東中野氏の徹底検証 20
幕府山事件(2)


 「自衛発砲説」では、夜間の火災にまぎれて残った八千人のうち四千人くらいが逃げた、というのが、ストーリーのひとつの核となっています。火災が「夜間」に生じたことが、ポイントです。

両角業作手記 (歩兵六十五聯隊長・歩兵大佐)

炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、 その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。 我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。

(「南京戦史資料集供廝丕械械后




  さて、東中野氏は、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士の日記」を、「両角手記」の傍証にしようと試みていますが・・・。

 

 ともあれ、幕府山要塞の地下倉庫に備蓄された食糧が発見された。渡りに舟とばかりに、それがバラック棟に運び込まれる。やがて、投降兵自ら自給自足するよう、指示が出た。投降兵の炊事が始まった。

 ところが、ある一棟から出火した。不注意で出火させれば寒天の下で眠らなくてはならないから、不注意の出火ではなかった。 意図的な放火であった。両角連隊長は、脱走を狙った放火と判断した。これが収容三日目(十二月十六日)のことになる。

 この放火事件は、「第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」の筆者十九名中、四人が陣中日記に記す。

 ただ、出火の時間となると、一致しない。四人のうち三人は十六日正午頃と記し、残る一名は「夕方二万の捕虜が火災を起し」と記す。両角連隊長の手記も暗い時の出火であったと記す。 出火時間は、各人まちまちの記録であった。ともあれ、放火を十六日の出来事とする点では一致する。

(「徹底検証」P132〜P133)


  まず、「不注意で出火させれば寒天の下で眠らなくてはならないから、不注意の出火ではなかった」というのは、おかしな文章です 「意図的な放火であれば寒天の下で眠らなくてはならないから、意図的な放火ではなかった」という逆の「理屈」ならば、よく理解できますが・・・。 結局、「両角手記」でも東中野氏の文章でも、火災を「失火」ではなく「放火」と判断した根拠は、不明のままです。

 しかも、「両角連隊長は・・・放火と判断した」の後で、根拠不明のまま、いきなり「この放火事件は・・・」と、「放火」を前提とした記述にすりかわっています。

  続けて、「出火時間は、各人まちまちの記録であった」。しかしよく読むと、「四人のうち三人」は「十六日正午頃」で一致しています。

残り一名の記載は、こうです。

 
近藤栄四郎出征日誌 (十二月)十六日

 午后南京城見学の許しが出たので勇躍して行馬で行く、そして食料品店で洋酒各種を徴発して帰る、丁度見本の様だ、お陰で随分酩酊した。

 夕方二万の捕慮(虜)が火災を起し警戒に行った中隊の兵の交代に行く 遂に二万の内三分の一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。

  月は十四日、山の端にかかり皎々として青き影の処、断末魔の苦しみの声は全く惨しさこの上なし、戦場ならざれば見るを得ざるところなり、九時半頃帰る、一生忘るる事の出来ざる光影(景)であった。

 (「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P326)


  この記述を「夕方の火災」と読む論者もあるようですが、全体を見ると、 「夕方」は、「近藤栄四郎」氏が「中隊の兵の交代」に行った時間、と読む方が自然ではないか、と思います。たとえ「夕方の火災」と読むとしても、自衛発砲説の「夜間の火災」の傍証にはなりません。

 以上、4名中3名は「正午頃」と明記、残る1名も「時間の明記」はない(あると解釈しても「夕方」)、ということになります。 「・・・皇軍兵士たち」の記述は、「自衛発砲説」の「夜間の火災」の傍証にはなりません。



前へ HOME