日本を評価しない人々


 世界が「日本の戦争」をどう見ているのか。

 これに対しては、一面的な「回答」は難しいでしょう。国により、あるいは個人により、さまざまな「見解」がありえます。

 しかし少なくとも、世界中が「大東亜戦争」を褒め称えている、と断言したとしたら、それははっきりと「ウソ」です。しかしネットには、このような声のみを集めて、あたかも世界中が「日本の戦争」を評価しているかのようなイメージをつくっているコピペをしばしば見かけます。


 某掲示板で、私の前に、何の脈絡もなくこのようなコピペを並べてきた方がいました。こちらも遊び半分で、「日本を評価しない」声だけを集める、という、意地の悪いお返事をしてみました。

この「お返事」を、こちらに収録します。読者の方には、「評価」の声だけを集めるのは極めて一面的であり、世界には多様な見解がある、ということだけご理解いただければ結構です。

 中にはバー・モウのように、「一面評価、一面否定」のような方もいますが(バー・モウは日本軍政への「協力者」でしたので、「評価」の側面があるのは当然のことでしょう)、「大東亜戦争万歳」派を見習って(笑)、「否定」の面だけあえて強調します。

※念のためですが、私は、世界が「日本の戦争」に否定的評価を持っている、と主張しているわけではありません。「万歳派」の手法を使えばこんなこともできてしまう、という「遊び」です。


タゴール(インド) 1924年6月

 いまあなた方は、歴史のうえでもったことのないもの、属国というものをもっている。またあなた方より軍事力の弱い国を、一つ近隣にもっている。極めて率直にいわせていただければ、朝鮮人や、みなさんよりずっと不幸な人々への、不正な取り扱いの実例を、たまたま聞いて、私はひどく失望させられ、深く心を傷つけられている。

(大江志乃夫『張作霖爆殺』 P61-P62)

*インドの詩人。1913年ノーベル文学賞受賞。来日の際の公演。


ラウレル(フィリッピン)

 われわれフイリッピン人は日本軍のお蔭で独立しました。心底から有難い。この感謝は永久のものです。

 
しかし独立後に一体日本軍は何をしてきたか。われわれを抑圧するばかりである。われわれには現在実力がない。しかしもしわれわれが実力をもった後でもなお日本軍が今のように無軌道であるならば、必ず復讐します。

(『田尻愛義回想録』P113)

*日本軍政下でフィリッピン大統領を務める。大東亜会議にも出席。


バー・モウ(ビルマ)

 そのなかで最も重大なことは、戦時中の日本人の民衆に対する行為であった。まず酷で短気な日本軍人が残虐な振舞いをしたこと、そして、もっと残酷なやり方でビルマとビルマ人及びその資源を日本の戦いのために利用したことについては、疑う余地がない。戦争そのもの、そしてそれが生み出す情勢は残酷であり、また人を残酷にするものではある。

 しかしこれらの軍人はビルマ人の知っているすべての者よりはるかに残虐であった。これらの人々の残虐性、横柄さ、民族的自負はビルマ人の心に戦時中の記憶として深く残っている。東南アジアの非常に多くの人々にとっては、それらのみが戦争の記憶のすべてである。(P195)

(バー・モウ『ビルマの夜明け』P195)

*日本軍政下でビルマ首相を務める。大東亜会議にも出席。

※公正を期するために書き加えますが、バー・モウは同書の別の箇所で、日本を擁護する発言も行っています。「日本の事例は本当に悲劇である。歴史的に眺めてみると、日本ほど、アジアを白人の支配下から解放するのに尽くした国は、他にどこにもない。にも拘わらず、解放を援助しまたは、いろいろな事柄の手本を示したその人人から、これほどまでに誤解されている国もまたない。」(P201)



孫文(中華民国) 1924年11月14日

 諸君日本人は、今後世界文化の前途に対して西洋覇道の犬となるか、東洋王道の牙城となるか、それはあなたがた日本人が慎重に選ぶべきである。

(大江志乃夫『張作霖爆殺』 P61-P62)

*北京に向かう途中、神戸に立ち寄った際の演説。


リー・クアンユー(シンガポール)

 私は、日本から多くのことを学んできたが、一方で率直に批判もする。とりわけ戦争中の行為への謝罪に明らかに消極的な姿勢を問題にする。過去を清算し、将来への新たな一歩を踏み出すべきだ。

(『リー・クアンユ回顧録』 まえがき)

*元シンガポール首相。

 
リー・クーンチョイ(シンガポール)

 日本軍のシンガポール占領は、苦しめられた者には簡単には忘れられない悪夢だった。五千万ドルと二万人の命が支払われたのだ。

(『南洋華人』P110)

*1984年より駐日シンガポール大使。


トゥンク・アブドゥル・ラーマン・プトラ(マレーシア)

 日本占領下の三年間、我々が耐え忍ばなければならなかった数々の苦難のために、日本に対する恨みは根強く、国民の感情は敵しかった。

 数多くのマラヤの住民とその連合軍が殺されたのであるから、あの占領時代のことを忘れるということは無理であった。もう一〇年以上も前のことであったが、日本軍の専政とその残虐な行為は我々の心から消えることはなかった。

(『ラーマン回想録』P214)

※マレーシア連邦初代首相。


サイナル=アビディン=ビン=アブドゥル=ワーヒド(マレーシア)

 日本は東南アジアのいくつかの国々に対して、新秩序実現のあかつきには独立を付与するとの約束を与えた。ところが、日本はマラヤに対しては将来の独立を認めようとしなかったのである。 これは、日本がマラヤをむしろ日本の植民地ないしは原材料の供給地とみなしていたためであろう。(P183-P184)



 大東亜共栄圏構想も、戦争初期の段階では、西欧植民地勢力による経済的搾取を民衆に意識させるのに役立ったことは確かであるが、日本は当時、戦争の遂行に全力を傾注せねばならない立場に追い込まれていたため、実際のところ、構想を具体化するだけの余裕をもちあわせてはいなかった。

 それに、もし機会さえ与えられれば、日本自身が西欧勢力に劣らず搾取の牙をむきだすこともまた考えられないことではなかったのである。 (P193)

(ワービド『マレーシアの歴史』)

※マラヤ国民大学教授。


ワン・グン・ウ(マレーシア)

我々をムルデカ(独立)に導いたのは日本ではないし、日本が我々の解放や独立を望んだわけではない。

(日本は)アジアの強い願望を無視することによって、アジアの指導者になるという輝かしいチャンスを逃した。

(ポール・H・クラトスカ『日本占領下のマニラ 1941-1945』P396) 

※元マラヤ大学歴史学部長。


ミルトン・オズボーン(オーストラリア)

東南アジアヘの日本軍のすみやかな進撃は、白人優位の神話を打ち砕き、東南アジアの人々に、手短かにいえば、何か真の独立にごく近いものに参加できるという望みをもたせたのであった。

そのすぐ後で、日本のスローガンの空虚さが暴露され、日本の利益の優先することが明らかになると、幻想からさめ始めたのである。

(ミルトン・オズボーン『東南アジア史入門』P198)


※オーストラリア外務省出身。シンガポールのイギリス東南アジア研究所長など歴任。


ラスビハリ・ボース(インド) 1926年

 アジアの天地に、極東の日本独り輝やくと雖も、幾多支那の白人専制下に呻吟しつつあるの間は、そを誇るの権利を有しない。我らの最も遺憾とする所は、声を大にしてアジアの解放、有色人種の大同団結を説く日本の有識階級諸公にして、猶中国人を侮蔑し、支那を侵略すべしと叫び、甚だしきに至りては、有色人種は性来、白人に劣るの素質を有するが如くに解することこれである。

 従来の支那通なる人々を点検するに比々皆然り。真に自らを知り、同時にアジアを認識するの士は暁の星のごとく実に寥々たるものである。

(ラスビハリ・ボース『亜細亜二論』=『月刊日本』1926年3月号P8)

*インド独立運動の指導者の一人。新宿中村屋のメニューに本場のカリーを導入し、「中村屋のボース」として知られる。なお、「チャンドラ・ボース」とは別人。


ネルー(インド) 1932年

 日本のロシアにたいする勝利がどれほどアジアの諸国民をよろこばせ、こおどりさせたかということをわれわれは見た。ところが、その直後の成果は、少数の侵略的帝国主義諸国のグループに、もう一国をつけ加えたというにすぎなかった。そのにがい結果を、まずさいしょになめたのは、朝鮮であった。

(ネルー『父が子に語る世界歴史3』 P222)

*インド初代首相。なお巻数・ページは、『父が子に語る世界歴史』1966年初版の旧版。2003年初版の新版では、巻数・ページが異なるので注意)


マハトマ・ガンジー(インド) 1939年

 (日中戦争に関して)もちろん日本は、これまでにやってきたことや、いまやっていることのために非難されますし、またされなければなりません

 けれども、日本はいまはちょうど、羊を手早く始末することを仕事にしている狼のようなものです。狼を非難してみたところで、羊の助けにはならないでしょう。羊は、狼の手中に陥らないことを学まねばなりません。

(マハトマ・ガンジー『わたしの非暴力1』 P129)

*インド独立運動の代表的な指導者。



 以上のデータは、別に系統的に集めたものではなく、たまたま私の手持ちの本から拾ったものに過ぎません。同様の発言は、捜せばいくらでも出てくると思います。

 国によって、「日本への評価」への濃淡はあると思います。例えばインドなど、「藤原機関」のおかげもあって、結構「評価度」が高いかもしれません。

 しかしだからといって、「日本軍は正義を行っており、東南アジア中から感謝されている」というのは、「大東亜戦争万歳派」内にだけ通じる「フィクション」である、と私は認識しています。


 最後に、元防衛大学教授の戦史研究家、田中宏巳氏の「評価する声」へのコメントをもって締めたいと思います。


田中宏巳『BC級戦犯』より

 多くの現地人にとって日本軍の到来は、日常生活を大きく変える転機になった。

 日本軍はアメリカ軍と違い、必要な食糧や日用品を現地調達でまかなった。このためインフレーションが恒常化し、現地人の生活に少なからぬ負担をかけた。

 いわば日本軍は居候軍隊であり、現地人には迷惑至極であった。独立への道につながる期待感と、長い歴史の中で得た現地人の知恵とによって、かろうじて駐屯が許されたに過ぎない。

 占領が長期化すれば支持を失い、抗日運動につながるかもしれなかった。日本軍が入って以来、生活環境は悪化する一方で、よくなる兆候はなかった。

 十九世紀から二〇世紀の歴史は、外国に支配されるよりも、自分たちがつくる国家の方がよいという、民族自立が世界的潮流になったことに特色がある。この流れに従えば、武力による日本軍の侵攻は歴史に逆行していた。

 日本軍の侵攻が民族自立の契機になったとして評価する声が現地にはあるが、そういう者も、日本軍の長期的軍政を認めない。欧米の植民地支配に打撃を与えた日本軍が、敗北して帰還するという条件の中で、はじめて評価されたことを忘れてはならない。(P217)


(2011.12.24)


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