石射猪太郎氏の証言(1)
石射猪太郎氏の証言(1)


  石射猪太郎氏は、近衛内閣の外務省東亜局長として、軍部の日中戦争拡大方針に反対したことで知られています。「南京事件」については、次の記述を残しています。

「外交官の一生」より

  南京は暮れの一三日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、放火、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危いとさえ報ぜられた。一九三八(昭和一三)年一月六日の日記にいう。
上海から来信、南京におけるわが軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。

  南京、上海からの報告の中で、最も目立った暴虐の首魁の一人は、元弁護士の某応召中尉であった。部下を使って宿営所に女を拉し来っては暴行を加え、悪鬼のごとくふるまった。何か言えばすぐ銃剣をがちゃつかせるので、危険で近よれないらしかった。

 私は三省事務局長会議でたびたび陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量の暴行なので手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。

 当時南京在留の外国人達の組織した国際安全委員会なるものから日本側に提出された報告書には、昭和一三年一月末、数日間の出来事として、七十余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、六十余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、ほとんど読むに耐えないものであった。

 その頃、参謀本部第二部長本間少将が、軍紀粛正のため現地に派遣されたと伝えられ、それが巧を奏したのか、暴虐事件はやがて下火になっていった。

 これが聖戦と呼ばれ、皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティーズと呼びならわしていた。暴虐という漢字よりも適切な語感が出るからである。

 日本の新聞は、記事差し止めのために、この同胞の鬼畜の行為に沈黙を守ったが、悪事は直ちに千里を走って海外に大センセーションを引き起こし、あらゆる非難が日本軍に向けられた。わが民族史上、千古の汚点、知らぬは日本国民ばかり大衆はいわゆる赫々たる戦果を礼賛するのみであった。

(「外交官の一生」 中公文庫版 P332-P333)




 この「石射証言」を、氏の「人格攻撃」を行うことにより否定し去ろうとする記述が存在します。田中正明氏「南京事件の総括」です。

田中正明氏「南京事件の総括」より

 福田氏は現地で、実際に中国人や国際委員会の抗議を吟味してその内容の多くがでたらめであることを知っているが、回続々と送られてくる日本軍の暴行に対する国際委員会の抗議を受け取った当時の外務相東亜局の驚きはどんなであったか。

  東亜局長石射猪太郎氏は、回顧録『外交官の一生』(読売新聞社出版部)の中で次のように書いている。

 昭和13年1月6日の日記にいう。

 上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦目もあてられぬ惨情とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の頽廃であろう。大きな社会問題だ。(中略)これが聖戦と呼ばれ皇軍と呼ばれるものの姿であった。私はその当時からこの事件を南京アトロシティと呼びならわしていた
(前掲同書三〇五〜六ページ)。
 この文章は虐殺派がよく利用する。石射氏がこのようなでたらめ抗議を信用し、軍に反感を抱くにいたったには、それなりの原因がある。
 
(「南京事件の総括」P172〜P173)




まず、「事実の誤り」から指摘しておきましょう。田中氏は、どうやら「極東軍事裁判」における石射証言を読んでいないようです。

 まず氏は、東亜局がリアルタイムで「国際委員会の抗議」を受けとっていた、という誤解をしているようです。「毎回続々と送られてくる日本軍の暴行に対する国際委員会の抗議」という表現から、そのことが読み取れます。

実際は、こうでした。

「極東軍事裁判」 石射証言より

○コミンズ・カー検察官 南京における国際安全委員会から、陸続として報告が ― 南京の総領事からこういう報告を陸続として入手したときに、あなたはどういう措置をとりましたか。

○石射証人 ただいま陸続としてということを言われたようですが、私の記憶では一まとめになつて、一回あるいは二回来たかと思います。

(「南京大残虐事件資料集1」P223-P224)

*「ゆう」注 石射氏は、「極東軍事裁判」に、弁護側証人として出廷しています。広田外相(当時)が、「南京アトロシテーズ」を何とか止めようとしていた、と証言する役回りです。


 さらに決定的な「誤解」は、どうやら田中氏は、石射氏が国際委員会の「でたらめ抗議を信用し」て、「アトロシテーズ」の存在を認識した、と思い込んでいることです。「宣誓口供書」から引用しましょう。

極東軍事裁判 石射猪太郎証人「宣誓口供書」

 私が東亜局長に任ぜられた後約二箇月、一九三七年七月七日、盧溝橋事件が勃発した。同年十二月十三日頃、我軍が南京に入城する、其のあとを逐つて、我南京総領事代理(福井淳氏)も上海から南京に帰復(ママ)した。同総領事代理から本省への最初の現地報告は我軍のアトロシテーズに関するものであつた。此の電信報告は遅滞なく東亜局から陸軍省軍務局長宛に送付された。

 当時、外務大臣は此の報告に驚き且心配して、私に対し早く何とかせねばならぬと御話があつたので、私は電信写は既に陸軍省に送付されて居る事、陸海外三省事務当局連絡会議の席上、私から軍当局に警告すべき事を大臣にお答へした。

   其の直後、連絡会議が私の事務室で行はれ(会議は必要に応じ随時東亜局長室で行はれる慣行となつて居る。本来陸海両省の軍務局長及東亜局長が出席する事になつて居たが、其の頃は陸海両省の軍務局第一課長及東亜局長第一課長が出席し東亜局長が主会(ママ)する様になつて居た)、其の席上、私は陸軍省軍務第一課長に対し右アトロシテーズ問題を提起し、苟も聖戦と称し皇軍と称する戦争に於てこれは余りヒドイ、早速厳重措置する事を切実に申入れた。同課長も全く同感で、右申入れを受け入れた。

  其の後いくばくもなくして在南京総領事代理から書面報告が本省へ到着した。それは南京在住の第三国人で組織された国際安全委員会が作成した我軍アトロシテーズの詳報であつて、英文でタイプされてあり、それを我南京総領事館で受付け、本省に輸送して来たものである。

 私は逐一之に目を通し、其の概要を直ちに大臣に報告した。そして大臣の意を受けて、私は次の連絡会議の席上、陸軍々務局第一課長に其の報告書を提示し、重ねて厳重措置方を要望したが、軍は最早既に現地軍に厳重に云つてやつたとの話であつた。

   其の後、現地軍のアトロシテーズは大分下火になつた。翌一九三八年一月の末頃と記憶するが、陸軍中央では特に人を現地軍に派遣したあとで、其の派遣された人物は本間少将である事がわかつた。それ以降、南京アトロシテーズは終止した。

(「南京大残虐事件資料集1」P220)

*「ゆう」注 「陸軍省軍務第一課長」は、証言の中で、「陸軍大佐柴山兼四郎」に訂正されています。


 石射氏は、「国際安全委員会文書」を受け取る以前に、「南京総領事代理(福井淳氏)」から「本省への最初の現地報告」によって、既に「アトロシテーズ」の存在を認識していました。そして軍も、「国際安全委員会文書」による抗議以前に、「既に現地軍に厳重に云つてやつ」ています。

 従って、石射氏が「国際委員会の抗議」のみを材料に「驚き」を感じたかのように書く田中氏の文章は、誤りです。

 さらに言えば、田中氏は、石射氏が当時の日本において特異な見解を示していたかのような「印象操作」を行っていますが、実際には、「南京アトロシテーズ」などの陸軍の不軍紀ぶりを憂慮する見方は、石射氏のみのものではありませんでした。「資料:日本人の著作に見る「南京事件」」にいくつかの資料を掲載しておきましたので、ご覧下さい。

 


 2004.10.7追記 

 上記「資料:日本軍の著作に見る「南京事件」」の収録外のものとして、外務省東亜局第一課長(当時)、上村伸一氏の記述を、ここに紹介します。

上村伸一氏「破滅への道」より

政戦の不一致 南京での暴行 

 東京の方針はすでに和平に決定し、杭州湾上陸は上海救援のためであった。上海が包囲され、日本軍が守勢のままで和平交渉に入るのは不利だから、上海包囲軍を撃退することは必要であった。しかし敗軍をどこまでも追うのは和平という政治目的からの逸脱である。やむなくそこまで行ったとしても、軍は南京の前で止まり、南京を睨む形で交渉を進めるのが当然である。

 しかるに中央の統制が利かず、日本軍は十二月十三日、南京に突入した。それのみならず暴行の限りをつくし、世界の反感を買った。当時南京の外国人各種団体から日本に寄せられた抗議や報告、写真の類は、東亜一課の室に山積され、私も少しは眼を通したが、写真などは眼を覆いたくなるようなひどいものであった。

 私は北清事変(一九〇〇年)当時、日本の軍規厳正が世界賞讃の的になったことなどを思い出し、変りはてた日本軍によるこの戦争の前途に暗い思いをしたものである。

(P81)


 (続く)

(2003.6.1)


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