「捕虜ハセヌ方針」をめぐって |
第十六師団長・中島今朝吾中将の評伝を書くべく取材を続けていた木村久爾典氏(ジャーナリスト、青山学院短期大学教授)は、1983年、遺族から中島中将の日記の提供を受けました。 この日記の、南京占領当日12月13日の項には、こんなことが書かれていました。
素直に読めば、「片端より之を片付くる」というのは「殺す」ことである、と理解できます。すなわち「捕虜はせぬ方針」というのは、「中国兵が投降してきても受付けずに殺害してしまう方針」ということでしょう。 日記を発掘した木村氏を含め、「南京戦史」のような右派グループも、この解釈を当然のこととしてきました。
それを前提にして、「佐々木部隊」の「一万五千」、「仙鶴門付近」の「約七八千」などが本当に虐殺されたのか、という議論に発展するのですが、そもそものところでこの解釈に敢て異議を唱えたのが、東中野氏・田中氏の、いわゆる「まぼろし派」の人々です。
つまり、「捕虜はせぬ方針」というのは、実は「追放」あるいは「釈放」であった、とする解釈です。 その後東中野氏は「再現 南京戦」の中で上の解釈を修正しましたので、論議自体は決着したものと見られます。ただ、ネット掲示板などでは今なおこの無茶とも言える「解釈」に固執する方も見受けられますので、以下、説明していきたいと思います。
さて、この東中野説に対しては、当初からその「トリミング」が指摘されてきました。 東中野氏は最初、上の「中島日記」を引用する時、次の部分を全く無視していたのです。
「釈放する」のになぜ「大なる壕」が必要なのか。常識的には「殺害方針」と見る方がはるかに自然ではないか。この部分を読むと、当然そのような疑問が生じます。 これに対して東中野氏は、苦し紛れにこんな「解釈」を打ち出しました。
しかし次項で見るように、現実に現場指揮官たちが「殺害」命令を受けている以上、この東中野氏の強引な解釈は、到底説得力を持ちえません。むしろ、「壕」が「死体処理」の場であったことを窺わせる資料が、多数存在します。
有名な「佐々木少将手記」にも、同様の表現が見られます。
以上、「大なる壕」は、そのまま「死体処理の場」と考えて、何の不審もないでしょう。東中野氏の解釈は、いささか強引に過ぎます。
現実に第十六師団の現場指揮官がどのような命令を受けていたかを見ていきましょう。
いずれの事例でも、捕虜もしくは投降兵について、軍司令部なり師団なり参謀長・参謀なりが明確に「殺せ」という指示を出しています。 この「方針」については、早くも1938年、石川達三氏が中島師団長麾下の「第十六師団」に取材して書いた小説、「生きている兵隊」に登場しています。
なお、「捕虜収容事例」の代表例として語られる「仙鶴門鎮捕虜7200名ないし4000名の収容」は、沢田氏の証言にもある通り、「軍司令部」の「銃殺」命令に現場指揮官が抵抗した結果であったに過ぎない、ということは注意しておくべきでしょう。 いずれにしてもこの事例は、「殺害」でも「釈放」でもない、第三の道「捕虜収容」を選択したものであり、「釈放」説の助けにはなりません。 *実際にこの「仙鶴門鎮」の捕虜全員が助命されたかどうかということには疑問の余地がありますが、この点については別項で論じることにします。 **ただしこの「方針」は必ずしも厳密なものではなく、金丸吉生軍曹の捕虜使役事例のように、捕虜を助命しても「お咎めなし」であった例も見られます。 しかしこのような「例外」をもって、「捕虜はせぬ方針」とは「殺害」のことではない、というのは強弁でしょう。
さてそんな中で、一部の元軍人に「釈放」説に同意する意見が見られます。「釈放方針」説の大きな根拠としてよく持ち出されるのは、田中正明氏も取り上げている、次の「大西証言」でしょう。
問題は、大西氏が、どのような根拠に基いてこのような発言を行なっているのか、ということです。この発言だけを見ると、大西氏が中島師団長の「真意」を知りうる立場にあったのだろうと錯覚しますが、直後にこのような発言が出てきて、唖然とさせられます。
師団長の方針は「釈放せい、ということです」とまできっぱりと断言しておきながら、どうもこれは、氏の勝手な「憶測」でしかなかったようです。 さらに言えば、この大西氏は、どうやら師団の内部事情にあまり詳しくなかったようです。同じインタビューの中で、氏は、「自分の上官の役職さえも知らない」ことを、披露してしまっています。
念のために、中支那方面軍の「編成表」を見ておきましょう。 【 中支那方面軍 司令部 】
長参謀は、ちゃんと「兼任参謀」として名前が登場します。 なお大西氏は、実態以上に「否定」の方向を強調する人物であるようです。偕行社内部からも、このような批判を受けていました。
以上大西氏は、「南京事件」の規模を少しでも小さく見せたいという動機から、知りうるはずもない中島師団長の「真意」を勝手に憶測していただけ、と考えられます。 2015.1.2追記 板倉由明氏は、大西氏からこんな「証言」を得ていたようです。
本当に「釈放せい!」と怒鳴ったのかは不明ですが、いずれにせよ、大西氏自身、「釈放」方針なるものが末端まで浸透していなかったことを認める形になっています。 さらに、この阿羅氏の本の中で、もう一人、「釈放」解釈を行なっている人物がいます。こちらのインタビューも、見ておきましょう。
諌山氏が南京に出向いたのは、南京での戦闘終了から2週間近くであり、「第十六師団」の「南京戦」を実見したわけではありません。また、中島中将と会話を行った気配もありません。こちらの方も、特に根拠のない「憶測」に過ぎない、と考えられます。 さらに、諌山氏の「南京事件」に関する知識も、心もとないものです。
諌山氏はインタビュー当時93歳とのことですので、この証言を問題にするのは、あるいは酷なことかもしれません。 しかしそれにしても、「南京事件」の存在自体を「最近言われ」るまで知らなかった、というのでは、当時の中島中将の心中を正しく推定することなどできそうにありません。 以上、「捕虜はせぬ方針」を「釈放」もしくは「追放」方針である、と考えることには、明らかな無理があります。 いずれにしても、「追放」説の中心人物であった東中野氏がこの説を諦めてしまった以上、論争には決着がついた、と判断するべきでしょう。 (2007.9.17)
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