして表はれなかつたのかといふことである。当然この種の運動が起つてしかるべきものと思つたのである、―勿論結論として成功することはあるまいとは予想したのではあるが―しかるに事実は何等かかる力強い運動が起らなかつたのである。これはどう解釈したらよいのであらうか。

 筆者は、上海租界をとりまく支那街一帯の壊滅状態を見、上海後背地の都市及び農村の状態を知るに及んで、その理由が分つた気がするのである。それは上海といふこの浙江財閥の経済地盤があまりにも甚しい破壊を蒙つたために、その上に立つ浙江財閥そのものが財閥的基礎を失つてしまつたのであるといふことである。(P85)。

(略)

(『改造』1938年5月号)


尾崎秀実『長期抗戦の行方』



 次に支那側の長期抵抗の将来について考へて見よう。

 長期抵抗の可能性を決定するものは結局に於て民族的結合力の問題に帰着するが、この点では、支那は確かに一段の進歩を遂げたことは事実である。支那は戦争によつて軍事的にも、政治的にも経済的にも全体として力を弱められ、国家的な抵抗力を弱めつつあるのは事実であるが、歴史の長い眼から見た、民族的凝集力は飛躍的な前進を遂げたものと思はれる。(P86-P87)

 一九三一年以来支那の民衆は日本との抗争によつて漸く自らの地位を知り始め、今次の日支戦争によつて殆んど絶望的に民族的な統一へ駆り立てられたのである。

 勿論かかる結合力、凝集力は今日さまで高く評価し得ないかもしれないが、とにかくこの巨大な民族が一定の方向を与へられたといふことは大きな事実である。(P87)

 成程、支那の抗日民族運動なるものは見た眼では決して華かに景気のいいものではない。我々、かつての支那の一九二四年頃から一九二七年当時の素破らしく元気のいい民族運動の波の昂揚を見た者にとつては寧ろ意気銷沈とすら見受けられる。しかしそれは明らかに皮相の観察であらう。

 他日日本が、戦争の効果をあげ、国民政府を圧伏する時があつたとしてもこの民族的結合の問題は残るものと思はれる。それは成立した新政権の内側にも、勿論或程度残される問題であるに違ひない。

 今はこの地の底にしみ通る水のやうな、或は空を被ふ空気のやうな捕へ難い民族の問題を離れて支那の国家的結合力の問題として取扱ふことにしよう。

 支那の国家としての長期抵抗力を決定するものは大体次の諸点であると思はれる。

 第一は支那の民族抗戦を指導する指導部、国民党及び共産党の合作の問題である。この結合の堅さ如何といふことである。

 第二には、支那の軍事的抵抗力如何といふことである。

 第三には、その財政的基礎の持久力である。

 さうして第四には、特に国内軍閥の動向、つまり封建的残存勢力の動向を問題にしたいのである。

 第一に、支那の国家的統一は普通国共合作の問題として取扱はれる位国共合作の問題は重要である。

 国共合作の将来については戦争の初期に於て分裂の可能性が強調せられたのと反対にこの頃では両者の合作の永久性を説く者が多くなつて来たやうに見受けられる。

 筆者は今後に於ても両者の分裂の可能性を無視することは誤りだと信じてゐるのであるが、しかし両者の分裂のためには現在の両者の力関係に急激な変化が起る場合がなければならないと思ふのである。(P87-P88)

 現在に於て国共勢力の比重はしばしば日本に伝へられる如く共産党の勢力が大きくは無いと思へるのである。実際には依然として国民党が圧倒的な勢力を占めてゐると思われる。

 その理由は、何といつても共産党の現実の勢力が、まだまだ小さいといふことである。一九二七年以来国民党から絶えず被つた打撃は、共産党の党としての力をへとへとにした。僅に潰滅に瀕する迄のところに追ひつめられて共産党は日支抗争の場面に際会してこの合作を掴み得たのである。

 今一つの理由は共産党が政略的に極度に自制してゐるといふ事実に基づくのであらう。共産党としてはあらゆる中心の任務を国民党との合作に置くことは当然である。どんなことを置いても分裂してはならない。このためには急激に進出して国民党、ならびに国民党支持の大衆、ひいては現在支那に同情を持つてゐる、資本主義諸国を惧れさせてはならないといふのが中心の考慮であらう。もっともこの事情は一面に於ては前に触れた如く抗日戦争が民衆運動として昂揚しないといふ状況を生んでゐる原因ではあらう。

 しかしながら合作を目標として自制してゐる事情は国民党側についても見られないことはないのである。少くとも国民党の中心指導部においては充分この考慮が払はれてゐると信ぜられる。

 何よりも挙国一致といふことは現在の支那の人気ある題目となつてゐる。国民政府が事件の始めに当つて陳独秀を釈放した際には何等か特別な魂胆があつてのことではないかと思はれたが昨日、国民党臨時大会に於て第三党の大立者譚平山等の特赦を発表する迄の事情を見てゐると、挙国一致、全国各党各派を容納するといふことがかけねなく遂行されつつあるやうに見受けられる。

 国共両党の真意は今日と雖も目前の戦略的考慮に基づいて提携しつつあるといふ事実は否定出来ないから分裂は将来起り得ないと見ることは誤りであらうが、それにしてもかかる分裂の生じるためには余程大きな事情の変化を必要とするに違ひないのである。(P88)

(略)

(『改造』1938年5月号)


尾崎秀実『長期抗戦の行方』

 四

 南京陥落当時、筆者は一夜上海で支那の事情に極めて通暁する一先輩と日支抗戦の前途について語つた。

 この憂国の老先輩は、結局に於て日本が支那と始めたこの民族戦の結末を附けるためには、軍事的能力をあく迄発揮して敵の指導部の中枢を殲滅する以外にはない

こ の先輩の指示するところに従つて支那を征服した二つの民族戦の場合、元、清の場合について調べて見ると、元が南宋と敵対関係に入つたのは一二三四年であつて、広東の新会県崖山に追ひつめられた陸秀夫等が元将張仏範等に攻められて帝■を奉じて海に投じ、南宋が亡んだのが一二七九年でその間四五年かかつてゐる

 またの場合を見るに、努兒哈赤がホトアラに即位し国号を金としたのが一六一六年で、清将呉三桂が桂王を雲南に殺し明の全く滅んだのは一六六二年である。その間やはり四六年かかつてゐる

 もとより今日に於ては、蒋介石を以て王朝の主に比較することも出来ないし、種々の事情が変つてゐるからこの例は必ずしも妥当ではないが民族抗争が長期にわたる性質のものとして全然意味のない示唆ではないのである。

 先頃行はれた臨時国民党大会の宣言、諸決議、及びその結果として現はれた諸事件は、これをもつて総べて、日本の新聞に報ぜられた如く、断末魔のあがきと断ずることは出来ないやうに思はれる。

 日本国民の深い決意と、大陸政策遂行の指導的政治家の事態にかんするより正確なる認識が要望される秋である。

(四・十)

(P91)

(『改造』1938年5月号)



「第二次世界大戦と極東」座談会

第二次世界大戦に日本はどうする?

(略)

細川(嘉六)
 始まれば日本は無論参加するでせう。その参加する場合にですね、非常なハンディキヤップは、支那に深入りしているといふことです。勿論やれば香港もシンガポールもウラジオもやるだらう、併し今後日本が世界の政治を決定する大きな要素になるには、平君が一寸話したやうに、少し出過ぎてしまつてゐる。国力はまだ戦争準備に費される余裕はあるが、今度のやつは更に大きいですからね。だから矢張り満を持した戦略といふことが必要だらうと思ふんだ。(P88-P89)

平(貞蔵) 細川さんが仰言つたやうに、日本が、支那に深入りしてるといふことが、独伊に損だといふことは明らかに言へると思ふのですが、愈々日本が英仏ソ連を敵にした場合は根本的に態勢を整へ直すといふことにして、香港、上海なんかの権益は完全に否認してかかることになると、その点で寧ろ兵力を節し得るといふ有利な条件も考へ得るわけだ。つまり主力は北支、蒙疆以北に整へるといふ・・・

細川 さうすれば、蒋介石の方が好機到れりと出て来るよ。

 反撃して来るでせうが、支那を助ける勢力といふものは、非常に弱いものになつて来るのですなあ。英仏にしろ、ロシアにしろ、自分が戦争し乍ら支那を助けるといふことはないので、さうすると日本が有利な地点に立籠つて、反撃して来る勢力を抑へるには却つて非常に有利になる一面もあるのぢやないか、素人論だが・・・

細川 此方も素人論だが、ソ連、イギリス、アメリカ等の世界的な勢力の連中がジワジワ動いた日には、ヨーロッパ戦争が起れば支那が武器なんかの援助を受けられんと、さう甘くは見られんと思ふがね。

尾崎 まあ平氏の言はれる状態になるにはもつと先のことと思ふのですが、支那の奥地の抗日政権と対抗し得る新政権が、本当に確立強化されるといふことになれば、あなた(平氏に)の言はれる条件が出て来る。

細川 それはその通りだ。

尾崎 それは細川氏の言ふやうな条件で、武器なんかを売つて貰へないといふことは問題にならぬやうな反日的勢力が盛返して来るといふことになるだらうと思ふ。そのためにはどうしても、それに対抗するものを造つて置かなければならん。

 その時に抗日政権に対抗するだけの政権、○○○工作などよりもう一段と突込んだ工作をする以外はないと考へるのですが。(P89)



全体主義国家と民主々義国家陣営

尾崎 つまり平氏の意見に依ると第二次世界戦争は、矢張り全体主義国と一般的な資本主義国の対立だといふことになる訳ですね。

 それにロシアが民主主義国にくつ附くことになる。

尾崎 僕はあなたの言はれるとおりだと思ふが、又さういふ陣営を造らうとして努力してゐるに違ひないのだが、さう簡単にその二つのラインの対立にならんのぢやないか、さういふ風なラインが出来る処迄行くとすれば、寧ろ戦争にならんのぢやないかと思ふのですがね。

 それはねえ、私の言つたことに、もう一つ条件が加はるんだ。二つに分れた場合、必ずどちらもが、自分が勝てるといふ自信を持つた場合だ。(P90)

尾崎 その場合、日本はデリケートなキャスティングポートを利用して、世界大戦を起さずに日本の立場を確立する位の大政治家の出ることが望ましいが、今日不幸にして望み難いんぢやなからうか・・・(P90-P91)

 私自身の考を述べれば、さういふ問題に入らずにロシアとも事を構へず、英米とも事を構へずに、矢張り日本は東亜の本当の盟主として亜細亜の新秩序といふことに没頭すべきだと思ふのです。ところがねえ、恐らく不幸にしてさういふ風な事情でないといふ処に私の推測をおいているものだからね、かういふ議論になつて来るんですがね。

尾崎 それは大体同感ですが、併し方法としては、日本の全力を挙げて支那の問題を解決する方向に進むべきだが、その解決の方法は恐らく今迄の日本で考へてた方法と、大分違つた種類のものになるんぢやないかといふ気がしますがねえ。(P91)



尾崎 東亜協同体論と云つても、その中にいろいろなものが入つてるからねえ。一概に東亜協同体、だから悪いとかいいとかいふ批評は迷惑な話なんだが、僕の考へではまあ、さつきも一寸触れたけれども、支那の現地に於て奥地の抗日戦線に対抗し得る政権を造り上げること、それが一朝一夕にむづかしいとするならば、日本がそれを助ける方策、有効な方策を採つて行く。

さういふ風な一種の対峙状態といふものを現地に造り上げて、日本自身がそれに依つて消耗する面を少くして行く
・・・

曾つて或る時代の日本が考へてたやうな形で征服したり、解決したりといふのではなくて、さういふ風な条件の中から新しい・・・それこそ僕等の考へてる東亜協同体―本当の意味での新秩序をその中から纏めて行くといふこと以外にはないのぢやないか

一足跳びに支那の持つ民族問題なり、何なりを解決しようとすれば、遮二無二支那の民族的結合力を粉砕する方向に進んで行かなければならんが、それは最も困難な道でしかないと思ふ。(P96)

(「中央公論」昭和14年5月号)


風見章『尾崎秀実評伝 殉教者への挽歌』より

 尾崎がとらえられるまでに、わたくしは、いくたびとなく、かれと時局をかたりあったものである。

かれのかんがえは日華両民族の幸福のためには、一日もはやく、戦争をきりあげねばならぬ、それには、近衛内閣の対米協調交渉の成功をいのらねばならぬ、対ソ戦も、対米戦も、日本民族にとっては、のろわるべきである、ことに対米戦のごときは、敗戦必至なばかりでない、この民族をして破滅の危険にすらさらすことになるというのであった。(P265)

 したがって、かれは、近衛文麿が対ソ中立条約をむすび、一面対米交渉により、日華戦争にけりをつけようとする方針には、一も二もなく賛成していたのである。(P266-P267)

(尾崎秀実『現代支那論』所収)

(2010.6.30) 


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