東中野氏の徹底検証 19
幕府山事件(1)


 「幕府山事件」とは、大量の捕虜が、「歩兵第六十五連隊」を中心とする「山田支隊」によって殺害された、とされる事件です。

 従来、この事件については、「捕虜一万四千人以上のうち半数釈放、 さらに「火災」に乗じて残りのさらに半数が逃亡、 残りを釈放のために連行する途中で暴動が発生、それを制止するための発砲で千人程度が犠牲になった」とする、いわゆる「自衛発砲説」が定説でした(人数については証言者により異動があります)。

 しかし、1984年の栗原証言、90年に発表された小野賢二氏の調査(サラリーマン稼業の合間を縫って「歩兵第六十五聯隊戦友名簿」にある当事者のほぼ全員と接触し、 約200に及ぶ証言、20冊に及ぶ陣中日記を発掘した、大変な労作です) などにより、現在では「一万四千人の大部分が殺害された」との説が有力になっているように思います。 なお、小野氏の発掘した「陣中日記」については、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」にまとめられています。


2008.4.12 お知らせ

このコンテンツは、「幕府山事件」に関する総括的な説明を目的としたものではありません。 「幕府山事件」をめぐる論争の概要を知りたい方は、その後このようなコンテンツを作成しましたので、こちらをご覧いただくようにお願い致します。

幕府山事件(1)−16日「魚雷営の虐殺」までー
幕府山事件(2)−17日の惨劇  「解放」が目的だったのかー



 東中野氏の記述は、一部氏独自の「アレンジ」も見られますが、概ね旧態然の「自衛発砲説」に沿ったものです。

 ここでは、「事件」の論点を述べることが目的ではありませんので、「論争」の全体像には触れません。東中野氏の印象操作、アバウトな部分のみを、取り上げることにします。




  旧来の「自衛発砲説」では、「一万四千人余のうち約半数は非戦闘員で、山田支隊はそれを解放した」ことが、第一のポイントになっています。 まず、東中野氏が、この「非戦闘員」の存在をどのように「証明」しようとしているか以下、見ていきましょう。




  収容された投降兵は、これが兵士かと思われるくらい、「服装も種々雑多」であった。

 しかも注意して見ると、南京から逃げてきた非戦闘員の市民も混じっていた。

 さらに注意して見ると、女兵士、老兵、少年兵までが混在していた。何も知らない十二三歳の少年が戦場の第一線に立たされていた。

 そしてまた、女性も志願して兵士となっていた。

 そのことが「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」に見える。

(略)

 そこで、戦闘員と非戦闘員とが選り分けられた。そして、非戦闘員は解放された。

(「徹底検証」P129)


 小野賢二氏らの編んだ「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」が、「非戦闘員の存在」の補強材料として使われています。 しかし、実際には、同書に収録されている「陣中日記」には、「非戦闘員の存在」を示す記述は、存在しないのです。


 

 上の東中野氏の記述は、実は以下の3つの資料を、つぎはぎしたものと思われます。


斎藤次郎陣中日記 十二月十四日


 第一大隊の捕慮(虜)にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、 午後五時頃まで集結を命ぜられたるも〔の〕数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、 若い者は十二才位より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕慮(虜)を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降つた、(以下略)

(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P37)

目黒福治陣中日記 十二月十三日


 午前三時起床、四時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃の為前進す、途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約一万三千名との事、 十二三才の小供より五十才位までの雑兵にて中に婦人二名あり、残兵尚続々の(と)投降す、各隊にて捕い(え)たる総数約十万との事、午後五時南京城壁を眺めて城外に宿営す。

(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」P373)

両角業作手記 (歩兵六十五聯隊長・歩兵大佐)


幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。 しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。

(「南京戦史資料集供廝丕械械后


 見ればわかる通り、最初の二つ、「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」所収の日記には、「非戦闘員」の存在を伺わせる記述はありません。存在を明確に主張しているのは、「自衛発砲説」の「元ネタ」である、最後の「両角手記」だけです。

 「しかも注意してみると」「さらに注意してみると」というのは、強引にこの3つの資料をつなぐための「作文」です。
この「つなぎ文句」で、氏は、「・・・皇軍兵士たち」の記述を「非戦闘員の存在の証明」として使うという、トリックを試みています。

 しかもこのトリック、十分に成功しているとは言い難いようです。一万四千余人の約半数が「非戦闘員」であることを「証明」しなければならないのに、氏の記述では、「非戦闘員」は、「注意してみ」ないとわからない程度、ということになります。

 面白いのは、「十二三才の小供より五十才位までの雑兵の中に婦人二名有り」の記述を、強引に「女兵士、老兵、少年兵」と「翻訳」していることです。「婦人二名」は貴重な「非戦闘員候補」なのに、わざわざ自分で「兵士」と断定してしまっています。



 なお最後の「両角手記」は、どちらかというと「否定派」に近い「南京戦史」グループからさえ、このような評価を受けている代物であることは、念押ししておきます。



 『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。

(「南京戦史資料集供廝丕隠押




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