ハリー・レイ『『真珠湾の真実』は真実にあらず』


 *桜花学園大教授

  
ハリー・レイ『『真珠湾の真実』は真実にあらず』

過大評価された「マッカラム覚書」

 海軍情報部(ONI)極東課長であったアーサー・マッカラム少佐が作成した、日本をアメリカ攻撃に至らしめるだろう八項目行動覚書をルーズベルトが読み、それにもとづいて行動したとスティネットは主張する。

 まず、この主張がまったく受け入れることができないものである理由を三つ述べ、次にルーズベルトが覚書を採用した事実はないことを明らかにしたい。

 第一の理由は、スティネットは、海軍情報部のダドリー・W・ノックスがこの覚書を読んだことしか証明できていないことである。 さらにノックスは、アメリカの最優先の課題は英国に十分な駆逐艦と援助航空機を提供することであり、それを妨げるような行動をとるべきではないと憤重な意見を述べていた

 第二に、八項目の提案の大部分はまったく実行されず、実行に移された場合も、覚書が書かれる六ヵ月前もしくは六ヵ月後であり、なかにはルーズベルトがまったく正反対の行動をとったケースさえあった

 第三に、スティネットがマッカラムの覚書とルーズベルトがとった行動を、「挑発的」という不適切な言葉で表現している点だ。信じがたいことだが、スティネットは歴史を正反対に描き出し、日本をルーズベルトのいじめにあった罪のない犠牲者に仕立て上げている。

 対照的に、日米の歴史家の大部分は、ルーズベルトの最優先課題が日本の参戦阻止にあったと主張している。たとえば、ハインリックスは次のように述べている。「大統領は……できるかぎり日本を挑発しないことを決定していた」。(P118)

(『論座』2002年1月号掲載)


 
ハリー・レイ『『真珠湾の真実』は真実にあらず』

提案は実行されなかった

 次に、八項目をルーズベルトが採用したか否かを考察してみよう。


A項 「太平洋の英軍基地、特にシンガポールの使用について、英国との協定締結」

 実際には、ルーズベルトは、英国基地の使用は日本を刺激して攻撃を招く恐れがあると考え、繰り返し英国の要請を拒否した。 スティネットも、基地使用の取り決めが一九四一年十二月七日以前には、まだ「交渉中」であったと注に書いており、自らの主張を破綻させている。


B項 「オランダ領東インド(現在のインドネシア)内の基地施設の利用及び補給物資の取得に関するオランダとの協定締結」ならびにG項「日本の不当な経済的要求、特に石油に対する要求をオランダが拒否するよう主張すること」

 第一に、合衆国はオランダ領東インドに基地をもったことはなかった。第二に、G項にある日本の要求の拒否は、マッカラムが覚書を出す以前からオランダが独自にとっていた行動だった。 第三に、日本の外交官たちがオランダに五年間にわたり年間最低三百十五万トンの石油を供給するよう要求したとき、オランダ政府は、量を削減し、日本のタンカーで輸送することだけは許可した。


C項 「中国の蒋介石政権に対し、可能なかぎりの援助を提供すること」

 ルーズベルトは、日本を刺激することを恐れて、中国に対する援助が過度にならないよう常に注意していた。 日本が一九三七年から四一年秋にかけて中国に侵攻していた間も、ルーズベルトは、中国に対する制限付きの軍事援助と、軍需物資の対日輸出削減を段階的に実行しただけだった。

 四一年七月後半〜九月における日本の行動の後ですら、ルーズベルトが中国に供与した財政・軍事援助は限定的なものだった。(P118)


D項 「遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を極東、フィリピンまたはシンガポールヘ派遣すること」

 スティネットは、ルーズベルトの慎重な発言(「巡洋艦を一隻か二隻失っても気にしないが、五隻か六隻も失う破目には陥りたくない」訳書二七ページ)を引用しているが、皮肉なことにこの発言自体が、スティネットの主張の信憑性を弱めてしまっている。 このときルーズベルトは、こうした「ポップアップ(飛び出し)」的な巡洋艦派遣は、日本に疑念を与え続けるためだけのものだと述べていた。

 スティネットは、米海軍が二回の「飛び出し」行動を行ったことだけを実証しているにすぎない。 一つは一九四一年三月十五日から二十一日にかけて日本からかなり離れた中部太平洋と南太平洋周辺に、もう一つは四一年七月から八月にかけて東太平洋の日本委任統治領付近に派遣された。

 第三の艦隊が一九四一年七月三十一日に豊後水道に派遣されたとスティネットは述べているが、元海軍大尉の左近允尚敏(元海上自衛隊海将、現平和・安全保障研究所研究委員)は、二〇〇一年三月二十四日付の筆者宛書簡で次のように述べている。


 「アメリカの経済制裁によって日米二国間に緊張が走った五日後に、アメリカがそこまで艦隊を派遣することなど私は信じられない」



 事実、ルーズベルトと米陸海軍は、戦艦をシンガポールに派遣してほしいというチャーチルの要求を、そうした行動は日本を剌激して戦争行為に走らせかねないという理由で断固として拒否していた。 スティネットは、注でこっそり「結局、シンガポールヘは米艦は送られなかった」ことを認めている。(訳書五二ページ)


E項 「潜水艦二個戦隊を極東に派遣すること」

 太平洋艦隊の第二潜水隊から十二隻の潜水艦がマニラに派遣されたのは、マッカラム覚書が出されてから一年後の四一年十月だった。


F項 「現在、太平洋上のハワイ諸島近海にいる主力米艦隊を維持すること」

 実際には、ルーズベルトは三九年中頃に、世界情勢全般を考慮した結果として、ハワイに太平洋艦隊を置いておくことをすでに決定していた。 これにより、中国および太平洋における日本の行動を抑止することができ、英国の艦船をヨーロッパ海域に置いておくことができる。また、太平洋艦隊の一部がイギリスに対する食料・軍事物資の補給援助のために移へ動することが容易になる。

 さらにルーズベルトは四一年四月七日、空母ヨークタウンと五隻の駆逐艦を大西洋に派遣するよう命令し、太平洋艦隊を縮小している。 また米陸海軍は、日本の攻撃を受ける可能性が最も高いのはシンガポールで、その次はフィリピンだと考えていた。(P119-P120)


H項 「英帝国と共同して、アメリカも同様に日本に対して全面的な禁輸、通商禁止を行うこと」

 ルーズベルトが航空機用精製ガソリンと石油の禁輸政策をとったのは、マッカラムの八項目行動覚書が書かれてから九ヵ月後のことであった。実際問題として、日本の対米輸出額は、一九三五年よりも三九年の方が大きかった。 一九四〇年にアメリカの精製石油の日本向け輸出量は最高レベルに達し、日本は依然としてアメリカ製品の世界第四位の輸入国だった。

 アメリカは、日本が一九四〇年九月二十七日にイタリア、ドイツと三国同盟を調印した後になってはじめて、屑鉄と鋼鉄の対日輸出を全面禁止した。しかし、ルーズベルトは日本の南進を挑発しないようにするため、石油の禁輸は行わないことを決定した。

 傍受した外交電報によって、日本がインドシナ南部の占領を計画していることが判明したときでさえも、ルーズベルトはオランダ領東インドに対する日本の攻撃を回避するため石油の禁輸は実施しないと述べて閣僚たちを驚かせた。 しかし彼は、禁輸実施にあたって、石油を例外とすることを明言はしなかった。

 ルーズベルトがニューファンドランドでチャーチルと会談していた間、政府当局は石油輸出許可証をいっさい発行しなかったが、帰国したルーズベルトもその措置を継続した。 日本が一九四一年七月にインドシナ南部を占領したために、石油禁輸措置を撤回することは弱腰と受け取られかねなかったからだ。(P120)

(『論座』2002年1月号掲載)


 

(2012.6.23)


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