一九三七年十二月十八日
捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う
F・ティルマン・ダーディン
◇アメリカ大使館を襲撃
◇蒋介石総統のおそまつな戦術、指揮官の逃亡 首都陥落を招く
十二月十七日、上海アメリカ船オアフ号発
ニューヨーク・タイムズ宛特電
南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。
中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、南京の大勢の中国人は、日本軍の登場とともにうちたてられる秩序と組織に応える用意ができていた。日本軍が南京城内の支配を掌撞した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。
少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。
民間人多数を殺害
民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた。
とくに警察官や消防士が攻撃の対象であった。犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていたが、なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた。
恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから通りや露地で巡回中のパトロールに捕まった者は、だれでも射殺されるおそれがあった。外国人はたくさんの殺害を目撃した。(P417)
日本軍の略奪は、町ぐるみを略奪するのかと思うほどであった。日本兵はほとんど軒並みに侵入し、ときには上官の監視のもとで侵入することもあり、欲しい物はなんでも持ち出した。日本兵は中国人にしばしば略奪品を運ばせていた。
なにより欲しがった物は食料品であった。その次は、有用なもの、高価な物を片っ端から奪った。とくに不名誉なことは、兵隊が難民から強奪を働くことであり、集団で難民センターを物色し、金や貴重品を奪い、ときには不運な難民から身ぐるみ剥いでいくこともあった。
アメリカ伝道団の大学病院の職員は、現金と時計を奪われた。ほかに、看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた。日本兵はアメリカ系の金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、食料と貴重品を奪った。
大学病院と金陵女子文理学院の建物には、アメリカ国旗が翻り、扉には、アメリカ所有物であることを中国語で明記した、アメリカ大使館発行の公式布告が貼られていた。
アメリカ外交官の私邸を襲う
アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。興奮した大使館の使用人からこの侵入の知らせをうけて、バラマウント・ニュースのカメラマンと記者は、大使の台所にいた日本兵五人の前に立ちはだかり、退去を要求した。五人はむっつりしながらおとなしく出ていった。彼らの略奪品は懐中電灯一本だけであった。
大勢の中国人が、妻や娘が誘拐され強姦された、と外国人に報告にきた。これら中国人は助けを求めるのだが、外国人はたいてい無力であった。
捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。
安全区の中のある建物からは、四〇〇人の男性が逮捕された。彼らは五〇人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。
上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。
この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。(P418)
最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた。現在南京には、日本軍への歓声はまったく聞こえない。
町を破壊し、人から略奪をし、日本軍が中国人に憎しみの感情を根深く植え付けたことは、今後、何年にもわたって中国人に反日本の感情をくすぶり続けさせることになるのだが、東京はこれを取り除くために闘っているのだと公言してはばからない。
南京陥落の惨事
南京の占領は、中国人が被った最も大きな敗北であり、近代戦史における最も悲惨な軍隊の崩壊であった。中国軍は南京の防衛を企図し、自ら包囲下に陥り、その後に続く虐殺を許すことになった。
この敗北により、中国軍は、何万人というよく訓練された兵隊を失い、何百万ドルに匹敵する装備を失い、戦争の初期において示された長江方面軍の勇猛な精神は、ほほ二カ月にわたる上海付近での日本の進撃を阻止できず、士気の失墜を招くことになった。ドイツ人軍事顧問および参謀長である白崇禧将軍の一致した勧告に逆らってまで、無益な首都防衛を許した蒋介石総統の責任はかなり大きい。
もっと直接に責任を負わなければならないのは、唐生智将軍と配下の関係師団の指揮官たちである。彼らは軍隊を置き去りにして逃亡し、日本軍の先頭部隊が城内に入ってから生ずる絶望的な状況に村し、ほとんど何の対策もたてていなかった。
大勢の中国兵の逃走には、ほんのわずかな逃げ道しか用意されていなかった。侵入者を阻止するため、戦略上のわずかな地点に部隊を配置して、その間に他の兵隊は撤退するという措置もとらずに、大勢の指揮官が逃亡したことは、兵隊の間にパニックを引き起こした。
長江の渡河が可能な下関に通ずる門を突破できなかった者は、捕らえられて処刑された。
南京の陥落は、日本軍の入城がなるより二週間も前に、詳しく予告されていた。日本軍は、装備の貧弱な中国軍を広徳周辺およびその北方で敗退させ、一網打尽にすると、首都に入る数日前には、長江沿いの南京上流の蕪湖など二、三の地点を攻め落とした。日本軍はこのようにして、中国軍が上流に退却するのを拒んだのである。(P419)
序盤は果敢に防戦
南京の周辺数マイルの見かけだけの中国軍の防衛線は、たいした困難もなく突破された。十二月九日には、日本軍は光華門のすぐ外にまで達した。城内に押し戻された五万の中国兵は、当初、激しく抵抗した。城壁の上に陣取る中国軍部隊があり、また城壁の外側数マイルでも中国軍はじわじわ押し寄せる敵と争っており、日本軍にはたくさんの死傷者がでた。
しかし、城壁周辺の中国軍は、大砲や飛行機の内外両方からの攻撃で、たちまち一掃された。とりわけ榴散弾による多数の死者をだした。
日曜日(十二日−訳者)正午、激しい援護射撃をうけながら、侵入軍が西門近くの城壁を登り始めるや、中国軍の瓦解が始まった。第八八師団の新兵が、まず先に逃亡すると、他の兵隊もそれに続いた。夕方までには大方の部隊が下関門に向かい奔流のように押し寄せた。この門はまだ中国の支配下にあった。
将校たちはもはや状況に対処しようとはしなかった。部下たちは鉄砲を投げ捨て、軍服を脱ぎ、平服に着替えた。
日曜日夕方、市内を車で走っているとき、記者は、全員が一斉に軍服を脱ごうとしている部隊に出くわしたが、それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。
頑強な連隊がいくつか、月曜日になってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者は脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。
安全区の本部を取り囲んだ一団は、銃を手渡していたが、焦って兵器を手放したいばかりに、塀ごしに中に投げ入れる者まででてきた。
中国軍の三分の一は袋のねずみ
日本軍が下関門を占領すると、南京からの出口はすべて遮断された。そして、少なくとも三分の一の中国軍が城内に取り残されることになった。
中国軍の統制の悪さから、火曜日の昼になっても、まだ抵抗を続ける部隊がかなりあった。これらの多くが、日本軍にすでに包囲されていることも、また、勝てる見込みがないことも知らずに戦っていた。日本軍の戦車隊が整然とこれらを掃討していった。
火曜日の朝、記者は下関に車で出掛ける途中、二五人ほどの絶望的な中国兵の一団に出会った。彼らは依然として中山路の寧波会館を占拠していたが、のちに全員が降伏した。(P420-P421)
何千人という捕虜が日本軍に処刑された。安全区に収容されていた中国兵のほとんどが、集団で銃殺された。市は一軒一軒しらみつぶしに捜索され、肩に背嚢の痕のある者や、その他兵士の印のある者が探し出された。彼らは集められて処刑された。
多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日の二、三時間の間に、三つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、一〇〇人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。
日本軍の好みの処刑方法は、塹壕の縁に一〇人ほどの兵隊を集め、銃撃すると、遺体は穴に転がり落ちるというものである。それからシャベルで土をかけると、遺体は埋まってしまうというわけだ。
南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら治療を求めていた。
民間人の死傷者多数
民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。
南京の通りには死骸が散乱していた。ときには、死骸を退かしてからでないと、車が進めなかった。
日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ六フィートの小山を築いていた。水曜日遅くになっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、人間も犬も馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。
日本軍に抵抗するとひどいめにあうぞと中国軍に印象づけるため、日本軍はできるだけ長く恐怖の状態にしておきたい意向のようだ。
※「ゆう」注 下関門の死体は、中国軍撤退時の混乱に伴うもの。日本軍が殺戮したものではない。
中山路はいまやごみの大通りと化し、汚物、軍服、小銃、拳銃、機関銃、野砲、ナイフ、背嚢などが全域に散乱していた。日本軍は戦車をくりだすなどして、瓦礫を片付けなければならないところもあった。
中国軍は、中山陵公園内の立派な建物や住宅を含む郊外のほぼ全域に放火した。下関はほとんどが焼け落ちた。日本軍は立派な建物を破壊するのは避けた模様だ。占領にあたって空襲が少なかったのは、建物の破壊を避ける意図があったことを示している。(P421-P422)
日本軍は、建物のたてこんだ地域に集まった中国軍部隊でさえも、爆撃するのを避けているが、建物の保存を狙っていたのは明らかだ。立派な交通部の建物だけが、市内で破壊された唯一の政府関係の建物である。これは中国軍に放火されたものである。
現在の南京は、外国人の支配のもとで、死、拷問、強奪の不安のなかで生活している恐怖におののく人々を抱えている。数万人にのぼる中国兵の墓所は、日本という征服者への抵抗を願う、すべての中国人の希望の墓所であるのかもしれない。(P422)
(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)
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