福田証言3
福田篤泰氏の証言(3) 


 以上、「国際委員会記録」に関する部分を見てきましたが、このコンテンツでは、「福田証言」のその他のところを見ていきたいと思います。

 以下、最も詳細で、かつ内容が多岐にわたっている、「一億人の昭和史」版を使用します。元の文は、こちらをどうぞ。




 
福田篤秦氏の証言 「一億人の昭和史」版より (1)

  さて、問題の”残虐事件”のことだが、まずこれを世界に流したマンチェスター・ガーディアン紙の記者T・J・ティンパレーについていえば、彼は陥落直後、結婚のために帰国したいというので、 日高氏が骨を折って軍にかけ合い、何とか出国証明をとって帰国させたのだが、このとき持ち出した資料をもとに『中国における日本軍の残虐行為』(一九三八年七月編集発行)を発表したと思われる。



   「ティンパレー」を、「結婚のために」「出国証明をとって帰国させた」というのは、福田氏の記憶違いであると思われます。「クレーガー」が、「結婚のために」南京を出て上海へ向かった、というエピソードと混同しているようです。 詳しくは、渡辺久志さんの論稿「『曾虚白自伝』引用の問題点」をご覧下さい。

 
ジョン・ラーベ日記 1月16日

 日本大使館での晩餐会はいともなごやかな雰囲気のうちにすぎていった。出席者は全部で十三人。日本大使館の人たちのほか、 委員会から九人。ヴォートリン、バウアー、ベイツ、ミルズ、スマイス、トリマー、クレーガー、それから私。マギーは食事が始まってからやってきた。遅刻癖はあるが、それを除けば愛すべき仲間だ。

 この席でクレーガーは、上海への旅行が許可されたとの知らせを受け取った。やれやれ、本当に良かった。なにしろ、クレーガーは結婚を控えているのだから。

 代わりの人をどうするかが問題だ。クレーガーは財務担当だが、そう簡単には見つからないだろう。食事は素晴らしくおいしかった。

(文庫版「南京の真実」P212〜P213)



  従って、「ティンパレー」が「このとき持ち出した資料」云々は、間違いということになります。

 


福田篤秦氏の証言 「一億人の昭和史」版より (2)

 残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されているようだ。(中略)

 ティンパレーの原資料は、フィッチが現場を見ずにタイプした報告と考えられる。


  テインパーリ「戦争とは何か」を実際に読んだ方でしたら、ここでちょっと引っ掛かると思います。

  「戦争とは何か」は、ベイツ、フィッチらの日記体の報告がメインであり、「フィッチが現場を見ずにタイプした報告」なるものは、「暴行事件の報告」として、「附録」として記載されているに過ぎません。「暴行事件の報告」が全体に占めるスペースは、わずかなものです。

 福田氏は、実際にはこの本を読んでいないのでしょうか? 少なくとも福田氏の証言は、ベイツやフィッチなどの詳細な報告を含む「戦争とは何か」の全体を否定するものにはなっていません。


なお「総括」版では、記述がさらにエスカレートしています。

福田篤秦氏の証言 田中正明氏「総括」版より

 テインパーリーの例の『中国における日本軍の暴虐』の原資料は、フイッチかマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告があらかただと僕は思っている。



  「一億人の昭和史」版は「テインバレーの原資料」との表現で、これは「暴行事件の報告」のみを指している、という解釈も、苦しいながらもできなくはありません。

  田中氏の記述のようにここで書名を特定すると、「戦争とは何か」全体が「フィッチがマギーかが現場を見ずにタイプして上海に送稿した報告」からできているように誤読されます。




 
福田篤秦氏の証言 「一億人の昭和史」版より (3)

  またマギー証言に登場する田中領事は、田中正一氏のことで、彼は陥落一ヵ月後くらいに漢口から来た人だ。証言にある「一二月十八日」には南京にいなかったし、着任後もそんな話をきいたことはなかった。



「マギー証言」の、「田中領事」に関する該当部分です。

 
極東軍事裁判 マギー証言より

 十二月八(十八)日のことであります。私は日本大使館の田中領事と一緒に同行することを要求されて、一緒に行つたのでありますが、 それは南京の市内の外国人の住んで居る場所へ行つて、外国人の所有物を指摘し、それを保護する為に掲示をなす外国の財産を一々それを指示すると云ふ為でありました。

(引用者注 「田中領事」に続けて(田中末雄理事官)とのカッコでの訳注あり。また、「市内の外国人の住んで居る場所」は、「マギー師の宣誓口供書に、「下関市の端にある外国人所有地」とあるのが正しいと思われる」との訳注あり)

 私が城壁外に出ることは殆ど不可能であつたのであります。唯田中領事と同伴の下でありましたので、城壁外に出ることが出来たのであります。 私は近道をしようと思つて、横道に入りましたけれども、屍体が多くて、屍体の上を運転して行かなければ通れないのでありまして、到頭私達は其の横道を引返した程でありました。

 丁度私共は「バターフィールド・アンド・スワイア」会社のある海岸の「バンド」の所まで行つたのでありますが、其処へ来ますと、田中領事は何か用事があつて其の建物の中に入つたのであります。 田中領事は日本人の警官と一緒に其の店に入つたのであります。私が待つて居ります間に、海岸の所へ行つて下を見下しますと、其処に約三つになつて居る屍体の固まりがあるのを見たのであります。

 私は其の屍体が正確に、どの位であつたかと云ふことは申上げ兼ねますが、大体の見当では約三百から五百と思ふのであります。是は多分実際よりも少かつたと思ふのであります。 其の屍体の着て居りまする衣類は非常に焼けて居りました。さうして身体の到る処に傷があつたのでありまして、其の状況から見ますと、彼等は殺された後焼かれたと云ふことが分かるのであります。

(「南京大残虐事件資料集 第1巻」P90。読みやすくするために、「一億人の昭和史」の記述に倣って、「宮本モニター」による「訂正」はすべて文中に押し込めました



これについては、洞富雄氏が、「南京大虐殺の証明」の中で明快な説明を行っています。

洞富雄氏「南京大虐殺の証明」より

 福田氏は、マギー証言の信憑性を疑わせる証拠として、こうしたことを言っているかのようであるが、これは氏の誤解である。

 たしかに、マギー師は一九四六年八月十五日の東京裁判法廷で、「田中領事」と同行したことをのべている。

 福田氏はこんなふうにいうが、 じつは日本大使館には理事官として田中末雄氏がいたのである。マギー師は理事官を領事にまちがえたまでで、氏の証言を偽証とする理由にはならない。

 なお、安全区国際委員会から大使館へ一九三七年十二月十九日に提出した日本兵暴行記録の第六一件にも「田中氏」の名が見えている。

(「南京大虐殺の証明」P25〜P26)





  以上、「福田証言」を検証してきました。否定派からは「国際委員会記録の信憑性」を否定する材料としてよく使われますが、それほどの材料ではなく、また詳しく見てみるとおかしなところがかなりある、ということが言えると思います。

(2003.6.15)


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