「幕府山事件」は、第十三師団所属の山田支隊(歩兵第六十五連隊、山砲兵第十九連隊など)が起した、「南京事件」でも最大規模の「捕虜虐殺」として伝えられる事件です。まずは、「事件」をめぐる過去の論争状況を俯瞰してみましょう。
「幕府山事件」は、かつて1980年代前半までは、次のようなものとして受け止められていました。いわゆる「自衛発砲説」です。
『戦史叢書 支那事変陸軍作戦<1>』より
第十三師団において多数の捕虜が虐殺したと伝えられているが、これは十五日、山田旅団が幕府山砲台付近で一万四千余を捕虜としたが、非戦闘員を釈放し、約八千余を収容した。
ところが、その夜、半数が逃亡した。警戒兵力、給養不足のため捕虜の処置に困った旅団長が、十七日夜、揚子江対岸に釈放しようとして江岸に移動させたところ、捕虜の間にパニックが起こり、警戒兵を襲ってきたため、危険にさらされた日本兵はこれに射撃を加えた。
これにより捕虜約一、〇〇〇名が射殺され、他は逃亡し、日本軍も将校以下七名が戦死した。
(同書 P437)
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これは、歩兵六十五連隊連隊長の「両角業作手記」など、部隊幹部の証言に基づくものです。(両角業作手記は、K−Kさんのサイトに全文掲載されています)
ポイントを要約すれば、
1.当初の「一万四千余」の捕虜のうち非戦闘員を釈放して「約八千余」となり、さらに半数が、火事に紛れて闇夜の中(「両角手記」による)逃走し、四千人が残った。
2.残りの捕虜については、支隊では釈放を企図したが、捕虜が反抗したため射撃を加えることとなり、一千人を射殺した。残り三千人は逃亡した。
ということになります。
しかし80年代後半から、栗原利一伍長証言、及び小野賢二氏の膨大な資料・証言発掘努力などにより、事件の全体像のイメージは全く変わってきます。『南京大虐殺否定論13のウソ』所収、小野賢二氏の『虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方』からです。
小野賢二氏『虐殺か解放か 山田支隊捕虜約二万の行方』より
調査は困難だったが、それでも、証言数約二〇〇、陣中日記等二四冊、証言ビデオ一〇本、その他の資料を収集することができた。この中に、゛自衛発砲説゛に添ったものは一つもなかった。調査結果の要旨は次のようになる。
山田支隊が一九三七年一二月一三日烏龍山、一四日幕府山両砲台付近で捕えた捕虜は一万四七七七名にのぼり、その後の掃蕩戦でも捕虜を獲得、その総数は約一万七〇〇〇-一万八〇〇〇人にものぼった。捕虜は白旗を掲げ無抵抗で捕虜となった。
この膨大な捕虜は幕府山南側にあった国民党軍の兵舎二二棟に収容した。この時、非戦闘員の解放は行なわれなかった。捕虜収容所は歩兵第六五連隊第一大隊 (
第一中隊欠 ) が中心に警備した。
一六日の昼頃、捕虜収容所内に火災(ボヤ?)が発生したが、捕虜の逃亡もそれに対する銃撃もなかった。その後、当時の『アサヒグラフ』に掲載された捕虜の写真が撮影された。この夜、軍命令により長江岸の魚雷営で二〇〇〇-三〇〇〇人が虐殺(試験的に?)され、死体はその夜のうちに長江に流された。
残りの捕虜を一七日、上元門から約二キロ下流の大湾子で虐殺した (
証言によると、魚雷営でも行なわれ、大湾子の虐殺には他部隊の機関銃隊が加わった可能性もある )
。この一七日の虐殺は大量の捕虜だったため、薄暗くなるころから開始された虐殺が一八日の朝がたまで続いた。そして、死体処理には一八、一九日の二日間かかった。
その他、歩兵第六五連隊第一中隊は烏龍山砲台を警備し、その付近で多数の敗残兵をその場で、あるいは捕虜とした後、銃殺した。
以上、この調査結果から゛自衛発砲説゛は作り話であることがわかった。
(『南京大虐殺否定論13のウソ』P142) |
「自衛発砲説」との違いを挙げると、次のようになります。
1.「自衛発砲説」のような、「捕虜がどんどん減っていった」という事実は見られない。
2.虐殺は一回ではなく、16日夜(二、三千人)、17日夜(一万人以上?)の2回に分けて行われた。
3.支隊としての「釈放」意図を確認することはできない。
*小野賢二氏が発掘した資料群は、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』にまとめられています。
このような研究成果が出ているにもかかわらず、東中野氏は、これをほとんど無視して、あえて従来の「自衛発砲説」を無批判に採用します。以下、見ていきましょう。
両角業作手記は、最初に獲得した捕虜「一万五千三百余」のうち、約半数の「全くの非戦闘員」を解放した、と記述します。
「両角業作手記」より
幕府山東側地区、及び幕府山付近に於いて得た捕虜の数は莫大なものであった。新聞は二万とか書いたが、実際は一万五千三百余であった。しかし、この中には婦女子あり、老人あり、全くの非戦闘員(南京より落ちのびたる市民多数)がいたので、これをより分けて解放した。残りは八千人程度であった。
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「両角業作手記」は、従来より「自衛発砲説」の最大の根拠として活用されてきました。ただしこの「両角手記」は、旧陸軍軍人の親睦組織である偕行社からさえも、このような評価を受けている程度の資料です。
『南京戦史資料集Ⅱ』より
『手記』は明らかに戦後書かれたもので(原本は阿部氏所蔵)、幕府山事件を意識しており、他の一次資料に裏付けされないと、参考資料としての価値しかない。
(「南京戦史資料集Ⅱ」P12) |
しかし東中野氏は、「他の一部資料」の裏付けを求めることもなく、「参考資料としての価値しかない」「両角手記」の記述をそのまま採用してしまいました。
東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より
この大量の投降兵集団のなかには、南京から逃げてきたという非戦闘員もいた。老兵もいた。女性兵士もいた。少年兵というにはあまりに幼い、十二歳の少年もいた。そこで非戦闘員などはどんどん解放されて、両角連隊長の「回想」では、捕虜約「八千名」が残った。
(同書 P156) |
この「非戦闘員の大量解放」の話は、山田支隊の他の幹部の証言、また各兵士の記録にも、ほとんどと言っていいほど登場しません。「解放」を明言しているのは、ほとんどこの「両角手記」だけだ、と言ってもいいでしょう。
そもそもこの説を取るのであれば、南京城外に少なくとも6−7000人規模の「非戦闘員」が存在したことになり、東中野氏の「安全区外は無人」説が崩壊してしまうのですが、東中野氏はそんなことは全く気にしません。
参考までに、「投降兵集団」はどのような集団だったのか。いくつか、「目撃記録」が残っています。
<斉藤次郎>陣中日記
歩兵第65連隊本部通信班小行李・輜重特務兵
十二月十四日 晴
第一大隊の捕慮にした残敵を見る、其数五六百名はある、前進するに従ひ我が部隊に白旗をかかげて降伏するもの数知れず、午後五時頃まで集結を命ぜられたも〔の〕数千名の多数にのぼり大分広い場所を黒山の様に化す、
若い者は十二才位より長年者は五十の坂を越したものもあり、服装も種々雑多で此れが兵士かと思はれる、山田旅団内だけの捕慮を合して算すれば一万四千余名が我が軍に降った、
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P37) |
<目黒福治>陣中日記
山砲兵第19連隊第三大隊大隊段列・伍長
十二月十三日 晴天
午前三時起床、四時出発、南京爆布(幕府)山砲台攻撃の為前進す、途中敵捕慮(虜)各所に集結、其の数約一万三千名との事、十二三才の小供より五十才位迄の雑兵にて中に婦人二名有り、残兵尚続々の(と)投降す、各隊にて捕い(え)たる総数約十万との事、午後五時南京城壁を眺めて城外に宿営す。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P373) |
「山田支隊の元兵士による捕虜大量虐殺の証言」より
黒須忠則さん(仮名)
山砲兵第19連隊第三大隊大隊段列・上等兵
その日の12時頃、我々は南京に向け突撃しました。
戦闘中に中国の兵士が白旗を掲げ、降参してきました。そこにはまだ学生と思われるような少年兵から白髪を生やした老人まで男という男がいました。彼らは正規兵に交じって塹壕掘りなどに従事していたと思われます。
私は「こんな年端もゆかぬ子供まで兵隊にしてしまうとは」と思いました。
(パンフ「南京虐殺の事実をみんなのものに−東京集会」記録集 2000年10月28日 小野賢二氏記録によるビデオ証言) |
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いわゆる「民兵」も混じっていたようではありますが、数千人規模の民間人が混入していた気配はありません。そして、彼らが釈放された、という記録もありません。
*参考 「幕府山事件」の証言者として有名な栗原利一氏(第65連隊第1大隊伍長)は、「実際には捕虜の中には家族持ちの捕虜が200人くらいて、その人達の奥さんや子供なども捕虜には含まれていた」と語っていたようです
(K−Kさん「南京事件資料集」所収「証言に関する諸事情 ご子息である核心さんの証言」)。
ただしこちらによれば、その「奥さんや子供」もやはり虐殺されてしまった、ということです。
山田支隊の元兵士約200人に「聞き取り調査」を実施した(下記発言時点では170人)、小野賢二氏の結論です。
「シンポジウム 南京事件研究の現状と今後の課題」より(1991年12月)
小野賢二氏発言
収容所に入れる時にその捕虜は解放したのかどうか。これは「解放したのですか」と聞くと、ほとんどの人は「わからない」というのですね。調べている私もわからない。
「解放作業をやりましたか」と聞きますと、みんな「やらない」。
万単位の捕虜ですから、百七十人も聞けば誰か一人ぐらいはタッチしてないとおかしいですよね。だから、解放はしていないと考えられます。
(『南京大虐殺 日本人への告発』P122) |
「南京戦」に参加した山田支隊の人数は、「二千二百余」と伝えられます(『ふくしま 戦争と人間』1 P111)。小野氏はこのうち「百七十人」にヒアリングを行いましたが、誰も「解放」の事実を知らなかったわけです。
「民間人解放」の事実はなかった、と見ていいでしょう。
「民間人解放説」は、あるいは30年前でしたら、一定の説得力を持ったものであったかもしれません。しかしこれは、今日では「異説」に近いものになっていることを、東中野氏は承知しているはずです。
にもかかわらず、小野氏らの研究成果に全く触れず、この古色蒼然たる「異説」を無批判に採用してしまう東中野氏のスタンスには問題があるでしょう。氏は、「先行研究無視」という学者としての重大なルール違反を犯している、と言わざるをえません。
さて「自衛発砲説」では、14000人余から「非戦闘員釈放」で8000人まで減少した捕虜が、さらに「火災に紛れた逃亡」で4000人まで減少したことになっています。まずは、両角手記です。
「両角業作手記」より
当時、我が聯隊将兵は進撃に次ぐ進撃で消耗も甚だしく、恐らく千数十人であったと思う。この兵力で、この多数の捕虜の処置をするのだから、とても行き届いた取扱いなどできたものではない。四周の隅に警戒として五、六人の兵を配置し、彼らを監視させた。
炊事が始まった。某棟が火事になった。火はそれからそれへと延焼し、その混雑はひとかたならず、聯隊からも直ちに一中隊を派遣して沈静にあたらせたが、もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した。我が方も射撃して極力逃亡を防いだが、暗に鉄砲、ちょっと火事場から離れると、もう見えぬので、少なくも四千人ぐらいは逃げ去ったと思われる。
私は部隊の責任にもなるし、今後の給養その他を考えると、少なくなったことを却って幸いぐらいに思って上司に報告せず、なんでもなかったような顔をしていた。
(『南京戦史資料集』P339)
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しかし小野賢二氏「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」に掲載された資料群を見ると、「夜に火災が起こり、大量の逃亡者が出た」という事実を見ることはできません。
実際に火事が生じたのは正午〜零時三十分の昼間の時間帯であり、その際には特筆するような「逃亡」はなかったようです。
<宮本省吾>陣中日記
歩兵第65連隊第四中隊・第3次補充・少尉
〔十二月〕十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P134) |
<遠藤高明>陣中日記
歩兵第65連隊第八中隊・少尉 第三次補充
十二月十六日 晴
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に遭ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠにて射殺す。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P219) |
<菅野嘉雄>陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵
〔十二、〕十六
飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P309)
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<近藤栄四郎>出征日記
山砲兵第19連隊第八中隊・伍長
〔十二月〕十六日
夕方二万の捕慮が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分ノ一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P326) |
*「ゆう」注 「近藤栄四郎」の記録については、火災を「夕方」と読む論者も存在します。しかし他の記録との整合性を考えれば、
「夕方」の後に「、」を加えて、「兵の交代に行」ったのが「夕方」であり、火災はその以前であった、と解釈すべきところでしょう。
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「夜の火災」を記したほとんど唯一の資料は、「幕府山事件」の数少ない生き残りであった中国側軍人、唐光譜の手記です。
唐光譜『私が体験した日本軍の南京大虐殺』
五日目になった。私たちはお腹の皮が背中につくほどお腹が空いてみなただ息をするだけであった。明らかに、敵は私たちを生きたまま餓死させようとしており、多くの大胆な人は、餓死するよりも命を賭ける方がましだと考え、火が放たれるのを合図に各小屋から一斉に飛び出ようとひそかに取り決めた。
その日の夜、誰かが竹の小屋を燃やした。火が出ると各小屋の人は皆一斉に外へ飛び出た。みんなが兵舎の竹の囲いを押し倒したとき、囲いの外に一本の広くて深い溝があるのを発見した。人々は慌てて溝に飛び降りて水の中を泳いだり歩いたりして逃走した。しかし、溝の向こうはなんと絶壁でありみな狼狽した。
このとき敵の機関銃が群衆に向かって掃射してきた。溝の水は血で真っ赤に染まった。逃走した人はまた小屋の中に戻された。小屋は少なからず焼け崩れ、人と人は寄り添い近寄っておしあいするしかなく、人間がぎっしりと缶詰のように詰まり、息をするのもたいへんだった。
(『南京事件資料集 2中国関係資料編』P251)
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日本側には「両角手記」以外これに対応する記録はなく、果たしてこれが事実であったかどうかは判然としません。しかし、この手記が事実であったとしても、結局「逃亡」は失敗する結果に終わっており、「両角手記」が主張する「約四千人の大脱走」の事実を確認することはできません。
※唐光譜手記については、違う部隊の話ではないか、とする見方もあります。
さてこのような状況で、東中野氏はどのような記述を行っているか、確認してみましょう。
東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より
十二月十六日、やがて炊事が始まった午後十二時半ごろ、一棟から火が出た。煙はもうもうと上がり、大混乱となった。捕虜の計画的な放火だった。これを消火するため会津若松六十五連隊が走るなか、捕虜は次々と逃亡した。両角業作連隊長は「少なくとも四千人」が逃亡したと見た。(P163-P164)
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何と、「両角手記」の「大量逃亡」説をそのままにして、火災の時間だけを昼間にずらしてしまいました。
「昼間の火災時の逃亡」というこの東中野氏の記述には、何の資料的裏付けもありません。氏は、「両角手記」と「小野資料」の記述を適当にミックスして、「想像」だけを頼りに勝手なストーリーを作り上げています。常識で考えても、「昼間の火災」であれば「大量逃亡」はかなり困難なものであるはずです。
しかも「両角手記」は「我が方も射撃して極力逃亡を防いだが」と「捕虜」に対する射撃を明確に記述しているのに、東中野氏は「これを消火するため会津若松六十五連隊が走るなか」と、まるで捕虜が逃げるままにしていたかのように勝手に書き換えてしまっています。
「火災は昼間だったが、兵士は消火に追われて逃亡を防げなかった」というイメージを作り出そうと したのでしょうか。
「自衛発砲説」が有力視されていた時期には、「虐殺」は十二月十七日に行われた一回だけ、ということが当然の前提となっていました。「両角手記」にも、それ以外の「虐殺」の存在を
匂わせる記述は登場しません。
しかし研究の進捗に従い、十七日の大量虐殺と別に、「十二月十六日にも虐殺があった」という認識が
今日では定着しています。まずは、阿部輝朗氏が発掘した、「佐藤一等兵」の日記です。
「佐藤一等兵」日記
12月16日
朝七時半、宿舎前整列。中隊全員にて昨日同様に残兵を捕へるため行く事二里半、残兵なく帰る。昼飯を食し、戦友四人と仲よく故郷を語って想ひにふけって居ると、残兵が入って居る兵舎が火事
。直ちに残兵に備えて監視。あとで第一大隊に警備を渡して宿舎に帰る。それから「カメ」にて風呂を造って入浴する。あんなに二万名も居るので、警備も骨が折れる。警備の番が来るかと心配する。
夕食を食してから、寝やうとして居ると、急に整列と言ふので、また行軍かと思って居ると、残兵の居る兵舎まで行く。
残兵を警戒しつつ揚子江岸、幕府山下にある海軍省前まで行くと、重軽機の乱射となる。
考へて見れば、妻子もあり可哀想でもあるが、苦しめられた敵と思へば、にくくもある。銃撃してより一人一人を揚子江の中に入れる。あの美しい大江も、真っ赤な血になって、ものすごい。これも戦争か。
午後十一時半、月夜の道を宿舎に帰り、故郷の家族を思ひながら、近頃は手紙も出せずにと思ひつつ、四人と夢路に入る。(南京城外北部上元門にて、故郷を思ひつつ書く)
(「南京の氷雨」P25) |
殺害場所は、下関埠頭にも近い、「魚雷営」であったと推定されています。「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」では、6名が「16日の虐殺」について触れています。
<宮本省吾>陣中日記
歩兵第65連隊第四中隊・第3次補充・少尉
〔十二月〕十六日
警戒の厳重は益々加はりそれでも〔午〕前十時に第二中隊と衛兵を交代し一安心す、しかし其れも疎の間で午食事中俄に火災起り非常なる騒ぎとなり三分の一程延焼す、午后三時大隊は最後の取るべき手段を決し、捕慮兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す、戦場ならでは出来ず又見れぬ光景である。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P134) |
<遠藤高明>陣中日記
歩兵第65連隊第八中隊・少尉 第三次補充
十二月十六日 晴
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に遭ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠにて射殺す。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P219) |
<本間正勝>戦斗日記
歩兵第65連隊第九中隊・二等兵
十二月十六日
午前中隊は残兵死体整理に出発する、自分は患者として休養す。午后五時に実より塩規錠をもらー(ママ)、捕慮(虜)三大隊で三千名揚子江岸にて銃殺す、午后十時に分隊員かへる。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P239)
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<菅野嘉雄>陣中メモ
歩兵第65連隊連隊砲中隊・一等兵
〔十二、〕十六
飛行便の書葉(葉書)到着す、谷地より正午頃兵舎に火災あり、約半数焼失す、夕方より捕虜の一部を揚子江岸に引出銃殺に附す。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P309)
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<近藤栄四郎>出征日記
山砲兵第19連隊第八中隊・伍長
〔十二月〕十六日
夕方二万の捕慮が火災を起し警戒に行つた中隊の兵の交代に行く、遂に二万の内三分ノ一、七千人を今日揚子江畔にて銃殺と決し護衛に行く、そして全部処分を終る、生き残りを銃剣にて刺殺する。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P326) |
<黒須忠信>陣中日記
山砲兵第19連隊第三大隊段列・上等兵
拾二月拾六日 晴
午后一時我が段列より二十名は残兵掃湯(蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面
に向ふ 、二三日前捕慮(虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を以て射殺す、其の后銃剣にて思う存分に突刺す、自分も此の時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突刺した事であろう。
山となって居る死人の上をあがつて突刺す気持ちは鬼をもひしがん勇気が出て力一ぱいに突刺したり、うーんうーんとうめく支那兵の声、年寄も居れば子供も居る、一人残らず殺す、刀を借りて首をも切つて見た、こんな事は今まで中にない珍しい出来事であつた、
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』P350-351) |
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従来の「自衛発砲説」は、ここで大きな問題に突き当たります。
「説」によれば、残った「四千名」の捕虜すべてが翌日17日の事件で殺害されるかあるいは逃亡したかしたはずなのですが、16日に「三千名」(もしくは小野氏説「二−三千名」)が殺されてしまったとすると、「17日」にはほとんど捕虜は残っていないことになってしまうのです。
さて、東中野氏の記述に移りましょう。
東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より
残るは四千人となったが、宮本省吾(仮名)少尉は十二月十六日の陣中日記に「午後三時大隊(第一大隊)は最後の取るべき手段を決し、捕虜兵約三千を揚子江岸に引率し之を射殺す」(一三四頁)と記している。
同じく第二大隊第八中隊の遠藤高明(仮名)少尉は同じく十六日の「陣中日記」に、「午後零時三十分捕虜収容所火災ノ為出動ヲ命ゼラレ、同三時帰還ス。・・・・夕刻ヨリ軍命令ニヨリ捕虜ノ三分ノ一ヲ江岸ニ引出シⅠ(第一大隊)ニ於テ射殺ス」 ( 二一九頁 ) と書いている。
第一大隊の宮本少尉と、第二大隊の遠藤少尉とでは、数字に違いが見られるが、ともかく十二月十六日の夕刻に、捕虜の放火にたいする「最後の取るべき手段」、すなわち関係者処刑の「軍命令」が出て、四千人のうちの「約三千」もしくは「三分ノ一」が揚子江岸で銃殺された。残るは約二千名前後となった。(P164)
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「四千人」のうち「約三千」が銃殺されたら、残りは「千人」になるはずです。そこを東中野氏は、巧みに「三分ノ一」の語を挟み込むことで、「約二千名」が残ったことにしてしまいました。
氏が根拠とする「遠藤高明陣中日記」をもう一度読み返しましょう。
<遠藤高明>陣中日記
歩兵第65連隊第八中隊・少尉 第三次補充
十二月十六日 晴
定刻起床、午前九時三十分より一時間砲台見学に赴く、午後零時三十分捕虜収容所火災の為出動を命ぜられ同三時帰還す、同所に於て朝日記者横田氏に遭ひ一般情勢を聴く、捕虜総数一万七千二十五名、夕刻より軍命令により捕虜の三分の一を江岸に引出しⅠにて射殺す。
(『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』 P219) |
氏は、「三分ノ一」の直前の、「捕虜総数一万七千二十五名」の語を省略していたのでした。
「遠藤高明」は、「17,025名」の「1/3」、つまり5-6000名程度が射殺されたものと認識しています。
上の6名の記録のうち「宮本少尉」と「遠藤少尉」のものしか紹介しないのも東中野氏の作為的なところですが、他の記録を見ても、概ね「三千」から「五千」(「近藤栄四郎」のみ「七千」)の範囲になっています。
小野賢二氏は独自の聞き取り調査の結果として「二−三千」という結論を出したようですが、東中野氏が「小野資料」(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」)を根拠にするのであれば、どうやっても「三千」以下の数は出てこないはずです。
ともあれ、東中野氏の説明に従うのであれば、「幕府山事件」のハイライト、17日の惨劇に直面する「大量」の捕虜は、たった二千人、ということになってしまいました。
さて、この「16日」の「虐殺」は、なぜ生じたのでしょうか。
そもそもこの「魚雷営の虐殺」は、阿部輝朗氏の調査以前には、ほとんど知られていませんでした。従って「動機」を知っているはずの支隊幹部の証言・記録も乏しく、「虐殺理由」についてのはっきりとした断定は困難です。
ほとんど唯一16日の事件に触れている支隊幹部が、第五中隊長・角田大尉です。阿部輝朗氏「南京の氷雨」の中に、その証言を見ることができます。
第五中隊長・角田栄一証言(『南京の氷雨』より)
火事があって、かなりの数の捕虜に逃げられた。だが、このとき両角連隊長のところには「処分命令」がきていた。しかし両角連隊長はあれこれ考え、一つのアイデアを思いついた。
「火事で逃げられたといえば、いいわけがつく。だから近くの海軍船着き場から逃がしてはどうか―。私は両角連隊長に呼ばれ、意を含められたんだよ。
結局、その夜に七百人ぐらい連れ出したんだ。いや、千人はいたかなあ・・・・。あすは南京入城式、早ければ早いほどいい、というので夜になってしまったんだよ」
逃がすなら昼でもかまわないのではないかと思われるが、時間的な背景もあって夜になったということになろうか。
「昼のうちに堂々と解放したら、せっかくのアイデアも無になるよ。江岸には友軍の目もあるし、殺せという命令を無視し、逆に解放するわけなのだからね」
夜の道をずらりと並べて江岸へと連行していったが、案に相違して捕虜の集団が騒然となってしまった。
万一の場合を考え、二挺の重機関銃を備えており、これを発射して鎮圧する結果となった。
しかし、いったん血が噴出すると、騒ぎは大きくなった。兵たちは捕虜の集団に小銃を乱射し、血しぶきと叫び声と、そして断末魔のうめき声が江岸に満ちた。 修羅場といっていい状況がそこに現出した。正式に準備したのは重機関銃二挺だが、ほかにも中国軍からの戦利品である機関銃も使ったような気がする、ともつけ加えていう。
「連行のとき、捕虜の手は後ろに回して縛った。途中でどんなことがあるかわからないというのでね。で、船着き場で到着順に縛っていたのをほどき始めたところ、いきなり逃げ出したのがいる。
四、五人だったが、これを兵が追いかけ、おどかしのため小銃を発砲したんだよ。これが不運にも、追いかけていた味方に命中してしまって・・・・。これが騒動の発端さ。
あとは猛り立つ捕虜の群れと、重機関銃の乱射と・・・・。
地獄図絵というしかないね、思い出したくないね。ああいう場での収拾はひどく難しく、なかなか射撃をとめられるもんじゃない。まして戦友がその場で死んだとなったら、結局は殺気だってしまってね」
銃撃時間は「長い時間ではなかった」と角田中尉はいう。月が出ていて、江岸の船着き場には無残な死体が散乱する姿を照らし出していた。五隻ほどの小船が、乗せる主を失って波の中に浮かんでいた。
「捕虜たちは横倒しになっており、あたりは血みどろになっていて、鬼気迫るばかりの情景だったなあ。みんな死んでしまったらしい。そう思いながら、このあとどう処置しようかと考えあぐねていると、俺は頭髪が逆立つのをおぼえた。
目の前の死体の中から、生き残っていた兵士が、血まみれの姿で仁王立ちになって、こちらに突進してきたんだ。しかし十歩ほど歩いてこと切れてしまったがね。あの形相を、あの気迫を、私は今でも忘れることがありません」
偶発、それが結果として虐殺になった。
(「南京の氷雨」P85-P87) |
翌17日と同じく、「解放」目的の連行が一転して「虐殺」になってしまった、という説明ですが、さすがに「二日続けて「解放」に失敗した」というのはいかにも不自然です。
16日「魚雷営の虐殺」については、参加した部隊兵士の生々しい証言があります。
元日本兵の証言
元第十三師団・山砲兵第一九連隊
そして上官の指揮する方向に行ってみると、果たせるかな幕府山砲台の下にある兵舎に向かって行ったのでございますが、
捕虜が逃げ出すと困るというわけで、周囲を約二十丁位の軽機関銃や重機関銃で警備して、蟻の子一匹出られないようにしていたのでございました。
それで、われわれはこれから捕虜を縛れというので、縛るやつは何もないですよ。そこらの支那人の着ていた衣類を引き裂いて紐を作って、それで縛ったのでございます。
ところが、縛って二人つないで座らせたのでございますが、五千人といえば、まさに大した数です。ここには何百人かおるんでございますが、この位ではきかないんです。
とにかく、 午後一時から行って、五千人を縛るのに夕方のお月様が出るまでかかったのだから。だから相当暇くったと思います。なかには捕虜を縛らないで金貨や時計や貴金属の取り方専門にやっていた兵隊もいました。
しかし、俺らはまじめで、縛り方専門にやったんです。なかには要領のいい捕虜がいて、自分でぐるぐる巻いてしばってもらったようにして来た捕虜もあった。
しかし、あんな縛り方をしたって、グェッとやれば切れたからね。いくらでもほどけるわけなんだ。ところが、やっぱり、日本兵は機関銃、小銃、銃剣を持ってるために、逃げることもできなかったと思います。
今度は二列縦隊で、どこだかわからない揚子江方面に向かって行くような気がしました。それで両わき約二メートルか三メートルおきに日本兵が銃弾を込めて、引っ張って行ったのでございますが、
途中何かにつまずいてころんだ捕虜兵があったので、それにつまずいて次から次へと、ころぶんです。ところが起こしてくれる暇などあったもんでないです。みんな銃剣でジャカ、ジャカ突いて殺してしまった。
後ろから行く捕虜兵は殺されっから、今度はぐるっと回り道して行くようになって、約一里位、四キロ位行ったかと思うところに揚子江があったのです。
揚子江があって南側に兵舎か、なんの建物だかわかんないんだ、夜のことだから。そこに二階の窓からも、下からも歩兵が鉄砲を向けておったのでございます。
ここの広場に捕虜兵五千名を座らせた。北側が約数メートルの石垣で、相当夜のことでも高い石垣だったと思われました。それでそっち側へは逃げることができない。それで捕虜を全部庭に座らしていたところが、なかには軍刀の試し切りだなんて、捕虜兵を引っぱってきて首を切るやつ、あるいは銃剣で刺すやつ、それをやっておったのでございます。
自分も実際、戦争にきて、人の首を切ったことがないので、曹長の刀を借っち(借りて)切ったんだが、寝ていた捕虜を切ったんで半分しか切れなかった。いや、実際、首切りなんて容易でない。なかなか切れないもんです。
そのうち、そうこうしているうちに、ワァ!という捕虜の声が上がって、総立ちになってしまったのでございます。ところが、本当は機関銃小隊長の「撃て」の命令でもって、
撃たなければならないやつが、とにかく五千人も一遍に総立ちになって立ち上がってからは俺らー、手放してはおけない。それでもって「撃て」の命令がないうちに、ダーダダッダと一方から機関銃で撃ったのでございます。
私も一発位鉄砲撃ってみっかなと思って撃ったところが、危ないからやめろという具合で、一発でやめてしまったのですが、その機関銃の一斉射撃で、その捕虜兵約五千人がベターと地に伏してしまった。
それで、今度は銃剣を持って突いて歩けと、とにかく中に生きている者がいるかも知れないから銃剣で突いて歩けというわけで、自分は日本の小銃でなくて支那銃を持っていたのです。支那銃には日本の銃剣を着剣できないのです。
仕方なく戦友から日本の銃を借りて、自分の持っていた支那銃を背中にしょって、ジャッカン、ジャッカンと人の上を渡りながら、三十人以上は突いた事と思います。本当に明日の朝には腕が痛くて上がらなかったんだから。
(『南京大虐殺 日本人への告発』P36-P37)
*この証言者は、内容から見て、『南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち』の「黒須忠信」であると推定されます。 |
連行途中、また銃殺前にも「捕虜殺害」が行われています。そして「銃殺」が終わった後でも、「生き残り」を刺殺して回っています。「銃殺」の状況を見ても、とても「解放目的の連行」であったとは思われません。
さすがに東中野氏も、角田大尉の「解放目的」証言を採用することはしませんでした。氏は、「捕虜の放火」が殺害理由である、と主張します。
東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より
第一大隊の宮本少尉と、第二大隊の遠藤少尉とでは、数字に違いが見られるが、ともかく十二月十六日の夕刻に、捕虜の放火にたいする「最後の取るべき手段」、すなわち関係者処刑の「軍命令」が出て、四千人のうちの「約三千」もしくは「三分ノ一」が揚子江岸で銃殺された。残るは約二千名前後となった。(P164)
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しかし、そもそもなぜ、捕虜の「放火」であったと断定できてしまうのか。それを裏付ける資料は存在しませんし、「午食中」(宮本日記)の出来事ですから、「失火」と推定することも十分可能です。
「もとよりこの出火は彼らの計画的なもので」とする両角手記にも、その説明はありません。「現行犯」を捕えたわけでもないでしょうから、この両角手記の記述は、「火事を出した責任」を糊塗するための言い訳か、あるいは根拠のない「想像」であったのかもしれません。
また、東中野氏は「捕虜の放火にたいする「最後の取るべき手段」、すなわち関係者処刑の「軍命令」が出」た、と断定してしまいますが、その根拠も不明です。「捕虜を殺害せよ」との「軍命令」は確かにあったようですが、その動機が「捕虜の放火」である、との説を唱える論者は、東中野氏だけです。この部分も、氏の
根拠のない「想像」でしかありません。
さて東中野氏は、この明らかな「虐殺」をどのように正当化しようとするのか。以下、見ていきましょう。
東中野修道氏『再現 南京戦』 第6章より
捕虜の放火を理由に、捕虜を処刑するとは残酷だとも思えてくる。もともと「皆殺セ」という方針があったから、会津若松六十五連隊は渡りに船とばかり処刑に及んだのでは、という疑いも出てこよう。そこで、もう少しそのときの状況を見ておかなければならない。
上海派遣軍参謀長の飯沼少将は十二月十六日、「16Dハ掃蕩ニ困惑シアリ。3Dヲモ掃蕩ニ使用シ、南京附近ヲ徹底的ニヤル必要アリ」(Ⅰ一二七頁
) という長勇中佐(上海派遣軍司令部)の意見を書き留めている。紫金山北麓はいまだ完全に敗残兵を駆逐できない状態にあった。会津若松六十五連隊は捕虜の監視のみならず、周辺の逃走兵集団からの攻撃にも注意せねばならなかったということだ。
会津若松を十一月二十二日に第四次補充兵として出発し、幕府山の連隊に合流するため道を急いでいた大寺隆(仮名)上等兵は、十二月十七日、幕府山まであと二〇キロの地点に来ても、「敗残兵が居り、小銃隊の尖兵が射撃す。・・・時々小銃弾が頭の上をかすめて行く」(一九六頁)と記している。)
幕府山砲台は占領されても、日本軍を狙う逃走兵集団の襲撃は続いていた。会津若松六十五連隊第二大隊第八中隊の遠藤少尉は、十二月十五日の陣中日記に、「夜半一時銃声ニテ目覚ム、第八中隊ヨリ立哨中ノ歩哨、敵兵ヲ射撃中、誤チテR本部 ノ伝令ヲ射チ負傷セシメタリ」 ( 一二九頁 ) と記している。
逃走中の中国兵は日本軍に反撃する好機を狙っていた。日本軍への反撃を狙って、被拘束兵が幕府山で故意に火を放った。会津若松六十五連隊はいつ襲われてもおかしくない戦闘中にあったのである。
ちなみに、ハーグ陸戦法規は第八条の「処罰」において、「総テ不従順ノ行為アルトキハ、俘虜ニ対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得」と謳っている。従って戦闘下にあるこの処刑は合法であった。
もしこのとき会津若松六十五連隊が「皆殺セ」の方針に立っていたのであれば、この放火にたいする処罰が「皆殺し」の格好の口実となっていたことであろう。捕虜はそれこそ「皆殺し」にされていたはずだが、そうはせず、処罰の対象者のみを処刑していた。
それゆえ会津若松六十五連隊は「皆殺セ」の方針に立っていなかったと見ることができよう。(P165)
(P164-P165)
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どうやら氏は、「日本軍を狙う逃走兵集団」なるものの「襲撃が続いていた」ことを、その正当化の第一の根拠としたいようです。ここで氏は、①飯沼少将日記、②大寺隆日記、③遠藤高明日記、の3つの資料を挙げています。
氏は「周辺の逃走兵集団からの襲撃」という語句で、あたかもここに「敗残兵の襲撃」事例を列挙しているかのような錯覚を誘っていますが、よく読むと、いずれも 「敗残兵が日本軍を攻撃した」という資料ではなく、「日本軍が敗残兵の掃蕩を進めていた」ということを記述しているに過ぎません。
それも、「幕府山」から南京城を挟んで反対側の「紫金山北麓」や、「幕府山まであと二〇キロの地点」などという、遠い場所の「敗残兵」の存在までも、「虐殺」を正当化する根拠にしてしまっています。
そしてさらに、氏は、両角手記の「もとよりこの出火は彼らの計画的なもので、この混乱を利用してほとんど半数が逃亡した」との記述を、強引に「日本軍への反撃を狙って、被拘束兵が故意に火を放った」と翻訳してしまいました。
既述の通りそもそも「計画的な放火」であったかどうかも疑問ですが、例えそうであったとしても、これはどう見ても単なる「逃亡」目的であり、「日本軍への反撃」などという勇ましいものではありません。ここもまた、氏の勝手な「拡大解釈」です。
氏は逃走兵「集団」という表現であたかも中国軍の組織的抵抗が継続していたかのような印象操作を行っていますが、16日時点では、例えごく散発的な「敗残兵の襲撃」はあったとしても、それはとても「組織的抵抗」と呼べるレベルにはありませんでした。
東中野氏は、「之を殺す以外に軍の安全を期するに於て絶対に他途なしといふが如き場合」のみ捕虜殺害が正当化される、といういわゆる「戦数」理論に立っていたはずです。
氏は、「幕府山捕虜の大量殺害を行う以外に「軍の安全を期する」方法が「絶対に他途な」かった」、とでも考えているのでしょうか。この程度のことを理由に、数千の捕虜虐殺を正当化できるはずもないでしょう。
またもう一つ、氏は、「ハーグ陸戦法規」を引き合いに出して、「不従順の行為」があったのだから「処刑」は正当である、という議論を展開していますが、これまた乱暴な議論です。
繰り返し述べる通りそもそも本当に「放火」であったかどうかも怪しいのですが、そうであれば、「処刑」は実行者と共謀者の範囲に止められるべきものでしょう。
まさか「何千」の兵士が「共謀」したはずもありませんから、氏の「処罰の対象者のみを処刑していた」との表現には、何の根拠もありません。
殺された捕虜の大半は、ごく一部の「犯人」の「連帯責任」を負わせられたことになります。「放火犯人」は「処刑」しても差し支えない、という氏の論理に立つとしても、ここまでの規模の「捕虜殺害」を正当化することは、明らかに無理があるといわざるをえないでしょう。
(2007.12.8)
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