金陵大学病院からの手紙
(〜12月14日)
ロバート・O・ウィルソン医師
私たちの家族は、いまだに七人から成り、ひっきりなしに客がある。おそらくオリパー・コールドウェルとピーター・パノンは今週長江を遡って、もし、大学が開校しているところがあれば教えに行くことになるだろう。ベイツ、スマイス、トムソン、ミルズと私は残留するつもりだ。今週中にたぶん二、三人が私たちの仲間に加わることになるだろう。
国際委員会は市内に難民区を設立するため奮闘している。中国側に関する限りでは、それはすべて解決済みだ。日本軍部からはまだなにも聞いていない。日本側の新聞は断固反対という報道をしている。
難民区は新街口から山西路と、その西側およそ半マイルから広がり、そして道路を隔てた病院の敷地を除く大学の建物はすべて含まれている。病院の主要な建物はみな難民区に入っている。もし計画が失敗した場合には、私たちは激しい砲撃を受けなければならないだろう。
きのう鎮江が激しく砲撃されて、 APCの施設は瓦解した。私たちはしばらく補給物資を貯えてきているので、ひと月くらいはなんとか食いつなげると思う。(P270-P271)
郵便局が閉鎖されているので、郵便物を手に入れることはほとんど期待できない。郵便物が安全に着くことをもう少し確かめるまで、これは投函しないで、また日記のようにして手元に置くことにしよう。
私が詳細を書くよりずっと早く、君はラジオのニュースを聴くだろう。郵便が完全に封鎖されないうちにマージョリーの手紙を手に入れたいものだ。手紙を受け取ってからもう二週間になる。(P271)
十一月三十日
十一月も終わりだ。私たちはまた今月よりさらに刺激的な月を予期している。日本軍は江陰要塞を手に入れて、きょうは封鎖線に五〇フィート幅の通路を打開したので、駆逐艦が通れるようになった。
日本軍が南京市に到達するには、小さな要塞がまだ二ヵ所あるが、それらはすでに除去されたものとは比べものにならない。おそらく今週中には私たちは激戦の真っ只中にいることになるだろう。
病院はあちこちから来た数人の臨時の看護婦たちを確保しているので開業を続けている。大勢の患者が退院しており、また南京市の防衛戦による負傷者たちのために、私たちは今いる負傷兵を退院させようと努力している。
ありとあらゆる憶測が飛び交わっている。サイレンが二度聞こえたが、飛行機は一機も飛来してこなかった。後で聞いたところによると、飛行機はこの近所を爆撃したそうだ。(P271)
十二月二日
きのうのサイレンは二回、今日は三回で、合わせて一〇三回になる。きょうの昼間攻撃はひどいもので、市をめぐる激しい空中戦を伴うものだった。日本軍の飛行機三機が撃ち墜とされた。中国軍の迫撃機二機も同様に撃墜されたのだが、面白いことには、私たちは現在二人のロシア人飛行士を治療している。一人は頭部挫傷とももに弾丸を受け、もう一人は二、三の軽い挫傷だ。
ディックは小さい娘のジョイスが■(牛へんに古)嶺で重病となり、すぐに彼に来てほしいという報せを受け取った。バターフィールド汽船の最終船、黄浦号が今晩夜中に出港するので、私は彼とクロード・トムソンを同行して行った。
この船にはここ数日間、故宮博物館の宝物が積み込まれている。エルシー・プリースト、金陵女子文理学院院長呉タイ芳博士、金陵大学学長陳裕光博士、それに我々の以前の中国人スタッフの陳医師と徐医師と福州の看護婦二名の四人が乗船している。ディックは■(牛へんに古)嶺でたった一人の外科医となるし、そうなると私は南京で唯一の外科医となる。
トリム(トリマーのこと-訳者) はまだここにいる。それに江陰病院から来た若い青年がここにいる。彼は医療訓練を受けたと主張しているが、私たちはそれに関して未だ何の証拠も見いだせないでいる。(P271-P272)
患者の数を減らそうと努力しているにもかかわらず、まだ七五人ほどの患者がいて、うち七三人は外科の患者だ。
私は当分手紙を書く時聞がとれないだろうが、努力はしてみるつもりだ。あの若者は張医師と言うのだそうだが、今晩宿直なので、私はディックとクロードをパック博士の車を使って、乗船させることができた。彼の車は難民を下関に運ぶのに、計り知れない働きをした。
南メソジスト伝道団のソーン氏が引っ越してきたところだ。一両日中にはジョージ・フィッチも来るだろう。私の料理人は残っており、私たちは十分食料の補給品を貯えている。
いまちょうど真夜中なので、書くのをやめて必要な睡眠を数時間とるつもりだ。マージョリーの手紙が来るといいのだが、でも、希望は暗い。それに、手紙の中にエリザベスの写真が入っていることを期待している。(P272)
一九三七年十二月三日金曜日
きのうの患者の数の見積りは事務所を調べないで推定したもので、いま調べると九九人になっている。そのうちのおよそ九五人を私が診ているので、全員を診るには一日のかなりの部分が割かれることになる。そのうえ手術が三つあり、一つは急性の虫垂炎で腹膜炎になりかけていた。トリムが清拭をして手伝ってくれた。
それからロシア人飛行士から金属片を一つとりだした。彼は頭部挫傷しており、唇に裂傷を負って歯が欠け、足首を折っている。もう一人のロシア人は片方の足首と腕を一本骨折している。
金属破片は兵士が身につけていた弾薬嚢の一部だった。弾丸がケースに当たって脇にそれたものの、吹き飛んだ金属の破片が彼の体に飛び込んでしまった。深くなかったので、重症ではない。意識は完全にはっきりしていて、現在のところとくに危険な状態ではない。
ちょうど病院を出ようしていた時に、黄大佐がまさに蒋介石夫人(宋美齢)
に紛れもない人を伴って正面口から入ってこられたので、二人をロシア人のところにご案内した。夫人は他の任務に加えて、空軍の最高責任者でもある。
初めて彼女を見たのだが、なるほど彼女の最も誠実な友達が言っていたとおりの人だ。彼女が人を魅了するのも不思議でない。彼女はこのうえない優雅さと人を魅了する仕種を備えた素敵な女性だ。彼女と総統は私たちがここで行っていることに感謝しているとおっしゃって、負傷兵に果物とキャンディーを持参して、急いで立ち去っていかれた。
今日さらに二度空襲があり、合計一〇五回になる。市のちょうど外側に相当な爆撃があり、ちょうど昼食時に爆撃機三機が直接私たちの家の真上を飛ぴ、パンパンと機銃が撃ち続けられたのはあまり気持ちのいいものではなかった。(P272-P273)
十二月五日日曜日
空襲はきのう二回、きょう一回。きょうのはかなり激しかった。
ほとんどの患者を回診してから、私は火傷治療について調べるため図書館に行った。飛行機の轟音が聞こえた。サイレンの鳴るのは聞こえなかったが、その音から私は日本機だと思った。それから高射砲が撃ち始まり、飛行機は中央病院近くの商業飛行場近辺に一団の爆弾を投下した。
その直後に、負傷者がいるという電話を受けた。市の衛生局が市を離れる二日目前に私たちにくれた救急車で出かけた。一ダースもの建物がペチャンコになっており、何人もの死傷者がいた。
数人の新聞記者がそこで私たちを困らせた。そのとききわめて賞賛すべき中国人の兵士や警官や市民がいて心を打たれた。彼らはみな救急車を見て喜んだ。私たちは四人の負傷者を乗せて戻った。
一人は足をずたずたにされており、すぐに切断しなければならなかった。もう一人は足がメチャメチャだが、なんとか切断しないで残してみるつもりだ。それから大きな金属片を取り除いた。
別の男性は二歳の子供を両手に抱えて座っていた。その子の母親と姉は殺され、その子自身も頭のてっぺんを切り裂かれたため、脳の中身が露出していた。まだ息をしていたので救急車に乗せたが、病院に着いた直後に死んだ。
午後はまた別の足の切断もあり、夜勤にも就かなければならなかったし、きのうは忙しい一日だった。この足の切断は、先のものとは別の爆撃で負傷したと思われる小さな少女のもので、ひどく砕かれた大腿骨の複雑骨折だった。X線透視によって傷の奥のほうに大きな金属片を一つ見つけた。金属があることが分かったとき、腿の動脈から出血が始まって、それでなくでもすでに血液循環はひどく悪かったので、直ちに足を切断する以外に手立てはなかった。
私が夜見回ったとき、二十歳の女性が分娩中であるのに気付いた。彼女は初産婦で、私たちの苦力の一人の奥さんだった。当病院に来てから最初のお産だった。彼女は実に見事に耐えて、すべては真夜中直後に終わった。
二時ころ夜勤の看護婦が私を起こすなり、とても興奮して窓のところに連れて行った。窓から大きな火災を見て、初めはダニエルの家のあたりかと思ったが、よく注意して検討すると、どうもそれより少し先の位置のようだった。
今朝調べてみると、ドイツ・オーストリア・クラブに隣接したところであった。それから私は五時半に起きて着替え、ロシア人二人が漢口へ飛び立つのを見送らなければならなかった。(P273)
十二月七日
きょう午後担架を運ぶ人およそ一〇〇人が下関からやって来て、五〇人ほどの負傷兵を運び出してくれたので、いまや普通以上の手当を必要とする重症の兵士二一人だけを受け持っている。他に民間人の患者四〇人がいる。
トリム、グレイス・パウアー、ハインズさんたちはみな私を助けて素晴らしい働きをしてくれている。また三日ごとに夜勤ができる小さな中国人がいるのも助かる。大きな戦争で引き裂かれた町の中のたった一人の外科医であることはまったく感動的だ。
プラマー・ミルズは初秋に当地を訪れたことのあるマックスウェル医師からきのう手紙を受け取った。マックスウェル医師はまったく当惑していた。私たちは医師や看護婦の要望を彼のところに送っていたのだが、それに対する回答であった。
彼の手紙によると、漢口はすでに定員以上の二四〇人の医師および看護婦がいるそうである。私たちの要望書が着いたのとまさに同じ日に、彼はルーツ司教からも手紙を受け取ったところであった。司教の手紙は南京の大学病院の医師および看護婦のための宿舎の手配を依頼する電報を受け取ったと述べているのである。
きょう午後大使館から最後の警告を受け、明朝九時半に、出発することを望む残留アメリカ人を乗せて、アメリカ砲艦パナイ号が出発することを告げられた。一日かけて集めた情報によると、九人が南京を出る予定で、大部分が大使館員と新聞記者のようだ。
私たちの仲間と病院の外国人スタッフの一三人が残留することになる。病人を残してどうして行くことができよう
?
ここにいる他の人々は民間人のための難民区計画について働くことに没頭している。彼らはきょう日本軍から公式の回答を受け取ったところ、それは特別安心感を与えてくれるものではなかったが、いずれにせよ計画を進めるしかない。すでに数百人がこの難民区になだれ込んでいて、彼らに住まいを与え食べさせるということが、委員会の時間を占めている問題となっている。もちろん病院は必要不可欠な歯車の一つである。
日本軍は市の二五マイルの地点に今や到達した。そこは句容という町で以前大きな軍用飛行場のあったところだ。私には聞こえなかったが、砲声があったそうだ。しかし、いずれ近いうちに聞こえるようになるだろう。
家族は今やシール・ベイツ、ルイス・スマイス、プラマー・ミルズ、ヒューバート・ソーンと私だ。フィッチはまだ越して来ていない。他にスティールという若者で、「シカゴ・デイリー・ニューズ』の記者が寝食を共にしている。トリムは彼の家に留まっている。
マッカラムが越してきたことと、ディックが■(牛へんに古)嶺に行ったことを言い忘れていた。マック ( マッカラム ) は病院の実務的な仕事を手伝ってくれており、車を動き回すのに欠かせない人物だ。(P274)
十二月八日 水曜日朝
病院の夜勤があけて、朝食をとり、これから再び回診をするまでの短い間を手紙を書くのにあてている。患者は五〇人くらいに減ってはいるものの、毎日忙しい。患者の大部分が十分な手当を必要としている。
月曜日に空襲が五回、火曜日に一回で、合わせて一一四回になる。ソーンはもっと詳しい回数を数えている。というのも、彼は小さな日記帳に警報の開始と終了の時間を記しており、それは一二〇回を越えている。しかし、私は当分はとにかく自分の数字にこだわりたい。空襲というものはどちらかといえば続けて行われるので、サイレンは今では頻繁には鳴らないものだ。
きのうの午後は格別悲劇的だった。たいへんきれいな二〇歳の女性が、どこかから一週間まえ病院に電話をかけてきたところ、病院は閉鎖したと聞かされた。彼女は初めての子供を出産するために、田舎から南京に戻って来たのだった。
二日間の難産の後に、彼女は助産婦のところに運ばれたところ、助産婦はひどく彼女を傷めてしまった。ひどい妊娠中毒をおこして、脈拍は一四〇、体温は一〇一度に達した。赤ん坊はすでに二日ほど前に体内で死亡しており、逆子で産まれた。鉗子を使って赤ん坊を取り出すのがやっとだった。彼女は今朝まだ生きているが、回復の見込みはほとんどない。
( 一段落分原文不鮮明のため省略 )(P275)
十二月九日木曜日
私たちのあるがままの様子を伝えるラジオ報道を君が聞いているとしたら、私たちがここで元気でいることに、びっくりするのは間違いない。私たちは自身のことについてはあまり気を使っていない。ちょうど市の外から聞こえる大砲の音を聞きながらこの手紙を書いている。
きょうは市の内部と外部の双方から同時に八発の発射音を数えた。日本軍の先頭は数ヵ所で城壁に到達している。大使館員は私たちを乗船させようと最後まで努力して、ついに全員が引き揚げていった。
空襲の公式記録はこれまでとしなければならない。というのは、きょうのは朝から夜まで続く長いのがあったからだ。サイレンは午前中に一回あり、それからは鳴りたてることはなかった。日本軍機が市の内外を爆撃するのを一日中眺めることができた。
私たちは大勢の死傷者を迎えて、病院は再び満杯になった。私たちは非常によい看護スタッフをもっているが、医師は依然として三人、つまりトリム、私と江陰からきた小さな仲間だけだ。
きょうトリムが主治医で私が麻酔を施しているとき、きわめて難しい症例があった。腕と臍の緒が子宮から脱出し、赤ん坊は死後一日ほど経過していた。私たちは赤ん坊が死んでいることがどうしても分からなかったので、足からの胎児転位をして取り出した。その女性はたいへんいい状態のようだ。(P275)
きのうの患者はまだ生きているが、そう長くはないだろう。
きょう数えてみると、私は病院で足の挫傷を九例診ている。感染症のひどい切断が四例、全部が患者の命を救うための全切断だ、虫垂炎の破裂によるもの三例、腕の挫傷二例
( いや四例 )
、その他たくさんの外科の患者がいる。ほとんどが重傷患者だ。
そういう責任を果たすために、私たちは日本軍の砲撃や中国軍の略奪、あるいは我々の身にふりかかろうとしているどんなことがあろうとも、いちかばちかやってみるほかはないようだ。榴弾片や弾丸の小さなコレクションが毎日増えており、戦争が終わらないうちにかなりな博物館が開けそうだ。
国際委員会は、その五人のメンバーがこの家に留まっていて、素晴らしい事業をしているのだが、しかし、成果の程ははかばかしくない。日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。安全区の中の私たちの周囲にある、利用できるすべての建物に、約数十万人の人々が群がり住んでいる。彼らに何が起こるかは、ただ推量するほかはない。
委員会は大量の米を集め、大学の礼拝堂に貯蔵している。安全区はすべて国旗や旗で区画され、これまでのところ、日本軍に攻撃されることはなかった。日本軍は安全区を認めないにせよ、尊重はするだろうと、私たちはいまだに希望を持っている。彼らがもしそうするなら、それは数千の貧民の命を救うことを意味する。
病院はそのために本来の仕事を切り詰めている。トリムは安全区の衛生委員会を指導している。これまでのところ、私たちは電気と市の水道を維持しているが、まもなく切れるだろう。
『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティ ールは、きょうイエイツ・マクダニエルと光華門に行くときに、砲火の洗礼を受けた。彼らがそこに着いたとき、日本の機関銃の弾が彼らの頭越しにピュンピュン飛ぴ、城壁に当たった。中国兵は城壁から応射していた。
それから数機の飛行機がほとんど頭上で降下を始め、たくさんの爆弾が彼らから二〇〇ヤード以内に投下された。数多くの中国人兵士が殺された。ラジオニュースが示唆するところ、市の陥落は一両日中であろうと言っているが、それはありうることだと思う。
多くの略奪は起こっていない。ただし、中国人略奪者によってピストルで撃たれた七二歳の老女を、今朝病院に迎えた。一発目は左手の掌骨を貫通し、二発目は大腿骨をメチャクチャにしている。私のコレクションは二発目の弾丸を加えた。
空は一日中煙がたれこめ、そして町は南京というよりピッツパーグのようだ。
恐ろしい爆発が夕食時に起こった。たまたまその場所を見ていたら、爆発が起きたのだ。漢西門のあたりに大火が起こり、突然それは火事の中心から巨大な炎で照らし出された。数秒後に絶頂に達した。そこに弾薬の大きな集積所があったに違いない。このとき私は自転車に乗って病院から家に向かっているところだった。(P276-P277)
十二月十四日
きょうはジュリアの誕生日なので、私は彼女の幾久しくあることを祈りながらこの日記を始めよう。私はいま会計係の事務用タイプライターをボンボン打ちながら、忙しい一日の午後九時に病院のX線室にいる。私は夜勤ではないが、アメリカ人が病院で眠れれば幸せこのうえないという昨今だ。
南京戦は終わり、去った。指揮の崩壊をみるのは痛ましいことであった。中国軍の指揮は突如くじけ、その完全な結果が続いた。私が思い出せる最後のメモは、去る金曜日に書いたと思うのだが、はっきりとは言えない。空襲に遭って傷つけられた患者をたいへん忙しく治療していた。
土曜日には大砲が町にだんだん近づき始めた。私たちは霊谷(寺)の近辺に観測気球二つを見ることができた。私たちは負傷兵に関してあらゆるトラブルを抱えた。私たちはいわゆる安全区にいるので、彼らを受け入れることはできなかったが、しかし、彼らを数多く治療して、きわめてお粗末な施設にすぎない軍の病院に彼らを行かせようと努めた。
日曜日に日本軍は城壁を数ヵ所強く攻撃し、そして光華門近くで城壁を破ったが、撃退された。それから、日曜日の夜、たそがれ時に突如始まったのだが、戦意を失い、中国兵が北の下関方面に向かって数千人単位で逃げて行った。軍規はまったくなく、兵士たちは銃や装備を投げ捨てて、それらは道路いっぱいに広がっていた。
兵士たちは下関における状況は恐ろしいものだと言った。というのは、河を渡るボートは一隻もなかったからである。おおざっぱに結び合わせた筏が転覆し、小さなボートは人員過剰となって沈んだため、数千人が溺れた。
兵士たちには十分な時間がなかったため、その脱出路における略奪は、記すほどではなかった。日本軍の大砲が夜通し町を砲撃した。多くの火災が起こり、私たちの窓は実際一晩中ガタガタいっていた。よく眠れなかったのは言うまでもない。
大砲が轟く中で、病院、とくに手術室で働くのは、どちらかと言えば不愉快な仕事だ。日本軍はとくに大砲の射撃に際して、安全区を尊重しているように見えたし、私たちの誰ひとりも危うく砲弾に当たるようなことも実際なかった。
中国軍は病院のすぐ前の中山路に二日かかってバリケードを築き、日曜日の夜まで私たちは、病院がそのバリケードの一角を形づくっていることを非常に憂慮した。その道にはしかし、まさに一人の守備兵もなしに築いたように、日曜日の夜には見事に築かれた砂袋の障壁だけが残っていた。
十三日、月曜日の朝、トラブルが上海で発生してからちょうど四ヵ月目に、日本軍が同時に何ヵ所かの門から町に入城した。ある者は北の和平門から、ある者は西の漢西門や光華門から、また南東からそれぞれ入城した。夜までには日本軍は市を完全に統制下におき、数多くの日本軍旗が、彼らの以前の大使館を含む様々な場所に翻った。(P277-P278)
南京に残留している一五万から二〇万人は、以前に難民区と私が書いた安全区に群がった。国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。
最後の瞬間に、たくさんの中国兵が、軍服を投げ捨てて、民間人の衣服を奪い取り、安全区に流入した。彼らを取り扱うことは、それ自体大変な仕事であった。さらに重大となったことは、日本人は騙されず、彼らを数百人ごと駆り立てて、撃ち殺し、彼らの死体を手軽に間に合わせた防空壕に押し込んだからだ。
日中は、恐れを顔に出さないで、おとなしく自分の仕事に専念していれば、どの市民も比較的安全のようだ。夜間に安全な者はいない。
昨晩のことだ。金陵大学の設計者で、できるだけ建物を守ろうとして居残っていたジョウ氏(音訳)があやうく撃たれそうになった。チャールズ・リッグズが彼は自分の苦力だと強く言い張ったので生命が助かった。
それから二人は大学の中国人スタッフの顧氏を伴って私たちの家にやってきて、居間にしつらえた簡易ベッドで一夜を明かした。『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティールもそこに休んでいたので、一階には合計一一人が寝泊まりしたことになった。
地下で休んでいる大勢の中国人については、まったく数えきれない。使用人たちはまったく脅えきっている。この段落を初めの文章に少しでも近づけて締めくくるとすれば、市民は恐れを顔に出したり、逃げる素振りを見せたなら、たちどころに銃剣で刺し殺される。きょう午後、ひどい切り傷の縫合をしたし、銃剣による患者を何十件となく扱ってきている。
けさ、三〇人ほどの銃剣を携えた日本兵に、非公式とはいえ、隅から隅までくまなく捜索を受けた。マッカラム、トリマーと私が彼らを案内したところ、兵隊は日本語でしゃべり、私たちは中国語と英語をしゃべるので、どちらも相手の言っていることがさっぱり分からなかった。
彼らは看護婦たちを幾人か並ばせて、万年筆、懐中電灯、腕時計などをとりあげた。彼らは看護婦寮から、ありとあらゆる細かいものを略奪するという結構うまい仕事をした。今のところ私たちのスタッフについては、まだ身体的暴力は受けていない。
きのうの午後、日本軍が完全に市を支配下に置く前であったが、重砲攻撃が収まったようなので、目の手術を一件したほうがよいと判断した。この男性は数日前におきた爆撃で重傷を負い、片方の目を救うために、もう一方の眼球を摘出する必要があった。(P278-P279)
半分ほど摘出した時に五〇ヤードくらいしか離れていないところで激しい爆発が起こった。ちょうど隣りの伝道教会の角で砲弾が炸裂したのだ。私はたまたま窓のほうを向いていて顔を上げると、爆発で立ち昇っている煙が見えた。金属破片四個が手術室の窓を突き破った。そのうちの二個が着実に増えてきている私のコレクションに加えられた。
手術室の看護婦たちは当然のこと、青ざめた表情で手術を続行するのかどうかを窺っていた。もちろん続ける以外に方法はなかったのだが、あれほど早く摘出された眼球はなかったと思う。
教会の角はかなりひどくやられていた。同じ所から発射された別の砲弾一発が大学の新しい寮に飛びこみ爆発した。幸い二つの爆弾による死傷者はいなかった。
もう一人若い中国人の、やはり江陰病院の医師が仲間に加わった。彼のほうが以前来たのより多少医療知識が多いようなので、手術室で一、二度私の助手を務めてもらっている。ここにいる三人の江陰の看護婦は素晴らしい仕事をしている。
私はきょうやむをえない切断手術を含めて一一の手術を行った。現在は一〇〇人を大幅に越える患者がいるので、きょうは全員を診て回ることができなかった。一棟分を残さざるをえなかった。
電気は当然切れていて、水道も同様、現在は電話も通じないので、普通なら必需品とみなされる現代文明の利器がほとんど使えない。まもなく郵便が再ぴ利用できるようになるといいがと思っている。みんなに近況を知らせたいし、みんなからの手紙を受け取るのは、なにより素晴らしいことは言うまでもない。(P279)
(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』所収)
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