ニューヨーク・タイムズ

F・ティルマン・ダーディンの記事



 日本軍の南京占領(1937年12月13日)当時、南京には、5名の外国人ジャーナリストが残留していました。

 「ニューヨーク・タイムズ」のF・ティルマン・ダーディン、「シカゴ・デイリー・ニュース」のA・T・スティール、「ロイター」のL・C・スミス、「AP」のコーリン・F・マクドナルド、及び「パラマウント映画ニュース」のカメラマンであったA・メンケンの5名です。

 彼らは12月15日には南京を退去しましたが、この3日間の見聞をもとに、さまざまな情報を世界に向けて発信しました。特にダーディンとスティールの長文記事は、よく知られています。

 ここでは、『南京事件資料集1 アメリカ関係資料編』より、12月13日、南京陥落時以降のダーディンの記事を集めました。

※それ以前の記事については、中国軍の「清野作戦」関連に限定したものですが、拙コンテンツ「日本軍の放火」にて一部取り上げています。 

 なおこの記事は、限られた情報の中でのいわば「第一報」ですので、今日の眼で見るとやや不正確な部分も散見します。議論に援用される方は、十分ご注意ください。

一九三七年十二月十八日

捕虜全員を殺害、日本軍、民間人も殺害、南京を恐怖が襲う

F・ティルマン・ダーディン

 ◇アメリカ大使館を襲撃

 ◇蒋介石総統のおそまつな戦術、指揮官の逃亡 首都陥落を招く



 十二月十七日、上海アメリカ船オアフ号発
 ニューヨーク・タイムズ宛特電

 南京における大規模な虐殺と蛮行により、日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずの、またとない機会を逃してしまった。

 中国当局の瓦解と中国軍の崩壊により、南京の大勢の中国人は、日本軍の登場とともにうちたてられる秩序と組織に応える用意ができていた。日本軍が南京城内の支配を掌撞した時、これからは恐怖の爆撃も止み、中国軍の混乱による脅威も除かれるであろうとする安堵の空気が一般市民の間に広まった。

 少なくとも戦争状態が終わるまで、日本の支配は厳しいものになるだろうという気はしていた。ところが、日本軍の占領が始まってから二日で、この見込みは一変した。大規模な略奪、婦人への暴行、民間人の殺害、住民を自宅から放逐、捕虜の大量処刑、青年男子の強制連行などは、南京を恐怖の都市と化した。


 民間人多数を殺害

 民間人の殺害が拡大された。水曜日、市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りにも民間人の死体を目にした。犠牲者には老人、婦人、子供なども入っていた。

 とくに警察官や消防士が攻撃の対象であった。犠牲者の多くが銃剣で刺殺されていたが、なかには、野蛮このうえないむごい傷をうけた者もいた。

 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や、日が暮れてから通りや露地で巡回中のパトロールに捕まった者は、だれでも射殺されるおそれがあった。外国人はたくさんの殺害を目撃した。(P417)

 日本軍の略奪は、町ぐるみを略奪するのかと思うほどであった。日本兵はほとんど軒並みに侵入し、ときには上官の監視のもとで侵入することもあり、欲しい物はなんでも持ち出した。日本兵は中国人にしばしば略奪品を運ばせていた。

 なにより欲しがった物は食料品であった。その次は、有用なもの、高価な物を片っ端から奪った。とくに不名誉なことは、兵隊が難民から強奪を働くことであり、集団で難民センターを物色し、金や貴重品を奪い、ときには不運な難民から身ぐるみ剥いでいくこともあった。

 アメリカ伝道団の大学病院の職員は、現金と時計を奪われた。ほかに、看護婦の宿舎からも品物が持ち去られた。日本兵はアメリカ系の金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、食料と貴重品を奪った。

 大学病院と金陵女子文理学院の建物には、アメリカ国旗が翻り、扉には、アメリカ所有物であることを中国語で明記した、アメリカ大使館発行の公式布告が貼られていた。


 アメリカ外交官の私邸を襲う

 アメリカ大使の私邸さえもが侵入を受けている。興奮した大使館の使用人からこの侵入の知らせをうけて、バラマウント・ニュースのカメラマンと記者は、大使の台所にいた日本兵五人の前に立ちはだかり、退去を要求した。五人はむっつりしながらおとなしく出ていった。彼らの略奪品は懐中電灯一本だけであった。

 大勢の中国人が、妻や娘が誘拐され強姦された、と外国人に報告にきた。これら中国人は助けを求めるのだが、外国人はたいてい無力であった。

 捕虜の集団処刑は、日本軍が南京にもたらした恐怖をさらに助長した。武器を捨て、降伏した中国兵を殺してからは、日本軍は市内を回り、もと兵士であったと思われる市民の服に身を隠した男性を捜し出した。

 安全区の中のある建物からは、四〇〇人の男性が逮捕された。彼らは五〇人ずつ数珠繋ぎに縛りあげられ、小銃兵や機関銃兵の隊列にはさまれて、処刑場に連行されて行った。

 上海行きの船に乗船する間際に、記者はバンドで二〇〇人の男性が処刑されるのを目撃した。殺害時間は一〇分であった。処刑者は壁を背にして並ばされ、射殺された。それからピストルを手にした大勢の日本兵は、ぐでぐでになった死体の上を無頓着に踏みつけて、ひくひくと動くものがあれば弾を打ち込んだ。

 この身の毛もよだつ仕事をしている陸軍の兵隊は、バンドに停泊している軍艦から海軍兵を呼び寄せて、この光景を見物させた。見物客の大半は、明らかにこの見世物を大いに楽しんでいた。(P418)

 最初の日本軍の一縦隊が南門から入り、市のロータリー広場に通ずる中山路を行軍しはじめると、中国人は包囲攻撃が終わった安堵感と、日本軍は平和と秩序を回復してくれるはずだという大きな期待から、一般市民が数人ずつかたまって、大きな歓声をあげた。現在南京には、日本軍への歓声はまったく聞こえない。

 町を破壊し、人から略奪をし、日本軍が中国人に憎しみの感情を根深く植え付けたことは、今後、何年にもわたって中国人に反日本の感情をくすぶり続けさせることになるのだが、東京はこれを取り除くために闘っているのだと公言してはばからない。


 南京陥落の惨事

 南京の占領は、中国人が被った最も大きな敗北であり、近代戦史における最も悲惨な軍隊の崩壊であった。中国軍は南京の防衛を企図し、自ら包囲下に陥り、その後に続く虐殺を許すことになった。

 この敗北により、中国軍は、何万人というよく訓練された兵隊を失い、何百万ドルに匹敵する装備を失い、戦争の初期において示された長江方面軍の勇猛な精神は、ほほ二カ月にわたる上海付近での日本の進撃を阻止できず、士気の失墜を招くことになった。ドイツ人軍事顧問および参謀長である白崇禧将軍の一致した勧告に逆らってまで、無益な首都防衛を許した蒋介石総統の責任はかなり大きい。

 もっと直接に責任を負わなければならないのは、唐生智将軍と配下の関係師団の指揮官たちである。彼らは軍隊を置き去りにして逃亡し、日本軍の先頭部隊が城内に入ってから生ずる絶望的な状況に村し、ほとんど何の対策もたてていなかった。

 大勢の中国兵の逃走には、ほんのわずかな逃げ道しか用意されていなかった。侵入者を阻止するため、戦略上のわずかな地点に部隊を配置して、その間に他の兵隊は撤退するという措置もとらずに、大勢の指揮官が逃亡したことは、兵隊の間にパニックを引き起こした。

 長江の渡河が可能な下関に通ずる門を突破できなかった者は、捕らえられて処刑された。

 南京の陥落は、日本軍の入城がなるより二週間も前に、詳しく予告されていた。日本軍は、装備の貧弱な中国軍を広徳周辺およびその北方で敗退させ、一網打尽にすると、首都に入る数日前には、長江沿いの南京上流の蕪湖など二、三の地点を攻め落とした。日本軍はこのようにして、中国軍が上流に退却するのを拒んだのである。(P419)


序盤は果敢に防戦

 南京の周辺数マイルの見かけだけの中国軍の防衛線は、たいした困難もなく突破された。十二月九日には、日本軍は光華門のすぐ外にまで達した。城内に押し戻された五万の中国兵は、当初、激しく抵抗した。城壁の上に陣取る中国軍部隊があり、また城壁の外側数マイルでも中国軍はじわじわ押し寄せる敵と争っており、日本軍にはたくさんの死傷者がでた。

 しかし、城壁周辺の中国軍は、大砲や飛行機の内外両方からの攻撃で、たちまち一掃された。とりわけ榴散弾による多数の死者をだした。

 日曜日(十二日−訳者)正午、激しい援護射撃をうけながら、侵入軍が西門近くの城壁を登り始めるや、中国軍の瓦解が始まった。第八八師団の新兵が、まず先に逃亡すると、他の兵隊もそれに続いた。夕方までには大方の部隊が下関門に向かい奔流のように押し寄せた。この門はまだ中国の支配下にあった。

 将校たちはもはや状況に対処しようとはしなかった。部下たちは鉄砲を投げ捨て、軍服を脱ぎ、平服に着替えた。

 日曜日夕方、市内を車で走っているとき、記者は、全員が一斉に軍服を脱ごうとしている部隊に出くわしたが、それは滑稽ともいえる光景であった。隊形を整えて下関に向かい行進している最中、多くの兵隊が軍服を脱いでいた。あるものは露地に飛び込み、一般市民に変装した。なかには素っ裸の兵隊がいて、市民の衣服をはぎ取っていた。

 頑強な連隊がいくつか、月曜日になってもなお日本軍に抵抗していたが、防衛軍のほとんどが、逃走を続けた。何百人もが外国人に身を任せてきた。記者は脅えた兵隊たちから何十挺もの銃を押しつけられた。彼らは、近づいてくる日本軍に捕まらずにいるには、どうしたらよいのかを知りたがった。

 安全区の本部を取り囲んだ一団は、銃を手渡していたが、焦って兵器を手放したいばかりに、塀ごしに中に投げ入れる者まででてきた。


 中国軍の三分の一は袋のねずみ

 日本軍が下関門を占領すると、南京からの出口はすべて遮断された。そして、少なくとも三分の一の中国軍が城内に取り残されることになった。

 中国軍の統制の悪さから、火曜日の昼になっても、まだ抵抗を続ける部隊がかなりあった。これらの多くが、日本軍にすでに包囲されていることも、また、勝てる見込みがないことも知らずに戦っていた。日本軍の戦車隊が整然とこれらを掃討していった。

 火曜日の朝、記者は下関に車で出掛ける途中、二五人ほどの絶望的な中国兵の一団に出会った。彼らは依然として中山路の寧波会館を占拠していたが、のちに全員が降伏した。(P420-P421)

 何千人という捕虜が日本軍に処刑された。安全区に収容されていた中国兵のほとんどが、集団で銃殺された。市は一軒一軒しらみつぶしに捜索され、肩に背嚢の痕のある者や、その他兵士の印のある者が探し出された。彼らは集められて処刑された。

 多くが発見された場所で殺害されたが、なかには、軍とはなんの関わりもない者や、負傷兵、怪我をした一般市民が含まれていた。記者は、水曜日の二、三時間の間に、三つの集団処刑を目撃した。そのうちの一つは、交通部近くの防空壕で、一〇〇人を越す兵隊の一団に、戦車砲による発砲がなされた虐殺であった。

 日本軍の好みの処刑方法は、塹壕の縁に一〇人ほどの兵隊を集め、銃撃すると、遺体は穴に転がり落ちるというものである。それからシャベルで土をかけると、遺体は埋まってしまうというわけだ。

 南京で日本軍の虐殺が開始されてから、市は恐ろしい様相を呈してきた。負傷兵を治療する中国軍の施設は、悲劇的なまでに不足してきた。一週間前でさえ、しばしば路上で負傷者を見掛けた。ある者はびっこをひき、ある者ははいずりながら治療を求めていた。

 民間人の死傷者多数

 民間人の死傷者の数も、千人を数えるほどに多くなっている。唯一開いている病院はアメリカ系の大学病院であるが、設備は、負傷者の一部を取り扱うのにさえ、不十分である。

 南京の通りには死骸が散乱していた。ときには、死骸を退かしてからでないと、車が進めなかった。

 日本軍の下関門の占領は、防衛軍兵士の集団殺戮を伴った。彼らの死骸は砂嚢に混じって積み上げられ、高さ六フィートの小山を築いていた。水曜日遅くになっても日本軍は死骸を片付けず、さらには、その後の二日間、軍の輸送車が、人間も犬も馬の死骸も踏み潰しながら、その上を頻繁に行き来した。 

 日本軍に抵抗するとひどいめにあうぞと中国軍に印象づけるため、日本軍はできるだけ長く恐怖の状態にしておきたい意向のようだ。

※「ゆう」注 下関門の死体は、中国軍撤退時の混乱に伴うもの。日本軍が殺戮したものではない。

 中山路はいまやごみの大通りと化し、汚物、軍服、小銃、拳銃、機関銃、野砲、ナイフ、背嚢などが全域に散乱していた。日本軍は戦車をくりだすなどして、瓦礫を片付けなければならないところもあった。

 中国軍は、中山陵公園内の立派な建物や住宅を含む郊外のほぼ全域に放火した。下関はほとんどが焼け落ちた。日本軍は立派な建物を破壊するのは避けた模様だ。占領にあたって空襲が少なかったのは、建物の破壊を避ける意図があったことを示している。(P421-P422)

 日本軍は、建物のたてこんだ地域に集まった中国軍部隊でさえも、爆撃するのを避けているが、建物の保存を狙っていたのは明らかだ。立派な交通部の建物だけが、市内で破壊された唯一の政府関係の建物である。これは中国軍に放火されたものである。

 現在の南京は、外国人の支配のもとで、死、拷問、強奪の不安のなかで生活している恐怖におののく人々を抱えている。数万人にのぼる中国兵の墓所は、日本という征服者への抵抗を願う、すべての中国人の希望の墓所であるのかもしれない。(P422)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)

 
一九三七年十二月十九日

南京における外国人の役割称賛される


◇外国人グループ、包囲攻撃中も留まり、負傷者や多数の難民の世話にあたる

◇生命、しばしば危機にさらされる

◇市政府官吏避難のため、安全区委員会が任務を遂行

           

 F・ティルマン・ダーディン


 上海 十二月十八日発
 ニューヨーク・タイムズ宛無線

 砲撃や爆撃、また無軌道な兵士により、しばしば生命を脅かされながらも、外国人の小グループは日本軍に包囲された城壁内に留まり、非常に人道的かつ政治的に重要な貴重な役割を担った。

 アメリカ人が大勢を占めるこれら外国人の多くは、安全区委員会のメンバーであり、委員会の主な目的は、非戦闘員が市街戦に巻き込まれることのないように、非武装地区を維持・運営することであった。その他の外国人の関心はさらに直截的なもので、負傷者および数千人にのほる戦争避難民の救済であった。

 戦闘が終息し、日本軍が委員会の統制を強化するまでは、委員会は限定された地域における市政府の機能を実際に代行したばかりでなく、一時的にせよ、南京市の法と秩序を守る唯一の民政機関でもあった。というのは、馬超俊市長や正規の首都圏役人は日本軍が城壁に到達する数日前に逃亡していた。

 委員会は、また、国際関係の分野にも立ち入り、中国軍の南京撤退が平和裡に行えるようにと、三日間の停戦を設けることを、安全区に関わる中国軍および日本軍と交渉を重ねた。唐生智将軍から託された四万中国ドルは、大部分が難民の食料に費やされ、それ以外には、委員会は、篤志家による時間、労働、物品、設備の提供に依存した。(P422-P423)


 ドイツ人、グループの長を務める

 安全区委員会の委員長はドイツ人貿易商ジョン・H・D・ラーベ、書記はアメリカ人の金陵大学社会学教授ルイス・S・C・スマイス博士。同歴史学教授アメリカ人のM・S・ペイツ博士、アメリカ北部長老教会派宣教師W・P・ミルズ師および同大学工学教授、アメリカ人のチャールズ・リッグズ氏は安全区の仕事において活躍が著しかった。中国生まれのアメリカ人ジョージ・フィッチが安全区の局長である。

 戦傷者委員会 (The War-wounded committee) は、アメリカ聖公会伝道団のジョン・マギー師が責任者であった。安全区委員会の外国人たちは、その人道的仕事において、かなりの成功を収めることができた。

 日本軍は南京において、中国軍部隊および軍事施設のない地域は攻撃しないことを約束していたし、中国軍も、安全区からすべての兵隊および軍事設備を撤去することを誓約していた。しかしながら、唐将軍は武装解除の完了時期決定を保留にしていた。実際に、中国軍の武装解除の具合は、委員会が安全区の設立を公式に発表できるほど十分でなかったことは否めない。

 それにもかかわらず、この地域は暫くのあいだ、かなりの規模にわたって非武装地域となり、そのため日本軍もあえてこの地域を砲爆撃する必要性を認めなかった。その結果、一〇万人を越す非戦闘員たちは、安全区の上を通過するひっきりなしの砲弾による恐怖にもかかわらず、日本軍の市内への入城までは比較的安全に過ごすことができた。


 それ弾、損害を与える

 日本軍の砲弾が新街口近くの一角に落ち、一〇〇人以上の死傷者を出した。それ弾による死者はほかにも一〇〇人はいるものと思われる。一方、安全区という聖域を見いだせずに自宅に待機していた民間人は五万人以上を数えるものと思われるが、その死傷者は多く、ことに市の南部では数百人が殺害された。安全区の非戦闘員の食料は、中国軍の瓦解により供給が完全に絶たれた。

 退却中の中国軍が大慌ての態で安全区を通過逃走する時、多くの者が武装を解いて民間人の服を求めに委員会本部に集まってきた。また、日本軍は市内に入城する際、安全区を無視したが、この地域での市街戦は無用であった。というのも、指揮官のいない、おじけづいた中国軍部隊は、この地域では日本軍になんの抵抗もしなかったからである。

 委員会のメンバーたちは、安全区の非武装化につとめる以外に、多岐にわたる仕事に携わった。まず難民に与える大量の米やその他の食料の運搬である。多くの難民は無一文であった。また、家のない者を収容する建物を徴発したり、地区の警備をとりしきった。そして、南京にある唯一の民間機関として、委員会は裁判所の役割も担い、小犯罪人には数日間地区の輸送部門での労働を課したりなどした。(P423-P424)


 唐将軍、停戦を探る

 南京市の平和的占領を交渉することにより、市内全域を安全区にしようとした委員会の試みは失敗に帰した。日本軍はこの提案に一切返答せず、また、蒋介石総統の回答は、たんなる礼状にすぎなかった。

 安全区にとり、一切が特殊な経験であったが、多くの成功を収めた。南京包囲の際、他の重要な問題を扱っていた外国人たちは、戦傷者の処置という越そうにも越せない障害に遭遇した。それにもかかわらず、負傷者の苦痛を大いに取り除くことができた。

 包囲攻撃の時、南京には中国の陸軍病院はわずかしかなく、それも医師は全員が逃避し、病院はまったく不適格な職員に任されていた。さらに病院によっては特定の部隊にのみ開放されて、それ以外の部隊の負傷者は診療を妨げられた。

 一般に野戦病院や応急手当の施設はないにも等しかったので、数千人の負傷者は、自力で脱出できる者以外は、戦闘地域に置き去りにされた。外国人救護者たちは全力をあげて、数少ないトラックで負傷者を拾い、病院に運び、ボランティアの医療班を組織することに努めた。

 日本軍は南京占領にあたり、いっそうの組織化を容認したため、外国人グループは赤十字委員会を組織し、外交部ビルで病院業務を引き継ぎ、市内にトラックや車を差し向けて負傷者を収容した。

 包囲攻撃の間、大学病院(鼓楼病院) は努めて民間人負傷者用とすることにしていた。しかしながら、大勢の負傷兵が運び込まれてきた。一度は無傷の一団が負傷兵のグループを運び込み、ライフルを向けて負傷者の治療を強要した。

 ほんのわずかな中国兵、ニュース映画カメラマン一名、ドイツ人六名、ロシア人二名、イギリス人特派員一名の助けをかりて、昼も夜も治療にあたり、これら外国人は一五〇名の患者を取り扱ったのである。

 危機と不安は大きく、とりわけ、外国船籍の砲艦が土曜日に川上に発ってからは深刻であった。同時に、漢ロヘの無線と電話が切れ、世界からの報道が途絶えた

 パナイ号爆撃については、南京の外国人たちは、事件から二日たった火曜日に、下関で日本の軍艦から知らされてはじめて知ったのである。外国人たちがかすり傷程度のけがで包囲を生き延びたことは、ほとんど奇跡的といってよい。(P424-P425)

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)


一九三八年一月九日

中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為
            

F・ティルマン・ダーディン


◇南京侵略軍、二万人を処刑

◇日本軍の大量殺害 ― 中国人死者、一般市民を含む三万三千人

◇征服者の狼籍

◇暴行、根深い憎悪を浸透さす ― 中国軍による放火、甚大な被害をもたらす



 上海十二月二十二日発
 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

 南京の戦闘は、近代戦史における最も悲惨な物語の一つとして、歴史に残ることは疑いない。

 近代軍事戦略の指示にことごとく反し、中国軍は自ら罠にかかり、包囲され、少なくとも三万三千人を数える兵力の破滅を許した。この数は南京防衛軍のおよそ三分の二にあたり、このうち二万人が処刑されたものと思われる。

 攻防戦は、全体としておおむね封建的、中世的なものであった。城壁内において中国軍は、市の中心から数マイルに広がる村落、住宅地、繁華な商業地区を大規模に焼き払って防戦し、占領後には日本が虐殺、強姦、略奪を働くという、すべてがまるではるか昔の野蛮な時代の出来事のように思われる。(P428-P429)

 南京を失ったことは、中国軍にとり、首都を失っただけだというわけにはいかなかった。中国軍は尊い兵士の士気と多くの命を失ったのである。上海から長江流域を下流にかけ、絶えず日本軍と戦ってきた中国軍は壊滅的打撃を受けた。中国軍が再起して日本軍の兵器と対抗できるような効果的攻撃ができるとは思えない。

 日本軍にとり、南京占領は軍事的・政治的に最も重要であった。しかし、野蛮な行為、大規模な捕虜の処刑、略奪、強姦、民間人の殺害、その他暴行などにより、日本の勝利は台なしになった。そればかりか、日本陸軍や日本国民の名声を汚すことになるだろう。


 地理的に不利な南京

 南京が防衛上不利な地点にあることを理解するには、それまで北に流れていた長江が、東に曲がる地点に南京が位置していることを銘記する必要がある。これから容易に分かることは、城内とその周辺のみを占拠する防衛軍は、攻撃軍が南京の上流・下流双方の右岸を入手した場合、三方から包囲されることになる。

 日本軍の兵力集結は分かっていたことから、中国軍の指揮官はこのことを理解すべきであった。事実、日本軍は蕪湖を攻略し、蕪湖−南京間をまる三日で走破して首都の城内に入ったのである。日本軍はまず南京上流の右岸を進み、蕪湖を攻略した後、長江河岸を除くあらゆる地点から中心の南京に向かい半円形を描くようにして進入することができた。

 中国軍は、場合によっては河岸に逃れ、長江を渡ることも可能ではなかったかという人がいるかもしれない。河岸に入るのには下関地区に行き下関門が出口となるが、長江を出口とするのは賢明ではない。というのは、陸軍の攻撃にあたり、日本の軍艦が下関沖に対峙し―下流においてブームがその通行をいささか妨げたにしても―、中国軍が対岸に退却するのを阻むはずである。


 考慮になかった退却

 中国軍司令部は、たとえ数千人といえども、南京防衛軍が渡河し撤退できようとは考えていなかったことは明白である。南京攻撃戦の期間を通じ、河にはわずかなジャンク船とランチのほかは、輸送手段がなかったことからも明らかである。

 事実、当然の帰結ではあるが、防衛軍司令長官唐生智と配下の師団司令官が攻撃前に語っていた、中国軍は撤退を一切考慮していない、という言葉は、中国軍司令部の偽りのない真意を述べたものであった。(P429-P430)

 換言するならば、防衛軍司令長官部は彼らが城壁で囲われた南京に完全に包囲されることを十分承知していた。ねずみとりの中の鼠よろしく捕らえられ、日本の陸海軍の大砲や空軍が彼らをとらえて木っ端微塵にするような状況にすすんで置かれることを選んだわけは、中国人を感動させるように英雄的に振舞いながら、日本軍の南京占領をできるだけ高価なものにしようと意図していたことは疑いない。

 この事柄の不名誉な部分はといえば、防衛軍司令長官部が、先に披瀝した明白な意図を遂行する勇気に欠けていたことである。日本の部隊が南西の城壁破壊に成功した時、下関の出口はまだ閉門されてなく、日本軍の快進撃と日本軍艦の接近に怖じ気づいた唐将軍とごく少数の側近は、配下の指揮官と指揮官のいない部隊を絶望的な状能のなすがままに残して、逃走した。この逃走については、おそらく部下たちに何の説明もなかったことだろう。


 放置された将校たち

 唐生智は、十二月十二日の日曜日午後八時に逃走した。長江左岸にポートで渡ったことは間違いない。彼の参謀本部の将校の多くは、彼の意図を知らされていなかった。記者は一人の大尉と知り合った。司令長官が退却したことを夜半近くに知った彼は、逃走しようとしたが、そのときにはすでに日本軍が西の方面から城壁の周辺を掃討し、下関地区を掌握しつつあった。

 この大尉は降伏して安全を求めようと、先に中国兵が城壁を内側からよじ登るのに使った、軍服で作ったロープを利用して、再び市内に戻った。

 しかし、南京防衛に努めようとする中国軍の戦略位置は絶望的であり、とりわけ市の攻撃や、占領についての状況に最もよく示されている。

 日本軍は江陰の砲台を占領し、常州を落としてから、呉興の北から長江にわたる長江流域前線を劇的な速度で進み、数日のうちに南は広徳を落とし、北の鎮江を包囲した。そして丹陽を占領すると、句容付近でいわゆる南京城外囲防衛線を攻撃しつつあった。

 句容防衛線は、南京から八方に広がる他の七ヵ所の防衛線と同様に、互いに二、三マイルの間隔を保ちながら城壁を中心に同心円を描くように配置され、守りは十分堅固であると数ヵ月まえから言明されていた。実際は、南京からおよそ二五マイルの句容を通過する永久的な防衛線とは、保塁を視察した中立国の外国人が確認したかぎりでは、臨時に仮設されたトーチカだけの他愛ないものであった。(P430)

 他の防備といっても、ベッドのフレイムを軸にして、砂嚢やおどろくほど雑多ながらくたや砂を積み上げただけの急拵えのバリケードがある。さらには機関銃の砲座を設置し、中国軍が撤退する時、道路や橋を爆破していった。


 兵力を割かれた広東軍

 日本軍が南京に向かって押し寄せてきたとき、防戦にあたったのは広東人の師団が多く、広西軍の部隊と若干の湖南部隊、それに市内にかぎると、第三六師団、第八八師団、その他いわゆる南京師団とよばれるものであった。広東軍の部隊は、上海付近からずっと日本軍の追跡を受け、数週間続いた爆撃で兵力は衰えていた。

 第三六および第八八師団は、もと蒋介石総統の精鋭部隊であったが、上海付近で手ひどい打撃を被った。ともに南京に撤退し、訓練を受けていない新兵を補充した。蘇州−句容間の前線で日本軍の進撃に抗戦してきた四川部隊は、大部分が蕪湖方面に撤退し、そこで長江を渡河したので、首都攻防戦には加わらなかった。

 南京市内外の中国軍の戦力をずばり言うことは難しい。首都攻防戦を闘ったのは一六の師団であろうと推定するものがいるが、この数字は本当のところであろう。中国軍の一個師団は、平時でも、平均わずか五千人の兵力である。被害を被りなおかつ南京の防衛にあたった師団は、一個師団がおそらく少なくも二千ないし三千の兵力構成であったと思われる。

 南京防衛にあたり「袋のねずみとなった」 のは、およそ五万人の部隊であったと言っても言い過ぎにはならないだろう。

 句容は十二月六日の月曜日夜に日本軍の手に落ちた。そこから日本軍は南京城壁を目ざし、三方向から進撃を開始した。句容からは、孟塘を通過し、北方に配備された一縦隊が東流鎮を攻撃し、深水からは、別の一縦隊が秣陵関を攻撃、また天王寺からの主力縦隊は淳化鎮へと進撃した。


 中国軍、焼き払いの狂宴

 日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったことになった。これは城壁周辺での抵抗の最後の準備であったことは明らかだ。

 中国の 「ウエスト・ポイント」である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから一五マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。村ごとそっくり焼き払われたのである。中山陵公園にある兵舎と官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校、その他多数の施設が灰燼に帰した。焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。これらの地区は、そこだけで小さな町をなしていた。(P431)

 中国軍の放火による財産破壊を計算すると、簡単に二千万、三千万ドルを数えることができるが、これは日本軍の南京攻略に先駆けて、数ヵ月間にわたって行われた南京空襲の被害より大きい。しかし、おそらくこれは、南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵するだろう。

 中国軍部は、市周辺全域の焼き払いは軍事上の必要からだと常に説明していた。城壁周辺での決戦において、日本軍に利用されそうなあらゆる障害物、援護物、設備はすべて破壊することが肝要であるというのだ。このため、建物だけでなく、樹木、竹薮、下草までが一掃された。

 中立的立場の者からみると、この焼き払いは大部分が、中国のもう一つの「大げさな宣伝行為」であり、怒りと欲求不満のはけぐちであったようだ。中国軍が失い、日本軍が利用するかもしれないと思われるものは、ことごとく破壊したいという欲望の結果であり、極端な「焦土」政策は、日本軍に占領される中国軍の地域は、役にたたない焼け跡だけにしておきたいということである。

 ともかくも、中立的立場の者の間では、中国軍の焼き払いは軍事的意義がほとんどないという見方で一致している。多くの場合、焼け焦げた壁はそのまま残り、火災を免れた建物と同様に、機関銃兵にとり格好の遮蔽物となった。

 十二月六日月曜日、七日火曜日、日本軍は東流鎮、淳化鎮、秣陵関へと侵攻を押し進め、鎮江を占領して左側面を固めた。中国軍は鎮江から退却する時、ここでも焼き払いの狂宴に熱中した。一方、日本軍の右側面は、広徳付近で中国軍を撃破し、一気に蕪湖に押し寄せ、木曜日、金曜日にはここを占領した。

 水曜日夜明け、蒋総統と夫人、それに側近は、総統専用の二機の飛行機で南京を離れ、湖南省、長沙の近くの衡山に向かった。総司令官の脱出は、南京攻撃が開始されたことを事実上認めることであった。総統の脱出と同時に、少数の政府高官と、防衛軍に直接関わりのない軍の指導者も自動車で南京を去った。水曜日以後は、唐生智将軍が南京の最高権力者となった。

 水曜日、日本軍機が淳化鎮の小さな村にある中国陣地に爆弾の雨を降らせ、その夜日本軍部隊の占領するところとなった。淳化鎮は南京からわずか六マイルしか離れていない。

 中国軍は、句容、りっ水方面から進撃した日本軍と激しく闘ったことは間違いない。しかし、防戦は不十分で、中国軍の装備では防衛は無理であった。日本軍機は中国部隊を見つけると、思う存分爆撃し、中国軍の位置を野戦砲隊に知らせることができた。戦車と装甲車が日本軍の進撃を先導し、これに対抗する中国軍の機関銃やモーゼル銃では歯がたたなかった。(P432)


 効果のあがらない砲兵隊

 砲手が敵の位置を確認できなかったため、中国軍の所有する大砲はほとんど役に立たなかった。中国軍機は、日本軍が南京攻撃をかける数日前から、すでに南京戦から姿を消していた。その結果、中国陸軍には観測兵がおらず、「盲滅法」の戦闘を闘い、敵の部隊に実際に遭遇するまで侵入軍の位置を知らずにいたのである。

 日本軍の位置について報告がなされなかったため、下関付近の獅子山、紫金山、南門の外側、大■(くさかんむりに姑)山付近の丘に設置された高価な要塞砲のほとんどが、防衛軍の役にたたなかった。いったん大砲を放てば、たちまち日本軍の爆撃を受けて沈黙させられた。

 木曜日、日本軍が淳化鎮から城壁めざして侵攻を開始したため、南京は恐怖に陥った。城壁の周囲、あらゆる地点で燃え盛る火の手からたちこめる煙の内側には、難民ですし詰めの安全区、兵隊でごったがえす道路があり、安全区以外の地域すべてを支配する鉄の前線規律、戒厳令がしかれ、日本軍機は終日周辺地域を爆撃攻撃し、ずたずたに傷ついた負傷者が市内になだれこんできた。南京は実に恐ろしい、驚愕する様相を呈していた。

 中国当局から事態の悪化を告げられた残留外国人外交官 ― アメリカ大使館先任二等書記官ジョージ・アチソン・ジュニア、二等書記官J・ホール・パクストン、武官補佐官フランク・ロバーツ大尉らを含む ― は、木曜日夜、河岸に脱出し、下関からボートに乗り難を逃れた。アメリカ人はアメリカ砲艦パナイ号に乗船した。


 日本軍、スパイが援助

 木曜日夜、淳化鎮の日本軍は突然市の城壁に達した。大校場軍事飛行場で守備兵の交代があることをスパイから教えられ、日本軍は飛行場を急襲して占領し、夜半前には周辺の兵舎も掌握した。日本軍は飛行場を外側にひかえる光華門の入口をまさに脅かさんばかりであったが、中国軍は勢いをもりかえし、反撃に転じた。

 その後、中国の便衣兵が大校場の兵舎に火を放つと、日本軍は炎の中で猛反撃に遭った。しかし、日本軍は進撃がはばまれるまでにはいたらず、金曜日昼前には、光華門を脅かしただけでなく、近くの通済門、さらには離れた南門の、南京では最大の中華門をも射程距離に入れ、先遣隊を送り出すまでに至った。

 金曜日、砲兵隊を繰り出し、城門を猛撃する一方で、爆撃機もこの巨大な建造物とそこに群がる中国軍をめがけて爆弾を落とした。

 同日、外国人外交官らがしばらくの間岸辺に上陸していたが、中国軍当局から新たな警告を受けて、午後三時それぞれの船に帰還した。それからまもなく、長江左岸の浦口を空襲していた爆撃機が、パナイ号からわずか二〇〇ヤードしか離れていない水中に爆弾を投下した。J・J・ヒューズ少佐はそれからすぐに、艦を一マイル上流の三■(さんずいに又)河に移動した。(P433-P434)

 パナイ号は金曜日から土曜日の午後まで三■(さんずいに又)河に留まり、河岸に建つ英国アジア石油会社の電話を通じて城内に残留しているアメリカ人と連絡をとっていたが、近くにある中国軍陣地を狙う日本軍の長距離砲撃により、土曜日の午後には三■(さんずいに又)河停泊は難しくなった。外交官と難民を乗せたパナイ号は南京を離れ、戻ることはなかった。

 艦は、その翌日、日本軍の攻撃を受け、事の顛末が世界をかけ巡った。

 一方、金曜日には日本軍は南京の古城壁を包囲したと断言できる。


 中国軍もちこたえる

 金曜日と土曜日は、中国軍部隊の多数が城壁から東部および南東部の数マイルにかけて依然もちこたえていた。ときに丘の上に包囲され、日本軍が掃討作戦を行おうと丘をよじ登ると、中国兵は敵に大揖害を与えて息絶えた。中山陵地域は激しい銃撃戦の舞台となった。しかし、ほとんどの中国軍兵力は、金曜日夜更けまでには城内へ撤退した。

 包囲攻撃の一週間前には、中国軍は城門すべてにバリケードを完全に張り巡らせ、重要な門にのみ通り抜けができるよう狭い通路を残し、他は完璧に閉門した。門は内側から砂嚢を二〇フィートの高さに積み上げ、コンクリートで固められた。

 包囲攻撃が始まってからは、記者は日本軍に爆撃された城門すべてを検証する機会は持てなかったが、中山門と南門には日本軍の砲撃による破壊の跡は見られず、中国軍のバリケードは威力を十分に示していた。

 日本軍が初めて南京の城内に入ったのは、いずれの門を通過したわけでもなく、攻城ばしごを用いて城壁を乗り越えたのである。

 日本軍が城壁に到達した木曜日の夜、城壁内は至る所が戦場と化した。中国軍は急いで市内の道路にバリケードを築き、ほとんどの交差点に鉄条網を張った。一方、日本軍の占拠が未だなっていない郊外地域、とくに下関では焼き払いが続いていた。

 土曜日、日本軍はじっくりと集中攻撃を行った。重砲を用いて、城内への砲撃を開始した。

 爆弾は安全区内の多くの地点に落下した。中山路にある福中飯店の前と後ろに落ちた砲弾により、大勢の民間人が死亡した。ほかにもアメリカ伝道団の金陵神学院に近い五台山にも砲撃があった。(P434-P435)

 しかし、安全区に撃ち込まれた砲弾は、故意のものとも、一貫したものとも思われず、おそらくは、大砲を新たな場所に設置した時、射程距離を計るために落下したものと思われる。


 熾烈な機関銃撃戦

 土曜日は激しい闘いとなった。両軍とも城壁の周辺一帯で、猛烈な機関銃撃戦を展開した。中国軍は城壁の上から発砲を続け、多くが城壁のすぐ外側の日本軍に依然として抵抗していた。日本軍は砲撃を強め、南門のすぐ内側に集結している中国軍部隊と市内の丘に陣取る砲台をことさら攻撃した。

 日本軍はまた、瑠散弾の使用を強化し、中国軍が持ち堪えている地域にひきもきらない攻撃を浴びせ、飛行機も中国軍のいる地点の空襲を続けた。

 日本軍部隊はしだいに城壁周辺に押し寄せ、土曜日夕方には西門である漢西門を攻撃し、北の主要門である和平門を脅かすに至った。

 中国防衛軍の間には、一種のヒステリー感情が支配するようになってきた。多数の者が包囲されて死は免れないことを自覚しだしたのである。記者が気づいた小さな分隊は、ちょうど交差点のバリケードを仕上げたところだった。彼らは難しい表情をして半円をつくり、死ぬまで部署を守り抜こうと誓いをたてていた。

 土曜日には、中国軍による市内の商店略奪も珍しくなくなった。それでも、住宅への侵入はなく、建物破壊も、侵入に必要な部分にとどまっていた。略奪の対象は、食料と補給物資であることは、明白であった。安全区を除き、店主が不在となった南京の商店には、食料の在庫はまだ十分残っていた。

 日本軍の集中砲撃は、日曜日の午前中も続き、西門から南門にかけて、城壁内側周辺は弾幕砲撃にさらされた。中国軍の防衛の衰えは顕著であった。外国人と接触した将校たちは、不安がつのってきていることを認め、士気の低下は明らかであった。

 日曜日正午すぎ、日本軍は堀に仮橋を渡し、はじめて城壁を乗り越えてきた。大砲による援護射撃をうけて、漢西門に近い壁をはしごを使いよじのぼった。

 付近にいた中国軍は逃走し、奔流のように市内を疾走し、安全区を駆け抜けて行った。第八八師団の部隊がこれを阻止しようとしたが、できなかった。

 まもなく下関門に向け総退却となった。退却は、しばらくは秩序あるものだった。一部分遣隊が城壁のところで戦闘を続け、月曜日朝までは、日本軍の占領を、市内のかなりの範囲でかろうじて食い止めていた。(P435)

 午後おそくには、下関門の狭い通路を大勢の中国兵が通り抜けようとして、大混乱となった。兵隊は争って門を通り抜けようとしたため、パニックとなった。兵隊は軍服をつなぎ合わせて壁をよじのぼるロープを作った。午後八時、唐将軍が密かに市を脱出し、他の高位の指揮官も同様に脱出した。

 夕方には、退却の中国軍は暴徒と化した。中国軍は完全に瓦解した。指揮官もなく、どうなっているのかさっぱり分からなかった中国軍は、戦闘が終わって、生き延びなければならないことだけは分かった。

 中国軍の崩壊により、袋のねずみとなった兵隊があらゆる犯罪を犯すのではないか、と市内の外国人たちは恐れたが、火災が少し発生しただけであった。中国軍は哀れなまでにおとなしかった。


 武装を解く

 日曜日夜、中国兵は安全区内に散らばり、大勢の兵隊が軍服を脱ぎ始めた。民間人の服が盗まれたり、通りがかりの市民に、服を所望したりした。また「平服」が見つからない場合には、兵隊は軍服を脱ぎ捨てて下着だけになった。

 軍服と一緒に武器も捨てられたので、通りは、小銃、手榴弾、剣、背嚢、上着、軍靴、軍帽などで埋まった。下関門近くで放棄された軍装品はおびただしい量であった。交通部の前から二ブロック先まで、トラック、大砲、バス、司令官の自動車、ワゴン車、機関銃、携帯武器などが積み重なり、ごみ捨場のようになっていた。

 真夜中、市内でいちばん立派な、建築費二〇万ドルの建物に火が付けられ、内部に保管されていた弾薬が何時間も爆発しつづけ、それは壮絶な光景であった。

 外にあった廃物の山にも引火して、翌日遅くまで燃え続けた。大砲を乗せたワゴン車を牽く馬も炎に包まれ、その悲鳴が状況をいっそう悲惨なものにした。下関門に通ずる幹線道路である中山路は、大火災による被害が大きく、通りぬけることができず、脇道の混雑を助長した。

 いくらかの中国部隊は下関にたどりつき、数少ないジャンク船を使い、バンドから長江を渡河したことは間違いない。しかし、多くの者が川岸でパニック状況のなかで溺死した。

 しかし、月曜日のいつごろだったか、日本軍が下関地域を占領し、城壁による囲い込みを完全なものにした。城内に取り残された中国軍は、完全に閉じ込められてしまった。下関地域で捕まった部隊は、殲滅された。


 中国兵の大量投降

 月曜日いっぱい、市内の東部および北西地区で戦闘を続ける中国軍部隊があった。しかし、袋のねずみとなった中国兵の大多数は、戦う気力を失っていた。(P436-P437)

 何千という兵隊が、外国の安全区委員会に出頭し、武器を手渡した。委員会はその時、日本軍は捕虜を寛大に扱うだろうと思い、彼らの投降を受け入れる以外になかった。たくさんの中国軍の集団が個々の外国人に身を委ね、子供のように庇護を求めた。

 日本軍は散発する小競り合いの後、月曜日遅くには、市の南部、南東部、および西部を掌握した。火曜日昼には、武装して抵抗を続ける中国兵はすべて排除され、日本軍は南京市を完全に支配するに至った。

 南京を掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に匹敵するものは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行か、それとも中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。

 無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、後ろ手に縛られて、城門の外側の処刑場に連行された。

 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に、戦車の砲口が向けられることもあった。最も一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。

 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選びだすのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見逃され、命びろいをする場合もあった。

 南京掃討を始めてから三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。

 この数字は、南京に取り残された中国軍の正確な兵力を示唆している。日本軍のいう二万五千人という数は、誇張が過ぎるかもしれないが、およそ二万人の中国兵の処刑はありそうなことだ。

 年齢、性別にかかわりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲者となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出す者は誰でも、射殺される危険があった。

 日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内をまわると、民間人の死骸を毎日のように日にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。(P437-P438)
 
  日本軍の占領の主要な犯罪は大規模な略奪であった。いったん地域が日本軍の完全支配下に入ると、そこの住宅はどこも日本兵の略奪がほしいままになされた。なにより先に食料が求められたようだが、高価な物はなんでも、ことに持ち運びの簡単な物を、勝手気ままに持ち去った。住宅に人がいる場合は強奪し、抵抗する者は射殺された。


 外国人財産も略奪される

 難民キャンプも侵入を受け、多くの場合、不運な難民はわずかな金を奪われた。防柵をめぐらした住宅も侵入され、そして外国人の建物も例外ではなかった。日本兵は、アメリカ伝道団の金陵女子文理学院の職員住宅にも押し入り、望みの品を持ち出した。

 アメリカ伝道団の大学病院も捜索を受け、看護婦の宿舎から所持品が持ち去られた。建物に翻っていた外国国旗は引き裂かれ、少なくも三台の外国人の自動車がなくなった。駐華アメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン氏宅にも五人の日本兵が侵入したが、略奪を働く前に追い払われたため、被害は懐中電灯一個であった。

 日本兵は中国婦人を好きなだけもてあそび、アメリカ人宣教師が個人的に知るだけでも、難民キャンプから大勢が連れ出されて暴行されている。

 日本軍部隊には、訓練され統制がとれているものもあり、また将校のなかには、寛容と同情の心をもって権力を和らげる者もいたと言うべきであろう。しかし、全体として南京の日本陸軍の振舞いは、国家の評判を汚すものであった。

 南京陥落後数日して当地を訪れた責任ある高位の日本軍将校および外交官は、外国人が見聞して報告したあらゆる狼籍を事実と認めている。彼の説明によると、陸軍のなかの一部が手におえなくなり、上海の司令部の知らぬ間に虐殺が行われていたという。

 南京に中国軍最後の崩壊がおとずれた時、人々の間の安堵の気持は非常に大きく、また、南京市政府および防衛司令部が瓦解した時の印象はよくなかったので、人々は喜んで日本軍を迎えようとしていた。事実、日本軍の縦隊が南門、西門から入城行進をしてくると、人々は集まって実際に歓声をあげて迎えていた。

 しかし、日本軍の蛮行が始まると、この安堵と歓迎の気持はたちまち恐怖へと変わっていった。日本軍は広く南京市民の支持と信頼をかち得ることができたかもしれなかったのに、逆に、日本への憎しみをいっそう深く人々の心に植え付け、中国の人々の「協力」をとりつけるために闘っているのだと言いながら、その「協力」を得る機会をはるか先のほうに後退させてしまった。(P438-P439)

 安全区と市内に留まった外国人たちの役割を述べないことには、南京攻撃の全貌を語ったことにはならないだろう。

 安全区は完全に成功したとまではいえなくても、それでも何千人という市民の命を救う機関とはなった。外国人推進者の目的は、攻撃の期間中、安全区は完全に非武装化し、中立的立場を尊重することであった。徹底した非武装化は達成できなかったし、戦闘の終盤では、防衛軍兵士がこの地域に雪崩れ込んだ。日本軍が市内に入ってきた時、彼らも自由に安全区に出入りした。

 しかし、日本軍は安全区を狙って集中砲撃や空襲をしたことはなかったので、そこに避難した市民は、比較的に安全だったといえる。市の西部地区に三、四マイル四方を占める安全区に避難した市民は一〇万人いたものと思われる。

 安全区委員会の責任者ラーベ氏は、南京で彼を知るだれからも尊敬される白髪のドイツ人である。局長は蘇州のジョージ・フィッチ。彼は中国生まれのアメリカ人で、非常に危険な緊張した時期に、目覚ましく活躍した。仕事は、洪水や他の災害が起きているアメリカの小さな都市を指揮することが要求されるほど、責任のあるものであった。

 委員会書記は金陵大学社会学教授のルイス・C・スマイス博士で、気迫と主導カに富む人である。安全区設立の交渉において、とくに尽力したのは、同大学歴史学教授のM・シール・ペイツ博士である。彼はまた、南京の休戦をかちとる活動の中心となって努力した。休戦期間中、中国軍部隊に撤退してもらい、日本軍に平和のうちに市を掌握してもらおうと計画したのである。

 南京攻撃中、市に留まったのは、アメリカ人特派員二人、ニュース・カメラマン一人のほかに、一五人のアメリカ人であった。他にドイツ人六人、イギリス人一人、ロシア人二人が残留外国人集団を構成していた。

 十二月十一日土曜日、パナイ号が立ち去ってからは、十二月十四日火曜日に日本の軍艦と連絡がとれるまで、この小さな外国人グループは外部との接触をもたず、南京の城内に閉じ込められた中国軍のように、袋のねずみとなった。市の水道は止まり、電気も電話もなく、主要食品の多くは入手できなくなった。

 市内の外国人は、報道関係者を除いて全員が、安全区ないしは救済の仕事に参加した。安全区の運営には、区の非武装を維持する以上の仕事があった。大勢の文無しの難民には、食事を与え住むところを手配しなければならなかった。そのうえ、警備の仕事もしなければならなかった。医療施設の設置もある。おまけに、かりそめにも銀行業務も必要であった。

 聖公会伝道団のジョン・マギー師は、外国委員会の先頭にたって、包囲攻撃中、大勢の中国人負傷兵に医療を施すという英雄的努力をした。(P439-P440)

 中国軍の負傷兵施療設備はきわめて貧弱であった。病院はあるものの、医師、看護婦の数はどうしようもないほど少なく、病院の多くは利用制限があり、特定の師団の兵隊に限られていた。

 マギー師の委員会は、包囲攻撃中、既存のいくつかの病院への医薬品の分配と、これら病院への負傷者の運搬に尽力した。それでも膨大な数の負傷者をさばくことができず、路上いたるところで目につく中国人の負傷者は、全体の悲劇的光景のなかでも、さらにおぞましいものであった。びっこをひきながら歩き回る怪我人、脇道には身を引きずるようにしてかろうじて歩いている人、大通りには何百人と死体が転がっていた。

 アメリカ伝道団の大学病院は戦闘中も開業し、一般市民の負傷者のために病院が利用できるよう努力がなされていた。しかし、若干の兵隊も入院していた。二人のアメリカ人医師(フランク・ウィルソン(訳注 正しくはロバート・O・ウィルソン)、C・S・トリマー)とアメリカ人看護婦二人(グレイス・バウアー、アイヴァ・ハインズ)はわずかの数の中国人の助けをえて、昼夜を分かたず、二〇〇人近い患者の世話をした。

 日本軍が市を占領するや、戦傷者救済委員会は国際赤十字の支部として組織され、外交部の建物内にあった中国陸軍の主要な病院を引き継いだ。配備可能な輸送手段は、町の全域にくりだして負傷兵を運び込んだ。市にまだ残っていた医師や看護婦を集め、この病院で仕事についてもらった。

 日本軍は当初、この病院を自由に活動させてくれたが、十二月十四日火曜日の朝、この場所へ外国人が立ち入ることを禁止し、中にいる五〇〇人の中国兵の運命に関与させないようにした

 安全区委員会が努力してきた休戦の斡旋は、何の実も結ぶことはなかった。蒋介石総統は委員会の休戦提案に対し、おざなりな返答をしたにすぎず、日本軍はなしのつぶてであった。唐将軍の代理が来て、将軍は休戦を切望していることを明らかにし、そして、中国軍の形勢が不利になってきていたので、調停を望む彼らの態度は、ほとんど殺気だっていた。ところが、中国軍の撤退が日本軍への屈伏を意味する条文づくりまでに交渉が発展しないうちに、中国軍の瓦解がおこった。

 ともかくも無線設備を備えたパナイ号が去ってからは、日本軍との連絡手段はまったくなくなってしまった。前線でも訪れればそれもできようが、そうするには途方もない危険がともなった。

 南京側は唐将軍宛の日本軍の最後通牒については実際なにも知らず、中国軍の司令官は返事をしていなかったようだ。(P440-P441)


 両軍の死傷者多数

 南京戦における死傷者は、両軍ともにかなりの数に達したことは間違いない。ことに中国軍の被害は甚大であった。包囲攻撃における日本軍の死傷者は、おそらく総計千人を数え、中国軍は三千から五千人、もしくはそれより多いかもしれない。

 市の南部および南西部から避難できなかった大勢の市民は殺害され、総計ではおそらく戦闘員の死亡総計と同数くらいにのぼるであろう。記者は日本軍が地域を掌握してからの市南部を訪れたが、一帯は日本軍の砲爆撃で破壊され一般市民の死骸がいたるところに転がっていた。

 南京の防衛が中国軍にとって、このような惨敗に帰した責任を、いったいどこにもっていったらよいのか、難しいところである。

 中国軍のドイツ人軍事顧問の熱心な勧告に反して、南京の防衛は挙行された。蒋総統の参謀長である白崇禧将軍は首都防衛に強く反対した。蒋総統自身は、市の防衛強化に莫大なドルをつぎこんでいること、それに、首都攻防のためにたとえ一戦なりとも交えたいことを指摘して、当初は南京での防衛に賛成であったと言われていた。

 蒋総統は、次のような観点からこうした意見を持つようになったと言われている。つまり、唐生智将軍および陸軍指導者の多くがそのような路線を主張したこと、彼らは軍隊とともに市にたてこもることを申し出たため、首都防衛戦が闘われたのだ、と南京を最もよく知る人の多くが述べている。

 確かに、蒋総統はあのような失策を犯すのを許すべきではなかった。確かに、唐将軍も犠牲を強いる路線をとったことでは強く責められるべきである。完遂もできず、せいぜいへまをやらかしたのである。

 日曜日に、唐は、日本軍が市内深くに侵入するのを阻止するため、小さな部隊を防戦にあたらせながら、総退却の配置をして、状況を救う何らかの努力ができたはずである。が、そのようことがなされた気配はない。ともかくも、状況は改善されず、唐の逃亡を彼の参謀たちにさえ知らせず、指揮官のいない軍隊を置き去りにしたことは、完全な瓦解の合図となった。

 南京攻防戦においては、双方の軍ともに、栄光はなきに等しかった。
 

(「南京事件資料集1 アメリカ関係資料編」所収)



極東軍事裁判 ダーディンの陳述

チルマン・ダーディンの陳述

昭和二十一年三月三十一日

 私は現在中国で「紐育タイムス」の通信員(中国局長)を勤めて居ます。そして昭和十二年には南京で同社の為に働いて居ました。

 私は陥落の二、三日後、中国の兵隊が四十人か五十人の団体を作って引出され、南京の揚子江近くで日本軍に依り小銃や拳銃で射殺されるのを見ました。又射たれたり銃剣で突かれたりした一般市民の死体が南京の街上に横たはって居るのを見ました。(P384-P385)

 私は日本軍が入って来た時、南京に居ました。そして夫れ迄に約三ヶ月南京に居たのです。私は同様に証言出来る目撃者の名簿を提出しました。

 私は南京占領後間もなく米国の砲艦に乗って南京を離れました。私は南京で松井大将を見ませんでした。私は南京の状況に就て「紐育タイムス」に記事を書きましたが、それは昭和十二年の十二月二十四日頃、同誌上に出ました。

 私は漢口占領の時にも其処に居りましたが、其処では中国兵の死体は沢山見ましたが、一般人の死体は見ませんでした。私は漢口の残虐事件は若しあったとしても見ませんでした。残虐が行はれたと云ふ報道はありましたが、私は一つも見ませんでした。

 「ジャック・ベルデン」は多分、上海に居ります。そして、「コリアーズ」の通信員は昭和十二年に中国に、「ユナイテッド・プレス」と共に居りました。(P385)

(『南京大残虐事件資料集』第1巻所収)
  

(2012.4.21)


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