「ある軍法務官の日記」より
ー小川関治郎陣中日記ー


11月14日

丁度午後一時頃初めて見る一寸した市に至る、同所は金山県張堰鎮と云ふ、同所にて昼食す 中には相当の資産家もあるが如く商店もあり繁華の所なり

南湖第一茶楼と記たる二階建の料理店あり 同家には既に日本兵が二階に在りて吾々の舟を見て声を掛くるものあり 同所の破壊は比較的少きも商店の商品は殆ど公然日本兵が持ち出し一種の掠奪と云ふべし

何物にても無断にて持ち来ること悪しと思はざるが如し

中には支那酒を酒蔵にあるを発見し吾々の舟を通るを見て支那酒(チャンツー)は幾何にてもあると云ふ、公然其の瓶を持ち出したるを見る、自分は之に注意を与へたり、然るに金を遣つたと云ひ弁解したるも其の言疑問なるが如く思はる

(P28)


11月15日

 市内を見廻れば市の大部分は廃墟に帰し斯くも人力を以て消滅し得たりと思はれた 偶々焼け残れる家ありと見れば有りと有ゆる物は取散らされ全く名状すべからず筆舌を以て表はし尽すを得ない

例へば或大なる本屋と薬とを商ふ店あり 其の中に試みに這入り見れば中々立派で丁度三省堂にも匹敵する店なれども薬と謂ひ本と云ひ如何なる物も破棄散乱し其の他に僅かに残る店あれども凡て同様なり

之等乱暴狼藉は日本兵が遣つたとは思はれぬ 察するに支那の敗残兵の仕事ではなきか 聞く所によれば支那では如何なるものも日本兵の為に一つも残すべからざると、従て退却するとならば皆な破壊焼払をして逃走するとのこと 全く肝膚なきまで能くも完全に破壊焼払ひたるかと思はるる程なり

(P36)

◎(夜九時頃憲兵特務曹長打合の為め来部す 所謂陵辱事件に付)

(欄外)陵辱事件とは金山附近の民家に兵三名が至りたる処、支那の男女二人居合せたるを見て女をして腰以下を半裸体と為さしめたる上、二人にて相交接すべしと強迫強要したる事実也と

(P38)


11月16日

◎丁度その時数十分参謀長に目下検察官の手にて取調べ中の花×暴行被告事件の処置につき意見を述べ又憲兵の報告によれば相当軍紀紊乱の例を話し 之に対する処置としては軍紀は飽迄保持するを要するが戦場に於ける軍紀は又それとして考慮せねばならぬとの意見を述べ、その外の悪質の軍紀違反行為に付、国際問題等の種となることを憂慮せねばならぬ それらの点に付き実際上痕跡を残さぬ様相当の処置整理を為さねばならぬ 出来得る限りその点に留意し累を貽さぬ様にすること肝要なりとの意見を述ぶ(P40-P41)


11月17日

◎李宅宿営中の憲兵隊にて検挙したる金山衛城に於ける特務兵三名放火事件の捜査報告書類を田島部員より提出せしに付、一通り閲読す、時に夜十二時を過ぎ寝に就く

毎日のことなれば改めて謂ふに及ばざるも食料補給は全く酷く 堅い麦飯に醤油を一寸入れて白菜が入って居るのみ 恐らく監獄でも此程ではない 之が暫くの間なれば辛抱も出来るが長くなつたら堪つたものでない

◎午前八時三十分上砂憲兵隊長事件打合の為来部す その際吾々も拳銃を携帯の必要あるを感じたるを以て何とか融通付かざるか周旋方を依頼す

午前九時頃司令官に金山衛城に於ける特務兵古×××、同松×××、同北×××放火事件に付参謀長軍司令官に報告す 司令官より自分の意見通り十分取調を為すべしとの命を受く(P44)


○増田部員憲兵隊に赴き聞知したる事項第一、憲兵隊にては今回五百名の補助憲兵を使用することを軍に於て承認し、第二、藤野憲兵大尉が松江に至りしに俘虜五千名に対し武装解除を為したるがその半数は逃走せしものと看做し解放せりと

日本兵の乱暴狼藉を為したりとの風聴は多少疑問としたるも今日軍医部の部員中佐にして前□者として去る十日当金山に到着せりと

其の当時例へば或る本屋にして既記の如く東京の三省堂にも匹敵する店は何ら被害なく毫も荒れたる痕なきにその後同店を見れば既記の如く実に惨憺たる乱暴狼藉を極めあり 之れ決して支那の敗残兵の仕業にあらず全く日本兵の行為なること歴然たり 実に言語道断といふの外なく驚くに堪へたりと(P45)


11月23日

△既記の如く作戦上必要以上に民家の破壊、次で軍司令官より訓示ありし如く又自分も二十日付を以て通牒を発したる如く強姦、掠奪、放火等相ついで頻発するを憂ひ之を予防せんとす(P58-P59)

之れは戦場に於ける特別心理なるか至る所強姦を恣にし掠奪を敢てし放火を悪事と認めず実に皇軍として恥ずべきこと言語に絶す

日本人として特に日本の中枢たるべき青年男子が斯る心裡風習を帯びて何等顧る所なく仮にもその侭凱旋することとなれば今後日本全体の思想に及ぼす影響如何を考ふるとき慄然として粟膚の感に堪えず 日本の政府当局者はその研究に根本を極め思想問題に一大改革を加ふるの要ありと信ず

稍々極端なる言なるが如きも或者は曰く 日本兵は支那兵以上残虐を極め吾々日本兵を以て獣兵と唱へて戦慄すると聞く 支那方より見れば当然斯くあらんも日本兵の実際を見聞せる吾々としても心外に堪へざる例枚挙に遑あらず

引いて亦日本として今後に於ける支那に対する政策如何 兎に角今回の戦禍に於ける支那人の敵讐心を如何に見るか相当根強きものと認めざるべからず 学校に於ける鉄血歌に見るも支那政府に於ける抗日教育が如何に強硬なるかを思はしむ

併し之れは吾々日本魂として観察する所なるも一般支那人としては如何 当金山に来て当地支那住民は或は表面如菩薩なるか実に従順 吾々に対し丁重に敬礼を為す 特に子供の如き不動の姿勢を以て殆ど最敬礼に均しき態度を為す等 憫然たる情湧かざるを得ず(P59)



11月25日

天気快晴晴朗 但し霧厚く寒気頓に加はる

昨夜三時半松岡憲兵大尉深夜にも拘らず重大事件なりとて連絡に来る(P62)

同事件は第六師団の兵五名の内一名伍長が三里程田舎の農村に至り十幾才より二十六才迄位の婦女を拉致し或る他の相当大なる空家に連れ込み強姦を恣にして且つ拉致するに当り五十五才位の女が逃げんとしたるを射殺し尚女一名に対し大腿部に銃創を負はしめその行為の不逞極まり不軍紀も茲に至りて言語に絶す(P62-P63)

△日本政府の声明は今の支那政府を敵とするも一般国民は敵とせずと 然るに日本兵が何等罪なき良民に対し不逞極まる行為を敢てするに於ては一層支那一般国民より抗日思想を如何に観るや 日本帝国の為に将来を思ふとき慄然として寒心に堪えず 支那政府が一般教育として日本兵を猛獣と呼び日本兵を獣兵と云ふが如し 之亦如何に考ふべきや

上記事件発生したる為 寧ろ吾々の出発を延期せられたるを今に至り好都合なりと思ふ

◎同事件の為 田島部員は現場に憲兵と共に出張す 又増田部員も憲兵隊に至り取調の指導を為す 両部員の努力称讃するに余りあり 自分は之らを指揮 又憲兵隊には自分も行き指示を与へたり

序に憲兵隊にて婦女子百名以上も保護収容し居たるを見る その中に小さき子供も居り又赤子にミルクを呑ませ居たるを見たり 食事も憲兵より支給するが実に憫然たるものあり 日本人には斯かる境遇に在るも只の一人もなきのみならず 日本兵が支那人を使役するを見るに一々銃を向けて殆ど犬猫の如き扱ひ之が支那人なれば何等抵抗せず 反対に日本人と地位を替へて考ふれば如何

支那女六人が殺されず命が助かりたりとして憲兵隊に豚一頭鶏十羽を村の者がお礼に持参せり 当部にもその裾分を受けたり 人情に於ては何処も変る所なし(P63)



11月26日

◎田島部員再び殺人強姦事件に付き憲兵と共に臨検の為午前九時出発す

今日は衣糧广が当邸に来るとて兵が十数名来り室内を掃除す 囂しく而も埃が立ち閉口す

当家には随分色々沢山の物がありし様なるも初めに来た者が目星しい物を漁つた形跡 又その次に宿泊した者が捜索し今又他の者が来る 段々物色して最後には好し悪しに拘らず殆ど皆無となり只残るは家屋のみにあらずやと思ふ(P64)

自分等は努めて物色を警め只防寒用の為には不本意ながら蒲団二三枚、前の者が持ち行き僅に残し在りて極めて粗末甚だ気持ち好かざるも寒気を凌ぐ為には不潔などと云ふべき場合にあらずと之を携行することに用意す(P64-P65)


尚之れも一の偏見かも知れざるが色々各方面を観察するに当り第一線のみならず後方部隊のものにありても狡き兵はわざわざ落伍してさぼりその上民家に入り悪事をなし例へば上記の殺人、略取、強姦事件の如き被告人は之に類するものにして結局正直にて真面目の兵は第一線に在りて勇戦奮闘してまかり間違へば戦死し、狡き奴は放恣極まる振舞をして何等戦闘に加はらず之こそ国賊と云ふか反逆者と云ふか獅子身中の虫と云ふも過言にあらざるべし(P65)




又遥か向ふを見ると兵が三人ばかり向ふの人家に往くらしく□かする処の少し前方に女の子供らしきもの又年頃の女等三四人居るかと思ふ内彼等は日本兵を見ると一目散に逃げ行く これによれば女子供は日本兵を余程怖れて居るらしく之れ日本兵が悪事を為すによるものにして何等悪い事を為さざれば逃げ行く筈なく自分は実に残念に思ひたり

皇軍の面目何れにありや 戦争と云ふものは斯くあるものか自分は初めてなれば何れとも判断付かざるが亦之れによりても上記の如く支那人の日本に対する感情 又日本兵の素質引いて今後に於ける青年男子の思想に如何に影響するか 全く寒心に耐へず(P66)

漸く明日は出発し得るが如し 午前九時船にて嘉興に向ふ 然るに司令官は既に本日湖州に到れる如し自分は嘉興には明日到着するも速に湖州に出発すべく用意する積なり(P66)

午前十一時頃田島部員帰る 臨検地に於ける状況を聞く 悪質想像以上とのこと(P66)

村民は田島一行を知るや女子供は蜘の散る如く一目散に逃げ出したるが通訳をして決して悪き兵隊にあらず お前らの被害を見て裁判をなす者なる旨告ぐるや初めて安神し色々被害の状況を取調べせんとするも通訳にしては十分明らかならず非常に時間を取り兎に角取調べを終りたるも村民等は非常に歓待し支那料理を為す(P66-P67)

又一行が悪い日本の兵隊は僅かにて皆良い者斗り今後吾々は悪い兵隊にしてお前らに害を与へた者の首を取つて話す等したるに非常に感激し遂には子供が沢山集り来て一行に握手を求め帰途の際には一里半も村民等大勢見送りをすると共に豚二頭鶏十羽外に支那酒色々土産物を呉れたりと 人の情は支那も何処も変る所なしと深く感じたり

結局犯人は三人を殺害し三人に重傷を与へ六人の女を略取し或る離れた空家に連れ込み一室に兵一人一人宛入りその上女に酌をさせて散々勝手気侭の事を為し悪さをなしたるものにしてその最中に憲兵に取押さへられたるものにして万一発見せられざれば女六人は殺害せらるるところなるべし

然るに村民はその女が無事に帰りたる為その喜び限りなく併し帰りたる女の或一人の如き自分は兎に角生命は助り帰りたるに自分の父が撃たれて死したるを知るやその悲嘆到底見るを得ざる如く泣き崩れ実に同情に堪へざりしとの談を聞き親子の人情又何処も変ることなしと思ひたり(P67)

 


11月29日

上記の如く支那人は何処より連れ来るか軍の前進に沢山の荷物を負ひ或は棒にて釣り行き先は何処までなるか恐らく我軍の前進最後まで連れ行かるるにあらずや 結局何十里までそれも殆ど食物を貰ふ位にて それに少しでも服従せず不服がましき風をすれば直に遣られるし 全く言ふが儘なり

途中にて兵二人が剣を抜き一人の支那人が仰向けになり居りしを抉り居りしを見たり 又一人の支那人が血みどろになりて苦しみ居るを見たり 之れを見るに全く戦敗国民程哀れのものなしと感じたり(P78)


12月2日

 当湖州に在りては多数の支那人を雑役に使ふ 今日も二階の窓より見るに五六十名の支那人が或る使役に当る為 憲兵の引率によりて他に赴くものの如くその先頭の者が日章旗を持ちそれに続いて列をなし内心は分らざるも表面は何等不服の色を見せず 唯々諾々として引率者の意の儘に行動する有様 之れ万が一にも服従せざるが如き風を為せば直に射殺せらるべきものと思ひ居るが如し

又 当地に今日は多数の隊が前進し来り宿営するを見る その中に携帯を負ふに困難なる程疲労せしか或る者は支那人をして携行品を負はせたる者多数あり 特に異様に感じたるのは支那人に背嚢 鉄帽 銃までを負はしむ 日本兵は只軍服 戦帽を纏ふのみ(P84)

支那人は勿論支那服の極めて汚き衣の上に之らの物を着けたる光景全く滑稽とも言ふべし 併し日本兵も永き行軍なれば足を痛め或は露営の為に風邪に罹りたる者もあらん 真面目の日本兵を見るとき深く同情に堪へざるものあり(P84-P85)



12月6日

又聞く所によれば当湖州の電灯会社の副社長とかにて日本兵を少しも恐ろしく感ぜざるゆえ自分一家は避難せずと 又それに妙齢の娘一人あり これに附添の下女も居る(P91)

下女は日本兵の為に恥かしめられたるも娘は何等被害なしと 憲兵隊にては下女が恥を受けたる位なれば娘も当然その難に逢ひたるに相違なしと思ひ本人に付き調べたるも本人は斯ることなしと言ひ 下女も自分は恥かしめられたるもお嬢さんは日本兵に恥かしめられたることなしと主張するが如し 真相明ならず 之れ一の挿話として記す(P91-P92)


12月10日

前進を続け自動車内にて午後二時頃昼食を為す 我等の一行は自動貨車約二十輌乗用車約十台にて相当の大部隊にて蜿々列を為したる堂々たるものなり

若し小部隊と見れば敵は出没して射撃に出づることありて危険甚しと聞く 我が前進部隊は殆ど通過したりといふのみにて通過の範囲僅かの幅に過ぎず それより少し奥に入れば如何なる敵が伏在せるやも知らず 沿道の家屋は敵か我が方なるか全く一軒も余す所なく完全に徹底的に焼燬しあり 中に未だ火焔炎々たるを見る

敵が焼却したりとせば敵は我が方をして宿営せしめざらんが為なり 我が方が焼却したりとせば敵をして伏在せしめざらん為なり その何れにも相当の理由あるも沿道の支那人にして若し良民なりとせば哀れなるものなり


12月14日

午前六時起床 愈々晴れの南京入りの準備を為す 実に何とも言へざる感に打たれ緊張す 天気依然晴朗快晴当地方特有の日和にしてむしろ暖か過ぎる程なり

午前十一時自動車にて出口獣医部長と同乗出発す 南京までは十八里ありと 窓を明けざれば暑さを感ずる程温暖 併し窓を明ければ埃gがおびただしく入り已むを得ず全部しめて進行す

途中りっ水の城壁の傍を通過す 沿道生々しき戦跡を見る 段々進行に従ひ相当激戦を思はしむ(P110)

依然橋梁の焼却に悩まされながらそれに余計の時間を費す 或る所にては先に戦車の通過により破損しその復旧中にて尚三時間を要すと それが為田圃を迂回して通過す ここ暫く天気続きなれば斯かることも出来得たるが若し降雨にてもありし後なれば絶対に自動車が田圃を通過する等の便利を得ざるべし(P110-P111)

途中山地なれば相当数は強固なる陣地を築きたるを見る つまり塹壕を無数に堀り 南京に近づくに従ひ鉄条網を張れるあり 陣地には多数の支那人斃れたるを見る 中には十数人も重なり合ふ死体あるを見る 即ち累々たる屍山を為すとも言ふべきか

三時半頃漸く南京の南方に着し城壁を眺望す その辺より日本兵実に夥しく到着 殆ど日本兵を以て埋めたるを見る 詰り第六師団と第百十四師団 外に色々の部隊到着 殆ど身動きも出来ざる有様 即ち車道も歩道も日本兵にて一杯 丁度東京大震災の時莫大の人が先を争ひ逃げまはわれるも斯くありしかと思ふ

城壁の南門に近付けば貨車、乗用自動車、車輌等にて前進を妨げられ約一時間も停止す その間に直ぐ傍の家は火災上り道路広き為大概危険なしと思ふも或人曰く時々弾薬その家にあり爆発することありて危険なりといふ 従て早く前進してその危険を免れんとするも進まず 心配極なし

又路傍には支那正規兵が重なり合ひそれに火が付き盛に燃え居るを見る 日本兵は全く足本に死骸の横たはり居るを見ながら殆ど何も感ぜざるが如く 中には道一杯で歩行出来ざる為 燃えつつある死体を跨ぎ行く兵を見る 人間の死体など最早何とも感ぜざるが如し

漸くにして南門前に至る 全部石にて積み上げし城壁は高さ三丈もあるかと思はれ昨日の戦闘たけなはなりし我が砲弾の為に破壊せられたる所あるも城壁の幅広く車の通る位なりとのことなれば到底普通の砲弾にては之を崩すこと困難なりと聞く(P111)

門に入れば両側には支那兵の死体累々たるを見る(P111-P112)

南京の道路はその広さ舗装等東京の改正道路に劣らず家屋も殆ど同様の程度かと思はるる程立派なり 昨日一昨日と僅二三日の戦にて既に陥落す 日本軍の威力絶大なるを思はしむ 全く昨日まで激戦なりし生々しき戦場を見る感慨無量 結局日本魂の発現なりと言はざるべからず

暫くして軍司令部に到着す 同所は四階建の洋式にて上海商業儲蓄銀行なり 早速司令官の室に挨拶す(司令官は今朝洪藍埠を自分等より三十分程前に出発せられらり)

先づ司令官に祝辞を延ぶ 実に日本軍の威力を讃へ十分その辞を表はすを得ず

司令官に挨拶すると司令官は屋上に上ると南京全市を眺望す 自分の眼鏡を貸すから能く見給へと言はれ早速拝借し屋上に上り眺め 此の盛なる大首都を攻略せし日本の偉力の絶大なるを更に感激す 而もこれが二三日の攻撃にて落城せしむ到底筆舌を以て尽すべからず

我が宿舎は司令部の第一階の一室に決められ同室は相当結構なるも炊事するに適せず 只二三日の滞在なれば不便を忍びながら色々工夫しながら設備を為す

屋上より眺むれば 斯かる広汎なる市街の各所より火災上り天に沖すといふべきか 全く戦争ならでは斯かる光景を見ることなし 戦争なる実況を眼下に眺むる機会を得たるは実に千載一遇なりと言ふべし(P112)

市街各所に鉄条網を設け又諸所に深く塹壕を掘りその上に高く土盛たるか全く何れも空家と化し詰り大阪市の如き都会の市民が一人残らず他に避難したると思へばその混雑如何(P112-P113)

而も貴重品は勿論 携帯し得る物は一つも残さざるまでに持ち逃げたるは夫を思ふのみにてもその状況を想像し能はざるべし(P113)



12月15日

朝霧深く殆ど向側の見えざる程なり 段々十一時頃より薄雲も散り好天気となる

南京には上水道もありしが破壊せられて使用不能 為に僅に堀井戸を使用して応急需要に充つ

南京にてはこれ迄と違ひ糧食品の徴発すべき物なく却つてこの点は田舎の方が米もあり 鶏、牛、豚、他に菜類ありて補給にはむしろ便利なりしが南京には全然かかる物資存せず 却つて此処に来てより内地の米、醤油、味噌、塩鮭、素麺の分配を受くるが如き状況なり(P113)


午後市内の状況視察に出る 各十字街には鉄条網設けあり 又その傍には支那正規兵の幾人も斃れそれに衣類に点火して焼きつつあり(P113-P114)

之等を見ても別に異る感生ぜず 日本兵も殆ど間接的 何等の感なく全く之とて路傍の者として見るが如き光景之亦戦場ならざれば経験し得ざる所なるべし 又依然各所に火災上り黒煙天を焦がす

司令官の談に揚子江にて十二三艘の船に避難民なるか逃走兵なるか先頭に英国の旗を立ていたるが 例の橋本欣五郎は構はず砲撃す 撃たれたる方にては英国の旗を立て居ると言ふ 橋本大佐は左様な旗は煙幕の為判明せざれば今後少しでも動けば直に撃つと 向ふ側にてはそれに縮み上り居れりと(P114)


12月17日

外に殆ど二十年振にて笹井軍医少将に邂逅す 彼が上海派遣軍に居ることは之迄知らず 実に意外なり 尚外に岡崎総領事 斉藤良衛博士(方面軍顧問)に挨拶す 斉藤博士とは乾杯場にては自分の隣席に同博士を招き互に文官としての心持なるか既に知己の如く親しみを以て談ず(P116-P117)


12月19日

愈本日南京を引上げ湖州に向ふこととなり午前五時起床 天気薄曇 温度相当寒気加ふ

午前八時頃乗用車に自分、田島、増田両法務官詰り法務部用として充当せられ出発す 往路に同じ南京城中華門(南門)より出づ 城壁は高さ十三メートル厚さ五メートルかと思はる

既記せしが司令官の話に攻略当時或る兵が梯子を用ひ昇らんとせしに梯子足らず某所より攀ぢ上りたると聞きしが其の梯子もまだその侭にありしを見る 弾丸も数弾受けたるも何れも急所を外れたるは全く鬼人の業なりと言はれたり

十四日に南京に入りし時は南京に向ふ兵にて埋まりぬ城壁辺に至りし頃は全く立錐の余地なきまでに兵にて充たされたることは既記の如くなるが今日は反対に南京を退く兵にて道路一杯自動車の進行を妨げらるる位なり(P119)



12月23日

○小××××強姦事件、石×××外一名強姦事件を受理す

強姦事件に付ては是迄最も悪性のものに限り公訴提起の方針を採り成べく処分は消極的なりしも斯くの如く続々同事件頻発するに於ては多少再考せざるべからずかと思ふ(P125)

 


12月25日

○上砂中佐事務打合せに来部

中佐曰く近頃強姦事件不起訴に付せらるるもの多く 憲兵が折角検挙せしものに斯く致さるることとなると努力の甲斐なしと (P127)

自分答ふ 或は然らん 併し自分は戦争中に於ける情状、犯人のその当時に於ける心理、支那婦人に対する貞操観念、是迄の犯行数(その実際の数を挙ぐれば莫大ならん) 非検挙に終りし者と偶々検挙せられたる者との数の比較等、その他純理論よりすれば姦淫は当時の情勢上刑法一七八に所謂抗拒不能に乗ずるものと認むべきも中には斯かる者全部なりと断ずるを得ざるべく容易に要求に応じたる者もあることを考へざるべからず(P127-P128)

斯く観じ来りたるときは姦淫したる事実あれば直ちに強姦なりと断ずるは早計たるを免れざるにあらずや その他周囲に於ける犯行当時の事情を深く参酌して決定処理し居るべし 故に直に同中佐の要求に応ずるを得ざるべし

又同中佐は今後戦闘休止にもならば増加する憂ひあり 引いて宣撫工作にも影響を及ぼすならんと

自分は之に対し 或ひは然らん 併し一面慰安設備も出来れば増加は防ぎ得るにあらずや尚ほ一体人間は戦争等生命を擲たんとするが如き一大衝動線に直面したる場合には最後の一つとして婦女に接せんとするにあらずや 従つて却つて休戦なるとも増加を左程憂ふるの必要なきと思はると答へたり(P128)


12月26日

○松岡憲兵大尉午後六時頃来部打合せ、某少佐事件に対し同大尉は曰く 上官を脅迫し強姦し掠奪物を内地に送り暴行数度に及ぶが如き幹部の者を不問に付するが如きは不公平なり 若し隊長に於て適当の処置を為さざる場合には自分は今後兵の事件を検挙せざるべしと

○地××××、殺人、強姦、脅迫事件を受理し勾留訊問を為す 又 吉×××(少尉)岡××(少尉)殺人事件に付き勾留訊問を為す(P129)

愈明二十七日正午に杭州に向け出発の命あり 吉×××事件は十二月十七日金山に於て支那人間に稍々不穏の挙動ある如きことを聞き直ちに部下数十名を引率し支那人部落に至り射殺斬殺を為したる事実にして その間上官に十分連絡せざるのみならず一つの好奇心より支那人を殺害せんとの念に基くものと認めらる(P129-P130)

同隊は前線の戦闘には加はらず従つて支那人を殺さんとの一種独特の観念に駆られたるとも認むべく戦場にては斯かる念を生ずるもの少なからず又支那人に対する人格尊重薄きによるものの如し(P130)



1月20日

○午後二時頃より李新民、陳金金の各軍律違反事件に付き審判、五時近く迄かかる

李新民は我が警備隊が蘇州河を下航中 他の李桂山、王考四と共に手榴弾を投下したるものにして同人は所謂遊撃隊に加入し之を脱せんとするも 李桂山等より脱せんとすれば殺すと脅迫され、又食ふに困る為彼等と共にしたりと述べ 自分が死の要求を為したるときは何れにしても進退きはまり食ふに困るゆえ為したるものなれば諦めると言ひながら涙を流して悲哀したり

次に陳金金は軍律を記載せし司令官の布告を剥奪破棄したるものにして自分が二年の監禁を要求せしときは手を合せて喜びたり 之れ支那人は罪を犯せば直に首を切られると思ひたるが如し 然るに二年にて命が助かりたりと喜びたるならむ

何れにしても支那人相手の場合には我が兵に対する場合の如く何等考慮する等のことなく罪あれば簡単に処分するを得れば多くの面倒を感ぜず(P160)

○軍律違犯の審判終了すると又本日七名の事件を受理す 軍律違犯は容易に犯人を発見し得ず 恐らく事件僅少ならんと思ひ居たるも斯く続いて繁属するは最も想像外とする所なり(P160-P161)


1月24日

一日中周継棠外六名の軍律違犯事件を取調ぶ 別働隊なるものは不良青年の集合にして所謂遊撃戦術に依り日本軍の後方撹乱を目的とするものにして相当上海方面に於ける戦闘当時には活動したるものなるが如し 然るに南京陥落後は殆ど広東方面に遁避し只僅に一部の残党が地下運動を為すものの如し 何れも大部分無頼漢(流民)にして寧ろ生活に困難なる為に加入したるが如し(P163-P164)


1月25日

午前十時より菅野法務官を随へ租界憲兵隊内に設けある囚禁場視察に赴く 同囚禁場には支那人十二名日本人十六名を収容しあるものの設備極めて不完全にして去る二十日夜支那人李新民破獄の事故を惹起したるは止むを得ざるが如く観ぜらる 之れ全く急場に応ずる為と戦地に於ては到底完全の設備は望み難きも設備如何に拘らず看視警戒さへ十分行届き居れば事故は恐らく防止するを得べく

尤も憲兵は非常に多忙なると人員の少きによる相当疲労困憊し居れば深夜事故を起し易きことは免れざる所なりと思ふ 然るに此の過ちによりて 今後の警戒に対し所謂頂門一箴ともならば幸ひなりと思ふ

この一支那人以外に目下相当悪質の支那人にて我軍後方撹乱を計りし者七八名拘束中なれば以て之等に対する警戒を一層厳重にすべきことを特に指示し置きたり(P166)



1月26日

周継棠外六名軍律違犯事件の論告要旨を作成す(P167)

結論として「被告等は多数相結束して党を為し以て帝国軍に対し危害を加へんとする不逞団に属するものにして彼等の行為は帝国軍の安寧を害すること甚しきのみならず帝国の期待する東洋の平和を妨ぐるものなれば絶対に斯かる極悪分子は之を撲滅するの要あること論を俟たざる所なり 故に厳重の制裁を以て之に臨み彼等全部は最も重き罰に処するを相当とす」(P167-P168)

○周継棠外六名の軍律違犯事件に付き捜査報告を為し意見の通り司令官の審判請求の命令を受く 近く審判開始すべく着々その準備を為す(P168)


1月28日

○午前九時より周継棠外六名軍律違犯事件を審判す この内にて周継棠は首領株にして第二区隊長たる地位にあり又元来流氓即ち無頼漢侠客にして以前子分五百名を有せしものなりといふ 見た所も他の者に比し相当しつかりした者と思はれたり 一時頃審理を終り直に執行の準備を為し五時半執行を終らす 自分は検察官として審判にも立会ひ続いて執行の指揮を為し憲兵をして執行せしめたり(P170)

只犯人に付き感ずる所は審判中或者は自己に不利なる点に付き極力否認せんとしたる者ありしが愈々執行を受くるに臨みては何ら悪びれたる様もなく尋常に刑場に入りしといふか極めて穏やかにして度胸がいいといふか諦めが早いといふか一言も発する者もなく至極滞りなく終了したり(P170-P171)


1月29日

○午前十時司令官登庁せらるると同時に昨日処理せし周継棠外六名の軍律違犯事件に付き詳細報告す

○植×殺人事件の被告人精神鑑定に付き予て交渉中なりし金沢医科大学教授にして軍医中尉早尾乕雄来部種々鑑定に関する事項に付き指示す(P171)

 


2月2日

海軍の俘虜収容所を見る 一時は何百人と居りしも現在は四十七名居りと 何れも正規兵にして支那兵の制帽を冠り服は普通の綿入を着し 規律極めて不正なりと認めたり(P179)



2月3日

○陸丹書軍律違犯事件捜査報告あり

○午後同上事件被告を訊問す 本件は淞滬義勇軍遊撃隊の第二大隊にして配下の者二人に煙草の空缶に爆薬を詰めたる手榴弾を一個交付し日本軍に投擲せしめんとしたるものなり 被告は貸人力車業にして使用人百人余あり 外に兵器の密輸入も為したる如く資産も二十万円も有すと 遊撃隊の隊長としては四十人余の部下あり 連名簿ともいふべき義記と記せし部下の名を揚げたるものを所持し居たり 総隊長ともいふべきものは趙錫光といふ者なりと(P179)


2月6日

○午前十時より後×××奪被告事件公判に検察官として立会ふ(P181)

○次で陸丹書軍律違犯事件に付き審判に立会ふ 死の宣告ありたるにより午後上海北站停車場北方空地に於て執行す 三名の射手により小銃にて射撃したるも完全ならず 尚他の憲兵軍曹に於て拳銃にて二三発対撃して漸く執行し終るを見る



2月9日

天気快晴

○福××××窃盗、小××××臓物故買、臓器運搬、佐××××傷害、小××××用兵器上官暴行、小×××過失傷害、各事件に付き司令官に意見具申 何れも公訴提起の命令を受く

△遊撃隊長逮捕銃殺さる(上海毎日新聞) 殊勲! 憲兵隊の活躍

 河向ふの暗黒面を頼り小癪にも我に刃向ふ内部紛糾も表面化(四分五烈)。淞滬義勇軍遊撃隊の名を以て敗戦支那の誇大宣伝に踊らされ小癪にも皇軍に刃向はんと共同仏両租界の暗黒面を頼みに手榴弾投擲を唯一の手段として跳梁 最近漸く内部紛糾を醸して赤裸々に裏面を暴露しつつあるこの遊撃隊に対し我が憲兵隊本部ではこの機に徹底検挙を行ふべく同部全署員を動員

 去る一月三十一日払暁共同租界某所を襲つて該義勇軍遊撃隊第二隊長某を逮捕、直ちに租界憲兵隊本部に留置取調べ中であったが去る六日午後二時憲兵隊死刑執行場にて銃殺に処した。(P185)

この第二大隊長某は去る九月頃より一党を組織して目下共同租界内に本拠を置き近く皇軍に対し手榴弾投擲の挙に出でんとしてゐたるものであるが敗戦支那の宣伝に依るこの義勇軍組織にも漸く内訌の兆しが来しこの統制に必死となつていた処を我が憲兵隊本部の探知するところとなり同部員の手を動かして逮捕となるに至つたものである。(P185-P186)

上記の隊長と言ふは六日自分が検察官として立会ひたる軍律会議に於て死を宣告し死を執行せし陸丹書なり(P186)



2月15日

○塚本法務官到着す 

南京方面に於ける事件状況に付き聴取す 特に天×中尉強姦事件に付ては相当詳細の報告を受く 強姦事実は認むるは困難なるが如きも憲兵伍長に対する職務執行中の軍人に対する脅迫は之を認め得るが如し

方面に亘り強姦事件頻発するが如し如何にして防止するかは大いに研究問題なり(P192)






<極東国際軍事際裁判>

○マタイス弁護人 次に小川関治郎の宣誓口供書、弁護側文書二七〇八号を提出いたします。

○ 裁判長通例の条件附で受理します。

〔書記 弁護側文書二七〇八号は法廷証三四〇〇号といたします〕

○マタイス弁護人 弁護側文書二七〇八号、法廷証三四〇〇号の朗読を開始いたします。それは小川関治郎の宣誓供述書であります。

〔朗読〕

一、自分は一九三七年九月末頃、第十軍(司令官柳川中将)の法務部長を命ぜられ、杭洲湾北岸に上陸して南京戦に参加し、翌年一月四日、中支那方面軍付となり、松井司令官に直属した。

二、第十軍は杭州湾上陸直後、中支那方面軍の指揮下に入った。松井司令官は軍紀・風紀の厳守は勿論なるも、支那良民の保護と外国権益の擁護の為め、厳格に法を適用せよと達せられた。

三、自分は南京へ着く迄の聞に約二十件位の軍紀犯及風紀犯を処罰した。風紀犯の処罪(罰)に付て困難を感じたことは和姦なりや強姦なりや不分明なることであった。

その理由は支那婦人のある者は日本兵に対して自ら進んで挑発的態度を取ることが珍らしくなく、和合した結果を良人又は他人に発見せられると婦人の態度は一変して大袈裟に強姦を主張したからである。然し自分は強姦と和姦とを問はず起訴せられたものは夫々事実の軽重により法に照して処罰した。苟くも脅迫の手段を用ひたものは厳罰に処した。
*「ゆう」注 小川は日本兵の言い分を鵜呑みにしている。もし「支那婦人」が自ら「和合」に応じたことがあったとしても、「支那婦人」は「貞操」か「生命」かの窮極の選択を迫られ、やむえず「貞操」を犠牲にした、と考えるのが自然。

四、自分は十二月十四日正午頃、南京に入り、午後、第十軍の警備地区(南京の南部)の一部を巡視した。其の時、中国兵の戦屍体を六、七人見た丈で、他に屍体は見なかつた。第十軍は十二月十九日、南京を撤退し、杭州作戦に転進した。其の南京駐留期間内に自分は日本兵の不法行為の噂を聞いた事なく、又、不法事件を起訴せられた事もなかった。日本軍は作戦態勢の儘で軍紀は頗る厳粛であった。松井軍司令官は元より、上官から、不法行為すべしとの命令を受けたことは勿論ないし、不法行為を容認せよと命ぜられたこともない。(P256)
*「ゆう」注 「陣中日記」によれば、小川は各所で大量の死体を目撃しており、これは明らかなウソ。
五、憲兵も松井司令官の命令を厳守し、取締警戒を厳にして居た。上砂中佐(憲兵)の如きは、自分が審理の上、徴罪不起訴を言渡した事件に対し、手緩るいと抗議を申出た程で、日本兵の不法行為は厳に取締られて居た。(P256-P257)

六、一九三八年一月四日、自分が上海の司令部で松井大将に会ったとき、大将は、「犯罪の処断は的確厳正にせよ」と特に語を強めて言はれ、自分は此の旨を帯し自分の任務を厳行した。

昭和二十二年 ( 一九四七年 ) 十月六日

於東京

供述書 小川関治郎

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』)

(2008.6.21.)


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