風見章『近衛内閣』(中公文庫)



風見章『近衛内閣

蘆溝橋事件おこる


 日華全面戦争の口火となった蘆溝橋事件、すなわち、華北の蘆構橋において、日華両国の軍隊が衝突し、互いに銃火をまじうるにいたったという事件がおきたのは、一九三七年(昭和十二年)七月七日の真夜中であった。 第一次近衛内閣が成立してから、わずかに三十三日目である。

 この近衛内閣の使命とするところは、外政においては、なによりもまず、日華両国間の多年の懸案を解決して、両国国交の調整をはかろうとするにあった。むしろ、これだけが、外政にあってはただ一つの目標であったといっていい。
そして、内閣成立のころは、その調整のいとぐちが、イギリス政府のとりなしによって見出せるかも知れぬとの期待もあって、近衛氏は、それにすくなからず希望をつないでいたのである。

 さらに、それをなしとげるためには、いずれは、みずから進んで陣頭に立って国論を指導するはもちろん、中国政府ならびに国民にも、はたまた、ひろく世界にも、活発にはたらきかけんものと、しきりに想いを練っていたのである。 ところが、そのおりしも、蘆溝橋事件がおこったのだ。(P29-P30)

 この事件の報告をうけると、わたしは、すぐにこれを近衛氏に伝えた。そして、杉山(元)陸相は、わがほうにとってはまったく偶発事件であるといっていることをつけ加えると、近衛氏は、「まさか、日本陸軍の計画的行動ではなかろうな」と、いうのであった。

 近衛氏がこういったのにはわけがある。というのは、これよりずっと前から、日本は華北に特殊権益を手にいれておかねばならぬというので、陸軍が主役となって、華北政権としきりに交渉をつづけていたのだが、 話し合いはちっともはかどらず、いっかな、らちあきそうもなく、それがために陸軍の一部には、ごうを煮やすあまり、 あわよくば華北を第二の満洲国たらしめんとする計画をたてて策謀している者もあるとのうわさが、近衛内閣成立の前から、消息通のあいだに伝えられていたのである。

 だから、蘆溝橋事件がおこったときいて、さては、陸軍が華北に手をつけはじめたのではないかとの疑いを持ったのは、ひとり近衛氏だけではなかったのである。

 事件がおこって、まもなくのことである。これについて、米内(光政)海相と山本(五十六)海軍次官と、わたしが話しあったおり、山本次官は、「陸軍のやつらは、なにをしでかすか、わかったものでない、油断がならんよ」 といって、同じ疑いをほのめかし、米内海相もそれに同感の意を示したものである。(P30)

 事件そのものが重大であるのみならず、もしも、それが、陸軍の計画的行動であるとすれば、容易ならざる事態をかもしだすことになるのは、わかりきった話なので、近衛氏の要求もあり、 わたしは、はたしてそうであるかないかを確かめたいものと、できるかぎりの情報集めにとりかかった。しかし、手にはいる情報からは、陸軍の計画的行動だと決めるわけにもゆかなかった。しかのみならず、すくなくとも陸軍首脳部は、陸相はじめ、いずれも、まったく意外の困ったできごとだとして、ひどく心配しているとしか思われなかった。

 ことがらが重大なので、九日早朝には臨時閣議をひらいで、陸相から事件発生のいきさつと、その後の事態の推移と、さらに、これに対する陸軍の方針とをきくことにした。

  この閣議前に、首相と陸海外の四相会談がおこなわれた。この席上で陸相からは、責任は中国軍側にあること、わがほうとしては事端を拡大させぬよう、急速なる現地解決を出先当局に訓令したこと、ただし、あくまで中国軍側に反省なく 、ひいて憂慮すべき事態を招く危機をみるにいたらば、わがほうとしては適切迅速に機宜の処置を講じなければならぬとの発言があって、三相ともそれを諒解した。閣議でも、陸相の発言は同様であったとおぼえている。

 九日から十日にかけて現地からの報告では、どうやら情勢は、楽観してもいいかと思われた。

 しかるに、十日の夜、午後九時ごろだったと思う。陸相からわたしに電話があって、現地の兵力があまりにも手うすである、これでは、その後の経過からみて安心できない、 したがって、ある程度の派兵の必要がある、そこで至急派兵を決定したい、しかるに、そうなると、政府としても態度方針を内外に明らかにするのが適当だと思うから、これらのことについて、 十一日に閣議を開いて、それらのことを決定するよう首相に相談してくれとのことであった。(P31-P32)

 すぐに、わたしは近衛氏を永田町の私邸にたずねて、陸相の申し出をとりついだ。近衛氏もその申し出は、きくよりほかあるまいというので、十一日には、派兵の件と政府声明とを議題として、閣議を開くことにした。

 この相談のあとである。わたしは近衛氏に、すぐに政界各方面の代表を招いて、政府への協力を懇請しておくほうがよくはなかろうかと進言した。近衛氏は、さっそくこの進言をいれた。 そして十一日の閣議終了後に、政界各方面の代表者を首相官邸に招くことを決定したのである。

 わたしが、この協力の懇請を至急にやったほうがよかろうと思いついたのにも、わけがある。

 近衛氏は、その組閣にあたって、政党からはたった二名の閣僚しかとらなかった。政友会の中島知久平(鉄相)、民政党の永井柳太郎(逓相)の両氏だけである。しかも、その選考を、近衛氏は独断でやってのけた。つまり、「ごぼうぬき」をやったのだ。

 このことは、当時の大政党であった政友、民政の両党にあっては、ひどく面目を踏みつぶされたとして、近衛内閣に内心、不平不満、反感をいだく者がすくなくないのも見のがせなかった。さればこそ、近衛内閣成立をみて両党がおおやけにした声明書は、 いずれも、つかずはなれずの態度で見ていてやるぞと匂わし、ちっとばかりは矛をむいてみせることを忘れなかったのである。

 とにかくこういういきさつから、政党方面とは、わずかに政党出身の二閣僚をとおして、間接につながりを持つというだけで、しっくりしたあいだからではなかったのである。(P32-P33)

 その上、政務官の選考にあたって、内閣としては、政党方面に反感のたねをまいたことも見のがせなかった。

 内閣はその性格上、つぎのような方針をとった。すなわち一方では閣僚に希望する候補者を名ざししてもらい、他方では、政党のほうから候補者を推薦してもらって、その推薦と閣僚の希望とが一致したものを採用するという方針をとったのである。

 したがって、閣僚のほうからも、政党のほうからも、それぞれに、一つのポストについて二、三名ずつの候補者を出すということになった。 自然、政党方面では、自分の政党からは推薦されたのに内閲から蹴おとされたのだと思うものが、たくさん出たわけである。やむをえないことではあったが、こうしたことからも、内閣に対して、深刻なる反感をいだく者をつくりだしたのは確かであった。

 当時は、近衛氏の人気は、他の政治家たちの影をすこぶる薄くしたほどで、ひとり、この人にこそ洋々たる前途があるのだと、一般から期待されていた。その結果、近衛内閣から政務官として抜擢されるということは、 その人にとって同じく前途洋々たるを約束されるのだとの評判がたっていたほどだから、近衛内閣によってふりおとされたとあっては、その人の失望もはなはだしかったに違いなく、それがまた反感となったのも、無理のない話であった。

 政党との関係は、ざっとこんな調子であったから、政界には、一種のもやもやした空気がただよっていて、内閣としては、油断できない立場におかれていた。

 ささやかではあるが、わたしや、法制局長官たる滝正雄氏の存在も、政党方面の反感をかう原因の一つであったようだ。当時、滝氏もわたしも、衆議院に議席をもってはいたが、ともに無所属であった。 ことに、わたしは、前々から政界革新をとなえ、既成政党をさかんにこきおろしていたことではあるし、そのわたしが書記官長の地位にあるということは、政党方面からみればいい気持ではなかったろう。(P33-P34)

 それはとにかく、内閣としては、かかる立場にあったので、今、蘆溝橋事件によって中国との国交調整問題が暗礁にのりあげたとなると、ことが重大であるだけに、この暗礁をのりこすためには、 内閣としては、いちおう政界の協力をおおやけに懇請しておく必要があると、認めざるをえなかったのである。

 ことに、ひそかに心配しだのは、むこう見ずの強硬論がもちあがることであった。そのころは、一般国民のあいだにも、はたまた政界にあっても、中国をあまく見くびるという気風がみなぎっていた。 一方、前年来、中国における抗日の勢い、すこぶるはげしく、それがため日本同胞にしてその犠牲となり、殺害された者もあったという事件に刺激されて、ひとつ、中国をとっちめてやるがいいといったような考えをいだく者も、すくなくなかった。

 また財界方面でも、中国市場を顧客とする製造業者や貿易業者の方面では、抗日気勢にあおられた排日貨運動に、ひどく手こずっていたおりもおりとて、ひとたたき、たたいてみせて、 へたばらせるほうがいいかも知れぬとして、日本が、ことごとに強硬態度に出ることを希望しているものも、すくなくなかった。 したがって、ひとたび強硬論おこるにいたらば、国民のあいだには、それに共鳴する者が多いだろうことも、予測せぬわけにゆかなかった。(P34-P35)

 もしも、事件そのものが、陸軍の計画的行動によるものだとすれば、そういう強硬論がおこるのは、結局その行動にしり押しをし、それに油をそそぐことになるわけで、そればかりか、陸軍のほうでも、 ひそかに手をまわして強硬論をあおることだろうとも、想像せずにはいられなかった。

 ところで、もしも政界がその強硬論に踊らされることにでもなったら、それこそ、この事件をあくまで現地解決でかたづけて、 すみやかに平和的手段により両国国交の調整をはからねばならぬとする近衛氏の意図は、これを実現するのに、はなはだしく不便不利となるおそれがある。

 これは、あとのことであるが、閣僚中にもたとえば中島、永井の両相などは、中国軍を徹底的にたたきつけてしまったらどうかと閣議で発言したこともあるほどで、 政界が強硬論に踊らされる危険は確かにあったのである。したがって、内閣としては、いそぎ政界にむかって協力を懇請し、これによって、内閣の方針を認むる国論の統一をはかっておくことが必要だと考えたのであった。

 さて、いよいよ十一日午前である。閣議前に、まず首相、陸海外蔵の五相会談がおこなわれた。蔵相を加えたのは、派兵にともなう経費支出があったからである。

 この会談のおりであったとおぼえている。米内海相からの提議で、「今回の事件をもって、第二の満洲事変たらしむるようなことは、絶対にやらない」という意味の申し合せをやった。 もっとも、この申し合せは、五相だけの諒解事項として、閣議には報告されなかった。(P35)

 米内海相が進んでかかる提議をしたのは、確かめたことではないが、あるいは近衛氏の依頼によったものではなかったろうかと、わたしは思っている。先にものべたごとく、 華北に第二満洲国をつくりだそうとする陸軍の計画的陰謀のあらわれとして、こんどの事件がひきおこされたのではなかろうかとの疑いをもっていることでは、米内氏も近衛氏も同様であった。

 ところで近衛氏は、これには駄目をおしておこう、あれには釘をさしておきたいと思うことを、同じ考えの第三者にやらせるという手口を、よく用いたものだ。

 それに陸海軍は、互いに、相手がたのやることには口出しをしないというやりかたであったことなどから推して、さらでだに、発言にはきわめて慎重であり、むしろ、すこぶる遠慮がちであった米内氏が、そういう重大なる発言を、みずから進んでやったというのは、わたしには、近衛氏からたのまれたためだとしか、思われないのである。

 もし、そうでないとすれば、山本次官あたりが、釘をさしておかぬと国防の見地からも大変なことになるからというので、米内氏にそれを要求した結果だろうと思われるふしもある。 というのは山本氏のほうが、米内氏よりも、陸軍のやりかたを、いっそう強く疑っていたからである。

 この日の閣議は、派兵と現地解決方針の声明を、いずれも承認し、さらに政界代表に協力懇請のことをはかったところ、賀屋(興宜)蔵相からは財界に、また、馬場(英一)内相からは言論界に、 同様の手をうってくれとの要求が出たので、それならばというので、財界言論界代表者をも、同日、それぞれ首相官邸に招いて、同じく協力を懇請することにしたのであった。(P36)

 ちなみに、蘆溝橋の事件がどうしておこったものか、今なお、わたしはその真相を知らない。ただ、ここに、近ごろ読んだ、アメリカのオーエン・ラティモア氏があらわした『アジアの情勢』(小川修氏訳)の中に、つぎの一節がある。


中国と日本との戦争は、華北の中国軍隊の下士卒連中の自然発生的な抵抗によって、ついにはじめられた。その抵抗は、きわめて広汎なものであり、また、それに呼応した民族主義の熱情の爆発も、圧倒的に大きいものであったために、(中国)政府は、遂にひきずられたのである」(P37)




風見章『近衛内閣』

事態は悪くなるばかり

 七月十一日午後になると、華北翼察政権当局から、日華両軍が原駐地帰還を条件として、事端解決の弁法を申し出てきたとの報告がはいり、さらに中国軍も原駐地へ帰還を開始したというので、やや愁眉をひらいたのであった。

 しかるに十二日になると、形勢また急変して、華北中国軍はふたたび進軍を開始し、国民政府は抗戦を決意して、大動員令をくだしたとのニュースが伝えられた。

 しかし同日、南京では、国民政府王(寵恵)外交部長が、翼察政権と日本軍との取りきめを無視せずと、公式に、駐華日本大使館に意思表示したことも判明したので、華北の情勢に、 たえまなき波瀾の一起一伏はまぬがれぬにしろ、内閣としては、不拡大方針現地解決主義が崩れだすことなく、事件がすみやかに解決されることに望みをかけ、事態の推移をみまもっていたのである。(P38-P39)

 ただし、このときはやくも新聞は、日華全面衝突の危機ありと報道していた。

 七月十五日、陸軍は、「北支の現勢にかんがみて、本十五日、内地より一部の部隊を派遺するに決せること」を発表した。

 これより先である。同盟通信社長の岩永祐吉氏や、朝日新聞の緒方竹虎氏などからは、いちおう華北駐屯軍を満洲領内にまで撤退させることにしたほうがよくはないかと、注意してくれた。

  岩永氏は、近衛氏とじっこんの間柄であり、わたしも、同通信社の前身たる国際通信社に若いころ関係したことがあって、同氏とはしたしい交際をしていた。緒方氏はわたしにとって学生時代からの親友だったので、事変ひとたびおこるや 、このふたりは、内閣の立場をわがことのごとく心配してくれて、いろいろと注意もし、進言もしてくれていたのである。

 そのころ、朝日新聞記者をしていた尾崎秀実氏なども、同じような進言を書面でよせてきたのをおぼえている。
ほかにも、同様の考えをもって、たずねてきてくれたものもすくなくなかった。

 あたかもよし、近衛氏もわたしも、それができるなら、それにこしたことはなかろうと考えていたことでもあり、陸軍のほうで、それを承知するかどうかを確かめてみることにした。 ところが、とんでもない話だというので、受け付けなかった。そして、心配することはない、現地解決で立派にかたづけてみせるというのであったから、しいてこちらの考えを主張するわけにもゆかなかった。

 そうはいうものの、しかし陸軍ではさらにつぎつぎと派兵を計画し、その準備をすすめているとの情報が、ひんぴんと耳にはいるので、はたしてそうだとすると、 陸軍が真剣に誠意をもって不拡大方針を守ろうとしているのかどうか心もとないと、近衛氏も心配するので、わたしは、陸軍の真意をさぐるために、いろいろ手をつくしてみた。しかし、わたしの確かめえたところでは、すくなくとも陸軍の首脳部は、不拡大方針を守ろうとしているのだとしか、思われなかった。(P39-P40)

 馬場内相は、ことに杉山陸相とは仲よくしていたし、陸軍とは接触面が広かったところから、同氏にも、陸軍の真意をさぐるようたのんだのであるが、同氏の見るところも、わたしの見るところと、同じようであった。 あるときは、馬場氏とわたしとで、杉山氏を山王下の三楽という宿屋に一夕招待し、腹蔵なく、互いに話しあってみたこともあったが、馬場氏もわたしも、杉山氏が不拡大方針はもとより、 あくまで、すみやかに現地解決のみちを見つけなければならぬと言明したのを、その真意としか受けとれなかったのである。

 あるいは、陸軍では下剋上の傾向がひどく、首脳部のごときはいずれもロボットにすぎない、したがって、首脳部だけを信頼して相手にしていると、とんでもない手違いがおこるぞと、注意してくれるものもあったが、 しからば、首脳部をロボット化する勢力はどこにあるのかときいてみると、その正体を具体的に示してくれるものは、ひとりもなかった。したがって内閣では、首脳部を相手に話をかたづけてゆく外に、みちもなかったのである。

 しかもわたしなどには、かれらがいいかげんに不拡大現地解決方針を口にしているのだとは、どうしても思われなかった。そして、わたしのこの見方が誤りでなかったことは、のちに、宣戦布告問題がおこったおりに確認できたのである。(P40-P41)

 だが方針は、そうであったにもかかわらず、戦局はつぎつぎに拡大していった。七月二十四日には郎坊で、二十六日には北京城門で、日華両軍の衝突がおこり、事態はますます悪化した。そこで陸軍は、現地における自衛権発動を必要だとして、 二十七日の閣議に、これが承認を求むるにいたったのである。

もちろん、これは戦局の拡大を意味するものであったので、近衛氏は深くこれを憂慮した。しかし、統帥権をもたぬ内閣としては、しばらく必要以上の拡大はあくまでやらぬとの陸相の言明を信頼して、対処するほかはなかったので 、陸軍の右の要求には、応ぜざるをえなかったのである。

 一方、蘆溝橋事件がおこってから、中国中南部方面で活躍していた邦人にとっては、はなはだおだやかならぬ情勢が、日ましに動き出し、同方面の在留邦人は引揚げをよぎなくされるにいたっていた。 かくて、揚子江沿岸の在留邦人は続々引揚げをはじめ、それが完了したのは八月上旬であった。内閣としては、事端が同方面におこるのをおそれていたので、さいわい、事なく引揚げがおわったことを知り、胸をなでおろしていた。 ところが、このよろこびもつかのまであった。

 八月九日になると、こんどは上海において、大山海軍中尉が中国保安隊員に射殺されたという事件がおこり、これがキッカケとなって、同地にも、戦雲をはらめる重くるしい情勢が動き出すにいたったのである。 そして八月十二日になると、一触即発の危機発生をみるにいたったというので、その夜、海軍側から、これに対処する方針の決定につき、至急、相談したいとの中し出があった。(P41-P42)

 さっそく、近衛氏の永田町私邸に、首相と海陸外三相の会談が開かれ、わたしも参加して相談した。その結果、上海における海軍側自衛権発動を内定した。かくて、十三日朝は緊急閣議を開いて、これを付議、決定したのである。

 ところがこのときは、すでに上海では戦争の火ぶたが切られていて、夕刻までには、同方面の和平収拾絶望が伝えられるほど情勢は悪化し、十四日になると、空中戦までおこなわれるにいたり、上海はまったく戦火につつまれることになってしまったのである。

 事ここに至ったので、十四日の夕刻、わたしは近衛氏を永田町の私邸にたずねて、同方面の情勢に関するニュースを伝えるとともに、善後処置について協議した。その結果、とりあえず海軍をして至急に救護物資と病院船とを、同地に送らしむることにした。

 それにしても、事態刻々に重大化の傾向にあるので、この夜、いちおう緊急臨時閣議を開いて、海相から情勢の報告をきき、かつ、善後処置についても話し合っておくのがよかろうというので、そうすることにした。

 ただし、戦局がかくまで拡大したことについての政府の意思表示は、なお形勢の推移をみた上のこととして、この夜の閣議では、ただ救護物資および病院船を送ることだけにしておこうと、話をきめたのである。 わたしは、すぐに米内海相をたずねて、首相との話し合いを告げたところ、海相もただちに賛成したので、午後十時に緊急臨時閣議を開くよう手配したのであった。

 ところが、閣議を開いてみると、思いもかけぬことがおこった。というのは、予定のごとく閣議は進行して、近衛氏が散会をいいわたそうとしたところ、とつぜん杉山陸相が、 ちょっと持ってもらいたい、この際ひとつ、政府声明書を出したほうがいいだろうといって、その案文の謄写刷りをカバンからとりだしたのである。(P42-P43)

 いったい、政府の声明として出してほしいという場合には、閣議にかける前に、まずわたしに打合せがあるのが、それまでのならわしであったのに、このときは、そういう打合せもなく、とつぜん閣議の席上で持ちだしたのである。 といって、そうしてはいけないというわけでもなかったのだから、結局、その声明案文は議題にされたのであった。

 はじめの予定では、このおりの閣議は、短時間でかたづけられるわけであったのが、ひとたび、この声明書が議題になると、そうはゆかなくなった。そして閣議は午前一時までつづけられ、その結果、陸相から要求の、つぎの声明を発表することになったのである。


 「帝国は、つとに東亜永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。

 近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。

 さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。(P43-P44)

 かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。

 しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。

 かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり

 かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。

 しかれども、帝国の庶幾(しょき)するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。

 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無辜の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。(P44-P45)

 かつ列国権益の尊重には、最善の努力を惜しまざるべきは言をまたざる所なり」



 この声明では、表面、日本政府は、不拡大方針を投げすてて、徹底的に軍事行動を展開するかもしれぬぞとの意向を、ほのめかしているものの、しかし、実際のところ、それは真意ではなかった。

 このときは、すでに戦局はよほど拡大されたとはいうものの、華北全体からいえば、まだ一小局部にすぎなかったし、政府としては、華北の事端は華北だけのこととし、上海の事端は上海だけのこととして、 それぞれに解決の道はふさがれていないのだとの期待のもとに、事態収拾の一日もすみやかならんことを、ひたすら祈っていたのである。

 かかる声明を出すことに近衛氏が賛成したというのも、これによって現地解決の機運を促進する効果をねらってのことであったのは、いうまでもない。だから、この声明を発表するにあたっては、その発表の責任者であるわたしが、特に、不拡大現地解決の方針は依然これをかたく守るのだと、ことわったのである。

 この閣議は、真夜中までも続けられた。そこで世間では、情勢の検討や前途の見通しなどについても、活発なる意見の交換がおこなわれて、重大時局下の閣議たる面目を大いに発揮したことだろうと想像したらしいが、 実をいうと、そうではなく、まことに、たあいもなく時をすごしてしまったのであった。(P45-P46)

というのは、陸相から声明の案文がくばられると、いずれも黙って目を通していたが、そのうちに、広田(弘毅)外相から、「共産主義勢力」という文句があったのを、これはソ連をも問題にしているように誤解される心配もあるので、ほかに適当な文句はないものかと、言い出したのである。

 もともとこの文句は、陸軍のほうでも、中国共産党の勢力をさすつもりだったのである。すると、この発言を中心に、ああでもない、こうでもないと、思いつきを言い出すものもあり、ひとしきり、このことで話に花が咲いた。

 それからは、声明文のほうはそっちのけにして、とりとめもない雑談となり、そんなことで思わず時をすごしてしまい、結局、「共産主義勢力」は、「赤化勢力」という文句にとりかえると話がきまったころは、真夜中になってしまったのである。

 そのあいだに、不拡大方針がいいとか、わるいとか、現地解決ができるという見通しは、あたっているとか、いないとかいうようなことは、議題として取り上げられることもなかったのである。

 もっとも、中島鉄相から、いっそのこと、中国国民軍を徹底的にたたきつけてしまうという方針をとるのがいいのではないかという、意見の開陳があって、永井逓相が、それがいいといった意味のあいづちをうちはしたが、 ほかの閣僚は、ただ聞き流すだけであったので、その意見は論議の的とはならなかった。

 近衛氏は、このときも、いつものごとく、ただ黙って、辛抱強くそれらの話を聞くだけであった。そして、右の声明を発表したいという陸相の発言に、外相海相はじめ閣僚一同、たれも異議をとなえなかったので、近衛氏はそれを承認したのである。(P46-P47)

 この閣議が散会したあとである。杉山陸相は、中島、永井両氏がのべた意見をとりあげ、わたしに、そっと、「あんな考えを持っているばかもあるから驚く、困ったものだ」と、ささやいたものである。 これによっても、わたしは、杉山氏が、そのときには不拡大現地解決方針を守ろうとしていたのだと、信ずるのである。(P47)



風見章『近衛政治悲史の序幕』

 八日、蘆溝橋事件の報に接すると、近衛氏の憂色はすこぶる深かった。そこで、陸軍の方からも要求があってのことだが、九日の朝には臨時閣議をひらいて、陸相の杉山元氏から事件の詳細なる説明と、これに対処する陸軍側の方針とを聞くことにした。

 近衛氏が第一に心配したのは、陸軍によって計画的に起されたものでなかろうかという点にあった。つまり、第二の満州事件を華北で起しかけているのではないかとの心配である。

  この事件を聞いて、直ちにかかる心配を持ったのは、ひとり近衛氏だけでなく、心あるものは、何れも同様であった。海軍側なども同様で、米内海相や次官山本五十六なども、 「陸軍の奴等は、何を仕でかすか判ったものでない。油断がならぬ」と、すぐに警戒し始めたものである。私はこの言葉を両氏から直接耳にした。(P126-P127)

(『世界評論』1950年1月号掲載)


(2010.7.11)


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