データベースは嘘をつく
「データベース」は嘘をつく
 
−ヴォートリン日記に見る強姦事件−


 ミニー・ヴォートリンは、南京事件当時、金陵女子学院のアメリカ人女性教師でした。

 日本軍が迫る中、彼女はあえて南京に残留し、避難所となった金陵女子学院で難民を守るための活動を行ないます。 ヴォートリンの必死の活躍もあり、この学園は、日本軍兵士の暴行を恐れる女性難民にとって、最も安全な避難所として知られていました。 


 彼女の活動の記録は、『南京事件の日々 ミニー・ヴォートリンの日記』に見ることができます。 毎日のようにキャンパスに侵入しようとする日本軍兵士を追い出して難民を守り、その一方で夫を連行された夫人たちの訴えに応えようとする。彼女のヒューマニティは、読む者に感動を与えずにはいられません。

 ところが、冨澤繁信氏『「南京事件」発展史』にかかると、このヴォートリンの日記ですら、「南京で強姦が少なかった」と主張する材料にされてしまいます。 以下、氏の文を検討するとともに、ヴォートリンが実際に日記に何を書いていたのかを確認したいと思います。


 氏の手法は、数々の資料から事件のデータベースを作成し、その件数をカウントすることによって「南京事件」を「否定」の方向に見直そうとするものです。 この本では、氏はヴォートリン日記のデータベースをもとに、「学園内の強姦事件はわずかに三件」である、と記しています。

冨澤繁信氏『「南京事件」発展史』より


 ついでに指摘しておきたいが、金陵女子学院は女性ばかりの収容所なので、そこで多くの暴行事件があったと思われやすい。

  事実はさに非ず、学長代行のヴォートリンがその日記に記した学園内の強姦事件はわずかに三件(『ヴォートリンの日記』六九、七一、一五九頁)なのである。

 しかも南京の女性は大半この学園に集まっていたのである。

  これから見るとベイツもいっているとおり(『アメリカ編』三六八頁)、強姦は案外少なかったのではないか。

(P54)


 「強姦は案外少なかったのではないか」という無茶な結論を導き出すために、冨澤氏は、こんな短い文章の中で、3つのトリックを使っています。


1.まず冨澤氏は、ヴォートリンが記している多数の「強姦事件」事例のうち、「学園内」のものしかカウントしていません

 
最初にも書いた通り、ヴォートリンが守っていた「金陵女子学院」は、女性にとって、南京で最も安全な場所でした。 この避難所は早い時期に収容人員いっぱいになってしまっていましたが、日本軍兵士に暴行される恐怖から逃れるために学院に避難したい、とヴォートリンに訴える女性たちの話は、日記の各所に登場します。

 
このような場所であれば、「学園内」の強姦事例が少ないのは、当たり前の話です。むしろ、このような場所ですら「強姦事件」が発生していることに、驚くべきところでしょう。

 
ついでですが、氏は、12月21日に生じた「学園から女性12名が連れ去られた」事件、同じく「女性2名が連れ去られた」事件を全く無視しています。 「学園内」で実行された事例でなければカウント外、というわけでしょうか。


2.冨澤氏は、「南京の女性は大半この学園に集まっていた」という記述を行っています。これは「南京」に少しでも関心のある方でしたら一目瞭然の「ウソ」でしょう。

 
「学園」の避難民の数は、ヴォートリンの推定によれば、12月15日段階で「3000人以上」でした。 収容人員に限界があり、ヴォートリン自身も正確な数は掴めなかったようですが、日記に出てくる最も大きな数字でも「6000人〜10000人」です。

 冨澤氏の考えでは、「安全地帯」の人口は、20万人から25万人だったはずです。そのうち女性は全部で1万人程度で、残りはすべて男性であった、とでも主張したいのでしょうか。

 「学園内の強姦事件はわずかに三件」「南京の女性は大半この学園に集まっていた」という書き方は、「南京の強姦事件は学園内に起こったものがほぼ全て」というミスリーディングを誘います。 しかし実際には、ヴォートリンは、「学園外」で実行された多数の「強姦事件」を聞いていました。


3.最後に、「ベイツもいっているとおり、強姦は案外少なかった」の部分です。
実際にベイツがこんな発言を行ったのかどうか。『アメリカ編』P368にあたりましょう。

ベイツからティンパレーへ

一九三八年三月二十一日南京

8 序文かあとがきに、ベルギーとの比較をしますか? 当方に、若干の覚え書がありますが、それは引用のためのものではなく、事実を述べたものです。 とくに、最後の二つのパラグラフはそうです。ドイツ人の友人の言うのには、強姦は例外的にしか起こらないし、発覚すれば死刑だそうです。 ただし、他の行為については、彼らの脳裏から抹殺されています。

9 ベルギー救済委員会とその大変な活動については(おそらく)引用する価値が十分にあるし、ドイツは第三国の大きな組織に、国民の食料供給の大半に対する責任を負わせることまでしています。 ドイツ人が何を許しているか、さらに保護さえしているか、またある面で援助を与えているかを日本人に見せつけるために、上海、東京で書くことは、価値がある。

(『南京事件資料集 1アメリカ関係資料編』 P368)


 前後の文脈を見れば明らかな通り、実はこれは、ドイツ軍のベルギー占領時の話でした。 冨澤氏はこれを、あたかもベイツが「南京での強姦は案外少なかった」と語ったかのように歪曲しているわけです。


 以下、ヴォートリン日記の「強姦事件」に関する記述を見ていくことにしましょう。



 金陵女子学院内での事件

 まず、冨澤氏のいう、「学園内の強姦事件」の記録です。氏の文に沿って、P68(氏の「P69」は誤り)、P71、P159にある事例を紹介します。

一二月一九日 日曜日

 そのあとキャンパスの裏手まできたとき、教職員宿舎へ行くようにと、取り乱したような声で言われた。その二階に日本兵が上がって行った、という。

 教職員宿舎二階の五三八号室に行ってみると、その入り口に一人の兵士が立ち、そして、室内ではもう一人の兵士が不運な少女をすでに強姦している最中だった。


 日本大使館に書いてもらった一筆を見せたことと、わたしが駆けつけたことで、二人は慌てて逃げ出した。卑劣な所業に及んでいるその二人を打ちのめす力がわたしにあればよいのだがと、激怒のあまりそう思った。 日本の女性がこのようなぞっとする話を知ったなら、どんなに恥ずかしい思いをすることだろう。

(P68)

一二月二一日 火曜日

 朝食のあと、例の二五人の警備兵が昨夜危害を及ぼした(女性二人が強姦された)件について事情を聴取した。 しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。そうしないと兵士の恨みを買うことになり、そのほうが当面している災難にもまして始末が悪いかもしれない。

(P71)

二月八日 火曜日

 一〇時に使用人の一人がやってきて、南山に兵士がいる、と言った。大急ぎでゴム靴を履き、上着を着て駆け出した。 イーヴァのバンガローの裏手に兵士が若い女性といっしょにいるところを見つけた。彼の正体を知ろうとしたが失敗した。 そこで、退去するよう命じると、彼は腹立たしそうにわたしを睨みつけたが、そのまま立ち去った。

 のちにその女性が話してくれたところによれば、彼女は四人の女性といっしょに南の境界に近い池で衣服を洗濯していたそうだ。 四人は逃げ出したのだが、彼女は捕まってしまった。兵士が彼女に銃剣を突き付け、服を引き裂こうとしたので、彼女はしぶしぶ服のボタンをはずした。 というわけで、わたしが姿をあらわしたとき、彼女はボタンをはずしている最中だったのだ。

 はじめはカッとして、彼の銃剣を引ったくり ―その好機はあった― 、そのとき集まっていた使用人たちに、兵士を捕まえるのを手伝ってくれと頼みたいほどだった。 しかし、それは分別あることではないと思い、やむなく彼が塀をよじ登って退散するのにまかせた。
(P159)


 12月21日の事例では、なんと犯人は、金陵女子学院を警備するはずの「警備兵」です。 これ以降ヴォートリンは、「警備兵」にキャンパス内への立ち入りを禁止するなどの措置を採らざるを得なくなりました。

 さて、冨澤氏は全く無視していますが、日記には、上記以外に、「女性が連れ去られた」例を見ることができます。

一二月一七日


 夕食をとり終わったあとで中央棟の少年がやってきて、キャンパスに兵士が大勢いて、寄宿舎の方へ向かっていることを知らせてくれた。

 二人の兵士が中央棟のドアを引っ張り、ドアを開けるようしきりに要求しているところに出くわした。 鍵を持っていない、と言うと、一人が「ここに中国兵がいる。敵兵だ」と言うので、わたしは、「中国兵はいない」と言った。いっしょにいた李さんも閉じ答えをした。

 その兵士はわたしの頬を平手で打ち、李さんの頬をしたたかに殴ってから、ドアを開けるよう強く要求した。わたしは脇のドアを指さし、二人を中に入れた。 たぶん中国兵を捜していたのだろう、彼らは一階も二階も入念に調べていた。

 外に出ると、別の兵士二人が、学院の使用人三人を縛り上げて連れてきた。「中国兵だ」と言ったので、わたしは、「兵士ではない。苦力と庭師です」と言った。事実、そうだったからだ。

 日本兵は三人を正門のところへ連行したので、わたしもついて行った。正門まできてみると、大勢の中国人が道端に脆いていた。そのなかには、フランシス陳さん、夏さん、それに学院の使用人何人かがいた。 そこには隊長の軍曹とその部下数名がいた。

 まもなく程先生とメリー・トゥワイネンが兵士に連れられてやってきた。 学院の責任者はだれか、と言ったので、わたしが名乗り出ると、彼らはわたしに、中国人の身分について一人ずつ説明するよう求めた。

 運の悪いことに、臨時の補助要員として最近新たに雇い入れた使用人が何人かいて、そのなかの一人が兵士のように見えた。 彼は道路の片側に荒っぽく引き立てられ、念入りに取り調べられた。

 使用人の身分についてわたしが説明していたとき、わたしを助けようとして陳さんが声を張り上げた。 気の毒なことに、そのために陳さんはしたたかにビンタをくらわされたうえ、道路の反対側に手荒く連れて行かれ、脆かされた。

 こうした事態の進行のなかで助けを求めて懸命に祈っていると、フィッチ、スマイス、ミルズの乗った車が到着した。 その晩はミルズがキャンパスに泊まってくれることになっていた。日本兵は彼ら三人を中に入れて一列に並ばせ、帽子を脱がせたうえで、ピストルを所持していないかどうか取り調べた。

 フィッチが軍曹と少しばかりフランス語をしゃべれたことが幸いした。 軍曹と彼の部下たちは何度も相談したのち、すべての外国人、程先生、メリーの退去を一度は強く求めたが、わたしが、ここはわたしの家だから、出て行くわけにはいかないと言ったところ、やっと考えを変えてくれた。

 そのあと彼らは外国人男性を車で立ち去らせた。あとに残ったわたしたちがその場で立ったり脆いたりしていると、 泣きわめく声が聞こえ、通用門から出て行く中国人たちの姿が見えた。大勢の男性を雑役夫として連行していくのだろうと思った。

 あとになってわたしたちは、それが彼らの策略であったことに気づいた。 責任ある立場の人聞を正門のところに拘束したうえで、審問を装って兵士三、四人が中国兵狩りをしている間に、ほかの兵士が建物に侵入して女性を物色していたのだ。 日本兵が一二人の女性を選んで、通用門から連れ出したことをあとで知った。

(P62-64)


 「策略」であったかどうかまではわかりませんが、外国人たちが「敗残兵狩り」への対応に忙殺されている隙を突いて、女性十二名を連行した事例でした。 同日には、別の連行事件も起こっています。

一二月二一日 火曜日

 みなが押し黙ってそこにいると、ビッグ王がやってきて、東の中庭から女性二人が連れ去られたことを知らせた。 わたしたちは彼に、自分の持ち場に戻るよう促した。 陳が解放されるよう、そしてまた、連れ去られた人たち−これまでは祈ったことがなくても、その夜はきっと祈ったにちがいない人たち−のために懸命に祈った。

(P64)


 さらにそれ以外に、「未遂事件」も数多く見られました。下記4件のうち3件はヴォートリン自身が直接現場に出向いて阻止したものであり、彼女がいなければこれもまた「事件」の列に加わっていたかもしれません。

一二月二〇日 月曜日

 三時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵がきてくれることを大まじめに願っていた。

 中央棟にひしめく避難民の視察をわたしたちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性五人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。 大急ぎで行ってみると、彼らはわたしたちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、脆いて助けを求めた。

 わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。 将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることはできない。
(P70)

一二月二七日 月曜日

 けさ校門内に入ってきた女性の話では、個人の住宅での掠奪は依然として続いており、銅貨のような小銭さえも盗まれているそうだ。 メリーによれば、日本兵がトラックで学院に乗り込み、少女三人を要求したが、彼女がその筋の手紙を見せると、出て行ったという。

(P82)

一月一日 土曜日


 午後、わたしが交替して執務室に詰めていると、四時までに二つの事件があった。 三時ごろ使用人の一人が慌ただしく入ってきて、キャンパスに避難している少女一人を兵士が連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。

 急いで出て行き、図書館のすぐ北の竹林に少女といっしょに兵士がいるところを見つけた。兵士はわたしの声を聞きつけると、慌てて逃げ出した。
このあと、ときを同じくしてキャンパスにやってきた兵士二人を追い返した。

 キャンパスの少女たちのなかには、まったく分別のない子がいる。わたしたちが精いっぱい努力しているというのに、建物の中に入っていないで正門の方へぶらぶら出て行くのだ。

(P91-92)

一月二一日 金曜日

 昼食後まもなく、午後おこなわれる女性の集会のことを知らせるために北西の寄宿舎へ出かけようとしたとき、 避難民数人がわたしの方へ走ってきて、キャンパスの裏手に兵士がいる、と言った。

 わたしは裏門の方へ向かい、かろうじて間に合った。というのは、四人の兵士はわたしを見るなり、農民の朱の家の近くの難民小屋から連れ出した三人の少女を解放したのだ。
兵士たちは丘の向こうへ姿を消した。

 このあとまもなく憲兵の一団がキャンパスにきたので、事件の顛末を彼らに報告することができた。 さらにしばらくしてから、将校二人がやってきて、彼らが南京城外に駐屯していることを告げた。

(P127-128)


 最も安全な金陵女子大学ですら、このような事件が頻発していました。さて、安全区全体ではどのような状況だったのか。以下、見ていきましょう。



 頻発する事件、押し寄せる避難民

 ヴォートリン日記には、日本軍占領直後の12月15日から19日にかけて、多くの「事件」が発生し、女性避難民が難を逃れようとして大挙として金陵女子大学に押しかけてくる様子を見ることができます。

一二月一五日 水曜日

 昼食の時間を除いて朝八時三〇分から夕方六時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。 城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。けさソーン氏がやってきて、漢西門地区の状況について話してくれた。

 それからというもの、女性や子どもには制限なくキャンパスに入ることを許している。 ただし、若い人たちを収容する余地を残しておくため、比較的に年齢の高い女性にたいしては、できれば自宅にいるようつねづねお願いしている。多くの人は、芝生に腰をおろすだけの場所があればよいから、と懇願した。 今夜はきっと三〇〇〇人以上の人がいると思う。

(P55-56)

一二月一六日 木曜日

 おそらく、ありとあらゆる罪業がきょうこの南京でおこなわれたであろう。昨夜、語学学校から少女三〇人が連れ出された。 そして、きょうは、昨夜自宅から連れ去られた少女たちの悲痛きわまりない話を何件も聞いた。そのなかの一人はわずか一二歳の少女だった。

 食料、寝具、それに金銭も奪われた。李さんは五五ドルを奪われた。城内の家はことごとく一度や二度ならず押し入られ、金品を奪われているのではないかと思う。

 今夜トラックが一台通過した。それには八人ないし一〇人の少女が乗っていて、通過するさい彼女たちは「助けて」「助けて」と叫んでいた。

(P59)

一二月一七日

 疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。 彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ。(下は一二歳の少女から上は六〇歳の女性までもが強姦された。夫たちは寝室から追い出され、銃剣で刺されそうになった妊婦もいる。日本の良識ある人びとに、ここ何日も続いた恐怖の事実を知ってもらえたらよいのだが。)

 それぞれの個人の悲しい話−とりわけ、顔を黒く塗り、髪を切り落とした少女たちの話−を書き留める時間のある人がいてくれたらよいのだが。 門衛が言うには、明け方の六時三〇分からずっと、こうした女性たちがやってきているそうだ。

(P61)

一二月一八日土曜日

 いまは毎日が同じ調子で過ぎて行くような気がする。これまで聞いたこともないような悲惨な話ばかりだ。恐怖をあらわにした顔つきの女性、少女、子どもたちが早朝から続々とやってくる。

(P65)

一二月一九日 日曜日

 けさも怯えた目付きをした女性や少女が校門から続々と入ってきた。昨夜も恐怖の一夜だったのだ。たくさんの人が脆いて、キャンパスに入れてほしいと懇願した。 入れはしたものの、今夜はどこで寝てもらうことになるのだろう。

(P67)

 歩いて学院へ戻ってくると、娘をもつ母親や父親、それに兄弟たちが、彼女たちを金陵女子学院に匿ってもらいたいと何度も懇願した。中華学校の生徒を娘にもつ母親は、きのう自宅が何度となく掠奪をこうむり、これ以上は娘を護りきれない、と訴えた。

(P68)


  ヴォートリンの耳に入った多くの情報の中には、あるいは「伝聞」の過程で歪められたものも混じっていたかもしれません。

 しかしここまで 多くの情報が集まってきているところを見ると、少なくとも、日本兵が各所を襲い、多くの女性が犠牲になっていたことは、疑いようがないでしょう。

 ヴォートリン自身、16日にはトラックで連行されて助けを求める少女たちを目撃しています。

 12月15日時点で「三千人以上」だった避難民の数は、12月21日には、「六〇〇〇人ないし七〇〇〇人( いや九〇〇〇人ないし一万人?)」(ヴォートリン日記 12月21日)にまで膨らんでしまいました。

  キャンパスの収容能力に限界を感じたヴォートリンは、若い女性を優先して収容するため、高齢の婦人には退去を求めざるをえなくなります。

一二月二〇日 月曜日

 八時から九時までわたしは正門に立ち、比較的に年齢の高い女性にたいし、彼女たちの娘を保護するために金陵女子学院が使えるように、 自宅へ引き返してほしいと説得に努めた。

 みな、建て前としては承諾してくれるものの、帰宅するのをいやがっている 。彼女たちが言うには、白昼に日本兵が再三再四やってきては、ありとあらゆる物を掠奪して行くのだそうだ。

(P69)


 そして南京では、数こそ減少したものの、以降も「強姦事件」が頻発します。以下、「事例」の「データベース」を作成してみましょう。



 個別事件のデータベース

 12月21日以降の、「ヴォートリン日記」に見る「強姦事件」事例です。ただし、1で取り上げた、金陵女子学院内での事件は除いています。

 本人または近親者からヴォートリンへの直接の訴え、他の外国人や使用人などからの聴取等、情報源はさまざまです。

 冨澤氏には報告者の直接体験ではない「伝聞情報」を根拠もなく「信頼できない」と切り捨てる傾向が見られますが、以下の事例は情報内容が具体的なものが多く、またいずれも特段無理な点は見られませんので、 比較的信頼性の高いものであると考えられます。

一二月二一日 火曜日

 王さん、老邵といっしょに−一人だけで外出するのは躊躇しているので− 歩いてキャンパスに戻る途中、悲嘆に暮れた男性が近づいてきて、助けてもらえないか、と言った。

 二七歳の妻が女子学院から帰宅したばかりのところに、三人の日本兵に押し入られた。彼は家から追い出され、妻は日本兵に捕らえられてしまった、という。


(P72-73)

一二月二五日 土曜日

 出かけるさいに興味深い経験をした。校門を出ようとしたちょうどそのとき、一人の女性がやってきて、娘を救出してほしい、ついさっき家から連れ去られた、と懇願した。

 彼女が指し示したとおり上海路を大急ぎで南へ向かったところ、兵士たちは進路を北に変えた、と言われた。 北へ向かって行こうとしたちょうどそのとき、車に乗っているミルズを見かけたので停車してもらい、母親、ブランチともども乗り込んだ。

 まもなく、兵士二人が少女を連れて歩いているところを見かけた。少女はわたしの姿を見るやいなや、引き返してきて助けを求め、そして母親の姿が目に入ると、飛び込むようにして車に乗った。兵士は事態に気づくと、わたしたちが彼に無礼を働いた、としつこく言い張り、ミルズの席に座ったまま、どうしても車から降りようとしなかった。

 英語が多少わかる将校が通りかかったが、彼は、不必要と思われるくらい丁寧な態度でくだんの兵士に車から降りてもらうと、わたしたちを通してくれた。 ただし、わたしたちが少女を連れ出したのが悪かった、とミルズが言ったことで、ようやく通してくれたのだ。
(P79-80)

一二月三〇日 木曜日

 校門を入ると、一人の母親がやってきてわたしの前に脆き、きょうキャンパスで服務していた兵士が二四歳の娘を連れ去った、と訴えた。

 わたしは、すぐに母親を連れてソウ氏の家を訪ね、そのことを報告した。農民も日本大使館員も、今夜のうちに娘を見つけるのは無理だが、あすの朝その兵士が特定されたら、厳しく処分されるだろう、と言った。

 大使館員によれば、六人の兵士がすでに厳しく懲罰されたそうだ。「処刑された」という意味で彼はそう言ったと思うが、定かではない。

(P88)

一月一日 土曜日

 今夜は北里門橋の方角で大きな火災が発生している。掠奪が続いているのだ。二、三日前に聖経師資培訓学校内で女性二七人が強姦されたが、それでも、 強姦事件は減少してきていると思う。

(P92)

一月五日 水曜日

 しかし、安全区の状況は依然としてあまりよくない。午後、P・ミルズが、昨夜強姦されたという五六歳の女性を戸部街から連れてきた。

 夜、男性がキャンパスに避難している娘に食べ物を差し入れたい、と言ってきた。ここには男性を入れることはできないと言うと、 「わたしにはいまは娘しか残っていない。三日前の夜、安全区内で妻が抵抗して大声を出したら、銃剣で胸を突き刺され、そのうえ、幼い子どもは窓から放り出されてしまった」と訴えた。 これも午後のことだった。
(P99)

一月一〇日 月曜日

 もっとも、午後、遠方に見えた煙は、掠奪が続いていることを示す無言の証拠であろうし、キャンパスからほど遠くないところでけさ少女が二人強姦された。

(P109)

一月二一日 金曜日

 昨夜、二条巷(安全区内)にある王さんの親戚の家に四回にわたって兵士がやってきた。一回は、兵士が少女を連れ去ろうとしたが、彼女はうまく難を逃れた。 あとの三回はちょっとした掠奪だった。

 ここの避難民に帰宅するよう説得できない理由がわかってもらえるだろう。

(P129)

一月二四日 月曜日

 アリソン氏が席に着くか着かないうちに、今度は別の使用人がやってきて、彼の娘が拉致されたことを知らせた。

 この一家は五号車庫で生活していた。 アリソン氏はいましがた二人の兵士に、敷地内から出て行くように言ったばかりだったので、使用人がきっとその二人と取り違えているのだ、と言ったが、 使用人は、それとは別の兵士で、初めのうちは彼の末の娘を要求したが、彼ら両親が断固拒否したのだ、と言った。

 そのあとアリソン氏は娘を捜しに飛び出して行き、当の娘が戻ってくるところに出くわした。どうやら、少女を連れ出した兵士に先の二人の兵士が出会い、 アメリカ大使館にいた少女だから帰してやれ、と言ったらしい。
(P133)


 大使館に行くつもりで校門を出ようとしたら、一人の少女が近づいてきていましがた三人の兵士が彼女の家に押し入り、少女たちを連れて行こうとしている、と訴えた。

 彼女といっしょに駆けつけたところ、兵士たちはすでに立ち去ったあとで、彼らが連れて行こうとした少女たちは敏捷機敏に行動して、首尾よく裏木戸から逃げ出し、金陵女子学院に駆け込んだのだった。

 少女といっしょに学院に歩いて戻る道すがら、彼女は、日本兵が城内に初めて侵入してきたさい、 彼女の六七歳の父親と九歳の妹が銃剣で刺し殺されたことを話してくれた。

(P134)

二月五日 土曜日

 きのう自宅に帰った女性のうち四人がけさ戻ってきた。 この四人のなかの一人である四〇歳の女性は、城門から出るさいに衛兵に三ドルを強奪されたうえ、そこから少し先に行ったところで別の兵士によって退避壕へ連れて行かれた。

 彼女を拉致した兵士は、畑の向こうからやってくる女性(二〇歳)の姿を見ると彼女を解放した。

(P155)

二月七日 月曜日

 けさ王さんがやってきて、すでに帰宅した比較的に年齢の高い避難民たちにたいする凌辱の事例について報告した。

 閉鎖されたある収容所の所長がきょう二人の娘を連れてきた。彼と彼の妻は、戸部街に住もうとしている。 彼が言うには、きのう兵士たちがトラックで乗りつけ、彼の隣人たちの家から上等の寝具をすべて奪い取ったそうだ。さいわい、彼の寝具は新品でもないし、あまりきれいでもなかったため難を免れた。
(P157-158)

二月九日 水曜日


 午後五時ごろ大使館から帰宅する途中で二つの女性グループに出会った。

 最初のグループは、二人の娘を連れて戻ってきた母親だ。母親が言うには、彼女たちは二日前に帰宅したものの、耐えられなかったそうだ。 兵士たちが頻繁にやってきては若い女性を物色したので、いつも隠れていなければならなかったそうだ。 どのくらいの期間になるかはわからないが、当然のことながら、わたしたちとしては彼女たちを受け入れることになる。

 別の一人はわたしをひどく悲しませ、落胆させた。彼女は、南京のある大きな学校でかつて教師をしていた人の妻で、学者一家の出身だった。 彼女たちは災難に見舞われないように農村に避難したものの、全財産を使い果たしてしまい、状況がどうであれ南京に戻るしかないと決断したのだ。

 帰りの旅は何と悲しい物語だったことか。一四歳の娘と、同じく一四歳の姪は、兵士を避けるために靴も靴下も脱いで原野を歩いた。だが、それにもかかわらず、城門を入ろうとしたときに姪は三度、娘は一度強姦された。一四歳の少女だというのに。

 時間の点にかんしては母親の頑は混乱していた。それはど絶え間なく苦難が続いたのだ。 母親は、キャンパスに入れてほしいとは言わなかった。自分は入ることができなくても構わないが、女の子二人が入ることは許可してはしいと懇願した。金陵女子学院の校門はふたたび開けられた。 彼女たちのためにもっと役に立てればよいのだが。

(P161-162)

二月一三日 日曜日

 昨夜、真夜中ごろに四人ないし六人の兵士がわたしたちの洗濯場に近い農民朱の家に行き、激しくドアをたたいて「花姑娘」を要求したことが報告された。 ドアを開けなかったので、最後には彼らは立ち去った。今夜その女の子たちが女子学院に戻ってくるのではないかと思う。

 午後三時ごろ将校二名、兵士一名、それに「傀儡協会」の中国人四名がキャンパスにやってきて、洗濯婦を四人見つけてもらえるか、と聞いた。三〇歳から四〇歳までの女性だ。 報酬は米で支払うとのこと。彼らは、洗濯婦を迎えにあすの朝またくるという。それまでに何人か見つけるために、できるだけのことはしよう。

 出入りの洗濯屋にも話したところ、彼は、夜に帰宅できるのであれば喜んで応じるとのことだ。 妙な話だが、わたしが実験学校に戻る前に一人の女性がやってきて、その仕事をしたいと申し出た。わたしは、彼女が三人の兵士に強姦されたことをたまたま知っていた。 間違いなく、彼女は勇気がある。

(P167)

三月四日 金曜日

 正午過ぎまもなく一七歳の避難民の少女がSuhu(蕪湖)からやってきた。そのかわいそうな女の子の話は、彼女の顔の表情に劣らず悲しい。 日本軍が蕪湖に進入してきたとき、兵士たちが彼女の父親の店−父親は何か商いをしていた−に行ったというのだ。

 彼女の兄が兵士と同じように髪を短く刈り込んでいたため、父親、母親、兄、義理の妹、それに姉すべてが銃剣で刺し殺された 。彼女は他の女の子八人ほどといっしょに二人の兵士に拉致され拘束された。彼女の生活は地獄だった。

 二週間ほど前に兵士は少女を南京の南門に連れてきた。他の兵士たちよりは親切な一人の将校が少女に、このキャンパスにくるように言ったのだ。 わたしたちは少女に、寝具、洗面器、ご飯茶碗、箸を与えた。あす彼女を入院させよう。思うに、これが多くの家族の運命なのだ。
(P193)

三月十五日 火曜日

 悲劇的事件の一つ ― 一八回ないし一九回も強姦された女性(四八歳)と、二回強姦された彼女の母親(七六歳) ― を写真に収めるため、一一時三〇分、 J.M(ジョン・マギーのこと)といっしょに城南へ言った。この話は、冷酷非情な心をもってしてもとうてい信じられない。

(P208)




 以上、ヴォートリン日記にある「強姦事件」に関する記述を見てきました。ここで、冨澤氏の文を、もう一度見直してみましょう。

冨澤繁信氏『「南京事件」発展史』より

 ついでに指摘しておきたいが、金陵女子学院は女性ばかりの収容所なので、そこで多くの暴行事件があったと思われやすい。

 事実はさに非ず、学長代行のヴォートリンがその日記に記した学園内の強姦事件はわずかに三件(『ヴォートリンの日記』六九、七一、一五九頁)なのである。

  しかも南京の女性は大半この学園に集まっていたのである。

 これから見るとベイツもいっているとおり(『アメリカ編』三六八頁)、強姦は案外少なかったのではないか。

 (P54)


 読者の皆様は、果たして「ヴォートリン日記」の以上のデータから「強姦は案外少なかった」と判断することができたかどうか。答えはもう、言うまでもないでしょう。

(2007.3.8)


HOME 次へ