朝日新聞記者が見たもの |
当時、南京にいた報道陣が、ほとんど「南京虐殺」を語っていない。従って、「南京虐殺」はウソである。 ― 過去使い古された、陳腐な否定論です。 「南京の実相」にも、こんな一節が出てきます。
さて、朝日新聞の記者たちは、南京で、どのような見聞をしてきたのか。以下、見ていきましょう。 まずは、今井正剛記者です。中村正吾特派員とともに、「敗残兵狩り」に巻き込まれた中国人たちが殺害されるシーンを、目撃しています。
その後、足立和雄記者と守山義雄記者も、同じようなシーンを目撃しています。
上のふたつの証言によれば、少なくとも、今井正剛記者、中村正吾記者、足立和雄記者、守山義雄記者という四人が、「民間人が含まれていた可能性が高い敗残兵処刑の現場」を目撃していたことになります。 *なお、渡辺正男『上海・南京・漢口 五十五年目の真実』(『別冊文芸春秋 1993年新春特別号』掲載)にも、守山記者からの伝聞として、「12月21日、守山記者が、下関まで連行されて殺されかけた、支局雇用人の息子を助けた」エピソードが登場します。足立記者の証言とはまた別の話なのか、あるいはこの証言が若干異なる形で伝わったのかは不明です。 これらの記者たちは、何回か、外国人へのインタビューを試みています。まずは、先に登場した、中村正吾特派員の記事です。
興味深いのは、守山義雄記者の、南京での動きです。守山記者は、南京で、多数の外国人と会見しています。
さらに、ジョン・マギーの名が載った記事もあります。名前をどうやって知ったのか、この記事だけからではわかりませんが、外国人相手の取材に熱心だった守山記者のことですから、マギーと会見していた可能性も十分に考えられます。
報道規制が厳しく、日本軍に不利なことは一切報道できなかった当時のことですから、記事となった会見内容があたりさわりのないものになっていることはやむえません。 しかし、この時期のベイツ・ラーベらの関心が、日本軍の暴虐をいかにやめさせるか、ということだったことを思えば、彼らが折角訪ねてきた日本の新聞記者に対して、何の訴えも行わなかったとは、ちょっと考えにくいところです。 現にラーベ日記には、守山記者との会見の記録が登場します。
このような体験と、外国人たちからの取材から、守山記者は、「南京における日本軍の暴行」を明確に認識したものと思われます。 朝日新聞・渡辺正男記者は、のち、守山記者からその時のことを聞いています。
守山記者の中島師団長への訴えは、ラーベの訴えに応えたもの、と読めるかもしれません。
最後に、守山記者の2月14日付の記事を紹介しましょう。
日本軍の南京占領後2か月経ち、ようやく中国人の娘たちは「顔に鍋炭を塗り不美人にカムフラージュ」することをやめた。見方によっては、これは「検閲」のぎりぎりを狙ったもの、と見ることもできるかもしれません。 以上、守山記者は、「日本軍の蛮行」の実態をある程度正確に知っていた、と見るのが自然でしょう。他の記者も、「敗残兵狩り」の現場を目撃するなど、一定の認識はあった、と推定されます。 それでは、最初に掲げた、「事件というようなものはなかったと思います。朝日でも話題になっていません」という証言は、何だったのでしょうか。 まずは、山本治・上海支局員の証言を確認しておきましょう。
橋本登美三郎氏も、同様の証言を行っています。
これらは、守山記者らの見聞と、明確に矛盾するようにみえます。 しかし、「日本軍の大規模な蛮行」は、明らかに存在しました。例えばこの二人に、このような質問をしたとしましょう。 「日本軍の敗残兵狩りに、多くの民間人が巻き込まれたことを知っていますか」「66連隊事件、下関の事件など、多くの捕虜殺害が行われたことを知っていますか」「いろいろな外国人の証言などに明らかなとおり、日本軍が規律を失い、多くの殺人・掠奪・強姦事件を起こしたことを知っていますか」
もし「知らない」と答えたとしたら、彼らの情報収集能力がその程度であった、というだけの話です。「知っていたけど問題だとは考えていなかった」というのであれば、「聞いていません」という証言は何だったのか、という話になります。 阿羅氏のこの本は、南京事件を否定する立場からのインタビュー集ですが、それでも、当時のジャーナリストたちの認識がうかがえる証言が散見されます。
「捕虜殺害」に関する感覚がマヒしてしまい、全く「問題行為」とは認識していなかった様子です。このあたりが、記者たちの本音だったのでしょう。
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