日本軍の放火


 上海戦から南京戦にかけて多数の民家や建物が焼却され、さらに占領後の南京においても「火災」は頻発しました。ネットでは、これをなぜか、「すべて中国軍の仕業である」、と思い込んでいる方を見かけることがあります。

 中国軍が「清野作戦」なるものを実行し、多数の家屋を焼却したのは事実です。敗残兵が、撤退時に「火を放つ」ケースもあったと見られます。 しかし、「火災」のすべてを中国軍の仕業と見なすのは無茶な議論ですし、日本軍も放埓としか言いようのない「火災」を多数起こしていることは、多くの資料が語る通りです。

 以下、「日本軍の放火」に関係する資料を、何点か、紹介していきましょう。




 南京への途中で


 「上海戦」の中期、十月二十五日に、なるべく家屋・村落を焼くな、という通達が出されています。「上海方面の戦場に於ては殆と全部家屋を焼却し」との表現から、この時点で既に、日本軍にとっては「焼却」が常態化していることがわかります。

軍参謀長注意事項(昭和十二年十月二十五日)

 軍司令官の命に依り軍の作戦上必要なる若干事項に関し左に注意を述ふ

六、家屋の焼却に就て

 家屋、村落は敵か之を占拠しありて之を攻撃する為戦術上特に必要ある場合の外は成るへく之を焼却せさるを要す

 之時将に寒冷季に入らんとするに際し軍の休養及衛生上家屋、村落は極めて其利用価値大なるを以てなり

 上海方面の戦場に於ては殆と全部家屋を焼却せし為軍の後方に於ける病院設備宿営等に利用すへき家屋殆と皆無にして甚しく不利を招きつつあり 

(『毒ガス戦関係資料』P274〜P275)


 しかし実際には、この「注意事項」とは逆に、「家屋を焼却する」ことは、作戦行動の一環として行われていたようです。歩兵第六連隊では、「焼却」のための「材料」を準備するよう、指示が出されています。

歩六史編集委員会 『歩兵第六聯隊歴史』より

 第九章 上海南史の掃蕩及警備 自一二、一一、九 至一二、一二、一

十一月十日

(略)この敵情その他に基づき聯隊長は十一月十日夜十一時五十分左記のとおりの歩六作命第九〇号を下達した。

(略)

四、雑件

1.敵陣地附近に地雷埋没しあるをもつて、工兵隊は速かにこれが排除に努む。

2.一般の良民は総て城内に避難しあるをもつて、城外に在る一切の者は敵意を有するものと認め、これを殲滅す。

3.掃蕩に方りては家屋を焼却するを便とするをもつてこれが材料を準備すること。

(P585)


 実際に、「石造の町」を「石油」で強引に焼却しようとした記録もあります。歩兵第十三師団第百三旅団長、山田栴二少将の日記です。

『山田栴二日記』より

 十一月二十四日 晴

 前夜早く、焼けの何のと騒ぎしも石造の町(「ゆう」注.石造の建物が多い町、ということでしょう)はなかなか焼けず、石油午前九・〇〇頃に届きしが、斯る手配が届く頃には戦済み一〇・〇〇頃市街に火上り攻略に成功、直に前進を開始す

(『南京戦史資料集Ⅱ』P325)


 当時の『陣中日記』にも、「部落の焼打ち」の記述を見ることができます。

『歩兵第三十六聯隊 第十二中隊陣中日誌』より

 十二月十日 晴

 四、午後五時三十分、遂に光華門に日章旗揚るを見、一同意気挙る

 五、前日来の敗残兵更に一段と数を増す。午後八時三十分、鷲尾少尉兵三名率ゐクリーク前方部落の焼打ちを行ふ。

 六、東部上方鎮にて負傷せる○○、××、△△(原文実名)、本朝死亡せり。

(『南京戦史資料集Ⅱ』 P380)



 次は「部隊戦史」である『歩兵第十八聯隊史』の記述です。「放火」は、日本軍の「報復と警戒の手段」であった、との見方を示しています。

兵東政夫氏『歩兵第十八聯隊史』より

  西にむかって前進する各部隊は、つねに設営隊を先行させて行軍の円滑をはかる。また、徴発隊も編成されて食糧準備に駆けまわる。夜があけて各隊が出発すると 、放火隊は部落を焼きはらうことがしばしばであった。

 いくさとはいいながら、暴支膺懲を叫びながら、戦闘部隊は中国民衆の生活をことごとく破壊し、通り魔の集団となってすすんでいく。 それは、部隊が出発したあと、中国軍がその部落に布陣し、後続部隊がひどい損害をうけたため、それに懲りた日本軍の惨酷な報復と警戒の手段であった。

(同書 P296)



 「否定派」がしばしば持ち上げる、『「南京事件」 日本人48人の証言」にも、類似の証言があります。

上海派遣軍特務部員・岡田酉次少佐の証言

 戦闘中所々で、日本兵が中国人の家に火をつけていました。そのままにしておけば自分の寝泊まりに使えるのに、と思って取り調べてみましたが、 歩哨で立たされている時、前方の芽屋に支那兵が隠れていて、射ってくると言っていました。

 寝る場所より命が大事だから焼き払うということでしょうか。人間として、やられる前にやってしまうということは当然なのかもしれません。 

(『「南京事件」 日本人48人の証言』 P176)


 自ら「放火」を行った証言も紹介しましょう。道を聞くために「民家を起」そうとしたが、反応がない。そこで放火して二棟を全焼させた。「村民」は大騒ぎで消火を始めた。「村民」にしてみれば、大変な迷惑でしかありません。

『梶谷健郎日記』より

 十二月八日 晴

  横山村に午後八時頃着、クリーク地図と合ず、止むなく民家を起さんとせしが何れも戸締り厳重にして起き来らず。一時間の後、表戸にワラを積み之に放火し二棟を全焼せしむ。 この時犬の盛んに鳴き来れるを以て一発の元に射殺す。村民来りて盛んに騒ぎ、消火に努め居れり。

(『南京戦史資料集Ⅱ』P433)



 上海と南京の中間、無錫-丹陽方面でも、火災が頻発したようです。上官からは「今後は放火せぬ様」との指示を受け ており、一連の火災が日本軍の放火であると認識していたことを伺わせます。

石田義一氏『戦線実録』より

 二月九日 晴  昨日、火事があって夜通し赤々と燃え続けた、その明るさと共に夜が明けた。 朝食はおいしく頂けた。飯と汁があったためか。今まで毎日霜の中を歩き露営だったので昨夜はほんとうに良く眠れた。

 森田部隊本部は自動車で鎮江一番乗りをする、相当の激戦だったと聞いた。

 一二月一〇日 晴  本日は無錫にて休養となった。一三時より一五時まで外出の許可があったので外出をする、 外出先で酒造工場へ入り黄色なロー酒(みかん酒)を一斗かめに入っているのをそのまま持ち帰り、呑んだり、その残り酒で腕を拭いた、酒で洗ったために毛孔が塞がったのか、夜熱が出て困った。罰が当ったのかと思う。

 一二月一一日 晴  七時、日の出とともに出発、無錫よさらば、各地に火事があって赤々と燃えていた。足の痛いのを無理して歩き、十七時製糸工場に入り泊る。

 一二月一二日 晴  八時出発、本日常州まで行程五里(二〇粁)歩いて見たが今日は駄目だ。自動車で行き一四時三十分常州着、 入浴した時の心地良さ、本日のニュースで蒋介石降伏すとあったので祝杯をあげる。

 一二月十三日 晴  森田部隊は鎮江一番乗りの余力をもって南京へ急進し南京攻略戦に参加する。 我々は常州にて休養、晴天なので身も心も朗らかで外出をかねて、野菜の徴発にでかける。明日は早く出発ときき皆早く床に入った。

 一二月十四日 晴  南京攻略も戦況が有利で、占領も時間の問題となる。 四時に出発、二時間後には敵兵二千名我が方向へ進むとの情報にて時こそ来たりと全員が張切る。自分は自動車で金塙へ着き、乗り換えて一四時に丹陽着、一七時三〇分部隊宿舎に到着した。うれしくて夜は楽々と休むことができた。

 一二月一五日 晴  早朝誰が放火したのか火事があり、三時間も燃え続けた。丹陽の町もすっかり焼き払われて死体が至る所ごろごろと散乱し目も当てられぬ有様である。焼け残りの家は少なくて日本軍の宿舎にも足らず、今後は放火せぬ様にと注意された。徴発品はなくて今迄にない惨めな町の情景であった。中隊は一五時三〇分の到着した。

(P34〜P35)

*筆者は、高田歩兵第三〇連隊野戦瓦斯第五中隊所属。


 これらの「放火」には、「面白半分」のものも混じっていたのかもしれません。 読売新聞の記者として従軍した小俣行男氏が、リアルな記述を残しています。

小俣行男氏『侵掠』より

「隊長、ニ、三軒焼かせてください」
(略) 
 こうして、部隊から部隊へ、取材のために訪れたのだが、そこで私が耳にしたのは、暗い、残虐な話が多かった。

 上海陥落と同時に東京部隊(ゆう注 第一〇一師団)は抗州を攻めた。 軍の進路にあたった部落は片っ端から焼き払われていった。ときには道路の両側の家が燃え上がって、あとからきた部隊が前進できず、部落の入口で停止したり、迂回しなければならないこともあった。 戦場では、人間の気持を狂わせてしまうこともあった。

「隊長、自分は火事をみないと眠れません。今夜もニ、三軒焼かせてください」。

そんなことをいう兵士もいた。


 江南地方は五十キロ行っても百キロ行っても水田や畑がつづき、山も、木も見当らなかった。しかし土の家も柱やハリには木を使っていた。いったいそれらの木はどこから運んでくるのだろう。一軒の家を建てるのに、どれほどの苦労がともなうか想像に難くない。

 ところが、兵士たちは面白半分に放火し、恨みもない民家を焼いた。日本軍がどこまで進撃したかを知るには煙をみればわかるともいわれた。部落、部落に火を放って前進するので、進路にはつぎつぎに煙が上ってゆくからだった。
(同書 P27)



「皇軍の威信にかかわる、あの村を焼け」

 上海にほど近い松江には砲兵部隊が駐屯していた。隊長はそのころ右翼のリーダーの一人で知られた大日本青年党の橋本欽五郎大佐。召集されて部隊長として戦線にやってきた。

  その部隊の兵二名が、部隊をそっと脱け出して女を探しに行った。ある部落で姑娘を見つけて抱いているところを部落のものに襲われて殺された。

 もちろん、その兵隊の行為は軍律違反だ。しかし、そのことを知った橋本大佐は激怒した。兵も悪いが、それを殺した部落の住民を見逃がすわけにはいかない。

「”皇軍”の威信にかかわる。こらしめてやれ」。

 大佐は高い塔にのぼって、「やられたのはどの部落だ。焼き払ってしまえ!」とどなった。

 「あの辺から、この辺まで―」。塔の上から指さす。たちまち命令が出され、放火隊が動員された。その夜、えんえん二里余にわたって、街も村もいっせいに燃え上った。塔の上の大佐はローマを焼いた暴君ネロにも似た姿で、この火を眺めていたのだろうか―。

(同書 P27〜P28)


 指揮官にとっても、このような不規律な「放火」は、悩みのタネだったのでしょう。「幕府山事件」で有名な、山田旅団長の日記です。

『山田栴二日記』より

 十二月八日 晴

 又従来の如き田舎道を六里、夏野鎮に出て更に常州よりの本道に出て商家村に宿営す、ますますの田舎なり、宿営力も乏し

 連日沿道の火災多く、皇軍らしからざる仕業多きを認め、改めて厳重なる注意を諸隊に与ふ、行程七里
 
(『南京戦史資料集Ⅱ』P329〜P330)



 十二月二十四日 午後より晴

 終日滞在、十日以来の日誌を整理す、新年の「東日」に出す色紙を書かされたり、「尽忠報国」と書く

一、予後備兵のだらしなさ

 1.敬礼せず
 2.服装 指輪、首巻、脚絆に異様のものを巻く
 3.武器被服の手入れ実施せず赤錆、泥まみれ
 4.行軍 勝手に離れ民家に入る、背嚢を支那人に持たす、牛を曳く、車を出す、坐り寝る(叉銃などする者なし)
 5.不軍紀 放火、強姦、鳥獣を勝手に撃つ、掠奪

(『南京戦史資料集Ⅱ』P333〜P334)
 

 

 
南京占領後の「放火」


 このような火災は、南京占領後も、収まることはありませんでした。当時の日本側の記録を見ると、これを「中国軍敗残兵の仕業」とみなす記述も散見されますが、外国人たちは「日本軍の組織的放火」として認識していました。

 これが「組織的」と呼べるものであったかどうかはともかくとしても、何件かは、外国人などによって「放火」現場が目撃されたこともあったようです。


 まず、ラーベ日記から、「火災」に関する記述をピックアップしてみましょう。頻発する火事を、ラーベは日本軍の仕業であると考え、そのうち少なくとも一件は、実際に自分で現場を目撃しています。

ジョン・ラーベ『南京の真実』より

 十二月二十一日


 日本軍が街を焼きはらっているのはもはや疑う余地はない。たぶん略奪や強奪の跡を消すためだろう。昨夜は、市中の六ヶ所で火が出た。

 夜中の二時半、塀の倒れる音、屋根が崩れ落ちる音で目が覚めた。わが家と中山路の間にはもう一ブロックしか家が残っていない。そこに燃え拡がるおそれがあったが、運良く難をのがれた。 ただし、火花が舞い、飛び散っているので、藁小屋とガソリンはますます危険な状態だ。気が気ではない。何としても、ガソリンだけはどこかほかに移さなくては。 (P149)

 午前中にガソリンを残らず本部へ移させた。中山路でこれからまだ相当数の家が焼け落ちるのではないかと心配だからだ。そういう火事の前兆はもうわかっている。突然トラックが何台もやってくる。それから略奪、放火の順だ。 (P151)

 十二月二十三日

 六時。家へむかって車を走らせていると、中山路の橋の手前が炎に包まれていた。ありがたいことに、風向きはわが家と逆方向だった。火の粉が北へ舞っている。同じころ、上海商業儲蓄銀行の裏からも火の手があがっていた。 これが組織的な放火だということぐらい、とっくにわかっている。しかも橋の手前にある四軒はすでに安全区のなかにあるのだ。 (P157)

 十二月二十七日

 今日、張と韓が、新街口(ポツダム広場)に日中合弁商店ができて、ありとあらゆる食料品が買えると知らせに来た。私は韓といっしょに確かめに行った。 そして−はからずも、この建物に放火する現場を目撃したのだ! 日本軍はこの街を破壊しようというのか! (P170)

 一月二日

 日本軍の略奪につぐ略奪で、中国人は貧乏のどん底だ。自治委員会の集会がきのう、鼓楼病院で開かれた。演説者が協力ということばを口にしているそばから、病院の左右両側で家が数軒焼けた。軍の放火だ。 (P185)

 一月四日

 あいにく、わが家は安全区のはじにある。そのうち、火の手がのびてくるのではないかと不安でたまらない。きのう、またしても近所で三軒放火された。いまこうしているうちにも、南の方で新たに煙がたちのぼっている。 (P189)

 一月十七日

 昨日の午後、ローゼンといっしょにかなり長い間市内をまわった。すっかり気が滅入ってしまった。日本軍はなんというひどい破壊のしかたをしたのだろう。あまりのことに言葉もない。近いうちにこの街が息を吹き返す見込みはあるまい。

 かつての目抜き通り、イルミネーションなら上海の南京路にひけをとらないと、南京っ子の自慢の種だった太平路は、あとかたもなく壊され、焼き払われてしまった。無傷の家など一軒もない。見わたすかぎり廃墟が広がるだけ。 大きな市が立ち、茶店が建ち並んでいた繁華街夫子廟もめちゃめちゃで見るかげもない。瓦礫、また瓦礫だ! いったいだれが元通りにするというんだ!

  帰り道、国立劇場と市場の焼け跡によってみた。ここもなにもかもすっかり焼け落ちていた。南京の三分の一が焼き払われたと書いたが、あれはひどい思い違いだったのではないだろうか。 まだ十分調べていない東部も同じような状態だとすると、三分の一どころか半分が廃墟と化したといってよいだろう。 (P215〜P216)

 一月十八日

 ほうぼうで煙が立ち昇っている。あいかわらず景気良く放火が続いているのだ。 (P217)

*「ゆう」注 英訳版と比較すると、上の翻訳には、怪しげな部分、俗訳となっている部分が散見されるのですが、私の語学力では翻訳しなおすのも大変な作業になりそうですので、とりあえずこのまま掲載します。 厳密な議論をされたい方は、直接原典(ドイツ語)に当たることをお勧めします。


 フィッチも、同様の「目撃」証言を残しています。

『フィッチの手記』より

 十二月二十日、月曜日。蛮行と暴力はとどまるところなく続いています。市の全域が組織的に焼き払われているのです。

 午後五時にスミスと私は車ででかけました。市内でもっとも繁華な商店街である太平路一帯は炎上しておりました。われわれは火の粉が雨のように降るなかを燃えがらの上を草で走ってゆきました。

 もっと南方では、兵士たちが商店に入っていって放火するさまを見ることができましたし、さらに、さきでは兵士たちは略奪品をトラックに積みこんでいました。

 次にYMCAにゆくと、そこも炎上中でしたが、これはほんの一時間か二時間前に放火されたことはあきらかです。まわりの建物はまだ無傷でした。私はこうしたものを見ているにしのびなかったので、いそいで通り過ぎました。

 その夜、私が窓ごしに数えてみますと、火の手が一四ヵ所に上っておりましたが、そのいくつかのものはかなりの範囲におよんでいた。 (『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』 P36)


 すでに一月十一日となって、事態は非常に改善されているとはいえ、暴行のなかった日は一日としてありませんでしたし、また暴行のうちのあるものはきわめて忌わしいものでありました。

 アメリカ大使館の三人の代表が六日に到着し、九日には英国大使館とドイツ大使館の三人の代表も到着しましたので、事態がさらに改善されるという保証をわずかながら感じています。

 しかし、つい昨夜、私が自動車で通ったところ、放火されたばかりのところが四ヵ所もあり、また兵隊たちが一軒の商店に入って五つ目の放火をはじめるところを見ました。

 十二月十九日以来、日本兵によって放火がおこなわれなかった日は一日もありませんでした。 (同 P42〜P43)




 ウイルソンの記述を見ると、「放火」の目撃例は、上の例以外にもあったようです。

金陵大学病院からの手紙

ロバート・O・ウィルソン医師

十二月二十一日


  これまでに市の半分以上が焼け落ちた。商業地区はいずれも大火にあっている。私たちのグループは日本兵が火をつけるところを何件か実際に目撃している。

 きのう食事で家に戻る途中、一二件の火災が数えられた。今晩同じ時間に八件を数えた。そのうちの何件かは一区画全体の火災だ。付近の商店は大方が火災でやられている。

(『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』 P284)
 



 日本軍南京占領後の事件として有名なのが、一月一日のソ連大使館焼失事件です。許伝音証人は、極東国際軍事裁判にて、自分は日本軍兵士の放火現場を見た、と証言します。

極東国際軍事裁判 許伝音証言より

○サトン検察官 それではあなたは日本軍の兵隊に依つて南京市の占領後破壊されました建物を御覧になりましたか。

許証人 日本兵が「ロシア」の公使館に火を付けるのを私は目撃しました。彼等は其の建物に油を注ぎ掛け、そして火を付けたのであります。 此の事件は一九三八年一月一日十二時頃でございます。此の外YMCAのやうな色々の団体或は有力者の家が次々と焼かれてしまつたのであります。

サトン検察官 是等の建物は日本軍に依り南京占領後に焼かれたものでありますか。

許証人 其の通りであります。是等の無茶苦茶な破壊行為は日本軍が入つてからずつと後に起つたのであります。 

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P32)


 この事件に対応する、日本軍側の記録を見ます。上海派健軍参謀・飯沼守少将は、最初は、こんなところに日本兵が入り込むはずがないから日本兵の仕業ではない、と考えていましたが・・・。

『飯沼守日記』より

◇一月元旦 朝霧後快晴

 今日午後ソ連大使館焼く、此処は日本兵決して入り込まさりし所なれは証拠隠滅のため自ら焼きたるにあらすやと思わる。

 他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑いあるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり。唯米国のみは四囲の状勢已むを得さるも当時番人の親戚等五、 六十人入り込み居たる関係上敗残兵ありとの噂に依り進入したるも米大使館と判り直に引き上けたりと云ふこととす。自動車其他番人の損害等は兎も角返すこととす(方面軍特ム部の処置)。

 (『南京戦史資料集』 P231〜P232)
 


 その後、大使館の裏手の「私邸」で勝手に「食料徴発」を行う末端兵士の報を聞いて、 何でこんなところに入り込むのか「不可解」、と「確信」をゆるがす記述を残す結果になりました。

『飯沼守日記』より

◇一月四日 快晴


 一〇・〇〇過特務部岡中佐来り ソ連大使館焼失に就ての取調と米国大使館員(五日来る筈)と接衝の為来りしとて午前一・〇〇迄話して帰る。

 同中佐ソ連大使館に到りし時裏手の大使かの私邸に笹沢部隊の伍長以下三名入り込み食料徴発中なりしと、今に到り尚食糧に窮するも不思議、同大使館に入り込むも全く不可解。

(『南京戦史資料集』 P233)
 




 
付記  中国軍の「清野作戦」


 さて、日本軍の「放火」と同時に、中国軍によって「清野作戦」なる焦土戦術が行われたのは事実です。ナポレオン戦争時のロシア軍の「モスクワ焼き払い」を想起させますが、こちらにはほとんど軍事上の効果はなく、 いたずらに民衆を苦しめるだけの結果となりました。

 ただし、ネットの世界では、しばしばその規模や効果を誇大に考える記述を目にします。よく誤解されるようですが、中国軍は、「南京の周囲16キロ四方」をすべて焼き払ったわけでも、この「周辺地域」が完全に無人化したわけでもありません。

 「清野作戦」の記録はほとんどなく、大半の論者が、ダーディンの記事を手掛かりにその「規模」を推察しているようです。以下、「作戦」の規模・性格を確認するために、ダーディンの記事 のうち関連部分を掲載しておきます。
*念のためですが、「清野作戦」を取り上げる論者の意図は、結局のところ、「一方で中国軍もこんな無茶をやっていた」と主張することにより 、「南京事件」における日本軍の暴虐ぶりを少しでも相殺しようとするものがほとんどであるように思います。
 


『ニューヨークタイムズ』1937年12月7日付  F・ティルマン・ダーディン

 十二月七日、火曜日、南京発。(略)

 湯山と南京の間、公路沿いにだいたい一マイルおきに堡塁が設けられている。首都に近づくと、中国軍に放たれた火が激しく燃え盛っていた。敵軍が遮蔽物に使いうる農村の建物を清除しているのである。 ある谷では一村が丸々焼けていた。木々や竹林は切り倒され、竹の切り株は日本軍歩兵を妨害するべく鋭い刃物状にされた。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P387)


『ニューヨークタイムズ』1937年12月7日付  ヒュー・バイアス

 十二月七日、火曜日、東京発。昨晩、日本軍前衛部隊は南京の郊外四マイルから、この町が黒い煙に覆われているのを見た。 今朝、防衛軍は長江北岸の防備を固めるとの名目の下に、急いで渡江して行ったと言われる。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P388)


『ニューヨークタイムズ』1937年12月8日付  F・ティルマン・ダーディン

 十二月八日、水曜日、南京発。(略)

 焼却はさらに続く


 中国軍による防衛線内の障害物の焼却が続けられていた。中山陵園の中国高官の宏広な邸宅も昨夕燃やされたところに含まれる。

 南京は深い煙の層によって囲まれた。昨日、中国軍が半径一〇マイル以内の町の建物や障害物を焼き払い続けたからだ。

 本記者は車で前線に行く途中、中山門外、中山陵東南の谷全体が燃えているのを見た。中山陵南の主要公路上の孝陵衛の村は、一面煙る廃墟と化し、事前に避難しなかった住民は、 その僅かばかりの哀れな持ち物を背に南京に向かって道にあふれ、ときおり立ち止まっては、もといた家のほうを悲しげに見やるのであった。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P390)


『ニューヨークタイムズ』 ハレッド・アベンド

 十二月十日、金曜日。(略)

 早朝の日本軍偵察機の報告では、南京城内には無数の火が新たに燃えだしており、城内の軍の移動は、たとえあったとしても、立ちのぼる煙のため看取されない、という。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P396)


『ニューヨークタイムズ』

 十二月十日、金曜日、南京沖、米国砲艦パナイ号発。(略)

 昨晩、南京は北と東方面が火に囲まれた。火は激しく燃え盛り、赤々と輝く炎と煙の幕を吹き出した。

 (『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P398)


『ニューヨークタイムズ』1937年12月12日付  F・ティルマン・ダーディン

 十二月十二日、日曜日、南京発。(略)

 燃え盛る新たな火

 市周辺各所に新たに起こった火は、あらゆる建物を焼却して攻撃通路を妨げる中国側の政策が続いていることを示した。南京から紫金山の炎が見え、焼却作戦がそこにまで及んだことを物語った。山麓の森は火を放たれていた。

 南京対岸の浦口の長江岸全体が、埠頭や倉庫も含め燃えていた。明らかに中国軍の放火によるものだ。かかる全面的破壊をどう説明してよいかに窮し、日本の手先が浦口その他に放火したのではないか、と見る観察者もいる。

 下関のほぼ半分は燃やされたが、中国側は外国人財産に火が及ばないように注意している。下関のスタンダード石油会社のビルとアメリカ協会施設は今のところ無事である。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P402)

 
『ニューヨークタイムズ』1938年1月9日付  F・ティルマン・ダーディン

 上海十二月二十二日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

 (略)

  中国軍、焼き払いの狂宴

 日本軍が句容を通過し、さらに進撃したことは、中国軍に放火の合図を送ったことになった。これは城壁周辺での抵抗の最後の準備であったことは明らかだ。

 中国の 「ウェスト・ポイント」 である湯山には、砲兵学校、歩兵学校、蒋総統の臨時の夏季司令部が置かれていたが、ここから一五マイル先の南京にかけての地方は、ほとんどの建物に火がつけられた。 村ごとそっくり焼き払われたのである。中山陵公園にある兵舎と官舎、近代科学兵器学枚、農事研究実験所、警察訓練学校、その他多数の施設が灰燼に帰した。焼き払いのたいまつは南門周辺や下関でも使われた。これらの地区は、そこだけで小さな町をなしていた。

 中国軍の放火による財産破壊を計算すると、簡単に二千万、三千万ドルを数えることができるが、これは日本軍の南京攻略に先駆けて、数ヵ月間にわたって行われた南京空襲の被害より大きい。 しかし、おそらくこれは、南京攻撃中の爆撃の被害や市占領後における日本軍部隊による被害に匹敵するだろう。

 中国軍部は、市周辺全域の焼き払いは軍事上の必要からだと常に説明していた。城壁周辺での決戦において、日本軍に利用されそうなあらゆる障害物、援護物、設備はすべて破壊することが肝要であるというのだ。 このため、建物だけでなく、樹木、竹薮、下草までが一掃された。

 中立的立場の者からみると、この焼き払いは大部分が、中国のもう一つの「大げさな宣伝行為」であり、怒りと欲求不満のはけぐちであったようだ。 中国軍が失い、日本軍が利用するかもしれないと思われるものは、ことごとく破壊したいという欲望の結果であり、極端な「焦土」政策は、日本軍に占領される中国軍の地域は、役にたたない焼け跡だけにしておきたいということである。

 ともかくも、中立的立場の者の間では、中国軍の焼き払いは軍事的意義がほとんどないという見方で一致している。 多くの場合、焼け焦げた壁はそのまま残り、火災を免れた建物と同様に、機関銃兵にとり格好の遮蔽物となった。

 十二月六日月曜日、七日火曜日、日本軍は東流鎮、淳化鎮、秣陵関へと侵攻を押し進め、鎮江を占領して左側面を固めた。中国軍は鎮江から退却する時、ここでも焼き払いの狂宴に熱中した。 一方、日本軍の右側面は、広徳付近で中国軍を撃破し、一気に蕪湖に押し寄せ、木曜日、金曜日にはここを占領した。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P431〜P432)


『ニューヨークタイムズ』1938年1月9日付  F・ティルマン・ダーディン

 上海十二月二十二日発 ニューヨーク・タイムズ宛航空便

 (略)

  中国軍の崩壊により、袋のねずみとなった兵隊があらゆる犯罪を犯すのではないか、と市内の外国人たちは恐れたが、火災が少し発生しただけであった。中国軍は哀れなまでにおとなしかった。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P436)


 以上の記事群を見ると、「中国軍による大規模な焼払い」自体は事実であるとしても、「南京周辺をすべて焼払う」というレベルまでは達していない、と判断するのが妥当でしょう。
 
 例えば、激戦地であった「南門」方面でも、その「先」は「大して焼失していない」との報告もあったようです。

南京安全区国際委員会 『第六十六号文書 現在の状況にかんする覚書』より

1938年2月8日正午

 今朝、南門を出たある西洋人の報告するところでは、城外にはより多くの住民がおり、南門の先は大して焼失していないとのことである。

(『南京大残虐事件資料集 第2巻 英文資料編』 P205)
 




 日中両軍の「焼払い」のどちらがより規模が大きかったのかという「量的比較」は不可能ですが、参考までに、 「スマイス報告」における、外国人たちの見方を確認しておきましょう。南京周辺の「火災」の原因を日中両軍双方に求めていますが、数々の資料と照らし合わせると、この見方は概ね妥当なものであると考えていいと思います。

『南京地区における戦争被害』(スマイス報告)より


ま え が き

(略)

 しかし、国際委員会の知るところでは、中国側は声明を発表し、そのなかで南京地区住民の被害について日本側に対してのみ大げさな非難をあびせている。 また日本側も声明を発表して、中国側が放火・略奪を行ったのを日本側が善意から阻止したといっている。以下の報告が両者に悪用されるのを防ぐために、調査で記録された被害の原因について簡単に事実を述べておくことが必要と思われる。

 南京の城壁に直接に接する市街部と南京の東南部郊外ぞいの町村の焼き払いは、中国軍が軍事上の措置として行ったものである。 それが適切なものであったかなかったかはわれわれの決定しうることではない。 市の東南の道路にそっておこなわれた軍事行動と四日間にわたった南京市に対する控えめではあるが容赦のない攻撃による住民の生命および財産の損害は、きわめて少なかった。

  事実上、城内の焼払いのすべてと近郊農村の焼払いの多くは日本軍によって数次にわたりおこなわれたものである(南京においては入城から一週間すぎて十二月十九日から二月初めまで)。 調査期間中の全域にわたっておこなわれた略奪の大半と、一般市民にたいする暴行は、実際のところすべて日本軍の手によっておこなわれた。そのようなやり方が正当なものであるかそうでないかについては、 われわれの判定を下すところではない。

 一月初旬以来、中国人市民による略奪と強盗がはじまり徐々にひろがった。その後、とくに三月以降は燃料争奪戦のために空家になっていた建物の骨組みに大きな被害が出た。 また、後には農村部において深刻な強盗行為が増加し、今では日本軍の強盗と暴行に匹敵し、時にはこれをしのぐほどになっている。 この報告の一部にはこうした原因の諸要素も見られるのである。

 われわれは人道主義の立場から敢えて指摘するのであるが、実際の戦闘行為から生じた生命および財産の損失は、この調査では全体の一、二パーセントだということである。 その他については、もし双方が、憲兵と警察による適当な保護をも含めて、一般市民の福祉を十分考慮することを望んだならば阻止できたものである。

(略)

(M.S.ベイツ)

(『南京大残虐事件資料集Ⅱ』 P212〜P213)


(2006.4.8)


HOME 次へ