張作霖爆殺事件

番外 加藤氏の「現場見取図」の誤り


※本記事は、「加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』−「爆薬の位置」の謎− 」のサブコンテンツです。


 加藤康男氏は、『謎解き「張作霖爆殺事件」』P45に、次の「現場見取図」を掲載しています。

現場見取図2

加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』P45(2011年)



 「南満州鉄道」は、小高い堤防の上を走ります。そして、「クロス地点」で、下を通る京奉線と立体交差します。

 そして東宮中隊長ら警備隊は、現場の南方の空き地で待機しています。現場から待機位置までは、爆薬の「電導コード」が伸びています。その傍らには、「謀殺された中国人二人の死体」があります。

 しかしこの見取図は、東宮中隊長の待機位置が明らかに誤っています。

 実際には東宮らは、もう少し左側、「南満州鉄道」の鉄道堤の上にある「監視小屋」で、待機していました。



 爆薬は、橋脚の上、満鉄線側にありましたので、この図が正しいとすると、東宮大尉らは、むきだしの電導コードを橋脚に沿って垂れ下ろしたことになります。一見して、「怪しい」光景でしょう。

 また、事件当時の警備分担は、日本側が上の満鉄線堤防上、中国側は下側でした

 中国側の警備地域で、「爆薬設置」「電導コード敷設」「現場での待機」「爆薬スイッチ押し」という一連の作業を行うことは、大変な困難であったはずなのですが・・・。


 ともかくも、加藤氏は、上の図のイメージから、「東宮らが仕掛けた爆薬は橋脚の下にあった。張作霖を爆殺したのは実は別の爆薬」という珍説に傾いてしまったようです。



 「犯人グループ」の一人、尾崎義春少佐作成の現場見取り図を見ましょう。(同じ図が、井星英『張作霖爆殺事件の真相(四)』=『芸林』1982年12月号に掲載されており、これは、「現場を事前実際に見られた尾崎義春中将が書かれたものである」(P52)とのことです)

現場見取り図

尾崎義春『陸軍を動かした人々』P107(1960年)

 この図では、東宮大尉の待機位置は、満鉄線の線路脇となっています。

 尾崎少佐は、事件の時、現場で、「列車爆破」が失敗に終わった場合の「斬り込み隊長」として待機していました。現場を熟知しているだけに、信頼性は高い、と言えるでしょう。


 これは、次の「川越手記」の記述とも一致します。

『川越守二手記』より

 東宮大尉は(川越大尉に)現場の説明をしてくれた。

(筆者(稲葉正夫)注 手記は図解であるが、要点は爆破要領の説明工兵中尉は同所にあって点火、謀略用支那苦力三名待機せしめであるなどのことであった。また点火地点はクロス地点を二百米はなれた満鉄堤防上の見張台となっていた)(P35)

(稲葉正夫『張作霖爆殺事件』 =『昭和三年支那事変出兵史』所収)


 事件当時現場を視察した、民政党議員、松村謙三の目撃談も同様です。

松村謙三『三代回顧録』

 それは橋台から少しはなれたところに日本兵の監視所がある。

 橋台の下に爆薬を埋めて、そこから監視所まで電線を引き、監視所でスイッチをひねって爆破させたのであるが、不覚にもあわててその電線を巻いてかくしておくことを忘れたのである。

 それで監視所まで電線がそのままあったのだから、どうにも言いくるめるわけにいかない。これで完全にまいった。
(P128)



 以上のデータから、東宮大尉らが満鉄線堤防の上の「監視小屋」で待機していたことは間違いない、と言えるでしょう。

 実際問題として、満鉄線上には中国側の立ち入りは禁止されていましたので、東宮らにとって、一連の工作は必ずしも難しいものではなかったでしょう。

 わざわざ満鉄線堤防を下りて、中国側の監視区域で待機していた、という冒頭の見取図は、明らかな誤りです。



 「監視小屋」が「満鉄線沿い」にあったことは、当時の関東軍の報告書からも裏付けられます。

張作霖列車爆破事件に関する所見

警備に就て

一 陸橋附近の概要

 陸橋附近は満鉄附属地なるも京奉鉄道及商埠地より皇姑屯駅に通する要路に当り其附属地としての幅員は鉄道の両側約二十米に過さる所謂飛地に類す

 此を図示すれば次の如し
現場附近図

 監視所附近は平素より貨物盗難等多き地点にして守備隊は該所を拠点として動哨を派遣しあり

 防護框舎は枕木を以て作りしものにして 非常の際鉄道破壊を企図する敵に対し防禦するものにして 平時は警戒用としては之を使用せす(P60)



三 警備の状況

日本側の警備


 独立守備第二大隊長三島中佐は張作霖帰奉に際し南方便衣隊の潜入説等あり何となく物騒なりしを以て 三日夜准士官一、下士一、卒十四(平常は下士以下六)を増派せるも 警戒方法は平素と異る所なく

 該分遣隊は陸橋南方約二百米の鉄道橋堤上の監視所に位置し 柳条溝奉天駅間約四吉に亘る間を警戒する為 線路巡察を派遣し

 又陸橋附近の直接警戒の為 分遣所前展望台上に配置せる歩哨を以て 昼間は主として展望により 夜間は動硝に依り 監視せしめたり(P63)

(参謀本部編 『昭和三年 支那事変出兵史』 所収 稲葉正夫『張作霖爆殺事件』)


  「監視所」は、やはり満鉄線路沿いに記載されています。そしてそこに「分遣隊」がいた、ということです。




 最後に、加藤氏の図の「ルーツ」を捜してみましょう。氏は触れていませんが、これは『This is 読売』1997年11月号(河本大作供述調書)に掲載された図をアレンジしたものと思われます。

 左右に並べてみます。左が加藤氏の図、右が『This is 読売』掲載の図です。背景を微妙に変えてありますが、それ以外は、文字や説明文も含めて、ほぼ同一であることがわかります。

現場見取図2 現場見取図2
加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』P45(2011年)        『This is 読売』1997年11月号P50


 『This is 読売』の出典は不明ですが、あるいは同誌の編集部が独自に作成したものかもしれません。この図の「誤解」が、加藤氏に引き継がれた形です。
※なお、学研『満洲国 北辺に消えた"王道楽土"の全貌』(2006年)P28-P29 には、現場再現図が見開きのカラーイラストで掲載されていますが、位置関係は上の地図とほぼ同一であり、これもまた『This is 読売』掲載図をベースにしたものであることは明らかです。


 文字ベースの資料を捜すと、秦郁彦氏の1985年論稿が見つかります。

秦郁彦 『張作霖爆殺事件』

 同じ頃、終着の奉天・瀋陽駅から西へ四キロ、京奉線が満鉄線の陸橋下をくぐり抜けるクロス地点で、ときどきまわって来る中国軍巡警の目をかすめながら立ち働く二つの黒い影があった。

 付近の満鉄線警備を担当する独立守備隊中隊長東宮鉄男大尉と、朝鮮の竜山工兵隊から分遣されてた桐原(のち膝井と改姓)貞寿工兵中尉である。(P36)

 二人は線路際の資材置場に積んであった土嚢を引き抜いては、用意してきた黄色火薬詰めの麻袋と差し替える作業に熱中していた。

 二人が入れ替えを終え、電気コードを取り付け、草むらの中を這わせて二百メートル南方の畑地にある守備隊の監視小屋に引き込んだときは、夜明けに近かった。(P37)

(『昭和史の謎を追う(上)』所収 初出 『プレジデント』1985年5月号、1992年10月補筆)


 「監視小屋」は、「南方の畑地」にあることになっています。「草むらの中を這わせて」という表現を見ても、秦氏が「監視小屋」の位置を「満鉄線堤防上」とは認識していなかったことは明らかでしょう。

 あるいは 『This is 読売』掲載図は、この秦論稿をベースにしたものかもしれません。


 ただし秦氏は、その後2007年の論稿では、監視小屋が「畑地」ではなく「満鉄線堤防上」にあった、と正しく認識を変えています

秦郁彦 『張作霖爆殺事件の再考察』

 そして、砂袋から約一八〇メートル南寄りの満鉄線堤防上にあった独立守備隊の哨所展望台上まで導火電線を引いた。(P126-P127)

(『政経研究』2007年5月号所収)

 また、P118-P119には見開きで「奉天警備計画要図」が掲載され、そこに「独立守備隊哨所」「同展望台」の位置が書き込まれていますが、その位置は明らかに満鉄線路沿いです。

 現場の「南方」という表現が、『再考察』では、実際の「西南方向」を意識してか、「南寄り」という微妙な表現に変更されています。(ただし「爆薬の位置」については、以前同様、「満鉄線の橋脚に近い京奉線路傍」との認識です)

 秦氏(あるいは、私は確認できていませんが、他の研究者)の「誤解」が『This is 読売』に引き継がれ、最終的に加藤氏の誤解を生む元となった。そのように推測できるかもしれません。

(2019.5.19)


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