福田篤泰氏の証言(1) 


 福田篤泰氏は、南京事件当時、外交官捕として南京日本大使館に勤務していました。戦後は衆議院議員となり、郵政大臣などを歴任しています。

 さて、この福田氏は、「南京事件」に関して、いくつかの証言を残しています。私の確認できる限りでは、5種類の「証言」が存在しますので、まずそれを時系列で並べてみましょう。

 


 
福田証言1 「一億人の昭和史」版 1979年

ティンパレー報道の真相
 

福田篤泰(当時、外交官として中華民国在勤。現衆議院議員)



 私が南京城内に入ったのは、陥落の翌日で、まだ市街戦が行われていた。上海から日本軍の進撃に同行していたのは、南京に残留している外国人を保護するために外務省の人間が必要だという軍の要請があったからだ。

 私と、上海から同行した満鉄職員四人とは、入城後ただちに新街口の中国銀行南京支店に入り、ここで特務機関といっしょに領事館業務が再開する三月ごろまで合宿して電気、水道などをはじめ、市内の復旧にあたった。 日高信六郎参事官らが船で上海から南京へ到着したのは陥落から四日後だと記憶している。

 さて、問題の”残虐事件”のことだが、まずこれを世界に流したマンチェスター・ガーディアン紙の記者T・J・ティンパレーについていえば、彼は陥落直後、結婚のために帰国したいというので、 日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させたのだが、このとき持ち出した資料をもとに『中国における日本軍の残虐行為』(一九三八年七月編集発行)を発表したと思われる。

 残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ。

 当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。 「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

 「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。

 また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。 とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。

 ティンパレーの原資料は、フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。
(注.『中国に―』の序文には、「本書作成に当っては、南京国際委員会の協力を得た」とある)

 陥落直後の日本軍が非常に殺気立っていたことは確かだった。中国軍の抵抗は激しかったし、急な進撃で兵隊のなかにはボロボロの夏服でふるえている者もいた。 途中、食糧は不足し、やせて悲惨な状況だったことが略奪の一因といえる。 さらに、安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実で、日本軍がある家を捜索したら天井から鉄砲がゴッソリ出て来たこともあった。事件は、戦場という異常な状況が生んだ異常な出来事といえよう。

 しかし、東京裁判でマギー神父が証言しているように、街路に死体がゴロゴロしていた情景はついぞ見たことはない。クリークに浮かぶ死体を見たことはあった。

 またマギー証言に登場する田中領事は、田中正一氏のことで、彼は陥落一ヵ月後くらいに漢口から来た人だ。 (注.外務省人事課によれば田中正一氏は、昭和一三年二月二八日付で南京領事となっていて、昭和三二年に死亡している)。証言にある「一二月十八日」には南京にいなかったし、着任後もそんな話をきいたことはなかった。

 ただ、各国の大使館はかなり荒らされていて、これには困った。各国外交団が南京へ戻るというので、二日間寝ずに修復したり、盗まれたオートバイや自動車を弁償したり、 えらい苦労したものだ。

 軍のなかには、強姦している兵隊を見つけて、軍刀が曲がるほど殴りつけた参謀もあったというが、「殺せ、焼け」と言った師団長がいたという話を、中国人や参謀の一人から聞きもした。


 入城後、松井軍司令官は、師団長を集めて「皇軍の赫々たる戦果はこの事件で水泡に帰した。陛下にご迷惑をかけて申し訳ない」と、泣いて訓示したと御厨(正幸)参謀から聞いた。 この話を東京裁判で話したら、記録してくれなかったのが強く印象に残っている。(談)

(毎日新聞社「一億人の昭和史 日本の戦史 日中戦争1」P261)



福田証言2 板倉正明氏「真相」版 1984年

 福田篤秦氏に資料を送り面会を求めてから数日後、私は福田氏から電話をいただいた。ちょうど衆議院選挙でとても時間がとれぬ故、電話でお話くださるとのこと。私の質問に対する答を次に要約する。

 ^儖会からの公文書についてのはっきりした記憶がないので、第六号文書の真偽の判定はできない。

◆^儖会からの申し入れや抗議の多くは、裏づけも証拠もないいい加減なもので、こちらからもしばしば抗議した。 私も外人が被害届を、よく調べもせず片っ端からタイプしているのを見て怒ったことがある。略奪中というので、参議を連れて現場に急行したが、全くその気配もなかったことがある。この時はアメリカ領事が陳謝した。

 関口という海軍士官についての記憶はなく、一緒に行動したこともないと思う。

ぁ‘ははっきりしないが、入城直後(十三日夜か十四日)上海の日高信六郎参事官から電話で「ティンパーリーが結婚するので、大至急南京から出してやってくれ」と依頼され、参謀に取り計らってくれるように頼んだ。

ァ,修慮紊匹Δ覆辰燭記憶にないが、他の記者たちと上海に帰ったのではないか。ティンパーリーと会ったことはない。

Α,里舛貌高氏が「あんなに骨を折ってやったのに、こんな本を書いてひどい男だ」とこぼしたのを聞いている。

(板倉正明氏『「南京大虐殺」の真相 ティンパーリーの陰謀』=「じゅん刊 世界と日本」昭和59年6月15日号 P78〜P80)

*この資料は、KOILさんからご提供いただきました。



福田証言3 田中正明氏「虚構」版 1984年

 福田氏は当時を回想し、筆者のインタビューに答えて次のように語る。

 ぼくは難民区事務所(寧海路五号)に時々行き、そこの国際委員会折衝するのが役目であるが、ある時アメリカ人二、三人がしきりにタイプを打っている。 ちょっとのぞくと、今日何時ころ、どこどこで日本兵が婦人に暴行を加えた―といったようなレポートをしきりに打っている。

 「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。あとから考えると、テンパーレーの例の本の材料を作っていたふしがある。 支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ(著者注.このタイプが例の四二五件におよぶ日本兵の”違法”を記録したのである)。

 ぼくは彼らの文句の受付け役で、真偽とりまぜ、何んだかんだと抗議してくる。その抗議を軍に伝え、こういう事件が起きた、何んとか処理してくれと交渉するのがぼくの役目である。

 ある時こんな例があった。アメリカの副領事がやってきて、今下関で日本兵がトラックで、アメリカの倉庫から木材を盗んでいる、というのだ。それはいかん、君も立会え、というので、参謀に電話し、急いで三人で出掛けた。 朝九時ころだったネ、雪がどんどん降って来て寒い朝だった。 三人は自動車で現地へ向かった。

 ところが現場には人の子一人もいない。倉庫は鍵が閉っており、開けた様子もない。「どうもなっていないじゃないか。おかしいじゃないか。 参謀までわざわざ来てもらったのに、これからは確かめてからにし給へ!  一つの事件でも軍は心配して、このようにおっとり刀で駈けつけてくれるのだ、気をつけ給え」といって叱ったことがある。副領事も「これから気をつけます」といって頭をかいていた。

 こんな事件は度々あった。アメリカもイギリスも、しょっちゅう軍の作戦を妨害していた。全く敵意を抱いていたネ。 でたらめというか、一方的な点が相当あった。 ティンパーレーがあることないこと一ぱい書いているが、その内容自身ほとんどが伝聞である。あの時の難民区にいたマギー外二、三人が、 ポンポンとタイプを打っていたが、支那人が言ってきたこと、噂をしていること、それをそのままタイプにし、それが彼の文章になっている。どうもそれに違いないとぼくは思う。


 日本軍に悪いところがあったのも事実である。しかし、二○万、三○万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。あの狭い城内に日本の新聞記者が一〇〇人以上も入っていたのである。 その上、外人記者も外国の大公使館の人々も見ている。船も外国の艦船が五隻も揚子江に入っている、いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である。

 ぼくは南京が陥落した十三日に入城した。馬渕(誠剛氏)と二人で、日本大使館の国旗をあげた。そしてぼくら二人が大使館の鍵を開けて最初に入ったのだ。 そのあと岡崎(勝男)大使、福井(淳)総領事等がだんだんやってきた。 その夜(十三日)、鼓楼の近くにある中国銀行で、電気はないのでローソクをともし、持ってきた缶詰を開け、一升瓶の詮を抜いて、原田熊吉、長勇、佐々木到一といったつわものと祝杯をあげたことを覚えている。

(以下「便衣兵」についての記述が続きますが、省略します)

(田中正明「”南京虐殺”の虚構」P35〜P37)

*「ゆう」注 「四二五件」との文字が見えますが、正確には、徐淑希編として知られているもので四四四件、さらに「ドイツ外交官文書」には四六六のナンバーが見えますので、 少なくともオリジナルはこの件数まではあったはずです。



福田証言4 田中正明氏「ラーベ虚妄」版 1998年

 この61通の告発書の日本側の受取人は主として日本大使館の福田篤泰(とくやす)氏である。 福田氏はのちに吉田首相の秘書官を務め、代議士となり、防衛庁長官、郵政大臣を歴任した信望ある政治家で、筆者とも昵懇であった。

 すでに6年前故人になられたが、生前福田氏は当時を回顧して私にこう語った。

「当時ぼくは寧海路の委員会本部に行くと、若者が次々と駆け込んできて、今どこどこで日本兵が輪姦しているとか、商品をかっぱらっているとか告げる。 それをマギー牧師やフイッチがタイプに打つ。そこで僕は、『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る』と幾度も抗議したことがある」

 現に福田氏自身が検証におもむいたところ、その倉庫には鍵もかかっており、盗難や略奪の痕跡すら無かった事もあったという。

 なお、福田氏は「例のティンパーリーの『中国における日本軍の暴挙』の原資料はフイッチやマギーがこうしたデタラメをタイプしたものの集積であると僕は見ている」と述べていた。

(田中正明氏「『南京の真実』は真実か?」=「月刊日本」98年1月号 P55〜P56)

*「ゆう」注 田中氏は、「現に福田氏が検証におもむいたところ、その倉庫には鍵もかかっており」 という表現で、この事件が、国際委員会が「検証もせずに」「タイプ」した事例の一つである、という錯覚を誘っています。 しかし実際には、他の証言を見ればわかる通り、これは「米国副領事」が訴えた事件であり、 「国際委員会」とは全く関係のないものです。この田中氏の書き方は、トリックと見られても仕方がないでしょう。

 



福田証言5 田中正明氏「総括」版 2001年

 こうした要望や告発の日本側の窓口は、当時外交官補佐の福田篤泰氏である。福田氏はのちに吉田首相の秘書官をつとめ、 代議士となり、防衛庁長官、行政管理庁長官、郵政大臣を歴任した信望ある政治家で、 筆者とも昵墾の間柄である(東京・千代田区在住)。福田氏は当時を回顧してこう語っている。

 「当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。

 「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」。あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」等々。 その訴えをマギー神父とかフイッチなど3、4人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。

 『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。 そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。

 ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。 それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。 朝の9時頃である。現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。「困るね、こんなことでは!」とぼくもきびしく注意したが、とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。

 テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている」

ちなみに、国際委員会書記長スミス博士も、「ここに記された事件(日本軍非行四二五件)は検証したものではない」と述べている。

(田中正明氏「南京事件の総括」P171〜P172)


*「ゆう」注 最後の「スミス博士」の「検証したものではない」は、出典不明です。私が見る限り、国際委員会文書、極東軍事裁判宣誓口供書のいずれにも出てきません。


 このうち、ネットの世界での引用頻度が最も高いのは5の「田中正明氏「総括」版」です。 しかしこのように並べると、一見して、このバージョンが極めて特異なものであることがわかると思います。

 1、2、3は、それぞれ、毎日新聞社、板倉氏、田中氏のインタビューです。4は田中氏に「生前」語ったものであると明記されています。

 ところが、この5「総括」版を見ると、「福田氏は当時を回顧してこう語っている」と、インタビューアーの名が抜け落ちていることに気がつきます。「筆者とも昵墾の間柄である」との文が直前にあることから田中氏 自身のインタビューであると錯覚しますが、よく見ると、これは、1「一億人の昭和史」版の文章を基本として、 それに自分のインタビューの内容を微妙に修正してミックスしたものであることがわかります。

  どうしてこのような形にしたのかはよくわかりませんが、少なくとも、この版の資料的価値が、最初の3つのバージョンに比較して低いものであることは、間違いなく言えるでしょう。




 1「一億人の昭和史」版と、5「田中氏『総括』版との類似性及び異動を確認します。上が「一億人の昭和史」版、下が田中氏「総括」版です。 念のためですが、以下の引用の<1>から<5>までの間、中間の「省略」は全くありません。


<1>

 当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。

                          ↓

 当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。


<2>

 「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

                            

 「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」。 あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」等々。その訴えをマギー神父とかフイッチなど3、4人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。


<3>

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。

                            

『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。 時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった


<4>


また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、 その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。

                         ↓

ある朝、アメリカの副領事館から私に抗議があった。『下関にある米国所有の木材を、日本軍がトラックで盗み出しているという情報が入った。何とかしてくれ』という。それはいかん、君も立ち会え!というので、司令部に電話して、本郷(忠夫)参謀にも同行をお願いし、副領事と3人で、雪の降る中を下関へ駆けつけた。朝の9時頃である。 現場についてみると、人の子一人もおらず、倉庫は鍵がかかっており、盗難の形跡もない。「困るね、こんなことでは!」とぼくもきびしく注意したが、とにかく、こんな訴えが、連日山のように来た。


<5>

ティンパレーの原資料は、フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。

                          ↓

テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている。



以上、全体の構成が全く同一であり、文章も極めて類似したものであることがわかると思います。

 この中では、<4>のように明らかに「3『虚構』版」がベースになっていることがわかる部分もありますが、なかには<2>の赤字部分のように根拠なく変更されているところも散見されます。


 以上のことを念頭において、以下、「証言」の内容を見ていくことにしましょう。

(2003.6.14)



2003.7.25 追記

 田中氏の近著「朝日が明かす中国の嘘」(2003.5.31発行)にも「福田証言」が掲載されていますが(P203以下)、これは田中氏の2001年「総括」版ではなく、 なぜか昔の1984年「虚構」版のものとなっています。

 近著に「2001年「総括」版」を採用しなかったことは、私の「推定」通り、この版の資料価値を疑わせしめる一つの材料になる、と言えると思います。


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