A・T・スティールからの聞き書き


 
A・T・スティールからの聞き書き


日時: 一九八七年九月四日一二時〇〇分−同四〇分および午後二時ー四時五〇分
場所: アリゾナ州、セドナのスティール氏のアパート
質問者: 笠原十九司・伊原陽子
英語テープ起こし者: シャール・ウェストランド





―いま何歳でいらっしゃいますか。

 八四歳になります。

―お体の具合はいかがですか。

 目が悪くなってきて、物が読みづらくなりましたが、それ以外はどこといって悪いところはありません。心臓にペースメーカーを入れていますが、調子はいいです。


―まず、新聞記者としてのあなたの仕事の概要についてお話しいただけますか

 外国特派員になるのが希望で、スタンフォード大学で学びました。そこを卒業してからアイダホ州のボイジィに戻り、そこの新聞社に一、二年勤めました。それからほんの数年間ですが、カリフォルニアで小さな新聞社を経営しました。しかし、恐慌のため経営が成り立たなくなりました。

 当時、周囲を見ると、新聞は極東のニュース一色でした。そこで、極東に行くことにし、二、三百ドル手持ちがあったので、日本船の大洋丸に乗船し、三週間かかって上海に着きました。

 一九三一年十二月に初めて中国に上陸してから一、二週間後の一九三二年一月に日本軍が上海を攻撃し、上海事変が勃発し、状況が変化しました。

 このことについては、日本海軍に感謝しなければなりません。日本軍機が中国人区を爆撃する音で目が醒めると、私は『シャンハイ・イブニング・ポスト & マーキュリー』に行きました。ちょうど記者が一人もいなかったので、経験のある私をその場で雇ってくれました。(P573-P574)

 二、三日そこで働いてから、私は虹橋や四川路に行くように言われ、銃撃戦の真っ直中にいることになったのです。このときはマクダニエルと組んでいました

 次の仕事は、上海のAPの仕事でした。ここはミズーリ大学出身のモリス・ハリスの経営するところで、中国にくるアメリカ人の新聞記者訓練所とでもいうところでした。私の書いたものをハリスが自分の記事にして送るのに嫌気がさして、『ニューヨーク・タイムズ』に移りました。

 私は当初、よく日本軍と行動を共にしてこの事件を報道しました。上海の戦争は、反日機運が高まっていた時に起きたので印象に残っています。日本軍は短期に勝利して中国を征服できると見ていたようですが、そうはいきませんでした。

 上海ではほとんどの日本軍司令官に会いました。午前中は日本軍に行き、午後は中国軍に行き、というふうに、両方の情報が容易に入手できたので、記者にとっては都合のよい戦争でした。

 日本軍からは、沿岸沿いのアスターハウス・ホテルにある司令部で毎日記者会見がありました。海軍水兵の活動は活発でしたが、蔡廷カイ(木へんに皆)麾下の十九路軍もたいそう激しく抗戦しました。蒋介石は正規軍を送らないでいました。蔡の軍隊は、訓練されていない軍閥の兵隊でしたが、これが実によく戦い、潰走させるのに何日も要したほどです。

 戦闘の多くは、日本租界区の四川路で展開されました。私はある時、戦闘の真っ直中に入ってしまったことがあり、よくぞ生きていたものだという気がします。

 上海事変から数ヵ月後に満州へ行きました。戦争の報道をするために、日本軍と親密になることは重要なことでした。

 小磯(国昭)が関東軍の参謀長でした。彼には何度かインタビューしたことがあります。当時、日本は薄儀を皇帝に立てて満州国をつくろうとしていました。小磯は個人的には、行動力のある聡明な軍人で、好感のもてる人物でした。

 私は一九三三年に横浜で、アメリカから来た婚約者と結婚式をあげ、翌日に満州にたったのです。戦争の報道をするためでした。小磯大将は私たちの結婚を聞きつけて、記念に銀のスプーンを贈る配慮をしてくれました。中国における彼の軍事政策は承服できなかったが、彼は個人的にはいい人でした。

 日本軍は満州の傀儡政府を援護するために、中国人指導者をできるだけ集めました。その一人に馬占山がいました。彼は軍閥で、はっきり覚えていませんが、陸軍大臣かなにかを務めたと思います(黒龍江省長に就任した−訳者)

 馬将軍はとても狡猾な人物でした。彼はしばらく満州国政府につかえた後、政府を見捨てて、手に入る金銀をすべて持って満州の奥へ逃げ、抗日運動を続けたのでした。(P574-P575)

 このころ、国際連盟の調査委員会から調査団が派遣されました。満州では、連盟の調査団がやってくると、ご機嫌をうかがうかのように「東(日本)から太陽が昇り、ジュネーブから平和が訪れる」という類の標語が掲げられているのを見ました。同調査団は、満州国政府にいたことのある馬将軍に会見を求めましたが、拒否されました。

 そこで、私はもう一人の特派員とともに彼に会うために満州の奥地に行くことにしました。この取材旅行は満州における私の最高の仕事となりました。私たちは馬に乗って出発しましたが、まもなく中国軍のエスコートがついて、満州の村から村へと馬占山を捜し求めて旅を続けました。途中、日本軍支配区域も、中国軍区域も通過し、馬占山のいる地に辿り着きました。

 彼の司令部を探すのは容易なことではありませんでした。日本軍の爆撃を避けるため、毎夜移動していたからです。夜半に移動をしながら馬占山と二、三日を過ごしました。彼は一日の行軍が終わると司令部に入り、パイプを取り出してアヘンを吸っていました。ですから、インタビューは幻想的雰囲気のなかで行われました。漠然としたことしか聞けませんでした。結局、彼からは確実な情報はひとつも得られませんでした。

 馬占山探しには、スイスの新聞記者ワルター・ボスハードが同行しました。彼がジュネーブから来たので、中国軍は私たちを連盟の人間、だと思い込んで、馬占山探しに協力してくれました。私たちが連盟の代表ではないと言ったところで、信じなかったろうと思います。近づけば「動くな ! 」と頭上で一発ありそうな地に、向こう見ずの馬鹿者二人。私たちが連盟の者だという思い込みのおかげで、無事旅ができたのです。

 日本軍が私たち二人のことをスパイではないかと捜し出したので、帰路についたのです。このとき、連盟に渡してくださいと、各村の中国人から沢山の資料を手渡されました。満鉄に乗り帰ってきました。

 このとき日本領内に帰ってこれてよかったです。ちょうどそのとき、友人が日本軍に連行されるところでした。私がアメリカ領事館に避難すると、日本軍は私の引渡しを要求しました。そこで取引をして、持っている資料 ( 渡して罪になりそうなものは除いて ) を渡して引き渡されずにすみました。

 盗賊に会って泥道に、つっ伏せになるよう命令されたこともあります。そのとき私は夢遊病のような状態で寝惚けながら歩いていました。気づいてみると、軍服を着た中国人がなにやらわめきながら銃をむけているのです。周りを見渡すと、みな手を挙げているので、私も手を挙げました。地面に腹ばいにさせられ、顔を泥土につけると、彼らは荷物を探り、カメラ、剃刀、ベルトやらを取り上げると放免してくれました。(P575-P576)

 いろいろな経験をしましたが、一九三三年の北満州を彷徨した時ほど無謀な経験をしたことはありません。ところが、この馬占山将軍を捜し出すという、そうめったにない冒険物語を長文で『ニューヨーク・タイムズ』に送ったところ、目立たないページの五インチほどの記事にさせられて我慢がならなくなり、その後、『シカゴ・デイリー・ニューズ』に移りました。

 私が勤めた新聞社のなかでは、『シカゴ・デイリー ・ニューズ』がいちばん働きやすいところでした。自由に書けて、支払いも期待以上でした。

 一九三八年と四三年の二度、延安を訪れ、毛沢東や朱徳らに会っています。一九三八年に延安で初めて共産軍の数を見ましたが、彼らがいかに力をつけたかを知らされました。

 毛沢東はとても興味ある啓発的な人物でしたが、後年、誇大妄想を抱き、過ちをたくさん犯しました。百家争鳴や文化大革命などです。周恩来にも会見しましたが、彼はコミュニストとしては例外的に秀でたスポークスマンでした。

 一九四五年春、私はモスクワへ行くことになりました。編集長が地図を見て、モスクワへ行くには、ニューヨークからより重慶のほうが近い、と考えたんですよ。彼らには行程の困難なことなどは念頭にないんです。飛行機は不定期だし、 おまけに日数はかかるし。

 私は飛行機でトルキスタンに飛び、タシケントで急行列車に乗り、さらに一週間かかってモスクワに辿り着きました。その時には戦争はすでに終了していました。モスクワの検閲は我慢がならないほどひどいもので、働きづらいところでした。その点、中国は違いました。無線でも、帰国する人でも、送る手段さえあれば、ほとんどすべての記事を送ることができました。

 『シカゴ・デイリー・ニューズ』の後、私は『ニューヨーク・ヘラルド・トリピューン』の特派員を長くやりました。戦後、戦艦ミズーリ号で広島の被害を見に行ったこともあります。また、アメリカの日本占領時にマッカーサーにもインタビューしたことがあります。第二次大戦後は、中南米、中東、南アフリカ、と世界各地を回ってルポルタージュを書きました。「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」は二〇年ほど前、テレビにやられて倒産いたしました。


―あなたは本も書いておられますね。

 私の本『「アメリカ国民と中国』(一九六六年)は、アメリカ国民の中国観を書いたものです。中国の状況も書きましたが、日本についてはひとことも触れていません。中国が私の関心事でした。今では半分は時代遅れとなりましたが、共産中国以前の背景などについては、まだ少し読めるところがあります。(P576-P577)


―あなたが南京虐殺について世界にスクープした一九三七年十二月十五日付の『シカゴ・デイリー ・ニューズ』の記事の全文を、『歴史地理教育』(一九八七年三月号)に紹介させてもらいました。

 私の記事が役にたっているとは嬉しいことです。日本人が今でも中国でやったことを知らされていないとは思ってみませんでした。五〇年も前に書いた記事が、まだ役立つとは驚きです。日本人のなかには、南京大虐殺があったことを信じない人がいるということを聞いて、残念に思いますが、確かにあったことなのです。


―南京に行く前はどこにいたのですか。

 南京に行く前は北京にいました。一九三七年七月七日の盧溝橋事件の時は、当日の朝、戦闘の開始を取材に行きました。これが日本の中国本土への侵入の始まりでした。それ以前は日本軍は満州・熱河に留まっていたのですが、それから華北を占領し、さらに上海を占領してから長江流域を遡り始めたのです。そこで私は日本軍の北京占領後、南京の占領を取材しようと南に向かいました。後には漢口戦も取材しました。

 日本軍の南京占領当時の写真を探してみましょう。宣伝写真やポスターもあったのですが。〈写真 櫚А咾海譴蕕脇邉の城外の写真です。中華門でしょうかね。

*目を悪くしていたスティール氏には見えないようだつたが、写真には中山門という字が読める。

 日本軍が城内に入ると、中国兵はパニックに陥り、先を争って軍服を脱ぎ捨て、民間人の服をひったくりました。軍服でいると射殺されたからです。じっさい、万単位の中国兵がそうして射殺されました。〈写真ぁ啼韻弧腓鯑眤Δら撮ったものです。

 日本軍が最初に城内に入ってきてから二、三日して、アメリカの砲艦オアフ号が長江を下って南京に来ました。私たちはジープを使って城外に出てそれに乗船しました。門を出る時に中国兵の死体の山の上を車で通りました。中国兵はみな必死になって城門を脱出しようとし、大勢がその門で圧死したのでした。


―中国人が虐殺される場面を見ましたか。

 はい。大勢の兵隊が銃殺されるのを見ました。整然と順序だって銃殺されていました。道路脇で、単独であるいは小グループで銃殺されているのを沢山見ました。目の前で銃殺されました。兵士だけでなく、民間人も手にタコがあると銃殺でした。手のタコは兵士であった証拠とされたのです。

 この写真の人が兵士か民間人かは分かりません。日本軍は兵隊を探していましたが、民間人も大勢殺されたことは確実です。


―〈写真─咾海譴話羃斂舅の写真ですね。

 中国兵でしょうかね、こうして拘引されていって銃殺されたのだと思われます。(P577)

 〈写真〉これは、日本軍が南京市内を掃討しているところの写真ですね。後ろに放火によるものと思われる煙があがっています。


―南京市内は自由に歩き回れたのですか。

 南京の道路は自由には歩けませんでした。私たちの行動は限られていて、市内のそう遠くへは行けませんでした。市内にはまだ潜伏して狙撃してくる中国兵がいて、日本兵が彼らを一掃していたからです。まだ、掃討戦が行われていたのです。(P582-P583)

 それに私もまた、強いて歩こうとはしませんでした。早く記事を外に送りたくてしかたなかったからです。それでも住んでいたところの周りは歩いてみました。前にお話しした南京を離れる時のことでした。

 私たちは道路の近くで日本兵が中国兵を処刑しているところを車で通過したのですが、別段邪魔はされませんでした。このときアメリカはまだ日本と戦争していませんでしたから。

 日本軍は全市を一瞬のうちに手に入れたのではありません。日本軍が入ってきたところから、一区画、一区画と徐々に中国軍を狩り集めながら、整然と進んできたのです。行く手には大勢の中国人がいました。ほとんどが中国兵でしたが、民間人もいました。

 彼らは必死になって逃げようとするのですが、市の周囲の城壁が障害となって逃げられません。日本軍が敗残兵を射殺しながら次第に接近してくる問、ほとんどの者が壁の前で途方に暮れていました。そのうちに日本軍が全市を占拠してしまいました。占領を完了するのには数日かかりました。

 〈写真〉城壁からロープが下がっているでしょう、これは壁を乗り越えて逃げようとした命知らずの人たちの思案の跡です。

 彼らが脱出に成功したのかどうかは分かりません。彼らは絶望的でした。だれひとりとして助かる見込みはありませんでした。日本軍がゆっくりと、しかし確実に侵攻してきているこの無情な状況で、逃げ道が限られていたのです。雪崩のように人々が門に押し寄せて、さらに後ろから押し寄せてくる。そうなるとおのずから圧死以外にないのです。


―写真を撮っている時、日本軍に阻止されませんでしたか。

 日本兵は自分たちのやっていることで手一杯だったようで、私たちには関心がなかったのか、うまくやればこうした写真も少しは撮れました。何も問題は起こりませんでした。

 それでも、もし、南京の城内で写真を撮っているのを発見されたら、おそらくカメラは取り上げられていたでしょうし、身柄を拘束されたかもしれません。城外でしたから写真が撮れたのだと思います。ですから、これらは門の外側で撮ったものです。

 (スティール氏の撮った写真ではなく、日本の新聞に報道された、馬上の松井石根大将を先頭とする日本軍の南京入城式の写真を見て)これは首都南京です。大勝利のデモンストレーションです。日本兵は、中国の抵抗も崩壊して、この南京占領で戦争が終わるものと思ったことでしょう。ところが、実際には、中国人の抵抗を強めただけでした。

 日本は汪精衛をかつぎ出して傀儡政府を打ち立てようとしました。彼はかつては政治的影響力をもっていた人ですが、今回は操り人形として終わりました。抵抗は重慶で続けられました。そしてアメリカが参戦したことで事態は大きく変わりました。(P583-P584)


―安全区や安全区委員会のメンバーについてなにか覚えていらっしゃいますか。

 安全区のことはよく思い出せません。伝道団の人たちが設定した中立区のことですね。私たちはたぶんそこからは離れて住んでいたと思いますし、安全区の写真も撮っていません。また、私たちが住んでいたところに日本軍が入ってきたという記憶もありません。

 ベイツは覚えています。有名な宣教師でした。リッグズ、スマイス、ミルズも覚えています。フィッチは言うまでもありません。たぶん、その他の安全区委員会のメンバーに当時は会っていると思いますが、今は思い出せません。


―(南京市街の地図を見せて) 南京にいた時はどこに宿泊していたのですか。

 宣教師の家に泊めてもらっていました。たぶんベイツの家だと思いますが、南京のどのあたりだったのかは分かりません。私は南京の住人ではなくて、日本軍の進撃を取材するために現地入りし、次には漢口へと向かったわけですから。南京に何日間滞在していたかも覚えていません。

*本書二七四ページのウィルソン医師の手紙によれば、スティールはベイツ、スマイス、ウィルソン、ミルズらと一緒にロッシング・パックの邸宅に泊まっていた。

 ダーディンはアメリカ大使館にいたって? 運のいいやつだ。食べ物もいいし。何から何まで揃っている。アメリカ大使館にもいいワインがあったそうです。毎日の体験が残酷極まりないものだったので、ほんの少しのワインでも効き目は抜群だったはずだ。


―南京事件の最初のスクープ記事はどのようにして送ったのですか。

 ダーディンにも聞いたのでしょう。彼も知りたがっているでしょう。でも教えません。秘密ですから。私は他の記者より数時間先んじていた。どうしてそうできたかは誰も気づかなかった。言うもんですか、船から送ったなんてことを、ハハハ。オアフ号には五名の特派員が乗船していました。ダーディンもその一人です。

 〈写真〉これは中国兵を地方でリクルートするやりかたです。彼らは徴兵されたばかりです。軍隊が農村に行って年頃の男性を見つけると、後ろ手に繋ぎ合わせて兵隊にするため連行するのです。なかには若すぎる者も徴発されていました。これは雲南省で撮った写真です。雲南省は軍閥の支配した地域で、蒋介石の軍隊の供給源となっていました。

 〈写真〉これは汽車に乗って、食料のあるところを求めて避難して行った難民の写真です。南京の難民ではありません。難民は列車に満載され、窓や入り口につり下がっている者がいるのが普通でした。列車は客車よりは無蓋車が使われました。場所はよくわかりませんが、華北かどこかだと思います。(P584)


―大きい質問ですが、日中戦争時の日本兵に対してどんな印象を持ちましたか。

 戦場での一般兵士に対する印象ですが、「カミカゼ」「ブシドウ」精神をもった彼らの勇気には心がうたれました。そういう精神をきわめてよく教え込まれていたようでした。不思議に思っていたが、日本を訪れて一、二ヵ月滞在したときその訳がわかりました。メディアを通した国家の戦争宣伝が絶えず行われて国民にそのとおりだと思い込ませていたのです。

 日本にいると中国にいる時のようには情報がはいらず、中国で私が目撃したものは本当にあったのかどうか、私は夢でも見ていたのかと、あれは事実であったのだろうかと疑わしく思われるほどでした。中国に戻ってみると、日本の遂行している戦争の実態は以前と変わっていないのです。

 
したがって、日本では戦争の宣伝活動が効を奏し、情報に関していえば、日本国民は捕虜の状態と同じだったのではないでしょうか。

 私たち特派員に対する日本軍の扱いは悪くありませんでした。私たちにはエスコートとして軍の代表をつけてくれ、できるだけのサービスをしてくれました。

 ところが、南京では別の印象を受けました。私たちに軍の公式方針などを教えてくれる将校などは一人もいませんでしたし、軍隊の性格がかなり残酷だという印象を受けました。中国人に対する扱いもかなり手荒いものでした。

 個々の日本兵に関して事実を述べる立場にはないのですが、みなたいへん洗脳されていて、勇猛でした。が、常に中国兵に優越感を抱いていました。日本兵を正確に判断するのは難しいのですが、支配者であり、侵略者であり、中国人は日本軍を嫌っていました。アメリカ人も当時は基本的には反日でした。

 興味深いのは、日本にいるときの日本人と、中国にいるときの日本人との違いです。前者はいつも礼儀正しく、たいへん親切で、好意的なのですが、後者は精神的には征服者という気があるので、闘争的であり、まったく粗暴に振舞うのです。その対照が際立っているのには驚かされました。


―あなたの報道姿勢は中国側から日本の侵略を告発する立場に立っていたように思うのですが。

 アメリカ人特派員として考えてみるに、私は日本人個人に対してではなく、日本の中国侵略政策に反対でした。アメリカの産業界は日本の満州占領は悪いことではないと思っていたようです。それで日本の願望であった鉱物資源や産業の自給体制を満足させられると思ったからです。

 その後、日本陸軍がアジアに影響力を伸ばしてきました。しかし、アメリカの産業界は、日本が万里の長城の外側にいる限りは構いませんでした。ところが、軍部の拡張主義は度を越していました。


―南京事件を否定する考え方に、善良でやさしい日本人がそんな残虐なことをするはずがないというのがありますが。(P585-P586)

 戦争というのは人間を変えることは確かです。ベトナムのアメリカ人をごらんなさい。虐殺もたくさん行われました。戦争がそうさせるのです。日本人のほうが残虐だったというのなら、それは、おそらく指導者がより侵略的だったということでしょう。

 日本兵の中国での行為が日本人には信じられないというのは分かる気がします。しかし、日本軍がやった残虐行為は本当に事実なのです。日本軍は中国では心底嫌われていました。

 ベトナムでアメリカ軍が虐殺を行ったことに対しても、私たちは同じように批判的に対処しました。しかし、アメリカ軍には日本軍に残虐行為を煽動した武士道精神といった伝統はありませんでした。武士道精神が中国で日本軍に残酷な行動をとらせたのです。


―南京大虐殺は、日本軍の行った残虐行為のなかではどう位置づけられますか。

 日本軍による虐殺はたくさんありましたが、南京は特別なケースでした。南京は中国の首都で、政治の中枢であり、蒋介石軍の最高司令部があったところです。この点が日本人には特別に重要な意味があったのです。

 逆に、中国人が東京を占領したと考えればその意味が分かるでしょう。この都市を手中に入れれば、中国は屈伏すると考えたのが日本の誤りで 日本軍は南京をとれば、中国との戦争に勝てると信じ込んでいました。南京を中国征服の典型例とするために、他のどの場所よりも徹底して残酷にふるまったのです。

 そのすぐ後に、漢口占領がありますが、かなりおとなしいものでしたし、南京とは比較になりません。南京占領は中国の征服を象徴すると思われました。上海でも虐殺はあり、私も中国兵が銃殺されているところを目撃しましたが、南京の虐殺は、憎い蒋介石のいる、しかも中国の首都という点で、別格でした。戦争に譲歩などというものはないのです。

 傀儡軍には中国人もいましたが、彼らは決して親日ではないので、あてにはなりません。私は満州の北部の村で一晩を満州国軍隊と過ごしたことがありますが、彼らは、日本軍のために働いてはいるけれど、日本兵をどんなに軽蔑しているか、一晩中冗談をとばしながら話してくれました。

 上海でも無謀な殺戮がありましたが、南京は最悪でした。南京は特別でした。


―最後に南京大虐殺について教科書に記述させまいとする日本の文部省などの姿勢について、どう思われますか。

 アメリカの教科書が、たとえば、ベトナム戦争におけるミライの虐殺のことを記述しているかは疑問です。これは、ベトナムにおけるアメリカ人の虐殺の典型として最も宣伝されたものです。しかし、アメリカではミライ虐殺の全容は出版されました。

 戦時における人間の行為というものには、平時には考えも及ばないことがあります。しかし、南京がずっとひどかったのは、あまりに大勢の人を巻き込んだからです。ベトナムでは虐殺された集団は少人数の単位でしたが、南京は数千人という単位で行われました。(P586-P587)

 日本人が南京虐殺があったということを知ることは大切ですが、この事件をことさら大袈裟に伝える必要はありません。今となっては過去の出来事ですから。ただ、実際に起きたことであり、その事実からは逃れることはできないのです。(P587)

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』所収)

(2012.4.21)


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