731部隊 ネットで見かけたトンデモ議論(7)
ポートン研究所の「否定」


 1942年3月、中国政府は、重慶の各国大使館に文書を配布する形で、「日本軍の細菌戦」を訴えました。

 ただし最初のうちは、各国の反応ははかばかしいものではありませんでした。日本の細菌戦研究がそんな高い水準に達しているはずがない。そのような先入観があったものと伝えられます。

 そんな「否定」の急先鋒となったのが、イギリスのポートン研究所でした。



 さて、deliciousicecoffee氏はこのネタを、最大限に利用しようと試みます。なぜかタイトルに、本論と無関係の「井本日誌」が、相変わらずくっついているのはご愛敬です。


飛行機細菌作戦の怪3・おかしな井本日誌・英ポートン細菌研究所の見解・「田中淳雄少佐尋問録」から判る「731細菌戦賠償訴訟」(1997年提訴)の出鱈目

常徳のペスト流行について1941年11月4日の日本軍機による細菌散布により発生したとの支那側の発表に対して米英などは当初から懐疑的だった。
米英は、重慶政府の発表のはるか以前に、独自の情報網を使ってその発生の原因と経過についてかなり正確な情報を入手していた。

英のポートン細菌研究所は、

・飛行機から地上まで物体が落ちる道筋をたどった目撃者が特定されていない。

・物体(穀類、紙、木綿ぼろ)が見つかった付近には通常のゴミの山が見られた。

・収集された米穀類からペスト菌が発見されなかった。

・常徳では以前にペスト流行はなかったとされているがそれを証明できる死亡統計が得られていない


などの理由により、ペストの流行が風土病である可能性を排除できないとして常徳のペスト流行が日本軍の細菌投下によるものであることを否定した。


 この部分、明らかに松村高夫氏論稿『湖南常徳細菌作戦―1941年』を元ネタにしています。以下並べてみますので、細かい語句までほぼ一致していることを、ご確認ください。


 まず、最初の二行です。


 常徳のペスト流行について1941年11月4日の日本軍機による細菌散布により発生したとの支那側の発表に対して米英などは当初から懐疑的だった。

 米英は、重慶政府の発表のはるか以前に、独自の情報網を使ってその発生の原因と経過についてかなり正確な情報を入手していた。


 松村論稿の該当箇所は、次の部分です。


松村高夫『湖南常徳細菌作戦 − 1941年』

四 常徳の伝染病流行についての連合国側の反応

 アメリカ、イギリスなど連合国は、一九四二年三月三一日付の金宝善報告(後述)やそれに基づく中国政府の発表のはるか以前に、独自の情報網を使って常徳のペスト発生の原因と経過についてかなり正確な情報を入手していた

 しかしイギリスでは、国防省やポートン細菌研究所を初めとする機関は、ペストが日本軍による飛行機からの細菌散布により発生したことに最後まで懐疑的であった。アメリカも本国への報告者は懐疑的であったし、その他の国も同様であった。(P255)

(『戦争と疫病』所収)  

 米英等連合国は、「(中国)政府の発表のはるか以前に」「独自の情報網を使って」「(ペスト)発生の原因と結果についてかなり正確な情報を入手していた」。

 「ペスト」が「(飛行)機からの細菌撒布により発生した」との情報に「懐疑的」であった。

 ― いくつかのキーワードを中心に、両者は見事に一致しています。



 続いて、ポートン研究所見解の要約です。


英のポートン細菌研究所は、

・飛行機から地上まで物体が落ちる道筋をたどった目撃者が特定されていない。

・物体(穀類、紙、木綿ぼろ)が見つかった付近には通常のゴミの山が見られた。

・収集された米穀類からペスト菌が発見されなかった。

・常徳では以前にペスト流行はなかったとされているがそれを証明できる死亡統計が得られていない


などの理由により、ペストの流行が風土病である可能性を排除できないとして常徳のペスト流行が日本軍の細菌投下によるものであることを否定した。


 松村論稿の対応部分です。

松村高夫『湖南常徳細菌作戦 − 1941年』

ポートン研究所による陳報告についてのコメントは、四点からなる。


 ‐鐺舛飽豕,飛来し、爆弾を投下せず、何か落としたことは疑う余地はない。

(a) おそらく目撃者が殆どいない霧の寒い朝、午前五時に事件は起こった(その時の気象についての証言によれば、暗くて視界ゼロであっただろう)。〔( )内はペン書きで加筆されたもの〕

(b) 飛行機から地上まで物体が落ちる道筋をたどった目撃者は特定されてはいない

(c) これらの物体(穀類、紙、「木綿のつめもの」または「木綿のぼろ」)は飛行機通過一二時間後に住宅地(その「多く」は爆弾により破壊されていた)の街路(「狭くて汚い」と記述されている)で収集されたが、その屋内には「ごみの山が通常みられた」

(d) 細菌学的に検査された唯一の物体は翌朝収集された米穀類であったが、三十四日後まで検査されなかった。その時には調査団は常徳を離れていた。ペストの桿菌は発見されなかった

 かくして、収集された物質は飛行機から落下されなかった可能性が確かにあるし、もし落下したとしても、それらが有害であるという直接的証拠はない。

◆“行機が通過して七日後に、ペスト症例が生じたことは証明されている。他の症例もまたペストであると同意するのは合理的であるかもしれない。
(P261-P262)

 ペストが常徳で生じたことはなかったので、この発生は注目すべきである。しかしながら、この言明が決定的であるか否かば疑問である。それは「知られているかぎり」という注釈があって正当化されているものである。常徳に一〇〇床の宣教病院〔広徳病院〕があることは本当だが、しかし「死亡統計は得られていない」。このことは医療サーヴィスが未発達な状態を示唆しており、突発性のペスト患者が以前にも生じたことがある可能性を表している。

(略)

ポートン、実験局 生物部門一九四二年三月二三日
(P262-P263)
 

(『戦争と疫病』所収)  

 この部分もまた、deliciousicecoffee氏の文章は、明らかに松村論稿の要約です。




 しかし、両者の決定的な違いが、ひとつあります。deliciousicecoffee氏が、松村論稿の「ポートン研究所見解」批判部分、そして結論部を省略していることです。

 まあ、松村論稿が「細菌戦」の存在を明らかにしているものである以上、deliciousicecoffee氏がこの部分を引用できないのは、当然のことかもしれません。

 「批判」部分は長文となりますので、「結論」部分のみ紹介します。


松村高夫『湖南常徳細菌作戦 − 1941年』


 すでに一九四二年三月三日には、陸軍省からポートン研究所宛に、重慶の武官からの報告によれば、「当地の最近の見解は、感染したノミが投下され、米は土着のネズミが食べたというものである」との報告がなされていたにもかかわらず、細菌散布の否定を前提として書かれた批判であるがゆえに、日本軍による細菌散布という歴史的事実を把握しそこなったのである

 細菌散布とその病気の流行は、直接的論証が困難であることが多いので、消去法による状況証拠しか得られない場合が大部分である。

 常徳の場合は、戦後のハバロフスク裁判における日本人戦犯の証言でかなりの程度因果関係は明らかになったが、それでも日本軍が細菌を散布したという直接的証拠はないと強弁することが論理としては可能だった。

 しかし日本軍の細菌散布の作戦行動を示す日誌類(「ゆう」注 井本日誌など)が発見されて、その因果関係は完全に証明されることになった。このことは、状況証拠が十分である場合には、直接的因果関係が論証されなくとも、いわゆる(公害裁判などでいう)疫学的証明で判定できるとしなければならない。(P268)

(『戦争と疫病』所収)  

 ご覧の通り、deliciousicecoffee氏の「元ネタ」である松村論稿は、実際にはポートン研究所の見解を強く否定しています

 実際問題として、従来からの数々の証言に加えて、金子論文、井本日誌という有力な資料が発掘されている以上、「日本軍が細菌戦を実施した」事実を否定するのは、無理でしょう。



 同じ本に所収の、別論稿からも紹介します。

松村高夫『関東軍防疫給水部―七三一部隊と細菌作戦』

 人体実験を行ないながら細菌の研究と製造を遂行した七三一部隊は、同部隊が五つの支部をもっていただけでなく、北京、南京、広東、さらにシンガポールに設置された防疫給水部と人的にも物質的にも密接な連携を保ちながら、実際に製造した細菌を中国の十数都市に散布した。

 とくにペスト菌がもっとも有効であるとされ、ペスト感染ノミを使う方法を独自に開発した。

 それはペスト菌を空中から散布すれば菌は死滅するという当時の世界の生物学界の常識をはるかに越える技術水準であったから、実際に日本軍の飛行機から散布されぺスト患者の犠牲者が多数発生しても、連合国軍の細菌研究所はその流行を日本軍による細菌散布によるものと判断できず、風土病であるとの疑いを捨てきれなかった。

 当時中国では限られた条件の下で、常徳(一九四一年)などにみるように極めて詳細な疫学調査を行ない、日本軍による細菌散布が疾病を流行させたと確定しているにもかかわらず、である。それだけ石井部隊の細菌研究水準は高かったということであろう。

 もちろん現在では日本軍が散布したことを具体的に示す作戦日誌(井本日誌)が発見されていることもあって、日本軍による散布と疾病の流行との因果関係は明らかになっている。(P10)

(『戦争と疫病』所収)  




 他の概説書も見てみましょう。

 ピーター・ウイリアムズ他の『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』もまた、ポートン研究所の見解を取り上げています。

『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』

 七月、中国国民党の指導者、蒋介石将軍がこの間題に関し、在ロンドン大使、ウェリントン・クー博士を介してイギリス政府に正式な接触を求めてきた時には、ポートンの専門家たちは多かれ少かれすでにこの間題から手をひき、検討作業にも終止符が打たれていた

 閣議の記録には、日本が生物兵器・化学兵器を使用しているという申し立てを太平洋戦争会議の場に出して欲しいというクーのたび重なる要請について、「うるさい」と書かれている。

 不承不承ではあったが、最後には外務大臣、アンソニー・イーデンが、この間題を議題に乗せないわけにはいかないと認めた。ウィンストン・チャーチルは関連書類に目を通し、次の会議のためにこの書類を回覧することに同意した。(P84)

 細菌戦事件の報告書作成を中国側が強く主張したものの、彼らの叫びは、とにかく当面は、ますます馬の耳に念仏という体を深めていった。インドではイギリス人専門家が、「添付報告書を笑い終わりしだい返却されたし」とか、「ここまで見れば充分」というコメントを報告書に書きつけていた。

 こういった横柄な態度は誤りだった。報告書は驚くほど正確だったのだ。(P85)

 


『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』

 フィルズはのちに、疑問がさらに深まったとして全面否定の結論を出した。

 イギリス生物戦チームの質の高さから言って、常徳事件への疑惑に対するポートンの否定的な対応は驚くべきものだった。おそらく彼ら自身、そしてイギリスが世界の細菌学の最先端を行っていると考えていたため、近代工業国家としては新参者の日本が、それほどの先見性と技術をもち得るとは考えにくかったのだろう。(P84)

 

 結果として「ポートン研究所」の「否定」見解は誤まったものだった。これが、今日の研究者たちの一致した認識です。


 

(2017.9.24)


HOME 次へ