シカゴ・デイリー・ニューズ

A・T・スティールの記事



 「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」より、12月13日、南京陥落時以降のスティールの記事を集めました。

 スティール自身は12月15日に南京を脱出しており、以降1月上旬頃まで、南京の外国人たちから直接情報を得ることは、ほぼ不可能になっていました。従って、記事はすべて、15日以前の情報に基づいていることにご注意ください。

 占領初期3日間の限られた情報をもとにした記事であり、今日の眼で見るとややおかしな表現も含まれていますが、資料として、全文そのまま紹介します。



●シカゴ・デイリー・ニューズ

一九三七年十二月十五日


南京大虐殺(ゆう注 原見出し”NANKING MASSACRE STORY”)

◇日本軍、何千人も殺害

◇目撃者の語る"地獄の四日間"

◇通りに五フィートも積もる死体の山

                     

 A・T・ステイール

<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>

 南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、"地獄の四日間″ということになろう。(P464-P465)

 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。

 南京を離れるとき、われわれ一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。


 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。

 南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。

 首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼籍に較べたらおとなしいものだった。

 南京にいる外国人は全員無事である。


 同情の機会を失う

 中国人との友好を主張しているにもかかわらず、日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。

 中国軍の士気の完全な崩壊と、それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、日本軍が入城してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。中国防衛軍の行為ほどには悪くなりえないだろうという気持があった。が、その幻想はたちまち破れてしまった。

 罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したにちがいない。しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。


 五フィートも積もる死体

 まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。

 陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィート(約一・五メートルー訳者)の厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。

 市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡江船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。(P466)


 米公使宅襲撃さる

 日本軍の略奪はすさまじく、それに先だつ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。

 アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、日本軍は看護婦から金や時計を奪った。また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。

 以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。(P467)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)

*この記事の原文(英文)は、笠原十九司氏「教材紹介 最初の南京大虐殺報道」(歴史地理教育 No409 1987.3)で見ることができます。


 
一九三七年十二月十七日

特派員の描く中国戦の恐怖
 ―南京における虐殺と略奪の支配


◇パナイ号の犠牲者はまる三〇分も日本の銃火の下に
(編集部注:《シカゴ・デイリー・ニューズ》紙特派員A・T・スティールは生命の危険を冒し、アメリカ人読者に日本軍による中国首都の包囲と略奪の悲劇的物語を伝えるため困難と恐怖に耐え抜き、アメリカ軍艦のおかげで無事上海に生還した。以下の諸電報は、日本軍が南京に入城しそして中国の領海から外国船舶を駆逐しようとした運命的な日々に彼自らが目賭 (ママ)し、また目撃者から聞いたことがらを語っている。)

A・T・ステイール

<シカゴ・デイリー・ニューズ>外信部特電
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三七年


 南京、十二月十四日発(遅着)。日本側報道は喜々として日本軍の南京攻撃と占領、勝利の軍隊の入城の模様を伝えているが、陥落前後にこの首都城内で演じられた恐るべき人間ドラマについてはほとんどなにも語っていない。

 あまりにも多くの興奮、哀感、苦痛、恐慌と蛮行がこの数日間に詰め込まれており、わずか数百字では、また数千字を費やしても、とてもうまく語ることができない。この物語で私が行うことができることはただ、この町が体験したことについて何らかの印象を伝えるであろうとの願いを込めて、私自身が見たいくつかの事を述べることである。

 私は、中国軍が城壁周辺の民家と商店の町並み全体に不必要にも火を放ち、日本軍の攻撃を防ごうという不毛の努力のために数千の人々を追い立てたのを見た。(P467)


 激烈な南京砲爆撃

 私は、南京の防御に対する二日間にわたる猛烈な砲撃を、そしてそれが最後には中国軍の抵抗を弱め、粉砕したのを見た。

 強力に防御された南門(中華門)に対する日本軍の最終攻撃に伴う、砲撃と機銃掃射の轟音を聞いた。そこでは高々と上がる炎のたいまつが戦場を照らしていた。

 のちに、私はこの門外で虐殺の光景を見た。焼け焦げた廃墟の中に電線・電話線が落ち散らばる混乱のなかに、少なくとも一千の兵士の死体が、考えられるかぎりでありとあらゆる死の姿態を成して横たわっていた ― 明らかに城門の閉鎖で逃げ場を失ったのだ。

 また、中国軍が商店の窓から強奪するのを見た。だが後には、日本軍が公然と略奪作戦を行い、商店ばかりでなく、民家や病院、難民キャンプにおいてもそうするのを目撃した。

 中国軍の大群が唯一の出口である市の北門から撤退して行くのを目撃した。それから私は、急いだ、しかし秩序ある撤退であったものが乱雑な殺到と化し、そして最後の退路が断たれるとともに混乱を極めたパニックとなっていった。


 兵士たちは服を脱ぎ捨てる

 何百という中国人が路上で軍服を脱ぎ捨て、平民の服を着ようとしている者も、下着のまま逃げていく者もいるのを見た。大勢が私や他の外国人に近寄ってきて、銃と金を差し出し、見返りに保護してほしいと懇願した。

 恐怖で反狂乱になった部隊が国際委員会本部に無理やり進入しようとして拒否されると、小銃、拳銃と機関銃を塀越しに驚いた宣教師たちの前に投げ入れていた。宣教師たちは日本軍に引き渡すため用心深く武器をしまいこんだ。

 また、以下のようなことをも目撃した。

 怯えた一兵士がドイツ国旗の下で這っていた。何百という負傷兵が一人一人の通行人に助けを求めながら道路を這い、びっこを引いて歩いて行った。日本軍将兵が略奪品輸送に使おうと苦力やロバを徴発していた。日本の機関銃隊が月明かりのなか街路を走行し、走る者なら誰でも、またそうでない者をも射殺していった。

 日本軍は虱潰しに家々を捜索していき、多数の便衣兵容疑者を捕らえていた。これら多数の縛られた者たちが一人一人銃殺されていき、その傍らでは同じ死刑囚がぼんやりと座って自分の順番を待っているのであった。


 無力な住民が突き刺される

 私は、日本軍が無力な住民を殴ったり突き刺したりしているのを見た。また病院では、大勢の市民が銃剣創傷で若しんでいるのを見た。(P468)

 また街路という街路に死体が散乱しているのを見た。そのなかには人に傷害を与えたとはとても思えない数名の老人も含まれていた。また処刑された男たちの死体の折り重なる山をも見た。

 私は北門(挹江門)でおぞましいものを見た。そこにはかつて二〇〇人ほどの人間であったはずのものが、くすぶる肉塊と骨片の集積となっていた。

 城門を出て、城壁に吊り下げられた衣服や毛布で作った紐縄を見た。城門が閉鎖されたことを知った後に大勢がそこから町を脱出したのだが、ただより恐ろしい死の罠にはまっただけであったのだ。(P469)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)

*パナイ号関係の記事が続きますが、省略します。


一九三七年十二月十八日

南京のアメリカ人の勇敢さを語る             

A・T・ステイール

<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特電
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三七年


上海、十二月十八日発。南京の陥落は虐殺と混乱の恐ろしい光景であったが、もし攻撃の間ずっと残留した少数のアメリカ人とドイツ人との勇気ある活動がなかったなら、状況は限りなくもっと恐ろしいものになっていたであろう。

 これらの外国人は、この攻撃下の町の一〇万の市民の福祉のためにのみ働き、ほとんど自分の生命を代価とするくらいの危険を冒した。

 アメリカの宣教師が無実の中国人のために仲裁したことは、日本軍の残酷な掃討作戦の間、多くの生命を救った。

 日本軍の巡回部隊が街路を走り、家々を捜索し、多数の人々を便衣兵容疑者として逮捕していった。そのうち帰ってきた者は少数だが、それによれば捕らえられた仲間は略式裁判もなしに、殺戮されたという。

 私はこれら処刑部隊の一つを目撃し、その他の人々の恐ろしい結末をいくつもいくつも見てきた。より辛かったのは、決して帰ってこないであろう息子や夫たちを返してくれるよう哀願する女たちの泣き喚き、むせび泣くのを聞かなければならなかったことだった。


 外国人一名が負傷

 南京戦で負傷した唯一の外国人はあるドイツ人で、彼は窓の外で砲弾が爆発した際に飛び散るガラスの破片でけがをしたものだ。だが、最後まで頑張り通した一六人のアメリカ人はみな、身の毛のよだつ南京陥落の物語を語ることができた。

 そのなかでも、二人のアメリカ人医師C・S・トリマーとロバート・ウィルソンほど厳しい試練を経たものはいないであろう。二人は、多くの中国人同僚が逃げてしまったのにもかかわらず、キリスト教病院に連れてこられる重傷の中国人をすべて引き受けたのだった。

 切断手術は毎時間の仕事であった。ウィルソン博士が微妙な手術を行っているときに、一爆弾が病院の中庭で炸裂し、窓を破壊し、手術室に瑠散弾片を撒き散らしたが、手術はなおも続けられた。両医師は一般患者の治療で忙殺されており、 兵士は受け入れられず、軍の病院に行くように指示するのだが、治療を求める兵士の構える銃口を覗きこむ羽目になることなどもあった。そのような場合、うまく切り抜けるのには技量を要した。(P471-P472)

 後には新しい脅威も現れた。病院に現れる日本兵は、恥知らずにも、中国人看護婦から時計や宝石類を奪って行った。


 他のアメリカ人の英雄的行為

 他のアメリカ人も、いわゆる安全区内に集中した数千の飢えた人々に食料を給与するため、瑠散弾や砲弾のなかで英雄的に活躍した。最も積極的な人は、もとシカゴ大学、今、金陵大学のルイス・スマイスであり、彼はまったく個人の安全を度外視して活躍した。

 イリノイ州スィーカーのミニ・ヴォートリン嬢は、金陵大学に避難所を求めてきた一千の飢えた婦女と子供の世話をしてきた。日本兵の砲弾が危険なほど近くで爆発し、さらに日本兵がこのミッション・スクールの構内に中国人教職員の家屋を略奪しようと入ってきたときには、彼女はてんてこまいであった。教会関連施設で何らかの戦争の脅威を受けなかった者は、ごく少数である。

 私自身も苦労は多かったのだが、砲弾が家の裏の教会に一撃を食らわせた後になって、ようやく身の危険を覚った。


 安全区内の砲弾

 防備を固められた南京の中心部に外国人の委員会によって安全区が設立されたが、その建設には巨大な気迫が基礎となった。というのも、初めから両交戦者とも十分これを尊重しようとしなかったからである。

 地区内にも多数の砲弾が落ちたり、ときとして流れだまや瑠散弾片を俗びたりするのだが、それでもこの国の他の地方に比べれば、ずっと安全であったろう。

 なんとも哀れを誘ったのは、このかつてきわめて民族主義的であった首都の中国人が、外国人に保護を求めて群がる様子であった。

 一〇年前、蒋介石総統の国民革命軍が反外国人的スローガンを高唱しつつ南京に入城したときには、アメリカ国旗を掲揚でもしようものなら死を招いた。それが今では、外国国旗の下で保護が得られるならば、何千という中国人が生命以外の何でも差し出すであろう。

 中国防衛軍の崩壊から南京の占領に至るあの混乱の四日の間、中国人は少数の外国人宣教師と商人が運営する国際委員会の命令と忠告に、従順に、また熱烈に服従したのであった。当時、同委員会は市の唯一の行政機関であった。

 逃げ場を失い、恐怖でヒステリカルになった兵士たちさえ、委員会本部を包囲して迫り来る敵軍に対する保護を卑屈に嘆願するのであった。(P472-P473)

 中国軍は完全に士気が瓦解したのにもかかわらず、安易な略奪の餌食になりうる外国人に向かってくることはなかった。これは注目に値する。日本兵はこれと異なり、外国人の権利を嘲笑し、大使館の掲示や国旗ではっきりと表示された外国人財産に繰り返し侵入した。

 私たちはみな、負傷者を病院に運ぶのになんらかの形で参加した。街路は負傷者でいっぱいであり、助けてくれ、と哀れに懇願するのにはあらがいがたかった。(P473)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)


 
一九三八年二月三日

南京占領時の中国人のパニック
◇いま暴露される恐怖と残虐の光景
(編集部注:南京の包囲と略奪の物語を外界に完全な形で伝えた最初の報道陣である《デイリー・ニューズ》紙特派員は、その後あの恐ろしい日々に中国人と日本人が行ったことに関する以下の文章を書いた。スティール氏の未検閲の記事は二回に分けて発表され、これはその上篇にあたる。〉

A・T・ステイール

<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特別通信
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三八年


   南京発。パニックに陥った人間は信じられないようなことをする。南京で日本軍の猛烈な砲撃下に中国軍の抵抗が突然崩壊したとき、私は中国で打ち続く六年間の戦争で目撃したよりもより野蛮な混乱を目にした。

  館員の退去したアメリカ大使館でAPのC・Y・マクダニエルと座っているときに、中国軍の崩壊はやってきた。砲弾と瑠散弾はこの三日間ずっとそうであったように、単調な規則性をもって首都付近の地点で炸裂していた。私たちの知るかぎり、日本軍は市の南門である中華門で城壁を破壊しようと努めていた。

 大使館中庭の騒ぎが、なにか事が起こったのを告げた。中国市民 ― 男も女も子供も ―  が門を抜けて大使館敷地内になだれこんで来るところであった。いずれも寝具や包みの重たい荷を背負って、あたかも驚いた地ネズミの大群のように館の防空壕に急ぎ入るところであった。


 噂が本当に

 「あの連中は何だ。いったい彼らはどうしたんだ」と、中国人の用務員に開いた。

 恐怖で目を丸くした用務員は震えていた。(P473)

 「あれは大使館使用員の親類縁者、三百人ほどです。」彼は言った。「日本軍が追ってきた、ここが知っているなかでいちばん安全なところなので避難しにきた、とのことです」。

 私たちは笑って、用務員に、「親戚に、穴から出てきて家に帰るよう言いなさい。また中国人の噂にだまされたのだね」と言った。

 だが、こわがる避難民は、それはデマだという言葉を決して信用しなかった。少しでも動こうとしなかった。それが正解であったのだ。というのも、中国では不可思議な巷の噂が、新聞よりもずっと早く虚実取り混ぜて情報を伝えるのであるが、今回は実際、事実に基づいたものであったからだ。三〇分後、中国軍まる一個師団が大使館の横を駆けて逃げていくのを見たとき、私たちはそのことを悟った。


 将校が退却を阻止する

 数人の青年将校が、退却する大群の進路に立ちはだかって、食い止めようとしていた。激しい言葉が交わされ、ピストルが鳴った。兵士たちはいやいや向きを変え、前線に向かってのろのろと戻り始めた。だが盛り返したのは束の間であった。三〇分以内に中国軍の士気は瓦壊し、全軍が潰走することになった。

 もはや、彼らを押しとどめるすべもなかった。何万という兵士が下関門(挹江門)に向かって群れなして街路を通り抜けていった。この市の西北隅の門が彼らに開かれた唯一の退却路で、門の半マイル向こうに長江が流れ、そこに一群の艦船が先に着いた者を待っているのだった。

 午後四時半頃、崩壊がやってきた。初めは比較的秩序だった退却であったものが、日暮れ時には潰走と化した。逃走する軍隊は、日本軍が急追撃をしていると考え、余計な装備を投げ捨てだした。まもなく街路には捨てられた背嚢、弾薬ベルト、手榴弾や軍服が散乱した。

 兵士らが、退却の主要幹線道路である中山路からわずか数ヤードしか離れていない交通部の百万ドルの庁舎に放火したとき、地獄は激しく解き放たれた。そこは弾薬庫として使用されてきており、火が砲弾・爆弾倉庫に達したとき、恐ろしい爆音が夜空を貫いた。

 銃弾と砲弾の破片が高くあらゆる方向に甲高い音を出して散り、河岸に至る道路をうろうろする群集のパニックと混乱をいっそう高めた。燃え盛る庁舎は高々と巨大な炎を上げ、恐ろしい熱を放った。パニックに陥った群集の行列はためらって足を止め、交通は渋滞した。トラック、大砲、オートバイと馬の引く荷車がぶつかりあってもつれ絡まり、一方、後ろからは前へ前へと押してくるのであった。

 兵士たちは行路を切り開こうと望みなき努力をしたが、むだであった。路上の集積物に火が燃え移り、公路を横切る炎の障壁をつくった。退却する軍隊に残っていたわずかばかりの秩序は、完全に崩壊した。いまや各人がばらばらとなった。

 燃える障害を迂回して何とか下関門に連することのできたものは、ただ門が残骸や死体で塞がれているのを見いだすのだった。(P474-P475)

 それからは、この巨大な城壁を越えようとする野蛮な突撃だった。脱いだ衣類を結んでロープが作られた。恐怖に駆られた兵士らは城壁から小銃や機関銃を投げ捨て、続いて這い降りた。だが、彼らはもう一つの袋小路に陥ったことを見いだすのだった。あらゆる舟は、運良く最初にそこに到達した人々を乗せてもう行ってしまっていた。


 地上の脱出路なし

 日本軍は全方向から包囲侵攻してきていたので、陸路で脱出できる見込みはなかった。川が唯一の出口であった。何百という人々が長江に飛び込み、死んでいったと言われる。もっと冷静な人々は手間をかけて筏を作り、うまく川を越えて逃げのびて行った。さらに江岸の建物内に隠れて、のちに日本軍に捜し出され殺される者もあった。

 一方、何千という人々が城外に脱出できなかった。彼らはまったくの混乱状態で、夜通し街路を当てもなくさまようのだった。日本軍は南門を突破した後、夜明けまでに拠点を確保し、掃討作戦に取りかかった。それまでにすでにすべての抵抗が瓦壊しており、日本軍はほとんど一発も銃火を発せずにも全市を占領できたであろう。

 中国軍−その何とか残った部分−は、すでに怯え混乱した群集と化しており、いくらかでも憐憫の情をたれれば、喜んで降伏したであろう。しかし日本軍は虐殺を決心していた。彼らは手を下しうるすべての将兵を殺戮するまでは、満足しないつもりだった。

 降伏した者にも容赦はなかった。彼らもまた同じように処刑場まで行進して行かされた。軍法会議も裁判もなしだった。予想されるとおり、何百という無実の市民がこの恐怖の支配の間に逮捕され、虐殺された。(P475)

(「「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)


 
一九三八年二月四日

記者は、パニックの南京の中国人虐殺をアメリカのジャックラビット狩りに比す

(編集部注:南京の包囲と略奪の物語を外界に完全な形で伝えた最初の報道陣である《デイリー・ニューズ》紙特派員は、その後あの恐ろしい日々に中国人と日本人が行ったことに関する以下の文章を書いた。スティール氏の未検閲の記事は二回に分けて発表され、これはその下篇にあたる。〉
             

A・T・ステイール

<シカゴ・デイリー・ニューズ>紙外信部特別通信
<シカゴ・デイリー・ニューズ>社版権所有、一九三八年


 南京発。西部でジャックラビット(プレーリーに棲む耳の長い大ウサギ−訳者)狩りを見たことがある。それは、ハンターのなす警戒線が無力なウサギに向かってせばめられ、囲いに追い立てられ、そこで殴り殺されるか、撃ち殺されるかするのだった。南京での光景はまったく同じで、そこでは人間が餌食なのだ。 逃げ場を失った人々はウサギのように無力で、戦意を失っていた。その多くは武器をすでに放棄していた。

 日本軍が街路をゆっくり巡回して、走ったり疑わしい動きをするものなら誰でも、機関銃と小銃で射殺するようになると、敗退し闘志を失った軍隊はいわゆる安全区になだれこんだ。そこは掃討を受けていない最後の地域の一つであったが、一方、街路は地獄であった。

 まだ軍服を着ている兵士はできるだけ早くそれを脱ぎ捨てていた。町のあちこちで兵士が軍服を投げ捨て、店から盗んだり銃口を突きつけて人から引き剥がしたりした平服を身につけているのを見た。下着だけで歩き回る者もいた。中国の役人の家から盗んだらしい山高帽に下着だけの格好で、ある兵士が得意げに町を散策しているのも見かけた。


 銃砲の散乱する街路

 小銃は壊され、山と積まれて燃やされた。街路には遺棄された軍服や武器、弾薬、装備等が散乱した。平時であれば、一般住民−まだ約一〇万人が市内にいた−はかかる逸品を得んと奪い合うのだが、いまや軍服や銃を持っているところが見つかれば殺されることを誰もが知っていた。

 だが数人の老婆がうろつき、軍服を切って中の綿を抜き取り、喜色満々とポロ家に運んでいった。そのとき、軍が米でいっぱいの倉庫を放棄したという話が広まり、安全区中の小屋という小屋、壕という壕から人々が飛び出してきて、怒涛のように倉庫に押し寄せ、中身を数時間で奪い尽くした。

 日本側の捜索網がせばめられるにつれて、恐怖のあまりほとんど発狂状態になる兵士もいた。突然、ある兵士が自転車をつかむと、わずか数百ヤードの距離にいた日本軍の方向に向かって狂ったように突進した。道行く人が、「危ないぞ」と警告すると、彼は急に向きを変え、反対方向に突っ走った。突如、彼は自転車から飛び降りるなりある市民に体当たりし、最後に見たときには、自分の軍服を投げ捨てながらその男の服を引き剥がそうとするところであった。(P476)


 ドイツ人が兵士を殴る

 ある兵士は騎馬して当てもなく路上を走り、理由もなくただ拳銃を空に向けて放っていた。市内に残った少数の外国人の一人である屈強な一ドイツ人は、なんとかせねばならんと決めた。彼は、兵士を馬から引きずり下ろすと、銃をもぎとり、横っつらを殴った。兵士は呻き声も出さずにこれを受けた。

 パニックになった兵士たちは、走行中の私の車の上に飛び乗り、どこか安全な場所に連れていってくれと哀願した。銃と金を差し出し、見返りとして保護を求める者もいた。怯えた一群の兵士たちが、少数のアメリカ宣教師とドイツ商人によって設立された安全区国際委員会本部の周りに群がった。彼らは、構内に翻るドイツ国旗が一種の災難除けのお守りにでもなると信じて、入れてくれるよう懇願した。

 とうとう、その一部が銃を捨てながら門に押し入り、外にいた残りの兵士も銃器を塀を越えて投げ入れだした。拳銃、小銃と機関銃が中庭に落ち、宣教師によって慎重に拾い集められ、日本軍に差し出させるためにしまい込まれるのだった。


 なんらなす手はなし

 武装解除した兵士たちについては、外国人にできることはほとんどない。もっとも、おそらく彼らの進入が、中国軍の突然の退却後南京に取り残された何千という負傷者の生命を救ったのであるが。

 日本軍は兵士と便衣兵を捕らえるため市内をくまなく捜索した。何百人もが難民キャンプから引き出され、処刑された。男たちは二、三百人ずつのグループで適当な処刑場に集められ、小銃と機関銃で殺された。あるときは、捕らえられた数百人の集団を片付けるため戦車が繰り出された。

 私は集団処刑を一つ目撃した。数百人の男たちの一隊が大きな日本国旗を抱えて、街路を行進してきた。これに二、三人の日本兵が付き添い、空き地へ引き連れて行く。そこで彼らは小人数ずつ、残虐に銃殺された。一人の日本兵が小銃を手に、膨れ上がる死体の山を監視しており、少しでも動きを見せる人体があれば、弾丸を浴びせた。

 日本軍にとってはこれが戦争なのかもしれないが、私には単なる殺戮のように見える。(P477)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)

(2012.4.21)


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