尾崎秀実『南京政府論』
一、南京政府の特質
支那の中央政府を南京政府の名をもって呼ぶことは或いは国民政府の誇りを傷つけるものの如くである。『中国には国民政府があるが、南京政府というのは別に存在しない』というが如きである。しかしながら筆者はこの言葉を敢て用いようとするのはただ歴史的に見て現在の国民政府の性質をもっともよく表明するのみならず、国民政府の現実の地盤に最もよく適応しているからである。
孫文を首班とする広東時代の国民政府(国民政府は正式には孫文の死後一九二五年七月一日広東に成立した。)、一九二七年一月一日漢口に移転した国民政府(武漢政府)とは現在の国民政府は本質的に異なるものを持っている。ここに南京政府と呼ぶのは一九二八年四月十八日、南京に成立して今日に及んでいる国民政府を指すのである。(南京政府は一九三七年十二月、首都南京を失った。)
十一年十月十日、国民政府は武漢革命記念日をトして辛亥革命二十五年祭を催し、この機会に国民政府の統一を内外に誇示した。時あたかも国内最大の敵国を形造っていた西南派の圧伏の直後であり、国民政府の鼻息当るべからざるものがあった。
蒋介石は英文のステートメントによって、経済建設、行政機能の増進、社会衛生の普及、義務教育の実施、財政の改良等に於て顕著なる成果を収め得たとし、「余は敢て云う、この八ヶ年の短期中にこれだけの成績を挙げたことは支那の歴史上に於て未曾有の現象である」と豪語した。
その後世界的に支那の統一と建設を謳歌する声は鬱然として起ったこと周知の如くである。我々はこの間にあって支那の統一と建設とが行われつつあることを喜びつつも、その内容の精細なる検討の結果、頗る危険なるものを内包せることをしばしば種々なる角度から批判したものであった。(例えば「支那の経済建設批判」1日本国際協会太平洋問題調査部編、「太平洋問題」中の一篇。「日支経済提携批判」『改造』、十二年六月号。」)
南京政府の一層の強化と、国際的、国内的信用の増大を謳はしめた西安事変に際しても敢て、「半植民地的、半封建的支那の『統一』に内在する基本的矛盾の爆発」ではないかとの疑問を提出したのであった。(十二年一月号、『中央公論』)
南京政府は今日未曾有の困難に遭遇しつつあると思われる。とはいえそれは日本との現下の抗争の事実のみを指すものではない。実に、半植民地的・半封建的支那の支配層、国民ブルジョア政権たる南京政府の質的転位を不可避としている点に於て特に重大なる時期に立ち到れるものといわざるを得ないのである。(P3-P4)
一般には南京政府の危機が日本の攻勢によってのみ齎されるとの見方が支配的である。当面そのことは事実の如く見られるが、その見方は必ずしも本質的な見方ではない。かくいうならば、南京政府の統一と強化を促進したものもまた日本であったといい得るであろう。その意味は一部にいわれる如くに、日本の急激なる進出の結果、支那の中央政府たる南京政府に対する全民族的支持となって南京政府の統一を促進したという事実を指すのである。
日本の進出は一つの重大なる契機ではある。しかしながら本質的には、南京政府の現在の立場の困難なる理由は、半植民地支那・半封建支那の根本的な究明の中にこれを見出さねばならないであろう。
これらの支那社会の持つ根本的な特徴は当然南京政府の特徴として現われて居り、また南京政府の性質を規定しているのである。
この特質が一方に於ては南京政府をして「僅か八年の中に」未曾有の躍進を遂げしめたのでもあり、また他方南京政府をして「遂に最後の関頭に立たしめた」所以でもある。
ここには一々支那社会のこの基本的特質を究明している暇を持たないしまた小論の目的の範囲外でもある。ただこの特質の支那知会における集中的な現われである、官僚・軍閥・買辨の特質が、如何に深く南京政府の本質を決定しているかを観察して見たいと思うのである。
この意味において南京政権の特つ数多の特質中から基本的なものを拾い出して見ると、南京政府と、一、国民党との関係、二、地方実力政権との関係、三、浙江財閥との関係、四、列強との関係の中に求め得られるであろう。以下これについて箇別的に観察を進めることとする。(P4)
(『尾崎秀実著作集2』 初出『中央公論』昭和12年9月号)
*青字下線は中川八洋の引用部分。
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