東中野氏の徹底検証 6
反日撹乱工作隊(5) 中国軍隊の仕業?



 さらに、「反日撹乱工作隊」問題に絡んで、東中野氏はこのような記述を行っています。

 
 安全地帯に潜伏中の支那軍将兵が悪事を働いたのである。上海派遣軍参謀長・飯沼守少将が昭和十三年元旦の日記に、 「他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑あるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり」 と書き、一月四日の日記に「保安隊長、八十八師副師長」を逮捕と記していることが、右の記事の正しさを裏付けている。

(「徹底検証」P277)


 さて本当に、「列国公館」を荒らした犯人は「中国軍隊」なのでしょうか? この間の経緯を、追っていきましょう。




 話のスタートは、松井大将の下に届いた、日本軍による「各国大使館の自動車其他」の掠奪事件です。松井大将は、「軍隊の無知乱暴」に驚き、「中山参謀」を、南京に派遣します。

井石根大将戦陣日記 十二月二十九日

  南京に於て各国大使館の自動車其他を我軍兵卒奪掠せし事件あり。軍隊の無知乱暴驚くに耐へたり。折角皇軍の声価を此る事にて破壊するは残念至極、中山参謀を南京に派遣して急遽善後策を講すると共に、当事者の処罰は勿論責任者を処分すへ命令す。殊に上海派遣軍は殿下の統率せらるるもの其御徳に関する儀にもあり、厳重に処分方取計ふ積なり。

(「南京戦史資料集Ⅱ」P149)



 問題の「飯沼日記」には、十二月二十九日に、「軍隊の無知乱暴」についての記述が見られます。

飯沼守日記 十二月二十九日

  英米独伊の大使館員、領事館員等来るとのことに之が応対法研究中の所へ福井書記官(南京領事)来り 米大使館使用支那人の言に依れは二十三日日本兵来り支那人の持物を掠奪し且館員の居室等を荒し扉を剣にて突き刺したりとか  独大使館にては軸物を掠奪せりとかにて米人より領事宛の手紙も置き行きたり。困つたことをする者あり 全部を真とすることも出来さるも善後策を研究する要あり。

(「南京戦史資料集Ⅰ」P171)


 三十日には、松井大将に派遣された「中山参謀」がやってきました。

飯沼守日記 十二月三十日

 方面軍中山参謀来り 参謀長一人に対し、今回の外国公館に対する非違其他の不軍紀行為誠に遺憾なりとの意味の伝達あり 恐縮の外なし。

(「南京戦史資料集Ⅰ」P171〜P172)



 飯沼少将は、「中山参謀」に「不軍紀行為」を叱られてしまいました。これを受けての、必死のもみ消し工作が始まります。

飯沼守日記 一月元旦

 今日午後ソ連大使館焼く、此処は日本兵決して入り込まさりし所なれば証拠隠滅のため自ら焼きたるにあらすやと思わる。

 他の列国公館は日本兵の入り込みたる疑いあるも番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり。

 
唯米国のみは四囲の状勢巳むを得ざるも当時番人の親戚等五、六十人入り込み居たる関係上敗残兵ありとの噂に依り進入したるも米大使館と判り直に引き上けたりと云ふこととす。

 自動車其他番人の損害等は兎も角返すこととす(方面軍特ム部の処置)。

(「南京戦史資料集Ⅰ」P173〜P174)


 「番人より中国軍隊の仕業なりとの一札を取り置けり」は、このような文脈で出てきた文章です。「日本兵の入り込みたる疑いある」にも関わらず「番人」から「一札」をとったわけです。この「一札」には、ある程度「強制」が働いた、と見る方が自然でしょう。



 ちなみに、この事件のことを指すのかどうかは明確ではありませんが、強制的に「中国人が犯人であると証言」させようとした、という資料も存在します。


資料23 発信者―ローゼン 1938.1.13付南京ドイツ大使館分館

本日の電信報告第一号に関連して 添付書類一

 大使館ではいくつかの中国の蒔絵が日本兵に盗まれた。その後、日本のある領事館警官が現れて、中国人が犯人であると証言させるため、大使邸のクーリーに五○ドルを手渡した。 かれは殺されるのを恐れて金を受け取ったが、その後ドイツ人の庇護を頼りに真実を語った。身の危険を案じて証言を他言しないよう懇願した。

(「ドイツ外交官の見た南京事件」P89)



<追記> (2003.7.25)



 「南京事件資料集 2 中国関係資料編」にも、同じ趣旨の記事が紹介されていましたので、追記します。

占領下南京五か月の記録

李克痕

 残忍兇悪な敵は、まるで発狂したかのようにほしいままにわが同胞の財物を略奪し、南京在留外国人の財産といえども強奪を免れなかった。 敵兵はなんと外国人の住宅にも公然と押し入り、洗いざらい調べ上げ、値打ちのある品物を強奪した。各大使館の外国人の多くは南京を離れており、番人(中国人)がいるだけで、この暴行に対して制止しようがなかった。

 のちにドイツ大使館は日本軍当局に賠償を要求し、盗難届も作製した。日本軍当局は調査後に賠償し、かつ事件を起こした兵士を処罰することに応じた。しかし調査のとき、日本軍当局は番人を脅迫して、わが中国軍民によって略奪されたと認めさせたのである。 番人も威嚇されたため承認するよりほかに仕方がなかった。敵の恥知らずの極みというべきである。

(「南京事件資料集 2 中国関係資料編」P119)

*「ゆう」注 李克痕氏は、「南京の某文化機関の職員」とのことです。この記録は、1938年6月30日に脱稿され、『漢口大公報』1938年7月18日〜21日付に掲載されました。


 また、その後2つほど、このテーマに関連する資料の存在に気がつきましたので、追記します。(2003.6.15)

資料53 報告 ドイツ外務省(ベルリン)宛、発信者―ローゼン(南京)  1938.2.14付南京ドイツ大使館分館第10号

写し二

 内容 ― 日本のプロパガンダの方法

 上海の日本「軍広報官」は、目下南京に三日間の予定で滞在中のフランス空軍武官が南京の現状に承認を与え、とくに大使館の建物が無傷であることに満足感を表明したという話を広めている。

 これにたいする私の報告は以下のとおりである。私は一か月前、フランス人同僚の依頼にもとづき、シャルフェンベルク事務長とともに(南京の)フランス大使館の状況を検分した。フランス大使館ではさまざまな部屋が略奪されていた。多くの物入れがこじ開けられ、盗難を免れた中身は床にぶちまけられていた。

 大使館警護のために残っていた警官たちは、日本兵が四日間にわたり立て続けに進入した塀の位置をわれわれに示した。 警官たちはひどくおびえて、フランス大使館がこの事件にたいして何もしないよう求めた。なぜなら、日本兵は彼らを殺すと脅しており、日本兵は中国人を犯人に仕立てて報告するつもりだからである。 私は警官たちの要望を上海のフランス大使館に伝え、いまもこのことを空軍武官に繰り返した。

(「ドイツ外交官の見た南京事件」P179〜P180)


ティンパーリー編著日本語訳本別版 『戦争とは? 日本軍暴行録』の序

日本版序

青山和夫

  日本軍隊の規律がまつたく紊乱してゐることは事実である。七・七事件勃発以後、日本軍隊の中国における暴行は、かくすことのできない事実である。本書にのべられている日本軍隊の暴行はその一端にすぎぬ。

 これに対して日本陸軍当局は「南京における婦女への暴行は支那人が日本人に化けてしたのであつて、一味の支那人十六名を逮捕した」と偽造の発表をしたり、或は支那及外国人のデマであると言つて、非を覆はんとしてゐる。

 私は、日本兵士自身が書いた二三種の暴行事実の二三の例を記さうと思ふ。

(以下略)

漢口にて 1938.7.24

(「南京大残虐事件資料集 第2巻」P314)

(旧「ゆうさんのページ掲載分。本HP掲載にあたり改稿。2003.6.15、2003.7.25に一部追記)


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