東中野修道氏 「再現 南京戦」を読む (6)
幕府山事件(2)
−17日の惨劇  「解放」が目的だったのかー


 12月17日、いよいよ「幕府山事件」のハイライト、「17日の虐殺」が行われることになります。

 本コンテンツ「幕府山事件(2)」ではまず「解放目的」説をめぐる論点整理を行い、次の「幕府山事件(3)」で東中野氏の「事件」に関する記述を検証することにしたいと思います。


 まずは17日の事件につき、従来説「自衛発砲説」(解放目的説)のポイントを要約します。 (詳細は、K−Kさんのサイトの両角手記をご覧ください)

1.軍から捕虜の「処置」命令があったが、山田支隊長はそんなことは「どうしてもできない」と密かに捕虜を釈放する決意をし、船で対岸に渡すために揚子江岸まで連行した。

2.しかし偶発的に捕虜が暴動を起こしたので、彼らに対する銃撃が行わることとなった。 

3.捕虜4000名のうち3000名ぐらいは逃亡した。殺害は1000名程度(両角手記では「僅少」の表現)。


 細部は異なりますが、部隊の多くの幹部も、このストーリーに沿った証言を残しています。




 しかし、小野賢二氏が蒐集した資料群、 またマスコミに大きく取り上げられた栗原利一伍長証言などにより、従来のイメージは一変しました。 この「自衛発砲説」に対しては、今日では小野氏などから以下の批判が行われるようになっています。


1.山田支隊の「解放」意図は認められない。「銃撃」は、初めから計画的なものであったと見られる。

2.「非戦闘員の解放」「火災に紛れた逃亡」という事実の存在が認められない以上、「事件」までに当初の「一万数千人」の捕虜が大きく減少したとは認められない。 17日の虐殺でも、「逃亡」はほとんどなく、ほぼ全員が殺害された。


 幹部の証言は、戦友会組織による「口裏合わせ」の可能性が高い、ということになります。



 2については前コンテンツで説明しましたので、こちらでは「解放目的」説に絞って見ていきましょう。
*なお、当初の捕虜数、殺害総数については異説があり、秦郁彦氏などは「8000人」と推定しています。また板倉由明氏も「捕虜の総数は可能性として一万人程度、「両角手記」に記されているように、実数は降伏当初においても六千〜八千人程度であろう」 (『南京事件 虐殺の責任論』=「日中戦争の諸相」P194)との立場をとります。ただし私見ですが、「公式数字」の一万四千人余からあえて人数を減らした根拠は、必ずしも十分なものではないように思います。




 この論点につき、まずは秦郁彦氏の『南京事件 増補版』の記述を見ます。

秦郁彦氏 『南京事件 増補版』より  

 これを計画的殺害と見るか、両角連隊長の回想記が強調するように釈放の意図を誤認しての反抗から生じた突発的事故なのか、見解は依然として割れている。

 概して大虐殺派は前者を、マボロシ派と中間派は後者に傾いているが、「どちらだったのか、 私にはよくわからない」が「どうやら解放意図が一転しての失敗だったようである」と書く阿部や、「皆殺しにしようとする意図も計画も感じられない」とする板倉のように迷う人がいるのも、やむえないのかもしれない。(P316)


 この「迷う人」である阿部氏、板倉氏が、従来は「自衛発砲説」を唱える論者であったことは、注目してよいでしょう。小野賢二氏の研究により、この二人ですら「解放目的説」に全面的に組することはできなくなっているわけです。

 そして秦氏自身は、上の文では明言を避けているようですが、2001年には「私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います」とはっきり述べています(後記 座談会『問題は「捕虜処断」をどう見るか』)

 秦氏は「マボロシ派と中間派は後者に傾いている」と表現していますが、事実として、「中間派」と目される秦氏は少なくとも2001年には「計画的殺害説」の意見を述べており、またかつての「自衛発砲説」の旗手であった板倉氏・阿部氏も「迷う」立場に変わっています。

 捕虜連行が「解放目的」であったのか、それとも当初から「殺害」目的であったのか。この論争は今日でも完全に決着が着いたとは言えませんが、「解放目的」説の劣勢は否定できないところでしょう。




 さて、「解放目的説」のウィークポイントは何か。秦郁彦氏の発言を見てみましょう。

座談会『問題は「捕虜処断」をどう見るか』より 


 ただ、本当に釈放するつもりだったら昼間やればよかった。ぐあいの悪いことは大体夜やるものですからね。

東中野 まいったなあ(笑)。

 わざわざ問い合わせをしてしまったために、軍司令部から殺せという指示が出たわけですが、そんなことをしなくても逃がしてやりたかったら、不注意で逃げられてしまったということにすればよかった。

 本当の事実経過に関しては、何しろ第十三師団の人達がみんな口をつぐんで言わないから困る。釈放しようとしたのかもしれないけど、結果として多数の捕虜を殺してしまったんですね。 軍司令部は自分たちの命令通りに処理されたと思っていましたからね。長勇にしてもそう信じていた。ですから、そのあたりの枝葉末節をあれこれ議論しても詮ないことだと感じます。
'
 舟で逃がそうとしたということに関しても、舟の準備をした形跡はないし、広い揚子江の向こうから闇夜に鉄砲で中国兵が撃ってきたために捕虜が反乱したという説明も変な話ですよ。殺されそうになっていたから彼らが反乱したと推定するのが無難でしょう。

東中野 しかし、両角連隊長その他のその他のそういう手記が残っているのに、それを信じないのですか。

 真実の部分もあるかもしれませんが、当事者の手記である以上、眉に唾しながら検分する必要はあります。自己弁護の要素も入ってくるでしょう。

 舟にしても、当時、あるのは数人乗り程度の漁船が数隻ですよ。そんなもので、どうやって四千人という捕虜を運べるんですか。日本海軍の船を頼んだ形跡もありません。

 私は、単に揚子江岸に連行して、そこで殺す計画だったと見るべきだと思います。死体も揚子江に流せばすむ。少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない。

(『諸君!』2001年2月号 P141-P142)

 座談会での発言ですのでややアバウトさが見られ、また事実関係も完全に正確とは言い難いのですが、概ね次のような論拠が示されています。

1.舟による対岸への輸送を計画したというが、実際にはそれだけの舟を集めた気配がない。

2.釈放したいのであれば、「舟での対岸への輸送」に拘らず、「不注意で逃げられてしまった」ことにすればいいだけの話ではないか。また「対岸から撃ってきたから捕虜が反乱を起こした」というストーリーは、あまりに不自然。


秦氏は触れていませんが、私見では、他にこのようなことも指摘することが可能であると思われます。

3.山田支隊長、両角連隊長などという「陸軍のエリート」が、「軍命違反」の重罪を覚悟の上で、果たしてあえて「軍命令」に逆らうことができたのか。

4.栗原証言などに見られる通り、日本軍は、殺害現場への連行中にも「捕虜殺害」を行っている。また、一斉銃撃後、わざわざ「生き残り」を刺殺して回っている。「解放目的」であったとすれば、このようなことを行う必要はない。

*余談ですが、例え「自衛発砲説」の立場に立つとしても、「少なくとも、「殺せ」という命令があり、惨憺たる結果が生じたことを考えると、捕虜虐殺の責任は日本軍にあるというしかない」という秦氏の言説は、冷静な判断であると言えるでしょう。





 秦氏の発言通り、「解放目的説」の一番の問題は「舟」でしょう。本当に捕虜を輸送するに足るだけの「舟」が存在したのか。幹部たちの証言は、曖昧です。


山田栴二旅団長

 僕は「その舟はどの位の大きさで、何隻あったんですか」ときくと、山田氏は 「数隻だったろうなァ。一隻は見たよ。数十人は乗れるからかなり大きい舟だったなァ。揚子江には、小さな舟はないんだ」といったが、その言葉は弱々しかった。

(鈴木明氏『南京大虐殺のまぼろし』 P195)

第一大隊長・田山芳雄少佐

 舟は四隻― いや七隻か八隻は集めましたが、とても足りる数ではないと、私は気分が重かった。

(略)

 銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ。たちまち捕虜の集団が騒然となり、手がつけられなくなった。 味方が何人か殺され、ついに発砲が始まってしまったんですね。なんとか制止しようと、発砲の中止を叫んだんですが、残念ながら私の声は届かなかったんです

(阿部輝朗氏『南京の氷雨』 P103)

連隊砲中隊・平林貞治中尉

 とにかく、舟がなかなか来ない。考えてみれば、わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません。

  捕虜の方でも不安な感じがしたのでしょう。 突然、どこからか、ワッとトキの声が上った。日本軍の方から、威嚇射撃をした者がいる。それを合図のようにして、あとはもう大混乱です。 一挙に、われわれに向ってワッと押しよせて来た感じでした。

 殺された者、逃げた者、水にとび込んだ者、舟でこぎ出す者もあったでしょう。なにしろ、真暗闇です。機銃は気狂いのようにウナリ続けました。

(鈴木明氏『南京大虐殺のまぼろし』 P199)

第一機関銃中隊・箭内享三郎准尉

 上流や下流を捜し歩いて六隻か七隻の舟を集めたものの、ほかには見当たらず、舟はこれだけだったという。

(阿部輝朗氏『南京の氷雨』P99)


 このように「証言」を並べてみても、どう見ても何千人もの捕虜を運ぶのに足りる数とは思われません。 念のためですが、幹部の証言は「自衛発砲説」に沿ったものであり、果たして本当にこれだけの「舟」を集めたのかどうかも疑問です。


 「両角手記」は、このように説明していますが・・・。

『両角業作手記』より

 ・・・夕刻、幕府山の露営地にもどった。

 もどったら、田山大隊長より「何らの混乱もなく予定の如く俘虜の集結を終わった」の報告を受けた。火事で半数以上が減っていたので大助かり。

 日は沈んで暗くなった。俘虜は今ごろ長江の北岸に送られ、解放の喜びにひたり得ているだろう、と宿舎の机に向かって考えておった。


 ところが、十二時ごろになって、にわかに同方面に銃声が起こった。さては・・・と思った。銃声はなかなか鳴りやまない。

 そのいきさつは次の通りである。

 軽舟艇に二、三百人の俘虜を乗せて、長江の中流まで行ったところ、前岸に警備しておった支那兵が、日本軍の渡河攻撃とばかりに発砲したので、舟の舵を預かる支那の土民、キモをつぶして江上を右往左往、次第に押し流されるという状況。

 ところが、北岸に集結していた俘虜は、この銃声を、日本軍が自分たちを江上に引き出して銃殺する銃声であると即断し、静寂は破れて、たちまち混乱の巷となったのだ。


 二千人ほどのものが一時に猛り立ち、死にもの狂いで逃げまどうので如何ともしがたく、我が軍もやむなく銃火をもってこれが制止につとめても暗夜のこととて、大部分は陸地方面に逃亡、一部は揚子江に飛び込み、我が銃火により倒れたる者は、翌朝私も見たのだが、僅少の数に止まっていた。すべて、これで終わりである。

(『南京戦史資料集供P339-P340)


 先に見た通り、「二、三百人の俘虜」を「軽舟艇」に乗せた、とまで明確な記述を行っているのはこの「両角手記」のみであり、他の幹部の証言と比較しても、明らかに過大です。

 両角大佐が実際には現場にいなかったこと、また「自己弁護」の色彩が強い「手記」の性格からも、そもそもこれが事実かどうか、「眉に唾しながら検分する必要」があるでしょう。

 実際には、例え舟が存在していたとしても、田山少佐の「とても足りる数ではない」、 あるいは平林中尉の「わずかな舟でこれだけの人数を運ぶというのは、はじめから不可能だったかもしれません」との証言が、正直なところであったと思われます。
*仮に一回で「二、三百人」の輸送能力を確保できたとしても、捕虜の総数は「四千人」(小野氏説に従えば一万人以上)いたはずです。この程度の輸送能力で果たして十分であったのか、微妙なところです。


 また、このあたりの両角手記の記述は、明らかに不自然です。

 「夕刻」に「俘虜の集結を終わった」のであれば、すぐに「輸送」が開始されたはずです。両角聯隊長も、「日が沈んで暗くなった」時間に、もう「俘虜は今ごろ長江の対岸に送られ、喜びにひたり得ているだろう」などという呑気なことを考えています。

 しかし、それから6時間も経った「十二時ごろ」になって、ようやく(素直に読めば、おそらく第一陣の)「二、三百人の俘虜」が「長江の中流」まで行っています。一体その間、「捕虜解放」の任務を帯びていたはずの部隊は一体何をやっていたのでしょうか。

 実際問題として、上に紹介した部隊幹部証言では、いずれも、捕虜が現場に到着した直後、あるいは現場への輸送途中に「暴動」が起きたということになっており、「両角手記」とは明らかに適合しません。

*実際には、「銃撃」が始まった時間は、小野氏の研究によれば「十二時ごろ」ではなく「薄暗くなるころ」でした。

**あえて両角手記ストーリーの「行間を読む」ならば、この6時間の間にせっせと「俘虜の輸送」を行っていた、という「解釈」もできないことはないかもしれません。 捕虜の数は「四千人」だったはずなのに「暴動」を起こしたのが「二千人ほど」と記述されていることも、この「解釈」を裏づけます。

しかしこれもまた、一定数の輸送が行われたなどと証言している幹部は存在せず、他の部隊幹部たちの証言と、明らかに食い違います。 殺害開始のタイミングにしても、両角連隊長に「俘虜の集結を終わった」と報告していたという田山大隊長自身、先に紹介した通り、 「銃声は最初の舟が出た途端に起こったんですよ」と証言しています。
(なお、他の証言群、また小野氏の研究と照らし合わせると、「舟が出た」のが事実かどうかは、疑問です)

***なお「舟」については、後記の栗原利一氏が、「ここの中央の島に1時にやるためと言って船を川の中程において集めて、船は遠ざけて4方から一斉に攻撃して処理したのである」との記述を残しています。




 またそもそも、「両角手記」の記述を信じるのであれば、結果として多数の捕虜が、わざわざ舟で対岸に輸送するまでもなく、「逃亡」に成功したことになっています

 結果論にはなりますが、秦氏の言う通り、無理な「対岸輸送」を行うまでもなく、初めから適当なところで「解放」して、「不注意で逃げられてしまったということにすればよかった」だけの話でしょう。





 もう一つ、「栗原利一伍長証言」をとりあげてみましょう。

 「栗原証言」は、当初「毎日新聞」に発表され、従来の「自衛発砲説」を覆すものとして注目されました。新聞発表後、本多勝一氏、「南京戦史」グループ、阿羅健一氏などが「再インタビュー」を試みています。



 インタビューアにより内容には微妙な違いが見られますが、ここではあえて、「否定派」陣営寄りの立場をとる「南京戦史」グループのインタビューを見ることにしましょう。
 
*毎日新聞記事、本多インタビューについては、K−Kさん「南京事件資料集」中の「栗原利一証言」で読むことができます。

**なお、栗原氏のご子息「核心」さんなどは、「父の証言に関しては、毎日新聞の記者の方へのインタビューと本多勝一氏へのインタビューだけが任意でなされたものです。・・・ですから、それ以降の父の証言と称する内容に関しては、全く任意性はなく、信憑性に欠けるものです」 (上記リンク先より 「証言に関する諸事情 ご子息である核心さんの証言」)との発言を行っています。

***私見ですが、このうち阿羅インタビュー(『丸』1990年3月号掲載)は、内容にかなりの無理があり、インタビューアがあえて「自衛発砲説」に適合させようとして栗原氏の発言を「脚色」した可能性があるように思われます。 例えば阿羅インタビューでは栗原氏が現場に到達する前に「虐殺」が開始されたことになっていますが、これは氏のスケッチと一致しません。


栗原利一伍長証言(『南京戦史資料集』より)

 多分十七日と思うが、捕虜を舟で揚子江対岸に渡すということで、午前中かかって形だけだが手を縛り、午後大隊全員で護送した。四列縦隊で出発したが、途中で列を外れて小川の水を飲もうとして射殺された者もいた。

 
丘陵を揚子江側に回りこんでからは道も狭く、四列では歩けなかった。列の両側に五十メートルくらいの間隔で兵が付いた。左側は荒れ地で揚子江の向こうに島(注・草鞋洲、八卦洲ともいう)があり、右側は崖が続き、山頂には日本軍の姿もあったが、中腹に不審な人影を認めた。

 二時間くらいかかり、数キロ歩いた辺りで左手の川と道との間にやや低い平地があり、捕虜がすでに集められていた。周囲には警戒の機関銃が据えられてあり、川には舟も二、三隻見えた。(スケッチ3)

*「ゆう」注 「スケッチ3」は、捕虜を揚子江に向って半円形に包囲している図です。中央には捕虜の人数を示す「13500」の文字が見えます。

 うす暗くなったころ、突然集団の一角で「××少尉がやられた!」という声があがり、すぐ機関銃の射撃が始まった。銃弾から逃れようとする捕虜たちは中央に人柱となっては崩れ、なっては崩れ落ちた。

 その後、火をつけて熱さで動き出す生存者を銃剣でとどめをさし朝三時ころまでの作業にクタクタに疲れて隊に帰った。死体は翌日他の隊の兵も加わり、楊柳の枝で引きずって全部川に流した。

(『南京戦史資料集』P765-P766)

 捕虜を半円形に取り囲んでの一斉射撃。さらにその後で、生き残りを刺殺して回っています。どう見ても、「釈放」を意図した光景ではありません。

(この章続く)
 


(2008.1.6)


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