| 「百人斬り競争」 ―「アリバイ」は成立するかー (1)「記者会見」は何回か? |
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まず最初に念押ししておきますが、「百人斬り競争」は、「南京事件」全体を考えた場合、ほとんど重要性を付与されていない、一エピソードであるに過ぎません。 例え「百人斬り競争」の実在が否定されたとしても、大量の捕虜殺害・各所での民間人殺害を骨子とする「南京虐殺」の存在自体がゆらぐことはないでしょう。 にもかかわらず、「百人斬り競争」は、しばしば「南京事件」論議のひとつのハイライトであるかのように語られます。 それには1970年代前半、「否定派」側にとってここが容易な「突破口」であるかのように映り、山本七平氏、鈴木明氏らがここに論議を集中させた、という事情が影響しているものと思われます。 *70年代初期、本多勝一氏が連載記事「中国の旅」の中でこのエピソードを取り上げたことが、「百人斬り競争」が再び世間から注目されるきっかけにはなりました。 しかし本多氏記事での扱いはせいぜい20数行と小さく、それも中国人が語る「伝聞情報」としての扱いでした。人名も「A」「B」とイニシャルのみです。 (実を言えば、「実名を出す」ことを求めたのは、記事の信憑性を疑う山本七平氏の側でした。その後の展開を考えると何とも皮肉です) 「議論」は、2003年、「百人斬り競争」の主役であった野田毅・向井敏明両少尉の遺族が、本多氏らを「名誉毀損」の廉で訴えたことにより再燃します。 その背後では阿羅健一氏ら多数の「否定派」が原告側支援に動き、あたかも「否定派」陣営による「総力戦」の様相を呈しました。この事件で注目を受けた稲田朋美弁護士は、のち、衆議院議員(自民党)に転身しています。 訴訟自体は、朝日新聞側がいくつかの「新資料」を発見したこともあり、原告側の敗訴に終わりました。 ここでは以下の通り、三回に分けて、裁判の大きな争点となった野田・向井両少尉の「アリバイ」問題に着目してみましょう。 (1)「記者会見」は何回か?(本稿) (2)向井少尉の「負傷」 (3)「副官」は戦わないか? *私は「百人斬り競争」の存否については判断を保留しています。 以下のコンテンツは、あくまで「原告側が提起したアリバイ」をめぐるものに限定していることを、お断りしておきます。 言うまでもありませんが、私は「裁判」には全く関与しておりませんので、以下は別に被告側主張を代弁するものではありません。 まずは、問題の新聞記事を確認します。ここでは、「大阪毎日新聞」版を採用しました。 *通常は「東京日日新聞」版が採りあげられます。しかし当時の新聞記事は、上海−大阪−東京と電送され、その過程で微妙に語句が修正されることがありましたので、 大阪版の方がよりオリジナルに近いものです。両版の微妙な相違については、タラリさんによる分析があります。
まとめると、次の表のようなことになるでしょう。両少尉の進行方向は、右から左。それぞれの区間の「戦果」も合わせて掲載しました。 ← ← ← ← ← ← ← ← ← ←
*厳密に言えば、これは「会見地点」ではなく、「記事が発信された場所」です。従って実際の会見場所とは、ずれが生じている場合があります。 *「戦果」は、その直前地点と当該地点の間でのものです。例えば野田少尉の「常州 25人」は、 「無錫−常州間で25人の戦果があった」、ということです。 これについて、野田少尉は「南京軍事裁判」にてこう語っています。
新聞記事によれば、両少尉は「無錫」から競争を始めており、第一回会見の「常州」において既に「戦果」を報告しています。 しかし野田少尉によれば、「競争」が始まる前の「無錫」が第一回目、そして二回目の「麒麟門」では、一方的に「記事」が既に掲載されていることを告げられただけだ、ということになります。 実際の「戦果」を知る由もない浅海記者が、勝手に「戦果」を創作して記事を送ったのだ、という主張です。 さきほどの表に、野田少尉の主張を追加しておきましょう。
なお裁判の原告側は、最初の会見地点が「無錫」ではなく「常州」であることまでは認めましたが、会見の回数については野田とほぼ同様の主張を行っています。
さて、記事を書いたのは、主として浅海一男記者であったと思われます。浅海記者は、次のように主張しています。
双方の主張が真っ向からぶつかる形です。以下、浅見氏の証言がどこまで第三者の証言によって裏づけされるか、という観点から、見ていきましょう。
これについては、裁判の原告側も、最初の記者会見の場は「無錫」ではなく「常州」であることを認めていますので、今日ではこの点についての「争い」はありません。 念のために、取材に立会い、カメラ撮影を行った佐藤振壽氏の証言を見ましょう。
佐藤氏が撮影した写真にも、「常州にて」というキャプションが入っています。 「無錫」は、野田の記憶違い、あるいは「会見は競争を始める前であった」と主張するための作為的なウソである、と言えるでしょう。 *ただし佐藤カメラマンは、裁判の中で、この会見の時点では二人はまだ「百人斬り競争」を始めていなかった、という趣旨の証言を行っています。 しかし同時に、「例えば野田さんが、おれが斬ったときは向井君の当番兵が勘定してるんだと。反対に向井君が斬ったときはおれの当番兵が勘定してるんだと」と、 競争が「現在進行形」であると受け止めることができる証言も行っており、佐藤カメラマンの証言には混乱が見られます。(『南京大虐殺と「百人斬り競争」』P24-P26)
六車政次郎は、歩兵第九連隊第一大隊副官。野田少尉は歩兵第九連隊第三大隊副官でしたから、ほぼ似たようなポジションにあった、と言っていいでしょう。 六車と野田は陸軍士官学校の同期生であり、同じ連隊に所属していましたので、お互いにライバル意識を持ちつつも戦場では親しい関係にあったようです。六車は、同期生会の文集『鎮魂 第三集』に、次のような文章を寄せています。
これだけでは「この時」に六車がどのように「百人斬り競争」の話を聞いたのかよくわかりませんが、のちの秦郁彦インタビューとあわせると、状況がはっきりします。
どうやら六車は、「句容鎮付近」で「連隊本部へ命令受領」に行った際に、野田の記者会見の現場に出くわしたようです。これがおそらくは、第三報「句容にて」の取材現場だったものと思われます。 なお、六車の手記『惜春賦』を読むと、丹陽占領後の十二月四日に「聯隊長に呼び出されて」命令を受領した、との記述があります。
この十二月四日は「珍しく一日だけ進撃が止まった日」でもあり、六車が「野田の記者会見」を目撃したのはこの日である可能性があります。 実際の記事は「五日」に「句容」から発信されていますので、 その後の丹陽−句容戦の状況を加味して、第三報の、 「句容にて【五日】浅海、光本本社特派員発 南京を目ざす「百人斬り競争」の二青年将校、片桐部隊向井敏明、野田毅両少尉は句容入城にも最前線に立つて奮戦、入城直前までの成績は向井少尉は八十九名、 野田少尉は七十八名といふ接戦となつた 」という記事になったとも考えられます。 *なお実際には、大隊は、「一二月五日に冨山部隊は句容付近で中国軍と戦闘、しかし本隊は句容城に入城せずに直前で右折し」湯水鎮へ向かった、ということです。 笠原十九司氏は、「賈崗里鎮から五日のうちに記事を「句容発」として発信した可能性が一番高い。無線技師がいて送信機をもった新聞社の車があれば、可能であった」との推察を行っています。
これについては、同席した鈴木記者が、「結局、その場には向井少尉、野田少尉、浅海さん、ぼくの四人がいたことになりますな」という、明確な証言を行っています。
鈴木記者はさらに、「記事はデッチ上げである」という主張に対しては、強い言葉で反発しています。
原告側は、「鈴木記者の同席」に対しては、鈴木証言のうち「赤筒の使用」などの明らかな記憶違いを持ち出して、証言自体が信じられない、と印象づける戦術をとりました。 しかし鈴木記者が「野田、向井と会った」こと自体を「記憶違い」しているとは考えにくく、これはほとんど「強弁」の世界でしょう。 秦郁彦氏の「判定」が妥当なものであると思われます。
ここまでのところを、改めて表にまとめておきましょう。
野田は「無錫と麒麟門の二回だけ」と主張しましたが、実際には、「常州」「句容」「紫金山麓」の三回には、浅海記者以外に、少なくとも一人の「第三の証言者」が存在します。 野田、及び原告側の主張は崩れた、と考えていいでしょう。 (2009.12.13)
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