平頂山事件 ー中国人住民の無差別虐殺― |
満州事変一周年を間近に控えた1932年9月16日、撫順炭鉱附近の「平頂山村」において、日本軍による中国人住民無差別殺害が行なわれました。 「南京事件」などと異なり、この事件をめぐっては、「事実関係」についての議論はほとんどありません。 議論となっているのは、「殺害人数」、あとは「上官の川上大尉は事件に関与していたか」程度の、どちらかといえば副次的な論点です。 「殺害人数」については、中国側は「三千人」を主張しています。一方、右派の論客田辺敏雄氏は「四百−八百人」説を主張しています。 日本側のメディアでは、概ね「両論併記」で記述されることが多いようです。 以下、事件の経緯を追っていきましょう。 この事件のきっかけとなったのは、「匪賊」による、撫順炭砿への襲撃でした。 なおここでは「匪賊」と書きましたが、これは日本側から見た呼称(蔑称)であり、実態としては、日本の満洲支配に抵抗する「抗日反満ゲリラ」と呼んだ方が妥当でしょうか。 当時の満鉄関係者であった、久野健太郎氏の回想を見ましょう。
当時の新聞には、このように報道されました。
*ネットでは時折、この「襲撃事件」をもって「平頂山事件」を正当化しようとする暴論を見かけます。しかし、4名ないし5人の死者発生に対する「報復」として、 少なくとも数百人以上の民間人無差別殺害を行うことが果たして「正当化」できるかどうか、議論するまでもないでしょう。 余談になりますが、往年の大女優「李香蘭」(山口淑子)も少女期をこの地で過ごしており、この襲撃事件についての記述を遺しています。
この地を警備する日本軍の側から見れば、痛恨の事件であったことは疑いありません。翌日には、捕えた「匪賊」、あるいはそれと疑わしき者を処刑する光景が目撃されています。
こちらは「殺害」にまでは至らなかったようですが、先の李香蘭も、こんな光景を目撃しています。
さて、すっかり面子を失ってしまった日本軍は、「襲撃」の手引きをした犯人探しを始めます。満鉄関係者の手記からです。
この「手引き」が真実であったかどうかは、今日では確認のしようがありません。ただしこの「手引き」が事実であったとしても、平頂山村の住民無差別殺害の「正当化」の材料にはならないでしょう。 なお、このような「協力」があったとしても、中国人側から見れば「極く当然のことであった」とする見方も存在します。
ともかくも、「平頂山事件」は、このような「協力」への「報復」として発生しました。 田辺敏雄氏の紹介する、現場を体験した兵士の証言を見ましょう。
この「加害者」である日本軍兵士の証言は、中国側の「被害者」の証言とも、概ねのところで一致します。
そして現場指揮官であった井上中尉は、襲撃事件で死去した渡辺氏の遺族のもとに、「ご主人のあだはとりました」との報告を行っていたようです。
さて続いて、「事件」の事後処理、またその影響に話を移します。「事件」直後の「現場」は、こんな感じであったと伝えられます。
日本軍の放火により部落は焼き尽くされ、近くの現場には死体が充満している。そして次には、この現場の「死体処理」が問題となります。死体処理に関わった当時の満鉄社員の証言を、ふたつ紹介しましょう。
最終的には「ダイナマイト」による死体隠滅が行なわれたようです。そしてこの「現場」が戦後掘り返されて、その場所に「平頂山殉難同胞遺骨館」が建設されたのは、皆さんご承知の事実でしょう。 さて、「事件」が炭鉱労働者などの中国人に与えたショックは、大変なものでした。戦後、最初に「事件」を日本国内に伝えた森島守人氏は、「職場を捨てて集団的に引き揚げている」苦力たちの存在を報告しています。
小林実氏も、森島氏の記述を検証しています。
ここにいたら、いつ殺されるかわからない。この事件は、一時、炭鉱の操業に影響を与えるほどの恐怖心を、中国人従業員に与えました。 この「事件」は中国国内の新聞などに報道され、一時は国連の場でも問題にされかけますが、日本側は「事件」を否定し、とりあえずはうやむやになります。「事件」が蒸し返されたのは、終戦後の「戦犯裁判」でのことでした。 しかしその時、軍の関係者は既にこの地を去っていました。「事件」に責任のなかったはずの民間人の満鉄関係者が、その巻き添えを食うことになります。
彼らの「処刑」が冤罪であったことは、今日では定説となっています。 最後に、秦郁彦氏らの編纂になる「世界戦争犯罪史事典」の記述を紹介します。最もスタンダードな視点からのコンパクトな「まとめ」である、と見ることができるでしょう。
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