一九三七年十二月十五日
南京大虐殺(ゆう注 原見出し”NANKING MASSACRE STORY”)
◇日本軍、何千人も殺害
◇目撃者の語る"地獄の四日間"
◇通りに五フィートも積もる死体の山
A・T・ステイール
<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>
南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。(P464-P465)
首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。
南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。
首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼籍に較べたらおとなしいものだった。
南京にいる外国人は全員無事である。
同情の機会を失う
中国人との友好を主張しているにもかかわらず、日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。
中国軍の士気の完全な崩壊と、それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、日本軍が入城してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。中国防衛軍の行為ほどには悪くなりえないだろうという気持があった。が、その幻想はたちまち破れてしまった。
罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したにちがいない。しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。
五フィートも積もる死体
まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。
陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィート(約一・五メートルー訳者)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。
市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。(P466)
米公使宅襲撃さる
日本軍の略奪はすさまじく、それに先だつ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。
アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、日本軍は看護婦から金や時計を奪った。また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。
以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。(P467)
(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)
*この記事の原文(英文)は、笠原十九司氏「教材紹介 最初の南京大虐殺報道」(歴史地理教育 No409 1987.3)で見ることができます。
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