朝日新聞記者が見たもの



 当時、南京にいた報道陣が、ほとんど「南京虐殺」を語っていない。従って、「南京虐殺」はウソである。 ― 過去使い古された、陳腐な否定論です。

 「南京の実相」にも、こんな一節が出てきます。

『南京の実相』より

 その朝日の記者の一人、山本治上海支局員は「事件というようなものはなかったと思います。朝日でも話題になっていません」と「『南京事件』日本人48人の証言」(阿羅健一著)の中ではっきり答えている。

 さて、朝日新聞の記者たちは、南京で、どのような見聞をしてきたのか。以下、見ていきましょう。





 まずは、今井正剛記者です。中村正吾特派員とともに、「敗残兵狩り」に巻き込まれた中国人たちが殺害されるシーンを、目撃しています。

今井正剛『南京城内の大量殺人』

虐殺を眺める女子供

 以前の支局へ入ってゆくと、ここも二、三十人の難民がぎっしりつまっている。中から歓声をあげて飛び出して来たものがあった。支局で雇っていたアマとボーイだった。

 「おう無事だったか」

 二階へ上ってソファにひっくり返った。ウトウトと快い眠気がさして、われわれは久しぶりに我が家へ帰った気持ちの昼寝だった。

 「先生、大変です、来て下さい」

 血相を変えたアマにたたき起こされた。話をきいてみるとこうだった。すぐ近くの空地で、日本兵が中国人をたくさん集めて殺しているというのだ。その中に近所の洋服屋の楊のオヤジとセガレがいる。まごまごしていると二人とも殺されてしまう。二人とも兵隊じゃないのだから早く行って助けてやってくれというのだ。アマの後ろには、楊の女房がアバタの顔を涙だらけにしてオロオロしている。中村正吾特派員と私はあわてふためいて飛び出した。

 支局の近くの夕陽の丘だった。空地を埋めてくろぐろと、四、五百人もの中国人の男たちがしゃがんでいる。空地の一方はくずれ残った黒煉瓦の塀だ。その塀に向って六人ずつの中国人が立つ。二、三十歩離れた後ろから、日本兵が小銃の一斉射撃、バッタリと倒れるのを飛びかかっては、背中から銃剣でグサリと止めの一射しである。ウーンと断末魔のうめき声が夕陽の丘いっばいにひぴき渡る。次、また六人である。

 つぎつぎに射殺され、背中を田楽ざしにされてゆくのを、空地にしゃがみこんだ四、五百人の群れが、うつろな眼付でながめている。この放心、この虚無。いったいこれは何か。そのまわりをいっばいにとりかこんで、女や子供たちが茫然とながめているのだ。その顔を一つ一つのぞき込めば、親や、夫や、兄弟や子供たちが、目の前で殺されてゆく恐怖と憎悪とに満ち満ちていたにちがいない。悲鳴や号泣もあげていただろう。しかし、私の耳には何もきこえなかった。

 パパーンという銃声と、ぎゃあっ、という叫び声が耳いっばいにひろがり、カアッと斜めにさした夕陽の縞が煉瓦塀を真紅に染めているのが見えるだけだった。

 傍らに立っている軍曹に私たちは息せき切っていった。

 「この中に兵隊じゃない者がいるんだ。助けて下さい」

 硬直した軍曹の顔は私をにらみつけた。

 「洋服屋のオヤジとセガレなんだ。僕たちが身柄は証明する」
 「どいつだかわかりますか」
 「わかる。女房がいるんだ。呼べば出て来る」

 返事をまたずにわれわれは楊の女房を前へ押し出した。大声をあげて女房が呼んだ。群集の中から皺くちゃのオヤジと、二十歳くらいの青年が飛び出して来た。

 「この二人だ。これは絶対に敗残兵じゃない。朝日の支局へ出入りする洋服屋です。さあ、お前たち、早く帰れ」

 たちまち広場は総立ちとなった。この先生に頼めば命が助かる、という考えが、虚無と放心から群集を解き放したのだろう。私たちの外套のすそにすがって、群集が殺到した。

 「まだやりますか。向こうを見たまえ、女たちがいっばい泣いてるじゃないか。殺すのは仕方がないにしても、女子供の見ていないところでやったらどうだ」

 私たちは一気にまくし立てた。既に夕方の微光が空から消えかかっていた。無言で硬直した頬をこわばらせている軍曹をあとにして、私と中村君とは空地を離れた。何度目かの銃声を背中にききながら。

 大量殺人の現場に立ち、二人の男の命を救ったにもかかわらず、私の頭の中には何の感慨も湧いて来なかった。これも戦場の行きずりにふと眼にとまった兵士の行動の一コマにすぎないのか。いうならば、私自身さえもが異常心理にとらわれていたのだ。

(『目撃者が語る日中戦争』P53-P55)

*以上、十二月十五日の出来事、とのことです。この今井手記の信頼性を疑う議論も存在しますが、場面自体はごくありふれた「安全区掃蕩」の風景であり、また中村記者と共に目撃していることから、この場面に関しては、ある程度信頼できるものと考えます。


その後、足立和雄記者守山義雄記者も、同じようなシーンを目撃しています。

足立和雄『南京の大虐殺』

 昭和十二年十二月、日本軍の大部隊が、南京をめざして四方八方から殺到した。それといっしょに、多数の従軍記者が南京に集ってきた。そのなかに、守山君と私もふくまれていた。

 朝日新聞支局のそばに、焼跡でできた広場があった。そこに、日本兵に看視されて、中国人が長い列を作っていた。
南京にとどまっていたほとんどすべての中国人男子が、便衣隊と称して捕えられたのである。

 私たちの仲間がその中の一人を、事変前に朝日の支局で使っていた男だと証言して、助けてやった。そのことがあってから、朝日の支局には助命を願う女こどもが押しかけてきたが、私たちの力では、それ以上何ともできなかった。"便衣隊"は、その妻や子が泣き叫ぶ眼の前で、つぎつぎに銃殺された。

「悲しいねえ」

 私は、守山君にいった。守山君も、泣かんばかりの顔をしていた。そして、つぶやいた。

 「日本は、これで戦争に勝つ資格を失ったよ」と。

 内地では、おそらく南京攻略の祝賀行事に沸いていたときに、私たちの心は、怒りと悲しみにふるえていた。(朝日新聞客員)

(『守山義雄文集』P448)


上のふたつの証言によれば、少なくとも、今井正剛記者、中村正吾記者、足立和雄記者、守山義雄記者という四人が、「民間人が含まれていた可能性が高い敗残兵処刑の現場」を目撃していたことになります。
*なお、渡辺正男『上海・南京・漢口 五十五年目の真実』(『別冊文芸春秋 1993年新春特別号』掲載)にも、守山記者からの伝聞として、「12月21日、守山記者が、下関まで連行されて殺されかけた、支局雇用人の息子を助けた」エピソードが登場します。足立記者の証言とはまた別の話なのか、あるいはこの証言が若干異なる形で伝わったのかは不明です。





 これらの記者たちは、何回か、外国人へのインタビューを試みています。まずは、先に登場した、中村正吾特派員の記事です。

「東京朝日新聞」 1937.12.16付


死都を襲つた無気味な静寂

一番恐かつた大砲! この目で見た南京最後の日


タイムズ記者ら語る


【南京にて中村特派員十五日】死んだ首都南京は十四日朝来中山路方面からいぶきを回復して来た、丁度瀕死の病人の顔色が刻一刻と紅潮して行くやうな鮮やかな活気の活動だ、中山路の本社臨時支局にゐても、もう銃声も砲声も聞えない、十四日午前表道路を走る自動車の警笛、車の音を聞くともう全く戦争を忘れて平常な南京に居るやうな錯覚を起す、住民は一人も居ないと聞いた南京市内には数十万の避難民が残留する、こゝにも南京が息を吹返して居る、兵隊さん達が朗かに話し合つて往き過ぎる


南京目抜きの大通中山路と中正角新街口で北から真直ぐに走つて来たアメリカの国旗を掲げた自動車が記者の姿を見付けてばつたり停まつた、中からアメリカ人二名が走つて来た 『日本の新聞記者君だらう、僕はニユーヨーク・タイムスの特派員、この男はパラマウントのカメラマンだ』

早急に紹介しながら記者の手をぐつと握つた 『アサヒ』といふと『おゝ、アサヒか』と喜ぶ、
大きい方がカメラマンでパラマウントのアーサー・メンケン君、背の低い方がニユーヨーク・タイムスのテールマン・ダーリン君

『南京最後の日はどうだ』と聞く 
『いやどうも恐ろしかつたね』と両君は次のやうに語る

南京市内の水道が切れたのは九日だ、電気が切れたのは十日だ この頃から南京城外の砲声と銃声は紫金山に谺して物凄く激しくなり同時に市内の中央軍の兵士の往来が神経的になつて来た、

城内の市民は九日には続々新しく造られた国際救済会の避難区に避難して行くのだ

僕等は南京陥落が愈近くなつた事を直感した、蒋介石はいつ南京から逃げて行つたかははつきり判らないが五六日頃まで軍官学校に頑張つて居たんぢやないかと思ふ、日本軍の爆撃と砲撃に危なくて外へ出られないくらい、十一日から支那軍はドンドン退却を始めた、市中を通らずに城壁を伝はつて下関に向つて行く全く悲壮な退却行軍だつたよ

多分下関から船を利用して揚子江の対岸に落ちのびて行つたのだらう、この支那兵の退却は十二日になると少くなつた、主な部隊は十一日頃迄に逃げたのだらう

十二日には城外の激戦の音が稍衰へて日本軍の砲声が激しく紫金山天文台や富貴山にドンドン落下し一時は凄い唸りを立てゝ僕等の頭上をかすめ南京の北方にどかんどかんと落ちて行つた

一番怖いのは何といつても大砲だわ、支那軍は日本の大砲に随分悩まされてゐたやうですよ、十二日は市中の警備に当る少数部隊の支那兵を残すのみで街はそれこそ本当に死の街となつて無気味な静寂さだつた、僕等もその時には南京ももう駄目だと思つた、世界の悲劇を見るやうな気持で何ともいへない悲愴な感じだつた


と感慨に耽る、

記者等の姿を認めて又自動車が止まる、現れて来るのは何れも南京の最後を見届けやうと一月も二月も頑張つてゐた
A.・Pやシカゴ・トリビューンの特派員達だ、APのマクダニエル君が四辻を見回し「やあ之は歴史的な新聞記者室だ」と朗かに語つた

(十一面トップ 五段見出し)



興味深いのは、守山義雄記者の、南京での動きです。守山記者は、南京で、多数の外国人と会見しています。

「東京朝日新聞」 1938.1.5付夕刊

税金、物価高解消 甦つた”暗黒街”  南京外人の座談会

【南京にて三日守山特派員】


首都落城の歴史的戦火のなかに危険ををかして南京にふみとどまつた欧米人はアメリカ人十四名、ドイツ人四名、オーストリア人二名、白系露人二名、計二十二名を数えてゐるが、東亜をおほふこの大戦火が彼らの目にどううつつたか、異なつた印象のうちでも籠城外人たちが口をそろへて一様に唱へるのは南京の陥落が意外に早かつたこと、支那兵が優秀な日本軍に対して意外に頑強な抵抗を試みたことであつた。

記者は南京入城後にこれら外人に会ふごとにその談話をひろひあつめた、南京陥落をめぐる移動国際座談会である―


ベーツ教授 (アメリカ人、南京金陵大学歴史教授、在支二十数年)

永年支那に住んで若い学生たちに歴史を講義してきた私だが、この肉眼で今度の如き歴史の大きな動きを目認することにならうとは思はなかつた、南京落城は蒋介石が夢みた近代支那にとつて致命的な打撃であらう、近代支那をここまで建設してきた蒋介石はたしかに一個のナショナル・ヒーローであつた、しかし支那民衆の目に映つた蒋介石は必ずしも完全な為政者とはいへなかつたやうだ、

民衆は彼に対して二つの不安を抱いてゐた、その一つは蒋介石のやり方はあまりに独裁的な色彩が濃厚であつたこと、その二は抗日政策を実際的に指導する首領として彼が果して適切な人物であるかどうかといふ不安であつた、

だがすでに南京をゆづり渡した今日、国民政府の命脈は永くはない、上海から南京まで、いはゆる中国の財政的心臓をゑぐりとられた国民政府が早晩経済的破綻を来すのは目に見えてゐる


ラーデ氏 (ドイツ人、シーメンス商会在支代表社員、在支三十年、南京避難民国際委員会委員長)

日本の攻撃はすばらしかつた、われわれは南京がこんなに早く落城しようとは思はなかつた、私はアフリカに五年支那にすでに三十年住み数々の戦争を見てきた、しかしこんどのやうに激戦に終始してしかもわずか四ヶ月の間に大国の首都を陥落させたかがやける歴史をいまだ知らない、

私にとつては十三日のあさ堂々南京に入城してきた日章旗を見たことは忘れ得ない驚嘆である、日本軍が城壁に迫った十一日から十二日にかけて中山路を下関に向けて敗走する支那兵の一部が便衣に着かへて避難地区になだれこんだことはわれわれの仕事に大きな障害となつた、

南京が完全に日本軍の手に帰してから四、五日目のある夜どこからともなく「南京はまだ陥落せず、市中には電燈がつき水道も断水してゐない」といつた内容のラヂオ放送がきこえてきたが、それは恐らく国民政府側の笑止な放送であらう。

(以下略)



 さらに、ジョン・マギーの名が載った記事もあります。名前をどうやって知ったのか、この記事だけからではわかりませんが、外国人相手の取材に熱心だった守山記者のことですから、マギーと会見していた可能性も十分に考えられます。

『守山義雄文集』より


日曜の南京市内

 〔南京にて12・19発〕

(略)

教会からオルガンの音にのったのどかな讃美歌の声がもれて来る。アメリカ人のジョン・マギー牧師が戦火が去ってほっとした支那市民信者を集めて礼拝の最中で、あゝけふは日曜だったかとこちらが教へられるほどの落つき振りだ。

(略)

(P114)

(1937.12.21 東京朝日新聞二面掲載)



 報道規制が厳しく、日本軍に不利なことは一切報道できなかった当時のことですから、記事となった会見内容があたりさわりのないものになっていることはやむえません。

 しかし、この時期のベイツ・ラーベらの関心が、日本軍の暴虐をいかにやめさせるか、ということだったことを思えば、彼らが折角訪ねてきた日本の新聞記者に対して、何の訴えも行わなかったとは、ちょっと考えにくいところです。


 現にラーベ日記には、守山記者との会見の記録が登場します。

ジョン・ラーベ『南京の真実』より 

十二月二十日

 午後六時、ミルズの紹介で、大阪朝日新聞の守山特派員が訪ねてきた。守山記者はドイツ語も英語も上手で、あれこれ質問を浴びせてきた。さすがに手慣れている。私は思っているままをぶちまけ、どうかあなたのペンの力で、一刻も早く日本軍の秩序が戻るよう力を貸してほしいと訴えた。守山氏はいった。「それはぜひとも必要ですね。さもないと日本軍の評判が傷ついてしまいますから」

(「南京の真実」文庫版P148)


 このような体験と、外国人たちからの取材から、守山記者は、「南京における日本軍の暴行」を明確に認識したものと思われます。



 朝日新聞・渡辺正男記者は、のち、守山記者からその時のことを聞いています。

   
渡辺正男『上海・南京・漢口 五十五年目の真実』

 南京支局には、新しい局長の田中正男、局員の林田重五郎、岡美千雄の三人と、もう一人、近く帰国予定の守山義雄がいた。

(略)

 南京陥落の状況、落城後の状況などを、わたしは守山に尋ねた。彼はしばらく沈黙していたが、ウイスキーの盃をテーブルの上におき、悲憤慷慨の口調で話しはじめる。また眼をとじて沈黙する。そして眼をひらいて話しつづける。彼の言葉をそのままここに記す。


日本の軍隊は勇敢に闘って南京城を攻め落した。殺すか殺されるかの激しい闘いは終った。しかし、落城後の日本の兵隊の非情残虐の行為は許せない。非戦闘員の市民を数多く殺した。多くの婦女子に暴行を加えて殺した。われわれと同じ血が流れている日本の兵隊がどうしてあのように非情残虐になるのか、信じられないことだ。

 アメリカのキリスト教団が設立した金陵大学の一群の建物が南京支局の玄関先から間近に見える。金陵大学から中山路の中央ロ一夕リーに至るまでの広大な地域に国際難民区が設けられている。アメリカ人とドイツ人によって国際難民委員会が運営されている。戦争で家を失い、財貨を失った十五万人の市民がこの難民区に保護されている。

 この難民区に逃げおくれた中国兵が軍服を平服に着換え、便衣のすがたで潜入していると称して、日本の軍隊が強引に侵入して、多く市民を捕えてゆく。成年男子の市民が毎日二千人、三千人と捕えられ、中山路を北に向い、揚子江の岸にある下関へと連れられていった。それらの人びとはふたたび難民区へ帰ってくることはできなかった。



―戦争がおわり、南京城から戦火はとおく消え去った。それなのに、毎日毎夜、城内のどこかで赤い火が空に燃えあがる。「敗残兵がかくれている怪しげな家がある、敗残兵を狩り出すのだ」といって、軍隊が家を焼いているのである。

 年の暮に近いある日、守山は第十六師団司令部に、師団長の中島今朝吾中将を訪ねて訴えた。(P241)

「戦争がおわったのに、ときどき、城内のあちらこちらで建物が焼かれ、大きな火事になっています。何かの目的で軍が命令して焼かせているのでしょうか。多くの市民が住む家がなくて困っています。火事を起さないことが、治安維持のためにもよいと思います」(P241-P242)

「率直に言ってくれる新聞記者の貴君に敬意を表する。しかし、いまの貴君の言葉を受け容れることはできない。中国人の抗日心はまことに頑強だ。ここは敵首都の南京である。南京の建物の一つひとつに、一木一草にもいまわしい抗日心が宿っている。その抗日心を打ち砕くのだ。どこかの建物にまだ敗残兵が潜伏している。それを焼き払うのだ。難民区の市民のなかにまだ敗残兵が潜伏している。それを狩り出して捕えなければならないのだ」

 もはや、何もいうことはない。「中島という軍人は非道きわまる野蛮な人間だ」と心のなかでつぶやいて、守山は師団司令部をあとにした。

(以下略)


 南京の攻略落城前後の時期に、日本軍によって多数の中国人捕虜や非戦闘員の市民が殺されたが、幾千人幾万人が殺されたのか、確実な人数は判っていない。守山は「少なくみても、四万人は殺された」と、わたしに告げた。

(『別冊文芸春秋 1993年新春特別号』)


守山記者の中島師団長への訴えは、ラーベの訴えに応えたもの、と読めるかもしれません。 

なおこれ以外にも、守山記者から「虐殺」の話を聞いた、という証言があります。

篠原正瑛『西にナチズム 東に軍国主義』

戦時中、私は留学生としてドイツに滞在していたが、そのころ朝日新聞ベルリン支局長をしていた守山義雄氏(すでに故人)から、南京に侵入した日本軍による大虐殺事件の真相を聞いたことがある。

守山氏は、朝日の従軍記者として、その事実をまのあたり見てきた人である。

南京を占領した日本軍は、一度に三万数千の中国人、しかも、その大部分が老人と婦人と子どもたち、を市の城壁内に追い込んだ後、城壁の上から手榴弾と機関銃の猛射をあびせて皆殺しにしたそうである。そのときの南京城壁のなかは、文字どおり死体の山をきずき、血の海に長靴がつかるほどだったという。

守山氏は、このような残虐非道の行為までも"皇軍"とか"聖戦"といういつわりの言葉で報道しなければならないのかと、新聞記者の職業に絶望を感じ、ペンを折って日本へ帰ろうかと、いく日も思い悩んだそうである。

(『日中文化交流』1970.8.1 No157 P5)
 



この内容は明らかに誇大ですが、朝日新聞支局の前の光景が、何らかの錯誤により大袈裟に伝わってしまった、と解釈できないことはありません。




最後に、守山記者の2月14日付の記事を紹介しましょう。

東京朝日新聞」 1938.2.14付

鍋炭の偽装も不要 今や咲出す南京美人  平和の光に描く点景


【南京にて守山特派員 十二日発】

(略)

この超非常時の支那避難民の間にも最近ぼつぼつ花が咲いてきたといふのはこれまで支那人の美しい娘達は顔に鍋炭を塗り不美人にカムフラージュして屋根裏に隠れてゐたものだが平和の光りと共にやつとこの頃ぽつぽつ表に顔を出すやうになつた。

美しかるべき娘達が顔に鍋炭を塗らなければならなかつたはなしは哀れである、併しももうそんな必要はなくなつた南京に於る美人の数は南京平和のバロメーターだ



 日本軍の南京占領後2か月経ち、ようやく中国人の娘たちは「顔に鍋炭を塗り不美人にカムフラージュ」することをやめた。見方によっては、これは「検閲」のぎりぎりを狙ったもの、と見ることもできるかもしれません。


 以上、守山記者は、「日本軍の蛮行」の実態をある程度正確に知っていた、と見るのが自然でしょう。他の記者も、「敗残兵狩り」の現場を目撃するなど、一定の認識はあった、と推定されます。




 それでは、最初に掲げた、「事件というようなものはなかったと思います。朝日でも話題になっていません」という証言は、何だったのでしょうか。

 まずは、山本治・上海支局員の証言を確認しておきましょう。


大阪朝日新聞・山本治上海支局員の証言


ー山本さんが南京に行くのはいつですか。

「蘇州に行った時も上海に戻り、前線に言っては上海にいるということを繰り返していましたが、その時は橋本さんと一緒だったと思います。

入城式の日は、上海を最初から従軍取材しているというので、陸軍の飛行機がつれていってくれました。着いたのは午後で、入城式の終わった後でした」

−南京の様子はどうでした?

「城壁の周りには中国兵の死体がありました。中山門から見た時、城内には何ヵ所も煙が上っているのが見えました」

−城内の様子はどうでした?

「特別変わったことはありません。南京で印象的なのは城壁で中国兵の死体を見たくらいです」

−虐殺があったと言われてますが・・・。

全然見たことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことを言ったことがありません。朝日新聞で話題になったこともありません」(P23)

−難民区 ( 安全区 ) はご覧になってますか。

「難民区は兵隊や憲兵がいて入れませんでした。そういうことですから市民は安全でした。一般の市民の死体というのはひとつも見ていません。紅卍字会の人が戦死体をかたづけたりしていました」

−「南京には何日間いました?

「数日間いて自動車で戻りました」

−その後は上海にいたのですか。

「そうですが、杭州に第十軍がいましたから、一月になって杭州支局長として杭州に行きました。杭州に着いてしばらくして、杭州の特務機関長から家族を呼んで下さいと言われたので、家族を呼びました。一月頃はまだ和平の動きもありましたが、その頃はもう和平もなくなり、日本軍も長くいるんだということを中国に知らせるつもりだったようです」

−上海や杭州でも南京虐殺は聞いてませんか。

一度も聞いてません。上海支局長の白川さんは軍の最高幹部ともつきあいがありましたけど、白川さんからも聞いたことはありませんでした。

徐州作戦に従軍した後、私は体を悪くして昭和十三年夏に日本に帰ってきました。神戸へ着いたところ、神戸のホテルで、南京では日本軍が暴行を働いたそうですね、と言われてびっくりしました。なんでも外字新聞には出ていたということです。(P24)

上海にいる時、私は中国の新聞を読んでいましたが『血戦光華門』などという文字が大きく載ったのは見たことがありますが、南京についてのそういうことは何も出ていませんでしたから、不思議に思ったものです」(P24-P25)(「ゆう」注 「大広報」を見ていなかったのでしょうか?)

−最近よく言われていますが・・・

事件と言うようなものはなかったと思います。私も見ていませんし、朝日でも話題になってません。また、あの市民の数と中国軍の動きでそういうことが起きるはずがありません。私が上海、南京で見た死体というのは、最初、黄浦江の船の周りにあったたくさんの中国兵と、上海市街戦での戦死体です。あとは南京の城壁ですね。城壁の死体はきれいなもので、首を斬られたとかいう虐殺されたものではありません。戦死体は弾が当って死ぬのできれいです。

それと虐殺という表現ですが、戦場では、普通最も悪いとされていることが、最大の功績になるわけです。平和になって平和時の感覚で言うのは、何も意味がないと思います。そういう基準で虐殺と言っているような気がします。

私は昭和十五年になって召集され、少尉として従軍しました。この時は自分で攻撃命令も出したこともあります。で .すから自分で戦争もしていますし、また、記者として客観的にも見ていますが、そういう体験からみても虐殺事件というのはどうでしょうか」(P25)

(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』)

 橋本登美三郎氏も、同様の証言を行っています。

東京朝日新聞・橋本登美三郎上海支局次長の証言

 −南京では大虐殺があったと言われていますが、南京の様子はどうでした?

 「南京での事件ねえ、私は全然聞いてない。もしあれば、記者の間で話に出るはずだ。記者は少しでも話題になりそうなことは話をするし、それが仕事だからね。

 噂として聞いたこともない。朝日新聞では現地で座談会もやっていたが、あったのなら、露骨でないにしても、抵抗があったとかそんな話が出るはずだ。

 南京事件はなかったんだろう」

(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P38)


 これらは、守山記者らの見聞と、明確に矛盾するようにみえます。

 しかし、「日本軍の大規模な蛮行」は、明らかに存在しました。例えばこの二人に、このような質問をしたとしましょう。

 「日本軍の敗残兵狩りに、多くの民間人が巻き込まれたことを知っていますか」「66連隊事件、下関の事件など、多くの捕虜殺害が行われたことを知っていますか」「いろいろな外国人の証言などに明らかなとおり、日本軍が規律を失い、多くの殺人・掠奪・強姦事件を起こしたことを知っていますか」

*詳しくは、「南京事件 初歩の初歩」をご参照ください。

 もし「知らない」と答えたとしたら、彼らの情報収集能力がその程度であった、というだけの話です。「知っていたけど問題だとは考えていなかった」というのであれば、「聞いていません」という証言は何だったのか、という話になります。



阿羅氏のこの本は、南京事件を否定する立場からのインタビュー集ですが、それでも、当時のジャーナリストたちの認識がうかがえる証言が散見されます。

報知新聞・二村次郎カメラマンの証言


ー捕虜を見て、社で話題にしたりしませんでしたか。

捕虜といっても、戦いの途中、捕虜の一人や二人を斬るのは見たことがあります。皆もそういうのは見ているから、特に話題になったことはありませんでした。捕虜と一言で言いますが、捕虜とて何をするかわかりませんからね。また、戦争では捕虜を連れていく訳にはいかないし、進めないし、殺すしかなかったと思います。南京で捕えた何百人の捕虜は食べさせるものがなかったから、それで殺したのかもしれないな。あの時、捕虜を連れていった兵隊を捜して捕虜をどうしたのかを聞けば、南京虐殺というものがわかると思います」

(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P80)


読売新聞・森博カメラマンの証言


その時、南京での事件をほかの記者も知っていましたか。(P101)

「よく仲間とはお茶を飲みに行ったりしましたが、話題にはしてませんでした。しかし、知っていたと思います
」(P101-P102)

ー なぜ誰も話題にしなかったのですか。

戦争だから殺しても当然だと思っていたし、戦場ですから死体を見ても気にしていませんでした。ですから話題にしなかったのだと思います。そういうことで記者は突っ込んで取材しようとはしませんでしたし、われわれも軍から、中国兵も日本兵も死体を撮ってはだめだ、と言われてしましたから撮りませんでした。死体のことを書いても撮っても仕事にならなかったからだと思います。

日本軍の悪いことばかりを話しましたが、もちろんいい話もたくさんあります」

(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P101-102)



同盟通信映画部・浅井達三カメラマンの証言

同盟通信のなかで、虐殺というようなことが話題にならなかったのですか。

「なりませんでした。その頃、敗残兵や便衣隊がよくいて、それをやるのが戦争だと思っていましたから・・・」


(阿羅健一『「南京事件」日本人48人の証言』P114)



 「捕虜殺害」に関する感覚がマヒしてしまい、全く「問題行為」とは認識していなかった様子です。このあたりが、記者たちの本音だったのでしょう。


(2009.8.9)


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