ロバート・O・ウィルソン医師の手紙


 陥落当時の南京には、二十名前後の外国人が残留し、「南京安全区国際委員会」を結成して中国人の保護に当たっていました。

 そのうち、ラーベ、スマイス、マギー、ベイツ、ミルズ、フォースター、ヴォートリン、ウィルソン、フィッチ、マッカラムの10名が、それぞれ当時の経験に関する手記を残しています。特にラーベ日記、ヴォートリン日記は日本でも単行本として出版されていることもあり、よく知られています。

 当サイトでは、以下、ウィルソン、マッカラム、フォースター、フィッチの手記を紹介していくことにします。

 まずは、南京に残留し、金陵大学病院で患者の治療に当たった、ロバート・O・ウィルソン医師の、家族に宛てた手紙です。


金陵大学病院からの手紙
(〜12月14日)

ロバート・O・ウィルソン医師

 私たちの家族は、いまだに七人から成り、ひっきりなしに客がある。おそらくオリパー・コールドウェルとピーター・パノンは今週長江を遡って、もし、大学が開校しているところがあれば教えに行くことになるだろう。ベイツ、スマイス、トムソン、ミルズと私は残留するつもりだ。今週中にたぶん二、三人が私たちの仲間に加わることになるだろう。

 国際委員会は市内に難民区を設立するため奮闘している。中国側に関する限りでは、それはすべて解決済みだ。日本軍部からはまだなにも聞いていない。日本側の新聞は断固反対という報道をしている。

 難民区は新街口から山西路と、その西側およそ半マイルから広がり、そして道路を隔てた病院の敷地を除く大学の建物はすべて含まれている。病院の主要な建物はみな難民区に入っている。もし計画が失敗した場合には、私たちは激しい砲撃を受けなければならないだろう。

 きのう鎮江が激しく砲撃されて、 APCの施設は瓦解した。私たちはしばらく補給物資を貯えてきているので、ひと月くらいはなんとか食いつなげると思う。(P270-P271)

 郵便局が閉鎖されているので、郵便物を手に入れることはほとんど期待できない。郵便物が安全に着くことをもう少し確かめるまで、これは投函しないで、また日記のようにして手元に置くことにしよう。

 私が詳細を書くよりずっと早く、君はラジオのニュースを聴くだろう。郵便が完全に封鎖されないうちにマージョリーの手紙を手に入れたいものだ。手紙を受け取ってからもう二週間になる。(P271)



十一月三十日

 十一月も終わりだ。私たちはまた今月よりさらに刺激的な月を予期している。日本軍は江陰要塞を手に入れて、きょうは封鎖線に五〇フィート幅の通路を打開したので、駆逐艦が通れるようになった。

 日本軍が南京市に到達するには、小さな要塞がまだ二ヵ所あるが、それらはすでに除去されたものとは比べものにならない。おそらく今週中には私たちは激戦の真っ只中にいることになるだろう。

 病院はあちこちから来た数人の臨時の看護婦たちを確保しているので開業を続けている。大勢の患者が退院しており、また南京市の防衛戦による負傷者たちのために、私たちは今いる負傷兵を退院させようと努力している。

 ありとあらゆる憶測が飛び交わっている。サイレンが二度聞こえたが、飛行機は一機も飛来してこなかった。後で聞いたところによると、飛行機はこの近所を爆撃したそうだ。(P271)



十二月二日

 きのうのサイレンは二回、今日は三回で、合わせて一〇三回になる。きょうの昼間攻撃はひどいもので、市をめぐる激しい空中戦を伴うものだった。日本軍の飛行機三機が撃ち墜とされた。中国軍の迫撃機二機も同様に撃墜されたのだが、面白いことには、私たちは現在二人のロシア人飛行士を治療している。一人は頭部挫傷とももに弾丸を受け、もう一人は二、三の軽い挫傷だ。

 ディックは小さい娘のジョイスが■(牛へんに古)嶺で重病となり、すぐに彼に来てほしいという報せを受け取った。バターフィールド汽船の最終船、黄浦号が今晩夜中に出港するので、私は彼とクロード・トムソンを同行して行った。

 この船にはここ数日間、故宮博物館の宝物が積み込まれている。エルシー・プリースト、金陵女子文理学院院長呉タイ芳博士、金陵大学学長陳裕光博士、それに我々の以前の中国人スタッフの陳医師と徐医師と福州の看護婦二名の四人が乗船している。ディックは■(牛へんに古)嶺でたった一人の外科医となるし、そうなると私は南京で唯一の外科医となる。

 トリム(トリマーのこと-訳者) はまだここにいる。それに江陰病院から来た若い青年がここにいる。彼は医療訓練を受けたと主張しているが、私たちはそれに関して未だ何の証拠も見いだせないでいる。(P271-P272)

 患者の数を減らそうと努力しているにもかかわらず、まだ七五人ほどの患者がいて、うち七三人は外科の患者だ。

 私は当分手紙を書く時聞がとれないだろうが、努力はしてみるつもりだ。あの若者は張医師と言うのだそうだが、今晩宿直なので、私はディックとクロードをパック博士の車を使って、乗船させることができた。彼の車は難民を下関に運ぶのに、計り知れない働きをした。

 南メソジスト伝道団のソーン氏が引っ越してきたところだ。一両日中にはジョージ・フィッチも来るだろう。私の料理人は残っており、私たちは十分食料の補給品を貯えている。

 いまちょうど真夜中なので、書くのをやめて必要な睡眠を数時間とるつもりだ。マージョリーの手紙が来るといいのだが、でも、希望は暗い。それに、手紙の中にエリザベスの写真が入っていることを期待している。(P272)



一九三七年十二月三日金曜日

 きのうの患者の数の見積りは事務所を調べないで推定したもので、いま調べると九九人になっている。そのうちのおよそ九五人を私が診ているので、全員を診るには一日のかなりの部分が割かれることになる。そのうえ手術が三つあり、一つは急性の虫垂炎で腹膜炎になりかけていた。トリムが清拭をして手伝ってくれた。

 それからロシア人飛行士から金属片を一つとりだした。彼は頭部挫傷しており、唇に裂傷を負って歯が欠け、足首を折っている。もう一人のロシア人は片方の足首と腕を一本骨折している。

 金属破片は兵士が身につけていた弾薬嚢の一部だった。弾丸がケースに当たって脇にそれたものの、吹き飛んだ金属の破片が彼の体に飛び込んでしまった。深くなかったので、重症ではない。意識は完全にはっきりしていて、現在のところとくに危険な状態ではない。

 ちょうど病院を出ようしていた時に、黄大佐がまさに蒋介石夫人(宋美齢) に紛れもない人を伴って正面口から入ってこられたので、二人をロシア人のところにご案内した。夫人は他の任務に加えて、空軍の最高責任者でもある。

 初めて彼女を見たのだが、なるほど彼女の最も誠実な友達が言っていたとおりの人だ。彼女が人を魅了するのも不思議でない。彼女はこのうえない優雅さと人を魅了する仕種を備えた素敵な女性だ。彼女と総統は私たちがここで行っていることに感謝しているとおっしゃって、負傷兵に果物とキャンディーを持参して、急いで立ち去っていかれた。

 今日さらに二度空襲があり、合計一〇五回になる。市のちょうど外側に相当な爆撃があり、ちょうど昼食時に爆撃機三機が直接私たちの家の真上を飛ぴ、パンパンと機銃が撃ち続けられたのはあまり気持ちのいいものではなかった。(P272-P273)



十二月五日日曜日

 空襲はきのう二回、きょう一回。きょうのはかなり激しかった。

 ほとんどの患者を回診してから、私は火傷治療について調べるため図書館に行った。飛行機の轟音が聞こえた。サイレンの鳴るのは聞こえなかったが、その音から私は日本機だと思った。それから高射砲が撃ち始まり、飛行機は中央病院近くの商業飛行場近辺に一団の爆弾を投下した。

 その直後に、負傷者がいるという電話を受けた。市の衛生局が市を離れる二日目前に私たちにくれた救急車で出かけた。一ダースもの建物がペチャンコになっており、何人もの死傷者がいた。

 数人の新聞記者がそこで私たちを困らせた。そのとききわめて賞賛すべき中国人の兵士や警官や市民がいて心を打たれた。彼らはみな救急車を見て喜んだ。私たちは四人の負傷者を乗せて戻った。

 一人は足をずたずたにされており、すぐに切断しなければならなかった。もう一人は足がメチャメチャだが、なんとか切断しないで残してみるつもりだ。それから大きな金属片を取り除いた。

 別の男性は二歳の子供を両手に抱えて座っていた。その子の母親と姉は殺され、その子自身も頭のてっぺんを切り裂かれたため、脳の中身が露出していた。まだ息をしていたので救急車に乗せたが、病院に着いた直後に死んだ。

 午後はまた別の足の切断もあり、夜勤にも就かなければならなかったし、きのうは忙しい一日だった。この足の切断は、先のものとは別の爆撃で負傷したと思われる小さな少女のもので、ひどく砕かれた大腿骨の複雑骨折だった。X線透視によって傷の奥のほうに大きな金属片を一つ見つけた。金属があることが分かったとき、腿の動脈から出血が始まって、それでなくでもすでに血液循環はひどく悪かったので、直ちに足を切断する以外に手立てはなかった。

 私が夜見回ったとき、二十歳の女性が分娩中であるのに気付いた。彼女は初産婦で、私たちの苦力の一人の奥さんだった。当病院に来てから最初のお産だった。彼女は実に見事に耐えて、すべては真夜中直後に終わった。

 二時ころ夜勤の看護婦が私を起こすなり、とても興奮して窓のところに連れて行った。窓から大きな火災を見て、初めはダニエルの家のあたりかと思ったが、よく注意して検討すると、どうもそれより少し先の位置のようだった。

 今朝調べてみると、ドイツ・オーストリア・クラブに隣接したところであった。それから私は五時半に起きて着替え、ロシア人二人が漢口へ飛び立つのを見送らなければならなかった。(P273)



十二月七日

 きょう午後担架を運ぶ人およそ一〇〇人が下関からやって来て、五〇人ほどの負傷兵を運び出してくれたので、いまや普通以上の手当を必要とする重症の兵士二一人だけを受け持っている。他に民間人の患者四〇人がいる。

 トリム、グレイス・パウアー、ハインズさんたちはみな私を助けて素晴らしい働きをしてくれている。また三日ごとに夜勤ができる小さな中国人がいるのも助かる。大きな戦争で引き裂かれた町の中のたった一人の外科医であることはまったく感動的だ。

 プラマー・ミルズは初秋に当地を訪れたことのあるマックスウェル医師からきのう手紙を受け取った。マックスウェル医師はまったく当惑していた。私たちは医師や看護婦の要望を彼のところに送っていたのだが、それに対する回答であった。

 彼の手紙によると、漢口はすでに定員以上の二四〇人の医師および看護婦がいるそうである。私たちの要望書が着いたのとまさに同じ日に、彼はルーツ司教からも手紙を受け取ったところであった。司教の手紙は南京の大学病院の医師および看護婦のための宿舎の手配を依頼する電報を受け取ったと述べているのである。

 きょう午後大使館から最後の警告を受け、明朝九時半に、出発することを望む残留アメリカ人を乗せて、アメリカ砲艦パナイ号が出発することを告げられた。一日かけて集めた情報によると、九人が南京を出る予定で、大部分が大使館員と新聞記者のようだ。

 私たちの仲間と病院の外国人スタッフの一三人が残留することになる。病人を残してどうして行くことができよう ?

  ここにいる他の人々は民間人のための難民区計画について働くことに没頭している。彼らはきょう日本軍から公式の回答を受け取ったところ、それは特別安心感を与えてくれるものではなかったが、いずれにせよ計画を進めるしかない。すでに数百人がこの難民区になだれ込んでいて、彼らに住まいを与え食べさせるということが、委員会の時間を占めている問題となっている。もちろん病院は必要不可欠な歯車の一つである。

 日本軍は市の二五マイルの地点に今や到達した。そこは句容という町で以前大きな軍用飛行場のあったところだ。私には聞こえなかったが、砲声があったそうだ。しかし、いずれ近いうちに聞こえるようになるだろう。

 家族は今やシール・ベイツ、ルイス・スマイス、プラマー・ミルズ、ヒューバート・ソーンと私だ。フィッチはまだ越して来ていない。他にスティールという若者で、「シカゴ・デイリー・ニューズ』の記者が寝食を共にしている。トリムは彼の家に留まっている。

 マッカラムが越してきたことと、ディックが■(牛へんに古)嶺に行ったことを言い忘れていた。マック ( マッカラム ) は病院の実務的な仕事を手伝ってくれており、車を動き回すのに欠かせない人物だ。(P274)



十二月八日 水曜日朝

 病院の夜勤があけて、朝食をとり、これから再び回診をするまでの短い間を手紙を書くのにあてている。患者は五〇人くらいに減ってはいるものの、毎日忙しい。患者の大部分が十分な手当を必要としている。

 月曜日に空襲が五回、火曜日に一回で、合わせて一一四回になる。ソーンはもっと詳しい回数を数えている。というのも、彼は小さな日記帳に警報の開始と終了の時間を記しており、それは一二〇回を越えている。しかし、私は当分はとにかく自分の数字にこだわりたい。空襲というものはどちらかといえば続けて行われるので、サイレンは今では頻繁には鳴らないものだ。

 きのうの午後は格別悲劇的だった。たいへんきれいな二〇歳の女性が、どこかから一週間まえ病院に電話をかけてきたところ、病院は閉鎖したと聞かされた。彼女は初めての子供を出産するために、田舎から南京に戻って来たのだった。

 二日間の難産の後に、彼女は助産婦のところに運ばれたところ、助産婦はひどく彼女を傷めてしまった。ひどい妊娠中毒をおこして、脈拍は一四〇、体温は一〇一度に達した。赤ん坊はすでに二日ほど前に体内で死亡しており、逆子で産まれた。鉗子を使って赤ん坊を取り出すのがやっとだった。彼女は今朝まだ生きているが、回復の見込みはほとんどない。

( 一段落分原文不鮮明のため省略 )(P275)



十二月九日木曜日

 私たちのあるがままの様子を伝えるラジオ報道を君が聞いているとしたら、私たちがここで元気でいることに、びっくりするのは間違いない。私たちは自身のことについてはあまり気を使っていない。ちょうど市の外から聞こえる大砲の音を聞きながらこの手紙を書いている。

 きょうは市の内部と外部の双方から同時に八発の発射音を数えた。日本軍の先頭は数ヵ所で城壁に到達している。大使館員は私たちを乗船させようと最後まで努力して、ついに全員が引き揚げていった。

 空襲の公式記録はこれまでとしなければならない。というのは、きょうのは朝から夜まで続く長いのがあったからだ。サイレンは午前中に一回あり、それからは鳴りたてることはなかった。日本軍機が市の内外を爆撃するのを一日中眺めることができた。

 私たちは大勢の死傷者を迎えて、病院は再び満杯になった。私たちは非常によい看護スタッフをもっているが、医師は依然として三人、つまりトリム、私と江陰からきた小さな仲間だけだ。

 きょうトリムが主治医で私が麻酔を施しているとき、きわめて難しい症例があった。腕と臍の緒が子宮から脱出し、赤ん坊は死後一日ほど経過していた。私たちは赤ん坊が死んでいることがどうしても分からなかったので、足からの胎児転位をして取り出した。その女性はたいへんいい状態のようだ。(P275)

 きのうの患者はまだ生きているが、そう長くはないだろう。

 きょう数えてみると、私は病院で足の挫傷を九例診ている。感染症のひどい切断が四例、全部が患者の命を救うための全切断だ、虫垂炎の破裂によるもの三例、腕の挫傷二例 ( いや四例 ) 、その他たくさんの外科の患者がいる。ほとんどが重傷患者だ。

 そういう責任を果たすために、私たちは日本軍の砲撃や中国軍の略奪、あるいは我々の身にふりかかろうとしているどんなことがあろうとも、いちかばちかやってみるほかはないようだ。榴弾片や弾丸の小さなコレクションが毎日増えており、戦争が終わらないうちにかなりな博物館が開けそうだ。

 国際委員会は、その五人のメンバーがこの家に留まっていて、素晴らしい事業をしているのだが、しかし、成果の程ははかばかしくない。日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。安全区の中の私たちの周囲にある、利用できるすべての建物に、約数十万人の人々が群がり住んでいる。彼らに何が起こるかは、ただ推量するほかはない。

 委員会は大量の米を集め、大学の礼拝堂に貯蔵している。安全区はすべて国旗や旗で区画され、これまでのところ、日本軍に攻撃されることはなかった。日本軍は安全区を認めないにせよ、尊重はするだろうと、私たちはいまだに希望を持っている。彼らがもしそうするなら、それは数千の貧民の命を救うことを意味する。

 病院はそのために本来の仕事を切り詰めている。トリムは安全区の衛生委員会を指導している。これまでのところ、私たちは電気と市の水道を維持しているが、まもなく切れるだろう。

 『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティ ールは、きょうイエイツ・マクダニエルと光華門に行くときに、砲火の洗礼を受けた。彼らがそこに着いたとき、日本の機関銃の弾が彼らの頭越しにピュンピュン飛ぴ、城壁に当たった。中国兵は城壁から応射していた。

 それから数機の飛行機がほとんど頭上で降下を始め、たくさんの爆弾が彼らから二〇〇ヤード以内に投下された。数多くの中国人兵士が殺された。ラジオニュースが示唆するところ、市の陥落は一両日中であろうと言っているが、それはありうることだと思う。

 多くの略奪は起こっていない。ただし、中国人略奪者によってピストルで撃たれた七二歳の老女を、今朝病院に迎えた。一発目は左手の掌骨を貫通し、二発目は大腿骨をメチャクチャにしている。私のコレクションは二発目の弾丸を加えた。

 空は一日中煙がたれこめ、そして町は南京というよりピッツパーグのようだ。

 恐ろしい爆発が夕食時に起こった。たまたまその場所を見ていたら、爆発が起きたのだ。漢西門のあたりに大火が起こり、突然それは火事の中心から巨大な炎で照らし出された。数秒後に絶頂に達した。そこに弾薬の大きな集積所があったに違いない。このとき私は自転車に乗って病院から家に向かっているところだった。(P276-P277)



十二月十四日

 きょうはジュリアの誕生日なので、私は彼女の幾久しくあることを祈りながらこの日記を始めよう。私はいま会計係の事務用タイプライターをボンボン打ちながら、忙しい一日の午後九時に病院のX線室にいる。私は夜勤ではないが、アメリカ人が病院で眠れれば幸せこのうえないという昨今だ。

 南京戦は終わり、去った。指揮の崩壊をみるのは痛ましいことであった。中国軍の指揮は突如くじけ、その完全な結果が続いた。私が思い出せる最後のメモは、去る金曜日に書いたと思うのだが、はっきりとは言えない。空襲に遭って傷つけられた患者をたいへん忙しく治療していた。

 土曜日には大砲が町にだんだん近づき始めた。私たちは霊谷(寺)の近辺に観測気球二つを見ることができた。私たちは負傷兵に関してあらゆるトラブルを抱えた。私たちはいわゆる安全区にいるので、彼らを受け入れることはできなかったが、しかし、彼らを数多く治療して、きわめてお粗末な施設にすぎない軍の病院に彼らを行かせようと努めた。

 日曜日に日本軍は城壁を数ヵ所強く攻撃し、そして光華門近くで城壁を破ったが、撃退された。それから、日曜日の夜、たそがれ時に突如始まったのだが、戦意を失い、中国兵が北の下関方面に向かって数千人単位で逃げて行った。軍規はまったくなく、兵士たちは銃や装備を投げ捨てて、それらは道路いっぱいに広がっていた。

 兵士たちは下関における状況は恐ろしいものだと言った。というのは、河を渡るボートは一隻もなかったからである。おおざっぱに結び合わせた筏が転覆し、小さなボートは人員過剰となって沈んだため、数千人が溺れた。

 兵士たちには十分な時間がなかったため、その脱出路における略奪は、記すほどではなかった。日本軍の大砲が夜通し町を砲撃した。多くの火災が起こり、私たちの窓は実際一晩中ガタガタいっていた。よく眠れなかったのは言うまでもない。

 大砲が轟く中で、病院、とくに手術室で働くのは、どちらかと言えば不愉快な仕事だ。日本軍はとくに大砲の射撃に際して、安全区を尊重しているように見えたし、私たちの誰ひとりも危うく砲弾に当たるようなことも実際なかった。

 中国軍は病院のすぐ前の中山路に二日かかってバリケードを築き、日曜日の夜まで私たちは、病院がそのバリケードの一角を形づくっていることを非常に憂慮した。その道にはしかし、まさに一人の守備兵もなしに築いたように、日曜日の夜には見事に築かれた砂袋の障壁だけが残っていた。

 十三日、月曜日の朝、トラブルが上海で発生してからちょうど四ヵ月目に、日本軍が同時に何ヵ所かの門から町に入城した。ある者は北の和平門から、ある者は西の漢西門や光華門から、また南東からそれぞれ入城した。夜までには日本軍は市を完全に統制下におき、数多くの日本軍旗が、彼らの以前の大使館を含む様々な場所に翻った。(P277-P278)

 南京に残留している一五万から二〇万人は、以前に難民区と私が書いた安全区に群がった。国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。

 最後の瞬間に、たくさんの中国兵が、軍服を投げ捨てて、民間人の衣服を奪い取り、安全区に流入した。彼らを取り扱うことは、それ自体大変な仕事であった。さらに重大となったことは、日本人は騙されず、彼らを数百人ごと駆り立てて、撃ち殺し、彼らの死体を手軽に間に合わせた防空壕に押し込んだからだ。

 日中は、恐れを顔に出さないで、おとなしく自分の仕事に専念していれば、どの市民も比較的安全のようだ。夜間に安全な者はいない

 昨晩のことだ。金陵大学の設計者で、できるだけ建物を守ろうとして居残っていたジョウ氏(音訳)があやうく撃たれそうになった。チャールズ・リッグズが彼は自分の苦力だと強く言い張ったので生命が助かった。

 それから二人は大学の中国人スタッフの顧氏を伴って私たちの家にやってきて、居間にしつらえた簡易ベッドで一夜を明かした。『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティールもそこに休んでいたので、一階には合計一一人が寝泊まりしたことになった。

 地下で休んでいる大勢の中国人については、まったく数えきれない。使用人たちはまったく脅えきっている。この段落を初めの文章に少しでも近づけて締めくくるとすれば、市民は恐れを顔に出したり、逃げる素振りを見せたなら、たちどころに銃剣で刺し殺される。きょう午後、ひどい切り傷の縫合をしたし、銃剣による患者を何十件となく扱ってきている。

 けさ、三〇人ほどの銃剣を携えた日本兵に、非公式とはいえ、隅から隅までくまなく捜索を受けた。マッカラム、トリマーと私が彼らを案内したところ、兵隊は日本語でしゃべり、私たちは中国語と英語をしゃべるので、どちらも相手の言っていることがさっぱり分からなかった。

 彼らは看護婦たちを幾人か並ばせて、万年筆、懐中電灯、腕時計などをとりあげた。彼らは看護婦寮から、ありとあらゆる細かいものを略奪するという結構うまい仕事をした。今のところ私たちのスタッフについては、まだ身体的暴力は受けていない。

 きのうの午後、日本軍が完全に市を支配下に置く前であったが、重砲攻撃が収まったようなので、目の手術を一件したほうがよいと判断した。この男性は数日前におきた爆撃で重傷を負い、片方の目を救うために、もう一方の眼球を摘出する必要があった。(P278-P279)

 半分ほど摘出した時に五〇ヤードくらいしか離れていないところで激しい爆発が起こった。ちょうど隣りの伝道教会の角で砲弾が炸裂したのだ。私はたまたま窓のほうを向いていて顔を上げると、爆発で立ち昇っている煙が見えた。金属破片四個が手術室の窓を突き破った。そのうちの二個が着実に増えてきている私のコレクションに加えられた。

 手術室の看護婦たちは当然のこと、青ざめた表情で手術を続行するのかどうかを窺っていた。もちろん続ける以外に方法はなかったのだが、あれほど早く摘出された眼球はなかったと思う。

 教会の角はかなりひどくやられていた。同じ所から発射された別の砲弾一発が大学の新しい寮に飛びこみ爆発した。幸い二つの爆弾による死傷者はいなかった。

 もう一人若い中国人の、やはり江陰病院の医師が仲間に加わった。彼のほうが以前来たのより多少医療知識が多いようなので、手術室で一、二度私の助手を務めてもらっている。ここにいる三人の江陰の看護婦は素晴らしい仕事をしている。

 私はきょうやむをえない切断手術を含めて一一の手術を行った。現在は一〇〇人を大幅に越える患者がいるので、きょうは全員を診て回ることができなかった。一棟分を残さざるをえなかった。

 電気は当然切れていて、水道も同様、現在は電話も通じないので、普通なら必需品とみなされる現代文明の利器がほとんど使えない。まもなく郵便が再ぴ利用できるようになるといいがと思っている。みんなに近況を知らせたいし、みんなからの手紙を受け取るのは、なにより素晴らしいことは言うまでもない。(P279)

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』所収)



金陵大学病院からの手紙
        (12月15日〜12月26日)

ロバート・O・ウィルソン医師

 一九三七年十二月十五日

 親愛なる家族へ

 前回分がぶっきらぼうな終わり方をしたことを許して欲しい。昼に家に帰ると、スミスとスティールが日本の駆逐艦で上海に向かうところであった。私は急いで二階にかけ上がり、宛名を書いて手紙を封筒に詰め込むと、車は発車するところだった。三五ページ目は元が見つからないからカーボン・コピーになっている。私のサインをする時間さえなかった。

 そちらの新聞の見出しがどのように書かれているか興味深い。きょうアメリカ船パナイ号が日本軍の爆撃によって沈没した事実を知らされた。これには私たち全員が乗船するはずであった。こちらよりそちらのほうが情報が詳しいに違いない。

 こちらで分かっているのは、イタリア人新聞記者とスタンダード石油会社所有の汽船のアメリカ人船長が死亡し、ホール・パクストンを含む数多くのけが人が出たもようだということだ。一行はアメリカ船オアフ号で上海に直行するので、こちらでは誰にも会っていない。(P279)

 病院は日ごとに忙しくなってきている。患者の数に関していえば、通常の人数に達している。きょうは三〇人の入院があり、退院は一人もいない。私たちが患者を退院させられないのは、彼らは行く所がないからだ。

 一五〇人のうち一〇人ほどが内科と産科の患者で、残りは外科だ。中国人の医者は二人とも、しっかり監督していないと患者の世話ができないので、私が奮闘することになる。

 きのう一一件の手術をしたと書いた。きょうは病棟の患者の回診のほかに、一〇件の手術をした。今朝は早く起きて、朝食をとりに家に帰る前に一つの病棟の回診を済ませた。朝食を食べてから午前中は他の病棟を回診して、昼食後に手術を開始した。

 最初の患者は警察官で、腕に爆撃を受けて骨はメチャメチャで筋肉の四分の三が切断されていた。彼はおよそ七時間も止血帯を使用し続けていたが、さらに出血を止めようとするなら、手のほうに流れる血液を完全に止めてしまうことになる。切断する以外に方法はなかった。

 二番目の患者は気の毒だった。彼は、大きな金属片が頬に入り、下顎の一部が潰れていた。金属片は取り除かれ、同様に潰れた下顎に埋め込まれていた歯も取り除かれた。

 それからトリムに助手をしてもらい数名の患者が続いてX線透視を使う手術となった。一人は耳下腺に榴散弾の破片が刺さり、顔の神経を切断していた。もう一人は横腹に弾丸が入っていた。弾丸は上腹部から入り、胃を貫通していた。彼は大量の吐血をしたら気分が少しよくなった。彼の状態は上々で、開腹手術の必要はまったくないと思う。弾丸は横腹から難なくとれた。別のもう一人の患者は四日前に片足を吹き飛ばされた。彼は中毒症状がひどく、足の下部で切断した。

 また別の患者は日本兵に銃剣で刺されたあの床屋だ。銃剣は靭帯を切り抜け、脊髄管に達する首の後ろの筋肉をすべて切断した。彼はショック状態にあり、おそらく死亡するだろう。彼は床屋にいた八人のうち唯一の生存者で、残りは全員殺害されている。

 一般市民の殺害は、ゾッとするほどだ。強姦や想像を絶する蛮行について書こうとすればきりがない。

 銃剣で負傷した二人は、七人いた道路清掃人のうちの生存者だ。彼らは詰所に座っていると日本兵が入ってきて、いきなり五、六人(原文どおり-訳者)を殺し、二人を負傷させた。この二人はどうにかこうにか病院に辿り着くことができた。戦争が終わって、また元の生活にもどれるのはいつのことだろう。(P280)



一九三七年十二月十八日土曜日

 おとといの夜も、ここでこの手紙を書いていた。前の分と一緒にしようとしたが、見つからない。日本軍の手に入っていないといいのだが、きょうは、流血と強姦が山ほどに書き込められた。近代版ダンテの地獄の六日目になる。

 無差別の人殺し、数千件にのぼる強姦。畜生たちの残忍さ、肉欲、先祖の血というものは止まるところを知らないようだ。初めのうちはむやみに日本兵を怒らせまいと、愛想よく振舞ったが、笑顔は次第になくなり、私の視線は彼らとまったく同じように冷たく、疑い深くなってきた。(P281-P282)

 きょうは宿直の番なので、食後に病院へ戻ると、三人の兵隊が物色したあとだった。ハインズさんが裏門に同行したのだが、二人はついてきたものの、一人の姿が見えなくなってしまった。きっとどこかに潜んでいるに違いない。

 外に立っていた兵隊たちに、「私は、ここはベイコクピョーエン(米国病院―訳者)だ」とはっきり分かる言葉を使って身ぶりで示してやった。どうだい? この二人は自分から出て行ったよ。彼らはハインズさんの時計や他の人の時計、万年筆などをすでにとりあげていた。

 この二日間におきた出来事をふり返ってみよう。きのうの夜、大学の中国人職員の家に侵入があり、親戚筋の女性二人が強姦された。難民キャンプの一つで、年の頃一六ぐらいの少女二人が、強姦されて死んだ。八千人が避難していた金陵大学附属中学校に、昨晩は日本兵が一〇回も塀を乗り越えて押し入って、食料や衣類を盗み、気のすむまで強姦を犯していった。

 彼らは小さな男の子を銃剣で刺して殺した。私は今朝一時間半かかって別の八歳の少年の縫合をしたが、彼は銃剣により五ヵ所も負傷し、うち一ヵ所は胃まで達して、腸の網膜が一部外に飛び出していた。彼は助かると思う。


 姿をくらましていた兵隊が見つかったので、ちょっと時間がとられた。彼は四階の看護婦寮にいた。そこには一五人の看護婦がいて、息の根も止まらんばかりに怖がっていた。私が行くまでにどのくらい獲物を獲得したか分からないが、それから後はなにもしなかった。

 彼は時計を二個持っていて、女の子のカメラを取り上げているところだった。私が返すように言うと、驚いたことに、素直に返した。それから彼を正面玄関に案内して丁寧に送り出してやった。残念なことに、彼には私の意図した皮肉が通じなかった。先に書いた二人の兵隊は、恐ろしげなピストルを弄んでいたが、この兵隊はこれを使わなかったので、ホッとしている。

 きょう治療した男性は、弾丸のあとが三ヵ所あった。彼は八〇人のグループのたった一人の生き残りだ。この中には一一歳の少年がいて、いわゆる安全区と呼ばれている地域の二つの建物から連れ出され、西蔵路の西にある丘で虐殺された。この生存者は、兵隊が立ち去ってから意識が戻って、他の七九人が彼の周りで死んでいるのを目撃した。三ヵ所の弾丸のけがは深刻なものではない。日本兵に公平にするために言うならば、八〇人のうちにはわずかな数の元兵士がいた

 生まれた時おそらく何らかの傷害を受けたのだろう、精薄の少女がいる。彼女のたった一つの布団を取り上げようとした日本兵に、爪を立ててしまうほど無知な子だ。そのために銃剣の見舞いをうけ、首の片側の筋肉半分が切断された。(P281-P282)

 もう一人の一七歳の少女は、首にひどい深傷を負っており、家族が皆殺しにされ、一人生き残った。彼女は中華工業国外貿易協会に勤めていた。

 現在私が担当している一五〇人の患者を回診してから、夕食をとりに病院を出ると、紫金山の上に満月が昇っていて、何とも言えない美しきだった。けれど月が照らしているのは、太平天国以来、最も荒廃した南京だった。町の九割の地域から中国人の姿がなくなり、かわって、略奪を働く日本兵が隊を組んでうろつき回っている。残りの一割の地域に、恐怖におののいた二〇万人に達する中国人がひしめき合っている。

 昨晩、ミルズ、スマイス、フィッチは、フィッチの車でミルズを金陵女子文理学院へ送って行った。ミニ・ヴォートリンが数千人の女性と共にそこに要塞を築いている。

 正門に着くと、けんか好きで生意気な中尉の指揮下にある日本の警備兵に止められた。彼は男性を片方に並ばせ、ヴォートリンさん、陳さん、トワイネンさんをもう片方に並ばせた。男性の帽子をひったくり、女性も含めて全員に学校から立ち去るよう命じた。フィッチが他に行くところがないと言ってみたが、彼は耳をかさなかった。

 全員が車に乗り込むと、日本兵はまた全員に車から降りるよう命令して、またしばらく熱弁をふるい、しまいに男性だけ帰るよう追い出した。あとで分かったのだが、この間に日本兵が数人塀を乗り越えて侵入し、勝手に一六人の女性を我がものにしていたそうだ。

 人々はそう遠からず飢えに直面することになるだろうし、冬の燃料についても予備はまったくない。これから迎える冬は楽しいものではない。新聞記者があの日に南京を去ってしまったのは残念だ。あと二日ほど遅らしていたなら、「恐怖時代」の報道がさらに詳しくできたはずだ。

 二人の日本兵を構外に連れ出すために、また中断してしまった。

 今晩はあまり睡眠がとれそうにないから、服を着たまま、眠れる時に寝床に入ったほうがよさそうだ。(P282)



十二月十九日 日曜日だと思う

 昨晩の分を書いてから、無事に夜が明けた。けさ家に帰ると、一〇数件もの略奪や強姦の話を聞くことになった。

 昨晩の病院訪問についての報告書を書いてから、ベイツ、スマイス、フィッチと共に日本大使館(いまだにこう呼んでいる)へ行って、以前もこの南京大使館にいたことのある大使館書記官の田中氏と話した。

 彼は報告書に目を通して、その他数々の話にも耳を傾けた。彼個人は同情しているものの、軍部に対してはまったく抑制力はなく、私たちと同様に陳情することしかできないでいる。とても小さな希望の光のようだが、あまりに弱々しく、これまでのうちで最悪の日だった。(P282-P283)

 市内のアメリカ人の家は、ほとんどことごとく侵入されている。家に戻る途中ダニエルのところに寄ってみた。行ってみると、日本兵が三人、家の中にいた。前にも書いたように、私の笑顔は消えて、はっきり分かるように出て行くように命じた。

 彼らは屋根裏にある私たちの錠が下りている部屋にも押し入っていて、大きなトランクに入っていたものが全部床の上にばらまかれていた。一人の兵隊が私の顕微鏡の鍵をこじあけて、のぞきこもうとしていた。

 いささか驚かされたのは、全員が意外にも階段をかけ降りて入口から出て行ったことだ。私がいなくなれば、また日本兵は戻ってくるのだろうが、かといって、一日中そこにいるわけにもいかない。

 侮辱の仕上げは二階のトイレだった。誰かが便器のまわりに、名刺がわりに大きいほうを残していった。そして、部屋に吊るし忘れであったきれいなタオルが上にかぶせであった。二階はすっかりやられている。マージョリーができるだけの荷物を持ち出してくれて、必要な衣類はほとんどこちらにあるので、どんなに感謝しているか知れない。

 夕飯に家に戻ると、ブラディのコックと徐さんが来て、二人は現在、去年の夏私たちがいたところに住んでいる、彼らのところにいる女性が全員強姦されているので誰かに行って止めてもらいたい、と言うのだ。ベイツとスマイスそれにフィッチが行って、地下室で事の最中であった兵隊三人を捕まえて追い払った。これもまた、三人がいなくなればすぐに戻ってくるのだろう。

 日本兵はいたるところにはびこっていて、町の中では、私たちの住居を除いたら、病院だけが強姦されない唯一の建物ではないかと強く信じているのだが、四階で兵隊一人が見つかるまでに、強姦されたものが一人もいなかったといえる確信はない。

 後に記録を見ると、この兵隊は服を脱いで三人の看護婦とベットに入ったそうだが、看護婦が悲鳴をあげるたびに、あわてて服を着て、誰かやって来ないかどうかを見に外に出て行ったそうだ。私が行った時は三人目だったので、たぶん間に合ったと思う。

 きょう、もう一つ驚かされたことに、大火が発生したらしい。きのう火災がたくさん発生したが、きょうのは太平路に近く、広範囲の火災で、夕食時には真っ赤に燃え上がり、ここから二〇〇ヤード離れている家が延焼した。病院からみると、私たちの家が燃えているように見えたので、回診を終えて家に戻り、被害を受けていないと分かるまでは落ち着かなかった。

 今朝は大使館に行ったため、遅れて回診を始めたので二棟を回ったところだ。午後は、最近では三度目の眼球摘出手術と小さな手術五件を行い、破片二つが私の博物館に加えられた。切断手術のない日が続く。(P283-P284)

 最近アメリカ国旗が少なくとも四旗引き裂かれた。きょうヒルクレスト学校で国旗が降ろされて、地下室で女性が一人強姦されてから銃剣で刺された。

 今晩ミルズが日本大使館から領事館警察官を現場に連れて行くと、床に血の水たまりができていた。この女性は生きているのが分かったので、病院に運び込まれた。トリムが当直になっているので診ることになるだろう。私はあす朝診よう。

 貧しい人たちから食物がすべて盗まれている。人々は恐怖におののいて、ヒステリックなパニック状態にある。いつ終わりになるのだろう!(P284)



十二月二十一日


 きょうは一年中で一番昼が短い日だが、この世の地獄は依然として二四時間であることには変わりない。

 きのう聞いたところによると、日本の同盟通信は、南京の市民が家に帰り、仕事は通常に戻り、人々は日本人の訪問客を歓迎している、あるいはそのような意味合いのことを報道したそうだ。もしこれが南京からの報道のすべてだとすると、本当のニュースが伝えられた時には、大きな動揺がおこるはずだ。

 これまでに市の半分以上が焼け落ちた。商業地区はいずれも大火にあっている。私たちのグループは日本兵が火をつけるところを何件か実際に目撃している。きのう食事で家に戻る途中、一二件の火災が数えられた。今晩同じ時間に八件を数えた。そのうちの何件かは一区画全体の火災だ。付近の商店は大方が火災でやられている。

 人々は難民キャンプにひしめき合って入ってくる。住宅が安全区内にある者でさえ、安全性がわずかながら高いということで入ってくる。しかしながら、そのような保証はどこにもないのだけれど。

 もし国際委員会が前もって米を集めなかったり、市民を保護するために行動をおこさなかったなら、今ごろは第一級の飢餓がおきていただろうし、虐殺はこれまでより著しく大規模なものとなっていただろう。

 さらに何件か虐殺の報告が入ってきている。一人の男性がきょうジョン・マギーのところにやってきて話すのには、安全区内の安全と思われていたところから、千人の男性が連れ出される事件がおきたそうだ。一団の中には、武器を放棄して、市民の服に着がえていた元兵士百人が含まれていた。

 千人は長江の土手まで行進させられると、二列に並ばされ、機関銃で撃たれたという。その男性は後列にいて、皆と一緒に倒れ、二、三時間死んだふりをしていたところ、日本兵が立ち去ったので、こっそり町に逃げてきた。

 私たちは付近でこれと似たようなたくさんの人間狩りを目撃してきたが、誰ひとり戻ってきた様子がないところを見ると、彼らの身の上に同様なことが起きているものと思われる。(P284-P285)

 きのう午前中、一七歳の少女が赤ちゃんと一緒に病院にやって来た。前の晩の七時三〇分に日本兵二人に強姦されて、九時に陣痛が始まり、彼女にとって初めての子供が一二時に生まれた。夜だったので当然病院に出掛けることは差し控えたが、朝になって子供を連れてやって来た。赤ちゃんは奇跡的に無事で健康のようだ。

 きょう午後、一三歳の可愛らしい少女にギプスをつけてあげた。日本軍が十三日に町にやって来たとき、彼女は両親と一緒に壕の入口に出て、日本軍が近づいてくるのを見ていた。日本兵が一人飛び出してきて、父親を銃剣で刺し、母親を拳銃で撃つと、少女の肘に複雑骨折をさせる深傷を負わせた。

 少女には親戚の者がいないので一週間も病院に連れてこられず、放っておかれた。ここを出なければならない時にはどうしたらいいのか、今から心配している。両親とも殺されてしまっている。

 一昨日ヒルクレスト学校で、妊娠六ヵ月半の一九歳の少女が、ばかなことに二人の日本兵の強姦に抵抗した。顔に一八ヵ所、足に数ヵ所裂傷を負い、腹部に深傷を受けた。今朝病院で胎児の心音を聞くことができなかったので、おそらく堕胎することになるだろう。(翌朝:彼女はきのう真夜中に堕胎した。専門的に言うなら流産である。)

 きのうの昼食時に、二、三軒先に住んでいる中国人の職工が数人やってきて、彼らのところにいる若い女性が危険なのでなんとかならないかと聞かれた。大学は最近夜間憲兵が警護してくれるようになったので、そこに連れて行ったらいいと勧め、私たちが二人を車で連れて行ってあげようと伝えた。

 昼食後ジョージ・フィッチと私が二人を迎えに出掛けようとしたところ、日本兵がもう来ていると職工たちがあわてて言って来た。私たちはルイス・スマイスとマッカラムを伴って現場にかけつけた。

 到着すると、おびえた中国人のグループが戸の閉められた門番小屋を指し示した。私たちは大声をあげて戸を押し開けた。そこには三人の日本兵が完全武装はしていたものの、そのとき着衣は一部しかつけておらず、二人の女性の服装も乱れていたが、幸いなことにまだ手がつけられていなかった。

 一人の兵隊はものすごい剣幕で怒って脅しをかけてきたが、まともにかかってこなかったので、私たちは女性たちを大学に連れて行った。職工たちは恐ろしがってもうそこにはいられず、ゆうべは私たちの車庫で一夜を過ごした。

 きのうその兵隊たちがまた漢口路五号の家でくつろいでいた。門には彼らの軍隊の掲示が貼られていて、日本兵立ち入り禁止と日本語で書いてあるにもかかわらず、三時間も居すわった。その家にいた人たちが女性はいないと言い張ると(地下室に数名いたが)外に出て行って初めに出会った女性を連れ込んで二階で三時間を過ごした。兵隊は三人だった。(P285-P286)

 彼らが出て来たとき、女の子はイモジン・ウォードのいちばん良い冬のコートを着ており、他の金目のものはほとんど兵隊たちが持って行ってしまった。私たちが持ち出さずにいたものは大した量ではなかったが、それもすっかりなくなっていた。私の顕微鏡はきのうなくなった。

 きょう昼、私はコックと一緒に家へ行ってみた。彼の所持品はきのうほとんど盗まれてしまった。私のコルネットや銀食器の残り物二、三といったがらくたを拾いあげた。病院にある銀食器は無事だ。ゲイ氏(音訳)からいただいた小さなカップは半分なくなっただけだ。九月に持ち出した、品物の一杯詰まった行李にどんなにか感謝している。

 アメリカ人たちは、アメリカの外交代表の即時帰任を求める電報をきのう作成した。日本軍部は以前、伝言は伝えると言ったにもかかわらず、この送信を拒否したので、きょうアメリカ住民全員とドイツ人数人で日本大使館に行き抗議した。私は忙しかったので行かれなかった。

 病院のベッドは空きがない。私が知っている限りでは、二〇人の看護職員のうち、かつて看護婦訓練を受けた者は四人くらいしかいない。私が担当している棟の一つに男性の看護人が三人いるが、彼ら自身がそうだと名のっているだけである。現在ではこの仕事がおそらく最も安全な仕事だからだろう。

 この棟に重傷の患者がいて、胸部の外側に達する傷を負っている。カルテには、体温三七・二度、脈拍八〇、呼吸数二四と無邪気に書いであった。すべておかしいので計り直してみると、脈拍一二〇、体温三九・二度、呼吸数四八だった。この程度の食い違いは、この階の看護では日常茶飯事だ。

 きょうの昼、思いもしなかった至近距離で、撃たれそうになった。家に帰る途中、大学の女子寮の前にいた警官に呼びとめられて、中に日本兵が一人いるので見て欲しいと頼まれた。もう今では慣れっこになっているので、だしぬけに入って行って出て行くように命じた。

 そいつは女子寮の学生の自転車に空気を入れさせて乗って行こうとしていたが、それも止めて出て行くように促し続けた。彼は人力車と自転車のポンプを一緒に持って行こうとしたので、乱暴に抗議した。しかし、彼は人力車と一緒に哀れな車夫を連れてきたので、私の行動はやりすぎであった。

 私たちはもはや友人同士ではなく、彼は落ち着いて銃に弾丸をこめ、少しもてあそび出した。中国人が人力車とポンプを持ってきたと告げたので、私がそれを持って立ち去れと言うと、そのとおりにした。

 彼が外に出てから、私が出ていくと、彼はさらに弾丸をこめた。私は彼のそばを通り抜けで家に向かいながら、完全に背後から撃たれるものと覚悟していた。やつはきっと撃つ勇気をなくしたに違いない。(P286-P287)



クリスマスイブ

 きょうがクリスマスイブだなんてもってのほかだ。家族が地球のあちこちに散らばった状態で、数週間前は偉大な都市だった所の真ん中で、日本兵が病院で略奪をはたらかないように小さなレントゲン室に座っているのはちょっとこたえる。

 私の赤ん坊はあと四日で生後六ヵ月になるが、その間、たった七週間しか見ていない。

 放火はほとんど収まったようだ。きょうはたったの六件ほどの放火しかなく、メインストリートの両側のすべての店を焼き払う任務を果たしたようだ。

 略奪はまだ続く。彼らはダニエル家の敷物をきょう運んで行った。そのうちの一つは四人がかりだった。家にいるかわいそうな人たちはもちろんどうすることもできない。ただ後で報告するのみである。

 J ・ロッシング・バックは今のところどんなに運がいいか分からない。彼の家は八人のアメリカ人が住んでいるという有利な事情があるため、今のところ略奪の手から逃れてきている。隣のトンプソンの家も手付かずのままだ。残りの家はもぬけの殻だ。

 今朝、トリムと私はゲール家へ出向いて、いくらか食べられる物を避難させた。砂糖づけの瓶と果物の缶詰がいくつかあり、大歓迎だ。私たちの食料貯蔵室は底をついてきていて、補充の見通しはない。ビショップ家も覗いて見た。どちらの家もかなり隅から隅まで略奪されていた。

 私はこの機会を利用して、フリーメースンの寺に寄ってみた。そこで私の中国礼服と他に六着救うことができた。ここにも侵入があり、ドアや窓はほとんど壊され、いくつかは取りはずされていた。

 今夜はトリムと町にいる五人のドイツ人のうちの三人をクリスマスイブの夕食に招待した。国際委員会のラーベ氏は、彼の家と庭のあらゆるところにひしめきあっている六〇〇人もの難民たちを置いてくれるとは思っていなかった。彼が家を離れると必ず略奪があるのだった。

 彼はナチのサークルにどっぷりつかっているのだが、この数週間、彼と密接に連絡を取り合い、彼がどんな素晴らしい人かを知り、とてつもなく広い心を持っていることを知るにつけ、彼の個性とヒトラーに対する熱狂的な支持とを一致させるのが難しい。彼は押し寄せてくる何千人もの貧しい人たちのために休む暇なく働いてきた。

 他の二人のドイツ人はクレーガーとスペルリングで、委員会の仕事と貧しい人々を救おうとする試みに心から力を貸そうとする人たちである。いったい何人が無惨に殺されたか知る人はいない。

 きょう入院した男性は担架兵だったと言い、長江の土手に行進させられ、機関銃で撃たれた四千人のひとりだということだ。彼は肩に弾丸の貫通した傷があり、ささやき声以上の声は決して出そうとせず、盗み聞きされないようにあたりを注意深く見渡してから、ようやく話し始めるのだ。火傷を負った不運な二人のうち、一人が今朝亡くなったが、もう一人はもちこたえている。(P287-P288)

 ベイツは火事の現場と言われたところにきょう午後出かけ、あわれな悪魔たちの焼け焦げた遺体を発見した。そして今、二万人もの中国人兵士がまだ安全地帯の中にいるということだ。(どこからこの数字が出てくるのか誰も分からない)が、その兵士をすべて探して撃ち殺してしまうと言っているそうだ。

 これは市内にいる一八歳から五〇歳までの五体満足な男たちをすべて意味することになる。世間にどうやって再び顔が向けられるのだろうか。

 シンパーグはきょう市内に戻ってきて、さらにいくつかのむごい話を持ち帰ってきた。彼の言うには、中国軍があちこち戦車を止めるために掘った大きな溝は、死んだ兵隊や負傷した兵隊で埋められていたそうだ。戦車を通すのにまだ足りない場合には、その辺にいる人を無差別に撃って溝を埋めたとのことだ。カメラを借りて現場に戻り、証拠になるよう写真を何枚か撮ったそうだ。

 おやすみ、そしてメリー・クリスマス !(P288)



十二月二十六日 日曜日

 クリスマスに手紙を書いて以来、私はおもに産科専門だ。手紙を書き終えてから、ベットに入ったが、一一時と三時半に起こされて、小さな中国人誕生の儀式に立ち会った。まるで医学校時代の産科実習に戻ったようだつたが、ほんの少し違うのは、なにが起こっても私が医学の最高権威者であるということだ。

 きのうの私は夕食前に、すべての病棟の回診をどうにか済ませ、八人の当面の家族と、四人の客人とクリスマスディナーをするため家に帰った。今回招いたのはグレイス・パウアー 、ミニ・ヴォートリン、そして二人の中国人の少女、プランシュとパール・呉(親戚ではない)である。

 ハインズさんは私たちの懇願にもかかわらず断わられた。プランシュ・呉嬢は金陵大学から二羽のがちょうを調達し、プレゼントに新鮮な卵を一ダース持参してくれたので、数週間ぶりに卵にありつくことができた。

 その日、できる限りの手術を延期し、午後を休みにして睡眠と読書を少し取り戻すことにした。読んでいた本はネグリー・ファ ーソンというかなり冒険好きの輩によって書かれた魅力ある本で、「逸脱者の生き方」という題の自叙伝だ。 .

 今朝、トリムが三八・八度の熱で苦しんでいて、かなり惨めな状態でいるのに気がついた。私たちは彼をグレイス・パウアーの家のベッドに寝かせた。ここなら病院より少しはましな食事が得られるという判断からだが、夜になって少しよくなったようだ。しかしおそらくもう二、三日は業務から外さざるをえないだろう。(P288-P289)

 今朝の回診は二つの誕生パーティーによって中断された。一つは一〇時三〇分で、もう一つは一一時三〇分だ。その朝ハインズ嬢、高嬢と私の三人は、どちらが早く出産するか賭けをしていた。女の赤ちゃん続きの後、二人のうち片方が男の子だった。実を言うと、この間の夜生まれたうちの一人が男児だったが、その前は女の子が五人続いていた。

 きょう午後はまた切断手術で始まり、二、三のさほど重傷でない患者を診た。切断したのはこの二週間ほどの問、救おうとしていた脚だった。患者は着実に下り坂に向かっていて、脚と命のどちらをとるかという選択しかなかった。結果はまだ決して落ち着いたわけではない。というのも、彼はその両方をもなくす可能性があるからだ。手術が終わってから、まだ回診していない患者が二つの病棟に七〇人もいる。

 七時が少し回ってようやく一日の仕事が終わったようなので、グレイス・パウアーのところに夕食に寄り、トリムのところを見舞った。

 今朝、日本人将校たちによる幾分公式的な訪問があり、彼らはとても用心深く見て回った。彼らは今、他には考えられないほどの最も効率の悪い方法で、町の住民の登録を行っている。全員が安全区に押し込められているからだ。彼らは私たち全員に、市内の通行証ともいえる腕章をくれて、必ず着けるように言った。

 チャーリー・リッグズはきのう登録班の将校につかまり、手ひどくひっぱたかれた。そうした仕打ちに対して私ならどう反応するか分からないが、そいつのあごに憎しみを込めたアッパーカットでもくらわせなければ気が収まらないと思う。もしそのような時が来たなら、リッグズと同じように両手をポケットに入れたままでいたいものだ。

 シンパーグのかなり大ざっぱなニュースのほかには、この二週間ニュースが入ってきていないし、南京からの本当のニュースは少しも外に漏れていないと確信している。ニュースが外に出た時には、気持はおそらく、だんだん収まってきて拍子抜けしたものになるのではないかと思う。私たちはみんなが前方に光を見たいと思っているが、いまのところかすかな光すら見あたらない。(P289)

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』所収)



金陵大学病院からの手紙
          (12月28日〜1月9日)

ロバート・O・ウィルソン医師

 十二月二十八日 火曜日

 エリザベスはきょう六ヵ月になる。エリザベスやマージョリーと一緒に六ヵ月の祝いをしたいとどんなに思っていることか !  おそらく歯が生えてきて、私の見たこともないようなことをしているのではないかと思ったりしている。この六ヵ月のうちなんとか一緒に過ごせたのは七週間だったが、事態がすぐに落ち着くような気配は今のところないようだ。(P289-P290)

 トリムはかなり良くなってきて、きょうは内科の患者を診て回った。私はきのう夜九時半に産科の患者があり、きょう正午にももう一人あった。後者は二〇歳の初産婦で、男の赤ちゃんが呼吸を始めるまでに一〇分かかった。

 呼吸が始まったときはホッとした。トリムが病気の間、赤ちゃんを入れて一七五人の患者を診てきた。彼の復帰でそのうちの二〇人ほどから解放されることになる。全員診て回るのはほとんど一日がかりの仕事だ。

 きのう診た患者は、もし彼の言うのが本当なら、ブラックリストに書きとどめておかなければならない話だ。彼は下関の電話会社の職員で、金陵大学に避難していた。彼は友人を探しに通りに出ていたとき日本兵に捕まり、数百人の男性がいる所に連れて行かれた。彼らも大学から連行された人たちだと分かった。

 日本兵が彼らを登録するとき、まず結構な演説をして、兵士を探しているだけだと述べた。もし兵士だったと進み出て認めれば、命は助けて、軍の使役隊に編入されると日本兵は言った。ソーン、ベイツ、リッグズ氏らを含むみんなの前で、このことは繰り返し述べられた。二〇〇人が前に進み出て、兵士だったことを認めた。

 この患者の話によると、この数百人の男性は町の西にある丘に連行され、銃剣の練習台にさせられたそうだ。彼には何人が生き残ったか見当がつかないという。

 彼には銃剣の傷が五ヵ所あり、うち一ヵ所は腹膜を突き破っていた。腸も刺されているのではないかと思いながら手術をしたが、腹腔に多量の黒い血を認めただけだった。銃剣はほとんど身体の中心に刺さったが、斜めに入ったので、腹膜の下方四分の一のところを刺して血管をいくつか傷めたものの、腸には達していなかった。腹膜炎が重症でなければ、彼はおそらく回復するだろう。

 日本軍は明らかに無法ぶりを抑えようと努力している。かなり多くの憲兵がいて、彼らがいると略奪は止まる。いなくなると、また何らかの略奪が始まる。現在、大火事は日に一、二件しかないが、火事があってはじめてまだ燃えていない建物があるのを知る具合だ。

 あらゆるがらくたでちらかった通りを、兵隊や苦力のグループがせっせと掃除している。彼らは店の中のものをつかって路上で焚き火をよくしている。新街口近くの南京音楽店にあった楽譜や楽器は通りの真ん中に積み上げられて、火がつけられた。

 あらゆるものを破壊してから安い日本製品を持ち込むのが魂胆ではないかと思う。人々は完全に略奪しつくされているので、安い日本製品といえども買うこともできないだろう。

 トリムがきょう午後病院にいたので、二人でX線透視をいくつか行った。ひとりの男性は仙骨から右の下腹部にかけて貫通した弾丸の傷があり、明らかに右の腸骨の近くの動静脈に外傷性の動脈瘤ができていた。現在の感染状況を見れば、手術や修復処置は問題外で、さりとてそうしなければ右脚がつけ根から壊疽を生じるし、彼の運命はきまったようなものだ。 (P290-P291)

 X線透視を終わってから、トリムの小さなラジオをかけたところ、外部のニュースの時間に間に合った。済南の陥落、パナイ号事件が解決を宣言したこと、外交代表が近く南京に戻ってくるらしいことが分かった。彼らに会うのを楽しみにしている。(P291)



十二月三十日木曜日

 一年が早くも終わりになろうとしている。来る年が少しでも明るい見通しがあって年が暮れるのなら嬉しいのだが、行く先にかすかな光明もなく深い暗闇を記して一年が終わろうとしているようだ。

 唯一の慰めは、これ以上悪くなりようがないことだ。日本兵も、殺す人がいなくなれば、殺すこともあるまい。どんなに頑張ったところで、これ以上家族から遠くに離れることもできないだろう。患者の誰ひとりとしてお金を持っている人がいないのだから、病院が独立採算制に戻ることはおそらくできないだろう。

 憲兵たちは夜間はずっと忙しいようだ。今夜マックと私が病院から帰る途中、二度も銃剣をつきつけられた。おとといの晩は、聖書教師養成学校の門番兵が難民の中の女性を一人要求した。一人も手に入らなかったので、昨晩断わりもなく一人を強姦した。

 きょう哀れな愚か者が、大学の養蚕施設にある難民キャンプに避難している男性のことを怒って、こともあろうに日本兵を数人連れてきて、六挺のライフル銃が埋めてある場所を教えてしまった。激しいののしり合いがあって、四人の男性が連行された。うち一人は中国陸軍の大佐だったという忌まわしい罪をきせられた。彼がまだ生きているとは考えられない。

 今朝、こざっぱりとした身なりの中国人の商人が危険を冒して安全区から外に出て、自分の家と商店の跡を調べに行った。彼が三人の同行者とともに估衣廊教会の前を歩いていると、日本兵が数人彼らに向かって銃を発砲した。その理由は未だに不明だ。

 一人が死に、この男性は腹部の傷口から小腸が四フィート飛び出したまま仲間に病院まで運び込まれた。弾丸は左腹部から入り、右に抜けていた。弾丸はズボンの中にあったので、私のコレクションに加えられた。

 この男を開腹すると、小腸は六ヵ所も完全に分断され、この他にも六ヵ所、穴が開いたり傷んでいた。私は傷ついた部分をすべて切除し、腸老瘻管をつけたが、生存できる可能性は〇・一パーセントよりはるかに少ないと思う。

 前回報告した患者はとてもよくなり、回復する見込みが大きい。(P291-P292)

 きょうのもう一人の患者は、膿胸が進んできている胸部の患者で、肋骨を一本切除した。胸を撃たれた患者は一〇人はいるに違いない。脳のかなりの部分を吹き飛ばされた患者は、病院にきてから一週間目にとうとう亡くなった。

 一〇歳の少年の足を救おうと努めている。頚骨と腓骨の間の下三分の一のところがメチャクチャに挫傷している。着実に体力が落ちてきているので、生命とひきかえに、足を切断しなければならないかもしれない。

 トリムがまた完全に復帰して、産科の患者を引き継いでくれている。私が手がけた男の赤ちゃんに、極く小さな余分の親指が、通常の隣に小さな肉茎としてついているのに気がついた。分娩の時は気づかなかった。きょうその部分を切除した。

 一七歳の少女が、ある晩陣痛が始まる直前の一時間半前に強姦されて、今は明らかに淋病の症状が進んできている。一時は体温が四〇度五分まで上がり、見通しは暗い。赤ちゃんは、ヒルクレスト学校の地下で腹部を銃剣で刺され、早産して自分の赤ちゃんを亡くした少女に一時的に預けている。彼女は十分母乳がでる。

 今晩みんなでラジオを聞いていたところ、その晩私たちの小さなラジオが流していたのは一局だけで、東京のものだったのでみな不快にさせられた。それによると、アメリカ人は全員が、■(牛へんに古)嶺から漢口に疎開させられていると伝えていたが、信じていいものかどうか分からない。

 現在、南京で発行されている新聞は、中国語版の日本の新聞が唯一のものだ。二、三行読み始めると、日本軍は■(番へんにおおざと)陽湖で中国機を二三機、蘭州でソ連機を一七機撃墜したとあり、思わず新聞を破りそうになった。中国側のラジオで事件の報道を聞き、どんなに誇張されていたかも知って、やっと慰められる思いがした。(P292)



一九三八年一月一日

 二週間以上もたつのに南京から直接ニュースが伝わらないことを、世界は不思議に思い始めたに違いない。外交代表団はまだ帰任を許されていないし、新聞記者も一人も戻ってきていない。十五日に南京を去る時、彼らは二日したら戻りたいと思っていたのだ。日本の同盟その他の記者はもちろんどうしようもないくらい出鱈目だ。

 日本軍はきょう、難民キャンプから代表を鼓楼に招いて、特別な儀式を行った。そこには旧い五色旗(北京政府時代の中国国旗)が掲揚され、日本軍は二、三演説を行ったのだが、おそらく自治委員会の就任式が行われたのだろう。

 主要人物の一人は国際委員会の配下にあって、かなり下級の資格で働いており、南京の暗黒街や他の好ましくない性格のところとも長い間関係があった人物だ。彼の仕事は競売人だ。

 他の人物は紅卍字会に所属しており、そのうちの多くの者が委員会で働いてきている。まったく三流の連中の寄せ集めだが、さりとてこの町には一級の階層に属する者は一人もいない。(P292-P293)

 三日間の祝日が公表された。それについてどう対応したらよいか分かっている者は一人もいない。閉店しようにも閉める店がない。輸入したのか、さもなくば再製したものに違いない、数えきれないほどたくさんの爆竹が一日中鳴り続けていた。兵隊は酔っぱらって暴れ回れる時だと思っている。

 比較的静かな日が続いていたが、新たな強姦が発生した。大学の宗教担当理事王博士の家に三人の兵隊が押し入り、一人が外に監視役で立ち、二人が中で一人の無力な少女を凌辱した。

 きょう昼、トワイネンさん、金陵大学の陳さん、マギー氏と彼のルームメイトのフォースター氏の四人の客を招いて、新年の晩餐を楽しんだ。マギー氏とフォースター氏が彼らの持ち場を同時に離れたのは、困難が発生してから初めてのことだった。二人は二五〇人の難民を受け持っている。

 晩餐が終わった途端に誰かが二人を呼びにやって来た。二人が現場に着いた時は、一人の少女は強姦され、もう一人は激しく抵抗したため殴られたあとだった。

 尼僧が午後連れてこられた。二週間前に大腿骨を痛めていた。日本軍が南京に入城したとき、彼女は別の三人と一緒に壕舎に住んでいたところ、日本兵がやって来て、一人が壕舎の隅々に火をつけた。一緒にいた三人の仲間は殺されてしまった。彼女は傷は感染症がひどく、むずかしい状態だ。

 きょう午後、もう一人痛ましい患者が連れてこられた。二九歳の婦人で、一二歳の子供を頭に六人の子供があり、市の南部の小さな村に住んでいた。中国軍が撤退する時この村を焼き払ったため、彼女は五人の子供を連れて(一人はすでに死亡)南京を目指すことにした。

 暗くなる前、飛行機が急降下を繰り返して機関銃を浴びせたため、そのうちの一つが彼女の右目から入り首に貫通した。翌朝、彼女のかたわらで泣いて冷たくなっている子供たちに気づくまで、意識がなかったという。

 いちばん小さな子は生後三ヵ月で、もちろん母乳が必要だ。彼女は血溜まりの中にいてとても弱っていたので子供を抱くことができず、無人の家に放置するよりほか仕方がなかった。

 残った四人の子供と一緒にやっとのことで市に辿り着くと難民区に入り、どうにかこうにか子供たちを落ち着かせると、病院に来る手だてが分かったというのだ。

 こうしたことが日常茶飯事なので、回診をしてみんなに新年おめでとうを言うのは辛い気がする。当直の番なので、会計室のタイプライターでこの手紙を書いている。きのうの夜は全員でラーベ氏の家に出掛けて行って、一時間ほど大晦日の祝いをした。彼は良い記録を持っていて、帰宅するまでかなりよく話し合ったので、現状がつかめた。そのまま新年を迎えるためにとどまった者はいなかった。(P293-P294)



一九三八年一月三日

 おまえはまず五〇ページ目を受け取り、ずっと後で前後の多くのページを受け取ることになるだろう。こういうべージ付けをするのは、われわれは何でも書ける訳ではないが、さりとて日本人に利用されたくないということを示すためだ。

 おとといへまをやらかして、足の親指の先に四ポンドの鉄の塊りを落として、二、三日病院をびっこをひきひき回診していた。きのうは日曜目だったので、午前中完全にひと回り回診して、それから、つま先がもうひと息でよくなるところだという理由で、午後は休みにした。

 興味ある患者が三人きょう現れた。一七歳の少年が持ってきた話によると、年のころ一五歳から三〇歳くらいまでの中国人男性およそ一万人が、十四日にはしけ近くの川岸に連れ出されたそうだ。そこで日本軍は彼らに野戦砲、手榴弾、機関銃をぶっ放した。

 ほとんどの死体が川の中に押しおとされ、残りの死体は山と積み上げられて焼かれたが、三人はかろうじて逃げのびてきたという。少年のあげた数字によると、一万人のうち六千人が元兵隊で、四千人が一般市民だった。彼は胸に弾丸の傷を負っているが、深刻なものではない。

 四〇歳くらいの女性が来て話すところによると、表向きは将校たちの衣類を洗濯するというのが目的で、難民キャンプから十二月三十一日に連行されたという。六人が連れ出された。昼間は衣類を洗濯させられ、夜は強姦されたという。五人は一晩に一〇人から一二人の相手をさせられ、残りの一人は若くて美人だったので四〇人の相手をさせられたそうだ。

 三日目に兵隊二人がこの女性をみんなのいるところから連れ出して人気のないところに連れて行き、首を切り落そうとした。一人が四回も首切りを試みたが、うしろ首の筋肉をやっと背骨のところまで切断することができただけだった。

 彼女は他にも背中、顔、腕の六ヵ所に銃剣の刺し傷を受けていた。おそらく回復するだろう。彼女がこうした状態で倒れていたとき、別の日本の (!)兵隊が彼女を見つけて安全な場所に連れてきてくれた。

 三番目の患者は一四歳の少女で、彼女は強姦に耐えられるように体ができてなくて、相当な外科の修復手術が必要だろう。

 きょうの午後は五つの手術を行った。うち二つの弾丸が私のコレクションに加えられた。

 前回六人の子持ちの母親が、目から弾丸が入り首に達したことを書いたが、弾丸がまだ出てこなかったので、きょう摘出した。大腿部つけ根の複雑挫症の患者に対して自信がなくなってきた。まったくよくなってこない。

 そのような患者の一人が、病院に来てから六週間目のきょう亡くなった。感染症が着々と上部に達してきて、二、三目前から傷口より出血が始まった。あまりに上部で止血帯は役に立たず、切りこむにしても両手のこぶしが入るくらいいまいましいほど食い込んで切らねばならず、一部は背中にまで達してえぐることになる。股は上部で全体がしめ上げられた。急いで足を切断しようとしたが、遅かった。もう少し早く処置したとしても、効果があったとは思わないが、そうすべきだったかもしれない。(P294-P295)

 アメリカで四年間過ごしたことのある日本人将校は、私たちの仕事を気づかってくれて、必要なものがないか調べに毎日やってくる。彼のような人がもっといたらいいがと思う。

 きのう私たちの家で礼拝式が行われ、私たち家族の他にトリムとトワイネンさんとグレイス・パウアーさんが加わった。マックが司会し四週間前から礼拝のために準備した説教を行った。それは一週間また一週間と延期されてきたため、少しばかり修正しなければならなかった。(P295)



一月六日 木曜日

 進展もいくらかあるなかで、さらに忙しく三日間が過ぎたが、軍隊が次第に静かになってきているので、報告することがあまりない。

 今朝、アメリカ外交団が三名戻ってきた。前任地が済南で、また私たちがパックの家を住居としてふさいでからずっとここの客となっているアリソンは、現在アメリカ領事だ。彼は年若いエスピーとマクファディエン(MacFadyen)を伴っている。きょう昼食はここに招いて、今晩、彼らは日本大使館に招かれている。

 彼らは郵便物を持ってきてくれた。ほとんど■(牛へんに古)嶺にいる家族たちからのものだ。本国からの通常郵便物が届くのも、そう遠いことではないだろう。

 彼らはまた、■(牛へんに古)嶺のアメリカ人たちは、十二月三十日に漢口を経由して香港に疎開したという知らせを持ってきてくれた。この旅行についてはたくさんの荷物は持ってなかったようなので、まずは第一段階として私たちの判断は正しかったようだ。

 日本軍は天津-浦口鉄道で北に向かっており、この線と臨海鉄道の連絡駅である徐州をとるつもりらしい。すでに済南と泰安をとっており、北からも徐州に向かっている。中国軍の主力部隊はさらに西へ行く準備をしており、紛争終結の見通しはまったくたっていない。ここから見た限りでは、中国軍がどのような作戦でいくかを見通すのは難しい。

 中国の空軍はいまだ機能していないが、これまでは市の周辺の飛行場にそれなりの努力を傾注しているという証拠が頻繁に示されている。

 病院では外来部門が再開しつつあるので、中国人医師は一日中ほとんど忙しくしている。私たちは来週月曜日から、外科と内科診療という通常スケジュールにもどるつもりだ。(P295-P296)

 きのうは午後をまるまる血行を圧止しているヘルニアの手術にかかりきりだった。血行が五日間止まっていたので壊疽化して、小腸を八インチほど切断する必要があった。

 きょう十二月の旧いスケジュールにもどって、ひと月もの間救おうと努めてきた二本の足を切断した。一つは小さな男の子のもので、足は粉々にやられていた。できるだけ努力はしてみたが、足はだんだん壊疽化して血液循環が悪くなり、抑制処置をしたにもかかわらず感染症が広がってきたため、命とひきかえに足を切断しなければならなかった。

 日本軍はイギリスとドイツの外交官の帰任を未だ許可していないが、十日には許可がおりる見通しだ。報道陣に許可がおりるのはいつになるか分からない。

 きょう午後、マックは、チャーリー・リッグズが部品をかき集めて修理した、塗装もしていない救急車を運転して、市の南部へ野菜を手に入れるために出掛けて行った。目的地に着くと、タイヤがパンクしていて、修理するにも道具もなかった。ジャップにつかまるといけないので、運転手はびくびくしながら病院への道中を急いだ。

 私はちょうどいちばん大事な手術が終わったので、紅卍字会から譲り受けた、きれいな新車のスチュードベイカーの救急車で彼を救出しに駆けつけた。この車は白塗りで、中にはローラー付担架が四台備え付けられていて、まだ二千マイルしか走っていない。救急車のなかでもまさに最上のもので、ニューヨークで見たどれよりもずっと優れている。日本軍に盗用されるのを防ぐために私たちにくれたものだった。

 私たちが着いた時はすでに暗くなりかかっていた。スペヤー・タイヤのナットがあまりにもきつく締められていたので、手持ちの道具ではそれを挺子に使ってゆるめることができなかった。パンクしたタイヤを外して修理するため持ち帰ることがわれわれにできるすべてであった。

 夜間に動き回るのはまったくぶっそうなことなので、車はそこに放置して、朝一番に取りに行くことにした。まだそこにあったならの話だが。そこは市の最南西部で、二、三百ヤードでもう城壁に達するところだ。付近には日本兵はいないので、車がわれわれの手元に戻ってくるのは有望だ。マックは今晩病院で夜勤なので、あす朝食前に車を取りに行くつもりでいる。(P296)



一九三八年一月八日土曜日

 きょう昼、家に戻ると大使館からの”重要・緊急”というメモがあった。従姉のヘレンとピューモント准将を通して送られてきたマ ージョリーからのクリスマスカードと新年の挨拶状だった。アリソンは先日ここに昼食にきたとき、他のみんなに手紙を持ってきてくれたのだが、マージョリーのがあることをすっかり忘れていたのだ。(P296-P297)

 手にしたときは本当にすばらしく愉快な気分だった。みんながどこにいて何をしているのか、みんなと一緒になれるのはいつのことかという三つの疑問がいつも気になっている。今ごろはエリザベスにも乳歯が生えてきて、彼女はいろいろなもので噛み具合を試しているに違いない。

 病院の電気は今のところ、たいがい切れずに使えるので、再びラジオを使って世界と接触することができる。毎日のニュースが聴けるのは良いことだ。しかし、このニュースというのは、ことさら私たちの平和な気持を増進してくれるとは限らない。日中両国は確かに長引いた紛争を落ち着かせようとしている。日本軍が南京を占領してから、その後はあまり進展をみないようだ。

 南京市は絶えずでたらめの噂で一杯、だが、私たちはこうした噂をラジオでチェックしている。

 きょう面白い事件があった。中国人の噂によると、中国軍が城門のところまで来ていて、再び市を奪還しようとしているというのだ。

 日本大使館に行って衣類の洗濯をしていた女性が数人、手に大きな包みを抱えて家に帰ってきた。彼女たちが大学に近づくと、日本人が大使館を出て行ったので、この女性たちが略奪品を持って帰ってきたというニュースが野火のように広まった。

 たちまち一群の女性たちが略奪の分け前にあずかろうと、有刺鉄線のある柵を乗り越えて入って行った。由由しい事態が発生しないうちに彼女たちは大使館の建物の裏から、中国人使用人に押し出されたという。

 また、きょう憲兵が、中学校に住んでいて、日本語の話せる若者を一人縛って連れ去った。彼はいままで、不本意ながらも通訳として働いていたのだ。シール・ベイツが憲兵隊本部に出向いて何とかできないかと掛け合ったが、どうにもできずに乱暴に押し返されてしまった。

 日本当局は明らかに中国人に帰宅してもらいたいと思っているにもかかわらず、人々は家に帰るのを本当に恐ろしがっている。安全区を出た途端に、あるいは安全区からまだ出ないうちに、男性は運搬人として連行され、女性は強姦の憂き目にあうといった、ありとあらゆる侮辱を受けている。

 今朝また中国軍による空襲があり、市の東部にある弾薬庫が直撃されたもようだ。弾薬の爆発する音が途切れることなく聞こえ、午前中一杯大きな火災が続いた。

 火災は毎日あり、合わせて一〇件以上にものぼる。きのうの夜、夕食のために病院から家に戻るときは、火災を見なかったが、このようなことはこの三週間のうちで初めてのことだ。ところが、記録は更新されてしまった。というのも、病院で就寝するために引き返す途中、火災が数件発生していたからである。

 病院に戻ると中国人警官たちが門のところで騒いでいたので聞いてみると、日本兵の一団が門を叩いて入ってこようとしたが、彼らは聞こえない振りをして中に入れなかったと言うのだ。きょう分かったところによると、その日本兵は、私たちにたくさんの電灯を使わないよう注意するため使いに出された将校たちであった。(P297-P298)

 彼らがきょう来て言うのには、六時半ころには電気はすべて消すという画一単純な要求を強調したが、ちょうど産科の患者が二人分娩中であった。トリムが夜勤なので、彼が立ち会うことになるだろう。私の夜勤であったきのうは一件もなかった。

 明日イギリス大使館とドイツ大使館の代表が来るらしい。以前報告を受けたものより一日早い。三人のイギリス人を昼食に招きたいと思っているが、間に合うように到着するかどうか分からない。現在アメリカ大使館を通じて南京からのニュースが漏れ出しつつあるので、そのうち耳に入るだろう。(P298)



一九三八年一月九日 日曜日

 日本軍の検閲を受けないうまいチャンスを見つけて郵便物を外部に出せる機会がとうとうやってきたらしい。まず、以前上流でパナイ号の救出にあたったことのあるタグボートに郵便物は送られる。それから長老派教会のウォーリン氏に渡り、彼がアメリカ船に持参するので、郵便物がアメリカに到着するまで通常郵便物とは関係がない訳だ。

 マージョリー、おまえはこの方法をとれば何でもできることになる。このようにして出した手紙のコピーが幾枚かとれたらいいがと思っている。というのは、郵便物のほとんど大部分は私の家族やジュリアやフランクリンにも見せたいし、それから一部分はフランク・プライスの事務所やガールディー氏が恐らく勧めるであろう方法で、利用するなり公表するなりしてもらいたいと思っている。たぶん彼はとても興味を示すはずだ。

 おまえがここに居た時に書いた最初の部分と合わせてみると、一つの立派な物語になる。スティールやスミスが検閲を受けないで届けたページを、おまえは受け取ったものと思う。

 安全のため、こちらにコピーを一部残している。公式の記録はルイス・スマイスがほとんど一切を引き受けている。彼は、目撃したことないしは目撃者から聞き取りした一連の事例を編集している。私自身の体験としてここに書いたような話は、彼のリストに入っている。

 きょうは日曜日だ。いつもより少し遅い朝食をとってから回診をほとんど済ましたところでジョン・マギーに会って、前回撮らなかった写真を少し撮ったなら一六ミリフィルムが終わることが分かった。

 けさ、私たちは首二ヵ所に長い深傷を負った年配の男性の写真を撮った。彼は日本兵から女性を周旋するよう求められたが、その要求に応えることができなかったことが罪となった。(P298-P299)

 次に撮ったのは、背中、胸、腕に銃剣の傷を受けている一八歳(いや、二二歳だ)の警官だ。この男性には何の罪もなかった。

 三番目は、前にも書いたように、他の五人とともに連行されて、日中は衣類の洗濯をさせられ、夜は慰みものとなった女性だ。首のけがは次第によくなってきている。彼女は肺炎になりかけていると思っていたが、どうやらならずに済んだようだ。(P299)

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』所収)


※本資料は毎日放送東京支社報道部の鈴木勝利・加登英成氏より提供を受けた。翻訳にあたって、毎日放送の訳文を参考にさせていただいた。



 

(2012.4.22)


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