石射猪太郎氏の証言(2)


 田中氏の文を続けます。

田中正明氏「南京事件の総括」より


 昭和十二年十二月十四日(南京占領の翌日)に開かれた「大本営連絡会議」で、軍と激突し、次のように憤激している。
 
「こうなれば案文などどうでもよし、日本は行く処まで行って、行詰らねば駄目と見切をつける(同日の『日記』より)。私はむしろサバサバした気持ちになり、反逆的な快味さえ感じた」(前掲同書三〇〇〜三〇三ページ)。

 このように「反逆的快味」すら感じていた石射氏にとって、南京における陸軍の失点は反撃のチャンスでありザマミロということになる。「南京アトロシティー」は石射氏にとって陸軍を攻撃する格好の材料であったのだ。

(「南京事件の総括」P172〜P174)


 このように引用すると、石射氏は、もう日本がどうなろうとどうでもいい、陸軍さえ攻撃できればいい、と考えていたかのように読めます。しかしこれは、前後の文脈を無視した、トリッキーな文章です。

 少なくとも、最後の「石射氏にとって、南京における陸軍の失点は反撃のチャンスでありザマミロということになる。「南京アトロシティー」は石射氏にとって陸軍を攻撃する格好の材料であったのだ」との記述は、田中氏の単なる「想像」に過ぎません。田中氏がこの「外交官の一生」を自分で読んだのかどうかすら、怪しまれる記述です。


 経緯を見てみましょう。

 日中戦争が泥沼化しようとする水面下で、何とか戦争拡大を回避しようとする和平交渉が進められていました。しかし戦況が日本側に有利に進む中、日本側の和平条件は、最終的には中国側が到底呑めないような苛酷なものになってしまいます。

 このような状況下、石射氏は、最後まで「和平」に努力した人物です。

中公文庫「日本の歴史」25  「太平洋戦争」より


 広田外相はその効果を疑いながらも、十一月二日、和平条件を駐日独大使ディルクセンに伝えた。

(中略)

 しかし政府のほうでも、戦果の拡大にともなって、十一月二日の条件を加重しようという意見が強まっており、蒋介石の華北の主権保持などの要求が伝えられると、閣議では、広田外相・杉山陸相・近衛首相らが条件加重について発言、「だいたい敗者としての言辞無礼なりと結論に達し、その他みな賛同せり」というありさまだった(堀場一雄『支那事変戦争指導史』)。

 十二月二十二日、広田外相からディルクセン駐日独大使に伝えられた講和条件には、満州国の正式承認、日本軍占領地域を非武装地帯とする、賠償の支払いなどの新たな要求が含まれていた。

 この条件を決めるため、十二月十三日から十七日にかけて連日、大本営政府連絡会議が開かれたが、この条件では和平成立の公算はなくなるから再検討したいという、石射猪太郎外務省東亜局長や風見書記官長の意見は無視された。内閣も、和平交渉を真剣に行なうという気はなくなっていた。

(「日本の歴史25 太平洋戦争」P60-P62)



 石射氏自身の記述を見ます。

  
「外交官の一生」より

政府大本営連絡会議 − 和平条件の加重

 連絡会議は、一二月一三日と予定されたが、その日は首相の都合でお流れとなり、翌一四日午後首相官邸において開かれた。

(中略)

 和平条件案は、すでに幹事から各員に配られていたので、私はすぐ説明にとりかかった。まずこの案が大乗的見地から立案された次第を述べ、しかもなお中国側の受諾を疑問視せざるを得ないとの観測を前提として、逐条的に説明を加えた。

 説明が終わると、質疑応答、続いて意見交換に入った。近衛首相は終始沈黙していた。原案を忠実に支持したのは米内海相と古賀軍令部次長のみで、多田、末次、杉山、賀屋の諸氏から出された異論によって条件が加重されていった。

 末次内相は折々隣席の米内海相に向って「海軍はこんな寛大な条件でいいのか」とか、「華南地区に海軍基地として永久占領地を持つ必要はないのか」と詰問を放った。かねてから和平論者との評がある多田次長から、条件加重の意見が出たのは不可解であった。わが広田外相に至っては一言も発言しない。

 私はもう我慢ならなくなった。説明以外に発言権のない立場を忘れて立ち上がり「かくのごとく条件が加重されるのでは、中国側は到底和平に応じないであろう」と争った。この発言は冷たく無視された。誰も応ずる者がいないのである。

 (中略)

 これは明らかに、中国に降参を強いるものではないか。列席者が席を立つのを待ちかねた私は、両軍務局長に向って言った。

「これではぶちこわしだ。もう一度連絡会議のやり直しを工作しようではないか」

「一旦きまった以上、やり直しは不可能だ」、両局長が同音に答えた。私は涙を呑む思いで引き揚げた。折から、南京陥落祝賀の大提灯行列が街路を遊行していた。一二月一四、一五両日の日記を見る。
 続いて連絡会議、我輩呼び入れられて案の説明をなす。賀屋、末次新内相、陸相、参謀次長等強硬論をはき、わが方大臣一言もいわず、とうとう陸軍案にして了わる。アキレタ話。

 こうなれば案文などはどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰まらねば駄目と見切りをつける。
(「外交官の一生」P326-P328)


「外交官の一生」より

「国民政府を相手とせず」

 年が改まって一九三八(昭和一三)年一月四日、デリクセン大使から広田大臣に国民政府との接触状況について中間報告がもたらされたが、諾否の確報はまだしであった。この前後から、もう和平交渉を打ち切って、国民政府との国交を絶つべきだとの声が、軍と政党方面から聞こえつつあった。

 私は大臣に進言した。あの加重された条件では、到底色よい回答が中国側から来るはずがありません。和平はさしあたり絶望です。日本が事変を持てあまして、目が醒めるまでは、時局を救う途はありません。そうした時期はやがて到来します。それまでは「国民政府を相手とせず」結構です。この点については私は争いません、と。

 (中略)

 明くれば一六日、連絡会議の決定が、広田大臣からデリクセン大使に伝えられ、声明が公表された。私はむしろサバサバした気持になり、反逆的な快味をさえ感じた。

(「外交官の一生」P329〜P330)


  石射氏が国の行く末を真剣に思い悩み、「和平」の実現に必死の努力を払っていたことがわかります。しかし「会議」の結論は、石射氏の思惑からかけ離れてしまい、結局日本は「戦争拡大」への道を突き進むことになってしまいました。

 経緯を見ると、石射氏の絶望感は、十分理解できるところでしょう。その絶望感が、「こうなれば案文などはどうでもよし。日本は行く処まで行って、行き詰まらねば駄目と見切りをつける」という、半ばやけくその発言として吐露されたわけです。

 しかし実際には、氏は、その後も「和平」への情熱を失わず、引続き戦争回避の努力を行ったことは特筆しておきます。

 氏の発言のごく一部を抜き出して、「石射氏にとって、南京における陸軍の失点は反撃のチャンスでありザマミロということになる」と言ってのける田中氏の記述は、石射氏の心情を意図的に歪めるものでしかありません。 

(続く)

(2003.6.1)


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