ババル島事件
南の島の民間人殺害



 1944年10月から11月にかけて、インドネシアの南部、チモール島の東にあるババル(babar)島で、住民約400名が日本軍に殺害される事件が発生しました。

 まずは、事件の概要を整理します。



 1.タバコの葉の買上げをめぐるトラブルから、日本軍の篠原嘱託がババル島エンプラワス村の村長を殴打。村長は激昂して篠原嘱託を殺害。

2.後難を恐れた村民たちは、先手を打って、2、30名程度で日本軍のババル島駐留部隊を襲撃。兵士2名を殺害。

3.これに対して日本軍は、エンプラワス村の討伐を実施。日本軍の勧誘に応じ、婦女子を含む村民約400名が投降した。

4.日本軍は、投降してきた村民約400名全員を銃殺した



 事件が発覚した1986年当時、秦郁彦氏は、「人数といい、場所といい、まるでベトナムのソンミ事件を思わせるような話(朝日新聞 1986年11月23日)とのコメントを残しています。住民による日本軍駐留部隊襲撃がきっかけだったとはいえ、婦女子を含む大規模な無差別殺害は、到底正当化できるものではないでしょう。

  以下、事件の経緯を追っていきます
※この事件が明るみになるきっかけは、武富登巳男氏が入手した、「ババル島事件関係綴」(第五師団参謀部作製)という文書でした。武富登巳男は、福岡県小竹町の「兵士・庶民の戦争資料館」館長(2002年に逝去)。書類の入手先は、「資料館の趣旨に賛同するある有志」とのことです。

この文書は、戦後、戦犯追及に怯える関係者が、連合国側に「弁明」するために作成したものですが、結果として、「事件」の存在を今日に伝えることになりました。その後資料の内容は、当時の日本軍指揮官や被害者側の証言から裏打ちされています。

なお武富氏入手の「綴」では、「報告」が三回にわたり書き直され、その都度事件の「犯罪性」がどんどん薄められていく、というプロセスが、はっきりとわかります。以下では主として、事件の実態を最も正確に伝えていると考えられる、その第一回目の報告を引用しています。




 「タバコの葉」買上をめぐるトラブル
 ー篠原嘱託殺害まで


 ババル島は、インドネシアの南部に位置する、東西約三十キロ、南北約三十キロの三角形の島です。当時そこには、日本軍守備隊約60名が駐屯していました。その島にある村のひとつが、事件の舞台となったエンプラワス村です。


 島に駐留した日本軍の守備隊は、必要物資を現地調達していました。これが現地人の強い反感を買い、「事件」の遠因となった、と伝えられます。

村井吉敬『日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き』

.┘鵐廛薀錺構嗣クリストポロ・レクロラ(Kristoporo Reklora)氏(56歳、男、虐殺当時10歳(?))、エリアプ・ヘルルリ(Eliab Herululy)氏(61歳、男、虐殺当時13歳)

(略)

 エンプラワス村に日本軍は駐屯していなかった。必要なものがあると、それを求めに村にやってきた。

 日本軍は食料を持参してこなかった。必要な食料は調達した。鶏、豚、何でも必要なものを調達した。払ったり払わなかったりである。その値段は日本軍が勝手につけた。高く売ろうとすれば殴られた。

 支払いは日本のカネ(軍票)だった(単位はセン、ルピア)。当時、米はなかった。バナナ1房が1ルピアだった。鶏は半ルピア、豚は3〜4ルピアだった。何しろ勝手に値段をつけた。日本軍敗退後、このカネはインドネシアのルピアに交換した。(P113)

(『上智アジア学』第10号(1992年))

※住民への聞き取りは1992年に行われたものです。事件後50年を経ているだけに、証言者の多くは当時子供で、細かい部分は「大人から聞いた話」であると思われます。証言には、そのような限界があることには留意する必要があります。


 エンプラワス村は、タバコの産地として知られていました。その「タバコの葉」の買上げをめぐるトラブルが、事件の直接のきっかけとなります。

 第五師団参謀部の「ババル島事件関係綴」収録文書(一回目報告)より引用します。報告者は、「第二回討伐」を指揮した田代大尉です。

「ババル」事件に関する件報告

二、討伐に至れる経緯

1.日本人殺戮迄の状況

 「エムプラワス」村は相当の煙草の産地にして年産二千本(六千瓩(キログラム)以上)あり 海軍錦隊篠原嘱託は百本蒐集を企図し土民密偵を通じ村長に交渉しありたる所 密偵の態度横平なりしを持って村長は篠原嘱託と直接交渉すべく書信に依り同嘱託を招致せり

 篠原嘱託は密偵三(人)と共に交渉に赴きたるが 口論の後村長を殴打せるを以て 予て覚悟しありたる村長は激昂の末密偵共に同氏を殺害せり(P15-P16)

 (村長は同日迄二回に亘り部落会議を開き 殴打せば殺害する旨の決意を披瀝し 協力を求めありたるが如し)

 時に昭和十九年十月二十七日なり(P16)

(不二出版『ババル島事件関係書類』)

 日本軍の篠原嘱託は、口論の末、村長を殴打しました。村長らは激怒し、「篠原嘱託」及び同行した「密偵」(現地人)三名を殺害してしまいました。
※住民の証言によれば、タバコの値段が折り合わなかったのが口論の原因とのことです。証言では、篠原がナイフを取り出して村長に向けたため、村長もナイフを取り出して篠原を殺した、ということになっています。(村井吉敬『日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き』=『上智アジア学』第10号(1992年)掲載、P114)。なおこの田代報告では村長は事前に「覚悟」していたことになっており、殺害が「計画的」であったことを示唆しますが、それが事実かどうかは不明です



 住民による日本軍襲撃

 村長らは、日本軍の「軍属」を殺してしまいましたが、我に返ると、それに対する日本軍の「報復」が懸念されます。そこで村人たちは、先手を打つべく、逆に日本軍の駐屯地を襲撃することにしました。

 彼らは、「憲兵屯所」「海軍見張所」をターゲットにします。


「ババル」事件に関する件報告

2.海軍襲撃の状況

 後難を恐れたると原因(?)に於て前述せし如き観念に基き 海軍部隊の襲撃を決意し 部落民を参集準備すると共に 他村を誘致し 「トトワワン」外四部族を以て陸軍を襲撃すべく計画同意を得て

 同月二十九日十時頃約二十名を以て部落出発 隣部落民(部落名不詳)約十名と合同 途中にありし憲兵の屯所に在りし後藤憲兵曹長及海軍見張所に在りし水兵一を殺害水兵一を重傷せしめ 海軍駐屯地へ向へり

 同日九時頃「デラ」村に在りし憲兵より「エムプラワス」村に於て事件発生の疑ありとの電話連絡に接したる海軍派遣隊長は総員武装を命じ(P16-P17)

 先づ偵察に赴くべく部下二名と共に宿舎を出づるや 二百米を隔て 槍「パラン」及煙草を手にせる前記土民に遭遇せるを以て 機先を制して射撃し之を逃走せしめたり(P17)

(不二出版『ババル島事件関係書類』)

 村人たちは、「後藤憲兵曹長」及び「水兵」の2名を殺害しました。彼らはその後「海軍駐屯地」に向かいますが、銃での反撃を受け、とりあえずは逃げ帰ります。

 さて日本軍は、これに対して、住民に対する「討伐」を行うことになります。



 第一回討伐

 討伐に参加したのは、とりあえずは島に駐留する兵35名です。


「ババル」事件に関する件報告

三、討伐(P17)

1.討伐準備及第一回討伐

 急を知れる陸軍部隊は非常配備につき警戒を厳にすると共に

イ、斥候を派遣し事件の真相を確かむると共に呼応蜂起の徴候なきやを偵察し

ロ、全島に分散せる兵力を集結す 等

 着々と準備を進めありしが

 十一月三日兵器の奪還及戦死者収容の目的を以て第一回討伐を開始せるが 遺骨二を収容 約百名を銃殺及捕へたるのみにして 十一月九日引揚げたり

 参加兵力陸海軍併せ三十五名

(「エムプラワス」土民に依り篠原嘱託の携行せるもの及憲兵の屯所に在りしもの合計小銃四拳銃二被服其の他押収せられありたり)(P18)

(不二出版『ババル島事件関係書類』)

 第一回討伐では、「約百名」を「銃殺」または「捕」えた、ということです。この時点で約百名のうち何名が「銃殺」されたのかは、資料がなく、不明です。



 第二回討伐


 いよいよ、事件のハイライト、第二回討伐です。


 日本軍の「報復」を怖れた村民たちは、村をあげてジャングルの中に逃げ込みました。しかし日本軍は、連合軍上陸の脅威が迫る中、これらの反抗的な住民を、そのまま放置するわけにはいかない、と考えました。

 そこで日本軍が選んだ道は、「だましうち」でした。まず第一回討伐で捕えた「土民を逆用」し、村人に降伏を勧誘します。これに応えて、村長以下四百名が姿を現わします。

「ババル」事件に関する件報告

2.第二回討伐

 中隊主力は事実の的確なる把握と兵器奪還の目的を以て十一月七日「ババル」島に増派せられたり

 第一回討伐より帰還せる小隊長より事件の外貌を聴取 新に到着せる兵力約六十名を以て十一月十一日第二回討伐を開始せり

 逮捕土民を利用し山中に逃避せる土民を捜索せるも成果なきを以て土民を逆用するに決し 十五日之を放ちたるに逐次帰順の徴候あり 又兵器の若干を奪還し得たるを以て之に力を得ありしが 二十日拳銃一を除く兵器全部及び被服の大部と共に村長以下四百名帰順し来れり(P296)

(不二出版『ババル島事件関係書類』)


 そして日本軍は、自ら「投降勧誘」したはずの、投降者全員を銃殺してしまいました。

「ババル」事件に関する件報告

四、爾後の処分

イ、侮日的傾向極めて濃厚なりしと日本軍に対する反逆事件にして他部落との関連もあり将来を戒むる為極めて重罰に附すべきこと(P19-P20)

(2)他部落村長も徹底的処分を要すとの意向を漏せり

 以上の理由を以て帰順せる土民約四百名は現地に於て銃殺

(不二出版『ババル島事件関係書類』)


 この事件の「裏付け証言」としては、当時「第二次掃討」を指揮し、報告書の作成者ともなった、弟五師団第四十二連隊第十二中隊長・田代大尉のものがあります。
※記事では「元大尉」となっており、「実名」は登場しません。


朝日新聞 1986年11月23日 第23面』

銃撃三時間、村一つ消す

ババル大虐殺 元大尉「すまない…」


(略)

 その後の十九年十一月、エムプラワス村の住民百人が同小隊に殺される「掃討作戦」があり、二回目の「掃討作戦」のため、元大尉が指揮官となって、中隊主力がパパル島に向かった、と元大尉は説明する。
※記録では第一回討伐では「約百名」を「銃殺及捕へたる」となっていましたが、元大尉はこの全員を殺した、と証言しています。「捕へ」られた住民の一部が第二回討伐時に「降伏勧誘」に動いた、という記録があることから、この部分は必ずしも正確ではないかもしれません。
 エムプラワス村の住民は最初、山に入って、姿を見せなかった。村の住宅は一回目の作戦で焼き払われており、間もなく村長を先頭にして住民が戻ってきた。二、三百人。武器は持っていなかった

 男と女を分けて米軍やオーストラリア軍と通じていないかなどの取り調べを始めたところ、一部の兵隊が住民の銃殺を始め、住民が大声で騒ぎ出した。

 元大尉は、住民が出てきたのは、最初から擬装投降と疑っていた。そのうえ、エムプラワス村の周辺村落から招集されて現場にいた約十人の村長が「殺すなら皆殺しにしろ」と勧めた。捕虜にするにも多すぎて対処できない、と判断して全員を広場に集めて射殺した、という。女性や子どもが三分の一ほどいた

 二、三時間だった。何人を殺したか数えなかった、しかし、七、八百人いたというこの村から、この事件後、人影は全く消えてしまった。だから、最低二、三百人は犠牲になった可能性がある、と元大尉は認める。

(『ババル島事件関係資料』P93-P94収録) 



 事件は、村人たちの間では、このように伝えられています。

村井吉敬『日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き』

5垰ε時陸軍駐屯地ワクパパピ在住の住民 ヤンチェ・オラプリアン(Yance Orapliang)氏(65歳 男、パパル島ココワリ(Kokowari)出身)

 第1回目の殺戮がいつかは分からないが各部落から村役人(kepala soaと呼ばれる村役人)ほか3人が殺戮現場に連れていかれ死体処理を命ぜられた。私は陸軍駐屯地(Markas Besar)のあったワクパパピ村から命ぜられて2回目の殺戮に連れていかれた。拒否したら殺されるから仕方なしにいかざるを得なかった。

 エンプラワス村から殺戮現場のティウィ河畔のある海岸までは約2kmの道のりだった。そこではすでに第1回目の殺戮が行われており、あたり一面、木の下など腐乱死体が散乱していて腐臭が漂っていた。何人殺されたか分からないが非常にたくさんだったと思う。それがいつだったのかも分からない。

 私は2回目の殺戮現場で遺体を運ぶことを命じられた。ワクパパピからは3人が作業に加わった。村の助役も加わったから4人だった。一つのカンポン(全部で15カンポン)から3人ずつ(+村役人1人)が動員されたので多数が作業に参加した。

 殺された人の数は400人だった。老若男女一カ所に集められ全員銃殺(kaki tigaと日本人は呼んでいた銃(mortier)で射撃した)、殺し足りないものは銃剣で突き刺した。

 しかし全員が死んだわけではなく、生きていて死んだふりをしている者もいた。私はまだ生きている1人の女性を木の下に運んだ。彼女は私の村ココワリ(Kokowari)のことばが分かった。そこで木の下に運んだ。

 死体は川に投げすてた。川が死体で埋まってしまった。水がなくなった。水を死体が吸い取ってしまった。午前8時から午後3時ころまで作業をした。日本の軍人は見ていただけである。(P118)

(『上智アジア学 第10号(1992年))


村井吉敬『日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き』

.┘鵐廛薀錺構嗣クリストポロ・レクロラ(Kristoporo Reklora)氏(56歳、男、虐殺当時10歳(?))、エリアプ・ヘルルリ(Eliab Herululy)氏(61歳、男、虐殺当時13歳)

 村が焼かれてから、村人はみんな森に逃げた。ある一家族(レウェ(Lewe)という名)はエムロイン(Emroing)に庇護を求めて逃げた。日本軍はこのレウェを捕らえ、騙し、村人に投降するように求めた。レウェを仲介にして、日本軍はタンジュン・マティに投降するよう呼びかけた

 村が焼かれてから、新たにララット(Lalat、夕ニンパル諸島の一つ、聯隊本部所在地)から新しい軍が来た。村では700人が殺されたが、60人が生き延びた。私自身(Kristoporo)もその一人である。私は10歳だった。

 男は後ろ手に縛られたが、女、子どもは縛られなかった。全員ティウィ川のほとりに行列して連れていかれ、座らせられた。そして人数を数えてから射撃された。(P114-P115)

 海軍(錨)のコマンダン(司令官)の名前は牧野といった。彼は最も残虐だった。インドネシア語を喋ることができた。ケンペイタイの人の名前はよく覚えていない。ケンペイタイは牧野ほど悪くはなかった。(P115)

(『上智アジア学 第10号(1992年))

 細部の食い違いはあるにせよ、「400人」(証言者によって人数の異動あり)の住民が日本軍に殺された、という事実関係は確実なものでしょう。
※『「ババル」事件に関する件報告』の記述は第二次掃討で終っており、以降については「陸軍部隊襲撃に賛成せる他部落村長以下は全員を召喚 取調後取調中逃亡せる者等三名を射殺 爾余は訓戒の後釈放せり」(P20)という簡単な記述があるのみです。

 煩雑になりますのでここでは省略しますが、住民らの証言によれば、
第二次掃討の翌日、「第三次掃討」があり、エンプラワス村村長をはじめ約100名が殺害された、と伝えられます。

 事件の評価については、現地調査を行った村井吉敬氏のこの総括が妥当なものと思われます。

村井吉敬『日本軍によるババル島住民虐殺覚え書き』

まとめにかえて

 日本軍が言うように、あるいはパパル島住民の幾人かが証言するように、たとえ日本軍への反逆の気持ちや、襲撃の計画が事実であったにしても、女性や、子どもや、老齢者を含んだ村人全員を殺害の対象にし、実際そのほとんどを殺した事実はあまりにも重い。(P121-P122)

(『上智アジア学 第10号(1992年))




 そして、戦後

 これだけの事件にもかかわらず、戦後に関係者が「戦犯」となることはありませんでした。

 その経緯は定かではありませんが、報告書の作成者田代大尉は、朝日新聞インタビューの中で、このように推定しています。

『朝日新聞』 1986年11月23日 第23面

 敗戦後、元大尉や第五師団司令部の参謀らはセラム島に収容された。二十年九月頃、最初のオーストラリア軍に代わってオランダ軍がセラム島に進駐してきた。

 オランダ軍は「ババル島事件」を戦犯容疑事件として第五師団司令部に調査を命じた。元大尉は事件の経緯を文書にし、憲兵の事情聴取を受けた。憲兵がこれらを報告書の形で司令部の上級幹部に提出したのが、今度見つかった書類つづりだった。

 オランダ軍は小人数だったため、十分な現地調査も出来なかったらしい。司令部側もオランダ軍が知らない部分については、事実を隠し続けた。このため、現場責任者であった元大尉は戦犯となることなく、二十一年五月に復員している。

 元大尉は、復員後、化学会社などを経て陸上自衛隊に入り、一佐で退役して千葉県内に住む。パパル島事件について「今さら、こんなことを暴いても何にもならない。しかし、すまないことをしたと思っている」と語った。

(『ババル島事件関係資料』P93-P94収録) 

 既述の通り報告書は三回にわたり書き直され、最終的には事件は、「偽装帰順しありたる叛乱住民」400名の「蜂起」に対する討伐、というところまで矮小化されています。 オランダ軍の調査不足に加え、このような形での事件の「隠蔽」が功を奏したものと思われます。
※報告の訂正プロセスでは、「師団長小堀金城中将は青鉛筆、参謀長清水隆大佐は赤鉛筆で丹念に所見を記入」(武富解説)するなど、師団幹部の関与が濃厚です。報告書を作成した田代大尉も、事件の存在は「(最初の報告書に)書かれている通りです」(朝日新聞インタビュー)と語っています。



 世界戦争犯罪事典

 最後に、「世界戦争犯罪事典」による事件のまとめを紹介します。

 この「事典」は、主として秦郁彦氏などの保守派論客が中心となって編まれたものですが、さまざまな「戦争犯罪」事件を資料に基づき客観的にまとめており、比較的信頼性の高いものである、と言えます。

『世界戦争犯罪事典』より

ババル島事件
(インドネシア)

 一九四四年一〇月から一一月にかけて、ニューギニア島とティモール島の中間に位置するパパル島で起きた同島駐屯日本軍守備隊による数百人規模の住民虐殺事件。

 煙草の供出をめぐり、海軍の日本人嘱託によるエンプラワス村の村長殴打を直接の引き金として、現地人が一〇月二七日同嘱託と現地人密偵を殺害、さらに海軍見張所、憲兵屯所を襲撃、日本軍側に死傷者が出たことに対する報復討伐に端を発したといわれる。

 同島駐屯の陸海軍守備隊は二回にわたる討伐を行ない、その過程で婦女子を含む数百人の住民を拘束、銃殺した。

 日本側資料によると、第一回目(一一月三−九日)は三〇人から四〇人程度の小隊規模の討伐隊を編成、住民一〇〇人余を「銃殺及ビ捕へタノミ」としている。

 第二回目(一一月一一−二〇日)には、タニンパル諸島の歩兵第四二連隊本部よりおよそ六〇人の増派を受け、田代中隊の主力が討伐を実施した。

 密林山中に逃亡避難していた住民四〇〇人ないし五〇〇人が帰順してきたものの、村落間の対立抗争を反映した他村落村長の「徹底的処分ヲ要ストノ意向」に乗じて、婦女子を含む帰順者四〇〇人余を銃殺したとされる。

 日本側資料により推計すれば、エンプラワス村の住民七一六人のうち、銃殺された数は四〇〇から五〇〇人余とみられる。

 一方、インドネシア側証言およびエンプラワス村の資料では、焼き打ちされた家の数が四〇〇、殺害された住民の数七〇四人とされている。また銃殺を免れ、あるいは連合軍の銃爆撃を逃れて終戦まで密林に隠れていた住民も、食糧難、マラリアなどにより多数が死亡した。

 いずれにせよ、極めて限られた典拠資料となる複数の第五師団参謀部報告書に「添削、修正」のあとがみられ、事件の実態を正確に把握することが困難となっている。

 さらにインドネシア側証言についても、生存者が少なく、事件後四八年(調査者のインタビュー当時)を経ているうえに、証言者の多くが事件当時幼少でもあり、郡長、軍警関係者の立ち会いという特殊な状況下での証言ということもあって、戦時下のインドネシアでも異例の大規模な住民虐殺の実態解明をきわめて困難なものとしている。(P167-P168)

 事件の背景としては、まずパパル島に駐屯する陸海軍軍人・軍属が現地住民を「獰猛ナル」習俗の持ち主と認識したことによる高圧的態度が軍と住民間の相互不信を生み、蓄積していたことがあげられる。

 食糧、煙草の不当な代価による供出強制、殴打を最大の侮蔑と捉える現地習俗に対する日本人の理解不足は、島内の住民の不満を募らせていた。

 さらにガダルカナルの失陥いらい、豪州、ニューギニア、ティモール島の中間で、バンダ海とアラフラ海にはさまれたパパル島は最前線と化し、連合軍の激しい空襲下におかれていた。

 事件発生の当時は日本の制海・制空権はほとんど失われた絶望的な終局状況にあった。連合軍の伝単散布や工作員の潜入工作にさらされるなか、わずかな兵力(陸海軍あわせて六〇人から七〇人前後)のみで、最前線に孤立した同島守備隊(第五師団歩兵第四二連隊より派遣、連隊本部は一二〇キロ東方のタニンパル諸島)と住民の相互清疑はますます高まった。

 そのなかで起きた村長に対する侮蔑的殴打をきっかけとした、日本軍への襲撃は起こるべくして起きた事件といえよう。

 しかし九ヵ月後に終戦を迎えた第五師団の幹部は、連合軍による追及は必至と判断、関係書類を書き直したのが利いたせいか、戦犯事件として訴追されることはなかった。

 病院船橘丸の兵員輸送事件(二三〇頁参照)の責任を負う形で、山田清一中将(第五師団長)が自決したことも影響したのではないかといわれている。

    (山崎功)

 《参考文献》
 武富登巳男「発掘されたパパル島残虐事件」(『歴史と人物』一九六一年冬号 中央公論社)
 武富登巳男編『パパル島事件関係書類』(不二出版 一九八七)
 村井吉敬「日本軍によるパパル島住民虐殺覚え書き」(『上智アジア学』 第一〇号 一九九二)(P169)


(2020.3.21)


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