「百人斬り競争」論議の開幕 1972年、本多−山本論争 |
今や「国民的論議」にまで発展してしまった感のある「百人斬り競争」ですが、そもそもこの論争はどのように始まったのか。 例えば秦郁彦氏はこんなふうに書きますが・・・
秦氏の意図はわかりませんが、おそらくこの文を読んだ方は、誰もが忘れていた「百人斬り競争」事件を、 本多記者が大々的に宣伝して無理やり復活させたかのように誤解するのではないでしょうか。 そんなイメージが、一般にもすっかり定着しているように思われます。 実態としては、本多氏の記事というのは、この程度のものでした。同じく秦氏が、別のメディアに発表した一文です。
この程度の記述が、どうして今日の「国民的論争」にまで発展してしまったのか。以下、見ていきましょう。 議論の発端は、1970年代初めに行われた、本多勝一氏と山本七平氏の、『諸君!』誌上での論争でした。その全文は、本多勝一氏『殺す側の論理』で見ることができますので、これに沿って見ていきましょう。 *なお論争時点では、山本七平氏は「イザヤ・ベンダサン」なる偽名を使っていました。 しかしのちに、「イザヤ・ベンダサン」というのは実は山本七平氏のことであったことが明らかになりますので、こちらでは混乱を避けるべく、「本多氏対山本氏」という形に統一します。 論争は、山本氏の「朝日新聞の「ゴメンナサイ」」(『諸君!』1972年1月号)に幕を開けました。 これに対する本多氏の反論が、「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」(『諸君!』1972年2月号)です。 この時点では「百人斬り競争」の話題は全く登場しませんので、詳細は省略します。 続いて山本氏(イザヤ・ベンダサン氏)は、「本多勝一様への返信」(『諸君』!1972年3月号)を発表しました。 ここで山本氏は、本多氏の「イザヤ-ベンダサン氏への公開状」に対して、いくつかの「不審点」を並べてみせました。最初の「不審点」は、本多氏の「公開状」というタイトルに対する「疑問」です。
「公開状」ということは「手紙」だろう。しかし私のところには「手紙」なんぞ来ていない。一体どうなっているんだ。 ・・・こんな文章を見ていると、どうも山本氏の目的は、実はどうでもいい「揚げ足取り」にあるのではないか、と思えてきます。 さて本多氏の「南京への道」レポを読み返すうちに、山本氏は、絶好の「揚げ足取り」の材料を発見しました。中国人が本多氏に語ったという、「百人斬り競争」なるものの話です。 山本氏は、これを「第五の不審点」とします。
これだけを見ると、いかにも怪しげなエピソードです。 山本氏は、これは、本多氏が中国側証人が垂れ流す「伝説」を無批判に紹介したものだ、と即断したのでしょう。こんな風に攻撃してみせました。
たぶん氏としては、本多氏を完全に追い詰めたつもりだったのでしょう。氏の得意満面の顔が、眼に浮かぶようです。 しかし氏は、次の本多氏の反論、「雑音でいじめられる側の眼」(『諸君!』1972年4月号)で愕然とすることになります。 本多氏は、「まず事実を列挙しますから、じっくりお読みください」と述べて、四つの資料を呈示しました。 『東京日日新聞』の記事2本、鈴木二郎「私はあの南京の悲劇の虐殺を目撃した」、 志々目影氏「日中戦争の追憶―"百人斬り競争″」です。
山本氏は、これらの資料を全く知らなかったに違いありません。 「中国のよくわからない人物が語る怪しげな伝説」だったはずなのに、あっというまに「当時日本でも有名だった話」ということになってしまいました。 揚げ足をとって「完勝」したつもりだったのに、逆に見事に引っくり返されてしまった。山本氏の心境は、察するに余りあります。 そして山本氏と『諸君!』編集部は、苦し紛れに、こんなことをやってみせます。本多氏の文を借ります。
かくして第一期論議の「序幕」は、山本氏が大恥をかいた、という形で決着しました。 そして「序幕」に続く「第二幕」。山本氏はおさまりがつかなかったのでしょう。「私の中の日本軍」で、長大かつ難解な、「百人斬り競争批判」を展開します。 そしてサポート役で登場したのが、鈴木明氏「南京大虐殺のまぼろし」です。 対抗する本多氏側は、「ペンの陰謀」を出版します。「百人斬り競争」を報道した、鈴木、浅海両記者の手記、洞武夫「南京大虐殺はまぼろしか」と題する山本氏への徹底的な反批判あたりが、大変面白く読めます。 *念のためですが、本コンテンツは、「百人斬り競争」論議がどのように始まったのかをふりかえることを目的としていますので、 「第二幕」以降の「評価」までは行っておりません。 さて、「序幕」を見ればわかりますが、本多氏にとっては「百人斬り競争」はさして重要なエピソードではありませんでした。読者から見ても、山本氏の「論難」がつかなければ、そんな話もあったなあ、程度で終わってしまったに違いありません。 この小さなエピソードを「国民的大論争」に発展させた「功績」は、皮肉なことに、間違いなく山本氏・鈴木氏の側にあった。そう言って、差し支えないでしょう。 さらに言えば、「百人斬り競争」の話を最初に「蒸し返した」のは本多氏ではなく、本多ルポに先立つこと5年の、大森実氏「天安門炎上す」(1966年)でした。参考までに、その部分を紹介しておきます。
こちらは本多氏の記事とは異なり、ちゃんと「実名」が入っています。 しかしこちらの方は、誰にも注目されることなく終わってしまいました。山本氏・鈴木氏の熱心な「宣伝」がなかったら、本多ルポの方も、これと同じように、そのまま埋もれてしまった可能性が高い、と考えられます。 (2010.1.1)
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