「南京事件」と報道規制


 「南京占領」当時の日本の新聞記事を持ち出して、「こんなに平和な風景なのだから南京事件などなかった」という不思議な議論をする方を、よく見かけます。 そういう方は、当時、軍部に都合の悪いことは一切報道されなかった、という高校社会科レベルの「歴史の常識」すら、頭にないのでしょうか。

 当時の「報道規制」の実態についてはいろいろな資料で見ることができますが、ここでは、『国論』昭和12年11月号の記述を紹介しましょう。「日中戦争」初期のメディアに、このような「軍部批判」とも言える記事が掲載されたことに、ちょっと驚かされます。

『国論』昭和十二年十一月号 支那事変特集号より

 新聞往来 言論統制と新聞の単調

 広告収入減と紙飢饉の悩み 新聞は漸く淘汰されん

戦況報道

 日支戦争が始まつた当時、何れの新聞社も、読者も一斉に連想したのは、満州事変における新聞社の活躍と、其の間に於ける強弱新聞社の著しい等差を見せたことであつた。

 満州事変に於けるニユースの報道は一つは地理の関係もあつたらうが、其の機構設備の上から、平素張つてゐた通信網の関係から、 大阪の二大紙、延いては東京の東日、東朝両大紙が群を抜いた活躍と、其の報道の迅速優秀であつたことである。従つて此の四紙は莫大な費用を使つたことが勿論であるが、その代り著しく発行部数の増加を見せたのであつた。

 其の例から推せば、日支事変に当面しても亦、大阪系四紙の活躍と其の発行部数の激増を見せ、其の勢力の増大著しきものあらんとは、大阪系四紙自らも、他の新聞社も、世間も斉しく期待したのであつた。

 然るに、事変報道に関する軍の意向は、厳粛に之を統制することに努め、軍の発表以外の記事は勝手に之を掲載することは許さなくなつた。 事変始まるや、各社競ふて従軍記者を派し、又通信機関を強化拡大して之に備へたのであつたが、軍の統制の厳粛にして、記事を統制されたのには、何れも一驚を喫したのであつた。

 戦死傷者の名前及び其の郷実を一々報道することは、銃後の父兄、親戚、知人等に取つては非常に関心を持つことであり、従つて新聞読者拡張の上に資すること大なるものであつて、新聞経営の上からは極めて切要なものであるに拘らず、 軍は之を掲載することを中途から禁じたほどに、微細に亘つての統制が行はるるやうになつたから、各新聞社に取つては其の独特の活躍を紙上に示す価値性を減殺さるること夥しいものとなつた。

 尤も戦場に於ける将士の美事善行、奮闘の跡などを詳報することは差支えないものとして、多少其処にユトリはあるにはあるが、大体に於て右の次第であるから、 戦況報道に於ては、各社其の軌を一にし、何れの新聞を見ても同じものであり、其の間に特殊の優劣もなければ、新味もなくなつて、新聞は全く単調化されたのである。

(P73〜P74)


 大阪毎日新聞記者の五島広作氏 も、当時の「絶対的な軍命令の報道規制」について触れています。念のためですが、五島氏は、「南京虐殺は世界史のウソ」とまで言い切る、いわば「否定派」の嚆矢ともいえる人物です。
 
『南京事件の真相』(熊本第六師団戦記)より

  未検閲記事は銃殺だぞ

 藤原武情報主任少佐参謀が出発直前に、熊本駅長室に従軍記者代表として、大毎記者五島を命令受領に呼び出す。

 「五島、わが六師団はいよいよ出発征途にのぼるが、オレが情報主任参謀としていっさいの報道関係の責任者だ。従軍記者諸君に伝えろ。よいか、軍に不利な報道は原則としていっさい書いてはいかん。 現地では許可された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は即時内地送還だぞ。記事検閲を原則とし、とくに軍機の秘密事項を書き送った奴は戦時陸軍刑法で銃殺だ」

というわけで絶対的な軍命令の報道規制で、報道の自由どころか自由な従軍記事報道は許されない。

「銃殺」の厳命で三すくみにふるえあがるようにして、司令部とともに、二等車に乗って乗船地門司へ行く。

(P191〜P192)



 このような「報道規制」 下にあっては、例えば、多くの目撃者が証言する「安全区の敗残兵狩り」などの実態も、日本に報道されることはありませんでした。(具体的な目撃談については、コンテンツ「敗残兵狩りの実相」および 「下関の光景」をご覧ください) 

 「連行現場」と「殺害後の大量の死体」を目撃した今井正剛氏の記述にも、「書きたい」が「当分は書けない」ことを嘆く記述が見られます。
 
今井正剛氏『南京城内の大量殺人』より

 何万人か知らない。おそらくそのうちの何パーセントだけが敗残兵であったほかは、その大部分が南京市民であっただろうことは想像に難くなかった。 揚子江の岸壁へ、市内の方々から集められた、少年から老年にいたる男たちが、小銃の射殺だけでは始末がつかなくて、東西両方からの機銃掃射の雨を浴びているのだ。

 「うっ、寒い」

 私たちは、近くから木ぎれを集めてきて焚火をした。

 「さっき、支局のそばでやってるとき、自動車が一台そばを通ったねえ」

 中村君がそういった。

 「毛唐が乗ってたぜ」

 「あれは中国紅卍(まんじ)会だろうと思うな。このニュースはジュネーブへつつ抜けになるな」

 「書きたいなあ」

 「いつの日にかね。まあ当分は書けないさ。でもオレたちは見たんだからな」

 「いや、もう一度見ようや。この眼で」

 そういって二人は腰をあげた。いつの間にか、機銃音が絶えていたからだ。

(『目撃者が語る日中戦争』P57〜P58 = 初出『特集・文藝春秋』昭和31年12月)

*「ゆう」注 上の今井氏の記述に対しては、「夜間に連行殺害したという記録が他にない」ことをもって、その信頼性を否定しようとする向きも見られます。 しかし「他にない」ことだけでは「否定」の材料としては不十分であると思いますし、また、「安全区の敗残兵狩り」自体はあちこちで言及される否定のしようがない「事実」です。 ここではその議論には深入りしませんが、とりあえずは、今井氏が「当分は書けない」と認識していたことにご注目ください。
 


 さらに、「事件」直後に撮影された映画『南京』に、「虐殺」を思わせる場面がないことを「否定」の材料にしようとする方も存在します。

 しかし、映画『南京』のカメラマンであった白井茂氏自身が次の記録を残していることからも、この映画をそのような材料として使うことは、明らかな無理があります。

白井茂氏『カメラと人生』より

  中山路を揚子江へ向かう大通り、左側の高い柵について中国人が一列に延々とならんでいる。何事だろうとそばを通る私をつかまえるようにして、 持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。

 延々とつづいている。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。 だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても、私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことは出来ない。

 柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が 真赤に血で染まって両手を上げて何か叫んでいる。いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない。何か執念の恐ろしさを見るようだ。

 とにかく家財道具から何から町の真中にみんな置きっぱなし。

 まだ城内ではどっか隅の方で兵隊は戦っていた。音がしたり、なにか気配があった。ぼくらは司令部の命令で南京銀行の三階へ陣取った。みんな、見当つけてピストル一挺持って探索に出かける訳だ。いつやられるか分からない。銃殺しているところだとか、いろんなところを見た。

 翌日から少し撮影を始め、飛行機の落ちていくのを撮影したり何かしている内に、松井石根の入城式になった。向うの住民も手を振って迎えている。しょうがないから手を振りまわす。メイファーズ( 没法子=どうしょうもない)というわけだ。

 見たもの全部を撮ったわけではない。また撮ったものも切られたものがある。

 さきの延々と並んでいる人たちに対し、兵隊が一人ぐらいしか付いてない。逃げ出したらいいだろうと思った。そうかと思うと、町の真中で、向うが川の所に、こっちへ機関銃一挺据えてある。兵隊一人で。で、向うに百人ぐらい群集がいる。

 あんなものは、一人か二人犠牲になったならば、みんな逃げ出せたと思う。それでも逃げないのはやっぱり、機関銃の前で怖いのか、逃げないのである。

 よく聞かれるけれども、撃ってたのを見た事は事実だ。しかし、みんなへたなのが撃つから、弾が当ってるのに死なないのだ、なかなか。

 そこへいくと、海軍の方はスマートというか揚子江へウォーターシュートみたいな板をかけて、そこへいきなり蹴飛す。水におぼれるが必ずどっか行くと浮く、浮いたところをボンと殺る。揚子江に流れていく。そういうやりかただった。

 戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相がそれから幾日も幾日も心に焼付けられて忘れることが出来ないで困った。

  私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺をされるであろう人々を沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。

 これが世に伝えられる南京大虐殺事件の私の眼にした一駒なのである
が、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。

(P137〜P138)
 



 しかしこんな状況でも、なぜか、「自由に報道できた」と感じていた新聞記者もいたようです。

『「南京事件」日本人48人の証言』より

  東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局次長の証言

―当時の報道規制をどう感じましたか。

「何も不自由は感じていない。思ったこと、見たことはしゃべれたし、書いてたよ」

(同書 P39)

*「ゆう」注 橋本登美三郎氏は、のち代議士となり、 田中角栄内閣の下で自民党幹事長を務めました。余談ですが、氏の名前はむしろ、「ロッキード事件」丸紅ルートにて受託収賄容疑で逮捕・起訴されたことで知られているかもしれません。
 


 上に紹介したような「報道規制」の実態から見ると、橋本氏の発言は、異様です。 ろくな取材を行わず、日本軍の「大規模な軍紀の乱れ」「捕虜殺害」の事実を全く知らなかったのか。それとも、そんな事実を見聞してもそれには全く関心を持たず、報道しようとする気が起きなかったのか。 


 あるいは、こんな「心理」が働いていたのかもしれません。

岩村三千夫(元読売新聞社記者)『突如潮の如き大兵団』より

 だが新聞人の欠陥は、戦争にひきずりこまれ協力記事を強要された時点より以前、国家が戦争へ助走している期間に、自由が残っているという錯覚のなかで、それと気がつかぬうちに筆を曲げていたところにある。

 事実から離れたことをつぎつぎと筆にしながら、そのことに、いっこうに気がつきもせず、反省もしない。(P128)

(『潮』1971年10月号 「執筆者100人の記録と告白」より)

 この橋本発言を根拠に「報道規制はなかった」と発言する方を見かけますのであえて取り上げましたが、まあ、氏はインタビュー当時83歳とのことですので、この発言を問題にすることは、あるいは酷なことかもしれません。



 最後に、田中正明氏の記述を見てみます。
 
『南京事件の総括』より

  第十四の根拠 緘口令など布かれていない

 教科書には「日本国民には知らされなかった」とある。それならば、「南京事件」について喋ってはいけない、書いてもいけない、という緘口令が軍なり政府なりから出ていたのであろうか。答えは全然「ノウ」である。

(中略)

 戦時下の流言蜚語の取締りは、いずれの国においても当然の行政措置として行われる。

(中略)

 当時の規制をみると、十二月十三日に「海・陸軍省令による新聞記事取締に関する件」として「揚子江方面に於て我軍が第三国の艦船に被害を与えたるやの件」 −すなわちパネー号、レディバード号事件の報道が規制されている(但し十五日に解除)。上海戦に参加した第十一師団が凱旋することになり、これに関しても記事の規制が行われている。

 このように前もっての規制の外、随時省令などが出されていたが、南京事件の報道についてはこのような陸軍省令、海軍省令、外務省令など全然出されていないのである。

(中略)

 筆者は取材中、参戦した将兵の方々に、最後に必ず次のような質問をすることにしている。

 「南京事件にかんして、喋ってはいけない、書いてはならぬ、といった緘口令のようなものが上官からありましたか」と。答えは一様に「とんでもない、なにもありませんよ」という返事であった。 同じことを従軍記者の方々にもきいてみた。やはり同様「全然ありません、但し自主規制はしていましたがね、これは報道にたずさわる者の常識です」。これが特派員諸子の異口同音の声であった。

(同書 P225〜P227) 

 ここまでお読みいただいた方にはもう解説の要もないでしょうが、一応、コメントしておきましょう。

 上の文を読むと、「一般的な報道規制」というものは存在せず、規制の対象は「流言蜚語」と個別の事件に対してのみに限定されているかのように読めます

 。しかし、「自由な報道が許されない」状況については、既に雑誌『国論』や五島氏の記述に見たとおりです。 「軍に都合の悪い」ことは一切報道できない状況にあったことは、今さら言うまでもないでしょう。

 そして氏は、「南京事件にかんして」は何の「規制」も行われておらず、従って、もし「南京事件」なるものが存在するとしたら日本国内で報道されなかったはずはない、と言いたいようです。

 それではどうして、当時多数の人々の知るところとなっていた「民間人の誤認を含む下関での捕虜殺害」が日本で報道されなかったのか。 あるいは、大量の捕虜殺害事件として知られる「幕府山事件」がどうして報道されなかったのか。おそろしい規模の「軍紀の乱れ」がなぜ報道されなかったのか。

 田中氏の記述は、問題外の暴論であると言えるでしょう。

 蛇足ですが、他のコンテンツでもしばしば見てきたとおり、田中氏は「他人の発言を自分の都合のよいようにいいかげんに歪めて伝える」という悪いクセがあるようです。

 最後に見られる「将兵」「従軍記者」の発言は、既に紹介したような実態にそぐわない奇妙なものであり、田中氏が果たして正確な記述を行っているかどうか、疑問符をつけざるを得ません。

(2005.4.23記)


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