「馬群」の捕虜殺害


 「馬群」は、南京城の東方向にある地名です。

 南京陥落の翌日1937年12月14日、ここで2-300人規模の「捕虜殺害」が行われました。あまり知られていない事件であり、また関連資料を集めた論稿も見当たりませんので、ここで紹介を行うことにします。




 まず、佐々木元勝氏の「野戦郵便旗」をみましょう。佐々木氏は東京帝国大学出身の逓信官僚であり、上海-南京戦の時機には、野戦郵便長として中国戦線に派遣されていました。

佐々木元勝氏『野戦郵便旗』より

 (「ゆう」注 十二月十五日)  麒麟門から少し先、右手の工路試験所の広場には、苦力みたいな青服の群がおびただしくうずくまっている。武装解除された四千の支那兵である。道端にもうんといる。ぎょろっとした彼らの眼の何と凄かったことか。 弾薬集積場であった馬群鎮では、敗残兵二百名の掃蕩が行なわれた。

 私は疾走するトラックからこの弾薬集積所に、二本の新しい墓標を見た。一本は特に憐れな抗日ジャンヌダルクのために建てられたものである。それには「支那女軍士之墓」と墨書されてある。

(「野戦郵便旗」(上) P215)
 


 歩兵38連隊が捕えた四千名の捕虜の目撃談に続けて、さりげなく「敗残兵二百名の掃蕩」の語句が出てきます。唐突に「憐れな抗日ジャンヌダルク」の話が出てきて読む者を戸惑わせますが、この本の下敷きとなった佐々木氏の日記を見ると、この「ジャンヌダルク」の正体がはっきりします。

「佐々木元勝氏の野戦郵便長日記」より


12月16日、快晴、風


 麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した五百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した。・・・・・夕方頃、自分で通った時は二百人は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった。

(中略)

 ―馬群で女俘虜殺害の話―

 これは吉川君が実見したのであるが、わが兵七名と最初暫く応射し、一人(女)が白旗を降り、意気地なくも弾薬集積所に護送されて来た。女俘虜は興奮もせず、泣きもせず、まったく平然としていた。服装検査の時、髪が長いので「女ダ」ということになり、裸にして立たせ、皆が写真を撮った。中途で可愛相だというので、オーバーを着せてやった。

 殺す時は、全部背後から刺し、二度突刺して殺した。俘虜の中に朝鮮人が一名、ワイワイと哀号を叫んだ。俘虜の中三人は水溜りに自から飛び込み、射殺された。

(『証言による「南京戦史」』(9)=『偕行』昭和59年12月号P11)

*「ゆう」注 ここに「朝鮮人」が登場するのは不自然であり、伝聞の過程で話が歪んだ可能性が高いように思われます。


 佐々木氏は、この話を伝聞として記しています。では、この「事件」の実行部隊はどこか、と資料を捜すと、第十六師団歩兵第二十連隊第三機関銃中隊上等兵、「牧原信夫日記」に行き当たります。

牧原信夫日記

(歩兵第二十連隊第三機関銃中隊・上等兵)

十二月十四日

 午前七時起床す。午前八時半、一分隊は十二中隊に協力、馬群の掃討に行く。残敵が食うに食が無い為ふらふらと出て来たそうで直ちに自動車にて出発す。

 而し到着した時には小銃中隊にて三百十名位の敵の武装解除をやり待って居たとの事、早速行って全部銃殺して帰って来た。昨夜は此地の小行李を夜襲し、小行李も六名戦死して居た。

(『南京戦史資料集』 P511)
 



 実行部隊は「十二中隊」と「第三機関銃中隊」である、ということのようです。その傍証として、第十二中隊の「A・J中尉日記」があります。

「A・J中尉日記」より

(第十六師団第二十聯隊第十二中隊)

十二月十四日

野戦銃砲の掩護にゆく

投降者二百余名 死刑に処す

一匹 余自ら一刀両断(P494)

手ごたえ小気味よし 血を吸うた業物の切れ味格別なり

白旗を翻えすもの次第に多く続々投降す 其の数二千以上 一万(P495)

(「京都師団関係資料集」P494-P495)


*「ゆう」注 この日記は非公開であり、日記を発掘した下里正樹氏の文の中でしか見ることができません。ただし、他の資料と整合性もとれており、十分に信頼できる資料であると思われます。

なお下里氏は、「全中隊、全分隊が総出で、八百名、三百十名、二百余名・・・といたるところで捕虜を゛処分゛しなければならなかった」(「続 隠された聯隊史」P140)と、牧原日記の事件とA・J中尉の事件とは別の事件である、との認識を示しています。

殺害方法・人数が違うことから、氏の言うとおり別の事件である可能性は残りますが、同じ日に同じ中隊で複数の捕虜集団を取り扱ったと考えるよりは「同じ事件」と考える方が自然ではないか、と考え、ここでは同一の事件として扱いました。殺害方法の差異についてははっきりしませんが、あるいは、「刺殺」と「銃殺」の両方の方法を使ったのかもしれません。



 もう一つ、秦郁彦氏「南京事件」に紹介されている小原立一日記を挙げておきましょう。

小原立一日記

十二月十四日

最前線の兵七名で凡そ三一○名の正規軍を捕虜にしてきたので見に行った。色々な奴がいる。武器を取りあげ服装検査、その間に逃亡を計った奴三名は直ちに銃殺、間もなく一人ずつ一丁ばかり離れた所へ引き出し兵隊二百人ばかりで全部突き殺す・・・・中に女一名あり、殺して陰部に木片を突っこむ。外に二千名が逃げていると話していた。戦友の遺骨を胸にさげながら突き殺す兵がいた。

(秦郁彦「南京事件」P121) 小原予備主計少尉(第十六師団経理部)

*この日記は、『南京戦史』P375によれば、『村上独潭和尚伝記』(佐々木六郎著・未刊)に収録されているものであるとのことです。「南京戦史」発刊時点では「某少尉(希望により特に名を秘す)」ということになっていましたが、のちに板倉由明氏が「最初一万人程度の捕虜が収容され、翌昭和十三年一月六日に「三千六百七十人もいるそうだ」と第十六師団経理部の小原立一少尉の日記に記されている」(「本当はこうだった南京事件」P387)と書き、実名が明らかになりました。
 


 捕虜総数「凡そ三一〇名」は「牧原日記」と一致します。また、「三名を銃殺」「女(捕虜)一名」は「佐々木手記」と一致、日本軍兵士の数は「七名」と「五名」の違いはありますが、少数の兵で多数の捕虜を捕えたことも「佐々木手記」と一致します。

 秦氏は「中山門外」の捕虜処刑である、と紹介していますが、これが「馬群の捕虜殺害」であることは、まず間違いのないところでしょう。



 以上、複数の資料の整合性があり、「12月14日、第二十連隊第十二中隊と機関銃部隊が馬群で200-300名規模の捕虜殺害を行った」ことは、事実と認定して差し支えないでしょう。




 なお、「第九中隊」からこの「第十二中隊」までは、「第二十連隊第三大隊」の麾下にありました。この「第三大隊」の大隊長代理を務めていたのが、森王琢・陸軍大尉です。

 森王氏は1992年に「南京大虐殺はなかった」という講演を行い、「南京虐殺」を完全否定しています。ネットで全文が紹介されたこともあり、「ネット否定派」からしばしば「否定材料」として利用されてきました。

 この講演では、同じ第二十連隊に属する兵士たちの証言をバッサリと切り捨てていますが、この「馬群の捕虜殺害」には全く触れていません。


 ちなみに氏は、「偕行」ではこんな証言を行っています。

森王琢氏の証言 (歩兵第二十連隊第三大隊長代行・陸軍大尉)


 私は12月15日まで中山門城外に存って、16日第十六師団長、中島中将が中山門から入城される時、城門内で第二大隊が軍旗を捧じて整列して迎え、私の第三大隊は師団長に従って入城した。

 そして、翌年1月23日(あるいは24日か正確でない)まで、城内に駐留して警備に任じ、一度ぐらい城外の掃蕩に出た記憶があるが、戦闘はなかった。

 約一ヶ月余りの警備間、街に死体が散乱している様子など見たことがない。もちろん、機関銃で集団射殺したという、そんな銃声も聞かず、うわさも聞いたことがない。

 ただ、下関に行ったとき、揚子江岸に多数の溺死体が漂着しているのを見た。これは、最後まで残された中国兵が、南京陥落前に挹江門からなだれを打って逃れ、江上で舟が撃沈されたものであろう。

(「証言による『南京戦史』」(第8回) =『偕行」1984年11月号P6-P7)


 「完全否定」を目指すあまり、明らかに無理のある証言となっています。

 「機関銃で集団射殺」を行った例としては「幕府山事件」が有名ですし、下関で行われた大量の「捕虜殺害」はほとんどが「刺殺」によるものでしたから、「銃声」を「聞か」なかったことが「虐殺否定」の根拠になるものでもありません。

 それにしても氏は、上官として、「馬群の捕虜殺害」は承知していたはずです。これが「機関銃で集団射殺」した事件ではないとしたらの話ですが、森王氏はこの証言では巧みに「事件」に触れることを回避している、と見ることも可能かもしれません。 



(2007.9.3)


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