「データベース」は嘘をつく −ヴォートリン日記に見る強姦事件− |
ミニー・ヴォートリンは、南京事件当時、金陵女子学院のアメリカ人女性教師でした。 日本軍が迫る中、彼女はあえて南京に残留し、避難所となった金陵女子学院で難民を守るための活動を行ないます。 ヴォートリンの必死の活躍もあり、この学園は、日本軍兵士の暴行を恐れる女性難民にとって、最も安全な避難所として知られていました。 彼女の活動の記録は、『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』に見ることができます。 毎日のようにキャンパスに侵入しようとする日本軍兵士を追い出して難民を守り、その一方で夫を連行された夫人たちの訴えに応えようとする。彼女のヒューマニティは、読む者に感動を与えずにはいられません。 ところが、冨澤繁信氏『「南京事件」発展史』にかかると、このヴォートリンの日記ですら、「南京で強姦が少なかった」と主張する材料にされてしまいます。 以下、氏の文を検討するとともに、ヴォートリンが実際に日記に何を書いていたのかを確認したいと思います。 氏の手法は、数々の資料から事件のデータベースを作成し、その件数をカウントすることによって「南京事件」を「否定」の方向に見直そうとするものです。 この本では、氏はヴォートリン日記のデータベースをもとに、「学園内の強姦事件はわずかに三件」である、と記しています。
「強姦は案外少なかったのではないか」という無茶な結論を導き出すために、冨澤氏は、こんな短い文章の中で、3つのトリックを使っています。 1.まず冨澤氏は、ヴォートリンが記している多数の「強姦事件」事例のうち、「学園内」のものしかカウントしていません。 最初にも書いた通り、ヴォートリンが守っていた「金陵女子学院」は、女性にとって、南京で最も安全な場所でした。 この避難所は早い時期に収容人員いっぱいになってしまっていましたが、日本軍兵士に暴行される恐怖から逃れるために学院に避難したい、とヴォートリンに訴える女性たちの話は、日記の各所に登場します。 このような場所であれば、「学園内」の強姦事例が少ないのは、当たり前の話です。むしろ、このような場所ですら「強姦事件」が発生していることに、驚くべきところでしょう。 ついでですが、氏は、12月21日に生じた「学園から女性12名が連れ去られた」事件、同じく「女性2名が連れ去られた」事件を全く無視しています。 「学園内」で実行された事例でなければカウント外、というわけでしょうか。 2.冨澤氏は、「南京の女性は大半この学園に集まっていた」という記述を行っています。これは「南京」に少しでも関心のある方でしたら一目瞭然の「ウソ」でしょう。 「学園」の避難民の数は、ヴォートリンの推定によれば、12月15日段階で「3000人以上」でした。 収容人員に限界があり、ヴォートリン自身も正確な数は掴めなかったようですが、日記に出てくる最も大きな数字でも「6000人〜10000人」です。 冨澤氏の考えでは、「安全地帯」の人口は、20万人から25万人だったはずです。そのうち女性は全部で1万人程度で、残りはすべて男性であった、とでも主張したいのでしょうか。 「学園内の強姦事件はわずかに三件」「南京の女性は大半この学園に集まっていた」という書き方は、「南京の強姦事件は学園内に起こったものがほぼ全て」というミスリーディングを誘います。 しかし実際には、ヴォートリンは、「学園外」で実行された多数の「強姦事件」を聞いていました。 3.最後に、「ベイツもいっているとおり、強姦は案外少なかった」の部分です。実際にベイツがこんな発言を行ったのかどうか。『アメリカ編』P368にあたりましょう。
前後の文脈を見れば明らかな通り、実はこれは、ドイツ軍のベルギー占領時の話でした。 冨澤氏はこれを、あたかもベイツが「南京での強姦は案外少なかった」と語ったかのように歪曲しているわけです。 以下、ヴォートリン日記の「強姦事件」に関する記述を見ていくことにしましょう。
まず、冨澤氏のいう、「学園内の強姦事件」の記録です。氏の文に沿って、P68(氏の「P69」は誤り)、P71、P159にある事例を紹介します。
12月21日の事例では、なんと犯人は、金陵女子学院を警備するはずの「警備兵」です。 これ以降ヴォートリンは、「警備兵」にキャンパス内への立ち入りを禁止するなどの措置を採らざるを得なくなりました。 さて、冨澤氏は全く無視していますが、日記には、上記以外に、「女性が連れ去られた」例を見ることができます。
「策略」であったかどうかまではわかりませんが、外国人たちが「敗残兵狩り」への対応に忙殺されている隙を突いて、女性十二名を連行した事例でした。 同日には、別の連行事件も起こっています。
さらにそれ以外に、「未遂事件」も数多く見られました。下記4件のうち3件はヴォートリン自身が直接現場に出向いて阻止したものであり、彼女がいなければこれもまた「事件」の列に加わっていたかもしれません。
最も安全な金陵女子大学ですら、このような事件が頻発していました。さて、安全区全体ではどのような状況だったのか。以下、見ていきましょう。
ヴォートリン日記には、日本軍占領直後の12月15日から19日にかけて、多くの「事件」が発生し、女性避難民が難を逃れようとして大挙として金陵女子大学に押しかけてくる様子を見ることができます。
ヴォートリンの耳に入った多くの情報の中には、あるいは「伝聞」の過程で歪められたものも混じっていたかもしれません。 しかしここまで 多くの情報が集まってきているところを見ると、少なくとも、日本兵が各所を襲い、多くの女性が犠牲になっていたことは、疑いようがないでしょう。 ヴォートリン自身、16日にはトラックで連行されて助けを求める少女たちを目撃しています。 12月15日時点で「三千人以上」だった避難民の数は、12月21日には、「六〇〇〇人ないし七〇〇〇人( いや九〇〇〇人ないし一万人?)」(ヴォートリン日記 12月21日)にまで膨らんでしまいました。 キャンパスの収容能力に限界を感じたヴォートリンは、若い女性を優先して収容するため、高齢の婦人には退去を求めざるをえなくなります。
そして南京では、数こそ減少したものの、以降も「強姦事件」が頻発します。以下、「事例」の「データベース」を作成してみましょう。
12月21日以降の、「ヴォートリン日記」に見る「強姦事件」事例です。ただし、1で取り上げた、金陵女子学院内での事件は除いています。 本人または近親者からヴォートリンへの直接の訴え、他の外国人や使用人などからの聴取等、情報源はさまざまです。 冨澤氏には報告者の直接体験ではない「伝聞情報」を根拠もなく「信頼できない」と切り捨てる傾向が見られますが、以下の事例は情報内容が具体的なものが多く、またいずれも特段無理な点は見られませんので、 比較的信頼性の高いものであると考えられます。
以上、ヴォートリン日記にある「強姦事件」に関する記述を見てきました。ここで、冨澤氏の文を、もう一度見直してみましょう。
読者の皆様は、果たして「ヴォートリン日記」の以上のデータから「強姦は案外少なかった」と判断することができたかどうか。答えはもう、言うまでもないでしょう。 (2007.3.8)
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