文化人と「南京事件」 |
日本軍の南京占領に前後して、多くの文化人が、従軍の形で南京を訪れています。 石川達三氏の「生きている兵隊」が発禁となったことからもわかるように、当時の状況では、日本軍の「暗」の側面を発表するのは不可能でした。 また戦後になっても、「南京事件」について語って「政治」に巻き込まれることを嫌ってか、これら文化人のうち多くは、ほとんど何もコメントを残してはいません。 その中でも、何人かは、「南京事件」への認識を示す記述、あるいはそれを伺わせる記述を残しています。このコンテンツでは、そのような記述をまとめてみました。 *関連部分全体の引用はあまりに長文となるため、ここでは骨子のみにとどめ、別ファイルで前後の文の紹介を行いました。 目次 ●石川達三 石川達三氏は、南京占領後の1937年12月下旬、中央公論会の特派員として、上海、蘇州、南京をめぐりました。南京入りは1月5日のことです。 氏は1月帰国後、兵隊たちから聴取した体験談をもとに、小説「生きている兵隊」を著しました。 この小説は「中央公論」三月号に掲載されましたが、「反軍的内容を持った時局柄不穏当な作品」として発売禁止処分を受け、その後「新聞紙法」違反で起訴、禁錮四ヵ月、執行猶予三年の判決を受けました。 氏は、兵隊たちへの取材を通して、南京戦前後の日本軍の行動について十分な認識を持っていたようです。以下、戦後「読売新聞」に掲載された、石川氏へのインタビュー記事を紹介します。
さらに中公文庫版「生きている兵隊」巻末に半藤一利氏が寄せている文章から、石川氏自身がこの作品をどのように認識していたのか、ということを見ておきましょう。
2004.8.29 追記また、この記事に出てくる「片山某といふ従軍僧」の話が事実であることを示唆する資料として、次のものがあります。
2007.11.18 追記 半藤氏が言及している「生きてゐる兵隊」初版序文、および昭和二十三年の「選集」に寄せた石川氏の一文を確認できましたので、紹介します。
「将校は外部の人間に対して嘘ばかり言ふ、見せかけの言葉を語り体裁をつくろふ」の部分は、戦後における軍将校たちの「タテマエ証言」群を想起させ、興味深いものがあります。 より詳しい引用は「石川達三『生きてゐる兵隊』 昭和二十三年版 序文」に掲載しました。 2011.10.1追記 石川氏は、『サンデー毎日』 1970年8月16日特別増大号 「秘録 "あの大東亜戦争"」でも、インタビューの中で、「南京大虐殺」に言及しています。
ここでは、「大虐殺という残忍な行為」の存在が、話の当然の前提として語られています。石川氏が「大虐殺」の存在を疑問のない事実として受け入れていたことは、明らかでしょう。 この発言の前後を含むより長い引用は、こちらに掲載しました。 2015.1.4追記 石川達三は、1970年刊の著書『経験的小説論』でも、やはり「南京虐殺」に言及しています。
こちらで興味深いのは、石川が「虐殺」の事実は明確に認識しつつも、日本軍をある程度擁護する立場をとり、また「東京裁判」に対して批判的な考えを示していることです。 冒頭の読売新聞インタビューでは「裁判」の「意義」に言及していますが、むしろこちらの方が石川の「ホンネ」なのかもしれません。 ※同書のうち「生きてゐる兵隊」関連部分を、こちらに掲載しました。執筆の動機、自分なりの作品の位置づけなどが詳細に語られており、関心のある方にはぜひ一読をお勧めします。 なお、この読売新聞記事に対比する形でよく持ち出される、阿羅健一氏の石川氏に対するインタビューも紹介します。
上の記述ではなぜか阿羅氏の「質問」が省略されていますが、「じゅん刊 世界と日本」の記事で、その応答を確認することができます。
石川氏はなぜか、「読売新聞」記事に見られるような「兵隊」の「無軌道の行動」について一切語っていません。 1970年に「事件そのものを否定することはできなかった」と発言している人物が、その後「今も信じてはおりません」とまで認識を変えるのは、いかにも不自然です。 どのような状況で「質問と返答」が行われたかは明記がなく不明ですが(往復はがき?)、「否定」の側面を強調させようとする「誘導」が働いた可能性は否定できません。 質問と回答がやや噛み合っていないことも気になります。 また「会えるような状況ではなかった」ほど健康を害した状態でのやりとりであり、石川氏がどこまで十分な認識の下に語ったのか、疑問が残ります。 いずれにしても、「生きてゐる兵隊」、読売新聞記事、その他関連発言を見ると、石川氏が、「二十万」なり「三十万」なりの規模はともかく、上海戦−南京戦において 「いくら何でも無茶」な規模の「兵隊」の「無軌道の行動」、そして「虐殺」の事実を認識していたことは、間違いのないところでしょう。 ●大宅壮一 大宅氏は、毎日新聞の準特派員という形で、南京占領と同時に南京に入城しました。戦後は、以下のような発言を残しています。 あまりに長文となるため、以下では、ダイジェスト版のみ掲載しました。より正確に、前後の発言を含めて知りたい方は、 「大宅壮一氏の証言」にアップしておきましたので、合わせてご覧下さい。
*「柳川兵団」についての悪評は、当時から広まっていたようです。当時同盟通信者の上海支局長の松本重治氏も、次のような記述を残しています。
2010.12.4追記 南京戦に従軍した朝日新聞記者、浅海一男氏の記述を紹介します。ここに登場する「フリーのジャーナリスト」は、明らかに大宅壮一氏です。
●西條八十 詩人の西條八十氏は、入城式(12月17日)の参観のため、同日朝、駆逐艦で南京に入りました。 氏は、その時の体験談を、文芸春秋社の「話」昭和13年2月号に寄稿しています。
前後を含めた原文のより長い引用は、「西條八十氏「燦たり南京入城式」」にアップしました。 検閲厳しい時期の文章であり、「何が起こったか」は「行間を読む」しかありません。これについては、記事を紹介した高崎隆治氏のコメントを見ることにしましょう。
確かに元の文を見ると、文章の流れから、「そろそろ始まったな」の後にはかなりの「省略」があるようにも思われます。高崎氏の見解は概ね妥当なものと言えるでしょう。 2010.5.22追記 西條八十が1961年「西日本新聞」に連載した『我愛の記』に、「大虐殺」の文字を見ることができます。「漢口陥落の前」、九江で「文士部隊」と合流した時の記録です。
「燦たり南京入城式」によれば、南京到着は南京入城式(1937年12月17日)直前の「深夜」でしたので、「南京入城の前日」というのは記憶違いかもしれません。 あるいは、「大虐殺」をリアルタイムで目撃したのではなく、「大虐殺の跡」を目撃したことを語っているのかもしれません。 いずれにしても、「むごたらしい大虐殺」に「あの」がつく以上は、「南京大虐殺」以外のことを語っているとは考えられず、 西條八十は間違いなく「南京大虐殺」の存在を認識していた、と判断してよいでしょう。 ●火野葦平 本名玉井勝則。 第十八師団第百十四連隊(小倉)に「伍長」として従軍し、のちには軍報道部に勤務、「徐州会戦」をテーマにした「麦と兵隊」などの戦争文学を著しました。 火野氏は、12月17日の南京入城式に参加するため、南京を訪れています。この手紙には、「南京攻略戦」の途中、「嘉善」にて、投降した捕虜を全員殺害した事件が書かれています。 大変な長文であり、以下は「捕虜殺害」のシーンのみです。全文は「火野葦平の手紙」にアップしました。
「ライライ」と言って誘い出し、「ジユズつなぎにし」た捕虜を、「貴様たちのために戦友がやられた、こんちくしよう、・・・とか何とか云ひながら」、 上官の命令もないままに、自然発生的に「誰かが、いきなり銃剣で、つき通し」て、結果として三十二名全員を殺害してしまう。これはちょっと「正当化」のしようがない「捕虜殺害」でしょう。 当時の戦場ではこの種の「捕虜殺害」が常態化していたことを伺わせる資料のひとつです。 なお田中正明氏は、文化人たちの「南京事件」認識について、こんな記述を行っています。
太字で示したメンバーについては、既に取り上げました。 他のメンバーについても、検閲厳しい戦前に書いた文章の中に「匂わす文章はどこにも見当たらない」のは当たり前の話ですし、また「南京事件を告発」しなかったからと言って「南京事件」の存在を否定したことにならないのは、 言うまでもないでしょう。 特に最後の、「大宅壮一でさえ、南京虐殺には終始否定的であった」との発言は、明らかな「ウソ」です。 最後に、上の田中氏の記述についての洞氏のコメントを紹介します。
(2003.12.21記)
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