福田証言2
福田篤泰氏の証言(2) 



 福田氏の証言は、しばしば、「国際委員会文書」の信憑性を疑う材料として使われています。ネットの世界で最も頻繁に見かける、田中氏「総括」版の記述を、再掲しましょう。

田中正明氏「総括」版(2001年) 


当時ぼくは役目がら毎日のように、外人が組織した国際委員会の事務所へ出かけた。出かけてみると、中国の青年が次から次へと駆け込んでくる。

 「いまどこどこで日本の兵隊が15、6の女の子を輪姦している」。あるいは「太平路何号で日本軍が集団で押し入り物を奪っている」等々。その訴えをマギー神父とかフイッチなど3、4人が、ぼくの目の前で、どんどんタイプしているのだ。

 『ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずにそれをタイプして抗議されても困る。』と幾度も注意した。時には彼らをつれて強姦や掠奪の現場に駆けつけて見ると、何もない。住んでいる者もいない。そんな形跡もない。そういうこともいくどかあった。


 これを読む限りでは、福田氏が国際委員会文書の信憑性に疑問を持つ根拠は、以下の2点であるようです。

1.駆け込んできた「中国の青年」の話を、国際委員会メンバーがそのまま「検証もせずに」「どんどんタイプして」いた。

2.彼ら(マギー神父やフィッチ?)を連れて「現場に駆けつけて見ると」、実際には何もなかった。「そういうことがいくどかあった」。

 この「総括」版が、実は毎日新聞社「一億人の昭和史」版の焼き直しであると推定されることは、前コンテンツで述べた通りです。資料としての信頼性に疑問がある以上、他の証言と照合してみる必要があると思われます。

さて、この「根拠」を、他の証言と比較しながら検証していくことにしましょう。

 


まず最初に、2の「現場検証」証言から。

 
「一億人の昭和史」版(1979年)


当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。

また、「下関にある米国所有の木材を、日本軍が盗み出しているという通報があった」と、早朝に米国大使館から抗議が入り、ただちに雪の降るなかを本郷(忠夫)参謀と米国大使館員を連れて行くと、その形跡はない。とにかく、こんな訴えが連日、山のように来た。



 
板倉正明氏「真相」版(1984年)


 委員会からの申し入れや抗議の多くは、裏づけも証拠もないいい加減なもので、こちらからもしばしば抗議した。私も外人が被害届を、よく調べもせず片っ端からタイプしているのを見て怒ったことがある。略奪中というので、参議を連れて現場に急行したが、全くその気配もなかったことがある。この時はアメリカ領事が陳謝した。



 
田中正明氏「虚構」版(1984年)


 「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。あとから考えると、テンパーレーの例の本の材料を作っていたふしがある。支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ。

 ある時こんな例があった。アメリカの副領事がやってきて、今下関で日本兵がトラックで、アメリカの倉庫から木材を盗んでいる、というのだ。 それはいかん、君も立会え、というので、参謀に電話し、急いで三人で出掛けた。朝九時ころだったネ、雪がどんどん降って来て寒い朝だった。三人は自動車で現地へ向かった。

 ところが現場には人の子一人もいない。倉庫は鍵が閉っており、開けた様子もない。「どうもなっていないじゃないか。おかしいじゃないか。参謀までわざわざ来てもらったのに、これからは確かめてからにし給へ!  一つの事件でも軍は心配して、このようにおっとり刀で駈けつけてくれるのだ、気をつけ給え」といって叱ったことがある。副領事も「これから気をつけます」といって頭をかいていた。

  こんな事件は度々あった。




 まず「材木盗難のニセ情報事件」ですが、これはすべての証言に「目玉商品」として登場します。内容も、天気、時間、場所、同行者、会話に至るまで、非常に具体的、リアルなもので、これは大まかなところではそのまま「事実」と認定しても差し支えないと思います。

 ただし念のために付言すれば、これは「国際委員会」とは関係のない話です。この事件をもって、「国際委員会」記録の信憑性を問うことはできないでしょう。



 一方、国際委員会メンバーを伴なっての「現場検証」証言は、わずかに「一億人の昭和史」版に登場するに過ぎません。

 板倉氏「真相」版では、「現場検証」は「下関の材木盗難事件」の一件だけであるように見えます。また、田中氏「虚構」版(1984年)でも、「片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ」で話が終わっており、「メンバーとの現場検証」の話は出てきません。

 (強いて言えば、「虚構」版の最後の「こんな事件は度々あった」という表現の中に「メンバーとの現場証言」が含まれている、という読み方も、できないことはないのかもしれません。 しかし「度々」の内容は何も語られておらず、どのようなことを示すのかは全く不明です。読み手の側で、いたずらに想像を広げる必要はないでしょう)

  しかも「一億人の昭和史」版でも、証言内容は「私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない」だけであり、「材木盗難」に比較して、著しく具体性を欠きます。

 
実際の話、こちらの方が「国際委員会記録の信憑性を問う」というテーマにふさわしいエピソードであるだけに、「材木盗難」では非常に具体的な証言を行っている福田氏が、この「現場検証」証言をなぜここまで簡単に流してしまったのか、不思議に思われるところです。

 以上から、国際委員会メンバーとの「現場検証」のエピソードを、素直に「実際にあったこと」として断定してしまうのは、難しいように思われます。 福田氏の頭の中で「記憶の刷り替え」が行われてしまった可能性、あるいは、インタビューアーへのリップサービスでつい話を面白くしてしまった、という可能性も、全くないとは言い切れません。

 念のためですが、「国際委員会文書」には、外国人が福田氏とともに現場を見に行った、という記録は、私が調べる限りでは存在しません。


 なお田中氏の「総括」版(2001年)には、国際委員会メンバーとの「現場検証」について、「そういうこともいくどかあった」という表現が付け加えられています。

 「虚構」版(1984年)の最後の一行からとったものであると思われますが、これでは、「国際委員会メンバーと現場検証をしてみたら、実際には何もなかった」という事件が「いくどかあった」ことになってしまいます。田中氏に意図的なものがないとしたら、非常に誤解を招く表現です。

 


 次に、駆け込んできた「中国の青年」の話を、国際委員会メンバーがそのまま「どんどんタイプしている」との証言を、検討しましょう。前とダブリますが、同じように他の証言の関連部分を並べてみます。

 
「一億人の昭和史」版(1979年)


当時、私は毎日のように、外国人が組織した国際委員会の事務所へ出かけていたが、そこへ中国人が次から次へとかけ込んでくる。 「いま、上海路何号で一〇歳くらいの少女が五人の日本兵に強姦されている」あるいは「八〇歳ぐらいの老婆が強姦された」等々、その訴えを、フィッチ神父が、私の目の前で、どんどんタイプしているのだ。

「ちょっと待ってくれ。君たちは検証もせずに、それを記録するのか」と、私は彼らを連れて現場へ行ってみると、何もない。住んでいる者もいない。



 
板倉正明氏「真相」版(1984年)


 委員会からの申し入れや抗議の多くは、裏づけも証拠もないいい加減なもので、こちらからもしばしば抗議した。 私も外人が被害届を、よく調べもせず片っ端からタイプしているのを見て怒ったことがある。略奪中というので、参議を連れて現場に急行したが、全くその気配もなかったことがある。この時はアメリカ領事が陳謝した。


 
田中正明氏「虚構」版(1984年)


 ぼくは難民区事務所(寧海路五号)に時々行き、そこの国際委員会折衝するのが役目であるが、ある時アメリカ人二、三人がしきりにタイプを打っている。ちょっとのぞくと、今日何時ころ、どこどこで日本兵が婦人に暴行を加えた―といったようなレポートをしきりに打っている。

 「君! だれに聞いたか知らないが、調べもしないで、そんなことを一方的に打ってはいかんね。調べてからにし給へ」とたしなめたことがある。・・・支那人の言うことを、そのまま調べもしないで、片っぱしから記録するのはおかしいじゃないかと、その後もぼくはいくども注意したものだ。


 常識で考えれば、「総括」版(2001年)の元ネタであると推定される「一億人の昭和史」版の証言内容は、不自然です。 「いま、・・・少女が五人の日本兵に強姦されている」と訴えが来たのであれば、のんびりとタイプを打っている場合ではありません。福田氏に言われるまでもなく、何を差し置いても、現場に駆けつけるはずです。

 板倉氏「真相」版、田中氏「虚構」版では、このような不自然さはありません。特に「虚構」版では、「今日何時ころ」という表現が見られ、明らかに「事後的に記録をまとめた」ものであることがわかります。



 この部分については、むしろ「虚構」版の証言の方が正確なのではないか、と私には思われます。「いくども注意」した時の「国際委員会」側の反応が全く書かれていないことが気になりますが、福田氏が、「アメリカ人(フィッチ?)」が暴行記録をタイプで打っている場面を目撃した、ということは、おそらく事実でしょう。

 しかしこの福田氏の体験が、ただちに「国際委員会」記録の信憑性を疑わせるものになるとは、言えないようです。「極東軍事裁判」におけるスマイスの宣誓口供書の記述を掲げます。

極東軍事裁判 スマイス宣誓口供書より  

 日本人が南京へ入城の後、一般支那市民や武装を解除された兵士に対する虐待行為に関して、我々が抗議を提出せざるを得ない事件が幾つも明(か)になつて来ました。

 私の役目は抗議書の下書きを作ることでした。
「レーブ」(「ゆう」注 ラーベ)氏の意見で我々外国人もその抗議書類に署名をする事で一役手伝をする事になりました。

 我々は日本軍占領以来の六週間もの間殆ど毎日二通の抗議書を提出し続けました。 大抵の場合その一通は「レーブ」氏か私が日本の大使館に持参し他の一通は使の者に届けさせました。

 私は事件の顛末を書き上げ大使館に届けられる前にそれが果して正確か否かを検討するのに出来るだけの努力を払ひました。

 出来る限り如何なる時でも私はその事件を検分した委員会の代表者に会ふ事にして居ました。私は自分で考へて適確に報告されて居ると思う事件丈けを日本大使館に報告して居りました。

(中略)

「レーブ」氏と私が毎日の様に行った日本大使館での会談で彼等(日本人)はこれ等の正確さを否定する暇もありませんでした。彼等は何等かの処置を執ると云ふ口約を続けるのみでありました。

(「南京大残虐事件資料集1」P113)




  つまり、フィッチらによって「記録」されたものがそのまま「抗議」に使われたわけではありません。「委員会」による「検分」を経た上で、スマイスが「事件を検分した委員会の代表者に会」い、「自分で考へて適確に報告されて」いる事件のみが、日本大使館に報告されたわけです。

 当然のことで、スマイスにしても、不正確な報告をして日本側の「反撃」を受けることに、十分な警戒を払ったものと思われます。(蛇足ですが、福田証言をいくら見ても、「国際委員会報告」の実際の報告内容の誤りを具体的に指摘したものはありません)


 時間的・人的な制約から、国際委員会の側でも、すべての事例について完全な裏付けをとることは、不可能だったかもしれません。

 しかしスマイスの文を見る限り、 「国際委員会」が、不意に駆け込んできた得体の知れない証言者の訴えをそのまま「抗議」の材料としたとは考えにくく、スマイスなどが、証言者の資質、具体的な証言内容などを総合的に判断して最終的な「事実認定」を行った、と見た方が妥当であるようです。

 少なくとも、福田氏のイメージするような「情報の垂れ流しに基づく抗議」は行われていなかった、と思われます。


 参考までに、ティンパーリ「戦争とは何か」からも、引用しておきましょう。

 
「戦争とは何か」 

  もともと作成された報告は一七〇件あったが(引用者注 12月13日から年末まで)、これらにしても、南京安全区国際委員会の目に留まった事件の中から選び出したものに過ぎない。 報告の大半はいずれもおそらく真実であろうが、その大部分のものは即座に証明することができないために保留された。

(「南京大残虐事件資料集1」P103)



 


以上、結論としては、次のようになると思います。

1.福田氏がフィッチらを連れて現場検証を行ったという証言は、不自然さが感じられ、信頼性に欠ける。

2.福田氏が、国際委員会事務所で事件をタイプしている現場を見たことはおそらく事実だろうが、国際委員会が中国人の報告をそのまま鵜呑みにして日本大使館への抗議に使った、というのは誤りであると思われる。


 さて最後に、福田証言の他の部分を見ていくことにしましょう。非常に「事実誤認」が多い証言であることがわかると思います。

(2003.6.15)


HOME 次へ