フィリピン戦(供 ルソン島南部の「ゲリラ狩り」(2)
―「虐殺」の諸相―

 次に、「虐殺」の個別ケースにつき、見ていきます。

 多くの「事件」の中から、比較的被害者数の多い、「リパ」「カランバ」「サンパブロ」の3つのケースを紹介していくことにしましょう。



ケース1  リパの虐殺


 「More Documents on the Japanese Occupation of Philippines,検廖福悒▲献△寮次‖荵予検‘本軍はフィリピンで何をしたか』P41記載)によれば、バタンガス州リパGoogle地図参照)の虐殺は、1945年2月16日から3月19日にかけて断続的に行われ、犠牲者数は「12,005人以上」とされています。

 数字がどこまで正確であるかはわかりませんが、日本側・フィリピン側の証言はかなりの程度一致しており、ここで相当規模の「虐殺」があったことは間違いないでしょう。


 友清氏は、「虐殺」を直接目撃した証言を語っています。


友清高志『つぐないきれない罪を犯して』


 翌早朝、アニラオ、アンチポロから一六歳以上六〇歳までの男たち八〇〇人が、隊伍を整えてリパ市にやって来ました。みんな明るい顔をしています。集めたのは、通行証明書を渡すという理由です。ますます逼迫する状況に伴い、住民の行動は規制されている時だけに、誰しもこの話に飛びつきました。(P50-P51)

 市の南面入口に学校がありまして、まず各教室に全員を詰め込みました。校舎の北端のそで口から約五〇メートルの距離に雑木林があります。入口に机が一つ置いてあり、まる腰の兵隊が三人座っておりました。ここで村名と氏名を言えば、通行証明書を渡すという仕組みです。

 証明書を受け取った者は、各々家に帰るよう言い含めました。特に、アメリカの爆撃が激しい時だけに、敵機には、絶対姿を見せてはならないことを強調しました。

 丸腰のS軍曹らが、まず最初の一〇人を率引してそで口を出て来ました。そして、二〇メートルも行かない時です。

 「爆音! 爆音!

 とヤシ林の中から兵隊が叫びます。

 「おい爆音だ。走れ!」

 S軍曹が走り出すと、一〇人もつられて駆け出し、受付の机の横を駆け抜けました。その奥に朽ちかけた小屋がありました。

 「待て!」

 怒声とともに小屋の除から出て来たのは、二〇人の銃剣を構えた日本兵です。意外な情景に一〇人は、息を呑み、自分の目を疑いながら、ガタガタ震えています。素早く前手に縄をかけ、一〇人を数珠つなぎにすると、縄端をとったS軍曹が、雑木林の奥へと引き連れて行きました。

 一人一人の両脇腹には、二人の兵隊の銃剣がピッタリと付いています。奥の突き当たりは崖です。谷底七メートル余りの侵食渓谷で、白濁の水が流れていました。崖っ淵に来てS軍曹が命じました。

 「突け!」

 銃剣は、一人の鋼体を昌に貫きます。すぐさま軍靴の底を腰に当てて銃を引きますと、もんどりうつように一〇人は谷底に芋づる式に落ちて行きました。

 愛刀の試し切りをする将校もいました。日本刀を振り降ろし、あるいは横に薙ぐと、滝のような音を立てる血潮の圧力で、首は前に飛び、宙に舞い上がります。爆音は、谷の対岸の雑木林に隠してあった屋外発電機の音です。私はこれを始動する仕事を命じられ、そこからは虐殺のありさまが手に取るように見えたのです

 こうして、マニラ軍法会議で検察官をひんしゅくさせ、「世界戦史に汚点を残した」と弁護士諸氏まで慨嘆させた「リパ事件」は、朝の八時から夕方の六時までかかりました。

 薄闇の雑木林から、顔に、軍服に、返り血を浴び、三三五五出て来た疲労困憊の日本兵は、もしこの世に幽鬼というものが存在するなら、まさにこれかと実感させる姿でした。(P51-P52)

(『アジアの声 第四集 日本軍はフィリピンで何をしたか』所収)

 まず「通行証」を渡すと騙して住民を集める。さらに米軍機の来襲を装い、殺戮現場まで走らせる。そして銃剣で殺害する。

 概ね、そんなパターンが繰り返されたようです。


 同じ事件ではありませんが、「リパ」において「見張り役」を務めた、別の兵士の証言もあります。

『毎日新聞 1989.8.12朝刊』

「悲しい目 忘れられない」 妻子にも言えぬ"ルソンの虐殺"

旧日本軍兵士 44年ぶり告白

15日、大阪の反戦集会で



 菊沢さんは昭和十六年九月、入隊。旧満州国を経て十九年七月、ルソン畠に派遣された。首都・マニラ市から南約百舛離丱織鵐ス州リパ市の飛行場に駐屯する「八六飛行場大隊」の指揮下に入り、飛行機との通信などに従事していた。

 (略)

 さらに翌三月初句、部隊はある集落の全住民約二百人を小学校の講堂に集めて監禁。数人ずつ近くのがけっぶちに運行し次々と銃剣で刺し「処刑」。赤ん坊は両足首をつかんで頭を岩に打ちつけて殺したという。この時、菊沢さんは講堂の出入り口で見張り役だった。(P117)

(『アジアの声第四集 日本軍はフィリピンで何をしたか』所収)


 石田甚太郎氏『殺した殺された』は、日本側、フィリピン側の「生き残り」を片っ端から訪ね、膨大な証言を収集した労作です。

 「リパ」に関しても、何人かが語っています。なお、この本に登場する証言者の氏名はすべて仮名です。


石田甚太郎『殺した殺された』

小田健治さん(仮名)

リパか……。谷川の上でやった、あれか。実は俺も現場にいた。あれは山下兵団の命令でやったのだ。……あれほどやらなくてもよかったのに……。村の男をほとんどいなくしてしまった」(P90)



石田甚太郎『殺した殺された』

加地逸夫さん(仮名)

「その討伐はいつ頃かって? ……マリプニヨの近くにいたから、戦争も末期だな。

 その頃、マリプニヨ山の麓の村で大討伐をやった。現住民が千人近くいただろうな。酋長のゴンザレスが日本軍に言われて小学校に集めた。俺はやらなかったけど、暗くなってから殺しだした。女も子どももみんなやってしまった。命令だったからな」(P126)


 また、「殺した後に井戸に放り込む」パターンも目立ちます。(フィリピンの井戸は、日本のそれとは異なり、下が大きく広がっているようですので、念のため)


石田甚太郎『殺した殺された』

小田健治さん(仮名)

「戦争中の忘れられないことかい? やっぱり討伐だな。井戸に投げ込まれる前の女や子どもの泣声や悲鳴が、いつまでも耳に残って忘れられないよ。銃剣で一突きして井戸に投げ込むんだ。あっちの井戸は底が横に広がっているから、三、四百人ぶち込んでもまだ下の方なんだ。しまいには突かずに投げこんだよ」

「初めは、男だって殺せない。しかし、それをやる。今度は女になるとためらうが、それもやってしまうと、今度は子どもだ。子どものいた召集兵は、どうしても子どもだけは殺せないと言っていたが、ためらいながら殺していると平気になってしまう。まるで虫を殺すぐらいにしか思わない。今、蝿たたきで、何気なく蝿をたたくぐらいの感情になってしまうんだ。(P91-P92)

 ある討伐で住民を井戸に投げ込んだ。次の日見廻りに行くと、生き残りの女が死体の上で髪をとかしていたので、手榴弾を投げ込んだ。当時は、女でも子どもでも老人でも、生かしておかない方針だったからな。

 ある時、老婆が、井戸の中の生き残りに、食べ物を籠に入れて下におろそうとしているのを見つけた。生かしておけないからやってしまったよ」(P92)



石田甚太郎『殺した殺された』

 山城勇吉さん(仮名)はリパ飛行場大隊の整備係の上等兵であった。

「フィリピン時代には、ふだんではどうしてもやれないことをやってしまったよ。あれは斥候に行った時だったが、八人の子どもや女たちを殺したことがあった。その頃はフィリピン人を見つけたらば、誰でもかまわず殺せと命令されていた。みんなを後ろ手に縛ってから殺した。(P88)

 俺は二人殺したよ。勢いをつけて突いたらば、胸から背中に突き抜けて……。生きている人間をやったから血がなまぬるかっと。俺は二人殺し、後は軍曹がやった。手から胸のあたりまで返り血を浴びてしまったよ。

 その後、全員を井戸に投げ込んで始末した。次の日、井戸をのぞいて見ると、中年の女が井戸の壁に生えた草にしがみ付き、もう一方の手で、ぐったりした婆さんを、水に沈まないようにつかんでいた。そこで○○軍曹がこんな石を……」

 彼は言いながら両手で石をかかえ込むしぐさをした。

「頭の上から投げ込んでしまった。今でもあの場面が夢に出てくるので、身ぶるいして目をさますんだよ」(P89)


 友清氏も、「井戸の中の死体」を目撃した体験を語っています。


友清高志『ルソン死闘記』


 私から二メートルと離れていない場所に、コンクリートで固めた縁高の井戸がある。野村一等兵が駆け寄ってのぞき込むと、次の瞬間、はじかれたように後ずさった

人間がいっぱいです!

 野村は特に気の優しい男だったが、このころの私たちには、死骸は見慣れたものになっていた。

「どら、どら」

 四、五人がきそって井戸をのぞき込むと、うしろ手にくくられた十数人の住民が、重なり合っている

 死骸の上には、人間の頭大の石がたくさん投げ込まれていた。(P105)

 




ケース2  カランバの虐殺


 次に、ラグナ州カランバ(Google地図はこちらの虐殺を取上げます。

 こちらも「More Documents on the Japanese Occupation of Philippines,検廖福悒▲献△寮次‖荵予検‘本軍はフィリピンで何をしたか」P41記載)によれば、「虐殺」が生じたのは1945年2月12日、被害者数は「7,000人以上」とのことです。(念のためですが、「人数」がどこまで正確であるかは不明です)

 実行部隊は、歩兵第十七連隊第七中隊(長:種市幹雄大尉)と特定されています。


 フィリピン側の証言を見ましょう。

石田甚太郎『ワラン・ヒヤ』


(ドミナドーラ・アンカラスさんの証言)

 「あの朝、日本兵がやって来て男たちを小学校に集め、その後でカランバの教会に連れて行った。教会は男たちでいっぱいだった。ここからは四百人位連れて行かれ、バランガイ・リアールで殺されたよ。男ばかりで十六歳以上ということだったが、年令制限なしに連れて行った。

※「ゆう」注 「バランガイ」は、フィリピンの自治体単位。

 夕方五時頃、トラックでリアールに運ぶと一軒の家に連れ込んだ。家の中で目隠しをし、後ろ手に縛りあげてから殺しだした。俺は六カ所、前から四カ所、後ろから二カ所銃剣で突かれたよ。前からの一カ所は背中まで突き抜けていた」(P163)


 教会に男達を集め、リアールまで連行して殺害した、とのことです。この事件についての種市大尉の戦後証言は、次の通りです。


石田甚太郎『殺した殺された』

佐藤正造さん(「ゆう」注 種市大尉)


当時、カランバの教会のすぐ近くに駐屯していた憲兵隊から、ゲリラの不穏な動向を確認し関係部署に通報してきた。そこで、兵団本部からタナウワンに駐屯していた私の所に、『ゲリラ討伐』命令が下されたのです。しかし、私としては、無実のフィリピン人を殺した覚えはありませんよ」

―それでは、フィリピン人を集めた教会でゲリラかどうかの調査をしたのですか?

「憲兵隊からの通知だし、調べるにしても難かしいので……」

―それは日本側の勝手な理屈ですよ。殺されるフィリピン側からいうと、「ゲリラ容疑」だといっても調査もしないで殺されたんじゃ、たまったもんじゃないでしょ。そう思いませんか?

「そのゆとりもなかったし……」

―しかし、戦闘中ではなかったでしょ。アメリカ軍はまだバタンガスにも上陸もしてませんし、マニラ方面からも接近していませんね。一九四五年二月十二日でしたから。

「だが、あの二日前に、満州時代からのベテランの第○中隊長を含む五名が、ゲリラの待ち伏せに会って殺されたので、殺気だっていたのですよ」(P19)


 一応「無実のフィリピンを殺した覚えはない」と言い訳していますが、「ゲリラかどうかの調査」を怠ったことを認めています。


 ここでは「ゲリラ容疑者の男性」のみが被害者ですが、その周辺の村では「住民皆殺し」も行われた、と伝えられます。

『私の家族を殺した日本兵へ』

(フィリピン人犠牲者) ウェナベントゥーラ・ヘコリア

 

 ラグナ州カランバ市サンペロハン村から来日。五二歳。現在、同村の村長をしている。

 カランバの町では約二〇〇〇人が日本軍によって殺されているが、その周囲の村々でも日本軍によって粛清が行われ、ヘコリアさんの住むサンペロハン村でも、ほとんどの村民が虐殺され、生存者は約一〇人という

(略)

(略)

 あなたたち(「ゆう」注 日本軍)は村に入ってくると、村の中の一番大きな家に入って行きました。そこには、私の父親の家族と、伯父の家族が住んでいましたが、あなたたちは私たちを居間から追い出しました。その中には、男のほか、年老いた女性もいましたし、病気の女性もいました。

 そしてあなたたちは、一人の老人が自分の持っていた身分証を取り出して見せるとへそれをバラバラに引き裂いてその老人に投げつけました。

 さらに、八〇人の人たちをいくつかのグループに分けました。私は、母と伯父のグループと一緒に、別の家に移されました。私たちは縛られて連れて行かれたわけですが、その前にあなたたちの一人が、試験管に入った透明な液体を取り出したのを覚えています。それが使われたかどうかはわかりませんが、恐らく私たちを大量に殺すための毒薬だったと思います。

 グループに分けられた私たちは、それぞれの家に押し込められました。そしてあなたたちは、私たちを部屋の床に脆かせました。あなたたちは古い着物を探してきて、それを後に犠牲者となる人たちの顔にかけました。恐らくそれは、自分たちのすることを見られないためにということでしょう。

 そして、ひと目見たら気を失うようなことを始めました。次々に、座っている人たちを突き刺していったのです。その中には、私の兄もいましたし、妹もいました。私の三人の妹、姉、そして兄も含まれていました

 私の母親も、突き刺されました。私の母親はその時、五か月になるまだ小さな妹を抱いていました。あなたたちはその妹のお腹を突き刺して、その傷は母親の腹まで達しました。妹は、内臓がその傷からはみ出しました。母親の傷は、とてもひどいものでした。(P54)



 あなたたちは覚えていらっしやると思いますが、家を燃やした後、その家を見張っていました。そして、家から飛び出して来る人を見つけては、銃弾を使わずに銃剣で突き刺していったのです

 こうして七〇人の無実の民間人が殺されたのです。その中には、私の三人の姉と、二人の弟もいました。七〇人の人たちは共同墓地に埋められました。そして私たちはその後、虐殺のあった場所に記念碑を建てました。(P55)

(『アジアの声第四集 日本軍はフィリピンで何をしたか』所収)

 対応する日本側証言も残されています。


石田甚太郎『殺した殺された』

大原大三郎さん(仮名)


「これでもか、これでもかというほど、毎日毎日殺しましたよ。やる前も、やっている途中でも、終わってからでも、嫌で嫌でたまらなかったけど、命令だったから仕方なかった……。(P16)

 カランバでは、トラックでどんどん運ばれてくるんで、銃剣では間に合わない、麻縄を巻いて殺しました。首に麻縄を二重に巻いて相手の背中に膝を当てて、縄を後ろに力を込めて引っ張り、締めつけて殺したんです。あれでやると、百発百中でしたからね。

 そうやって女や子どもまで殺してしまった。いくらなんでも、子どもを殺さなくてもよかったのだが……


 あのことを考えるとあっちの人たちにすまなくて、フィリピンに足を向けて寝られない思いですよ」(P17)





ケース3  サンパブロの虐殺

 サンパブロの町は、リパの東北、カランバの東南の方向にあります。Google地図参照)

 1945年2月24日、ここで在比中国人約六五〇名及び比島人約八〇名が日本軍に殺害される、という事件が生じました。


石田甚太郎『日本軍はフィリピンで何をしたか』


 教会が焼かれた三日前の二月二四日にはロスバニオスから南下したサンパブロで、中国人の大虐殺がありました。中国人墓地の記念堂には、「一九四五年二月二四日、六〇〇人の中国人が日本陸軍によって虐殺された」と刻まれています。

 その日、彼らは、何か掘るものを持って教会に集まるように指示されました。男たちが出かけると、長めの横穴をいくつも掘らされました。日本軍は、彼らを葬る場所を彼らに掘らせたあとで虐殺したのです。このとき、フィリピン人も八〇人ほど殺されています。

 虐殺した日本軍は、藤兵団海上挺身基地第一九大隊でした。この大隊はサンバブロに転進する際、ゲリラの襲撃を受けたので、中国系住民の男たちすべてをゲリラとみなして、皆殺しを実施したのです。(P34-P35)

(『アジアの声第四集 日本軍はフィリピンで何をしたか』所収)

 この事件については、中田善秋軍属が、ただ一人事件の責任を取らされる形で、重労働三十年の判決を受けました(1953年釈放)。中田軍属は、部隊の将校でも下士官でもなく、「兵士」の肩書すら持たない、第十四軍報道部宣伝班宗教宣撫員であるに過ぎません。

 そのあたりの事情を、中田氏はこう語っています。


石田甚太郎『殺した殺された』


 「そのうちに戦犯の調べが始まった。ある時、P・W(「ゆう」注 戦争捕虜)の名簿を持ってくると、『この中に、サンパブロで知っている兵隊がいるはずだから名指ししてくれ』と言われた。だが、読んで見たが誰もいなかった。

 多くの者が戦犯になるのを恐れて、P・Wになる時に偽名を書き込んでいたんですね。たとえば加藤清正とか後藤又兵衛などと……。そういう名前で、P・Wの日本人を呼びに来るのですよ。なんだかおかしくなって。道理で、知っている名前がなかったわけです」

 「だから、正直に氏名と所属部隊名を書いた私が戦犯にされてしまったのです。それというのも、責任者の大隊長がP・Wになってから、捕虜収容所で自殺してしまった。最初は、『サンパブロ討伐の責任は全部自分が負う』と大きなことを言っていましたけどね。たぶん裁判を恐れてではないかと思います。

 さらに、中隊長は戦死です。そこで、軍属の僕がサンパブロ事件の責任者にされてしまった。おかしいでしょう。あの頃のフィリピン人は日本人に憎しみを持っていたから、日本人ならば誰が戦犯になろうがよかったのです」(P57)


 そして中田軍属が「戦犯」にされてしまった契機となったのは、またもやいい加減な「証言」でした。


『戦犯裁判の実相』

参考資料 サンパヴロケース

 後で判つた事だが、支那人で首を斬られた男が一名匍ひ出して助かつてゐたのだ。

 この男が中田に斬られたと、陳述してゐたのであつた。この陳述は有力なものとして取挙げられていた。このお蔭で私の陳述は全て嘘になつてしまつた訳だ。

 取調官は、私が全力をあげて殺人の事実をみとめまいと努力しているものと考えたのである。(P355)

 




 さて、この事件については、中田氏が詳細に事件について語った記録が残されています。以下、記録に沿って、事件の経緯を見ていきます。


 「命令」が伝えられたのは、1月末か2月初め、サンパヴロ市内駐屯部隊の情報連絡会同の席上でした。


『戦犯裁判の実相』

参考資料 サンパヴロケース

 さて右の会同に於て、この徹底的粛正討伐命令の事を発表したのは、最近ナスグブ方面から転進してきた第百一六漁労大隊の大隊長佐澤大尉であつた。彼の大隊がサンパヴロ市の警備にあたつてゐた。

 命令は当市の憲兵分隊や兵団直属の大久保中隊をも含んでゐた。佐沢大尉は当夜の会同に於て、この命令に基いて、命令実施の要領に就いて協議する積りでゐたらしい。(P349)

 

 席上、山口憲兵少尉は、この討伐に反対しました。

『戦犯裁判の実相』

参考資料 サンパヴロケース

 所がその席上に出てゐたサンパブロ憲兵分隊長山口清馬少尉は即座に、その命令には同意しかねる旨を述べた

 山口憲兵分隊長の意見は、斯る無暴にして無差別の住民の殺傷は、若し日本軍がこの度の米軍反攻作戦に相対して勝利すれば、その後の軍政に絶大の支障を来すことは火をみるよりも明らかであり日本軍に対する民衆の信頼は完全に失墜する事になる、のみならず二年間に亘って自分はこの市に駐在してきたが市民は実によく我々に協力して来てゐるのであつて、この様な命令を実施する事は、余りに無暴であるというのであつた。

 

 山口少尉の判断は冷静であり、大いに頷けるものです。藤兵団において「討伐」に反対した記録が残されているのは、私が知る限り、ほとんど唯一、この山口少尉のケースだけです。大きな勇気が必要だったことは想像に難くありません。

 山口少尉は、自ら兵団長藤重大佐を訪れ、意見具申をしましたが、かえって激しい叱責を受ける結果に終わりました。

 そこで中田軍属は、巧妙な「時間稼ぎ」の策を思いつきます。良民を識別するための「赤色証」の発行を具申したのです。この策は成功し、いったん「討伐」はうやむやになります。


『戦犯裁判の実相』

参考資料 サンパヴロケース

 私はこの行動をおくらせる方法として、良民を識別するための赤色証を憲兵隊で発行する様にせねばならないのではないかと准尉に話した。

 准尉は勿論討伐が分隊長の留守中におこなはれる事を欲してゐなかつた。准尉はこの旨を警備隊長に話しに行つた。そしてパス発行に同意させ、その事務に着手する事になつたのである。その為に部隊は移動しなくてよくなり従つて「討伐」も伸びる事になつた。

 その内憲兵隊長はおそるおそる、サンパヴロに皈つて来た。何もおこつてゐなかつた。そして「討伐」はのびる事になつてしまつた。私の遷策は成功したのである。(P350)

 

 しかし二月二十三日、兵団からは再度電話命令が届きます。もはや山口少尉や中田軍属が関与できないところで、事態は進行してしまいました。


『戦犯裁判の実相』

参考資料 サンパヴロケース

 ところが愈々二月二三日、米軍はマニラ方面から水陸両用戦車でもつて北方からラグナ湖を渡つて、ロス・パニオスを急襲して、ここにゐた米国人抑留民の脱回に成功し、この方面の戦斗は開始された。兵団からは電話で「討伐」は何うしても実施せよと云ふ連絡があつた

 その事を私が知つたのは廿三日の晩十時頃、山口分隊長の宿舎に呼び出された時であつた。

 其の時は既に、翌廿四日に討伐を実施する手筈が出来てゐた。宿舎に訪れると分隊長は私に残念乍ら愈々やる事になつたと云つた。(P351)


 中田軍属は、当日、教会に人々が集められる場面を目撃しています。


『戦犯裁判の実相』

参考資料 サンパヴロケース

 翌朝、廿四日、事件の当日、私は未明、山口分隊長、市長達を見送つた。私は一端事務所に皈つた。住民は教会に作業道具をたずさへてすでに集りつつあつた。(P351-P352)

 兵隊も隊伍を整へて教会に向つて私の事務室の前の道を前進するのが見えた。事務室からは八十米位のところにある教会(カソリック)が見えてゐた。

 警備隊の副官が私の事務所を訪れ、隊長が教会で訓辞するから通訳して呉れと頼まれたが私は断つた。

 裁判の時に、この日、教会の中には六〇〇〇名集つてゐたと云はれるが、そんなにまでもゐなかつたにしても、大きな教会堂の中にぎつしり良民がつまつてゐた事は確かである。

 警備隊長は憲兵隊のタガログ語通訳を通して、多数参集してくれた協力を感謝し、本日は支那人丈を使ふ事にする、何れ又の機会に比島人にお願ひする、と云ひ、支那人の吾人隊を先ず作り、それから比島人を帰すと説明した。

 此の時、どつと、教会内で喊声があげられた。比島人は喜んだのである。これは不思議な現象だと私は思つた。

 彼等は何事か直覚してゐたのであつた。

 別室で、支那人の吾人隊が逐次作られ、兵隊達に護衛されて出て行つた。私のボンヤリした記憶では五〇〇位支那人がいたのではないかと思ふ。この中に私は三人ばかし私の知人を見出した。その中にリム・テイクグワンと云ふ人がゐた。

 支那人が出て行つた後、次に比島人が一列になつて、別な出入口から帰された。この時、憲兵隊の原住民間諜が平素ゲリラに関係してゐるとにらんでゐる人の肩を叩くのであつた。

 叩かれた人は既に二階の一室にあげられてしまつた
。この二階に私の友人や事務所のラジオ修理工までが二階にのぼつてゆくのを私は階段の昇り口に腰をおろして見てゐた。この選定の任務は凡て憲兵隊に依つてなされてゐた。お昼過ぎまでこの事にかかつた。(P352)


 ただし、中田軍属の「目撃」はここまでです。彼らが殺されてしまったことは、中田軍属は「あとで知」ることになります。

 つまり、中田軍属は、「事件」には全く関与していません。にもかかわらず、冒頭でも述べた通り、ただ一人、サンパヴロ事件の責任を負って、有罪判決を受けることになりました。



 藤兵団のゲリラ討伐では、他にも多数の事件がありますが、これ以上は読む方にとっても煩雑なだけでしょう。詳しく知りたい方には、ここまで挙げてきた参考文献に直接あたることをお勧めします。


(2014.11.16)
  
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