ペスト菌をそのまま直接撒布するのではなく、ノミにペスト菌を感染させ、そのノミをばら撒く。これは、「細菌戦」を構想するに当たっての、石井部隊の画期的なアイデアでした。
ペスト菌をハダカで撒いたら菌は短期間で死滅してしまいますが、菌をノミに感染させることにより、ノミの体内での菌の保存が可能となる。かつ、ノミの移動によって菌をあちこちに広げることができる。まさに一石二鳥です。
しかし「ペスト蚤の大量生産」は、必ずしも容易なことではありませんでした。石井部隊は大量生産のための設備を造ったものの、ノミをたからせて育てるためのネズミの調達に苦心することになります。
戦争末期には、「300万匹」という途方もない調達計画が練られ、満州各地はもちろん、日本国内でもネズミの大量生産が行われることになりました。その生産地としては、埼玉県の粕壁(現在の春日部)がよく知られています。
その苦心を率直に語ったのが、サンダースの尋問に答えた、第二部(細菌製造)田中英雄班所属の、田中淳雄軍医少佐です。
田中淳雄少佐尋問録
(4) 蚤の増殖方法の研究
一九四三年(昭和十八年)P防疫の余暇に「ケオプス」の増殖を命ぜられたり
(イ)、蚤増殖方法
アプデルハルデン氏法(一九三一年)に倣って実施(原著を供覧す)
其の中改良せる点は
(一)硝子瓶の代りに石油缶
(二)金網式固鼠器
(三)蚤床に砂、穀物も用ふること可能 「フスマ」を混ずれば可
(四)蚤床量は一缶一立(P227)
(ロ)、蚤飼育至適温湿度
馘首文献記載の如く二五−三〇度、七〇−八〇%
(ハ)、集蚤 反趨光性の利用、西洋バス利用
(ニ)、吸血源 白鼠を最良とす 廿日鼠、「モルモット」、犬、猫、山羊、では失敗せり
(ホ)、隘路
蚤の生産には絶対に白鼠を必要とす 白鼠は北満にては如何にするも自活不可能で内地よりの補給を必要とす、白鼠の固鼠器内の生命は約一週間故 一ヶ月に四回取換を要す
而も一ヶ月後に於ける一缶よりの獲得量は最良条件にて僅に〇.五瓦(グラム)(一CC 約一、〇〇〇匹)にして大東亜戦下空襲等により内地よりの白鼠の輸送極めて困難且つ長時日を要し 他面食糧不足により輸送間の損耗約五〇%なり
従って一〇瓦の蚤生産に内地よりの白鼠一六〇頭 一〇〇瓦の蚤生産に内地よりの白鼠一、六〇〇頭を要する状況にして蚤の大量生産を命ぜられたるも到底不可能なる事であった。(P228)
(太田昌克『731免責の系譜』所収。詳細はこちら) |
田中はいかにも「大量生産」が困難であったかのように語っていますが、これは話をかなり割り引く必要があるでしょう。
サンダース調査の段階では、石井部隊側は、「人体実験」と「細菌戦実施」という二大テーマを、徹底的に秘匿していました。続く第二次のトンプソンなど、その報告書にこんな言葉を残しています。
※繰り返しますが、アメリカの調査団は、第一次サンダース、第二次トンプソン、第三次フェル、第四次ヒルと、四次にわたっていました。そのうち日本側が「人体実験」「細菌戦」の事実を認めたのは第三次フェル以降でした。
トンプソン・レポート
結 論
調査担当者の意見は次の通りである―
一、日本の生物戦研究・準備について、おのおの別個とされる情報源から得られた情報は見事に首尾一貫しており、情報提供者は尋問において明らかにしてよい情報の量と質を指示されていたように思える。
(二 略)
三、尋問全体を通じて、生物戦における日本の研究・準備、とくに攻撃面の研究・開発の規模を小さくみせたいというのが彼らの願望であることは明白である。 (P328)
(常石敬一編訳『標的・イシイ』所収) |
「とくに攻撃面の研究・開発の規模を小さくみせたい」 ー 田中尋問録も、このような視点から読む必要があるでしょう。尋問録を見ると、田中は明らかに、「細菌戦などとても無理だった」とサンダースに印象付ける方向に話を持っていこうとしています。
※むしろこの尋問のハイライトは、田中が不用意に、「ペスト蚤」という「細菌戦」のキーワードを漏らしてしまったことでした。田中は、サンダースの次の「呼び出し」を戦々恐々として待つことになります。
しかしサンダースは、「ペスト蚤」という言葉の重要性に気が付かなかったのか、結局これ以上の追及を行いませんでした。この段階では、石井部隊側は「細菌戦」の秘匿に成功した形になりました。(詳細は太田昌克『731免責の系譜』参照)
さてdeliciousicecoffee氏は、この田中尋問を、「細菌戦」否定の材料にしようと試みます。
飛行機細菌作戦の怪3・おかしな井本日誌・英ポートン細菌研究所の見解・「田中淳雄少佐尋問録」から判る「731細菌戦賠償訴訟」(1997年提訴)の出鱈目
そもそも、大量のペスト感染ノミを製造するのは不可能なのだ。
100グラムのノミを製造するのに1600頭の白鼠が必要。
そうすると、10キログラムのノミを造るには160,000頭の白鼠が必要。
こんなに大量の白鼠をどうやって集めるのか。
しかも、白鼠の固鼠器内の生命は約一週間という。
頻繁に取り替えなければならない。
これでは、大量に作るまでに時間がかかる。
最後の一匹が出来たとき、最初に造ったノミは生きているのか。
結局、ノミの人工的な大量繁殖は不可能で、ノミ(ペスト菌)を使っての細菌戦も嘘っぱちということだ。
それから、田中淳雄少佐が余暇にノミの増殖研究を命ぜられたのは1943年だから、1940年〜1942年に731部隊の細菌戦によってペスト被害に遭ったとする「731細菌戦賠償訴訟」は完全な出鱈目なのだ。
―――――――
(「田中尋問録」の上記引用部分につき省略)
―――――――
田中淳雄少佐は1913年生まれで、1941年に京大医学部卒業、同年軍医学校で防疫学を学び、翌年関東軍防疫給水部に入隊、終戦まで主としてペスト防疫に従事していた人物。
この尋問録は、1945年10月30日に京都の都ホテルにおいて行われた、米軍のムーレイ・サンダース軍医中佐による、田中少佐への尋問の記録であり、この尋問の前提として、サンダース中佐は「戦争犯罪を云々するもので無く飽く迄科学者として話したい」と田中少佐に語っている。
命ぜられたのが「昭和18年(1943年)」であったことに注目。
「1943年、余暇にノミの増殖研究を命ぜられたが、到底不可能であることが判明した」というのが真実なのだ。
つまり、1940年〜1942年に731部隊の細菌戦によってペスト被害に遭ったとする「731細菌戦賠償訴訟」(1997年提訴)は、最初から嘘っぱちのでっち上げだったのだ。 |
田中は大量生産を否定している。だから「細菌戦」に必要な分量の細菌など製造できたはずがない。―deliciousicecoffee氏は、資料の背景や意味、あるいは資料が正確かという検証など、全く考えていません。
田中尋問録はどこまで正確なのか。以下、検討していくことにしましょう。
田中尋問録のキーとなる数字は、次の二つです。
1.白鼠の数 1,600頭
2.100gのノミ生産にネズミ1,600頭を要する(すなわちこの比率でいけば、ネズミ1万6千匹=ペストノミ1Kg、ということになります)
田中は別に「ネズミは1,600頭ぐらいしか使わなかった」と言っているわけではありませんが、尋問録ではこの数字が印象付けられる仕組みになっています。
まずはこの二つの数字を頭に置いていただきたいと思います。
念のためですが、「細菌戦研究」については、次の二つの段階を分ける必要があります。
1.1940年〜1941年。この時期は、「ペスト蚤」の生産規模はまだ大きなものではありませんでしたが、以下で見る通り、少なくとも「寧波」「常徳」等の試験的な「細菌戦」に必要な生産量は確保していたものと考えられます。
2.1943年以降。戦況の悪化に伴い、米国に対する「細菌戦」実施が本気で検討された時期。大規模な細菌戦を実施すべく、生産量は格段に増加します。ただし、米国の報復を恐れて、大規模な「細菌戦」は結局実施されませんでした。
以下、「ネズミの調達量」「細菌戦実施に必要な「ペスト蚤」の量、そしてその生産量」「ネズミとペスト蚤の比率」という3つの視点から、それぞれの時期の「ペスト蚤」生産規模を探っていきます。
※言うまでもありませんが、田中が「ペスト蚤」の生産に携わったのは1943年以降ですから、田中の発言は2の時期を対象としたものです。ただしdeliciousicecoffee氏は、1の時期を対象として「細菌戦」実施は不可能、と発言しているようですので、以下ではこの時期にも重点を置きます。
※※以下で論じているのは、「田中尋問録」の内容によって「細菌戦」の事実自体を否定しようとするのがいかに無茶であるか、の一点です。個別の資料の細かい数字は必ずしも信頼できるものではないかもしれませんが、すくなくとも田中の語る数字がとんでもなく過小であることは間違いありません。本稿は、そのような観点からお読みいただければと思います。
なお大前提の話ですが、1940−41年に数次にわたる「細菌戦」が行われたことは、広く認められた事実です。以下、資料による細かい数字の食い違いはありますが、これは「どの数字が正しいのか」という問題であり、この「食い違い」によって「細菌戦」の事実そのものが否定されることはありません。
さてまずは、実際にどの程度の数のネズミが集められたのか、見てみましょう。
1940年段階については、次のデータがあります。
解学詞『新京ペスト謀略 − 一九四〇年』
当時、石井の防疫隊本部は、新京市内に生息するネズミ類を約五〇万匹と推測しており、事実、「防疫隊本部ニ於テ受理セル捕鼠数ハ九万弱」にも達した。(満鉄新京工事事務所「ペスト防疫作業報告書」昭和一五年)
これには、防疫隊本部が「日満各方面」にもとめて収集、提供させたシロネズミ、モルモットは含まれていない。だが、それでも石井部隊の要求を満たすことはできなかった。部隊では新京のネズミ四五万匹を用いての細菌検索と解剖の計画を立てていたのである。(関東軍臨時ペスト防疫隊本部記事、一九四〇年一〇月二六日)(P121)
(『戦争と疫病』所収) |
新京市の防疫隊本部だけで、「9万弱」のネズミを集めています。「日満各方面」でどれだけの量を集めたのかは不明ですが、それを含めれば、少なくとも十数万匹のオーダーとなることは確実でしょう。
※厳密には、田中尋問録の数字と合わせるためには、「月当り」の生産量で考えるべきところですが、そこまでのデータは見当たりませんので、ややアバウトな議論となっていることはお断りしておきます。
さらに、1941年12月、常徳細菌戦直後です。
井本日誌 1941年12月22日
「二、増田少佐ヨリ (ホ)
1、部隊ノ士気上ル アワニ対スル自信
2、主要兵キ アワ第一司 使用機キ 九九式LB 百型偵察キ 高空雨下ノ場合ハ航空炸裂弾
3、実施時キ来年 王■ 六月以降(八月) (十月)
4、人員可能 ラット三〇万手ニ入ル見込、設備モ大体可」
(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』P15 =『季刊 戦争責任研究』93年冬期号所収) |
この時点では、「30万匹」の調達見込みが立っています。
以上を総合すると、「寧波」「常徳」などの細菌戦が行われた1940−1941年時点で既に、実際には少なくとも十数万以上の調達が可能であった、と考えるのが妥当でしょう。
田中淳夫は、ことさらに「1600頭」という数を持ち出すことにより、「ペスト蚤」の生産量を過小に見せかけようとしていたことは明らかです。
田中が「ペスト蚤」の生産に携わることとなった1943年段階では、戦況悪化に伴い、米国に対する本格的な「細菌戦」実施が真剣に検討されていました。そのため、「ネズミの大量調達」の指令が飛ぶことになります。
その指令に応えるべく、国内でも「ネズミの大量生産」が行われました。「粕壁」(現在の埼玉県春日部市)が、その一大生産拠点として知られます。
1943年4月 参謀本部「ホ号打合」
「(医校)
1、粕壁付近が主力となる。一軒30。4千軒で一組合(親1匹1ケ月2匹)。本年度予定埼玉47・5、茨城20・5、栃木6・45、計74・45万
2、埼玉県に飼料を補給せば20万増産可能。茨城県、栃木県は指導強化により10万程度増産見込。最大産出見込100万。
(以下略)」
(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』=『季刊 戦争責任研究』93年冬期号)
(「ホ号」は「細菌戦」の意味。全文はこちら)
|
国内だけで「100万」という大変な計画です。
※粕壁(春日部)を中心とする埼玉県での「ネズミ」生産については、埼玉県庄和高校地理歴史研究部+遠藤光司著『高校生が追うネズミ村と731部隊』(教育資料出版会)に詳細に述べられています。
終戦間近の1945年に入ると、「増産指令」はますますエスカレートします。
1945年には、「勇猛をもって鳴る関東軍のほとんど全地上部隊が、関東軍軍医部の要請でネズミ取りに駆り出されていたという」(常石敬一『消えた細菌戦部隊』文庫版P9)という状況であった、と伝えられます。
具体的な数としては、「三百万匹」という途方もない目標数字が、よく引き合いに出されます。
常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)
一九四五年三月以降、ネズミやノミ集め、あるいはその培養も活発化する。この時期関東軍の全地上部隊がネズミ狩りに協力させられていたことはすでに述べた。その目標は三〇〇万匹だった。(P224)
三〇〇万匹というのはかけ声でなく、本当に集めるつもりだった。堀田経理部見習士官は、石井の命を受けた経理部長佐藤少佐の指示で、ある試算をさせられている。それは九月までにネズミ三〇〇万匹を集めるが、そのための飼料はどれほど必要か、という計算だった。(P225)
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これに呼応して「ネズミを集めた」という証言もあちこちで目にすることができます。
郡司陽子『【真相】石井細菌戦部隊』
総務部調査課翻訳(情報)班 H・Mの証言
(1945年7月)いらいらしていると、命令が出た。驚いたことに、捕鼠隊として行動せよ、ということであった。本部から、七三一部隊だけでなく、憲兵隊、特務機関、ハルビン市衛生顧問の各身分証明書が、全員に与えられた。
鼠を捕れと漠然といわれて、困惑した。とりあえずハルビン市役所に行った。
「七三一部隊だが……」というと、幸い二〇〇〇個ばかり金網で作った捕鼠器が残っていた。これを借りてトラックに積みこんで、日本人小中学校、病院、会社、各駐屯部隊に配ってまわった。
その際、「関東軍は冬に備えて防寒具が不足している。鼠の皮が必要なので協力してほしい」という説明をするように指示されていた。
最初の頃、鼠は何百匹ととれた。満州の各地でも捕鼠が行なわれているらしく、ハルビン駅には、鼠が山と積まれていたりした。
捕れた鼠は、毎日、平房の部隊本部からトラックで受けとりに来た。
隊員たちは、部隊から鼠の餌(小麦粉を油で揚げたダンゴ等)や報奨用の鉛筆類を支給され、鼠と引きかえに各所に配給した。(P219) |
太田昌克『731免責の系譜』
四四年一月入隊、林口支部を経て同年一〇月から本部配属となった香川県在住の元兵長(一九二三年生まれ)は証言する。
昭和二〇(一九四五)年四月、本部で作戦命令として野鼠狩りを命じられるようになった。ちょうど石井部隊長が七三一部隊に復帰した時期と重なる。
「モチ(ネズミ)とアワ(ノミ)の増殖」が盛んに言われ、一日七〇−八〇匹のセスジネズミを毎日取っていた。どの班が何匹取ったかグラフを作って比較し、各班を競わせた。(P109)
|
1945年の段階では、目標の「300万匹」はともかく、かなりの規模の頭数が集まったことは確実でしょう。
田中が語った「1600匹」という数が、いかに現実からずれた、とんでもなく過小な数字であったか、わかると思います。
なお田中は、日本から運ばれてくる白ネズミだけした使いものにならなかったかのように語っていますが、実際には満州および中国各地で大規模な「ネズミ狩り」が行われています。もし田中証言が正しいのであればありえない光景であり、これもまた、「攻撃面の研究・開発の規模を小さくみせ」るための証言である、と思われます。
次に、実際にどれだけの量のペスト蚤が使用されたのか、を見ていきます。手がかりになるのが、金子順一論文です。寧波・衢県・常徳の数字のみ、抜粋します。
1940年 |
寧波 |
2.0Kg |
1940年 |
衢(く)県 |
8.0Kg |
1941年 |
常徳 |
1.6Kg |
※井本日誌には、1941年常徳細菌戦に関して、「増田少佐操縦、片方の開函不十分、洞庭湖上に函を落す。アワ36Kg 其後島村参謀捜索しあり。」と、「アワ(ペスト蚤)36kg」という数字が出てきます。これは「片方」だけの数字ですので、単純に2倍すれば、70kgを超えることになります。これは、他のデータと照らし合わせると、明らかに過大な数字です。私見ですが、これは「3.6kg」の誤記、あるいは日誌筆写時の写し間違いである可能性があるように思われます。
衢県の「8.0kg」がやや突出している感はありますが、1940年-41年「細菌戦」に必要だったペスト蚤の量はそれぞれ「数キログラム」程度だった、というイメージでしょうか。
さて、これだけのペスト蚤を生産するのに、どれだけの数のネズミが必要か。ちょっと計算してみましょう。
ここでは仮に、田中尋問録のいう「ネズミ−ペスト蚤比」16,000匹:1Kgが正しいものと仮定します。また「衢州戦」の「8.0Kg」はやや過大である可能性がないでもありませんが、とりあえず金子論文の数字が正しいものとみなします。
寧波戦 16,000匹 × 2.0Kg = 32,000匹
衢州戦 16,000匹 × 8.0Kg =128,000匹
常徳戦 16,000匹 × 1.6Kg = 25,600匹
前述の通り、この時期ですら十万以上のオーダーの数のネズミを集めることができたと見られますので、この数字を不可能と決めつける根拠はありません。「ネズミが足りないから細菌戦をやったというのはウソ」というdeliciousicecoffee氏の論理は、ちょっと無理なものでしょう。
念のため、「数キログラム」のペスト蚤の生産が果たして可能だったのか、を確認します。この時期の生産量・使用量についての証言を、いくつか並べてみましょう。
第四部(細菌製造)・柄澤班班長の柄澤十三夫は、1940年の「ペスト蚤5kgの製造・携行」を証言しています。
柄澤十三夫供述書
「1940年の8月から12月にかけて、石井中将は100名の部下とともに実験のため中支那の杭州に向った。実験用に腸チフス菌70キログラムとコレラ菌50キロを製造した。加えて第2部ではペスト菌に感染した蚤5キロが製造された。」(P71)
(近藤昭二『細菌戦部隊将校の顛末 柄澤十三夫少佐の場合』=『戦争責任2 特集=「731部隊と現代」』所収)
被告柄澤十三夫の尋問
(答) 私の知っている限りでは、第七三一部隊からの中国派遣隊は、一九四〇年また一九四二年の二回派遣されました。
第一回目の派遣隊は一九四〇年でした。これは同年の後半でした。私の直接上官である製造課長鈴木少佐は、腸チブス菌七〇キログラム、コレラ菌五〇キログラムを製造する様、命令しました。鈴木少佐の言葉から私は、此等の細菌が石井中将の指揮する中国特殊派遣隊のために製造されていることを知りました。
私は、第四部製造課班長として、この派遣隊への所要量の細菌確保に当りました。之れと同時に、私は派遣隊がペスト蚤五キログラムを携行したことを知りました。(P324)
(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)
※金子論文では、使用量は「寧波2Kg、衢県8Kg」、計10Kgとなっています。ここの「5Kg」とどちらが正しいのかわかりませんが、いずれにしても、「生産に必要なネズミは確保できたと思われる」という結論に違いはありません。
|
また井本熊男日記では、1941年2月時点で、北支のみで「弾薬(ペスト蚤)」5kgが製造可能であることが語られています。
吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』
(「井本日記」第一一巻)
また(1941年)二月七日過ぎには北支那防疫給水部(西村部隊)から次のような連絡をうけている。
「北支現在ノ装備
十四年秋 21万円 細菌兵器ノ研究ニ資スル如ク施設ヲ始メ九分通り完成
ロックヘラ接収計画ヲ樹立シアリ「■■」ト連絡シアリ、彼ハ日本軍ヨリ利用スルトイフ意向ヲ明示セハ明渡スノ已ムナシト考ヘアリ
セイカ大学ノ建物位置共ニ恰好ノ位置ナリ。今ヤ米ヨリ支那側ニ渡シアリ
軍トノ諒解ハ之カラ利用スル如クツキアリ
弾薬、5kgハ現在ノ施設ヲ以テ製作可能ナリ。
ノミノ製産ニ援助シ得ル如ク希望ス」(同上)。
(P14)
(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号) |
そして1941年6月には、石井四郎自身が、「三‐四カ月間に於ける蚤の最高繁殖量を六〇キログラムに迄増大し得た」(すなわち月間生産量15〜20Kg)と語っていたとのことです。
川島清の訊問調書
私の記憶によれば、一九四一年六月東京から帰隊した石井中将は部隊の各部長を自室に集め、第七三一部隊が細菌兵器としてのペスト蚤の用法を成功裡に完成し、其のため実戦に於けるペスト蚤の大規模使用が可能となったとの報告を、彼が日本参謀本部に於て行った旨述べました。(P154-P155)
石井が吾々に伝えたところに依れば、参謀本部では部隊の業務成果を高く評価し、細菌戦用兵器の改良及び今後の研究に特に留意するようにとの指示を与えました。
石井は以上のことを伝えた後、蚤の繁殖に関する部隊の業務能率を増進するために一層奮励努力するよう吾々を督励しました。
其の席上石井は、部隊が三‐四カ月間に於ける蚤の最高繁殖量を六〇キログラムに迄増大し得たが、今後は以上の期間に於ける蚤繁殖量を二〇〇キログラムに迄引上げねばならぬと力説しました。(P155)
(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より) |
また「井本日誌」には、「常徳細菌戦」直後の1941年12月時点で、北支のみで、「人と金あれば」10−20kgの生産が可能であるとの記述があります。
井本日誌 1941年12月22日
「二、増田少佐ヨリ (ホ)
5、20k作ル為ノ装置ハ現在即可能
6、北支ニハ石油缶二万アリ 人卜金アレハ一〇−二〇Kgハ出来ル
中支ハ鼠ニ困ル、(種ノミハアル)
南支ニモ種鼠ハアル」(P15)
(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』 =『季刊 戦争責任研究』93年冬期号所収) |
以上のデータを見ると、1940年−41年の「細菌戦」のうち、「衢県」の8kgはやや微妙かもしれませんが(使用量が過大に報告されていた可能性があるかもしれません)、「寧波」の2Kg、「常徳」の1,6Kgは、十分確保可能な量であったと思われます。
さて以上は、「寧波」「衢県」「常徳」の細菌戦が実施された、1940年〜1941年当時の話です。その後、ネズミの調達量が増えるに従い、「ペスト蚤」の生産量(あるいは生産目標・生産可能量)はどんどん増加していきます。
終戦直前の1945年段階では、こんな記録が残されています。
大塚文郎大佐「備忘録」 1945年1月8日
「局長ヨリ
宮崎第一部長 − 石井少将ノ件
大臣の決裁
1、ほ号作戦ハヤラメ
2、現材糧テ促進ス
3、謀略的使用ヲナス事アリ
300kg − 現在機構テ出来ル
局長 三〇〇キロ作ラセル様発進スルカ可卜思フ、之カ為主計、薬剤官ヲ附ケテクレト云フカラヤル
機構 ほ号ノ整備、補給
小出 現在ノ機構卜人員トテハ三〇〇キロハ出来ヌ
満洲一五〇キロ 餅二二・五万、二一万九千補給、清洲テ白餅一・〇万」
(「大塚備忘録」第一一巻)(P26)
(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』=『季刊 戦争責任研究』93年冬期号所収) |
生産目標は「三〇〇キロ」。しかし小出中佐は、「現在の機構と人員」ではそれは無理で、「満州一五〇キロ」が精一杯、と言っているようですが、いずれにしても大変な量です。
田中尋問録を再掲します。
田中淳雄少佐尋問録
(ホ)、隘路
蚤の生産には絶対に白鼠を必要とす 白鼠は北満にては如何にするも自活不可能で内地よりの補給を必要とす、白鼠の固鼠器内の生命は約一週間故 一ヶ月に四回取換を要す
而も一ヶ月後に於ける一缶よりの獲得量は最良条件にて僅に〇.五瓦(グラム)(一CC 約一、〇〇〇匹)にして大東亜戦下空襲等により内地よりの白鼠の輸送極めて困難且つ長時日を要し 他面食糧不足により輸送間の損耗約五〇%なり
従って一〇瓦の蚤生産に内地よりの白鼠一六〇頭 一〇〇瓦の蚤生産に内地よりの白鼠一、六〇〇頭を要する状況にして蚤の大量生産を命ぜられたるも到底不可能なる事であった(P228)
(太田昌克『731免責の系譜』所収) |
田中は、輸送中の損耗までを考慮に入れた上で、「ネズミ−ペスト蚤比」を、16,000匹=1Kgと申告しています。しかしこれは、初期段階はともかく、少なくとも1944年時点では、明らかに過小なものでした。
石井四郎の発言を見ましょう。
吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』
2、アメリカ軍などに対する攻撃計画
一九四四年になると、アメリカ軍の侵攻作戦をどう防ぐかが緊急の課題となり、細菌戦研究にも新たな役割が割り振られることになる。四月二六日開かれた陸軍省局長会報で石井四郎少将は次のようにのべている。(P22-P23)
「石井少将ヨリ
五月一日研究報告 ホ号ハ如何
一キロPxヲ作ルニ 一二、五〇〇ノ鼠力必要ダッタ、初期之カ一割シカ出ヌ、生産見込カ立タヌ故一割テヤレト命令シタ、天■■
平均二、〇〇〇テ培養サレタ、満洲、最低二−三、五〇〇
学者ヲ動員シ鼠増殖ニ関シ研究セシメタ、水ノ補給カ生殖ニ重大」 (「大塚備忘録」第五巻)
石井は、ペスト菌液一キロ生産のためにネズミ一万二五〇〇匹が必要だったが、研究の結果その二割ぐらいでできるようになったといっているのである。
(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号) |
従来「ネズミ−ペスト蚤比」は、12,500匹=1Kgだった。これは、田中の言う、16,000匹=1Kgに近い数字です。
しかしネズミの不足から、この比率を上昇させる必要が生じました。石井は「一割でやれ」(つまり1,250匹=1Kg)と命令しましたが、結果的には「平均」2,000匹=1Kgを達成できたようです。
従って、ペスト蚤の生産に必要なネズミの頭数は、田中証言の8分の1になります。
次に、ハバロフスク軍事裁判における川島清の証言を見ましょう。
川島清の訊問調書
・・・伝染病媒介体たる蚤の飼育器具は次のようなものでありました。
即ち部隊第二部には特別設備を有する屋舎があり、其処には、約四五〇〇箇の培養器を置くことが出来ました。各培養器内の白鼠は一ヵ月間に三‐四匹宛取替えられまました。此等の白鼠は特殊の仕掛によって培養器内に縛り付けられてあり、培養器内には培養器と数匹の蚤が入れられてありました。
培養期は三‐四カ月に亘って続き、此の期間内に各培養器により約一〇グラムの蚤がそれぞれ飼育されました。斯くて部隊は三−四ヵ月の間に、ペスト感染用の蚤を約四五キログラム飼育したのであります。
私は第二部に勤務しませんでした。従って、蚤の繁殖に関する数字が大体の数字であることをお含み願います。(P154)
(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より) |
ペスト蚤の生産量は、「三、四ヵ月の間に約45キログラム」ですので、月当たりに直すと、11〜15キログラム、ということになります。それに対するネズミの必要数は、「約四五〇〇箇の培養器」のそれぞれに「一ヵ月間に三−四匹」ですので、13,500匹〜18,000匹、です。
「大体の数字」ではありますが、それぞれ間をとると、「ネズミ1万5千匹=ペスト蚤13Kg」ぐらいのイメージでしょうか。「ペスト蚤ーネズミ」比は、おおまかに、1,100匹=1kgとなります。
1943年4月に行われた、参謀本部での打ち合わせを見ましょう。意味のとりにくい断片的なメモ書きが続き解釈が難しいのですが、「ネズミ−ペスト蚤比」がはっきり出てくるのが、「南支」についての報告です。
1943年4月 参謀本部「ホ号打合」
(南支)。
イ、餅月1万ヶ。月産10kg。7〜8月は発生率不良。5、6、9、10月が良し。
ロ、2月は補給現在迄2万。
ハ、エヂプトぬまねずみの2代目を作り、粗暴性緩和す。飼育馴化しあり。自変種にかわりつつあり。
ニ、葡萄糖を利用する等2/3の節用をなしあり。(P28)
(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号) |
「餅(ネズミ)」1万匹に対して「粟(ペスト蚤)」10kg(すなわち1,000匹=1kg)とのことです。
※「ホ号打合」の全文はこちらに掲載しました。関心のある方はご覧ください。
その後1945年段階では、1,000匹=1kgという「ネズミ−ペスト蚤比」が、ひとつの目安として語られるようになります。
吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』
二八日の真田少将の日誌には、参謀本部部長会報の記録があるが、そこでは「F〔敵〕の戦意破さい、攻勢食止めに無理を承知で、非常手段。体当たり機の使用……を突出す」と記されたすぐあとに、「将来に於ける使用を顧慮し、有機的に統一ある準備」をするとして、細菌戦準備の現状が詳しく記されている。(P53-P54)
まず関東軍については、ハ弾・ウジ弾のペスト菌・炭疽菌を使う実験結果は「適確なり」と記されている。支那派遣軍では一二月一五日から増産を開始すると、翌年二月にはペストノミ七・五キロ(一挙に増産すれば五五キロ)ができるとあり、「支那の増産計画、殊に急速増産計画に対する真摯なる努力に対し謝す」と記されている。
また、ホ号作戦の研究会の見通しでは、ペストノミの生産は、四五年六月に二二五キロ、九月に三〇〇キロ、一二月に八〇〇キロが「良い所なるべし」とある。
ネズミの現在量は二五万匹であった。一〇〇〇匹のネズミでペストノミ一キロができるとして、月三〇万匹のネズミが確保されれば、三〇〇キロの生産が可能であった。そして、ペストノミ生産割当は、関東軍一五〇キロ・支那派遣軍六〇キロ(華中三〇・華北二〇・華南一〇)・南方軍六〇キロ・内地三〇キロであった。(P54)
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田中淳夫は、1943年から終戦まで「731部隊」に在籍していました。当然のことながら、このような「ネズミ−ペスト蚤比」の向上を知っていたものと思われます。
しかし田中は、「攻撃面の研究・開発の規模を小さくみせたい」という動機から、あえて開発初期段階での低い「比率」を証言した、と考えるのが妥当でしょう。
以上をまとめると、
1.田中敦雄の言う「ネズミ1,600頭」というのは、実態から乖離した極端に過小な数であること、
2.16,000匹=1kgの「ネズミ−ペスト蚤比」は研究の初期段階でのもので、少なくとも1944年以降は、概ね1,000匹〜2,000匹=1Kg程度まで比率が改善されていたこと、
3.「大量生産」が本格的に始まる以前の1940年−41年時点ですら、この時期の試験的な「細菌戦」に必要なだけのペスト蚤は概ね確保できていたこと、
の3点は確実に言えるでしょう。
細かい数字については、資料間の食い違いもあり、確定は困難です。しかし少なくとも、「ノミの人工的な大量繁殖は不可能」「従って細菌戦などできない」などということは、ありえません。
最後に、蛇足ではありますが、一応触れておきます。
それから、田中淳雄少佐が余暇にノミの増殖研究を命ぜられたのは1943年だから、1940年〜1942年に731部隊の細菌戦によってペスト被害に遭ったとする「731細菌戦賠償訴訟」は完全な出鱈目なのだ。
命ぜられたのが「昭和18年(1943年)」であったことに注目。
「1943年、余暇にノミの増殖研究を命ぜられたが、到底不可能であることが判明した」というのが真実なのだ。
つまり、1940年〜1942年に731部隊の細菌戦によってペスト被害に遭ったとする「731細菌戦賠償訴訟」(1997年提訴)は、最初から嘘っぱちのでっち上げだったのだ。 |
元の文です。
田中淳雄少佐尋問録
(4) 蚤の増殖方法の研究
一九四三年(昭和十八年)P防疫の余暇に「ケオプス」の増殖を命ぜられたり(P227)
(太田昌克『731免責の系譜』所収) |
今さらですが、これは、田中淳雄が「命ぜられた」のが1943年であった、というだけの話です。
既に見てきたように、「ペスト蚤」の生産は、田中淳雄が731部隊に入るはるか以前、少なくとも1940年には開始されています。「一九四〇年五月には、少年隊のほとんどが第二部田中(英雄)班でノミの増殖に動員された」(西里扶甬子『生物戦部隊731』P134)という状況でした。
deliciousicecoffee氏がその事実を知らなかっただけでしょう。
(2017.11.11)
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