中国は「合同調査」を拒否したか? |
まず最初に結論を書きますが、私の知る限りでは、日本政府、もしくはそれに準じる機関が、日本政府の意思を代表した形で正式に「合同調査」の提案を行い、 その上で「中国側」がそれを拒んだ、という事実は存在しません。 ※2020.5.16追記 2006年10月に『日中歴史協同研究』プロジェクトが発足し、2010年にその報告書が公表されていますが、上の文はそれ以前に書いたものです。 にもかかわらず、掲示板では、「中国側が合同調査を拒否している」という表現が、しばしば見られます。この表現は、どうやら田中正明氏の次の文から来ているようです。
日本側のある程度公的な機関が、日本政府の意を受けて正式な「合同調査」の申し入れを行ったが、中国側はこの真摯な提案を「政治的に決まっている」という無茶な言い方で拒絶した・・・ この文章を読んだ方は、そんな印象を受けると思います。 しかし、田中氏がつくりだすこの印象と実際の経緯との間には、大きな落差があるようです。 丹羽氏の論稿「孫平化氏との激論3時間」をもとに、その経緯を確認しておきましょう。 論稿は、まず、こう始まります。
メンバーから、この「訪中団」の性格が伺えます。どちらかと言えば、右派・反中として知られる人々。これだけの面々が揃ったら、さすがに中国側も警戒するかもしれません。 それはともかく、これは日本政府の意を受けた訪問ではなく、単なる私的な訪問である、ということにご注意ください。 また訪問目的も、別に「南京事件」について話し合いを持つことではなく、「はからずも」討論になってしまったようです。 孫平化氏への「表敬訪問」は6月13日に予定されていましたが、それに先立つ6月11日の「中国人民外交学会」主催の「歓迎会」席上、早くも「訪中団」と孫氏は衝突してしまいます。 きっかけとなったのは、訪中の直前に行われた「奥野発言」をめぐる論議です。到着時の中国側の歓迎あいさつの中に、「最近、不愉快なこともありましたが・・・」という「奥野発言」を意識した発言があり、 続く夜の歓迎会で、訪中団側がこれに対して「説明」を試みたようです。 しかしこの「説明」に、孫氏は反発してしまいました。
丹羽氏の記述によれば、訪中団側は、「おだやかで礼儀ただしい表現」で「中国側の理解を得よう」とする発言を行ったとのことで、孫氏がなぜか突然一方的に怒り出したよう な表現となっています。そのあたりの経緯はよくわかりませんが、ともかくも、訪中団側の発言が、孫氏をいたく刺激してしまったようです。 「強盗」発言に、今度は訪中団側が反発しました。
さて、もはや「表敬訪問」では済まない雰囲気になってきました。6月13日、いよいよ「中日友好協会」への訪問が行われますが・・・。
「訪中団」は、単なる「表敬訪問」となるはずだった席で、いきなり喧嘩を仕掛けました。 一応文中には、「きわめて穏やかに、そして、きわめて礼儀ただしくこのことを求めた」という、とってつけたような表現がありますが、発言内容は要するに「喧嘩」です。
こんな調子で、両者の溝が埋まる気配は一向にありません。その後、「表敬訪問が意味をなさなくなったため、われわれは退席しかけた」という場面もあったようです。 結局は「ひき続き議論をたたかわすことに」なったのですが、雰囲気はとても「友好」どころではありません。 こんな中で、丹羽氏は、突然中国側に「要請」を行いました。
次が、いよいよ「合同調査」です。
いずれも、もし万一日本政府が「公式」にこんな言い方をしたら、たちまち大変な外交問題になりそうな「要請」です。当然、中国側がこれを受け入れるわけがありません。
「中国側の主張はでたらめだから再調査しろ」「いや、そんな必要はない」というレベルの、ほとんど「売り言葉に買い言葉」の世界です。 氏が本当に「合同調査」を実現させたいのでしたら、もう少し交渉のしようもあったのではないか、と思います。 要するに、丹羽氏は、「私人」としての立場で、それも単なる「表敬訪問」の場で、中国側から見れば唐突に、しかも中国側を批判する形で「合同調査」の提案を行ったに過ぎません。 そもそも丹羽氏は、具体的にどのようなメンバーでのどのような内容の「合同プロジェクト」をイメージしていたのでしょうか。 実際のところ、東中野氏や田中氏あたりと(「歴史学者」ではありませんが)、中国側の「歴史学者」が「合同」して、何か有意義なものが生まれるとはとても思えません。 私には、初めから「拒絶」を予定した、為にする提案のように思われるのですが・・・。 さて、この時の会談については、次のような記述もあります。
丹羽氏の論稿とも異なる表現で、かつソースが示されていません。次の論稿を見ると、どうやらこちらは、丹羽氏と共に訪中した村松剛氏の「講演テープ」に基くものであったようです。
ここに紹介される孫発言は「中国共産党の決定でもう決まっているんだ」といういかにも一方的な発言となっており、丹羽氏の紹介とはややニュアンスが異なります。 この「村松講演」が実際の会談から4年もあとのことであることを考えると、丹羽氏の紹介の方が正確なのではないか、という気はしますが・・・。 例えこの発言が事実だったとしても、あのように険悪な雰囲気の中での発言ですので、これは割り引いて考えるべきでしょう。 東中野氏は、これに続けて「南京「虐殺」は政治的に決定された事実となっている」との記述を行い、 あたかも孫発言が中国政府の公式見解の一環をなすかのような印象操作を行っていますが、これはちょっと行き過ぎであると考えます。 念のためですが、田中氏が紹介する「孫発言」を、あらためて振り返ってみます。
田中氏は、ソースとして丹羽氏の論稿を明記しました。丹羽氏による孫発言の紹介は、 「中国では盧溝橋や南京にそのための歴史博物館まで建てて、日本軍の非を示す展示をしているほどであるから、 そのような協同調査プロジェクト案を受けいれる余地はない」ですから、田中氏の紹介は全く正確さを欠きます。 実際のところ、田中氏の紹介する孫発言は、「丹羽論稿」と「村松講演」を微妙にミックスしたものになっています。いずれにしても、「政治的」という単語は、田中氏の創作であると思われます。 (2005.3.13)
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