731部隊(此 細菌戦、これだけの根拠
二つの公的資料
 −金子論文、井本日誌−


 1940年以降、石井部隊は、中国において数回にわたる「細菌散布」を行いました。一般的には「細菌戦」と称されます。

 だたしこの「細菌散布」は、1942年「折かん作戦」以外は、必ずしも「敵にダメージを与える」ことを目的としたものではありませんでした。どの細菌を、どのような方法で撒くと、どの程度の被害が発生するのか。それを研究するための、実験的色彩の強いものであった、と言えます。
※もちろん、撒かれた側の中国市民からすれば、「実験」だろうが「攻撃」だろうが、人為的な伝染病流行に苦しまされる、という状況に変わりはありません。いずれにしても、多数の非戦闘員を死に至らしめた日本軍の行為は、「戦争犯罪」の誹りを免れないでしょう。


 まずは、よく知られる代表的な「細菌戦」事例を総括しましょう。

森正孝『解説−細菌戦』

一九四〇年

 九月、ハルビンの七三一、南京の一六四四の両部隊は、浙江省杭州市寛橋の国民党中央航空学校を接収し、ここを出撃拠点として浙江省各地域を細菌攻撃した。使用された細菌はコレラ、チフス、ペスト。ペスト攻撃が最も猴効″とされ、その最初の攻撃地は衢県である(一〇月四日)。続いて寧波を攻撃(一〇月二七日)。そして一一月二七、二八日金華攻撃へと続いた。この年は金華を最終攻撃地とすることで終了している。

 すべてペストによる攻撃であり、低空から麦粒、とうもろこし、大豆などとともにペストノミを雨下(投下)している。被害は衢県が最大で死者二七四人(実際には隔離や家の焼却 − ペスト防疫はとりあえず焼却という方法をとった − をおそれて届出しない家もあり五〇〇名を超えると言われている)。寧波は同一〇三名、金華は同一六〇名と記録されている。

●一九四一年

 一一月四日、常徳が攻撃された。前年と同じペストノミの雨下作戦。死者三六名が記録されている。被害が少なかったのは中国側の防疫活動が迅速綿密に行なわれたからであった。

一九四二年

 浙かん作戦にともなって細菌戦が展開された。浙かん鉄道沿線の国民党航空基地破壊を目的に地上部隊と航空機による攻撃を行なったのち、撤退時に細菌を撒布するという作戦が主流であった。引き返す国民党兵力や住民にダメージを与え撹乱するためである。(P46-P47)

(七三一研究会編『細菌戦部隊』所収)

 1940年の衢県、寧波、金華。1941年の常徳。そして1942年の「浙かん作戦」。これが、当時実施された「細菌戦」の代表的な事例として知られています。

 「細菌戦」の存在は、最初、当時の中国側レポート、ハバロフスク軍事裁判の証言などにより明らかにされました。そして戦後には、多数の軍幹部・731部隊関係者がそれを裏付ける証言を行っており、研究者の間では完全な「史実」として認識されています。

 このコンテンツでは、数多い資料の中でも、「細菌戦」の存在を裏付ける意味では一級資料とされる、「金子順一論文」と「井本熊男業務日誌」を取り上げます。




 金子順一論文 −「ペストノミ」 撒布量と感染死者数ー

 金子順一は、1936年東京帝大医学部卒後、1937年7月に731部隊に参加しました。その後帰国し、「石井機関」の中核である「軍医学校防疫研究室」を、内藤良夫とともに取り仕切っていた、と伝えられます。(松村高夫『旧日本軍による細菌戦攻撃の事実』=『月刊保団連』2012年8月号P10、常石敬一『医学者たちの組織犯罪』朝日文庫版P41)

 金子は「731部隊」を中核とする「石井機関」の中心幹部の一人、と言ってもいいでしょう。「細菌戦」についてもかなりの関わりを持っていた様子で、「フェル・レポート」尋問調書にも、「生物戦について最も良く知っているのは増田、金子、そして内藤である」(亀井貫一郎の発言)の一文を見ることができます。

 2011年夏、奈須重雄氏(NPO法人731部隊細菌戦資料センター)が、国会図書館関西部で、『金子順一論文集』を発見しました。この論文は、国家機関である「陸軍軍医学校防疫研究所」の「研究報告」に掲載されたいわば「公的文書」であり、資料としては「超一級」と言ってもいいほどの重要論文です。戦後金子の復員後、東京帝大に学位請求論文としても提出されました。

 その中でも注目を集めたのが、『Pxの効果略算法』と題する論文です。どこにいくらペストノミを撒いたら、何人の感染死者が発生した、という、何とも凄まじい内容です。(ネットでは、こちらで全文を読むことができます)




 「既往作戦効果概見表」と題する表がわかりやすいでしょう。

金子順一『Pxの効果略算表』より

陸軍軍医学校防疫研究報告
第1部 第60号
PXノ効果略算法

陸軍軍医学校防疫研究室 (部長 石井少将)
陸軍軍医少佐 金子 順一

軍事秘密

受付 昭和18.12.14




第一表 既往作戦効果概見表

 攻 撃 目 標 PX Kg
(ペストノミ)  
 効果  1.0Kg 換算値   
 一次 二次  Rpr  R  Cep
15.6.4 農安  0.005   8 607  1600  123,000  76.9 
15.6.4〜7 農安、大賓  0.010   12 2424  1200  243,600  203.0 
15.10.4 衢県 8.0   219 9060  26  1,159  44.2 
15.10.27 寧波 2.0   104 1450  52  777  14.9 
16.11.4 常徳 1.6   310 2500  194  1,756  9.1 
17.8.19〜21  廣信 廣豊 玉山 0.131   42 9210  321  22,550  70.3 

※波多野澄雄氏による解説……「一・〇kg換算定値」では、一kgのペスト感染蚤に換算した場合、計算上は第一次感染(Rpr)によって一六〇〇人が死亡し、流行係数(Cep=七六・九)を考慮した場合、 その「効果」(R=流行係数×一次感染数)による死亡者は約一二万三〇〇〇人に上ると推計している。(波多野澄雄『新たな段階を迎えた細菌戦研究 −「金子順一論文」が明かす「ホ号作戦」の実相』=『季刊戦争責任研究』第75号 2012年春季号』所収)

※※1940年11月の「金華」攻撃については、「ペストノミ」ではなくペスト菌の直接撒布であったため、表に掲載されていないものと考えられます。

※※※作戦毎に、ペスト蚤の撒布量に大きな差があります。飛行機からの空中撒布では大量のノミを必要とするのに対し、地上撒布では少量のノミで「効率的に」効果を上げることができる、と考えられます。


 「PX」とは、ペストノミのこと。これを何キログラム撒いたら、どれだけの「効果」が上がったか、すなわち「一次感染」「二次感染」による死者が何人発生したか、をまとめた表です。

 例えば有名な「寧波細菌戦」(1940年10月27日)では、2Kgのペストノミを撒いたところ、第一次感染で104人、さらにその後の第二次感染で1450人の死者が発生した、ということです。

 つまり、国家機関である「防疫研究所」の公的な研究報告に、「細菌戦」をはっきりと裏付ける論文が掲載されていた、ということになります。


 ただし、「一次感染」「二次感染」のデータをどこから入手したのかは不明です。おそらく日本側の「密偵」の調査によるものと思われますが、「感染者数」の数字は今日知られているものとかなりの乖離がある場合もあり、正確性には疑問符がつきます。

 また流行は長期にわたるケースもあり、常識で考えても、感染死者が「攻撃」によるものなのか、あるいは「自然感染」なのか、という区別をつけることは容易ではないでしょう。

 実際、「撒布量」と「死者数」の相関関係を調べるにしても、撒布場所・人口密度・衛生状態・感染経路などの「変数」が多すぎて、意味のある「数式」を組み立てることは不可能であるように思います。
※この論文を紹介した渡辺延志氏も、「(この論文は)日本軍が組織的に中国でペスト菌をまいたことを明確に記している。細菌兵器の開発を手がけた当事者による公文書によって、そのことが確認されたのは初めてだ」と評価しながらも、その「手法」については、「その論文を貫くのは驚くばかりの非論理性である。もともと意味のあるとは思えない方程式なのだが、それに悉意的な係数をはめ込み、もっともらしい結論を導き出す」と酷評しています。(『731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告 石井機関の枢要金子軍医の論文集発見』=『世界』2012年5月号所収、P322)

なお渡辺氏の論稿は、こちらで全文を読むことができます。

 しかしそのような限界はあるにせよ、これは紛れもなく、「石井機関」の中核メンバーの一人である金子順一が著し、そして機関の公的な研究報告誌に掲載された論文です。仮に「細菌を撒いた」というのが全くのウソであったら、このような論文の掲載が許されるはずがありません。

 「撒布量」「死者数」の数字にはある程度疑問符がつくとしても、少なくとも、部隊がペスト蚤を「撒布」したこと自体は否定しようのない事実である、と断言していいでしょう。



 なぜこのような「過激」とも言える論文が書かれることになったのか。渡辺延志氏は、このように推察します。


渡辺延志『731部隊 埋もれていた細菌戦の研究報告 石井機関の枢要金子軍医の論文集発見』

 アメリカ軍を標的にした細菌戦の実施を主張するために、石井にはそれらしい説得材料が必要だったのだろう。それで腹心の金子に命じてこの論文を書かせたのではなかったのか。(P322)

(『世界』2012年5月号所収)

 当時、米軍に対する「細菌」使用が、軍の中で本気で検討されていました。金子、そして石井は、この論文で、軍に対して「細菌の兵器としての効果」を思い切りアピールしたかったのではないか、と見ることができます。

 この論文の「アバウトさ」の背景には、「プロパガンダ」を優先するあまり、細かいデータの信頼性は二の次になってしまった、という事情があるのかもしれません。





2  井本熊男中佐業務日誌 − 「細菌戦」は参謀本部が主導した

 井本熊男中佐は、1935年参謀本部勤務、以降、一時期を除き終戦まで「陸軍参謀」として活躍しました。戦後は陸上自衛隊第四師団長などを務めています。氏が著した『支那事変作戦日誌』、『大東亜戦争作戦日誌』は、戦史研究の上で、欠くことのできない貴重な資料になっています。

 1993年、吉見義明氏らは、防衛庁防衛研究所図書館にて、偶然に井本熊男中佐の業務日誌(全二三冊)を発見しました。これは、「陸軍中央幹部の記録という第一次資料であり、しかも日本政府が所管している資料(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』=『季刊 戦争責任研究』93年冬期号所収P8)という、紛れもない一級資料です。

 この日誌を見ると、「細菌戦」が決して石井四郎の個人プレーではなく、陸軍参謀本部が主導したプロジェクトであることがはっきりわかります。

 以下、吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号)及び吉見義明・伊香俊哉『七三一部隊と天皇・陸軍中央』(岩波ブックレット)に沿って、その内容を見ていきましょう。




 「細菌戦」の様子がリアルに記録されているのが、1941年11月の常徳細菌戦です。

井本日記 1941年11月25日


一、長尾〔正夫支那派遣軍〕参謀ヨリマルホ(「ゆう」注 原文はカタカナのホを○で囲んである。「細菌戦」の意味)号ノ件

 4/11
(「ゆう」注 11月4日)朝目的方向ノ天候良好ノ報ニ接シ97軽一キ出発〔以下四字分抹消〕

 〇五三〇出発 〇六五〇到着

 霧深シ Hヲ落シテ摸索、H800附近ニ層雲アリシ為一〇〇〇m以下ニテ実施ス (増田少佐操縦、片方ノ開函不十分 洞庭湖上ニ函ヲ落ス

 アワ36kg 、其後島村参謀捜索シアリ

 6/11 常徳附近ニ中毒流行(日本軍ハ飛行機一キニテ常徳附近ニ撒布セリ、之ニ触レタル者ハ猛烈ナル中毒ヲ起ス)

 20/11頃猛烈ナル「ペスト」流行各戦区ヨリ 衛生材料ヲ集収シアリ

   判決

 「命中スレハ発病ハ確実
」(「井本日記」第一四巻)

(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号P14))

 1941年11月4日、アワ(ペストノミ)を積んだ軽飛行機は、朝6時50分に常徳に到着しました。そしてペストノミを撒布し、「猛烈ナル「ペスト」」を流行させました。
※ただしこの情報は過大で、実際にはこの時点では数名のペスト患者が発生したに過ぎませんでした。「二次流行」で大きな被害が出るのは、この数ヶ月後になります。

※※前述の金子論文では、常徳へのペストノミ撒布量は「1.6Kg」となっています。井本日誌と差異が生じた理由はわかりませんが、金子論文の数値は「戦闘詳報」をベースとしていること、(精度はともかく)「撒布量」がポイントである論文であること、を考えると、金子論文の数値がより事実に近い、と考えられるかもしれません。私見ですが、他の資料と照合すると井本日誌の「36Kg」の数字は明らかに過大であり、「3.6Kg」の誤記、あるいは日誌筆写時の写し間違い、という可能性があるようにも思われます。

※※※
2019.7.7追記 2019.4.3、横浜で行われた「731部隊展」で奈良重雄氏の講演を聴いたのですが、氏も私と同様、「3.6kg」の誤りではないか、という推察を語っていました。


 「井本日誌」の記述は、投下時間にややずれがあるものの、中国側資料とも一致します。

常徳ペスト調査報告書

常徳ペスト調査報告書(陳文貴報告)

  (民国三十年十二月十二日)

1 前がき − ペストの疑いの発生

 民国三十年十一月四日朝五時ごろ敵機一機が霧の中、常徳の上空を低空飛行し、穀類、ワタ・紙・羊毛の繊維およびその他正体不明の顆粒状物体を含む、さまざまな種類の物体を投下した。それらの物体は鶏鴨巷関廟街と東門一帯に落下した。

 午後五時になって警報が解除されたあと、軍と警察はようやく落下物を回収して焼却し、一部を顕微鏡検査のため広徳病院に届けた。その染色プレパラート検査の結果、常徳の医療関係者は全員、ペスト杆菌の疑いがあると考えた。(P487)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)

 この時は、投下物体の回収に時間がかかったためか「ノミ」そのものは直接には発見されなかったようですが、1941年の容啓栄報告は、「敵機が投下した穀類はネズミ族を引きつけるためのものに相違ないし、穀類にワタくずをまぜたのはネズミノミを包むために使ったものである」(『中国側史料 日本の中国侵略』P480)との認識を示しています。





 さらに、1942年折かん作戦時の「細菌戦」については、次の記述となっています。

井本日記 1942年8月28日

1、広信 Px (イ)毒化ノミ。
        (ロ)の鼠に注射して放す。
(P40)
  広豊 (イ)
  玉山 (イ)
      (ロ)
      (ハ)米にPの乾燥菌を付着せしめ鼠−蚤−人間の感染を狙ふ。
  江山 C a井戸に直接入れる。
        b食物に付着せしむ。
        c果物に注射。
  常山 右同
  衢県 T、PAノミ
  麗水 T、PAノミ

2、南京に総弾薬を集め 〔飛行機〕衢州−〔自動車〕−目的地。
3、攻撃の為の人員は約一一〇名中、1/3は〔飛行機〕にて、他は〔自動車〕にて、杭州より。3/8
〔八月三日〕迄に展開を了る。
4、地上作戦との関係
  32D → 衢 ← 河野B
〔旅団〕
  22D 15D 此の二ケD
〔師団〕は実施地域と関係あり、撤退後攻撃開始す。(「井本日記」)(P41)

(吉見義明・伊香俊哉『日本軍の細菌戦』(『季刊 戦争責任研究』93年冬期号P19))

※「ゆう」注 文中〔飛行機〕〔自動車〕の部分は、原文では符号(図形)になっている。また「4地上作戦との関係」は文字部分のみ写した。実際には語の間に斜めに…や→が走っている。

 これは、非常にわかりやすいでしょう。

○「広信」には「毒化(ペスト)ノミ」、そしてペスト菌を注射したネズミを放つ。

○玉山ではそれに加えて「米にP(ペスト)の乾燥菌を付着させる。

○江山では「井戸に直接入れる」「食物に付着せしむ」「果物に注射」。

○衢県、麗水では「チフス菌」「ペスト蚤」を使用した。

 つまり、攻撃地点ごとに手段を替え、どのような手段が最も効果があるか、を実験しています




 しかし驚くべきことに、吉見氏らによってこの日誌が世に知られるようになると、防衛庁はあわてて日誌の一般公開を中止してしまいました。


西里扶甬子『生物戦部隊731』

 井本熊男大佐をはじめとする陸軍中堅将校の業務日誌は、防衛庁が「戦史叢書」(全一〇〇巻)を編纂する過程で、各方面から寄贈された膨大な資料の一部であると考えられる。

 戦史叢書の編纂が完了した後、一九九〇年ごろから序々に公開されていたのを、一九九三年、中央大学吉見義明教授が閲覧して、日本軍の細菌戦に関する一次資料が含まれていることを発見した

 これらの資料は複写は許されず、閲覧のみなので、吉見教授は立教大学大学院生(当時)伊香俊哉などと協力して、書き写すという根気のいる作業を続けた。これらの業務日誌の細菌戦関係の部分はもちろん、従軍慰安婦関係、毒ガス戦関係の記述は、解読・分析して発表された。

 その結果、防衛庁防衛研究所図書館は、いったん公開されていたこれらの業務日誌を、プライバシーにかかわる私的な日記であるとして、閲覧可能資料からも外してしまった。(P241)



 防衛庁の「戦争犯罪隠ぺい」の意図は明らかでしょう。さすがにこの防衛庁の乱暴な対応に対しては、研究者からも非難の声が聞かれます。

シェルダン・H・ハリス『死の工場』 訳者(近藤昭二)あとがき

 一九九三年、吉見義明 (中央大学) 教授・伊香俊哉(立教大学講師)の発見した井本熊男参謀本部作戦課員の業務日誌は、細菌戦計画や実戦使用が陸軍中央の指導下で行われたことや天皇の承認があったと思われることを明らかにする実に重要な資料である。

 だが、現在防衛庁は、これは個人の日誌であり本人の意向でもあるからとして公開を禁止してしまった。内容は全く公的な業務が記されているにもかかわらずである

 本書の著者が「まえがき」で言うように、「これらの書類には両国にとって軍事的に不利になるような情報などは含まれていない」のである。それにもかかわらず、「時代錯誤感のある『最高機密』あるいはこれに類した名の下に」隠蔽されているのである。(P359)


 その後1998年には、「細菌戦裁判」において、弁護団がこの業務日誌を「証拠」として法廷に提出するように請求しました。日誌を書いた井本自身はこの請求に「好意的な意向」を示していましたが、結局法廷に提出されることはありませんでした。

西里扶甬子『生物戦部隊731』


 一九九八年になって、中国の細菌戦被害者とその遺族を原告とする「国家賠償訴訟」の弁護団が、「井本熊男業務日誌」を一級の第一次資料として証拠保全を請求し、裁判所が文書提出命令を出すように申し立てをした。(P241-P242)

 その時点で九六歳という井本は耳は遠いものの、頭脳明噺で、弁護団と面会の上、好意的な意向を示していたが、井本の代理人(弁護士)は、「私的な記録である」として、法廷に提出することを拒否した。被告(国)側弁護団も、以下のような論旨の反論書を振出した。

1.原告の賠償請求自体が不当であるから、立証の必要はないので、井本日誌の提出命令も必要ない。
2.井本日誌公開の権限は井本氏本人にあり、政府にはない。
3.井本日誌は公務文書であり、公務員であったものの文書は提出除外されるという民事訴訟法の解釈からしてその理由がない。

 二〇〇〇年、誰もが懸念していたとおり、井本熊男は他界してしまい、私たちは貴重な歴史の証言者を、またしても失った。(P242)


   結局この日誌は、今日に至るも非公開扱いとなっています。辛うじて吉見氏らが筆写した部分のみが「資料」として活用されるのみで、大部分は日の目を見ないままです。


 

(2017.7.2)


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