パル判決』再考


 「パル判決書」については、このようなイメージが流布されているようです。

 パル判事は、公正な立場から、東京裁判の証言を冷静に分析し、そのおかしさを指摘した。しかし、それにもかかわらず、最終的には、圧倒的な証拠群から、「南京事件」の存在自体は認めた。

 おそらくほとんどの方が、「パル判事の証言批判」については、正鵠を得ているのではないか、というイメージをお持ちではないかと思います。ところが、パル判事の「証言」分析をじっくりと読み直すと、その指摘には結構おかしなところが多いことに気づきます。以下、見ていきましょう。

*「パル判決」のうち「南京事件」に関係する部分について、こちらにアップしました。あわせて、ご覧ください。





 パル判事が最も大きなスペースを費やして批判したのは、許伝音の次の証言です。

『共同研究 パル判決書』(下)より

許博士はつぎのような話をわれわれにした。氏自身の言葉によってそれを述べてみよう。氏いわく、

(略)

四、「私は、他の事件を知っております。それは船頭で、かれは紅卍字会の一人であって、私にこんなことをいいました。彼はそれを自分の船のうえで見、それが自分の船のうえで起こったのであります。

 尊敬すべき一家族がその船に乗って河を横切ろうとしたのです。ところが河の真中に二人の日本兵がやってきました。かれらは船を検査しようとしたのですが、そこに若い女を見たとき、それは若い婦人と娘でしたが、その両親と一人の夫の眼のまえで二人は強姦しはじめました」。

「強姦してから日本兵は、その家族の老人にたいして「よかったろう」と言いました。そこでかれの息子であり、一人の若い婦人の夫であったのが非常に憤慨し、日本兵を殴りはじめました。

 老人はこのようなことに我慢できず、また皆のためにむずかしいことになることを恐れて、河の中に飛び込みました。そうしますとかれの年をとった妻、それは若い夫の母親ですが、彼女も泣きはじめ、夫についで河のなかに飛込みました。

 私はちょっと申すことを忘れましたが、日本兵が老人にたいしてよかったかどうかを聞いたとき、その日本兵は、その老人に若い女を強姦することを勧めたので、若い女たちは皆河のなかに飛び込みました。

 私はこれを見たのです。ですから一家全部が河に飛び込み、溺死してしまったのです。これはなにもまた聞きの話ではありません。これは真実のほんとうの話であります。この話はわれわれが、長いこと知っておる船頭から聞いたのであります」

(同書 P562-P563)


 家族(老人夫婦、若い夫婦、娘の5人)が、船で揚子江を渡ろうとした。すると日本兵は、若い2人の女性に乱暴し、さらに老人に対し、(おそらくは冗談半分に)お前もやってみろ、と言った。進退窮まった老人は、河に飛び込んだ。家族5人は、次々と河に飛び込み、全員が溺死した。大要、以上のような証言でした。

 ただしシチュエーションの細部は、口頭での「証言」、さらにその速記録であり、またこれ自体が「伝聞」であることもあって、やや舌足らずでわかりにくいものです。

 どのくらいの大きさの船だったのか。他に乗客はいたのか。「老人」と「若い女たち」は、どちらが先に、またどのような動機で河に飛び込んだのか。日本軍を殴った若い夫はなぜ河に飛び込んだのか。日本兵は中国語を話したのか。短い「証言」からこれらの疑問への回答を明確に読み取ることは、難しいように思われます。

*老人と若い女が、どちらが先に、どのような動機で河に飛び込んだのか、「証言」は必ずしも明確ではありません。老人は「皆のために」むずかしいことになるのを恐れて河に飛び込んだ、とありますので、その時点ではまだ全員揃っていた、と思われます。一方、若い女たちは、日本兵が「老人に若い女を強姦することを勧めたので」河に飛び込んだ、とありますが、 老人が先に飛び込んだのであれば、その理由では河に飛び込む必要はありません。「若い女たち」が飛び込んだ理由については、「証言」に省略がある、と見るのが自然でしょう。



 これに対する、パル判事の論評です。

共同研究 パル判決書』(下)より

 船頭の話を受入れることは実際容易にできることであろうか。その場にいたのはほんの二名の日本兵だけであった。他方、強姦された娘たち、彼女らの父親およびその一人娘の夫もいた。そこには船頭自身ももちろんいたのである。その一家全体は生命より名誉を重んじていた。その一家全体はいずれも河のなかに飛び込み溺死してしまった。

 こんな家族であった以上、「両親および一人の夫の眼のまえで」娘たちを二名の兵隊が強姦しえたであろうか。いかにして許博士はこの話の中に真実らしくないものを認めなかったであろうか。かれは船頭が長い間紅卍字会に関係していたから、この話を「真実のほんとうの」ものとしてわれわれに与えることができるというわけになる、というのであろうか。

(同書 P565)


 徹底的な酷評ですが、「生命より名誉を重んじていた」というパル判事の見方には、やや的外れなものを感ぜざるをえません。素直に考えれば、彼らが飛び込んだのは、おそらくは「逃げる」ためであり、別に、初めから「死」を覚悟したものではないでしょう。

 証言の省略部分・あいまいな部分を補うと、どうも、「老人は進退窮まって河に飛び込んだ。それを見た女たちは、パニック状態に陥り、逃げるために河に飛び込んだ。若い夫は、それを助けるために続いて飛び込んだ」というストーリーとして理解するのが、最も自然であるように思われます。

 証言の細部には疑問点もないではありませんが、少なくとも、「ウソ」と決め付けるほどのおかしな証言ではない、と考えられます。




 続けてパル判事は、マギー、許伝音が語る「強姦事件」に対して、次のような疑問を呈します。 

『共同研究 パル判決書』(下)より

 これらの証人はいい聞かされたすべての話をそのまま受入れ、どの事件も強姦事件とみなしていたようである。

 (略)

 他のいろいろの説はたしかに日本兵の中国婦人にたいする不当な行動の実例として認めることができる。しかし証人らは躊躇することなくそれを強姦事件と主張している。ある部屋の中に一人の兵隊と一人の中国の娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれを強姦した後寝たのであると、われわれにたいしいえるということになるのである。

 また証人はこの話をするにつれて、自分の語っていることには疑いはないと、ほとんどその気持になっていたのである。

 われわれはここにおいて昂奮した、あるいは偏見の眼をもった者によって目撃された事件の話を与えられているのではないか、本官はこの点についてたしかではない。

 もしわれわれが証拠を注意深く判断すれば、でき事を見る機会は多くの場合においてもっともはかないものであったに違いないということを、われわれは発見するであろう。

 しかも証人の断言的態度は、ある場合には知識をうる機会に反比例しているのである。多くの場合にはかれらの信念は、かれらをして軽信させることに、あるいは役立った昂奮だけによって導かれ、その信念はかれらをして蓋然性と可能性の積極的解説者たらしめる作用をしたのである。

 風説とか器用な推測とか、すべての関連のないものは、おそらく被害者にとってはありがちの感情によってつくられた最悪事を信ずる傾向によって、包まれてしまったのである。

(同書 P564〜P566)


 最後の段落は日本語としてこなれていない表現でやや読みにくいものとなっていますが、パル判事の言い分を要約すると、概ね以下の通りになるでしょうか。

 マギー、許伝音は、情報が不十分であるにもかかわらず、強い先入観から、自分が見たものをすべて「強姦事件」として認識した。私には、そこまでの断定を行うことはできず、本当に強姦事件であったのかどうか、疑わしいと思う。


 さて実際に、マギーと許伝音の証言を、パル判事の引用によって見ていきましょう。

『共同研究 パル判決書』(下)より


 許博士はつぎのような話をわれわれにした。氏自身の言葉によってそれを述べてみよう。氏いわく、
一、「私は自分の眼で、日本兵が浴室で婦人を強姦したのを見ました。着物が外にかけてあり、そうしてその後われわれは浴室のドアーを見つけたところ、そこには裸の女が泣いて非常に悄然としていました」。

二、「・・・・われわれはキャンプにゆき、そこに住んでいると伝えられていた二人の日本人を捕えようとしました。そこに着いたとき、一人の日本人がそこに腰を下しており、隅に女が泣いておるのを見ました。私は福田にたいしこの日本兵が強姦したのですと言いました」。

*「ゆう」注 「速記録」によれば、この記述には「強姦をして居ると伝へられた日本人二人を捕へる為に行きました」との伊丹モニターの訂正が入っています。また、これに続けて、「福田さんは、一体あなたは何をして居るか、さうして此処でどんな用があったのかと尋ねました。・・・福田さんは此の日本兵を叱り、 さうして彼を押し除けたのであります。日本兵は去りました」との一文が見られます。(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P28)

三、「・・・・あるときわれわれは強姦している日本人を捕えました。そして彼は裸でした。彼は寝ていたのです。だからわれわれは彼を縛り、警察署に連れていきました」。
*「ゆう」注 こちらにも、伊丹モニターによる訂正があります。「一人の日本兵を強姦の廉で捕へました」。また、これには、「是等の我々が逮捕した兵隊に付ては、唯彼等が日本軍の司令部に連行されたと云ふことを聞いたのみであつたのであります」との文が続いています。

四、
(先に取り上げた、「船頭」の目撃談)

 つぎにマギー氏の証拠からいくつかの事例をとってみよう。
一、「十二月十八日に私は私どもの委員会の委員であったスパーリング氏と一緒に南京の住宅街に行きました。すべての家に日本の兵隊がおり、女を求めていたように見えました。私どもは一軒の家にはいりました。その家の一階で一人の女が泣いており、そこにおった中国人が、彼女は強姦されたのだとわれわれに告げました。

 その家の三階にはもう一人日本兵がおるということでした。私はそこにゆき、指摘された部屋にはいろうとしました。ドアーは鍵がかかっていました。私はドアーを叩き、怒鳴ったところ、スパーリングはただちに私のところにやってきました。十分ほどたった後一人の日本兵がなかには女を残して出てきました」。

*「ゆう」注 「速記録」によれば、「女を求めていたように見えました」との表現はありません。また、「強姦」の証言者は「そこにおった中国人」とされていますが、「速記録」では、「私共が丁度入りました家に於きましては一人の夫人が泣いておりましたが、彼女は強姦されたのであります。此の婦人の話に依りますと 其の家の三階にまだ日本兵が居ると云ふことでありましたから・・・」となっており、証言者は被害者本人であったようです。(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P92)


二、「私は他の一軒の家に呼ばれ、その二階の婦人部屋から三名の日本人を追出しました。そこでそこにいた中国人が一つの部屋を指さしました。私はその部屋に飛び込み、ドアーを押し開けたところそこに兵隊を見ました。それは日本兵で強姦していたところでした。私は部屋からかれらを追出しました・・・・」。


三、「私はほとんど三十年来知っておりました一婦人 ― われわれの信者の一人ですが、彼女は部屋の中に一人の少女とおったところ、日本兵がはいってき、彼女はかれの前に膝をつき、少女に手をつけないよう願ったと私に告げました。日本兵は銃剣の平ったい方で彼女の顔を殴り、少女を強姦したのであります」。


*「ゆう」注 「速記録」によれば、証言の詳細はこうでした。

私共が食事を致して居ります時に、二人の中国人が走つて来まして、日本の兵隊が女の子を探しに来て居ると云ふことを告げたのであります。私共は全力を尽したのでありますが、結局二人の中国人が其の被害者となつたのであります。其の一人は約三十歳位の婦人、 もう一人は若い少女でありましたが、其の三十歳位の婦人の話によりますと、一人の日本兵が入つて来て、銃剣の平たい方の面で押へ付けて其の少女を強姦したと云ふことでありました」

なお、こちらにも、宮本モニターによる訂正が入っています。

「其の三十歳の中国の婦人は少女に手を掛けないやうに懇願した所、此の日本兵は銃剣の平たい方で彼女の頭を殴りつけて置いて、女を強姦したのであります。其の婦人は私は三十年(ママ)以上も知つて居る友達であります」

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』P93)

(同書 P562〜P564)


 二人の証言に最も多いパターンは、「日本兵が女性を襲っているとの報を受けて現場に駆けつけたところ、実際に日本兵が女性といる現場を目撃し、あるいは被害者本人から強姦されたという訴えを受けた」というものです。誰が見ても疑問の余地がない「強姦事件」のシーンであり、パル判事がなぜこれに疑いを感じるのか、不思議に思わざるをえません。

 またパル判事は、「許証言」の三に対して、ある部屋の中に一人の兵隊と一人の中国の娘がおり、その兵隊が眠っているところを発見したという場合においても、証人はそれを強姦した後寝たのであると、われわれにたいしいえるということになるのである」とのコメントを残しています。

 しかしこの事例では、許氏は、兵を逮捕し、警察署へ連行することまでしており、「強姦事件」を許氏の妄想であるかのように描くパル判事の記述は、明らかに一方的なものでしょう。

 どうも、「偏見の眼」を持っているのは、パル判事の側であるように思われます。




 続いてパル判事が批判するのが、「陳福宝証言」です。

『共同研究 パル判決書』(下)より


 ここに陳福宝と名乗る一人の証人について触れてみよう。この証人の陳述は法廷証第二〇八号である。この陳述において、かれは、十二月十四日三十九人の民間人が避難民地域から連行され、小さな池の岸に連れていかれて機関銃で射殺されるのを目撃したとあえていっている。証人によれば、これは米国大使館の付近で、朝白日のもとに行われたのである。

 十六日にかれは、日本軍に捕われたいく多の壮健な若者が銃剣で殺されていたのをふたたぴ目撃した。そのおなじ日の午後、かれは大平路に連れていかれ、三人の日本兵が二軒の建物に放火するのを見た。かれはこの日本兵の名前をもあげることができたのである。

 この証人は本官の目にはいささか変わった証人に見える。日本人はかれを各所に連れてその種々の悪業を見せながらも、かれを傷つけずに赦すほどかれを特別に好んでいたようである。

 この証人は、本官がすでに述べたように、日本軍が南京にはいったその二日目に難民地区から三十九名の者を連れだしたといっている。証人は、これが起こった日付はたしかに十二月十四日であるとしている。この一団の人のうち、その日に三十七名の者が殺された。許伝音博士でさえ、かようなことが十二月十四日に起こったとはいえなかったのである。かれは難民収容所に関する十二月十四日の日本兵の行動に関して述べているのであるが、その日に収容所から何者も連れ出されたとはいっていない。

(同書 P600〜P601)


 パル判事の表現を見ると、「陳証人」は、十四日から十六日にかけてあちこちに連れ回されていたかのような錯覚を受けますが、実際に連れ回されている時に見たのは、十六日の放火事件だけです。なお陳氏は、別に日本軍に連れられて物見遊山をしていたわけではなく、おそらくは「苦力」として連行された可能性が高いと思われます。


 以下、「速記録」から、「陳福宝証言」を引用します。


極東軍事裁判 『陳福宝の陳述』より


 日本軍南京入城の第二日即ち十二月十四日日本軍は避難地域から三十九人の者を引き出した。それ等は総て常民であつた。

 日本軍は之等を取調べた。そして額に帽子の跡のある者又は手に銃を操縦して出来た胼胝(たこ)のある者は小さな留置所に入れられ反対側から引き出された。

 私と今一人は一方の側に入れられた。そして日本兵は軽機関銃を用ひて自分等以外の者を殺した。斯くの如くして殺された者が三十七名あつたのだ。私は現にそれを見たのである。其の人々の大部分は常民なのだ。

 私は南京の住民であり夫等の人々の数名が南京の常民であることを知つて居る。其の内一人を私は特によく知つて居る。其人は南京の警官であつた。

 私は其の時十八歳であり南京に住んで居た。それ等の人々は四箇月後に紅卍会の手により埋葬された。

 其の死骸は抛り込まれた池の中にあつた。私も日本兵の命令で死骸を池に抛り込む手伝ひをした。之は米国大使館の附近で朝、白日の下に行はれた。

 之は支那軍の朱大佐が説明してくれたことで間違ひのない事実なのだ。其の同じ日の午後私は三人の日本人が十六歳の唖娘を学校の校舎で私の目の前で強姦するのを見た。


 十二月十六日、私は再度日本兵に捕へられた。そして数多の壮健な若物も引立てられた。日本兵は彼等を群集の中に入れ彼等と相撲を取つた。そして相撲で勝てない連中を銃剣で殺したのである。私は彼等日本兵が此の理由で一人を殺すのを見た。

 其の同じ日の午後私は太平路に連れて行かれ、三人の日本兵が二軒の建物に放火してるのを見た。其の一軒はホテルであり、他の一軒は商店で家具商であつた。其の放火をした日本兵の名は、向井部隊桑田隊の馬屋原伍長及村上伍長である。

 私は又一日本兵による今一つの強姦事件を見た。此の婦人の主人は写真師である。之は日本兵南京入城後の第三日、南京に於て白昼行はれたのである。

 其の時私は此の婦人と同じ家に住んで居た。そして一人の日本兵が這入つて来て其の家には婦人の主人を入れて四人居たのであるが総ての此等の人々を部屋から追ひ出した。私は其の日本兵がそれから其の婦人と一緒に部屋に這入つて行き部屋の戸を締めるのを見た 。私は隣の部屋に居てそれを見た。

 其の婦人は其の時妊娠をして居た。日本兵は十分位で部屋を出た。私は其の時、婦人が部屋を出るのを見たが彼の女は泣いて居た。 

(『南京大残虐事件資料集 第1巻』 P43〜P44)


 パル判事は、日本人はかれを各所に連れてその種々の悪業を見せながらも、かれを傷つけずに赦すほどかれを特別に好んでいたようである」と記述していますが、実際には、「各所に連れて」いかれた時に見た事件は、「放火」の一件のみでした。あとの事件は、自らが被害者になりかけた「安全区掃蕩」の風景、残りは「連行」とは関係のない「体験談」です。

 「相撲」の話は常識的には眉唾ではないか、という気はしますが、少なくとも、「日本兵が陳証人をあちこち連れまわして「悪業」を見せた」とするパル判事の記述は、正確なものではありません。従って、この論拠では、パル判事の、陳福宝氏は「変った証人」である、という論立ては成立しません。

 実際の話として、「相撲」の話を除けば、陳証言の内容はごくありふれた「南京アトローシティ」の風景であり、あえて疑問を呈するほどのものではないと思います。

 「十四日」の部分は、さまざまな資料に見られる「敗残兵選別」の光景であるに過ぎません。コンテンツ「敗残兵狩りの実相」でいくつかの類似証言を紹介しましたので、ご覧ください。

 またパル判事は、「十四日」に掃蕩が行われたことに疑問を呈しているようですが、「掃蕩」が十四日から十六日の間に集中的に行われていたことはよく知られた事実であり、これもまた「疑問」には価しない部分です。




2009.8.30追記

洞富雄氏が、この点についてコメントを残しているのに気がつきました。


洞富雄 『「"南京大虐殺"はまぼろし」か』より


ついでに申しておけば、パル判事は、前掲文の末尾で、「この証人は本官の目にはいささか変った証人に見える。日本人は彼を各所に連れてその種々の悪業を見せながらも、彼を傷つけずに赦すほど彼を特別に好んでいたようである」と述べているが、この理解にはしたがえない。

南京市民陳証人の宣誓口供書(前掲『日中戦争史資料』8〔南京事件機融融亜飮優據璽検によれば、彼は、十四日に「便衣兵」狩りの巻きぞえで連行されたが釈放され、十六日にまた捕えられている。二度めは強制労働のための拉致であったと思われる。それはそのさい見た虐殺の状況からうかがわれる。太平路へは日本軍の労務に服するため連れていかれたとみてよい。

なお、陳証人は、十四日と十五日に、強姦事件を目撃している。このように、陳証人は、別個所で虐殺と強姦をそれぞれ二度ずつ見ているのであるが、いうまでもなく、日本兵が彼にそれを見せるため、わざわざ連れて歩いたのではない。

(『ペンの陰謀』所収 P331)






 パル判事は、以上のように、証人たちに対して、種々の的外れな批判を繰り返しました。しかしそのパル判事でさえ、結局は次のようなことを結論とせざるを得ませんでした。

共同研究 パル判決書』(下)より

 これに関し、本件において提出された証拠にたいしいいうるすべてのことを念頭において、宣伝と誇張をできるかぎり斟酌しても、なお残虐行為は日本軍がその占領したある地域の一般民衆、はたまた、戦時俘虜にたいし犯したものであるという証拠は、圧倒的である。

(同書 P566)



 いずれにしても、本官がすでに考察したように、証拠にたいして悪くいうことのできることがらをすべて考慮に入れても、南京における日本兵の行動は凶暴であり、かつペイツ博士が証言したように、残虐はほとんど三週間にわたって惨烈なものであり、合計六週間にわたって、続いて深刻であったことは疑いない。事態に顕著な改善が見えたのは、ようやく二月六日あるいは七日すぎてからである。

(同書 P600〜601)

*念のためですが、これは、「パル判事がどのような事実認識を持っていたか」を確認するための引用紹介であり、「パル判事の事実認識が検察側及び判決文の認識と一致していたかどうか」までは、ここでは問題にしていません。それはまた、別の議論になります。そのような頓珍漢な「噛みつき」を見かけましたので、念のため。




 さて、「自由主義史観」陣営からはまるで「中立の標準」であるかのように語られるパル判事ですが、全く異なる「パル判事評」も存在します。ここでは、粟屋憲太郎氏 の見解を、紹介しましょう。

粟屋憲太郎氏『「東京裁判史観」とは』より


二 東京裁判の評価をめぐって


 「東京裁判史観」批判を唱えるものはすべて、東京裁判の全面否定論者で、被告全員無罪の少数意見を提出したインドのパル判事をことごとく礼讃する。

 『社会科教育別冊「近現代史」の授業改革1』の表紙裏にもパルの写真が大きくのっている。出典は田中正明『パール博士の日本無罪論』である。田中氏は、南京虐殺事件を否定するため松井石根中支那方面軍司令官の日記の多くの部分を改竄して発表したことで「歴史の偽造者」として名高い人物である。田中氏のような人物に依拠していることに、この雑誌の水準がある。

 パル判事の評価については、その実像の解明が不可欠である。パルは東京裁判の判事団のなかでまったく特異な立場にあった。すでに来日したときからパルは、侵略戦争が国際法上、犯罪でないとの固い信念をもち、被告全員無罪のみずからの判決を書くべく、ひたすら宿舎の帝国ホテルにこもり、判決草案を書いていた。彼も予断をもった判事の一人だった。また法廷での欠席がいちばん多い判事であった。

 パルと親しかったオランダのレーリンク判事の回想によれば、パルは長年にわたるヨーロッパのアジアヘの植民地支配に心からの憤りをもち、今次の日本の戦争はヨーロッパからアジアを解放するものであり、「アジア人のためのアジア」という日本のスローガンは彼の心を強くうち、アジア太平洋戦争が始まってからは、日本とともに英国と戦ったインド国民軍にも関与したという。


 侵略戦争は犯罪でないとの彼の判断は、その厳密な法実証主義の立場から導き出されたものだが、他方で彼の歴史認識は、西洋帝国主義にたいする強烈な敵意にもとづくとともに、「白人の優越」に挑んだ日本に共鳴したものだった。

 彼の思想的立場は、日本と結んでインド国民軍を率い、インド独立を達成しようとしたチャンドラ・ポースに近かった。彼の少数意見で、日本の侵略や戦争指導者への評価が甘いのは、この立場からきたのだろう。パルの立場は、ネルーらの国民会議派と別であった。

 同じアジアからの判事でも、日本の侵略の直接の惨禍をうけて裁判で厳罰主義をつらぬいた中国の梅判事とフィリピンのハラニーリヤ判事と、パルはまったく相反していた。

 パルの少数意見は、アメリカの日本への原爆投下を重視するなど、再評価すべき点もあるが、「東京裁判史観」批判論者が金科玉条視するようなものではない。他の少数意見や多数派判決とも比較して冷静に検討すればよいのである。

(『近現代史の真実は何か』P163〜P164)


(2005.5.20)


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