石射猪太郎氏の証言(3)


 田中氏の文には、次にこんな記述が見えます。

田中正明氏「南京事件の総括」より

  石射氏の陸軍に対する憎しみは反日的情念にまで結びついた感がある。なにしろ、石射氏のこの回顧録を見ると、始めから終わりまで、日本と中国の関係を「日中」ではなくて「中日」と記述しているのである。すなわち中国を主として、日本を従とする思考様式である。

(「南京事件の総括」P172〜P174)


 「陸軍に対する憎しみ」が「反日的情念にまで結びついた」というのは、例によって田中氏の「想像」であるに過ぎません。

 石射氏が、この本では「日中」を「中日」と記述しているのは事実です。しかしこれをもって、氏を「反日的情念」を持つ人物である、と断定することはできないでしょう。「回顧録」を素直に読めば、常に日本の将来を憂い、自分の信じるところに従って必死に行動する一外交官の姿が浮かび上がってくるはずです。


 なぜ氏が「中日」という表現を使用しているのかは判然としませんが、終戦直後の一時期、あまり抵抗なくこのような表現が使われる「時代の雰囲気」があったのかもしれません。

 例えば、石射氏と同じ「東亜同文書院」の出身である岡田尚氏(松井軍司令官付)も、「極東軍事裁判」での「宣誓口供書」の中で、やはり「中日」との表現を、ざっと数えても少なくとも9回、使用しています。例えば、こんな具合です。

極東軍事裁判 岡田尚証人「宣誓口供書」より

 其の際、大将より証人の任務に関し、次の様な話がありました。

 「自分は日本陸軍の先輩川上操六や中華民国の国親孫文等の思想を継承して、日支親善提携して亜細亜の解放・興隆を計る為めに数十年来努力し来たつた者であるが、今回、中日不祥事変を発生したるに際し、図らずも派遣軍司令官に任ぜられたことは感慨無量である。・・・」

(「南京大残虐事件資料集1」P262)



中国の元老であり大先輩たる唐紹儀先生、日本の事情に通じてゐた李択一先生等とは懇談の機会を得、中日両国の不幸を少しでも早く解消する事に苦心致しました。

(「南京大残虐事件資料集1」P262)


 この岡田尚氏は、阿羅健一氏「南京事件 日本人48人の証言」にも登場します(同書P192〜)。「極東軍事裁判」において「中日」との表現を使用したことだけを材料に、岡田氏を「反日的情念」を持つ人物である、と考える人は、まず存在しないでしょう。




 最後に、「勲章」論議です。

田中正明氏「南京事件の総括」より

 日本国天皇からもらった勲章には「愛想をつかしていた」(同四五九ページ)が、中国からもらった勲章は「光栄とし愉快とする」(同四六〇ページ)などと臆面もなく書いている。このような人物が当時の日本外務省の東亜局長だったのである。

(「南京事件の総括」P172〜P174)


 まるで石射氏が、「日本国天皇」が大嫌いで、「中国」からの「勲章」に単純に大喜びをしている、変わった人物であるかのように記述しています。氏の真意を確認するために、元の文を見てみましょう。


 まず日本の勲章については、このように語っています。

「外交官の一生」より

 が、他の官庁は知らず、外務省人は多少の例外はあっても、なべて叙位叙勲に冷淡であったといえる。官吏をしておれば、年功なるものによって定期叙勲があり、そのうえに外務省は、外国との勲章のやり取りに介在するので、みな勲章ずれしている。そこに冷淡の原因があったのかもしれない。

 その中にあっても、私は勲章に対して最も冷淡な一人であった。全く無関心でさえあった。私にしては、多くの場合、その人の功績を、公平に評価するものとは思われなかった。殊に何々事件の功によりなどと総花式に授けられる勲章に至っては、無意味に近いと思った。

 自分では逆行的態度を持した満州事変でさえ、私は功により勲四等旭日に叙せられた。他の人々へのご相伴表彰に過ぎなかった。心に染まぬ叙勲ではあるが、これを辞する手は許されない。

 もう一つ叙勲に対して私を冷淡にしたものは、軍人の叙勲であった。叙勲規則が、彼らに厚くできているのであろう、少佐、中佐にして勲三等などの高級勲章を吊る者が珍らしくない。鉄砲の撃ち合いさえすれば、それがたとえ日本の国策に悪影響を来たすものでも、彼らの勲等が進むのだ。

 士気鼓舞のためとはいえ、こうした連中とともに功を論ぜられるのを潔しとしないが、どうにもならぬ。だからどうでもよい。つまり私は、勲章なるものに愛想をつかしていたのであった。


(「外交官の一生」P501〜P502)

  まず確認しておきますが、石射氏は、「日本国天皇」という単語を、一度も使用していません。「勲章」の前にわざわざ「日本国天皇からもらった」という説明書きをつけるのは、「石射氏が天皇に愛想をつかしていた」と読ませるための田中氏のトリックです。


 さて、石射氏の考えです。要約すれば、こうなるでしょうか。

 日本の勲章は、「年功」によって貰えるもので、「その人の功績を公平に評価するもの」ではない。しかも軍人優遇で、「少佐、中佐にして勲三等などの高級勲章を吊る者が珍しくない」。だから貰ってもあまり嬉しいものではない。

 あるいは立場によってはこれを「けしからん」と感じる方もいるのかもしれませんが、私には十分納得できる感じ方であるように思えます。 

 それに比べて、外国からの勲章はどうか。田中氏はカットしていますが、氏は「シャム」(タイ)からの勲章にも、「光栄と喜悦」を感じています。

「外交官の一生」より

 外務省員は職掌柄、外国から叙勲される場合が多かった。私も外国の高級勲章を二度もらった。これは衷心うれしかった。

 
一つはシャム政府から贈られたグラン・クロア・クローン勲章であった。駐シャム公使であったための儀礼的叙勲ではあったが、これは別な意味が付加されていた。

 各国ともに同様であるらしいが、シャムにおいても外国公使に対する儀礼的叙勲は、二年以上在勤した公使に限るとされていた。しかるにシャム在勤わずか半年の私に、この勲章が贈られたのは全くの例外であって、私が半年の在勤中に、シャム国に寄せた好意が高く評価されたのだと、在京シャム公使が本国政府の意向として、説明してくれた。そこに在勤中私の寄せた厚意が、シャム政府にありのまま反映したのを知って、私は光栄と喜悦を禁じ得なかった。

 他の一つは、私が上海総領事たりしことに対して、国民政府から贈られた藍玉大綬章であった。一九二七年、国民政府が南京に成立して以来、中国勲章を贈られた日本人は、私の知る限り官民を通じてわずかに三人。有吉大使、堀内(干)書記官、それに私であった。

 殊に一地方的総領事に対しての叙勲は異例であるとせられた。国民政府から特別の説明はなかったが、ひっきょう私が総領事として「上海を無風状態に置く」ことに払った努力が、表彰されたものであろうと自解して、これも私の光栄とし、愉快とするところであった。

(「外交官の一生」P503)


 「年功」で貰える日本の勲章とは違い、自分の実質面の活動が評価された受賞である。だから「光栄」に思う。これまた、別におかしな発言ではありません。

 石射氏は、別に「日本の勲章」だからそれを嫌い、「中国の勲章」だからそれを「光栄とし、愉快と」したわけではありません。自分の業績を評価してくれているのが「シャム」「中国」の勲章だったから、それを「光栄」としているだけの話です。


 さらに言えば、氏は大使などとして赴任する際に、何度か天皇に拝謁しています。氏は天皇に対し、少なからず好意を持っていたようです。

「外交官の一生」より

 こうした場面を数えあげてみると、私が天皇に咫尺(しせき)した回数は十指に満たず、時を累積してみても、総計三時間を出ない。君臣まことに稀薄な関係であったが、その短い時間の間にも、天皇の円満なる御人格を感じ得た。(P498-P499)

 殊にその平和主義者であり、非軍国主義であられることは、かねがね松平宮相やその他の側近からの内話で、私の信じて疑わざるところであった。(P499)


 田中氏は、このような記述を、おそらくは意図的にネグレクトしています。



 参考までに、同時代の外交官、田尻愛義氏の記述を引用します。石射氏と同じように、「勲章」に対して冷淡な態度を示していることがわかります。

田尻愛義氏『田尻愛義回想録』より

 これも余談だが、一年くらい後で、漢口事件と山東出兵を併せて一本にして、海陸軍の申請で私は勲章をもらった。なんの功績かわからないが軍部から出た勲章では外交官には相応しくないわけである。その後満州建国のさいにも陸軍の関係で勲四等旭日章がきた。これも外交官に似つかわしくない。

 私は一度も勲章をつけたことがなかった。そう思う。少なくも私の写真にはそんなものは一枚もない。(同書 P31)


*田尻愛義氏は、島根県出身の外交官。1941年11月、外務省調査部長。1942年11月、特命全権公使、南京大使館上海事務局長、1944年4月〜1945年1月フィリピン出張。1945年5月大東亜次官。戦後免官後は、淀川製鋼所取締役顧問、岩谷産業取締役顧問、セントラル石油社長等を務める。


 (終)

(2003.6.1記  2008.2.13『田尻愛義回想録』追記)


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