極東国際軍事裁判判決
第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


 毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収 


 
極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)

 すべての証拠を慎重に検討し、考慮した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠を、このような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。

 本裁判に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から一九四五年八月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行われたことを証している

 数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口供書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行われた残虐行為について詳細に証言した。

 それは非常に大きな規模で行われたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行われたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為はただ一つしかありえない。すなわち残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。

 残虐行為に対する責任の問題に関して、被告の情状と行為を論ずる前に、訴追されている事柄を検討することが必要である。この検討をするにあたって、被告と論議されている出来事との間に関係があったならば、場合によって、われわれは便宜上この関係に言及することにする。そして一般的には、差支えない限り、責任問題に関連性のある事情は、後に取扱うことにする。

 一九四一年一二月の太平洋戦争開始時、日本政府が、戦時捕虜と一般人抑留者を取扱う制度と組織を設けたことは事実である。表面的には、この制度は適切なものと見受けられるかもしれない。しかし、非人道的行為を阻止することを目的とした慣習上と条約上の戦時法規は、初めから終りまで、甚だしく無視された。

 捕虜を冷酷に射殺したり、斬首したり、溺死させたり、またその他の方法で殺したりしたこと、病人を混えた捕虜が、健康体の兵でさえ耐えられない状態のもとで、長距離の行軍を強いられ、落伍した者の多くが監視兵によって射殺されたり、銃剣で刺されたりした死の更新、熱帯の暑気の中で日除けの設備のない強制労働、宿舎や医療品が全然なかったために、 多くの場合に数千の者が病死したこと、情報や自白を引出すために、または軽罪のために、殴打したり、あらゆる種類の拷問を加えたこと、逃亡の後に再び捕えられた捕虜と逃亡を企てた捕虜とを裁判しないで殺害したこと、 捕虜となった飛行士を裁判しないで殺害したこと、そして人肉までも食べたこと、これらのことは本裁判所で立証された残虐行為のうちの一部である

 残虐行為の程度と食糧及び医療品の不足の結果とは、ヨーロッパ戦場における捕虜の死亡数と、太平洋戦場における死亡数との比較によって例証される。

 合衆国と連合王国の軍隊のうちで、二十三万五千四百七十三名がドイツ軍とイタリア軍によって捕虜とされた。そのうちで、九千三百四十八人、すなわち四分が収容中に死亡した。

 太平洋戦場では、合衆国と連合王国だけから、十三万二千百三十四名が日本によって捕虜とされ、そのうちで、三万五千七百五十六人、すなわち二割七分が収容中に死亡したのである。(P258)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


戦争法規は中国における戦争の遂行には適用されないという主張

 奉天事件の勃発から戦争の終りまで、日本の歴代内閣は、中国における敵対行為が戦争であるということを認めるのを拒んだ。かれらは執拗にこれを「事変」と呼んだ。それを口実として、戦争法規はこの敵対行為の遂行には適用されないと軍当局は主張した。

 この戦争は膺懲戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。この戦争から起るすべての結果を甚だしく残酷で野蛮なものにして、中国の人民の抵抗の志を挫こうと、これらの軍指導者は意図したのである。

 蒋介石大元帥に対する援助を遮断するために、南方の軍事行動が進んでいたとき、中支那派遣軍参謀長は、一九三九年七月二十四日に、陸軍大臣板垣に送った情勢判断の中で、


 「陸軍航空部隊は奥地要地に攻撃を敢行し、敵軍及び民衆を震駭し、厭戦和平の機運をうん醸す。奥地進行作戦の効果に期待するところのものは、直接敵軍隊又は軍事施設に与ふる物質的損害よりも、敵軍隊又一般民衆に対する精神的脅威なりとす。

 彼等が恐怖の余り遂に神経衰弱となり、狂乱的に反蒋和平運動を激発せしむるに至るべきを待望するなり」(P258-P259)


と述べている。

 政府と軍の代表者は、同じように、戦争の目的は中国人にその行いの誤りを「猛省」させるにあるとときどき主張した。これは結局において日本の支配を受け入れることを意味したものである。

 一九三八年二月に、廣田は貴族院における演説で、


 「日本は武力に依って中国側国民政府の誤った思想を膺懲して行く外、一面に於ては、出来ることならば反省をさせたいと云うことに努力して参ったのであります」


と述べた。


 「彼等は非常な頑強な排日思想を持って日本に当っているから、是はどうしても膺懲せなければならぬと云う方針を決めました」


とかれは同じ演説の中で述べた。

 平沼は、一九三九年一月二十一日に議会における演説によって、かれのいわゆる「国民精神の昂揚」を始めたが、その中で、


 「現下我国朝野を挙げて対処しつつあります支那事変に対しましては、さきに畏くも聖断を仰ぎ奉り、確固不動の方針が定められて居ります。現内閣に於きましても、固より此の方針を行っているのであります。支那側に於きましても此の帝国の大精神を諒解し、之に協力することを要望するものであります。

 飽くまでも之を理解することなきものに対しては、之を潰滅することあるのみであります」


と述べた。(P259)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


軍の方針の樹立

 日本の軍隊によって犯された残虐行為の性質と程度を論ずる前に、このような行為を取締ることになっていた制度をきわめて簡単に述べておきたい。

 軍の方針を樹立する権限をもっていた者は、陸海軍両大臣、参謀総長、軍令部総長、教育総監、元帥府及び軍事参議院であって、陸海軍大臣は行政を担当し、教育総監は訓練を監督し、参謀総長と軍令部総長は軍の作戦を指導した。元帥府と軍事参議院の両者は諮問機関であった。

 陸軍は特権を与えられていた。その一つは、陸軍大臣の後継者を指名する独占的な権利である。陸軍はこの機能を行使することによって、その唱道する政策を絶えず固守させることができた。

 陸軍省では、政府の発案機関は軍務局であった。この局は、参謀本部、陸軍省の他の局及び他の各省と協調した上、陸軍大臣の署名のもとに発せられた法規の形式で、日本軍部の方針を公表した。一般に戦争の指導に関して、特に一般人抑留者及び捕虜の待遇に関して方針を立て、これに関する規則を発したのは、この軍務局であった。

 中国における戦争の間の捕虜の管理は、この局によって行われた。一般抑留者と捕虜の管理は、太平洋戦争の敵対行為が始まって、特別な部がその任に当るために創設されるまで、同局によって行われていた。

 被告のうちの三名が、この強力な軍務局に局長として在職した。それは小磯、武藤及び佐藤である。

 小磯は中国における戦争の初期、一九三〇年一月八日から一九三二年二月二十九日までの間在職した。武藤は太平洋戦争の開始の前から後にかけて在職した。かれは一九三九年九月三十日に同局の局長となり、一九四二年四月二十日まで在任したのである。

 佐藤は一九三八年七月十五日に任命されて、太平洋戦争の開始の前に軍務局に勤務し、武藤がスマトラの軍隊を指揮するために転任したときに、同局の局長となり、一九四二年四月二十日から一九四四年十二月十四日まで、局長として勤務していた。

 海軍省で右の局に相当するのは、海軍軍務局であった。海軍軍務局は、海軍のために法規を制定し、公布し、海上、占領した島及びその他の海軍の管轄下にあった領土における海軍の戦争遂行の方針を決定し、その権内にはいった捕虜と一般人抑留者を管理した。

 被告岡は、太平洋戦争の前とこの戦争中の一九四〇年十月十五日から一九四四年七月三十一日までの間、右の局の局長として勤務した。

 陸軍省では、陸軍次官が省内の事務を統括し、陸軍省のもとにあった各局や他の機関を統合する責任をもっていた。陸軍次官は戦場における指揮官から報告や申出を受け、陸軍省の管理に属する事務について陸軍大臣に進言し、しばしば指令を発した。

 被告のうちで、三名が太平洋戦争の前に陸軍次官として勤務した。

 小磯は一九三二年二月二十九日から一九三二年八月八日まで在職した。梅津は一九三六年三月二十三日から一九三八年五月三十日までの間、この地位を占めていた。東條は一九三八年五月三十日に陸軍次官となり、 一九三八年十二月十日まで在職した。木村は太平洋戦争の前から後にかけて陸軍次官であった。かれは一九四一年四月一日に任命され、一九四三年三月十一日まで在職したのである。

 最後に、もちろんのことであるが、戦場における司令官は、その指揮下の軍隊が軍紀を維持し、戦争に関する法規と慣例を遵守することに対して、責任を負っていた。(P259)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


中国戦争で捕虜となった者は匪賊として取扱われた

 国際連盟は一九三一年十二月十日の決議でリットン委員会を設け、事実上の停戦を命じたが、この決議を受諾するにあたって、ジュネーヴの日本代表は、日本軍が満洲で「匪賊」に対して必要な行動をとることを、この決議は妨げるものでないという了解のもとに、これを受諾すると言明した。

 決議に対するこの留保のもとに、満洲の中国軍に対して、日本の軍部は敵対行為を続けたのである。

 日本と中国の間に戦争状態が存在しないこと、紛議は単なる「事変」であって、これには戦争法規が適用されないこと、日本軍に抵抗していた中国軍隊は合法的な戦闘員ではなくて、単なる匪賊であることを日本の軍部は主張した。(P259-P260)

 中国軍の主要部隊は、一九三一年の末に長城内に撤退したが、日本軍に対する抵抗は、広く分散した中国義勇軍の部隊によって絶えず続けられた。関東軍の特務部は、一九三二年に義勇軍の小区分として編成されたところの、いわゆる中国の路軍の名を多数挙げていた。これらの義勇軍は、奉天、海城及び営口付近の地帯で活躍した。

 一九三二年八月に、奉天のすぐ近くで戦闘がおこった。この奉天の戦闘が最高潮にあった一九三二年八月八日に、陸軍次官小磯が関東軍参謀総長兼関東軍特務部長に任命された。かれは一九三四年五月五日までこの職にあった。

 一九三二年九月十六日に、敗退中の中国義勇軍部隊を追撃していた日本軍は、撫順付近の平頂山、千金堡及び李家溝に達した。これらの村落の住民は、義勇兵を、すなわち日本側のいわゆる「匪賊」をかくまったととがめられた。

 日本軍は各村落で村民を溝渠に沿って集合させ、強制的にひざまずかせ、それから非戦闘員であるこれらの男女子供を機関銃で射殺した。機関銃掃射から生きのびた者は、直ちに銃剣によって刺殺された。この虐殺で非戦闘員二千七百人が命を失った。日本の関東軍は、その匪賊絶滅計画によって、これを正当なものであると主張した。

 それから間もなく、小磯は陸軍次官に対して「満洲国指導要綱」を送り、その中で、「日支両国間の民族闘争は亦之を予期せざるばからず、之が為其の止むなきに方りては武力の発動固より之を辞せず」と述べた。

 中国軍に実際に援助を与えたり、または与えたと想像されると、その報復として、右の趣旨で、都市や村落の住民を虐殺する慣行、すなわち、日本軍のいわゆる「膺懲」する慣行が用いられた。

 この慣行は、中日戦争を通じて続けられた。その最も悪どい例は、一九三七年一二月における南京の住民の虐殺である


 日本政府が中日戦争を公式には「事変」と名づけ、満洲における中国兵を「匪賊」と見做したから、戦闘で捕虜となったものに、捕虜としての資格と権利を与えることを陸軍は拒否した。

 中国における戦争を依然として「事変」と呼ぶこと、それを理由として、戦争法規をこの紛争に適用することを依然として拒否することは、一九三八年に正式に決定されたと武藤はいっている。東條もわれわれに同じことを申し立てた。

 捕えられた中国人の多数は拷問され、虐殺され、日本軍のために働く労働隊に編入され、または日本によって中国の征服地域に樹立された傀儡政府のために働く軍隊に編制された。

 これらの軍隊に勤めることを拒んだ捕虜のある者は、日本の軍需産業の労働力不足を緩和するために、日本に送られた。本州の西北海岸にある秋田の収容所では、このようにして輸送された中国人の一団九百八十一名のうち、四百十八名が飢餓、拷問または注意の不行届のために死亡した。(P260)

  (毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


盧溝橋事件後も方針は変わらなかった


 国際連盟と九国条約調印国のブラッセルにおける会議とは、ともに、一九三七年に盧溝橋で敵対行為が起ってから、中国に対して日本の行っていたこの「膺懲」戦を阻止することができなかった。

 中日戦争を「事変」として取扱う日本のこの方針は、そのまま変らずに続けられた。大本営が設置された後でさえも、中国における敵対行為の遂行に戦争法規を励行するために、いかなる努力も払われなかった。

 その大本営は、一九三七年十一月十九日に開かれた閣議で陸軍大臣がいい出したように宣戦布告を必要とするほどの規模の「事変」の場合に、初めてこれを設置することが適当であると考えられていたものであう。

 政府と陸海軍は完全な戦時体制を整えていたが、中日戦争は依然として「事変」として取扱われ、従って戦争の法規は無視された。(P260)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


南京暴虐事件


※「ゆう」注 この項のみ、『南京大残虐事件資料集 第1巻』より転載。完全一致は確認していないが、ざっと見たところでは毎日新聞社版と全く同文。


 一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。

 中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。

 中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。

 日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。

 目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。

 兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人・強姦・掠奪・放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。

 他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。

 これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。

 多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。 占領後の最初の一カ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した。

 日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調ベ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラックで運び去られた。

 日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃々々と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。 このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、六週間も続いた。こうして、全市の約三分の一が破壊された。

 
 男子の一般人に対する組織立った大畳の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国の一般人は一団にまとめられ、 うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年齢にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。

 
 ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為』について報告を受けた。この報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。

 城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。

 住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。

 南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

 中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。

 このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。

 後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。

 これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

 日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京国際安全地帯委員会に通告した。

 大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかったことを知らせた。

 軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。

 ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、二週間半から三週間にわたって恐怖はきわめて激しく、六週間から七週間にわたっては深刻であった。

 国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。

 松井は十二月十七日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、十二月十八日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。

 『自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪えぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんとす。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである』と。松井は約一週間市内に滞在した。

 当時大佐であった武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中、松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。

 南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。

 この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、一人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。

 南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその附近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。

 中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送った。

 南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送った。

 その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣・陸海軍大臣・外務大臣広田・大蔵大臣賀屋・参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。

 残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。

 このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約八十名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。一九三八年三月五日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戦争における『功労』によって叙勲された。

 松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている。かれは遂に処罰されなかった。

 日本陸軍の野蛮な振舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなった軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦・放火及び殺人は、南京が攻略されてから少くとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたって、引続き大規模に行われたのである。

 一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使館で外国の外交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送っていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を煽動していると非難する声明を行った。

 この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映しものである。

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P395-398) 


極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


戦争、広東と漢口に拡大

 1937年十一月十二日に上海が陥落し、松井が南京への前進を始めたときに、蒋介石大元帥のもとにあった国民政府は、その首都を放棄して重慶に移り、中間司令部を漢口に設置して抵抗を続けた。一九三七年十二月十三日に南京を攻略した後に、日本政府は北平に傀儡政府を樹立した。

 この占領地域の住民を「宣撫」し、かれらを「皇軍に頼らしむべく」、また中国国民政府を「反省」させようという計画は、上海と南京で採用され、南京で松井によって布告されたものであるが、それは既定方針を示すものであった。

 一九三七年十二月に、京漢線のシン台県に駐在した日本の一准尉の指揮する憲兵隊は、中国遊撃隊の容疑者として、七名の一般人を逮捕し、三日の間これを拷問し、また食物を与えず、それから樹木に縛りつけ、銃剣で刺殺した

 この軍隊からの兵たちは、これより前の一九三七年十月に河北省の東王家村落に現われ、殺人、強姦及び放火を行い、住民二十四名を殺害し、同村の家屋の約三分の二を焼き払った

 王家トンという同省のもう一つの村落も、一九三八年一月に、日本軍の一部隊におそわれ、一般人である住民四十名以上が殺された

 上海周辺地区の住民の多くは、南京とその他の華北の地方の者と同様な憂目を見た。上海で戦闘が終った後に、上海郊外の農家の焼跡で、農民とその家族たちの死体がうしろ手に縛られて、背に銃剣の傷跡があるのを発見した目撃者がある。

 松井の部隊は、南京への進軍中に、村落をあとからあとからと占拠して、住民の物を掠奪し、かれらを殺害し、恐怖させた。蘇州は一九三七年十一月に占領され、進撃中の軍隊から逃げなかった多数の住民が殺された。

 畑の部隊は、一九三八年十月二十五日に漢口に入り、この市を占領した。

 翌朝捕虜の大量虐殺が行われた。日本兵は税関埠頭に数百名の捕虜を集めた。それから、一度に、三四名ずつを小さい組にして選び出し、河の深いところい突き出ている桟橋の末端まで行進させ、そこで河の中に突き落し、さらに射殺した

 漢口前面の江上に碇泊していたアメリカの砲艦から目撃されていることを知ったときに、日本人はそれをやめ、違った方法をとった。かれらはいままで通り少数を組にして選び出し、小艦に乗せて岸からずっと離れた方へ連れて行き、そこでかれらを水中に投げ込み、そして射殺した。

 中国の海南島の博文市で虐殺事件が起ったのは、第三次近衛内閣のときであった。

 一九四一年八月の討伐作戦中に、日本海軍の一部隊が抵抗を受けずに博文を通過した。その翌日、部隊の分遣隊が博文に引返したときに、死後数日間経過したと思われる日本海軍の一水兵の死体を発見した。その分遣隊は、 この水兵が博文の住民により殺害されたものと想像して、住民の家屋と町の教会を焼き払った。かれらはフランス人宣教師と土民二十四名を殺し、その死体を焼き払った。(P262-P263)

 この事件は重要である。なぜなら、この虐殺の報道は広く知れわたったので、閣僚やその下僚は、日本の軍隊がいつも用いていた交戦の方法について知ったはずだからである。

 海南島における日本占領軍の参謀長は、陸軍次官木村にあてて、一九四一年十月十四日、この事件の詳細な報告をした。木村は、参考のために、直ちにその報告を陸軍省の関係各局に回覧し、それからこれを外務省に送った。これは陸軍の内外で広く回覧された。

 日本陸軍の戦争遂行の残忍な方法が依然として続けられたという一例は、満洲国にあった梅津の軍隊の一分遣隊の行為に現われている。それは皇帝溥儀のもとにある傀儡政権に対するあらゆる抵抗を鎮圧するための作戦中のことであった。

 一九四一年の八月のある夜に、この分遣隊は熱河省の西土地を襲った。彼等は同村を占領し、三百以上の家の家族を殺し、全村を焼き払った。

 広東と漢口の占領のずっと後でさえも、作戦をさらに奥地に進めている間に、日本側は同方面で大規模な残虐行為を犯した。

 一九四一年の末ごろに、日本軍は広東省恵陽に入城した。かれらはほしいままに中国の一般人の虐殺にふけり、老若男女の差別なく、銃剣で突き殺した。銃剣で腹部に傷を受けながら生きのびた一人の目撃者は、日本軍は六百余名の中国人を殺戮したことについて証言した。

 一九四四年七月に、日本軍は広東省の台山県に到着した。かれらは放火、強奪、殺戮、その他の数数の残虐行為を犯した。その結果として、五百五十九軒の店が焼かれ、七百名以上の中国の一般人が殺された

 漢口から長沙に向って、日本軍は戦闘を進めて行った。一九四一年九月に第六師団の日本軍隊は、中国人捕虜二百余人を強制的に使って、かれらに大量の米、麦、その他の物資を掠奪させた。日本軍は反転するときに、これらの犯罪を蔽い隠すために、かれらを砲撃によって虐殺した。

 日本軍は長沙を占領した後に、同地方の到るところで、殺人、強姦、放火及びその他数々の残虐行為をほしいままに行った。

 それから、広西省の桂林と柳州へ向けて、さらに南下した。

 桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。

 一九四五年七月に、桂林から撤退する前に、日本軍隊は放火班を編制し、桂林の全商業区域の建築物に放火した。(P263)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


 
極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


帰還兵の語るかれらの行った残虐行為


 漢口の占領の後、中国から帰った日本の兵隊たちは中国における陸軍の非行の話を語り、かれらが奪ってきた掠奪品を自慢して見せた。

 日本に帰った兵隊のとったこの行為は、甚だ一般的なものとなったとみえて、板垣のもとにあった陸軍省は、国内と外国における芳しくない批評を避けることに努め、帰還将兵には、日本に到着したときに守るべき妥当な行動について訓示を与えるように、現地の指揮官に特別な命令を発した。

 これらの特別命令は陸軍省兵務局兵務課でつくられ、「極秘」とされ、一九三九年二月に、板垣のもとにある陸軍次官によって発せられた。これらの命令は、参謀次長によって、中国における日本の陸軍諸指揮官に通達された。

 これらの秘密命令は、是正すべき帰還兵の好ましくない行動を詳しく述べていた。兵隊たちが中国の兵士や一般人に対して行った残虐行為の話をするので困ると述べてあった。

 一般に話されたこれらの話のあるものは、次のようなものだと引用されていた。

「或る中隊には非公式に次のような強姦に関する訓示を与えた。『余り問題が起らぬように金をやるか、用を済ました後は分らぬ様に殺して置く様にしろ』」。

「戦争に参加した軍人を一々調べたら皆殺人、強盗、強姦の犯人許りだろう」

「戦闘間一番嬉しいものは掠奪で、上官も第一線では見ても知らぬ振をするから思ふ存分掠奪するものもあった」

「○○で親子四人を捕え、娘は女郎同様に弄んでいたが、親が余り娘を返せと言ふので、親は殺し、残る娘は部隊出発まで相変らず弄んで出発間際に殺して了った」

「約半歳に亘る戦闘中に覚えたのは強姦と強盗位のものだ」

「戦地に於ける我軍隊の掠奪は想像以上である」

支那軍の捕虜は一列に整列せしめ、機関銃の性能試験のため、全部射殺しあり

 兵隊に掠奪品を日本に輸送することを許すところの、部隊長の印のある許可証を、ある指揮官が部下の間に配布したということが認められた。

 これらの命令には、次のように述べてあった。

「帰還将兵の不穏当なる言辞は、流言飛語の因となるのみならず、皇軍に対する国民の信頼を傷け、或は銃後団結に■隙を生ぜしむる、等。愈々其の指導取締を厳正ならしめ、一は以て赫赫たる武勲に有終の美を済さしめ、一は以て皇軍威武の昂揚、聖戦目的の貫徹に遺憾なきを期せられ度重ねて依命通牒す」。(P263)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)



(以下、「死の行進」「他の強行軍」以外はタイトルのみ)


捕虜飛行士の殺害

虐殺

虐殺は命令によって行われた

極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


死の行進

 日本軍は、一地点から他の地点へ捕虜を移動するにあたって、戦争法規を守らなかった。捕虜は充分な食糧や水を与えられることもなく、また休息もなしに長途の行進を強制された。病人も負傷者も、健康な者と同様に行進させられた。

 このような行進から落伍した捕虜は、殴打され、虐待され、そして殺害された。多くのこのような行進について、証拠がわれわれに提出されている。

 バターンの行進は顕著な一例である。

 一九四二年四月九日、バターンでキング少将がその部隊を率いて降伏したときに、かれはかれの麾下の将兵が人道的な取扱いを受けるであろうと、本間中将の参謀長から保証された。

 キング少将は、バターンから捕虜収容所へかれの部下を移動させるのに充分なトラックを破壊しないでおいた。バターンにおけるアメリカとフィリッピンの兵隊は、食糧の割当が定量以下であったので、病人や負傷者の数が多かった。しかし、キング少将がトラックを使用することを申出たときに、それは拒否された。

 捕虜は暑熱の中を、百二十キロメートル、すなわち七十五マイルもあるバンバンガのサン・フェルナンドへ通ずる街道を行進させられた。病人も負傷者も強制的に行進させられた。

 路傍に倒れて歩行できなくなった者は射たれ、または銃剣で刺された。他の者は列から引き出されて殴打され、虐待され、そして殺された。

 行進は九日の間続き、日本の監視兵は、アメリカのトラックで運ばれてきた新規の監視兵と五キロメートルごとに交代した。

 最初の五日の間は、捕虜はほとんど食糧や水を与えられなかった。その後は、手にはいる水はたまにあった掘抜井戸か、水牛用の水溜りの水だけであった。捕虜が水を飲もうとして井戸の周りに集まると、日本軍はそれに発砲した。

 捕虜を射ったり、銃剣で刺したりすることは普通のことであった。死骸は路傍に散乱していた。

 本間中将の文官顧問として、陸軍大臣東條によって一九四二年二月にフィリッピンへ派遣された村田は、この街道を自動車で走り、街道に非常に多くの死骸を見たので、この有様について本間中将に尋ねてみる気になった。(P269-P270)

 「私はそれを見たのでただ質問したのでありまして、それを私はコムブレインしたのではありません」と村田は証言している。

 オドンネル収容所へ輸送されるために、捕虜はサン・フェルナンドで鉄道貨車に詰めこまれた。貨車の中は、ゆとりがなかったので立っていなければならなかった。疲労のためと換気が悪いためとで、多数の者が貨車の中で死んだ。

 バターンからオンドネルへのこの移動において、何人死亡したからは明らかでない。証拠によれば、アメリカ人とフィリッピン人の捕虜の死亡数は、およそ八千人であったことが示されている。

 オドンネル収容所では、一九四二年四月から十二月までに、二万七千五百人以上のアメリカ人とフィリッピン人が死亡したことが証拠によって示されている。

 東條は、この行進のことについて、一九四二年に多くの異なった筋から聞いたことを認めた。かれが受けた情報は、捕虜が暑熱のもとで長途の行進を強いられ、また多数の死亡者が出たということであったと彼は述べた。

 また、捕虜の不法な取扱いに対する合衆国政府の抗議が受取られ、死の行進があってから間もなく、陸軍省の各局長の隔週の会合で論議されたが、かれが問題を各局長の裁量に任せておいたことも、東條は認めた。

 フィリッピンにおける日本軍は、この事件について報告することを要求されなかったし、また一九四三年の初めに本間中将が日本に来たときには、この事件について話し合いもしなかったと東條は述べた。

 かれが一九四三年五月にフィリッピンを訪問したときに、初めてこの事件について尋ね、そのとき本間中将の参謀長と話し合ったが、参謀長は事件の詳細を報告したと東條は述べた。

 同様の残虐事件の再発を防止するために、かれが処置を講じなかったことについて、東條は次のように弁明した。

「日本の建前では、現地派遣軍司令官は其の与へられた任務の遂行に当っては、一々東京からの命令を仰ぐことなく、相当な独断権を以て之を遂行することになって居ます」と。

 このことは、日本の交戦方法では、このような残虐行為が起ることは予期され、または少くとも許されていること、それらを防止することについて、政府は無関心であったことを意味するものにほかならない。

 このような残虐行為は、太平洋戦を通じて繰返されたのであるが、それはバターンにおける本間中将の行為をとがめなかったことの結果であると解するのが適当である。(P270)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


極東国際軍事裁判判決 第8章 通例の戦争犯罪(残虐行為)


他の強行軍


 一九四二年二月に、オランダ領チモールで、港からタバン俘虜収容所への行進中に、負傷、飢餓、マラリア及び赤痢で苦しんでいた捕虜は、うしろ手に縛られて五日間歩かされ、家畜の群のように、日本人と朝鮮人の監視員によって駆り立てられ、打ちなぐられた。

 一九四三年と一九四四年に、イギリス領ニューギニアのウエワク、ブット及びアイタペの間で、インド人の捕虜たちがこれと同じような行進をさせられた。

 これらの行進中に、病気になり、主力から落伍した捕虜は射殺された。他のこれと同様な出来事についても証拠がある。

 以上述べたものは、ある場所から他の場所へ捕虜を移動するときに、過酷な状態のもとで行い、落伍した者はこれを殴打し、殺害することによって強行するという、日本の陸軍とその捕虜管理機関が用いたところの、当然と認められた普通のやり方を示すものである。

 ラナウ行進は、異なった種類に属する。

 これらの行進は、一九四五年の初期に始められた。そのころに、連合軍がクチンにへ上陸する準備をしているということを、日本軍はおそれていた。これらの行進の目的は、捕虜が解放されることを防ぐために、かれらを移動することであった。

 ラナウ村はボルネオのサンダカン西方百マイル余の密林の中で、キナバル山の東斜面にある。サンダカンからラナウへの小道は深い密林の中を通っており、狭くて車輛を通すことができない。

 最初の三十マイルは沼沢地で、ひどいぬかるみである。次の四十マイルは高地で、小さな険しい丘の上を通っており、その次の二十マイルは一つの山の上を通っている。最後の二十六マイルは全部登り道の山道である。

 オーストラリア人の捕虜は、この密林の細道に沿って、次々と行進を続けて移動された。捕虜はサンダカンの収容所から出される前に、すでにマラリア、赤痢、脚気及び栄養不良で苦しんでいた

 捕虜が行進に堪えられるかどうかを決定する試験は、殴打し、拷問にかけて立ち上がらせることであった。もし立ち上がれば、かれは行進に堪えるものと見做された。

 捕虜は、自分のわずかばかりの食糧とともに、監視兵の食糧と弾薬をも携帯することを強制された。

 四十名からなる捕虜のある一団は、この行進中、三日間に六本の胡瓜をかれらの間で分け合って命を繋がなければならなかった。行進の列から落伍した者は射殺され、または銃剣で刺し殺された

 行進は、一九四五年四月の上旬まで続いた。その小道には、途中で死んだ者の死骸が散乱していた。サンダカンからこれらの行進を始めた捕虜の中で、ラナウに到達したものは、総数の三分の一以下であった

 サンダカンで捕虜であった二千余人の中で、生き残ったことがわかっているものは、わずか六人だけである。これらのものは、ラナウのキャンプから逃げたので、生き残ったのである。

 病気が重くて、サンダカンから行進を始めることのできなかった者は病死し、または監視兵によって殺害された。(P270-P271)

(毎日新聞社『東京裁判判決 極東国際軍事裁判所判決文』所収)


泰緬鉄道

拷問とその他の非人道的取扱い

生体解剖と人肉嗜食

捕虜輸送船に対する攻撃

潜水艦戦

捕虜と抑留者の不法使役、飢餓及び冷遇

民族的必要に対する考慮 食糧と被服

医療品

宿舎

労役

捕虜と抑留者に対する宣誓署名の強制

過度かつ不法な処罰科せらる

捕虜に対する侮辱

制度

日本、一九二九年のジュネーヴ条約の適用に同意

捕虜虐待は一つの方針

日本の目的は日本国民の保護であった

俘虜情報局設置

俘虜管理部の設置

軍務局、支配権を保持

収容所とその管理

海軍もこの制度に関与

日本内地におけるこの制度の運営

台湾、朝鮮、樺太におけるこの制度の運営

占領地におけるこの制度の運営

占領地におけるこの制度を運営した被告

連合国の抗議

捕虜と一般人抑留者に対する虐待の黙認と陰謀


(2014.6.1)


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