731部隊(后  人体実験、これだけの根拠
 (5)「擁護」側からの証言


 「731部隊」の実態に関しては、多数の証言者が存在します。

 おおまかにグループ分けをすると、

.魯丱蹈侫好軍事裁判被告、及び中帰連メンバーの「戦犯」グループ、
◆悵魔の飽食』の取材源となった証言者たち、
『悪魔の飽食』や日本各所で開かれた「731部隊展」などに触発されて自発的に名乗り出た証言者たち、
『悪魔の飽食』に反発し、「731部隊」の活動を擁護する立場の証言者


ということになるでしょうか。

 ここではあえて、「擁護する立場」からの証言のみを取り上げます。

 念のためですが、「擁護」側ですら、「人体実験」の事実を否定している証言者は皆無です。「人体実験」の存在は全証言者グループの当然の前提であり、全く争点とはなっていないことにご注意ください。



 佐々木義孝(『世界日報』インタビュー)

 最初は、勝共連合系の新聞である『世界日報』に掲載された、佐々木義孝氏の証言を紹介します。

 メディアがごりごりの右翼系であるだけに、徹底的に「悪魔の飽食」を批判するスタンスです。「生体解剖はなかった」「悪魔の飽食はフィクション」という、刺激的な見出しが躍ります。

 しかしその佐々木ですら、実質的に、生体実験によって死者が発生したことを認めてしまっていることにご注目ください。


『世界日報』 1982年10月17日

 生体解剖はなかった 731部隊元幹部が証言

「悪魔の飽食」はフィクション 面白さ狙い内容誇張



 作家、森村誠一氏のベストセラー「続・悪魔の飽食」に掲載された生体実験のグラビア写真が、明治末期のペスト禍防疫記録写真を意図的に修整された写真を誤用していたことが明らかとなり大きな社会問題となっている中で、問題の関東軍満洲第七三一石井部隊で石井部隊長の元猜⊃粥蹐実名で世界日報社のインタビューに応じ、\限硫鯔兇蝋圓錣覆った⊃涌拇に伝染病は起せなかった―と語り、写真の誤用だけでなく「悪魔の飽食」の本文記述を真っ向から否定した。

(「ゆう」注 佐々木が「否定」したのはこの2点のみで、「人体実験」は否定していません。しかし「細菌戦」の「戦果」まで否定するのは無茶でしょう)


 さらに「ありもしない"捕虜の大量虐殺"を創作した人たちこそ牋魔"であって、彼らこそ日本民族を"マルタ"(死刑囚)にしようとしている」として、問題化したあとも適切な是正措置をとらないまま次のシリーズ準備をすすめる出版社と森村氏らを厳しく批判している。

 「悪魔の飽食」は現在、続編でグラビアのほとんどが誤用写真と指摘され欠陥本であるにもかかわらず、ほとんどの書店では一片の訂正表が置いてあるだけで回収措置が完了していない上に、各国で翻訳出版がすすめられている。それだけに今回、元石井部隊幹部が証言に踏み切ったことは、各方面に大きな波紋を投げかけるものと見られる。


「あまりにひどい」  佐々木さんあえて証言

 「悪魔の飽食」は、戦時中の関東軍満洲第七三一石井部隊が昭和八年ごろから終戦までに旧満州で中国人、朝鮮人らを「生体解剖した」として、その実態を告発し、発売以来百八十九万部(光文社)と大ベストセラーになっている。すでに映画化が決定しているほか、米、英、仏、ソ連、中国などから翻訳出版の問い合わせがきており、今秋には英訳が完成する予定という。

(「ゆう」注 問題をあえて、「人体実験」ではなく、「生体解剖」の存在にすり替えています)

 「続・悪魔の飽食」は、さらに新資料を加えて戦後の石井部隊と米軍の関係に迫り、すでに八十七万部が売られている。いずれも森村氏が日本共産党機関紙「赤旗」に、同特報部長、下里正樹氏(四五)の取材協力で連載したもの。二人は先月訪中し、「続々・悪魔の飽食」の準備のための取材を済ませている。

 正続あわせて二百七十万部を超え、さらに翻訳されれば「悪魔の飽食」に書かれた内容は、そのまま歴史の事実として定着することは必至と思われるが、今回これに対して、真っ向から反論を加えたのは、元石井部隊幹部の佐々木義孝氏(七五)=京都府京都市内在住=。

 佐々木氏は、増田知貞、中留金蔵(いずれも故人)に次で石井部隊長の"腹心"。部隊の中心地であった平房施設の設計にかかわったほか、孫呉、ハイラル、牡丹江、林口での支部建設を担当した。さらに石井部隊長不在の場合、部隊全般を監督、隊員教育などの任務についていた。

 佐々木氏は、まず「悪魔の飽食」に記されている「生体解剖」を強く否定、「(本の内容を)おもしろくするために森村氏が書いた創作にすぎない」と断言。

 七年間で三千人以上の「マルタ」と呼ばれる死刑囚が実験の犠牲になった、とする点にも反論。「せいぜい一週間に二人ぐらい。あくまで細菌戦に必要な生体実験と、その結果必要な専門家による死体解剖である」と語った。

(以下略)

(1面トップ 五段見出し)

 ご覧の通り、この佐々木証言は、「細菌戦」の事実を否定するなど、かなり無茶なものです。

 しかしその中でも、あっさりと「一週間に二人ぐらい」のペースでの「生体実験」の事実、そしてそれにより「死体」となった被験者が存在したこと(つまり「生体実験」によって被験者を殺してしまったこと)、という重要な点を認めてしまっています




 なお記事の中で、佐々木は731部隊のNo4として紹介されています。しかし実際には、「731」関係の書籍や論文で、佐々木の名前を見かけることはほとんどありません。

 常石氏の本に名を見ることはできますが、「石井の古くからの仲間、あるいは側近」という、あっさりした紹介です。

常石敬一『医学者たちの組織犯罪』(朝日文庫)

 トンプソンによる調査の実態を見ていく。あいにくトンプソン・レポートにはサンダース・レポートにあるような一間一答形式の尋問記録は付けられていない。しかしトンプソン・レポートのもととなったと思われる彼と同僚による尋問記録のいくつかを入手しているので、それによって調査の実態を明らかにする。

 入手しているのは、石井、北野、増田美保薬剤少佐、それに佐々木義孝軍医中佐の四人の尋問記録である。

 増田は石井の親類で、部隊では薬剤少佐としてだけでなく、飛行機のパイロットとしても働いていた。戦後は自衛隊に勤めていた。

 佐々木は一九三八年七月二九日付で日本軍に初めて編成された一八個の「師団防疫給水部」のひとつ、第一八防疫給水部の部隊長となり、一九四〇年から四三年まで石井部隊の孫呉支部長を務めた。佐々木は一九八二年に『世界日報』のインタビューに対して「石井の古くからの同志である」と述べている。

 増田も佐々木も石井の古くからの仲間、あるいは側近といえるだろう。



 常石氏が書く通り、佐々木は、トンプソンの尋問を受けています。しかし尋問を終えたトンプソンは、「佐々木程度のレベルでは生物兵器について知っているということはないと思われる」と失望しています。

『七三一部隊の生物兵器とアメリカ』

 トムプソンは次に京都へ行って、佐々木藤孝中佐を尋問した。佐々木は平房と孫呉支部の建造に携わったこと、一九四〇(昭和15)年孫呉支部長として勤務したことを認めた。

 トムプソンは人体実験について詰問した。「中国人や捕虜が生物戦の実験に使われたという話を聞いたことがあるか」

 建造に携わっていれば監獄棟の存在を知っていたはずであるが、佐々木は「知らない」と答えている。彼はトムプソンに対して自分は浄水の仕事だけをしていたと、アメリカ側の都合の悪い質問の答としては、聞きなれた返事をした。(P134-P135)

 またかと感じたトムプソンは、佐々木の方に向き直ると、他の連中は石井のことをどう思っていたのかと率直に聞いた。

 「統率力と実務の才能で知られた頭の良い人だ」と佐々木は答えた。

 「彼に敵はいたか」

 「多くの敵と多くの友達を持っていたと思います。重要人物でした」

 この尋問の後、トムプソンは次のように書いている。


 佐々木中佐の生物戦に関する我々に対する答から、平房においてこの分野における調査が行われていたことを彼はまったく知らなかったのは明らかだ。こうした研究は極秘であり、全体のほんの一部が平房で行われていたにすぎないので、佐々木程度のレベルでは生物兵器について知っているということはないと思われる
(P135)



 米国側からはあまり重要人物とは思われなかったためでしょうか、佐々木は、続くフェル、ヒルの調査では、もう呼び出しがかかることはありませんでした。

 あくまで私の個人的印象ですが、佐々木に「大物」感はあまりありません。石井四郎、北野政次、内藤良一、増田知貞、金子順一あたりの幹部を部隊の「主役」、各研究グループの班長クラスを「準主役」とするならば、それに続くステージにいるくらいのイメージでしょうか。

 佐々木は実際には、部隊の実態には詳しくなかったのかもしれません。




 郡司陽子『証言・七三一石井部隊』


 さて、その佐々木が高く評価している証言集があります。郡司陽子『証言・七三一石井部隊』です。

『世界日報』 1982年10月17日

 とりわけ「悪魔の飽食」で証言した元隊員が身分も姓名も明らかにしない上での証言であったり、佐々木氏によれば「かなり正確に書かれている」という「証言・七三一石井部隊」の著者、郡司陽子さんも仮名である中で、佐々木氏は実名で本紙のインタビューに応じた。その理由を佐々木氏は、「発言の責任の所在を明らかにするため」と述べた。

(1面トップ 五段見出し)

 郡司陽子は、松村高夫氏からは、「擁護派」に分類されています。


『<論争>731部隊』より

松村高夫証言(一九九一年九月九日)

 一九八三年に郡司さんというペンネームですが、二つの書物を出しております。その方は七三一部隊の人体実験を擁護している、七三一部隊の活動を擁護している方なんですが、それにもかかわらず、人体実験があったことだけはこの中で示しているという文献です。(P124)

 


 実際には「擁護」とまで言えるか微妙なところですが、ともかくも、「反『悪魔の飽食』」派」である佐々木からも好意的に紹介されている本です。

 この本には何が書かれているのか。以下、内容を見ていきましょう。



 郡司陽子氏(仮名)は、1941年、24歳の時、731部隊員の夫と結婚し、5月にはそのまま満洲に渡りました。9月に帰国、陸軍軍医学校の防疫研究室に入ります。1942年9月には、今度は自身が部隊員(特別班動物舎勤務)となり、731部隊に戻ることになります。戦後は、石井四郎の「いわば「私設秘書」」(P228)として、新宿若松町の石井宅に住み込みました。

 郡司氏は、『悪魔の飽食』に触れた感想を、次のように書きます。

郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

 その「本」(「ゆう」注 『悪魔の飽食』)を読んで、わたしはひどい衝撃をうけた。まるで自分の神経を、素手で直接つかまれたような痛みが走った。

 そこには、七三一部隊の実態が、克明に描かれていた。「わたしたち」は「悪魔」になっていた

 この事実を受けいれざるをえない、と思う反面、何かが違うという気持ちが、わたしを強くつき動かした

(「まえがき」より)

 私たちは「悪魔」などではない。みな、「素朴で、やさしい、働き者ばかりだ」(「まえがき」より)。そのような視点から、郡司氏は、自分の部隊での体験を詳細に語るとともに、知り合いのつてを辿って部隊員の証言を集めました。

 夫は「何も話してくれない」(P85)状態でしたが、この本では、1938年から部隊に勤務していた「弟」、そして「弟」の親友であった特別班員「Y」の証言が取り上げられています。以下、「人体実験」に関わる部分を紹介します。

 なお郡司氏自身は、「人体実験」などとの関わりは持ちませんでした。

郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

安達での「丸太」を使った細菌実験 − 弟の証言

 「丸太」を使った実験にも、何回か出動した。

(略)

 九時頃に、トラックの列は、出発する。先頭は軍医たち幹部を乗せた乗用車、次に隊員用と「丸太」用の二台のトラックが続き、そのうしろに、ベニヤ板や防毒衣等の資材を積んだトラックがついていた。通常、四、五台の車輌が一列になって走るのだ。「丸太」は、トラックの床にじかに坐らされ、自分たちは、同乗の荷物等に腰かけていった。(P94-P95)

 行先は知らされていない。が、いつも行先は、安達にある七三一部隊の特別演習場だった。

 平房から安達までは約一二〇キロ、トラックで三時間弱の距離だった。茫莫たる野原である。

 その日の実験に使われる地域の中心に、棒が一本立てられている。その中心から放射状に、あるものは一〇メートル、あるものは二〇メートルといったふうに、さまざまな距離をもった三六(幅三尺×長さ六尺)のベニヤの一枚板が立てられていた。

 ちょうど扉大のベニヤ板には、それぞれ二本の脚がついていて、その脚が地中深く埋められているのだ。

 覆面トラックから降された「丸太」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。

 「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「丸太」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「丸太」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(P95-P96)

 すべての準備が終わると、自分たちはトラックで約一五〇メートル後方に避退した。そこで、用意された防毒衣、防毒マスクを着用し、待機するのである。

 「標的」と化した一団の「丸太」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。

 まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。

 爆撃機は「標的」の中心の棒をめがけて、二〇キロ爆弾、三〇キロ爆弾を投下した

 「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。

 爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場に駆けつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。(P96-P97)

そこは、「丸太」の地獄だった。

 「丸太」は」例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた者、顔といわず身体のあもこちからおびただしい血を流している者 − あたりは、苦痛の坤き声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった

 そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土手の状態を調べている隊員もいた。

 自分たちもまた、てきばきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行なわれた。

 「丸太」は、死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた。それがすむと、自分たちは全員がその場で噴霧器のようなもので消毒され、隊に戻ることになる。

 部隊に戻ると、ふたたび消毒され、さらに消毒風呂、シャワーを浴びて者換え、ようやく解散となるのだった。(P97)


郡司陽子『【証言】七三一石井部隊』

暴動の主犯の「丸太」を射殺、他は全員毒ガスで「やった」 −元特別班員Yの証言

 自分が見たなかで忘れられないのは、この中庭の周りを、土のうを背中にくくりつけられた「丸太」が、食事も睡眠も与えられないで、走らされている光景だ。何日生きておれるか、という実験をしているとのことだった。その「丸太」がどうなったかは、知らない。

 「丸太」が終戦の年に暴動を起こしたのは、覚えている。自分の記憶では、そんなに大騒ぎになったような気がしない。とにかく、七棟二階で、二、三人が廊下に出ていた。体格の良いロシア人「丸太」が、胸をたたいていた。しばらくしてから、たしか憲兵だったと思うが、中に入って、拳銃でその「丸太」を射殺するところを見た。そのあと全員毒ガスで「やった」。

 撤退する時にも、「丸太」を全員「やった
」が、思いだしたくない。(P165-P166)


 繰り返しますが、以上が、佐々木義孝が「かなり正確に書かれている」という本に掲載された証言です。『世界日報』インタビューではやや言葉を濁していましたが、佐々木も「人体実験」については十分に認識していた、と考えていいでしょう。

 郡司氏にはもうひとつ、『証言 七三一石井部隊』の三カ月後に出版された、『真相 石井細菌戦部隊』という著作があります。こちらには、「総務部調査課写真班 T・K」をはじめ、5人の証言が収められています。





 W・M(開業医、元731部隊員)の投稿


 元731部隊員である一開業医の、大学学友時報への投稿です。

 原文では氏名・医院名とも明記されていますが、名が知られていない人物ですので、プライバシーに配慮して、ここではイニシャルに変えました。

投 稿

「悪魔の飽食」を読んで

昭十七年卒 W・M
 (「ゆう」注 原文実名) (元満洲第七三一部隊員)

 往きつけの理髪店で、整髪中にそこのおやじが「先生!昔は随分ひどいことをした部隊があったものですね。何でも満洲の第七三一部隊とかいうことです。私は昨日『悪魔の飽食』という本を求めて来たのですが、とうとう徹夜して読んでしまいましたよ。」と、その部隊の残忍な仕打を縷々私に話すのでした。

 彼はまさか客の私が戦時中その部隊に青年将校として勤務していたとは、つゆ知らなかったことでしょう。

 今、戦後三十七年にもなって、何故か曽って日本軍が冒した数々の罪悪が、教科書問題を絡め瀑(あばか)れています。善意に解釈すれば、忌しい戦争を忘れてはならない、再び戦争を起してはいけないととれますが、悪意にみれば日本式エコノミックアニマルで恥も外聞もなく儲けようとする商魂の発露ともとれるのではないでしょうか。

 満洲第七三一部隊が細菌謀略部隊で、生体実験をしていたとの悪名は、これまでも時々書かれ世の風評となったことがありますが、フィクション式のものが殆んどであった。併し今回の森村氏の「悪魔の飽食」は、私の体験からしても、殆んどその実相を伝えるものと思います

 今迄固いベールに包まれていた此の部隊の実体についての取材の苦心には深く敬意を表しますが、よく読んでみると作者自身あまりにも主観的になりすぎ、又読者の共感を得るためにも部隊の惨虐無情のみが強調され過ぎてはいないでしょうか。昭和元禄とも言われる此の平穏無事の世に生れ育った幸福な人々には此の一書は恰も無免疫動物に対する細菌の如く強烈なショックを与え忽ちにしてベストセラーにのし上ったのでしょう。

 勿論、生体実験は人間の尊厳を無視した許されるべき行為では決してないと思いますが、戦争という是亦許されざる行為の中にあって、徒に一発の弾丸で処刑されてゆく人命を少しでも活用して将来の人類生存への條件を真剣に探究していった第七三一部隊の功績をも評価してもよいではないでしょうか。

 実際此の実験に参加したスタッフは蛇でも鬼でもなく、自己の先命を賭しても人類を守るべき使命を有った医師達であったのです。従って幾ら命令とは言え平易な気持で行っていたわけではなく、戦後何年経っても心の底に晴い影を抱いて消えることはないのです。敢えて自ら世に発表したりしない理由もそこにあるのです

 満洲第七三一部隊、所謂石井部隊が表看板にしていた防疫給水部の業務は、全軍、師団にゆきわたり随分と貢献したと確信しています。私は茲に二、三の例を挙げてその一端を紹介してみましょう。

 或る歩兵連隊(約兵員三〇〇〇名)にチフス患者が多発した時、他の衛生機関、例えば陸軍病院が防疫にあたったとした場合、菌検索ですら五、六日は要し、その間チフスはどんどん蔓延してしまうでしょう。

 ところが第七三一部隊(本部、支部とも)がやると、さっと現場へ乗り込み僅か三時間足らずで全員の検便、採血を了え、一昼夜培養しもう翌日には患者並に保菌者を発見し、消毒隔離その発生の原因且つ救急の治療までやってのけるのです。それだけ迅速、正確な処置が出来る優秀な人員と器材を有っていたのです。現在でも仲々これだけの成果を上げ得る機関は少いでしょう。

 又大陸の戦争では飲料水の取得が困難なことで多く苦労させられました。目前に泥沼や濁ったクリークが横たわっていてもどうにもならない。此の部隊がいると、先づ二、三分で毒物検知を行い、毒物がないと分れば「あっ」という間に石井式濾水幾を用い無害な美味しい水を充分に兵員に給水出来たのです。

 第七三一部隊は前にも述べましたが一名細菌部隊とも言われていたように、総ての細菌にかけての研究では当時の各大学の細菌学教室ではとても出来ない優秀な研究が行われていて、その設備と陣容は日本一と誇るに足ると思います。主なものではチフス、赤痢、コレラ、ベスト、脾脱疽、馬鼻疽、リケッチアの発疹チフス、ビールスでは痘病、流行性出血熱等の研究に力点を注いでいた。(P8-P9)

 後で知ったのですが、当時、国内ではペニシリンに代表される「かび」類の研究は微々たるものでした.が、此の部隊では、もう、どしどし生産され、ズルファミン剤の「トリアノン」と共に対伝染病治療に毎日、研究開発されていました。

 もう一つ凍傷研究も目立った効果を上げていました。寒冷地の冬期作戦では何時も多数の凍傷患者を出し凍死者、四肢壊死で悩んでいたが、石井部隊では貴重な生体を用い凡ゆる実験を繰り返し遂に今迄不可能とされたものまで救命し得る方法を発見するに至った

(奇しくも此の凍傷実験は私の兄憲二(昭和十三年卒)が北支軍にいたとき石井部隊長の下で実施し成果をあげたことを復員後私に語ってくれました。)

 未だ幾らでも此の部隊の功績はあげ得ますが、その実験者は実に真剣で科学的で与えられた貴重なマテリアルは総て精しく病理学的、生化学的に記録され検討されて、唯に友軍のためばかりでなく人類存続への輝かしきデーターを積み上げていったのでした。

 斯うしてみると森村氏が此の部隊の裏面のみを憎悪の感情で世に訴えたとしたら私は心外に耐えない。戦争という人類最高の悲劇の中で如何にしたら病菌から人類を守ることが出来るかを懸命に努力した私の青春の一頁に対して決して卑屈な感じは有っていない

 現在では、もうダイナマイトで粉砕され僅に二本の煙突と一部の壁面を残しているのみのようですが、私達の心の底には生きとし生ける限り満洲第七三一部隊の思い出は消えることはないでしょう。

(水戸市、T病院開業)(「ゆう」注 原文実名)

 一九八二、七、三〇

(昭和57年11月22日発行 『名大医学部学友時報』第394号掲載)


 七三一部隊には、医学の進歩に貢献したという「功」の面もある。「悪行」ばかりに触れずに、こちらにも注目してもらいたい。―おそらくこれが、元部隊員であった医師たちの一般的な認識だったのでしょう。

 しかしこのような立場の方であっても、「森村氏の「悪魔の飽食」は、私の体験からしても、殆んどその実相を伝えるものと思います」と、基本的には事実関係を認めています。



4  古賀勝彦『諜報機関員の戦場』

 古賀勝彦氏は、1940年、731部隊の「隊長直轄配属憲兵室」に配属され、中国語通訳として勤務しました。

 著書『諜報機関員の戦場』では、731部隊の「人体実験」は、ソ連に対する抑止力としてやむえなかった、との見解をとります。

古賀勝彦『諜報機関員の戦場』

石井部隊こそ蔭の守護神

 石井部隊の人体実験は、攻撃を目的としてなされたものではなく、ソ連の細菌、有毒ガス兵器使用を抑止するために行われた。私は在任中に、その感を深くしたのである。

(略)

 想うに、七三一部隊の存在がなかったら、米国の原爆投下数年前には、巳に実戦使用できる数千トン、数万トンのソ連化学・生物兵器による攻撃で、イラクの化学兵器によるクルド人の殺戮より桁違いの悲劇が、日本各地で発生し、都市・農村・港湾等は決定的なダメージを受け、さらに悲惨な敗戦を迎えたに違いない。(P135)


(略)

 日本の目的は、侵略を企図するソ連部隊に対しての、防衛こそが主要目標であったと考えるのが、自然であろう。私はその信念で石井部隊の任務に青春を賭けた。今でもそう思っている。(P136-P137)



 そして氏は、自らが関わった毒ガスの「人体実験」について述べています。

古賀勝彦『諜報機関員の戦場』

 ソ連製戦車内の前部座席に、死刑囚のスパイを座らせて、ロカ清浄装置を取り外し、眼ガラスを覆って見えなくした、防毒マスクを着用させ、手錠をかけ座席に固定させる。(P148-P149)

 呼吸弁の箇所に、呼吸する度に接合する上下弁へ、「+と-」の電極を装着し、更に右手には、呼吸困難になった時の呼出用非常ベルボタンを握らせる。各装置の電線(コード)を、戦車外数十辰琉汰慣まで延ばして、その先端に呼吸毎に振動針が作動するメーターと、非常ボタンを押すと高音が出るブザーが取付けられていた。実験参加者は、防毒マスクを着用して、メーターを眺め、ブザー音を聴くことによって、戦車内の情況判断ができるのである。

 自分の親指を彼につかませて、非常ベルの押し方を何回も念をおして説明した。上司の命令通り、「もし、呼吸が困難になったとき、このボタンを押さないと君は死ぬんだよ」と。「よし、わかった、そうするよ」。

 だが、私には嫌な任務で、話が終ったあとで、口の中が渇いている。しかし、彼がボタンを押さなければ実験は水泡になるので、私も必死の思いである。実験材料のモルモット、鳥禽類、小動物、ラット等が散在する戦車内から天蓋に出て、準備完了の信号を、片手を挙げて左右に数回振り、戦車外に出た。(P149-P150)

 上述の有毒液体ガスの投擲が実施され、その十数秒後、非常ベルが何回も高音を出し、鳴り続け、呼吸計器の振動針が徐々に振幅を減らしていく。ブザー音も消えて、周囲が静かになると同時に振動針も、完全に止った。しばらくして、送風機のホースを戦車の天蓋を開いて差し込み、戦車内に充満した有毒ガスを発散させる。

 隊員が、ガスの残留値を測定した後で、安全を確認してガスマスク着用のまま、調査班が戦車内に入り、新開発有毒ガスの実験効果を研究調査するのだった。また、実験演習には必ず撮影班が同行していた

 死刑囚といっても人間である。毎回の犠牲者に対しては気の毒で、良心に相当な負担があった。だが、ソ連の保有する兵器により日本全土が壊滅的な打撃を与えられることを考えると、戦時中では止むを得ない

 座して日本国土と国民の凄絶な終焉を眺めるが正しいのか、死刑囚を犠牲にして自国防衛に専念するのが正しいのかは、読者の判断に求めたい。(P150-P151)



 その他、氏は、「1941年の冬ごろ」に行なわれた「"ダイナマイト"を用いた衝撃波実験」についても触れています。「十数名の中国人死刑囚」が、「全員」「即死」した、とのことです。

 氏は、「毎回の犠牲者に対しては気の毒で、良心に相当な負担があった」と述べながらも、ソ連への対抗上人体実験は「止むを得ない」と主張します。

 「正当化」の論理はともかくとして、氏が「人体実験」に関わったこと自体は疑いようもないでしょう。



 赤間まさ子(高名トミ)

 こちらは「人体実験」についての証言ではありませんが、731部隊の「研究成果」を積極的に評価する立場にある方が、部隊の非人道的行為を認めている、という意味で、ここに紹介します。

 赤間まさ子(高名トミ)は、1939年より、看護婦として部隊の診療病院に勤務しました。『婦人公論』1982年11月号には「高名トミ」の名前で手記を寄せています。また1994年には「赤間まさ子」の名前で、「七三一研究会」のインタビューに応じています。

(このインタビューは七三一研究会編『細菌戦部隊』に収録。高名トミ手記とほぼ同じ内容であることから、同一人物であると判断しました。なお「手記」は、あまりに文学的な表現が目立ちますので、あるいは、証言をもとにゴーストライターがまとめたものとも考えられます)

 こちらでは、「高名トミ」名の証言を紹介します。高名氏は、ペスト患者が奇跡的に回復していくのを見て、「(七三一の)大変な研究成果だと思います」と発言しています。


高名トミ『「悪魔の飽食」看護婦の証言』 

肺ペストに感染した青年

 配置換え早々、私は一人のクランケ(患者)を扱うことになりました。石井誠という千葉県出身の二十歳の七三一軍属で、病名は本人には極秘でしたが、肺ペストでした。七三一では大量のペスト・ノミを飼育しており、石井君はペスト研究班の高橋班にいたということです。

 高熱にうなされる患者を永山部長が診察しました。防毒マスクに良く似た防疫マスクをつけ、長靴と防疫衣に身を固めての診察でした。肺ペストは、空気伝染する危険が高く罹患したらまず助からない病気です。

(略)

 治療方法は二時間おきにビタミンCとぶどう糖を二〇CC注射しながら、七三一で開発したペスト血清を投与するのです。ぺスト血清は、氷を入れた缶の中の試験管に入れてありました。少し血液の混じった血清でした。

 治療を繰り返す中で、殆ど絶望とみられていたクランケの病状が持ち直してきたのには驚きました。七三一がペスト血清をどのような方法で作ったのか私は知りません。しかし、発病即死亡とされていた肺ペストが実際に治っていくのをこの目で見た時の衝撃! 医学書に無い奇跡が起こっているのです。

 七三一では、病毒の強い細菌株の育成研究につとめる一方、細菌感染から人体を防御し、治療する方法も開発していたのです。大変な研究成果だと思います。(P279)

(『婦人公論』1982年11月号掲載)


 その一方で、同じ部隊員であった夫の告白を、このように記しています。終戦時の「証拠隠滅」のため、「マルタ」ではない「ロシア人通訳」まで殺してしまった、という証言です。

高名トミ『「悪魔の飽食」看護婦の証言』 

 『悪魔の飽食』がベストセラーになる中で、夫がある日、野良仕事をしながら、ぽつりともらしたことがあります。

「あの時な、俺はな、ぱあちゃん……」

 夫のいうあの時、とは七三一が狂乱状態の中での撤退−内地引き揚げを指している。そのことはすぐ分かりました。

 「日本生まれの、ロシア人通訳が部隊にいただろう……マルタ相手の通訳をつとめていたSのことよ。おだやかな性格で、オレと仲良かったS……」

 S通訳は四十歳ぐらいの白系露人で、夫とは食事を共にしたり、親交のあった人でした。夫は言葉を続けました。

撤退作業の中で、現地で雇っていた中国人労務者、通訳、満人ボーイは全員、一室に集められた。秘密保持のため彼らを殺せと命令が出た憲兵隊長が、『おい高名、Sを殺るのはお前だ。オレがSを呼びつけて雑談しているから、お前は背後から近づき、拳銃で撃て』と言った……」

 私は草をむしりながら聞いていました。

「憲兵隊長が室内に閉じこめていたSを呼びつけた。見ると、Sの眼にうっすら涙がにじんでいる。今から何が起こるかをSは覚悟していたようだった……隊長と話をしているSのうしろへオレは近寄ってな」

 もういいよ、じいちゃん。そんな話もういい。私は黙って首を振りました。

「引揚船の中で、せめてSの形見だと思って死体から立派な腕時計を外し、オレの手首にはめた……けれどもよォ、夜になるとSの姿が夢の中で『コッチコイ、高名サン』とオレを手招きするんだ。苦しくって苦しくって、オレは形見の時計を外して……念仏唱えながら海の中へ放り投げちまったんゼ」

 作業の手を休めたしわだらけの夫の頻に、汗とも涙ともつかぬ、光るものが筋を引いていました。

「じいちゃん。あんた……」

 苦労したね、と言い掛けて私は口を閉ざしました。チクタク、チクタクと秒針を刻みながら海底へ沈んでいく通訳Sさんの時計が、目の前にまざまざと見えてきたのです。

 ゆっくりと、海中に沈んでいく時計を思い浮かべながら、戦争はイヤだ、こりごりだ。……戦争ほど人を狂わせるものはない、と私は強く心の中で叫んでいました。(P281)

(『婦人公論』1982年11月号掲載)




 『日本憲兵正史』

 最後に、疑わしい人物を捕らえては「マルタ」として731部隊に送り込んでいた、「憲兵隊」側の認識を示します。

 「日本憲兵正史」は、憲兵OB組織である「全国憲友会連合会」が5年がかりの大プロジェクトで完成させた、大部の「憲兵隊史」です。いわば、憲友会の「公式戦史」と言ってもいいでしょう。


『日本憲兵正史』

 まず、人体実験の問題が巷間噂され、現在も多くの出版物に面白く描かれているが、これは事実で、チチハル憲兵隊などから、ハルピン憲兵隊宛「丸太一本送る」と連絡があると、これは死刑囚を石井部隊へ送ることであった。

 しかも、この丸太である死刑囚は、石井部隊に送られると、起居就寝から食事運動に至るまで最高の待遇をされて、健康な死刑囚に仕立上げられる。

 部隊内の食事材料はすべて自給自足であった。その食事たるや栄養満点のものである。しかも、死刑囚の独房というより居室は、完全滅菌された部屋で、冷曖房から太陽の光線まで、これまた最高の設備である。さらに、医者はつねに健康管理を指導するのであるから、数ヵ月経過すると肉体的には完全に健康な死刑囚となる。

 この死刑囚にべスト菌をもつノミをくわせ、健康な人間がペスト病になっていく経過を記録研究する。この実験のやり方や収容されていた死刑囚そのものに、実は問題もあったのだが、これは憲兵史なので遠慮させてもらう。

 とにかく、細菌、毒ガスの研究が、学問的に見る限り素晴らしいものであったのは事実である。その他、多くの研究成果があるが、これまでも石井部隊についてはいまわしき流言が多く、迂潤に書けないのが残念である。

 石井部隊の研究も、実験方法と戦争に利用されたのではないかというところから、多くの非難があるのは当然だが、正しく人類社会に利用される限り、研究そのものは貴重である

 また、石井部隊が給水用ポンプを研究、開発、製作して、国民の生活に貢献した事実もあったことを付記しておく。(P775)

 


 正確には「マルタ」は正式の裁判を経た「死刑囚」ではなく、ほとんどが憲兵隊の独断で「731部隊」に送り込まれたものです。中には、普通の市民も混じっていたと伝えられます。

 それはともかく、石井部隊の研究を「貴重」と持ち上げる一方で、「人体実験」については「これは事実」と断じています。これが「憲友会」の正式見解である、と考えていいでしょう。


 

(2016.11.6)


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