「馬群」の捕虜殺害 |
「馬群」は、南京城の東方向にある地名です。 南京陥落の翌日1937年12月14日、ここで2-300人規模の「捕虜殺害」が行われました。あまり知られていない事件であり、また関連資料を集めた論稿も見当たりませんので、ここで紹介を行うことにします。 まず、佐々木元勝氏の「野戦郵便旗」をみましょう。佐々木氏は東京帝国大学出身の逓信官僚であり、上海-南京戦の時機には、野戦郵便長として中国戦線に派遣されていました。
歩兵38連隊が捕えた四千名の捕虜の目撃談に続けて、さりげなく「敗残兵二百名の掃蕩」の語句が出てきます。 唐突に「憐れな抗日ジャンヌダルク」の話が出てきて読む者を戸惑わせますが、この本の下敷きとなった佐々木氏の日記を見ると、この「ジャンヌダルク」の正体がはっきりします。
佐々木氏は、この話を伝聞として記しています。では、この「事件」の実行部隊はどこか、と資料を捜すと、第十六師団歩兵第二十連隊第三機関銃中隊上等兵、「牧原信夫日記」に行き当たります。
実行部隊は「十二中隊」と「第三機関銃中隊」である、ということのようです。その傍証として、第十二中隊の「A・J中尉日記」があります。
もう一つ、秦郁彦氏「南京事件」に紹介されている小原立一日記を挙げておきましょう。
捕虜総数「凡そ三一〇名」は「牧原日記」と一致します。また、「三名を銃殺」「女(捕虜)一名」は「佐々木手記」と一致、日本軍兵士の数は「七名」と「五名」の違いはありますが、少数の兵で多数の捕虜を捕えたことも「佐々木手記」と一致します。 秦氏は「中山門外」の捕虜処刑である、と紹介していますが、これが「馬群の捕虜殺害」であることは、まず間違いのないところでしょう。 以上、複数の資料の整合性があり、「12月14日、第二十連隊第十二中隊と機関銃部隊が馬群で200-300名規模の捕虜殺害を行った」ことは、事実と認定して差し支えないでしょう。 なお、「第九中隊」からこの「第十二中隊」までは、「第二十連隊第三大隊」の麾下にありました。この「第三大隊」の大隊長代理を務めていたのが、森王琢・陸軍大尉です。 森王氏は1992年に「南京大虐殺はなかった」という講演を行い、「南京虐殺」を完全否定しています。ネットで全文が紹介されたこともあり、「ネット否定派」からしばしば「否定材料」として利用されてきました。 この講演では、同じ第二十連隊に属する兵士たちの証言をバッサリと切り捨てていますが、この「馬群の捕虜殺害」には全く触れていません。 ちなみに氏は、「偕行」ではこんな証言を行っています。
「完全否定」を目指すあまり、明らかに無理のある証言となっています。 「機関銃で集団射殺」を行った例としては「幕府山事件」が有名ですし、下関で行われた大量の「捕虜殺害」はほとんどが「刺殺」によるものでしたから、「銃声」を「聞か」なかったことが「虐殺否定」の根拠になるものでもありません。 それにしても氏は、上官として、「馬群の捕虜殺害」は承知していたはずです。これが「機関銃で集団射殺」した事件ではないとしたらの話ですが、森王氏はこの証言では巧みに「事件」に触れることを回避している、と見ることも可能かもしれません。 (2007.9.3)
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