日 本 軍 の 放 火 |
上海戦から南京戦にかけて多数の民家や建物が焼却され、さらに占領後の南京においても「火災」は頻発しました。ネットでは、これをなぜか、「すべて中国軍の仕業である」、と思い込んでいる方を見かけることがあります。 中国軍が「清野作戦」なるものを実行し、多数の家屋を焼却したのは事実です。敗残兵が、撤退時に「火を放つ」ケースもあったと見られます。 しかし、「火災」のすべてを中国軍の仕業と見なすのは無茶な議論ですし、日本軍も放埓としか言いようのない「火災」を多数起こしていることは、多くの資料が語る通りです。 以下、「日本軍の放火」に関係する資料を、何点か、紹介していきましょう。
「上海戦」の中期、十月二十五日に、なるべく家屋・村落を焼くな、という通達が出されています。「上海方面の戦場に於ては殆と全部家屋を焼却し」との表現から、この時点で既に、日本軍にとっては「焼却」が常態化していることがわかります。
しかし実際には、この「注意事項」とは逆に、「家屋を焼却する」ことは、作戦行動の一環として行われていたようです。歩兵第六連隊では、「焼却」のための「材料」を準備するよう、指示が出されています。
実際に、「石造の町」を「石油」で強引に焼却しようとした記録もあります。歩兵第十三師団第百三旅団長、山田栴二少将の日記です。
当時の『陣中日記』にも、「部落の焼打ち」の記述を見ることができます。
次は「部隊戦史」である『歩兵第十八聯隊史』の記述です。「放火」は、日本軍の「報復と警戒の手段」であった、との見方を示しています。
「否定派」がしばしば持ち上げる、『「南京事件」 日本人48人の証言」にも、類似の証言があります。
自ら「放火」を行った証言も紹介しましょう。道を聞くために「民家を起」そうとしたが、反応がない。そこで放火して二棟を全焼させた。「村民」は大騒ぎで消火を始めた。「村民」にしてみれば、大変な迷惑でしかありません。
上海と南京の中間、無錫-丹陽方面でも、火災が頻発したようです。上官からは「今後は放火せぬ様」との指示を受け ており、一連の火災が日本軍の放火であると認識していたことを伺わせます。
これらの「放火」には、「面白半分」のものも混じっていたのかもしれません。 読売新聞の記者として従軍した小俣行男氏が、リアルな記述を残しています。
指揮官にとっても、このような不規律な「放火」は、悩みのタネだったのでしょう。「幕府山事件」で有名な、山田旅団長の日記です。
このような火災は、南京占領後も、収まることはありませんでした。当時の日本側の記録を見ると、これを「中国軍敗残兵の仕業」とみなす記述も散見されますが、外国人たちは「日本軍の組織的放火」として認識していました。 これが「組織的」と呼べるものであったかどうかはともかくとしても、何件かは、外国人などによって「放火」現場が目撃されたこともあったようです。 まず、ラーベ日記から、「火災」に関する記述をピックアップしてみましょう。頻発する火事を、ラーベは日本軍の仕業であると考え、そのうち少なくとも一件は、実際に自分で現場を目撃しています。
フィッチも、同様の「目撃」証言を残しています。
ウイルソンの記述を見ると、「放火」の目撃例は、上の例以外にもあったようです。
日本軍南京占領後の事件として有名なのが、一月一日のソ連大使館焼失事件です。許伝音証人は、極東国際軍事裁判にて、自分は日本軍兵士の放火現場を見た、と証言します。
この事件に対応する、日本軍側の記録を見ます。上海派健軍参謀・飯沼守少将は、最初は、こんなところに日本兵が入り込むはずがないから日本兵の仕業ではない、と考えていましたが・・・。
その後、大使館の裏手の「私邸」で勝手に「食料徴発」を行う末端兵士の報を聞いて、 何でこんなところに入り込むのか「不可解」、と「確信」をゆるがす記述を残す結果になりました。
さて、日本軍の「放火」と同時に、中国軍によって「清野作戦」なる焦土戦術が行われたのは事実です。 ナポレオン戦争時のロシア軍の「モスクワ焼き払い」を想起させますが、こちらにはほとんど軍事上の効果はなく、 いたずらに民衆を苦しめるだけの結果となりました。 ただし、ネットの世界では、しばしばその規模や効果を誇大に考える記述を目にします。よく誤解されるようですが、中国軍は、「南京の周囲16キロ四方」をすべて焼き払ったわけでも、この「周辺地域」が完全に無人化したわけでもありません。 「清野作戦」の記録はほとんどなく、大半の論者が、ダーディンの記事を手掛かりにその「規模」を推察しているようです。以下、「作戦」の規模・性格を確認するために、ダーディンの記事 のうち関連部分を掲載しておきます。 *念のためですが、「清野作戦」を取り上げる論者の意図は、結局のところ、「一方で中国軍もこんな無茶をやっていた」と主張することにより 、「南京事件」における日本軍の暴虐ぶりを少しでも相殺しようとするものがほとんどであるように思います。
以上の記事群を見ると、「中国軍による大規模な焼払い」自体は事実であるとしても、「南京周辺をすべて焼払う」というレベルまでは達していない、と判断するのが妥当でしょう。 例えば、激戦地であった「南門」方面でも、その「先」は「大して焼失していない」との報告もあったようです。
日中両軍の「焼払い」のどちらがより規模が大きかったのかという「量的比較」は不可能ですが、参考までに、 「スマイス報告」における、外国人たちの見方を確認しておきましょう。 南京周辺の「火災」の原因を日中両軍双方に求めていますが、数々の資料と照らし合わせると、この見方は概ね妥当なものであると考えていいと思います。
(2006.4.8)
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