資料:日本軍の暴行記録
ー「49人」か?


 南京安全区国際委員会が南京の日本大使館などに対して提出した文書の中に、444件からなる「日本軍の暴行記録」があります。

(ただしこの「日本軍の暴行記録」は、ひとつの文書としてまとまったものではなく、いくつかの文書に分散しています。そのうち39件は欠脱しており、現存しているのは405件です)

 板倉由明氏は、この「記録」に含まれる「殺人」の事例をカウントし、その数が「49人」である旨を示しました。

 また、東中野氏は、「南京虐殺の徹底検証」の中でその数を数え直し、「日本大使館に抗議された「殺人事件」は、・・・二十五件(被害者五十二人)であった」(「南京虐殺の徹底検証」 P239)と述べました。

 この記事では、「日本軍の暴行記録」に収録されている「殺人事例」を、事件番号順にすべて掲載しました。私が数える限り、「人数」は「55人」となります。(数えやすいように「人数」の部分のみ赤字としました。興味のある方、数えてみてください) 
*2003.4.6 「追記」の通り、より正確には「57人」になります。

*2007.10.6 タラリさんより、「第二五三件」が事例から抜けている、とのご指摘をいただきましたので、追記しました。人数は 「58人」になります。
 
 なお言うまでもありませんが、これは、「『記録』では50人前後の殺人の事例が報告されている」というだけの話であり、決して「殺人被害者が50人前後しか存在しなかった」ということではありません。

 
「否定本」では、このあたりを意図的に混同させようとする「イメージ操作」をよく見かけますので、念のため付言します。
*実際のところ、「49人」か「57人」かの議論は、ミクロの話であり、「南京事件」論議の大勢に影響するものではありません。当コンテンツは、自分で検証も行わずに、どこかからの孫引きで「49人」という数字を投稿してしまう方に対する、「遊び」のコンテンツとしてご理解ください。

**なお、「国際委員会」(または「ラーベ」)が「49人」という数字を「報告」している、という誤った投稿もよく見かけます。「49人」という数字は、板倉氏のカウントによるものであり、「国際委員会」自体がこの数字に言及しているわけではありません。 また実際には、「国際委員会」は、「日本軍の暴行記録」以外の文書でも、「警察官135人連行殺害」などの「日本軍の暴行」による犠牲者を報告しています。 詳しくは、「資料:「国際委員会文書」の告発」をご覧ください。

***また、「49人」というカウントを行った板倉氏自身、別に民間人犠牲者数を「49人」しかいないと考えているわけではなく、民間人の死者・行方不明者は「スマイス報告」の数字をそのまま採用して「一万五千ないし一万六千」、そのうち「不法殺害」を「五千から八千」と推定しています。詳しくは、「資料;犠牲者数をめぐる諸論」をご参照下さい。


「日本軍の暴行記録」に見られる「殺人」事例


第一件

 十二月十五日、安全区衛生委員会第二区の道路掃除人六名は彼等が住んでいた鼓楼の家で日本兵に殺され、一名は銃剣により重症を負った。何らはっきりした理由のないことである。これらの人々はわれわれの使用人だった。日本兵はその家に侵入した。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P104)

第一五件

 十二月十五日(*)、漢口路の中国人住宅に押入った日本兵は若妻一名を強姦、さらに三名の婦女を拉致した。そのうち二人の夫が日本兵を追いかけたが、二人とも射殺された。 *訳注 徐氏の編書には、「昨夜、十二月十五日」とある。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P103〜P104)

第一六件

 十二月十五日、銃剣で傷を負った男一名が鼓楼医院に来院して語るところによれば、下関へ弾薬を輸送するため六名の者が安全区から連行されたが、下関に着くと日本兵は彼の仲間全部を銃剣で刺殺した。だが、彼は生き残って鼓楼病院に来たのである。(ウィルソン)

*「ゆう」注 従って、死者は五名となります。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P104)

第一九件 

 十二月十五日、一人の男が鼓楼病院に来院した。六十歳になる叔父を安全区にかついでこようとしていたところ、叔父は日本兵によって射殺され、彼も傷を負った。

*訳注 徐氏の編書は、日付を欠く。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P104)

第三六件 

十二月十七日午後四時頃、E.H.フォースター氏、ボドシヴォロフ氏、ジアル氏と私の四人の外国人が住んでいる大方巷の家の近くで三、四人の日本兵が一人の一般市民を射殺した。(マギー)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P169)

第四六件 

 十二月十七日、呉家花園内で男子三名が殺され、二名の婦人が連行され、行方不明となっている。(王)

*訳注 徐氏の編書は、日付を欠く。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P106)

**「ゆう」注 この事例は、東中野氏のカウントから漏れているようです。

第六二件 

  十二月十八日の陸軍大学内にある難民収容所からの報告。十六日には二○○名の男が連行されたが、そのうち戻ったのはわずか五名であった。十七日には二六名、十八日は三○名が連行された。略奪されたものは、現金・行李・米一袋と四○○枚の病院用蒲団。青年一人(二十五歳)が殺され、老婆一人は殴り倒されて二○分後に死亡。(・P澳鼻別・察ヒ)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P107)

第六三件 

 十二月十八日に報告を受けたもの―寧海路で日本兵は石油罐半分の灯油を少年から強奪、少年を殴打して、それを運ぶように要求した。頤和路一二号で、そこに難民として住んでいた男子をすべて追い出した後、娘数人を強姦した。ある喫茶店主の娘(十七歳)は七名の日本兵に輪姦され、十八日死亡した。莫干路五号に住む老人が報告するところでは、娘が数名の日本兵に輪姦されたとのことである。

 昨夜、金陵女子文理学院から三名の娘が拉致され、今朝、陶谷新村八号に戻ったが、ひどいありさまである。平安巷に住む娘一名が三名の日本兵に輪姦され死亡した。陰陽営では強姦・強奪・家探しがおこなわれている。(十二月十八日報告) (馬西華(訳音))

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P107)

第六六件 

 十二月十九日(安全区外であるが管理者の目撃したもの)。昨日私が受けた報告によれば、アメリカ大使館付三等書記官ダグラス・ジェンキンズ氏(Mr.Douglas Jenkins)の居宅が略奪を受け、用務員一名が殺された。今日正午、私は馬秦街二九号にある上述の場所を調査したが、陳述のとおりであった。屋内はまったく混乱しており、用務員室の一つに先ほどの用務員の死体があった。他の用務員は逃亡してしまったので、現在そこには誰もいない。(フィッチ)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P107〜P108)

第七八件 

 十二月二十日朝七時半頃、リッグス氏が漢口路二八号を通りかかると呼び止められたので、その家に入って聞いてみると、日本兵が前夜やって来たが婦人たちは金陵大学に送り出してしまっていたので、男一人を射殺し、銃剣で別の一人に重症を負わせ、さらに三人にはそれより軽い傷を負わせたとのことである。(リッグズ)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P109)

第一七六件 

 一人の日本兵が一九三八年一月二日午前十時から十一時の間に、陳家巷五号の劉盤坤(訳音)が妻と五人の子供とで住んでいる家へやって来た。

 兵隊は家を捜査しようとした。そこでその婦人、つまり劉の妻の姿を見て家の状態について尋ねた。

 婦人は質問にこたえ始めた。家の中にいた人びとはこれを見て、婦人に家を出るようにそれとなく合図をした。というのは、兵隊は婦人を部屋の中へ連れ込もうとしていたからである。

 それで婦人は家を出ようとした。その時、彼女の夫劉盤坤は兵隊に乱暴な言葉を浴びせ、また平手打ちをくらわせた。すると、日本兵は立ち去った。

 婦人は家に戻り炊事を始め、夫の方は五人の子供と一緒に食事をしようと食べ物を運んでいた。

 午後四時頃、同じ日本兵が銃を持ってやって来た。この日本兵は主人を出せと命じたが、近所の人たちは兵隊に生命は助けてくれるように嘆願し、一人の男などは日本兵の前にひざまづいた。

 劉は台所に隠れていた。日本兵は彼の姿を見つけるや、即座に肩を撃ちぬいた。H医師(*)が四時半頃よばれて行って見るみると、は死んでいた。

 ジョン・マギー氏も少し遅れて行ったが、この現場に行きあわせた。(徐、マギー)

*訳注 徐氏の編書では、C・Y・徐(Hsu)医師となっている。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P113)

第一八二件 

 一月七日、二人の日本兵が一人の若い娘を強姦しようとした。張福煕(訳音)は兵隊を阻止しようとして、慈悲社七号で刺殺された。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P114)

第一八五件

 一月九日朝、クレーガー氏とハッツ氏は、安全区内の山西路にある中央庚款大廈(The Sino-British Boxer Indemnity Building)の真東にある池で、日本軍将校一名と日本兵一名が平服の一市民を虐殺するのを目撃した。クレーガー氏とハッツ氏が現場に着いた時には、男は割れた氷がゆれ動く池の水に腰までつかって立っていた。将校が命令を下すと、兵士は土嚢の後に伏せて、男に向けて発砲し、男の肩に弾丸があたった。再度発砲したが弾は外れ、第三弾で男は死亡した(1)。(クレーガー、ハッツ)

1)われわれは、日本軍による合法的な死刑執行にたいして何ら抗議する権利はないが、これがあまりにも非能率的で残虐なやり方でおこなわれていることは確かである。そのうえ、このようなやり方は、われわれが日本大使館員たちと個人的に話し合ったさいに何回も言ったような問題をひきおこすのである。つまり、安全区内の池で人を殺すことは池の水をだいなしにするし、そのため、地区内の人々にたいする給水量が大幅に減少するのである。このように乾燥が続いており、水道の復旧が遅れているさいに、これはきわめて重大なことである。市による水の配給は非常に手間どっている。(報告者注)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P114〜P115)

第一八八件 

  一月十二日朝(*)、二人の男(馬と英(訳音))が登記を済ませて、漢西門にある馬の家に盲目の母親の様子を見に戻ったところ、近所の人が日本兵が母親を殺害したと話してくれた。彼等は馬の母親の死体をみつけた。

 帰る途中、二人が日本兵に会うと、兵隊は彼らに衣服をよこせといい、それから刺傷を負わせて防空壕の中へ投げ込んだ。一人は意識を回復して壕からはい出した。人びとは彼の姿を見て衣服を与えた。そこで彼は養蚕所に歩いて戻った。二人の友達が担架に彼をのせて本部へかつぎこんできた。フィッチ氏は友達をつき添わせて彼を鼓楼病院へ送りとどけた。(負傷した人から呉(訳音)氏に報告)

*(訳注) 徐氏の編書は、日付を欠く。ただし、その文書には、「これはまさしく、住民が彼らの家に戻ることの困難さを示す一連の事件に加えられるべきものである。一九三八年一月十二日 スミス」なる備考が付されている。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P115)

第一九五件 

  一月十七日、金陵大学附属中学にいるある一家の婦人が同家の男と共に帰宅した。彼らの家は市の南の新開地にある。一人の日本兵がやって来て婦人に同衾せよとせまった。それを拒否すると、兵隊は銃剣で彼女を殺した。(ベイツ)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P116)

第一九八件 

  一月十九日、現在フォースターや私と同居している尼僧の報告によれば、六十五歳になる彼女の叔父の朱(訳音)氏が日本側に指定された場所に米を買いに行ったところ、まず、路上で日本兵に強奪され、その後、刺殺されたと、昨日、知らせてきたそうである。この事件が起きたのは一週間ばかり前のことで、そのとき叔父が米を買いに出かけて戻ってこなかったのだが、叔父の身に何が起こったのか知らなかったのである。(マギー)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P116)

第一九九件

  一月二十日、マギー氏の報告では、外交部にある赤十字病院内の中国人傷兵は、一日に茶碗三杯の飯しか与えられていないそうである。一人のものが日本人将校(または医師?)に苦情をもらした。将校は彼に平手打ちをくらわせ、さらに彼が抗議したところ、連れ出されて銃剣で突き殺された。(マギー)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P116)

第二一五件

  一月二十八日午後九時、日本兵が中山東路沿いの兜街口(訳音)(特務機関事務所の東にあって兵隊たちの駐屯所となっている地域)にある天明(訳音)浴場にはいってきて、労働者の身体検査をして金を所持しているかどうか調べ、その中の三人に発砲した。二名は負傷し、一名は死亡した。この浴場は日本側の要請により自治委員会によって開設され、日本側の特別な保護を受けていると考えられていた。(スミス)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P116〜P117)

第二一九件 

  ジョン・マギー氏のきくところでは、十二月十三日から十四日にかけて、城南に住む一家の家族一三人のうち一一人が日本兵に殺され、婦人たちは強姦され、手足を切断されたとのことである。生き残った二人の小さな子供が話してくれたのである。(マギー)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P116)

*ゆう注.この事例は、「夏淑琴さん事件」として知られています。

第二二三件 

  二月一日。今朝六時半、ベイツ博士が大学を出る時、また一団の婦人が集まってきて博士にあいさつをした。彼女たちは帰宅することはできないと博士に述べた。ほかの数件の暴行事件の中に一婦人の件があるが、この婦人は収容所が封鎖されたら寝具類を失うのではないかと思って、二人の娘を連れて昨日、西華門の家に戻ったのである。昨晩、日本兵がやって来て少女たちを強姦させよと要求した。二人の娘が拒絶すると、兵隊たちは銃剣で刺殺した。

 その婦人の言うところでは、家に帰ったところで仕方がないとのことである。もし自宅に行っても、そこで殺されるのであれば、彼女たちを収容所から追い出そうとするさいに兵隊に殺される方が、ずっとましだというのである。(ベイツ)

*(訳注)徐氏の編書には、末尾にon February 4.とあるが、これがあっては、意味が通じない。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P118)

第二三○件 

  一月二十九日、二十二歳になる婦人が自宅に戻った。彼女の夫は日本兵に銃剣で突かれ、数日前に死亡した。一月二十九日に三牌楼二号の自宅に帰った時、彼女の方は日本兵によって強姦された。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P117)

第二五三件 

  一月二十五日、王張(訳音)氏、四十五歳は、新橋(訳音)の自宅では兵隊たちに刺殺され、彼女は強姦された。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P190)

第二七○件 

  一月二十九日、ユ(王へんに兪)華崙(訳音)八○号の住人で茶店を経営している楊淳鄰(訳音)さんの母親の楊何(訳音)氏と弟の楊淳匯(訳音)さんが日本兵に殺された。この知らせを収容所できいた氏は自宅に様子を見にいった。その途中、彼は中華門でまた日本兵に出あったが、兵隊が所持金全部を奪った。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P192)

第二九九件 

  一月二十日の朝、思郷橋(訳音)の太平飯店で一人の婦人が日本兵に戸口へひきずってゆかれ、その場で殺された。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P193)
 
第三○三件 

  一月三十一日、思郷橋(訳音)で六十歳以上の老女が強姦され、陰部を銃剣で突かれ殺された。

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P193)

第四二五件 

  二月七日、月曜日の朝、われわれがうけた報告によれば、四人の人、すなわち三人の男と一人の婦人が二月六日の午後五時頃、百子亭の裏で日本兵に殺されたとのことである。正午少し前に死者の隣人がわれわれの事務所にやってきて、この話を確認した。同日の午後四時三○分頃、中国人の少女がわれわれの事務所に助けを求めてやってきた。というのは、殺された婦人は彼女の母親だというのである。母親は家庭生活をはじめようとして二、三日前に帰宅し、有金全部をもっていった。娘は母親の遺体から金をみつけ出したいと思っている。

  ラーベ氏とミルズ氏が事件の現場に彼女とともに直行したところ、四人の遺体が次図のように血の海のなかに生々しく横たわっているのを見た。第一号は最初に射殺された老人、第二号は救援者をつれてきた婦人、第三号・第四号は負傷者を運びにきた男たちである。長方形の物体は戸板である。(a)

(a)文書のカーボンコピーには図は示されていない。

(長文につき、以下は省略します)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P207)


 
第四四四件 

  二月六日。この事件の報告者は、日本兵に連行され、中山門外で一ヵ月間、日本兵のために働いた。彼らは一ヵ月の労賃として三元彼に与えた。分隊が移動するので彼は帰された。

  二、三日後、彼と数人の友人が寧海路から広州路を通って空(から)の麻袋を持って歩いていた。丘の上にいた日本兵が彼らを止めて戻れと合図した。彼らが向きを変えて四○歩ほど歩いた時、背後から射った弾が男の左腕のひじの下に命中して、傷がひどかったので、切断しなければならなかった。

この人には三人の扶養家族がいたが、は六日後に射殺された。(ウィルソン)

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」 P119)

 (2003.3.1)



2003.4.6 追記

  現存する「国際委員会文書」では「日本軍の暴行記録」は「第四四四件」で終わっていますが、実際には少なくとも「第四七〇件」まであったようです。

 「ドイツ外交官の見た南京事件」に、ドイツで発見された一九三八年三月二一日付の「国際委員会」文書が収録されており、そこで「第四六〇件」から「第四七〇件」までを見ることができます。その中から、引き続き、「殺害事件」の事例を紹介します。

第四六三件 

  三月一〇日午後八時ころ、青色と黄色の制服を着た日本兵五名が門西の蔡の家にやってきた。兵士二名が外で見張っている間に、他の三名は家に入り、金を要求した。家族全員がひざまずいて、慈悲を請うた。三人の兵士は、部屋の戸口に木製のはしごを据えつけた。かれらは、縄で夫の両手をはしごに縛りつけ、そこにぶらさげた。

 兵士は家中を物色し、五ドル紙幣一枚、日本の十銭硬貨一枚、中国の二〇銀貨十三枚、紙幣一枚と銅貨を奪った。箪笥と物入れをひっくり返して調べた後、毛皮の衣服一着、女物の冬服一着、それに蓄音機一台を奪った。

 かれらは立ち去りぎわに、の腿を六回、両肩を二回刺し、最後に頭を撃って殺した。さらに、ひざまずいていた蔡立森にも頭に数回銃剣を見舞い、王の腿を二回突き刺した。こうして、かれらは立ち去った。(ミルズ)

(「ドイツ外交官の見た南京事件」 P234)

第四六六件 

  三月一七日午後一〇時、日本兵六名が、高という鵠済門に住む四〇歳の農夫の家に侵入した。かれらは、「数名の女が欲しい」と要求した。高氏は、連れてこられるような女性は知らないし、見つけることもできないと答えた。すると兵士たちは、高氏の体と首を何度も激しく突き、頭部を銃剣で切った。高氏は走って逃げたが、家の入り口にたどり着いたとき、大量の出血して倒れてしまった。高氏はふたたび起き上がれずに、亡くなった。兵士たちは、かれを殺害したのを見るとすばやくその場を立ち去った。(ソーン)

(「ドイツ外交官の見た南京事件」 P235)

*第四六五件に「流れ弾で頭を撃たれ」て「亡くなった」事件が報告されていますが、これは「事故死」とも見られますので、ここでは省略しました。

従って、殺害の「人数」は「57人」になります。


2007.10.6訂正 「第二五三件」を見逃しておりましたので、追記しました。「人数」は「58人」になります。



2008.9.7追記

東中野氏が、『WiLL』誌上で、こんなとんでもない発言を行っていることに気がつきました。

渡部昇一×東中野修道 『「大虐殺」捏造を生んだもの』より

東中野 欧米人は日本軍による殺人の情報を熱心かつ積極的に集めていました。そしてそれを、日本領事館に「市民重大被害報告」として訴えています。しかし、その「市民重大被害報告」には「誰が見たのか」ということはほとんど書かれていません。

「市民重大被害報告」の中の殺人だけを挙げると二十六件です。一件につき一人が殺害されたというわけではないため、二十六件で五十二人が殺害されたということになっております。板倉由明氏は、それを根気強く計算されたんですね。

(『WiLL』2007年12月号増刊 P16)


 最初に述べた通り、板倉氏のカウントは「49人」でしたが、それはさておきましょう。問題は、次です。

渡部昇一×東中野修道 『「大虐殺」捏造を生んだもの』より

 
ですから、誰が見たとはほとんど書かれていませんが、それをしばらく措くとしても、「市民殺害の上限は五十二人である」というのが板倉説です。

(『WiLL』2007年12月号増刊 P17)


 板倉氏は、「上限」が「五十二人」などとは考えていませんでした。板倉氏の「民間人不法殺害推定数」は、「五千から八千」です。「本当はこうだった南京事件」)

 「捏造」なるものを批判する当の本人が、こんなところで板倉説の「捏造」をやらかしているのでは、仕方がありません。

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