731部隊(察  「細菌戦」に関する資料群


(書きかけの下書き)

 念のためですが、細菌戦、これだけの根拠 二つの公的資料 −金子論文、井本日誌−で紹介した日本側公的資料を待つまでもなく、日本軍が「細菌戦」を行った事実は数多くの資料により広く認識されていました。この「公的資料」の発見は、「細菌戦」の事実をより強く裏付けたものに過ぎません。

 こちらでは、「細菌戦」に関する主な資料群を紹介していきたいと思います。



1  1945年まで 中国の訴え

 日本軍の「細菌戦」は、1940年秋の寧波・金華・衢県から始まります。この段階でも、中国の衛生機関は「日本軍が細菌を撒いた疑いが強い」趣旨の報告書を作成していましたが、まだその注目度は高くありませんでした。

 世界に向けて情報が発信されるのは、1941年11月の常徳作戦がきっかけとなりました。翌1942年3月の、「金宝善報告」です。


松村高夫『細菌戦研究の問題性』

第二 七三一部隊と細菌戦に問する解明状況

一 中国の金宝善報告(一九四二年)

 日本軍の中国における細菌戦実施については、その当時から様々な報告書が作成されていた。日本軍の細菌戦の実施について、世界に向けて最初に発信したのは、一九四二年三月三十一日、中国衛生署署長金宝善の報告書である。

 金宝善報告書は、「過去二年間に日本が細菌戦の実施可能性の実験モルモットとして我が人民を使用せんと試みてきたことを示す充分な状況証拠が集められた。日本は飛行機を使ってペスト感染物質を散布することにより、自由中国にペストの流行を生み出そうとしてきた」と指摘し、四〇年十月四日の浙江省の衢県、同年十月二十七日の同省の寧波、同年十一月二十八日の同省の金華への日本軍機からのペスト菌散布と被害について報告している。

 翌四一年十一月四日の湖南省の常徳への同様の散布と被害も、さらに詳しく報告している。この金宝善報告書は四二年五月に始まる浙かん作戦開始直前のものであるから、当然浙かん作戦における細菌の地上散布については記されていない。(P205)

(『裁判と歴史学』所収)  

 この金宝善報告は、中国政府により重慶駐在の各国大使館に配布されました。



 ただし、細菌を撒かれた側が「細菌戦」の存在を証明するのは、決して容易なことではありません。例えば、「金宝善報告」のベースとなった「陳文貴報告」(1941年12月)を見ましょう。

常徳ペスト調査報告書(陳文貴報告)

常徳ペスト調査報告書

  (民国三十年(1941年)十二月十二日)

1 前がき − ペストの疑いの発生

 民国三十年十一月四日朝五時ごろ敵機一機が霧の中、常徳の上空を低空飛行し、穀類、ワタ・紙・羊毛の繊維およびその他正体不明の顆粒状物体を含む、さまざまな種類の物体を投下した。それらの物体は鶏鴨巷関廟街と東門一帯に落下した。

 午後五時になって警報が解除されたあと、軍と警察はようやく落下物を回収して焼却し、一部を顕微鏡検査のため広徳病院に届けた。その染色プレパラート検査の結果、常徳の医療関係者は全員、ペスト杆菌の疑いがあると考えた

 その後、陳文貴医師が再検査してもペスト杆菌とは確認できなかったが、疑いは残った。そのため、常徳で働く医療関係者はみな、ペスト流行を懸念して互いに注意を促し合った。

2 疑似ペストおよび真性ペストの症例報告

 敵機の穀類投下直後は、不幸な事件は一切起きなかったものの、十一月十一日になって最初の疑わしい症例が出た。この症例は十一歳の少女で、関廟街付近に住んでいた。(以下略)(P487)

(『中国側史料 日本の中国侵略』所収)

※全文はこちらに掲載しました。


 日本軍機が上空から何かを撒いた。その落下物から、ペスト桿菌とおぼしきものが発見された(最終的には確認できず)。その直後、常徳でペストが流行した。―言ってみれば、「状況証拠」にとどまります。


 これに対する連合国の反応は、この時点では「半信半疑」といったものでした。

 例えばイギリスのボートン研究所などは、徹底的に「否定」の側に回りました。「日本軍に細菌戦を実施するだけの高度な技術があるとは考えられない」という先入観があったもの、と伝えられます。

 しかしその一方で、アメリカは「日本軍による細菌戦実施の可能性」を強く警戒したようです。アメリカの「細菌戦研究」の拠点、キャンプ・デトリックとダグウウェイ基地が本格的に稼働したのは、翌1943年のことです。

松村高夫『湖南常徳細菌作戦 − 1941年』

 しかし、アメリカ本国の細菌戦研究は、日本の常徳への細菌攻撃を契機として大規模に行なわれ始めた



 一九四三年にはキャンプ・デトリックとカリフォルニア大学の二ヵ所で大規模な研究計画がはじまった。キャンプ・デトリックはセオドア・ローズベリーの指導の下に、「化学戦部」は細菌兵器の生産のために施設を拡充した。四四年にはミシシッピー州のホーン・アイランド、ユタ州のダグウェイ実験場など数ヵ所の基地が細菌戦研究のために開設された。(P266)

(『戦争と疫病』所収)  


 さらに、日本軍捕虜の口から「細菌戦」の事実が語られるようになったことが、米軍の認識を決定的なものにしました。


青木冨貴子『731』

 当時、南の島で捕虜になった日本兵のなかには一九四三年末から始まった、関東軍の「南方転用」によって、満州から送られてきた兵士が多かった。米軍は捕虜のなかで医療関係、とくに給水業務に携わった兵に尋問を集中した。

 その結果、一九四四年秋までに米情報部は、日本の細菌兵器開発の大枠をつかむようになった。日本兵から得た情報を分析した結果、満州には「防疫給水部」の偽名で細菌兵器を開発する部隊があり、そのトップがシロウ・イシイということも米軍は掴んだ。細菌戦の実戦には鼻疽菌、ペスト菌、コレラ菌、赤痢菌、結核菌、チフス菌などが使用されているという結論を下した。(P160-P161)

 

 1945年5月下旬にはアメリカの化学戦部の調査団が常徳で調査を行い、「日本が一九四一年一一月に常徳でペスト菌を含んだ米穀類を使ってペストを拡大させた可能性は、極めて大きいと信じられる」との結論を出しています。(松村高夫『細菌戦研究の問題性』=『戦争と疫病』所収、P398)





 ハバロフスク軍事裁判

 第二次世界大戦終了後、最初に世界に向けて「細菌戦」の存在を暴露したのは、ソ連で行われた「ハバロフスク軍事裁判」でした。

 この中では、731部隊第四部(細菌製造部)長・川島清軍医少将の証言が、最も総括的であり、よく知られています。


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(問) 一九四〇年の中国派遣隊に関して貴方は何を知っているか?

(答) 石井中将は私に中国の医学雑誌を見せて呉れましたが、それには一九四〇年に於ける寧波附近一帯のペスト流行の原因について述べられていました。彼は私に此の雑誌を見せた後、寧波附近一帯で第七三一部隊の派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下し、之が伝染病の原因となった事を話しました。(P311-P312)

(問) 当時貴方との話で石井は一九四〇年の派遣隊の工作の結果を如何に評価していたか?

(答) 彼はこの派遣隊の工作は成功したと考えていました。(P312)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問

(答) 第一回目は、私が述べました様に、一九四一年の夏でした。第二部長太田大佐が何かの拍子に中国中部に行くと語り、其の時私に別れを告げました。

 帰って来て間も無く、彼は私に中国中部洞庭湖近辺にある常徳市附近一帯に飛行機から中国人に対してペスト蚤を投下した事について語りました。斯様にして、彼が述べた様に、細菌攻撃が行われたのであります。(P308-P309)

 其の後太田大佐は、私の臨席の下に第七三一部隊長石井に、常徳市附近一帯に第七三一部隊派遣隊が飛行機からペスト蚤を投下した事及び此の結果ペスト伝染病が発生し、若干のペスト患者が出たという事に関して報告しましたが、さて其の数がどの位かは私は知りません。(P310)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


一二月二五日午後の公判 被告川島の尋問


(答) 一九四二年六月第七三一部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、近く中国中部派遣隊が編成されて、これは細菌兵器の最良の使用方法の研究に当る筈であると吾々に語ったのであります。(P309-P310)

 此の派遣隊は、日本軍参謀本部の命令によって編成され派遣されたもので、其の主要な目的は、所謂地上汚染方法、即ち地上に於ける細菌の伝播方法の研究でした。ついで、中国中部に特別隊を派遣することを命じた関東軍司令官の命令が出ました。

 此の命令に基いて、第七三一部隊長石井中将は、部隊の幹部を集めて、実際上如何に此の派遣を行うかについて打合せをし、其の際此の派遣隊工作の実施計画の作成は、第二部長村上中佐に命ぜられました。

 この特別隊の人数は、一〇〇名から三〇〇名迄になる筈でありました。そして、ペスト菌、コレラ菌、パラチブス菌が使用されることに決まりました。

 六月の末から七月の初め迄、該派遣隊は数ヵ班に分れて、飛行機及び汽車で南京「栄」部隊に派遣されました。

 該派遣隊の細菌工作は、中国中部に於ける日本軍の浙かん作戦と平行して行われる筈でした。作戦の時期は七月末と指定されました。しかし、日本軍の戦略的退却を意味していた浙かん作戦の実施が若干遅れたことに鑑み、此の細菌作戦は八月の末に行われました。第七三一部隊の此の中国中部派遣隊は「栄」部隊を基地とし、同部隊に拠点を創設しました。

 細菌作戦は、玉山、金華、浦江の諸都市附近一帯で行われる筈でありました。此の作戦が終了した後、中国人に対してペスト菌、コレラ菌、バラチブス菌が撒布法によって使用された事を私は知る様になりました。ペスト菌は蚤によって伝播され、他の細菌は其儘の型で貯水池、井戸、河川等々の汚染によって伝播されました。(P310-P311)

 細菌作戦が全く計画的に実施され、完全に成功したことを知っていますが、此の作戦の結果に関する詳細は、私には不明であります。作戦が成功したことは石井中将の言によって知っています。(P311)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  

 1940年寧波、1941年常徳、1942年折かん作戦。石井四郎や大田澄からの伝聞の形ではありますが、現在最もよく知られている三回の「細菌戦」について、詳細に語っています。

 戦中の中国側調査レポートは、この証言により、日本側からも裏付けられたことになります。

 しかしこのハバロフスク軍事裁判は、西側諸国からは「ソ連のプロパガンダ」と見られ、ほとんど黙殺されました。




 日本側の証言


 戦後、米軍が「戦犯免責」により「731部隊」の実像を隠ぺいしてしまったこともあり、「細菌戦」研究は長い間停滞していました。再び「731」が関心を集めるのは、1980年代に入ってのことです。

 そんな中で、実際に飛行機から細菌を撒いた人物も、証言を行うようになりました。

高杉晋吾『細菌戦の医師を追え』

 しかし、チェン・ウェンクェイ博士が常徳市への日本の七三一部隊の攻撃で見落としていると思われる点が一点ある。それを私は最近になって知った。

 私は関東地方のある県に住む伊沢哲平(仮名)という元七三一部隊第二部航空班に所属していた人物と会った。

 七十歳に近い彼は桑畠の広々とした平野のB村の一軒家に住んでいた。前日私が訪問した折には老人会の集まりがあって温泉に行って留守であった。私は翌日も彼を訪問した。

「私は常徳への作戦の最初の攻撃には間に合わなかった。しかし、杭州に行ったことは事実です。それから、私は航空班の平沢少佐の操縦するAT旅客機で南昌にも行きました」

 細菌培養なども行なっている七三一部隊の中支支部(華中防疫給水部)は南京にあった。マウスやラットなどは地上輸送で南京から南昌へ運び、細菌類は飛行機で空輸した。南昌はいわば常徳や桃原などへの前線基地であった。(P34-P35)

細菌攻撃は碇常重部長が引率して、九七式重爆一型一機、九七式軽爆一機の計二機で行ないました

 私は中国のチェン・ウェンクェイ博士の報告書(前述)を読み、一九四一年十一月四日の空からの細菌攻撃のリポートの真実性を、空から攻撃した当事者の一人である伊沢哲平氏に確認してみた。彼は苦しそうな表情を笑いのなかに浮かべて沈黙していたが、思いきったようにいった。

ペスト菌撒布は本当だったと申し上げましょう。小麦や米の粒、紙片や木綿の詰め物をまいたっていいますけど、それは、それ自体をペスト菌で汚染してまいたのではないんです。はっきりいいますと、それは蚤床といって、まあ、蚤の巣ですね。ゴミなんです。だからそうしたものがまかれたというこの(チェン博士の)リポートは正確です。

 空から蚤をまいて地上に着くのが遅くても困るから重い米麦粒も入れてある。空から蚤を裸のままいても百メートル落下すると満腹状態ではピチッと潰れますからね。平房のほうでそうした蚤の落下試験はやっていました。それから蚤が満腹では人に吸い着かないから飢餓状態にしてある。うすっペらな蚤と満腹の蚤とでは落下速度が違います。

 この報告書では朝五時となっていますが、私が参加したものではたしか午前十時だったと思います。また、飛行機は一機とありますが、私の記憶では二機でやりました。それ以外は、全くこのとおりです」(P35-P36)

 私は約十年前にこの調査リポートを翻訳したとき以来、日本軍側の証言を得ることを願っていたのだが、ようやく、チェン博士の調査の四十一年後に、細菌攻撃を行なった側からの証言をとり、裏づけることができたことに複維な思いに浸ったのである。(P36)


 秦郁彦氏は、この証言を高く評価しています。



秦郁彦『日本の細菌戦』(下)


 常徳作戦に加わった石井部隊航空班の某は、高杉晋吾の質問に対し次のように説明している。

 

 ペスト菌散布は本当だったと申しあげましょう。小麦や米の粒や木綿の詰め物は蚤床といって、まあ蚤の巣ですね。だからそうしたものがまかれたというこの(チェン博士の)リポートは正確です。空から蚤を裸のまままいても百メートル落下すると満腹状態ではピチッと潰れますからね……それから蚤が満腹では人に吸い着かないから飢餓状態にしてある(高杉『七三一部隊細菌戦の医師を追え』)。(P562-P563)



 加害者と被害者の観察がこんなに細部まで合致する例は珍しいが、どうやら日本軍は、中国の情報網と医療技術を軽視しすぎていたようである。病原菌を直ちに突きとめ、有効な防疫手段を講じ、被害を僅少に食いとめた中国側は、重慶の各国大使を通じ連合国に警報を流し、国際世論に働きかけた。公表はされなかったものの、その反響は意外に大きかった。(P564)

(『昭和史の謎を追う』(上)所収)

 なお余談ですが、秦郁彦氏は「家永教科書裁判」で国側証人として登場し、「1983年時点では細菌戦は学問的に証明されていなかった」という趣旨の証言を行いました。しかしその後、上記論文で「細菌戦」を強く認める立場に変わりました。

 裁判は、第1審、第2審は原告側敗訴でした。東京高裁の第2審でも秦氏は国側証人として立ちましたが、前証言とこの論稿との不整合を衝かれ、曖昧な証言に終始しました。

 秦氏の「転向」のためかどうかはわかりませんが、最高裁では、原告側の逆転勝訴、という結果に終わりました。


 さて、上記の匿名証言者と同一人物であるかどうかはわかりませんが、「細菌戦」を実施したパイロットとしては、松本正一氏の証言がよく知られています。


航空班・松本正一証言

衢州、寧波へペストノミを投下

 一九四〇年の夏、松本さんらの航空班一隊は空路で杭州へ向かいました。集結地点は同じく国民党航空学校

 「汽車で行った連中もいましたが、私らは重爆撃機で、整備士二人、爆撃手二人、無線士二人そしてパイロット二人の計八人で行きました。航空学校には二〇〇人くらいの隊員たちがいたと思います」

 そして松本さんは、ここから行なわれたペストノミの投下作戦について、次のように説明しています。

 攻撃に使われた爆撃機は、九七式軽爆撃機で二人乗り。翼の下におよそ二メートルの細長い容器がとりつけてある。その容器は、なかが一〇段(一〇層)くらいに分けられてあって、そこにノミやフスマなどの穀物が混ぜて入っている、容器は航空班が研究の結果開発制作したものだ。(P149-P150)

 投下地点に着くと、パイロットが爆弾を落とすときと同じように操縦室でレバーを引く。すると容器の前と後ろがバッとあいて自然の風圧で、なかのノミや穀物が吹きだす。そのようすは煙が翼の下から吹きでているような感じだ。これを低空からやった。

 投下したのは衢州と寧波。平沢少佐、増田中佐が中心になってやっていた。(P150)

(森正孝『いま伝えたい細菌戦のはなし』より)



 次に、軍幹部・731部隊幹部の戦後証言を並べてみましょう。陸軍参謀・井本熊男氏は、共同通信社のインタビューに答えて、「常徳細菌戦」を語っています。


インタビュー 井本熊男


―― 細菌兵器は中国で実戦に使用されていますが。

大東亜戦争が始まる前、石井部隊が支那で実際にべスト菌その他をまいた。成果があったと言わなきゃ次にカネのかかることはできないから、石井部隊としては相当成果があったと言った。

 私の観察では、石井部隊が満州あたりでウサギを使って試した時には非常に成果が上がるけれども、本当の細菌だけを飛行機でまいて支那事変に使ってみたら、そんな成果は実は上がっていないんじゃないか。

 一番の問題は、揚子江をさかのぼって岳陽という町から湘江を南に下ると長沙という所がある。そのすぐ西に常徳という所がある。そこが石井部隊の目標だった。そこでペストが大流行して支那が困ったという情報があった。

 ところがそのやや後、常徳を含む地域で作戦をやった。その作戦部隊はペストがはやったという情報を全然つかんでいないんです。部隊に対する被害も何もなかった。(P356-P357)

 そういうことから石井部隊の飛行機による実戦的な試験はあまり効果を上げていない、私はそういう印象を持った。石井部隊と連絡していたが、実際にどうやって細菌を落とすかなんて見たことはないんです。それが私のタッチした支那事変までの範囲のことです。ある程度石井部隊の要望を認めて試験をやらせた。しかし本当の実戦的な効果は上がっていないというのが私見です」

(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』所収)


 なお1941年常徳細菌戦は、中国側の素早い防疫活動もあり、被害は僅少なものにとどまりました。

 関東軍参謀副長・松村知勝氏も、「細菌戦実施」の事実を認めています。


松村知勝『関東軍参謀副長の手記』

 しかし石井部隊長はますますこの研究をおし進め細菌爆弾を考案し、ペスト菌を主体とする細菌を培養しこのためネズミと蚤を飼い陶器製の爆弾を飛行機に積んで、軍医が操縦して投下するというものであった。このため実験用の飛行場をチチハル−ハルビンの中間の安達(現在の大慶油田付近) につくって研究していた。

 いよいよ実戦試験を中国戦線でやることになり、特別命令によって重慶の奥地や、中支の日本軍が撤退する某所でやったが、作戦的効果は期待できないという結論にはなったものの、謀略としての効果はあるということになった。いわゆる「あたるも八卦、あたらぬも八卦」のたぐいであったようだ。(P105)

 


 「中支の日本軍が撤退する某所」というのは、1942年折かん作戦のことでしょう。

 井本証言・松村証言にもある通り、航空機からの細菌撒布は、あまり「成果」が期待できない、ということになったようです。例えば最も被害者数が多かった1940年常徳作戦にしても、常石敬一氏からこのように評価されています。


常石敬一『七三一部隊』

 ペストの犠牲となった百六人の中国の方々には申し訳ない言い方だが、この攻撃は軍事的には失敗だった。二百メートルという低空飛行の飛行機から通常の爆弾を落とせば、もっと大勢の人を傷つけることができたはずだ

 それに、通常の戦闘で二百メートルの低空から攻撃ができるというのは、相手に反撃の手段がない場合だ。実際にはもっと高空から生物兵器を投下する技術を開発する必要がある。

 寧波への攻撃が意味を持っていたとすれば、市街地にペスト菌をまくと、どの程度の規模のペストの流行を起こすことができるかが分かった、ということにすぎない
。そして、その規模は期待外れのものだった。(P148)




 1942年折かん作戦では、日本軍は航空機の使用をやめ、「地上撒布」に切り替えました。




 731部隊幹部のうち何人かも、研究者に対し、「細菌戦」実施の事実を認めているようです。


元731部隊長・北野政次証言

 次に中国への攻撃については、北野元部隊長の証言とアメリカ軍の調査報告書がある。

 北野は一九八六年の五月一七日に死んでいるが、生前筆者に次のように語った。一九四二年夏、自分が「部隊長として部隊に赴任した時、浙かんで細菌をまいた部隊がちょうど帰ってきたところだった」。(P260)

常石敬一『消えた細菌戦部隊』(ちくま文庫)



航空班長・増田美保証言

 12-5 増田美保薬剤少佐は航空班の班長で、「2 中国のペスト事件」でふれた通り、常徳への細菌撒布を実際に行った人物であり、筆者(近藤昭二)は増田本人から「あれは実験的にやったことだ」と聞いている。(P14)

(近藤昭二編『731部隊・細菌戦資料集成(CD-ROM版)・資料解題』12 トンプソンらによる石井・北野たちの尋問)




フェル・レポート

(7) 結論(六〇ページのレポートの最終部分)

 細菌戦の野外実験では通常の戦術は、鉄道線路沿いの互いに一マイルほど離れた二地点にいる中国軍に対して、一大隊あるいはそれ以上をさし向けるというものだった。

 中国軍が後退すると、日本軍は鉄道線路一マイルを遮断し、予定の細菌戦用病原体を噴霧か他のなんらかの方法で散布し、ついで「戦略的後退」を行った。中国軍はその地域に二四時間以内に急拠戻ってきて、数日後には中国兵のあいだでペストあるいはコレラが流行するというものだった。

 いずれの場合も、日本はその結果の報告を受けるため汚染地域の背後にスパイを残そうとした。しかし彼らも認めているのだが、これはしばしば不成功に終わり、結果は不明であった。しかしー二回分については報告が得られており、このうち成果があがったのは三回だけだったといわれている。

 高度約二〇〇メートルの飛行機からペストノミを散布した二回の試験において特定の地域に流行が起きた。このうちのひとつでは、患者九六人がでて、そのうち九〇パーセントが死亡した

 鉄道沿いに手でペストノミを散布した他の三回の試験では、どの場合も小さな流行は起こったが、患者数は不明である。コレラを二回そして腸チフスを二回、鉄道の近くの地面および水源に主導噴霧器でまいたところ、いずれのばあいも効果があるという結果を得た。(P298)

(松村高夫編『<論争>731部隊』所収)



肥塚喜一『江南春秋』(要約)

●寧波作戦

 一九四〇年七月、南京本部から百余名の兵が杭州寛橋にある滑走路一本の飛行場周辺警備に約二週間駐留した。天幕生活で歩兵と同じ服装、弾薬一二〇発を常に携行。ペストを撒いた寧波作戦の後方勤務であった。

 南京本部に勤務している同年兵の護衛を伴って作戦状況の視察に来た石井四郎は、杭州支部も巡視し、支部の約五〇名全員は営庭で整列して迎えた。

 作戦が終って兵が帰ってから、二〇個くらい赤十字マークのついた箱をトラックに績んで飛行場まで運び、ダグラスに載せた。飛行横の中は腰掛けがなく丸い胴体で、夏の太陽に照らされ蒸風呂のよう。箱の中身は知らされなかった。(P56-P57)

(水谷尚子『一六四四部隊の組織と活動 語りはじめた元部隊員たち』(『季刊戦争責任研究 第15号(1997年春季号)』所収)



吉永春子『七三一 追撃・そのとき幹部達は・・・』

 七月に入ると放送まで一か月半となった。取材も最終段階に入ったが、研究班の取材は一向に進んでいなかった。私はレントゲン班の班長浅田剛(仮名)の取材を考えたが、期待は全く持っていなかった。むしろちょっとのぞいてみるかといった気持ちの方が強かった。(P99)




「ベンイ隊というのがありましてね」

「あっ、平服で敵地に潜入して攪乱なんかをしたグループのことですか」

「そう。この人達が、畑のトマトなどに注射して歩くの

何の注射ですか

チフスとか細菌ですね

「すると住民の人達は、汚染されたことも知らずに食べるわけですね」

「そう、一種の謀略です。これを七三一部隊の幹部の一人がやってました」(P105)



秦郁彦『日本の細菌戦』(下)


 それを補うつもりか、第十三軍は「化学戦資材ノ使用ヲ奨励シ、特ニ第二十二師団正面ニ於テ最モ有利ニ使用ス」と指示している。

 「化学戦資材」とは通常は毒ガスを指すが、この場合は細菌攻撃もふくんでいた。第十三軍の反転撤退は八月二十日に始まっているが、直前に石井少将が衢州の司令部に到着して、沢田軍司令官以下と協議した。同席した三品隆以中佐参謀のハバロフスク証言によると、石井がつれてきた三人の軍医が、南京防疫給水部(栄一六四四部隊)の隊員と一緒に残り、ペスト蚤をばらまいた。(P565-P566)

 敵味方の接点を行動するので、任務は決して安全とはいえなかった。伊藤邦之助軍医大尉の率いる十数人の班は、夜陰にまぎれペストねずみを放ち、スイカなどにペスト菌を注射してまわっている時、川を渡って前進してきた中国軍の先兵とぶつかり、あわてて逃げたと班員の中山政吉技手は回想する。

 衛生兵として参加した古都良雄の証言によると、彼の班は玉山周辺でチフスとパラチフス菌の入った水筒を、貯水池、河川、井戸、家屋に投げ込み汚染した。また三千人の中国兵捕虜に、細菌入りの饅頭を持たせて釈放するとか、ビスケットをばらまくといった児戯にひとしい謀略も試みたようだ。(P567)
(『昭和史の謎を追う』(上)所収)




石橋直方証言(森正孝による聞き取り)

 「奈良部隊」がハルビンを出発したのは七月二十六日。隊員数四〇名、貨車九両には弾薬、自動車、濾水車、翼をたたんだ飛行機がぎっしりと積み込まれ、客車一両に隊員たちが乗り込んだ。輸送指揮官は園口忠男軍医中尉

 列車はハルビン、洛陽、天津、済南から徐州、蚌埠を経て八月五日、南京市の対岸浦口へ到着。貨物を船で対岸の南京へ運び込み、隊員たちは南京一六四四部隊員たちと接触。翌日、八月六日、目的地の杭州市寛橋にある日本軍接収後の「国民党航空学校」に到着した。

 「国民党航空学校」は講堂の一部が日本軍の攻撃で破壊されている他は、損害がなく隊員たちの宿舎として充分使える状態であった。

 同日南京一六四四部隊員四〇名も到着。二日後には、海路から七三一部隊員四〇名も合流。総勢一二〇名の隊員たちが寛橋に集結した。(P17-P18)

 この年の十二月までほぼ人員に異動はなかったが、石井四郎、太田澄ら七三一部隊幹部らの姿を見ることは希であった。石橋は五ヶ月間の滞在中に石井に四回会っている。

 石橋は西郡彦嗣中佐の当番役(身の回りの世話係)を任務としていたため飛行場への立ち入りや細菌戦に関する情報を得る立場になかった。またハルビンを出発する時から作戦の内容、目的はいっさい知らされていなかったが、同じ軍属の間でも話しの中でうすうすここが何の基地かはわかっていた。

 九月の中ごろ南京から空輸されてきたペストノミを移しかえる時、ミスがあってノミが飛行場に逃げ出したことがあった。大騒ぎとなり防菌衣を着た隊員たちが「殺虫剤」を飛行場へ撒き散らした。石橋はそれを講堂から目撃し、細菌戦が目的で杭州へ釆たことを確認した。

 ここで積み込まれ攻撃に使用された細菌がペスト菌の他コレラ菌、チフス菌であったことは井本日誌にも記されているが、それらはハルビンや南京から航空機と船で輸送された。(ハルビンからは船では日数がかかりすぎるため途中からすべて空路輸送になった)

 九月になって間もないころ、石橋は、三谷という軍曹と、上海港へドラム缶の受領に行っている。その数三〇缶。すべて中国労働者に運ばせたため重さはわからないが、おそらく何かの菌(菌液)が入っていたのではないかと石橋は推測する。(P18)

(『中国側史料 中国侵略と七三一部隊の細菌戦』所収)


梶塚隆二の訊問調書

 ……一九四四年三月私の事務室で、一九四二年八月より一九四五年三月に至る迄第七三一部隊長であった北野正次軍医少将と面談した際にも、右と同様なことが話題に上りました。

 私が石井から聞いたこと以外に、北野は部隊の業務に関する私の質問に答えて、彼の第七三一部隊長在任中に或る程度の成果が挙げられた旨語りました。

 例えば彼は、第七三一部隊員の一隊が中国軍と対峙する上海南方の戦線に派遣されて、高空から中国住民地に大量のペスト蚤を投下したこと、此等の蚤が生きた儘落下し、落下した場所にペストが流行したことを語りました。(P139-P140)

 北野は、ペスト流行の規模は大きくはなかったが、併し、斯かる細菌戦法を有効と認めるべきであると述べました。(P140)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  



太田昌克『731免責の系譜』

 三八年秋に部隊気象班に配属された軍属の西島鶴雄(一九一二年生まれ)は、平房の部隊本部から二〇〇キロ以上離れた安達実験場での雨下実験に何度か立ち会った。気象班は飛行班の「班内班」で、毎日天気図を作成するのが任務だった。彼の証言を引用したい。


 安達の演習へはよく行った。飛行機にも乗ったことがある。演習では毎回一〇−一五人、多いときで二〇人くらいのマルタが本部からトラックで運ばれていった。(マルタは)手錠や足かせをしている。枕木が五メートルおきに立っていて、そこにくくられる。そこへ飛行機で赤痢、チフスを雨下投下した。(細菌にさらされるようにマルタは)みんな上を向かせて、嫌がる者は銃剣でぶん殴る。そして本部に連れて帰り、何日後に発症するか観察する。


 また細菌の雨下投下は四二年の浙かん作戦で実践されたとみられる。この作戦に同行した西島によると、七三一部隊は南京の栄一六四四部隊との合同作戦で浙江省衢州に前線基地を設置、気象班はここで連日、天気図を作成し飛行班へ届けたという。衛州は四〇年にも、七三一部隊員で特別編成された「奈良部隊」により「ペストノミ」 の投下攻撃を受け、多数の被害が報告された地域だ。

 西島は投下作戦そのものに参加したわけではないが、「雨下投下をやるというのが前提で、そのために天気図を作っていた。各部隊の撤退に合わせて七三一部隊が投入された。自軍が引き揚げるや否や、細菌を撒くという段取りだった」と作戦を解説する。中国側資料も日本軍が衢州から撤退する際にペスト菌などの病原菌を散布したことを伝えている。(P101-P102)



 「折かん作戦」を最後に、日本軍の細菌戦はいったん中止されます。

 その要因はいくつか考えられます。細菌使用に対して連合国側から報復を受ける可能性が生じたこと。「折かん作戦」では逆に味方に大きな被害を与える、という失態を演じてしまったこと。

 その後、サイパン戦などで「細菌使用」が検討されましたが、結局、使用されることはありませんでした。


松村高夫『731部隊による細菌戦と戦時・戦後医学』 

 細菌戦が味方=日本軍の被害をもたらすのではないかという懸念は、浙かん作戦の異常に多い戦病者となって現われている。

 同作戦全期間を通じた損害を見ると、戦死(含む戦病死)1284人、戦傷2767人に対して、戦病1万1812人と高い比率を占めるが、とくに第13軍の本隊が金華以北に撤退する過程で本格的な細菌戦を実施した浙かん作戦第4期(42年8月15日-9月30日)には、戦死77人、戦傷85人に対して、戦病は4709人を記凱ている。こうして作戦後半期(6月16日-9月30日)に戦病者の84・7%が集中する事態を生んだ(戦死者は同期に40.8%、戦傷者は同じく25.1%)

 このように、浙かん作戦で多発した戦病者は、その多くが日本軍自らが実施した細菌戦の被害者だった可能性が大きい。それ以降、日本軍がPXを散布した形跡がないのは、日本軍に多数の犠牲者が出たことによるのだろう。(P59)

(『三田学会雑誌』2013年4月所収)  


証人三品の訊問

(問) 浙かん作戦中に於ける日本軍のペスト菌実用に関して承知していること一切を話して貰い度い。

(答) 既に私が述べた如く、日本の中国派遣軍総司令官の命令により第一三軍は、八月二〇日に退却を開始しました。軍司令部は、八月三一日衢県から退却しましたが、石井少将と共に到着した二−三人の将校は、当時、衢県に残留しました。

 而して、第一三軍司令部員として私は、残留した此等の将校が前哨部隊の防疫班と共に戦線にペスト菌を撒布したことを承知しています。更に、何故、私が是れを承知しているかは後に述べます。軍司令部は衢県から退却して金華に到着し、其処に約二週間駐在し、其の後九月一八−一九日に上海に赴きました。

 所で、戦線で行動した部隊が押収した一文書が私の許に届けられました。是れは、中国軍の文書で、私の許に届けられたのは九月であります。文書は、吾が部隊が或る中国軍師団司令部の所在した地点を占領した際押収したもので、是れには次の如く述べられていました。私が記憶している限り、其れは、九月上旬の日付になっていました。

 其れは、師団長への中国軍司令部の命令を内容とする無電で、命令には浙かん作戦中、日本軍が退却に際して衢県附近一帯をペスト菌で汚染したこと、是れに特に留意し、予防措置を構ずべきことが書かれていました。(P515-P516)

 此の命令は、蒟蒻版で印刷されていました。是れには、日本側の行動の野獣的性格が特に強調されていました。(P516)

(『細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類』より)  


西島鶴男証言

 浙かん作戦に出動した気象班員 西島鶴雄証言

 七三一部隊の航空斑気象班の軍属だった西島鶴雄は、このとき、重爆機の床に腰を下ろして南京まで飛んだ。


 七三一部隊から一緒に行ったのは、航空班からは一個小隊三、四〇人くらいだったと思う。パイロットと気象班と無線と整備ですね。

 私たちはそれから衢州というところにトラックで行きました。歩兵部隊やなんかの戦闘部隊は先に出動して戦線が延びすぎて、補給もできなくなってしまったんで、それを引き揚げたいわけですが、ただ引き揚げたのではすぐにまた敵軍が戻ってきて、殲滅させられてしまうと。そこで七三一部隊が、それを援護する意味で出動したわけですね。
(P212-P213)

 衢州は城壁に囲まれた街で、住民はすべて逃げ出したのか、誰もいませんでした。私らは大きなお寺に陣どって、仕事をしていました。一五〇メートル先はもう城壁で、その上には歩兵部隊が銃を持った見張りを立てて、われわれを警備してくれました。

 衢州にも城外二キロくらい離れたところに、滑走路の短い、狭いお粗末な飛行場がありました。そこにはわれわれの部隊の飛行機が、もうついてました。飛行機の爆弾倉に、卵で培養した細菌を入れて撒くんですが、その前に中国人の密偵を使って、攻撃目的地に行かせて、奥の方でコレラが流行っているらしいという噂を流させるのです。目的地は南昌とのあいだでした。その密偵が戻ってきたら、すぐバッと撒きに行くんです。

 そのとき防護服とかはそれはど厳重ではなかったので、ペスト菌は使わなかったのではと思います。撒いたらすぐ飛行機は南京に戻りました。われわれもトラックですぐ撤退してきました。みんなひどい下痢をしてまして、南京の陸軍病院に入院しました。元気になってから列車で哈浜に帰りました。
(P213)


 この後、西島は細菌戦部隊に嫌気がさして、軍属だったのをいいことに、哈浜の満州国気象台に転職を申し出て、一九四三(昭和一八)年には七三一部隊を去る。

(西里扶甬子『生物戦部隊731』より)


榛葉修自筆供述書

 同部隊の主要な任務は、日本軍兵士の健康維持、伝染病予防、邦人にたいする防疫検査、予防注射で、要するに疾病予防のために設立された。このほか、作戦時に給水班を組織し、作戦部隊に浄水を供給した。

 同部隊が下記の細菌を生産したことは確かだが、部隊内では一般兵士にたいしても機密とされ、直接かかわった将校のみが了解していた。昭和一七年六月、下記の細菌を製造したのは事実である。

 一、コレラ 二、チフス 三、ペスト 四、赤痢。製造関係者は防疫科全局である。

 散布日時は昭和一七年六月から七月で、回数、量などは不詳である。

 散布地域は浙江省金華を中心とした一帯である。ところが結果は中国軍がすみやかに撤退したために、日本軍が散布地域に入ってしまい、休息、野営のさい付近の水を飲料水や調理用に使ったので、多くの伝染病患者が発生した

 ほかに、中国人住民にも多数患者が現れた。

 細菌生産の命令系統は不明だが、部隊の自発的行為ではなく、おそらく(一一軍)軍司令官(下村定)、師団長(佐久間為人) の要求によるのだろう。(P68-P69)

 その目的は、強毒病原菌を敵軍陣地後方に散布し、人為的に伝染病を娼狭させ、それで敵軍を毒殺し、その士気を失わせることであった。しかし、一般住民にたいしても惨い結果をもたらしたという点で、非人道的行為であった。

 昭和一八年九月、私が杭州陸軍病院に行ったとき、同病院は伝染病患者(日本軍兵士)でいっぱいだった。毎日数名が死んだ。聞くところでは、この年八月ごろ、同病院では庭にむしろを敷き、数千名の患者を収容したということである。

 ほかに、栄一六四四部隊衛生兵長立沢忠夫(本籍東京)によると、彼は飛行機で前線に細菌を散布したことがあったそうだ。

 部隊には少なくも二機の専用飛行機があった。

 私個人は、昭和一七年五月から一八年三月まで、防疫給水部防疫科で働き、「聖戦」 の美名のもと、前記のごとき非人道的活動に従事したことを知り、そして部隊を離れた。

 このほか、理化学科でも、毒薬などの研究工作に従事していたことがあった。略図一葉を付す。

  原注‥榛葉修、静岡県出身、もと栄一六四四部隊防疫科作業員。(P69)

(『証言 細菌作戦』所収)


森正孝『細菌戦総論』

 この犧拔殍杜作戦瓩砲茲訝羚饌Δ糧鏗欧篭砲瓩匿啾腓任△蠖執錣覆發里任△辰拭K椽顱幄予細菌戦」の『日本侵略軍が衢州で引起こしたペスト流行事件の状況』では、八月三十一日、日本軍が衢州撤退時、ペスト菌及び消化器系の伝染病病原菌を撒布、死者は二〇〇〇名に達し、以後、菌の撲滅まで九年の歳月を要した、との報告がある、。また、金華、江山等での被害者の証言(本書「謀略的細菌戦」の項)も事態が如何に深刻であったかを物語っている。

 その後、日本軍が完全に撤収した九月以後もひき続き謀略戦は展開されたが、友軍に被害の出ない地域では、飛行機による細菌投下も実施されている。中でも義烏市崇山村の被害は本書(「義烏細菌戦」の項) にもある通り甚大であり、中国側でも比較的早期から調査がされてきた地域でもあった。(P27)

(『中国側史料 中国侵略と七三一部隊の細菌戦』所収)


森正孝『衢州(県)細菌戦』

 四〇年十月四日、早朝、日本軍機は低空で衢州に侵入し細菌を投下した。「総論」でも見た通り、この衢州作戦は、日本軍にとっても初めてのペストノミ雨下作戦であった。そのためかどうか、ペストノミの運搬や投下時の猊坿靴譟蹇福)から、雨下されたノミの大半は死んでいる。(P37-P38)

 前記「容啓栄」にもそれは見られるが、筆者たちの取材に応じた黄権運(六九才、衢州市柴家巷在住)は、次のように証言している。


私は、自宅から日軍機が麦と一緒に蚤を撒いたのを目撃した。家の屋根や路端に麦と蚤がいっぱい散らばっているのを見ている。蚤は普通のより大きく黒ずんだ色をしていた。私が見た蚤は全部死んでいた。私はそれを箸で集めて焼いた。中には、鶏の餌にするために麦やノミを持って帰ったのもいる。しばらくして指示が出て、衢江の川舟へ避難した。舟の中で二ヶ月間生活しなければならなかった。日軍の罪は、口先だけの謝罪ではとても済まされないほど重い」


 最初のペスト患者(呉土英)の発病はこの日(十月四日)から三八日後の十一月十二日(十五日死亡)であった。腺ペストの潜伏期間が通例二日から十日であることを考えると発病に至る期間が長すぎる。その理由は先の「ノミは死んでいた」とする権証言とも関係があるようだ。

 「容啓栄」報告では、撒かれたノミの中にわずかに生きているものがいて、同時に撒かれた麦や粟に誘い出されたネズミに感染し、げっし類間でのペストの流行となり、三〇日あまりたって人間に感染したのではないか、と推測している。

 その後の衢州でのペスト患者の拡大経過を見ると、この「容啓栄」の推測は当っているように思われる。生きているノミが少なかったため伝染が遅くゆるやかだが、長期にわたり被害を深刻なものにしている。(P38-P39)

 論文資料では四〇年死者二一名だが四一年には二七四名にのぼっている。さらに衢州周辺の農村地帯に被害が拡大しているようすが記述されている。この点では「総論」でも述べた通り寧波よりも被害は深刻で大きい。

 さらに、「反転作戦」時の細菌攻撃によって、衢州は再び深刻な被害(死者二〇〇〇人余り−『南京法廷』資料か?)を受けている。この点では、金華、義烏等の浙かん沿線の都市と同じような二重の細菌戦被害の苦しみを負うことになった。

 さて、この論文資料は、四二年時の細菌戦被害について、「八月三十一日衢州撤退する際」の被害のみ記し、他にはない。このことは、浙かん作戦において、攻撃時、この地では細菌戦を行わなかったか、或いはまだ調査が充分でなく記述する段階ではないかのどちらかである。もし前者だとすれば「総論」で触れた「福林回想記」 の玻摩佞魘砲瓩討い襦蹈撻好箸蓮∋諭伺攻撃の時のものということになろう。いずれにせよ、今後さらに調査を要する課題である。

(1)容啓栄「浙江ペスト調査報告書」(一九四一年)のこと。容啓栄は、当時国民党政府衛生署防疫処処長であった。一九四〇年十一月、政府衛生署、軍政部軍医署、後方勤務部衛生処及び中国紅十字会総合救護総隊部の四機関の命令を受けて浙江省に赴き実地調査を行った。実際の調査は一九四一年一月から始められほぼ一年かけて報告書をまとめている。衢州だけでなく衢県(寧波)、金華のペスト被害についても報告している。前出書『証言・細菌作戦』 (同文館)にその抄録が紹介されている。(P39)

(『中国側史料 中国侵略と七三一部隊の細菌戦』所収)


西里扶甬子『生物戦部隊731』

細菌戦野戦部

 末期的な謀略作戦は、終戦間際まで行われていた。一九九四年、七三一部隊展の北海道の実行委員会が見いだした証言者上川紀一(仮名)は、一九九八年、BBCテレビに同行して、旧満州の黒龍江省を戦後はじめて訪れ、終戦間際の「細菌戦野戦部隊」について証言してくれた

 上川は、一九三三(昭和一八)年から衛生兵として満州の林口陸軍病院に勤務していたが、翌年末、平房の七三一部隊で一か月かけて、細菌・毒ガスの扱いと、解剖などの専門教育を受けた。そして、下士官となった一九四五(昭和二〇)年の三月から約二週間「秘密部隊」派遣命令を受けて、トラックで中国人の集落をまわり、井戸にパラチフス菌のアンプルを投げ込み、発病した村民を生体解剖するという任務についた。



 部隊は九人で、全員汚れた中国服を着て、認識票以外に日本軍と分かるものは身につけていなかった。軍用トラックで林口駅を出発し、二週間で四か所回ったが、どこへ行ったのか地名や方角など一切分からなかった。九人は私のような衛生兵、満州語通訳、朝鮮語通訳、一六ミリの撮影係、運転手など仕事の分担があった。(P204-P205)

 移動は一日か一日半程度だったが、数件の家が集まっているような、小さい孤立した村落をねらって、三、四人ずつに分かれ、通行人のようなふりをして、共用している井戸にアンプル入りの細菌を投げ込んだ。

 だいたい五日程たって、発病するころに戻っていった。村人は腹痛、下痢などの症状で苦しんでいた。「治してやる」「薬をやる」などといって騙し、エーテルで麻酔をかけて、そのまま解剖した。解剖してみてほじめてパラチフス菌を使ったということが分かった

 ある程度腹を開いたところで、撮影班が撮影を始めた。直径二〇センチくらいのホルマリン・アンプルを渡されたときは、明らかに病変の見える臓器の一部を切り取った。全員が発病していても解剖は一体か二体だけで、後は薬殺して井戸に捨てた。菌に侵されていない子どももいたが、どうしようもないので、死体と一緒に処理した。最後は部落に火をつけて、秘密がばれないようにした。

 すべて命令どおりにやるほかなかった。だいたい一日半くらいで、トラックが迎えにくるので、その間に資料のまとめをやった。トラックで指定された次の憲兵隊司令部へ着くと、次の資材が待っていた。四か所で、子どもも入れて、三〇人くらいを手にかけたと思う。


 謀略的細菌戦も中止することが、これらの業務日誌のなかで確認されるのは、敗戦直前の七月二四日の「大塚備忘録」に記された「ホ号は全面的に中止」という神林医務局長の言葉である。

 一九四五年八月九日のソ連参戦で、命令を受けた細菌戦部隊は、人体実験用に閉じ込めていた囚人をことごとく殺害し、証拠隠滅のために必死に施設を破壊したばかりでなく、恐ろしいペストネズミを放して敗走したため、周囲の村落で戦後もペストの犠牲者が多数出た。(P205)



常石敬一『七三一部隊』

 寧波市は三十日に、ペスト汚染地区である開明街、中山末路、開明巷、それに太平巷の四本の道路で囲まれた八〇×六〇メートルの地域を焼き払うことにした。午後七時に火をつけ、十一時までかかった。焼かれた家屋は百十五世帯分だった。焼け跡は戦後も長く家が建たず、市民は「ペスト広場」と呼んだ。次ページの地図は、それ以前この地域にどのような家があり、人が住んでいたかを示すものだ。(P144-P146)

 十二月二日に二人が死亡したのを最後に、ペストの流行は終わった。最後に死んだのは、汚染地域に住む盧英テイという十七歳の女性と、華美病院の技師、徐安行という四十九歳の男性だった。徐さんが住んでいた病院宿舎は汚染地域からはるか離れた所にあったが、二日後に焼き払われた。こうしてペストによる死者は百六人に達した。

 日本軍の攻撃は、高度二百メートルの低空飛行の飛行機から行われた。なぜ中国軍は日本軍の飛行機を撃墜しなかったのか、という疑問を先述の両氏にぶつけたところ、中国の守備隊は市街地ではなく日本軍上陸が予想されていた海岸地域に配置されていたため、迎撃できなかったということだった。

 日本軍が寧波市を占領したのは、翌一九四一年春だった。占領後、日本の軍医が月に一回、華美病院のカルテを調べに来ていたという。これは寧波市の一般的な疫病情報をつかむことが目的だったものと思えるが、日本軍によるペスト菌攻撃を知っていて、その再発に備えて、いち早く患者発生をとらえるための調査と考えることもできる。なお当時のカルテや書類は、その後の戦災で焼失して今はないという。(P144)



航空班・沖島袈裟春証言

菌液を飛行機に積む

 「夏の暑いときだったですね、七月? 八月かもしれないね。航空班中心の編成で四〇〜五〇人、もっといたかもしれない。列車二車輌で行きましたよ……」

 いくつかの実験をくり返したあと沖島さんたちは列車で杭州へ向かいました。

 「武器や爆弾? そんなものは何も積まなかったですよ。兵員だけ。南京へも寄らず、直接杭州へ入りましたよ」(P138)

 沖島さんの部隊は、奈良部隊とはまったく別の部隊で杭州へ向かったのでした。

 「ハルビンを出るときから寧波作戦で細菌を撒くということは聞いていました。正式に"細菌戦に行く"という伝達があったということではありませんが……。それとなく知らされていたんですよね」

 杭州は、やはり石橋さんらと同じ国民党中央航空学校でした。沖島さんらが着いたときはすでに二〇〇人近くの隊員たちがいました。一か月くらい沖島さんには仕事がなく、西湖で遊んだり、銭塘江の逆流を見に行ったり、のんびりとしたときを過ごしました。

 九月に入り、まだ暑さの残る日でした。沖島さんは初めて七三一部隊から飛来した爆撃機に菌液を積みこむよう命令を受けます。

 「どうしてそれが菌液だとわかるんですか?」

 「それはわかりますよ。頭からスッポリと防菌衣を着て作業するわけですから」

 「何の菌か知らされましたか?」

 「知らされません。ただ 『あのドラム缶のものを積みこんでおけ』と言われるだけで。私の想像では、コレラ菌。ペスト菌かもしれませんね」(P139-P140)

 菌液を積みこむときのようすは次のようでした。

 菌液の入ったドラム缶の頭の部分に手押しポンプがとりつけてあって、その下からホースが飛行機の胴体へ伸びていました。飛行機の胴体には二本(沖島さんは「たしか三本だと思ったけど、あとになって同僚に確認したら二本だと言うんですよね」と少々不満気に語っていますが)の筒状のものがとりつけてあって、そこへホースがつながり液体がそそぎこまれるようになっていました。

 「ドラム缶の向こうとこっちであい向かいになって二人で手押しポンプをあおりながら、液を入れるわけですよ。

 筒の大きさはね、太さが五〇センチくらい、長さは六尺(約一八〇センチ)以上はあったと思いますね。見た目には金属でつくられたものだと思いますがね」

 沖島さんの任務はそれで終わりで、あとは操縦士、整備士たちを乗せ寧波へ飛び立っていく爆撃機を見送るだけでした。(P140)

(森正孝『いま伝えたい細菌戦のはなし』所収)


航空班・沖島袈裟春証言

沖島証言を裏づける井本日記

 沖島証言からいえることは、寧波に対しては、ペストノミによる攻撃以外に菌液を使った細菌戦が行なわれていたということです。

 この史実を裏づける日本軍の資料があります。前章でも紹介した井本熊男の業務日誌がそれです。

 井本熊男は、一九三九年から、支那派遣軍参謀を、一九四〇年からは参謀本部作戦課員として細菌戦の実施について現地と本部のあいだを往き来きして連絡調整を行なっていました。そのようすを詳しく記したものが、「井本日記」といわれるものです(井本熊男は今年九五歳。その日記は防衛庁防衛研究所図書館に所蔵されています)。

 それによると井本は、四〇年七月から一〇月にかけて杭州にやってきて、現地駐留の部隊とたびたび会合を持ち、細菌攻撃の目標地や方法等について具体的な打ち合わせを行なっています。その結果、攻撃目標として、寧波、衢県、金華、玉山の名があがりました。(P141-P142)

 寧波へは一平方キロメートルあたり一・五キログラム、金華・玉山へは一平方キロメートルあたり〇・七〜〇・八キログラムの菌液を撒くことが決定されました(九月一八日付の日記)。またこのとき、温州へは濃度の濃い菌液を回数少なく落とし、台州・麗水へは薄めた菌液を広く落とすことも決定されました。

 そして一〇月になり、井本は杭州の現地軍の細菌攻撃の現状を聴取しました。それによると、今までハルビンや南京から人員や細菌の輸送を六回行なったこと、ペストノミを使用したこと、被害地へ密偵を送りこみ「効果」 のようすを調べさせたこと、細菌撒布は天候に左右されやすいので、状況に応じた融通性のある方法がとられなければならないこと、一つの方法ではなく重複した方法で攻撃することなどが報告されたのです(一〇月七日付日記)。

 このように井本日記には、一〇月七日の時点で、すでに六回の攻撃を菌液やペストノミを使って行なったことが記されており、沖島証言にある寧波へ向けた作戦もそのいずれかにあたるものと思われます。(P142)

(森正孝『いま伝えたい細菌戦のはなし』所収)



石橋直方証言

 銭塘江という大きな河の河口に杭州という町がありまして、旧国民党航空学校の飛行場がありました。昭和一五年八〜一一月には、そこを駐屯地として軽飛行機で寧波などへ飛びました。時速一八〇〜二〇〇キロののろい飛行機で、敵の戦闘機が来れば一発で撃ち落とされるのですが、来ないのでのんびりした状態で飛びました。四〇〇〇メートル以上の高度には、上がれなかったと思います。益田さんという大尉のパイロットが操縦しました。(P241-P242)

 コーリャンとか、小麦とか、ぬかとかと一緒にノミをまいたと聞いています。ハルビンで繁殖させたノミを飛行機で杭州に空輸して、杭州で軽飛行機に積み換えたときに、逃げ出して作業員に病菌が感染するんじゃないかって大騒ぎになり、大量の殺虫剤を飛行場一面にまいたため、広い面積の芝が真っ赤になってしまったことがありました。

 そして、海に面した寧波という港町にノミをまいたんです。そこで四カ月、それが一番大がかりな細菌戦の一回目じゃないかと思います。

 この寧波作戦のときは、ハルビンを昭和一五年七月一六日に出て、鉄道で杭州まで行きました。一〇日汽車に乗っていましたね。臨時ダイヤで。八月五日に杭州に着きました。それが総指揮官以下四〇名。それとほぼ同数が大連から上海経由で海上輸送されて合流しました。軍人といっても、軍医と衛生部隊の下士官です。

 それから南京の栄一六四四部隊、当時多摩部隊と呼んだ部隊から軍医少尉が一人、衛生部隊の下士官が二〜三人、あと衛生兵です。全部で五〇人くらい応援に来ました。地上部隊の協力はとくになかったけど、杭州に第二二師団が駐屯していて、この師団の作戦と呼応してペストの雨下作戦があったようです。(P242)

(ハル・ゴールド著『証言・731部隊の真相』所収)



 

(2005.10.17)


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