石川達三「生きてゐる兵隊」序
石川達三『生きてゐる兵隊』

昭和二十三年版 序文


八雲書店 石川達三選集5 『生きてゐる兵隊』(昭和二十三年)より

 序

 此の作品が原文のままで刊行される日があらうとは私は考へて居なかつた。筆禍を蒙つて以来、原稿は証拠書類として裁判所に押収せられ、今春の戦災で恐らくは裁判所と共に焼失してしまつたであらう。到るところに削除の赤インキの入つた紙屑のやうな初校刷を中央公論社から貰ひ受け、爾来七年半、深く筐底に秘してゐた。誰にも見せることのできない作品であつたが、作者としては忘れ難い生涯の記念であつた。

原稿は昭和十三年二月一日から書きはじめ、紀元節の未明に脱稿した。その十日間は文字通り夜の目も寝ずに、眼のさめてゐる間は机に坐りつづけて三百三十枚を書き終つた。

この作品によつて刑罰を受けるなどとは予想もし得なかつた。若気の至りであつたかも知れない。ただ私としては、あるがままの戦争の姿を知らせることによつて、勝利に傲つた銃後の人々に大きな反省を求めようといふつもりであつたが、このやうな私の意図は葬られた。そして言論の自由を失つた銃後は官民ともに乱れに紊れて遂に国家の悲運を眼のあたりに見ることになつた。今さらながら口惜しい気もするのである。

当時の社会情勢としてはこのやうな作品の発表が許されなかつたのも当然であつたらう。しかし私は自分の意図を信じ、自分の仕事を確信してゐた。第一審の検事はその論告のなかで(この種犯罪の中に於ける最も悪質なるものであり、最も重く処刑すべし)と言つた。私はこの論告に憤然として(此の種犯罪の中に於ける最も良質なるものと確信する)と裁判長に向つて言つた。

その目的に於て、動機に於て、責めらるべき筋のないものならば、たとひ結果がどうあらうとも(最も悪質)といふ結論が出てくる筈はない。作家は、彼が良心ある作家であるならば、たとひ生命を犠牲にしても(最も悪質)といふ論告をそのまま受け容れることは出来ない筈だ。私はたとひ十年の刑を受けようとも、国家社会に対する私の良心を擁護しなければならなかつた。作家が、拠て以て立つ自己の精神を守らなければならなかつた。

しかしこのやうな強情さは検事の理解するところとならなかつた。判決があつたその翌日、検事は直ちに控訴手続きをとつた。

第二審の判決は一審と同じであつた。私は三年の執行猶予を与へられた。

いま、国家の大転換に際会し、はからずもここに本書を刊行する機会が与へられて、感慨ふかいものがある。有罪の理由として判決書に記載されてゐる(皇軍兵士の非戦闘員殺戮、掠奪、軍紀弛緩の状況を記述したる安寧秩序を紊乱する事項)といふ点は私の作品を俟たずして世界にむかつて明白にされつつあり、(現に支那事変が継続中なる公知の事実を綜合して・・・)といふ理由は消滅した。今さら安寧秩序を紊すことも有るまいし、皇軍の作戦に不利益を生ずる畏れもない。

事新しくこの作品を刊行する理由があるかどうか、一応私は考へて見た。永い年月を経て読み返して見れば心に満たぬものも少くない。しかし、私は敢て出版書肆の求めに応じて刊行しようと思つた。

終戦に、何かしら釈然としない、拭ひ切れなかつた私の気持は、この原稿を読み返してみて何となくはつきりした。九年に亘る戦ひを最後に鳥瞰して、一種の理解を得たやうな気がするのである。これは私一個の主観にすぎないかも知れないが、戦場に於ける人間の在り方、兵隊の人間として生きる在る姿に対し、この作品を透して一層の理解と愛情とを感じて貰ふことが出来れば幸である。

なほこの機会に当り、当時非常な御迷惑をかけた島中氏ほか中央公論社の諸氏に改めて謝意を表し、懇切な弁護をして下さつた片山哲氏、福田耕太郎氏ならびに舎弟石川忠の三氏に深く御礼を申し述べて本書の刊行を御報告致したいと思ふ。

―「生きてゐる兵隊」初版の序(昭和二十一年)




 選集刊行に際して

 「生きてゐる兵隊」については、事新しく何も言ふことはない。今となつては遙に遠い昔の思ひ出である。むしろ前世紀をふりかへつて見るやうに遠い気がする。

私は南京の戦場に向ふとき、できるだけ将校や軍の首脳部には会ふまいといふ方針をもつて出発した。そして予定通り下士官や兵のなかで寝とまりし、彼等の雑談や放言に耳を傾け、彼等の日常を細かく知つた。将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ。私は戦場の真実を見ようと考へて兵士の中にはいつた。

その結果として書かれたものは、軍部と同じやうに見せかけや体裁を重んずる特高警察と裁判所との忌諱にふれた。政府と官僚とに対する私の嫌悪は「蒼氓」から「日陰の村」の時代を経て「生きてゐる兵隊」に至つて遂に当局と衝突することになつた。私にとつては運命的な筋道であつた。

そして其の後も、終戦と共に解体されるまで特高警察とは縁が切れなかつた。終戦の三四日前にも警視庁に呼ばれてまる二日の取調べを受けたものであつた。調べ室は、重要書類焼却の煙で白くなつてゐる時であつた。

このやうな反抗は謂はば私の血液のやうなものであるらしい。自分で反抗を意図してゐない場合にも当局は嫌悪する。私の考へ方、物の見方が根本的に反官僚的であるらしい。私は運命だと思つてゐる。

(以下略)

昭和二十二年九月     著者





(2007.11.18)


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