篠田治策『北支事変と陸戦法規』



「外交時報」 84巻通巻788号 昭和12年10月1日

(抜粋)

篠田治策『北支事変と陸戦法規』より

 我国の国内法に於いては事変と戦争を区別せざる場合多く、例へば出征軍人の給与、恩給年限の加算、叙勲に関する法規等総べて事変と戦争を同一に取扱ふも、国際法上にては事変と戦争は大なる差別がある。

 即ち現在の事変が変じて戦争となれば、日支両国は所謂交戦国となり、共に戦争法規を遵奉する義務を生じ、同時に中立国に対しても交戦国としての権利と義務を生じ、中立国は皆交戦国に対して中立義務を負担するに至るのである。

 語を換へて言へば事の事変たる間は必ずしも国際法規に拘泥するの必要なきも、一旦戦争となれば戦場に於いて総べて国際法規を遵守すべき義務を生ずるのである。

 然れども事変中と雖も正義人道に立脚して行動し、敵兵に対し残虐なる取扱を為し、良民に対し無益の戦禍を蒙らしむるが如きは努めて之れを避くべきは言を待たずである。

 此の点に関しては、皇軍は我国教育の普及と伝統的武士道精神により、毎に正々堂々たる行為を以て範を世界に示しつつあるは欣快である。

 嘗て済南事変の際邦人に対する残虐視るに忍びざる殺戮行為、今回の通州に於ける邦人虐殺行為等天人共に許さざる野蛮行為に対しても、敢て報復の挙に出ずることなく、飽くまで正々堂々唯だ敵の戦闘力を挫折するに止めたのみである。(P48-P49)

 故に皇軍は戦場に於いて事変と戦争を区別するの必要は無い。何れの場合にも武士道的精神に則り行動するが故に、戦規違反の問題を生ずることは殆んど無いのである。(P49)
 


 
篠田治策『北支事変と陸戦法規』より

 過去に於ける皇軍の行動は実に右の如く最も鮮かであり、所謂花も実もある武士的行動であつた。斯かる伝統的名声を有する皇軍の行動は今回の事変に際しても決して差異あるべき筈は無い。

 理論上事変は国際戦争に非らざるの故を以て、節制無き行為に出づるが如きは想像だにも及ばざるところである。(P51)
 


篠田治策『北支事変と陸戦法規』より

 陸戦法規の条項を北支の事情と敵軍の素質に対照して一々之れを論究するは、紙面の許さざるところなるにより、筆者が茲に希望するところを一言にて表示すれば、過去の二大戦役にて、克く陸戦法規を遵守して皇軍の名誉を輝かしたる如く、此の事変に於いても此の点に注意を払ひ、更に占領地住民に対しては軍律を厳重にし軍政を寛仁にすべしと謂ふのである。

 凡そ遣外軍隊は一地方を占拠すると同時に、軍隊の安全と作戦動作の便益を図るが為めに、無限の権力を有するが故に、軍司令官は其の占拠地域内に軍律を発布して住民に遵由するところを知らしめ、軍隊の安全と作戦動作の便益を害する者には厳罰を以て之れにのぞみ、同時に一般の安寧秩序を保持し良民をして安んじて其の生業に従事せしめねばならぬ。

 固より戦闘に関係無き事項は其の地従来の法規により、其の地方の官吏をして其の政務に当らしめ、以て安寧秩序を回復維持せしむるを便宜とするも、事苟も軍隊の安危に関するものは最も厳重に之れを取締らざる可からず、仮令ば一人の間諜は或は全軍の死命を制し得べく、一条の軍用電線の切断は為めに戦勝の機を逸せしめ得るのである。(P53-P54)

 故に軍司令官は此等の危害を予防する手段として、其の有する無限の権力を以て此等の犯罪者を厳罰に処し、以て一般を警めねばならぬ。故に予め禁止事項と其の制裁とを規定したる軍律を一般に公布し、占拠地内の住民に之れを周知せしむる必要がある

 日清戦役の際は大本営より「占領地人民処分令」を発布して一般に之れを適用した。

 日露戦役の際は統一的の軍律を発布せず、唯だ満洲軍総司令官は鉄道保護に関する告諭を発したるのみにて各軍の自由に任せた。

 故に各軍区々に亘り第一軍にては軍律の成案ありしも之れを発布せず、単に主義方針として参考するに止め、第二軍には成案なく、第三軍にては確定案を作成したるも、総司令部より統一的軍律の発布あるを待ち遂に之れを公布するの機を失し、遼東守備軍は第三軍の軍律を参照して軍律を制定発布したりしが、後遼東兵站監は之れを改正して発布した。

 旅順要塞司令部は特に詳細なる規定を発布し、旅順口海軍鎮守府も別に軍律を発布し、第四軍にては一旦之れを発布したるも後に之れを中止し、其他勧告註剳軍、及び樺太軍は各々軍律を発布した。(P54)



篠田治策『北支事変と陸戦法規』より

  軍令に規定すべき条項は其の地方の情況によりて必ずしも画一なるを必要とせざるも、大凡を左の所為ありたるものは死刑に処するを原則とすべきである。

一、間諜を為し及び之れを幇助したる者
二、通信交通機関を破壊したる者
三、兵器弾薬其他の軍需物件を掠奪破壊したる者
四、敵兵を誘導し、又は之れを蔵匿したる者(P54)
五、我が軍隊軍人を故意に迷導したる者
六、一定の軍服又は徽章を着せず、又は公然兵器を執らずして我軍に抗敵する者(仮令ば便衣隊の如き者)
七、軍隊の飲用水を汚毒し、又軍用の井戸水道を破壊したる者
八、我が軍人軍馬を殺傷したる者
九、俘虜を奪取し或は逃走せしめ若くは隠匿したる者
十、戦場に於て死傷者病者の所持品を掠奪したる者
十一、彼我軍隊の遺棄したる兵器弾薬其他の軍需品を破壊し又は横領したる者

 而して此等の犯罪者を処罰するには必ず軍事裁判に附して其の判決に依らざるべからず。何となれば、殺伐たる戦地に於いては動もすれば人命を軽んじ、惹いて良民に冤罪を蒙らしむることがあるが為めでる。

 軍律の適用は峻厳なるを以て、一面にては特に誤判無きを期せねばならぬ。而して其の裁判機関は軍司令官の臨時に任命する判士を以て組織する軍事法廷にて可なりである。(P55)
 

(2014.10.13)


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