加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』

−「爆薬の位置」の謎−


 2011年、私は、「加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』 −河本大作と張学良とソ連諜報機関の共謀?」の中で、こんなことを書きました。


 河本グループは、実際にはどこに爆薬を仕掛けていたのか。メンバーの証言を見ると、線路脇に積み上げられていた土嚢の中身を爆薬にすりかえた、としているものが多い。しかし実際の爆発の効果は、列車上方からのものであるようだ。

 確かにこれは、事件の「謎」の部分です。

 


 ふと思い立ち、今回、この「謎」に再挑戦してみました。その結果、これは「謎」でも何でもないことに気がつきました。改めて資料を読み直すと、実際には、河本グループも、爆薬の位置を「列車上方」として認識していたのです。

 にも関わらず、なぜ加藤氏はこのような「誤解」をしたのか。以下、見ていくことにしましょう。



< 目 次 >




 「爆薬」の真の位置

 本題に入る前に、事件当時の調査報告書をもとに、張作霖を爆殺した爆薬はどこに仕掛けられていたのか、確認しておきましょう。


 事件発生時、日本側と中国側は合同で調査団を組織しました。しかし、両者の意見の一致を見ず、結局「報告書」は別々に提出されています。

 ただし被害状況については、概ねの一致を見ています。ここでは、口語体の翻訳で読みやすい、中国側報告書から紹介します。



 まず車輌の被害状況です。「車体の上部」は破壊されましたが、「下部」は全く損壊していなかった、とのことです。

奉天交渉署作成 張作霖爆殺事件調査報告書

二、車両の爆破状況

 津浦所属の三号貴賓車は、陸橋の東側数十丈〔約百メートル前後〕のところに停車しておりました。車体の上部は石塊及び枕木により破壊され、後方が特にひどく、扉や窓も多く破壊されていました。

 車体は北側に向かって傾き、底板など下部は全く損壊しておりませんでした。後方の左側車輪は、レールの内側に脱線しておりました。(P141)

(『東洋大学文学部紀要 史学科篇』)  


 そして上方を通る満鉄線側には、大変な被害が発生しています。

奉天交渉署作成 張作霖爆殺事件調査報告書

三、橋梁の爆破状況

 調査時に北側の鉄橋は完全に落下し、その欄杵は食堂車の右側を押し潰していました。副橋は南側に落下しておりました。副橋の南端には、爆発により大形の穴が二ヵ所に開き、その口径はいずれも一尺〔約三〇センチメートル〕を越えておりました。

 また中間部分の鉄橋は、北側が爆発で壊れ、橋板には下側に向かってめくれ上がったところもありました。

 副橋もまた地面に落下しておりました。副橋の北端も、また爆発で壊れていました。橋の北側の〔橋台の〕石積みの上部は、石塊が一〜二段分落下しておりました。

 南側の〔橋脚の〕石積みの上部は、石塊がほとんど全体の三分の一から四分の一にわたって落しておりました

 北側の石積みには火で焼けた焦痕があり、南側の石積みにも東側に黄色く変色した痕跡があって、爆薬の煙で燻されたものと思われます。

 その西側にも、また炎上による焦痕がありました。橋の上部には、なお湾曲したレールが三本残留しており、満鉄の保線区職員が、ちょうど修理に取りかかっておりました。(P142-P143)

(『東洋大学文学部紀要 史学科篇』)  


 一方下を通る京奉線側の被害は、軽微でした。

奉天交渉署作成 張作霖爆殺事件調査報告書

 北側の橋の下部は、わずかに京奉鉄道の枕木数本を焼損したのみで、穴などは開いておりませんでした。破壊車両を移動した後は、枕木を交換する程度で即ちに運転再開して交通の回復が可能であります。(P143)

(『東洋大学文学部紀要 史学科篇』)  


 以上の被害状況を元に、報告書は、「南側の(橋脚の)石積みの上方」を、爆弾の装着場所として判定します。

奉天交渉署作成 張作霖爆殺事件調査報告書

四、爆弾装着の場所

 装着の場所については、おおよそ同橋の南側の〔橋脚の〕石積みの上方と判定することができます。けだし南側の石積みの最上部は、すでに爆破され、残留した上部も、黄色く変色しておりました。(P143)

(『東洋大学文学部紀要 史学科篇』


 一方日本側の報告書は、中国側と同じ「橋脚鉄橋と石垣の間の空隙個所」に加え、「列車上部」も爆薬設置場所の候補としています。


奉天本省 昭和三年六月廿一日到着
田中外務大臣        林総領事

第三四八号 (別便)

爆破の件 共同調査結果


(五)第四、爆破の原因の項に於て共同調査に着手せるは事件後四時間半を経過し痕跡崩れ且爆破の原動物件爆破方法等は専門的知識なきものの判定を得さる処なるも被害の状況及程度より推し相当多量の爆薬を使用し電気仕掛に依りたるものなるへく 爆薬は結局後部と食堂車前部附近の車内上部又は橋脚鉄橋と石垣の間の空隙個所に装置せるものと認め尚「クロス」通過の際列車の速力緩慢なりし事及本爆破は列車の編成を好く知るを要する点は本件真相を知るに有力なる論拠たるへき観察を下し 支那側は爆薬装置個所に付ては全然明確なる意志表示を避けたる事を附言せり 

(アジア資料センター資料  レファレンスコード:B02031915000 = 『日本外交文書デジタルコレクション 昭和期蟻茖栄堯‖茖牡 昭和3年(1928年対中国関係』 二 満州治安維持に関する覚書と張作霖爆死関係P166にも同文の記載あり)


 ただしその3ヵ月後、外務省で開かれた「調査特別委員会」では、「列車上部」は消えています。

張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録(一)

第一回会議 昭和三年九月廿二日(土)午前十時より午後零時半迄
         於外務省小会議室

出席者 (外務省) ○森政務次官 ○植原参与官 ○林総領事 ○有田亜細亜局長 岡崎事務官
      (陸軍省) ○杉山軍務局長 根本少佐
      (関東庁) ○藤岡警務局長
      (○印は特別委員会委員)



五、又爆破に用ひたる火薬の種類並装置個所に付ては

(イ)林総領事は松井(常三郎)予備中佐か爆煙を見て推定したる処によれは右は黄色薬にして約一〇〇乃至一五〇瓩位の数量を使用したるものなるへしとの事なり。而して自分の見る処によれは爆薬が「鉄橋上」に仕掛けられたるものなる事は一見して明かなりと信すと述へ、「鉄橋か脚上部」と詳記する方誤解なからん

(アジア資料センター資料  レファレンスコード:B02031915100 = 『日本外交文書デジタルコレクション 昭和期蟻茖栄堯‖茖牡 昭和3年(1928年対中国関係』 二 満州治安維持に関する覚書と張作霖爆死関係P193にも同文の記載あり)


 爆薬の推定位置は、「鉄橋上」または「脚上部」。「脚上部」については、ここに掲載されている図がわかりやすいので、紹介しておきます。

現場断面図

 上が満鉄線路。爆薬は、満鉄線路と橋脚上部との間の隙間にあった、との推定です。



 いずれにしても、「爆薬の位置」が、京奉線線路脇などの列車の下方ではなく、満鉄陸橋などの列車の上方にあったことは確実です

 河本グループが「爆薬の位置」をどのように認識していたのか、まずは加藤氏による説明を聞きましょう。




 加藤氏による「説明」

 さて次に、加藤氏がどのように「河本グループ」の証言群を理解したか、を見ます。

 加藤氏はここで、「河本手記」(実際には平野によるヒアリング)、及び中国共産軍に逮捕された際の「河本供述調書」を採り上げ、どちらにも「具体的なデータ」はない、と書きます。
※後述しますが、実際には「供述調書」に「爆薬の位置」が明記されていました。氏は自分で書き写しながら、見逃していたようです。

 唯一、場所が明記されているのが、「森記録」です。実際には文中に場所の明記はないのですが、加藤氏はこれを、「橋桁から少し離れた線路脇」と解釈します。


加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 やっかいなことに仔細な手記・談話を残している河本自身が、爆薬の種類や設置場所となると具体的なデータをあまり語っていないのだ。(P63-P64)



 唯一、場所について河本が残した証言は森克己(歴史学者)が収録したヒアリングである。


 当時満鉄担保のトウ(さんずいに兆)昂鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊(せち)んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、 この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した。

(『満洲事変の裏面史』)


 ここで初めて河本自身の口から「土嚢のすり替え」が説明された。

 文脈から察するに、置かれていた土嚢は架橋の真下とは思えず、橋脚から少し離れた線路脇、と解釈するのが妥当だろう。(P65-P66)

 狭い架橋下で、線路と橋脚の間に土嚢の山を築くのは不自然に思えるからだ。(P66)



 続いて加藤氏は、相良俊輔『赤い夕陽の満州野が原に』の記述を紹介します。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 しかし、爆薬の設置場所については、後述するが、さまざまな見解がある。

 相良俊輔は先に引いたように、

「さらに正確にいえば、満鉄線が走っている陸橋の脚橋から十五メートルてまえの線路ぎわであった」

 と場所をかなり特定している。

 監視小屋まで引いた電線について相良は、

「爆破を敢行するや、東宮は間髪をいれず、爆破用の電線を部下に巻き取らせた。哨舎から爆破地点まで、約百八十メートル。ひかれたコードの重みで、そこだけ草が倒れ、直線的に痕がついていた」

 と具体的だ。(P66)



 そして、秦郁彦氏、松本清張氏も同じ認識です。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 戦史研究の専門家といわれる秦郁彦氏も、次の文脈からほぼこうした見解を採用しているといって差し支えない。


 二人(引用者注・東宮と桐原)は線路際の資材置場に積んであった土嚢を引き抜いては、用意してきた黄色火薬詰めの麻袋と差し替える作業に熱中していた。

 二人が入れ替えを終え、電気コードを取り付け、草むらの中を這わせて二百メートル南方の畑地にある守備隊の監視小屋に引き込んだときは、夜明けに近かった。

 耳をつんざく轟音とともに、深紅の炎が暁闇を破って噴き上がる。破片と火の粉が降り注ぎ、陸橋一帯は黒煙に包まれた。計二百キログラムの黄色火薬が、張作霖の乗る展望車を直撃したのである。

(『昭和史の謎を追う』上)


 加えて秦氏は、「張作霧爆殺事件の再考察」 (『政策研究』第四十四巻第二号)という論文中に付された図で、満鉄線陸橋から奉天側へ数メートルほど離れた地点を推定爆心地として示している(六九頁、図B)。同図の典拠は 『昭和三年支那事変出兵史』 の稲葉正夫解題付録に示された図である。(P67)
※「ゆう」注 念のためですが、稲葉論文の図は単なる「列車停止位置図」であり、「推定爆心地」の表示はありません。


 さらに「昭和史の闇」には一家言ある松本清張もほぼ同じ見解を述べる。


 問題の地点、満鉄と京奉線のクロスしている箇所には、満鉄路線脇に歩哨のトーチカがあった。ここに火薬庫から運びだされた麻袋三個分の火薬が大槻中尉の手によってつめこまれた。

 このトーチカから、さらに百五十メートルくらい離れた所に別のトーチカがあった。計画によれば、第一のトーチカから導電線を引いて、第二のトーチカ内にひそんでいてスイッチを押すしかけだった。

(『昭和史発掘』 2)(P68)




 最後に出てくるのが川越大尉の手記です。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 橋脚に装置したのか、やや離れた線路脇に積んだのかは、先にも述べたが非常にデリケートな問題である。

 川越大尉は「河本大佐は  ー  満鉄クロスの満鉄の鉄橋に爆薬の装置を終り、午后十時頃旅館に帰った」と手記に残していた。

 「川越手記」は稲葉正夫の編纂を経て防衛研究所に保管されており、第一級史料である。(P68)



 川越が言う「鉄橋に爆薬の装置を終り」とは、架橋下に近い橋脚脇あたりを指してのことと考えるのがひとまず順当ではないだろうか。(P72)

※実は加藤氏は、川越手記の記述を「曲解」しているのですが、これも後述します。



 さてこれで、読者はすっかり、「河本グループは京奉線線路際または橋脚の下に爆薬を装着した」というイメージに染まってしまったと思います。


 しかし実際の位置は、「列車上方」でした。加藤氏はこの「謎」を、こう解きます。

 河本グループが現場にいて爆薬のスイッチを押したのは事実。しかしその爆発は張作霖を殺すには至らず、真に張作霖を殺した爆薬は別のグループが仕掛けたものである

 この「解答」の荒唐無稽さについては「加藤康男氏『謎解き「張作霖爆殺事件」』 −河本大作と張学良とソ連諜報機関の共謀?」で触れていますのでこちらでは省略します。


 さて、河本グループは本当に列車の下方に爆薬を仕掛けたのか。以下、資料を読み直していくことにしましょう。




 河本グループの「認識」

 河本グループの一人、尾崎義春少佐は、事件の「現場」について、こんな見取り図を残しています。(『陸軍を動かした人々』P107)

現場見取り図

 左右に走るのが、張作霖が搭乗していた京奉線。それを満鉄線が、上下にクロスします。そして、爆破スイッチを押した東宮大尉は、図の下の方、満鉄線路の脇の監視所で待機しています。
※なお、実際の方角は、次の見取り図の通り、満鉄線路が「東北ー西南」方向、京奉線は「東南東ー西北西」方向です。


 爆弾の装着位置については、次の記述が見られます。

尾崎義春氏『陸軍を動かした人々』より

 (河本)大佐は某工兵中尉に命じ、その交叉点の橋桁に爆薬を仕掛け、独立守備隊中隊長東宮大尉をして、電流を通じて之れを点火せしめんとした。

 計画は予定通り出来た。私(著者は当時警備参謀)も現地に行って見ると、火薬をつめた土嚢は橋桁につけてある。しかしこれは独立守備隊のよくやる防御用の土嚢で一寸気がつかない。(P107-P108)


 爆薬は「橋桁につけてある」、と明記されています。直接の目撃であるだけに、確度が高い、と言えるでしょう。

 橋を支える柱が「橋脚」。「橋桁」とは、柱の上のブリッジ部分、すなわち上の満鉄線路が通る橋です。何のことはない、尾崎少佐は、「爆薬の位置」を、正しく認識していました

 なお、元大本営参謀の稲葉正夫論文、『張作霖爆殺事件』(『昭和三年支那事変出兵史』所収)P61掲載の地図も、併せて紹介します。

現場附近図

 東宮大尉が爆破スイッチを押した「監視所」は、尾崎の図と同様、満鉄線路の堤の上にあることがわかります。

 なお、後で再登場しますので、「奉天」駅が京奉線ではなく、上方の満鉄線の駅であることをご記憶ください。(図が切れていますが、京奉線の終点は「瀋陽」駅になります)



 「爆薬の位置」に関して、他のデータも、見てみましょう。

河本大作供述調書

 東宮は[張暗殺を実行する]任務を引き受け、東宮と配下の部隊のはか、神田泰三中尉と桐野工兵中尉が協力することになった。具体的な方法は、満鉄の線路に爆薬を仕掛け、[奉山線との]交差地点の南五百メートルにある展望哨にコードを引いて起爆装置を設ける、というものだった。(P50)

(『This is 読売』1997年11月)

 同じページには、作成者は不明ですが(『This is 読売』編集部?)、「張作霖爆殺現場見取り図」が掲載されています。そこには、「満鉄線陸橋の下に黄色火薬を仕掛けた」と明記されています。
※余談ですが、この図では、東宮大尉らの待機位置が「満鉄線路脇」ではなく、「クロス地点」からまっすぐ南の空き地になっています。 そしてその場所に「監視所」と「南方便衣隊の死体」があったことになっています。当時の調査報告書、あるいは種々の証言から推して、これは明らかに間違いです。 なお加藤本にも、この図が掲載されており、加藤氏はこの誤った認識を引きずっています。 詳しくは、サブコンテンツ、張作霖爆殺事件 番外 加藤氏の「現場見取図」の誤りをご覧ください。

 さらに、現場で爆破スイッチを押した東宮大尉の「内話」です。

森島守人『陰謀・暗殺・軍刀』より

 私は爆破の真相を中国側のみから承知したわけではない。

 満鉄の陸橋の下部に爆薬をしかけたのは、常時奉天方面に出動中だった朝鮮軍工兵隊の一部だったこと、右爆薬に通じてあった電流のスウィッチを押したのが、後年北満移民の父として在留邦人間に親しまれた故東宮大佐(当時奉天独立守備隊附の東宮大尉)だったこと、陰謀の黒幕が関東軍の高級参謀河本大作大佐だったことは、東宮自身が私に内話したところである。(P22)



 当時の鉄道相、小川平吉が配下の工藤鉄三郎から受けた報告も同様です。

『小川平吉関係文書』より

 既にして予が嚢きに宣統帝の許に遣はしたる工藤鉄三郎氏は急速帰京して仔細に事件の顛末を述べ、関係支那人劉戴明の処置に関する援助を求め来れり。是れを日本政界における張氏爆死事件内容知悉の最初と為す。

 工藤の報告に曰く。

 関東軍の参謀河本大佐は慷慨果敢の国土なり。張作霖が郭松齢の乱に負へる日本の洪恩を忘却して事毎に日本に反抗するを憤り、張を排除し奉天の政局を一新することを図りしに、忽ちにして張の北京を退きて帰奉するの報に接し、乃ち之を爆殺して国患を除くと共に、変に伴うて支那軍隊の動揺するに乗じ、機を見て奉天を占領し、意中の人物を擁立して満洲の統治を左右せんと企図し、急逮策を按じて親交ある志士(工藤鉄三郎の親友)安達某を招きて犠牲支那人二名を物色せんことを依頼せり。

 安達は平素親交ある支那人劉某に旨を告げて之を依頼せり。劉はもと吉林孟恩遠部下の営長にして張作霖に積怨あるものなり。人と為り義侠にして市井の無頼に信望あり。

 乃ち之を諾して三人の支那人を獲て、各金五十円の支度料を与へ、日本軍の為に密偵たらんことを求めて其の承諾を得、六月三日夜半満鉄交叉点の日本兵哨所に至り命令を乞はしめたり。期に至りて一人約に背きて至らず。二人約に従って満鉄の線路上に至り歩哨の為めに殺さる。後に死体を検して南方便衣隊に関する書翰を得たり。蓋し河本の演ずる所にして爆撃の真相を掩はんと欲せしなり。

 河本は又支那側の交渉によりて京奉線通路の守備を支那側に委せたるのみならず、満鉄の守備をも撤して歩哨兵は数十間を隔てたる哨所に退き、やがて黎明の頃張氏乗用列車の交叉点に到るや兼て鉄橋下に装置せる爆弾に電流を通じて一挙列車を粉砕せり。事の起るや支那軍驚愕怖懼萎縮して動かず。河本遂に乗ずるの機を得ざりしなり。(P626〜P627)


 そして、戦後の東京国際軍事裁判時の「田中隆吉尋問調書」にも同様の記述が見られます。田中の供述内容は、犯行グループから聞いた話に基づいたものでしょう。

『東京裁判資料 田中隆吉尋問調書』より

第1回尋問 1946年2月19日

 彼の列車は、地上面に敷設された鉄道上を走っていたのですか。

 はい、そうです。

 そして、爆薬は、彼の列車が走っていた鉄道の上に架けられた鉄橋に固定されたのですか。

 はい、そうです。(P11)



 以上、尾崎少佐の資料と矛盾するデータはありません。河本グループも、「爆薬」が「列車上方」の「満鉄鉄橋」または「鉄橋下」にあったと正しく認識している、と見るのが妥当でしょう。

 実を言えば、ここに使用した「河本供述調書」「森島守人本」「小川平吉関係文書」「田中隆吉尋問著書」は、すべて同じ箇所が加藤本にも引用されています。加藤氏は、このデータを見逃してしまった形です。



 「加藤本」を読み直す

 そこで次に、加藤氏がなぜこのような「誤解」(もしくは「曲解」)に至ったのか、を解明しましょう。


 加藤氏の記述をよく見ると、犯人たちが直接語った「一次資料」は、森氏による河本インタビューと川越手記の二つしかないことに気がつきます。あとの3つ、相良俊輔,、秦郁彦、松本清張の文は、いずれもこれら一次資料に基づく「二次資料」です。
※相良氏のみは、「犯人」の一人である川越大尉を含め多くの関係者に取材しているようです。しかし、氏のこの本の細かい部分には明らかにかなり「想像」が入っています。「線路脇への爆薬設置」の記述はかなり具体的なのですが、出典が示されておらず、おそらくこのあたりも「想像」を膨らましたものと推察されます。よく指摘されますが、張学良夫人がなぜか「ロシア人」として登場するなど、誤りが目につきます。


 さて、加藤氏が最大の根拠とする「森記録」です。もう少し長く、前後を含めて引用してみましょう。

森克己『満州事件の裏面史』

河本大作大佐談

昭和十七年十二月一日、於大連河本邸


 ところで、満鉄線の方が京奉線の上を走っているので満鉄線を壊さないようにしてやるのには、仲々やり悪い。そこで脱線器を三本取着け、若し失敗したら脱線させ、抜刀隊で斬込むことにした。



 当時満鉄担保のトウ(さんずいに兆)昂鉄道の敷設材料を、支那側が瀋海鉄道の材料に、こっそり竊んで行って盗用することが多かったので、この年三月頃より、 この盗用を防ぐために 土嚢を築いて居ったが、この土嚢を利用し、土嚢の土を火薬にすり代えて待機した。

 その場所は奉天より多少上りになっている地点なので、その当時、貨物泥棒が多く、泥棒は奉天駅あたりから忍び込んで貨物車の窓の鉄の棒をヤスリで摺り切り、この地点で貨物を窓の外へ投出すというのが常習手口であった。

 そこでこの貨物泥棒を見張るために、満鉄・京奉両線のクロスしている地点より二百米程離れた地点に見張台が設けられていた

 我々はこの見張台の中に居って電気で火薬に点火した。コバルト色の鋼鉄車が張作霖の乗用車だ。この車の色は夜は一寸見分けが付かない。そこでこのクロスの場所に臨時に電灯を取付けたりした。



 張作霖の乗用車が現場に差掛かかり、一秒遅れて予備の火薬を爆発させ、一寸行過ぎた頃また爆発させ、これが甘く後部車輪に引かかって張作霖は爆死した。

(森克己『満州事変の裏面史』 P269〜P270)

*以上、ぶつ切り引用になってしまいましたので、「張作霖爆殺事件」に関する部分の全文を確認されたい方は、こちらをどうぞ。

 加藤氏の「解説」を再掲します。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 ここで初めて河本自身の口から「土嚢のすり替え」が説明された。

 文脈から察するに、置かれていた土嚢は架橋の真下とは思えず、橋脚から少し離れた線路脇、と解釈するのが妥当だろう。(P65-P66)

 狭い架橋下で、線路と橋脚の間に土嚢の山を築くのは不自然に思えるからだ。(P66)


 これは加藤氏の勝手な想像です。尾崎証言で明らかな通り、実際には「土嚢」は「橋桁」にとりつけてありました

 加藤氏は勘違いしているようですが、「土嚢」があったのは、下の京奉線路沿いではありません

 「森記録」では、「貨物泥棒」は「奉天駅」あたりから乗り込んでいます。稲葉本の図に示されている通り、「奉天駅」は京奉線ではなく満鉄の駅です。そして、泥棒を見張るための「見張台」も、満鉄線路脇にありました


 「貨物泥棒が多」いところに監視所(見張台)を設置した、という森記録の記述は、次の報告からも裏打ちされます。

張作霖列車爆破事件に関する所見

警備に就て

一 陸橋附近の概要

 陸橋附近は満鉄附属地なるも京奉鉄道及商埠地より皇姑屯駅に通する要路に当り其附属地としての幅員は鉄道の両側約二十米に過さる所謂飛地に類す

 此を図示すれば次の如し(「ゆう」注 上に示した『張作霖爆殺事件』(『昭和三年支那事変出兵史』所収)P61掲載の地図=「監視所」は満鉄線路脇にあり)

 監視所附近は平素より貨物盗難等多き地点にして守備隊は該所を拠点として動哨を派遣しあり

 防護框舎は枕木を以て作りしものにして 非常の際鉄道破壊を企図する敵に対し防禦するものにして 平時は警戒用としては之を使用せす(P60)

(参謀本部編 『昭和三年 支那事変出兵史』 所収)



 すなわち、「土嚢」の位置は、明らかに満鉄線側です。「待機」の文字が見えますので、おそらくは橋桁に装着する前の「とりあえずの置き場」として、「土嚢の土を火薬にすり代えて」おいたものでしょう。


 なお、満鉄線路上になぜか土嚢が散らばっていたことは、先に紹介した「張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録」にも登場します。偽装のための「土嚢」のうち、「爆薬」を仕掛けていない分だったのかもしれません。

張作霖爆殺事件調査特別委員会議事録(一)

(林総領事)

(ハ)鉄橋上に数個の土嚢ありたるを認めたるか之は如何成る用途に用ひたるものなりや調査を要すへし等述へたり

(アジア資料センター資料  レファレンスコード:B02031915100 = 『日本外交文書デジタルコレクション 昭和期蟻茖栄堯‖茖牡 昭和3年(1928年対中国関係』 二 満州治安維持に関する覚書と張作霖爆死関係P193にも同文の記載あり)


 なお森記録には、「満鉄線を壊さないようにしてやる」「甘く後部車輪に引かかって」など、爆弾が京奉線側にあったかのような表現が散見されます。

 これは、森氏自身が、例えば柳条湖事件などのイメージから、「爆弾は線路にあるもの」と思い込んでいた、という解釈が可能でしょう。

 テープレコーダーなどもちろんない時代です。河本記録を自分のメモから再構成する時に、「思い込み」による「間違い」が混入してしまったものと思われます。

 参考までに、当時の報道を見ると、「爆破」を伝える第一報の記事に、「怖るべき破壊力を有する 強力なる爆薬を埋設 南軍便衣兵の所業か 怪しき支那人捕はる」との見出しを見ることができます(東京朝日新聞 6月5日付夕刊 第1面)。

 「爆薬が京奉線線路の下にあった」というイメージは、この報道が原因かもしれません。
※加藤氏が採り上げていませんでしたのでこちらでは省略しましたが、同じく河本インタビュー、根津司郎『昭和天皇は知らなかった』にも、「砂袋に見せかけた爆薬を、どのようにして京奉線の現場にセットしたか」という表現が見られます。こちらもまた、「爆薬は線路脇にあった」という「思い込み」から話が歪んだものと推定されます。



 次に、「爆薬の位置」を示すもう一つの一次資料、「川越手記」です。加藤氏の記述を再掲します。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 橋脚に装置したのか、やや離れた線路脇に積んだのかは、先にも述べたが非常にデリケートな問題である。

 川越大尉は「河本大佐は  ー  満鉄クロスの満鉄の鉄橋に爆薬の装置を終り、午后十時頃旅館に帰った」と手記に残していた。

 「川越手記」は稲葉正夫の編纂を経て防衛研究所に保管されており、第一級史料である。(P68)



 川越が言う「鉄橋に爆薬の装置を終り」とは、架橋下に近い橋脚脇あたりを指してのことと考えるのがひとまず順当ではないだろうか。(P72)



 実を言えば、加藤氏はここで、とんでもない「トリミング」を行っていました。稲葉正夫氏の原典を確認しましょう。

稲葉正夫『張作霖爆殺事件』

 その夜すなわち六月二日夜、河本大佐は工兵第二十大隊の藤井中尉を同道して、クロス地点満鉄の鉄橋下面に爆薬の装置を終わり、午後十時ころ旅館瀋陽館に帰ったのである。

 このときから川越大尉が計画に加わったが、その事情は次の川越手記のようであったという。(著者注釈:前掲川越手記及び同氏陳述)


 当夜他の参謀は宴会に出てみんな留守だったが、私は軍司令官の室の隣りの部屋にいた。

 河本大佐は、役山参謀の室に私を呼んで四方山の話をされた。私は大佐に向かい「大佐殿の計画は赴任以来よく承知して居て私も多少補佐したつもりです。一人で大役を果たされることは困難ですから正式に私を助手に命令してください」と申出た。

 大佐はポケットから長い巻紙を取り出してこれを読んでくれと差出された。東宮独立守備隊第二大隊中隊長の意見具申であった。堂々たる論文で、張作霖殺害の必要を説いていた。

 本夜はうまく火薬をクロス地点に装置してきた。専門家は流石に立派な仕事をすると工兵の中尉を誉められた。

 「それでは君も頼む。現役を去る覚悟はできているか」と問われた。私は「国策を遂行して満蒙問題を解決することは私の本望です」と答えた。(P34)


(参謀本部編 『昭和三年 支那事変出兵史』 所収)


 加藤氏は、「クロス地点満鉄の鉄橋下面に爆薬の装置を終わり」のフレーズを、なぜか「下面」を省略して、「満鉄クロスの満鉄の鉄橋に爆薬の装置を終り」と書き換えています。

 「鉄橋下面」であれば、明らかに「満鉄線の裏側」であり、実際の爆薬設置場所と一致します。加藤氏のように、これを「架橋下に近い橋脚脇あたり」と解釈することはかなり無理があります

 さらに稲葉氏の紹介する川越手記を読み進めると、こんなフレーズに行き当たります。

『川越守二手記』より

 東宮大尉は現場の説明をしてくれた。

(筆者注 手記は図解であるが、要点は爆破要領の説明工兵中尉は同所にあって点火、謀略用支那苦力三名待機せしめであるなどのことであった。また点火地点はクロス地点を二百米はなれた満鉄堤防上の見張台となっていた)(P35)

(稲葉正夫『張作霖爆殺事件』 =『昭和三年支那事変出兵史』所収)

 つまり、川越大尉の認識は、尾崎少佐の現場見取り図と完全に一致します



 さらに言えば、加藤氏自身も、この「解釈ミス」に気がついていたと思われます

 加藤氏の本を読み進めると、最後の方になって、突然「川越手記」が再登場します。しかしそこでは、加藤氏は「解釈」を全く変えています。

加藤康男『謎解き「張作霖爆殺事件」』

 川越守二大尉の手記によれば、六月二日の夜、河本大佐は桐原中尉を同道させて鉄橋に爆薬の装置をした、とある。

 河本は桐原中尉を使って橋脚上部壁面に誘爆火薬を仕掛けさせたのではあるまいか

 機関車の中から押されたスイッチにより天井裏の爆薬が爆発、同時に橋脚壁の爆薬も誘爆して架橋内でエネルギーが増大され、あの大爆発につながったー。

 「川越手記」をもう一度見てみよう。


  六月二日の夜、河本大佐は工兵第二十大隊の中尉を同行して、満鉄クロスの満鉄の鉄橋に爆薬の装置を終り、午后十時頃旅館に帰った。(P232-P233)

 本夜はうまく火薬をクロスに装置して来た。専門家は立派な仕事をすると、工兵の中尉を誉められた。


 河本が特別に賞賛の言葉を掛けたほどの「立派な仕事」とは、線路脇に爆薬袋を少々積んで帰るだけのものであるはずがない。川越の手記から橋脚壁面にも装着したと理解するのが分かりやすい

 線路脇の偽装爆発とは別途に、本気の仕事が「仲介者」との間で約束されていたのではないか。気合いを入れて仕掛ける必要があったのだ。

 河本に督励された桐原のもうひとつの仕事、橋脚装着が案外重要だった可能性は否定できない。(P233)

 同じ資料を使いながら、前の「架橋下に近い橋脚脇あたり」(つまり列車の下方)という解釈を、いつの間にか「橋脚上部壁面」(列車の上方)に書き換えてしまっています

 つまり加藤氏は、自分が「河本グループの認識」として使用したはずの重要資料の「解釈ミス」を認めてしまっているわけです。

 「キーワード」ともいえる「下面」の文字を「うっかりミス」で落とす、とはちょっと考えにくいところです。

 本をほとんど書き上げたころになって、加藤氏が自ら「解釈ミス」に気づき、こっそりとこの語を削除した、という想像も、あながちありえないことではないでしょう。

 しかしその強引な辻褄合わせの結果、「京奉線路脇」「列車内上部」につづいて橋脚上部壁面に「第三の爆薬」がある、というとんでもないことになってしまいました。
※繰り返しますが、爆薬の位置は、当時の調査報告書の通り、「満鉄線路と橋脚上部の隙間」(または「鉄橋上」)と考えるのが最も合理的です。「橋脚上部壁面」にどうやって「土嚢」を取り付けるのか、ちょっと想像しにくいところではあります。


 ともかくも、「爆薬の位置の謎」は、すっかり解消しました。氏が「河本犯行説」を疑う最大の根拠は、消滅してしまったことになります。

(2019.5.1)


HOME 次へ