平頂山事件

ー中国人住民の無差別虐殺―


 満州事変一周年を間近に控えた1932年9月16日、撫順炭鉱附近の「平頂山村」において、日本軍による中国人住民無差別殺害が行なわれました。

 「南京事件」などと異なり、この事件をめぐっては、「事実関係」についての議論はほとんどありません。 議論となっているのは、「殺害人数」、あとは「上官の川上大尉は事件に関与していたか」程度の、どちらかといえば副次的な論点です。

 「殺害人数」については、中国側は「三千人」を主張しています。一方、右派の論客田辺敏雄氏は「四百−八百人」説を主張しています。 日本側のメディアでは、概ね「両論併記」で記述されることが多いようです。

 以下、事件の経緯を追っていきましょう。
 

 この事件のきっかけとなったのは、「匪賊」による、撫順炭砿への襲撃でした。

 なおここでは「匪賊」と書きましたが、これは日本側から見た呼称(蔑称)であり、実態としては、日本の満洲支配に抵抗する「抗日反満ゲリラ」と呼んだ方が妥当でしょうか。


 当時の満鉄関係者であった、久野健太郎氏の回想を見ましょう。
 
久野健太郎『朔風挑戦三十年』

 
事変の発端は紅槍会の勢力拡大の一環として、中秋の名月の夜、炭砿は休日のこととて、作業を休み、日満人のすべてが名月を愛で、月見で一杯組や、風流の月下に銘茶を味うなど、平和其のものの静かな夜であった。

 われわれ独身者は寮の談話室に集り、風流ならぬ一献を傾ける談笑の最中に起った。

 炭砿の全山が一斉放火による騒動が勃発したのである。

 匪族(紅槍会の略称)は中秋節の前夜、楊柏堡の部落に泊り込み、放火に必要な準備に万全を期するわけであるが、これには彼等が宿泊した工人宿舎の者達が、 採炭現場より着火材料と最適の塊炭を多数用意、これを職場より持ち帰った、掃除用ポロ布に包み電線で緊縛したものを多数用意した。

 強行に当り夫々編成された目的個所にて、石油缶に入れた重油の中に浸漬したものに点火し、選炭場・捲揚機室・修理工場・事務所等、炭砿の南側斜面の小高い場所にあったものを目標として、硝子窓を槍で突き破り、点火した石炭の火の弾丸を一勢に投入したのである。

 見事な計画により一瞬にして、南面一帯はグレンの焔に包まれたのである。

 非常呼集を受けて、新市街の中央にあった電灯部に駆けつける途中、大和公園の電車ホーム、電車の内から眺めた南方の山々は一線に火の川の観があり、これは容易ならぬものと思いながら事務所に着いた。

 電灯部は 炭砿の主要配電幹線と全社宅(日本人中国人用)其他の配電設備の管理運営の責任を持っていたので、其の被害と復旧に即刻手を打たねばならなかった。

 炭砿は選炭場を失えば命脈は止ったも同然である。果して其の被害は甚大だった。その影響するところ想像に絶するもので、当時の 楊柏堡採炭所長だった、渡辺寛一氏(東大電気出身)は現場事務所に急行中、匪賊に惨殺された。

 其の近くの日本人社宅への襲撃の報に備えて、夫々万全の警戒の人達の中で、電気のエキスパート瀧氏が痛しい犠牲者となったことも、実に恐しく且悲しい出来事だった。(P53〜P54) 



当時の新聞には、このように報道されました。

満洲日報 昭和七年九月十七日

撫順炭鉱に匪賊来襲

 わが軍匪賊を撃退し 厳重防御し作業

 満鉄社員六名死傷す


 撫順炭鉱大襲撃事件に関し十六日正午までに満鉄本社に入つた情報を総合すれば、突如楊柏堡部落より谷間の道を伝つて楊柏堡坑内に突入して来たものである、よつて撫順守備隊、警察署員および東郷坑の自警団員が防備につき激戦の後撃退した、

 賊はもと来た道を引返し再び楊柏堡部落附近に屯してゐるらしく、ここ一両日中はなほ危険状態にあり、炭鉱事務所では至急同方面に厳重なる防禦を施すこととなり、十六日夜直に作業に着手した

 我方の損害は号外所報と渡辺採炭所長の外に東郷炭鉱自警団員平島善作氏殉職し、東郷坑坑内主任土橋貞敏氏は重傷を負ひ合計満鉄社員の死者四名、重傷者二名である、 又社員家族では楊柏堡大瀧正夫氏の母堂が死去し他に重傷者二名ある

(二面トップ)


*ネットでは時折、この「襲撃事件」をもって「平頂山事件」を正当化しようとする暴論を見かけます。しかし、4名ないし5人の死者発生に対する「報復」として、 少なくとも数百人以上の民間人無差別殺害を行うことが果たして「正当化」できるかどうか、議論するまでもないでしょう。

 しかも「殺害対象」は、直接に「襲撃」に参加したわけでもない、せいぜい「ひょっとしたらゲリラに協力していたのかもしれない」程度の、部落の住民に対してのものなのです。 なおこのような無茶な論は、少なくともまともな論壇で聞かれることはありません。


 余談になりますが、往年の大女優「李香蘭」(山口淑子)も少女期をこの地で過ごしており、この襲撃事件についての記述を遺しています。
 
山口淑子『李香蘭 私の半生』より

 真夜中にゆり起こされ、眠い目をこすりベッドに身を起こすと、母の蒼ざめた顔がのぞきこんでいて、父は身支度をととのえて出かけるところだった。

 真夜中だというのに外がざわついている。 車が行きかい、人の呼ぶ声がする。

 「大変なことになるかもしれないの。キチンと仕度をして起きているんですよ。どんなことがあってもお母さんから離れるんじゃありませんよ」

 私は撫順女学校一年生に進学していて十二歳だった。弟と妹が四人いたが、まだ小さい。

 「淑子はお姉さんだから、しっかりするんだよ」と父は言いのこしてそそくさと出ていったが、 どのようにしっかりしてよいかわからない。

 何が起きたのか、母に聞いてもいっこうに要領を得ない。「お使いがきてお父さんは満鉄の事務所へいらっしゃったのよ」と言うだけでくわしい説明はしてくれなかった。

 母は、ヒナ鳥を抱擁する親鳥のように弟や妹たちを束にして抱きかかえ、まんじりともしない様子だったが、しばらくして私だけに、そっと窓のほうを指さしてみせた。

 おそるおそる窓辺にしのびより、音をたてないように気をつけながら、雨戸を細めにあけてみた。隙間に眼を押しつけてみると、夜空が真赤に染まっていた。

 建物の屋根が、そしてポプラ並木が影絵のシルエットのように黒く浮かびあがっていたが、その背景はえんえんと燃えさかる紅蓮の海である。

 火の舌先が遠い夜の空をなめまわすかのようだ。 火事だ! と思ったが言葉にならず、夏だというのに歯の根があわず震えがとまらない。

 幼な心にも、火の方角が、露天掘りの採炭場であることはわかったが、単なる火災事故ではない。

 ただの火事なら、そんなに近くでもないのだから、母がこんなに血相をかえるはずはない。

 しかも、街なかには煌々と電灯がつき、騒然とした雰囲気である。


 母子六人が抱きあっているうちに、火の手は次第におさまっていった。はげしかった火勢も色あせて暁の気配の中に吸いこまれていこうとしている。

 身ぢかには何ごとも起こらないままに夜が明けようとしていた。

(P29〜P30)


 この地を警備する日本軍の側から見れば、痛恨の事件であったことは疑いありません。翌日には、捕えた「匪賊」、あるいはそれと疑わしき者を処刑する光景が目撃されています。

田辺敏雄氏『追跡 平頂山事件』より  

 一夜明けても興奮は収まらず、炭鉱員は皆いきり立っていた。三上安美氏は早朝、他の数人と近くの村に行き、腹いせに鶏めがけてピストルを撃ったという。

  途中、不審な現地人を数人、殺害する炭鉱員を目撃している。この遺体は放置したままだったが、翌日 (?) 炭鉱の指示により埋めたという。(P218)


 
 こちらは「殺害」にまでは至らなかったようですが、先の李香蘭も、こんな光景を目撃しています。

山口淑子『李香蘭 私の半生』より

 窓を開けると周囲がにわかに騒々しくなり、おおぜいの男たちが声高に話しながら入ってきた。一行は憲兵と私服の日本人だった。

 その先頭に眼かくしをされ、 うしろ手に縛りあげられた中年の中国人が、縄尻をとった憲兵にこづかれ、ヨロヨロと歩いていた。

 中国人はその服装から苦力頭の感じだった。苦力とは中国人の下層労働者のことである。

 一行は苦力頭を広場の真中にある大きな松の木に縛りつけ、眼かくしをとった。中国人の顔は私のほうをむいている。

 私は、窓からおそるおそる異様な光景を見守っていたのだが、 その縛られた人の眼が私を見ているような気がしてならなかった。周囲に中国人、日本人がどんどんふえてきた。

 やがて鉄砲を持った憲兵が、大声で何かを問いただしはじめた。どなっているのはわかるが、その内容ははっきりしない。

 苦力頭は唇をかみしめて土気色の顔をそむけたまま、一言も答えようとしない。憲兵は、さらに大きな声でひとしきりわめいたが、やはり口を聞かない。

 憲兵の声はますます荒くなる。が、視線をそらしたまま、返事をしない。

 アッというまもなかった。憲兵は手にした鉄砲を逆さに持ちかえると、その台尻で中国人の額を力まかせに殴っていた。

 私が思わず眼をつむったときには、もう殴り終わっていて、 鉄砲が空間に描く大きな弧の残像だけが瞼に焼きついていた。

 つぎの瞬間、うなだれた姿勢の男の額からおびただしい血が胸をつたって流れた。


 苦力頭は、松の木に縛りつけられたまま体が崩れおち、その後は動かなかった。あの一撃で気絶したようだつた。

 静まりかえっていた群衆にざわめきがもどってきて人垣の輪が松の木にまた集まった。と、男の姿はかき消されるように見えなくなった。まるでその人の波が拉致してしまったかのように―。

 その人の輪が、縦に、横に、伸び縮みしながら、ガヤガヤと去っていったとき、広場にはもとどおり松の木だけがポツンと立っていた。

 いつも見なれた実業協会の広場、朝の低い日ざしが協会の建物の正面にあたり、白壁は白く、さえざえと輝いていた。

 私はあっけにとられて、ある種の錯覚に陥ってしまった。あれは悪夢だったんだ。目の前にあるのは、いつも見る朝の景色と同じ平和なたたずまいではないか―。

(P30〜P32)

 

 さて、すっかり面子を失ってしまった日本軍は、「襲撃」の手引きをした犯人探しを始めます。満鉄関係者の手記からです。

久米庚子氏『平頂山事件とその終末』より

 (2)楊柏堡所長の惨死

 昭和七年九月十五日夜半、匪賊の来襲は約千名位といわれているが、前述のようにこの夜襲によって渡辺所長をはじめ炭砿日本人社員数名が殺され、楊柏堡・老虎台・東郷・東岡採炭所等は事務所を焼かれるという重大な損害を受けたのである。

 各採炭所からの避難者は市の公会堂その他に数日間収容され、炭砿の機能は停止した。

 匪賊としては、撫順の中央突破に成功し大損害を与え、しかも満洲事変一周年を目前に控え、満洲国承認の当日という日に敢行したことは、 目的の一部を達成したというものであろう。

 一方守備隊はちょうど隊長K大尉が留守で兵力も少なかったという不意を突かれ、留守をあずかるN中尉としては耐えられぬ不覚をとったことは事実であった。

 同中尉の判断では、撫順内部にスパイがおって匪賊に警備状況が全部通報されていたと断定し、匪賊襲来の足だまりとなった平頂山部落民が最も怪しいと睨んで一個少隊を率いて同部落を調査したところ、 前夜の襲撃現場からの盗品が発見され、明かに部落民が匪賊と行動を共にした証拠だとの結論を得た。


(『撫順炭砿終戦の記』 P73〜P74)

*「ゆう」注 「K大尉」は「川上大尉」、「N中尉」は「井上中尉」を指します。「川上大尉」が本当に「留守」であったかどうかについては、論争があります。


 この「手引き」が真実であったかどうかは、今日では確認のしようがありません。ただしこの「手引き」が事実であったとしても、平頂山村の住民無差別殺害の「正当化」の材料にはならないでしょう。

 なお、このような「協力」があったとしても、中国人側から見れば「極く当然のことであった」とする見方も存在します。
 
小林実氏『リポート「撫順」1932』より

 襲撃中の混乱にまぎれ、メリケン粉等の生活物資を会社倉庫から、ちょっと失敬、した村民もあったことは、事実であったようだ。だが、記録からも証言からも、避難でからっぽになった社宅が荒らされた形跡はない。

 こうした協力者があったことや、火事場泥棒的行為は、中国人達にとっては、極く当然のことであったが、日本側は、仲間うちからの裏切りと判断した。はっきりいえば、「飼い犬に手を噛まれた」と逆上したようだ。(P76)
 

 ともかくも、「平頂山事件」は、このような「協力」への「報復」として発生しました。




 田辺敏雄氏の紹介する、現場を体験した兵士の証言を見ましょう。
 
田辺敏雄氏『追跡 平頂山事件』より

 藤野一等兵は夜が明けてからトラックの迎えで中隊にもどり、食事をした後に呼集がかかった。午前九時前後、あるいはもう少し遅かったかもしれない。引きつづき晴れ上がっていた。

 井上中尉は隊員を前に、これから工人部落に行き、全員抹殺するとの明確な指示を与えたと藤野氏は証言する。(P219)



 弾薬庫から銃弾をトラックに積んだ初年兵を主力とする四十余名は重機一、軽機三を携行し、三台のトラックに分乗し、中尉の意図する殺害予定地へと向かった。

 そこは谷あいになっていて、 以前採砂場だった所である。そこで重機を中心に、左右に間隔をおいて軽機を据えつけ、茶系統のカバーをかけ、隠しておく。

 中尉はその場で部落民を連行するように命じ、兵士は中尉と少人数の隊員を残し、徒歩で部落に向かった。写真を撮るという理由をつけ、部落より外に追い出したと藤野氏は記憶している。

 「たくさんいるなあ」と藤野氏は思った。部落民の後方に立ち、銃剣で追うように約五百〜千メートル離れた現場に連れていく。明るい太陽に照らされた人影が、くっきりと大地に映しだされていた。

 このとき、住民はすでに騒ぎはじめていた。だが連行中、殺傷等の行為は一切なかった。連行せよとの命令を兵は忠実に守った。

 一ヵ所に集められた住民はそこに座らせられる。 そして、中尉の「撃て」のピストルの合図により、カバーをはずし重軽機の射撃になったという。(P220)
 


 この「加害者」である日本軍兵士の証言は、中国側の「被害者」の証言とも、概ねのところで一致します。

楊占有の証言

 ・・・・私は家に帰って、昼食をとろうと思い準備をはじめていた。

 突然日本兵が現われ「おまえ達の写真を撮るから集まれ」「馬賊が又やって来る。早く避難しろ。」と大声でどなりだした。

 私は、馬賊と写真が何の関係があるのか、考える暇もなくあわてて飛び出した。何かよくないことが起るような気がしたが隠れようもなかった。

 そばにいた、二番目の兄が「みんな行くのだから我々もいこう」と言ったので南の方へ向った。私達一家は兄弟が6人で、その家族を合わせると24人だった。四番目の兄、楊占青だけが留守であった。

 通りは人々の叫びと流れで大混乱であった。日本兵は、足でけったり、銃床でなぐったりして人々を追いたてていた。

 隣家のお婆さんが、てん足で歩くのが遅く、銃剣で突きさされるのがみえた。ふり返ると火を付けられた家もあって、黒煙を上げて燃えだしていた。

「これはいったいどうゆうことなんだ?  なぜこのような禍がふりかかって来たんだ?」 と兄に小声でたずねた。兄はただ「分らん」と表情で答えた。

 私は悪い予感はしながらも、日本兵が我々に対して集団虐殺をおこなうなんて、夢にも考えなかった。

 追いたてられた我々は、日本兵に取り囲まれた。私は、兄弟家族22人と一緒に草地の上にすわった。

 私の前のあまり遠くない所に、三脚の上に黒い布をかけたものが置いてあった。 隣りにすわった人が「あれは写真機だ」と言ったので、ほんとうに写真を撮るのだと思った。

 しばらくして、日本兵が写真機の黒い布を取りはらった。

 誰かが、金切り声で「大変だ、これは機関銃だぞ。」と叫んだ


 "ダダダダ・・・・" 弾が一斉に飛んで来た。それからは、機銃の音と人間の叫び声とで、大きな爆発でもあったような大混乱になってしまった。

 私の妻が最初に倒れた。私も左腕に焼け火箸を刺されたような痛みを感じた。私は、倒れた人の下にもぐり込むようにして、銃弾を避けた。

 左腕の傷の痛みは、一層ひどくなった。それよりも苦しかったのは、私が弾よけにした死体から流れ出る血が口といわず、鼻といわず、はいり込み呼吸するのもままならなかったことであった。

 家族のものがどうなったのか顧みる余裕はなかった。狂ったような機銃の掃射がつづいていた。機銃の音が止み静かになると、あちらこちらで、うめき声がしだした。 しばらくすると日本兵が引き揚げて行くらしい車の音がした。

 と突然生き残ったものが、その場から逃げ出そうとした。しかし、日本兵は引き揚げてはいなかった。又、機銃がうなり出し多くの人が倒れた。再び機銃の音が止んだ時には、誰も動こうとはしなかった。

 うめき声がするなかで突然「ギャッー」と叫ぶ者があった。日本兵が死体の上からまだ息のある者を、銃剣や、日本刃で刺し殺し始めたのだ。私はいつ殺されるか分らぬ恐怖と戦いながら、惨劇の終るのをじっと待った。

 陽が沈もうとする頃、やっとあたりは静かになった。暗くなると平頂山村が燃え続けているのがよく分った。何時間こうしていたろう。霧雨が降り出した。私は今、その場の情況をどのように説明していいかわからない。

 私のそばで2名の女の子が無傷で助かっていた。不思議なことだが、あの混乱のなかでショックのあまり失神していたのが良かったのだろうか。

 私は一人を抱いて近くの高粱畑まで運び、もどってもう一人を連れ出した。 こうして暗閣のなかを、現場から少しずつ離れた。

 1ヶ月後、私は家族のうち、姪と甥の一人ずつ助かっているのを知った。又、親戚の越樹林(注 『中国の旅』での証言者の一人)も脱出に成功していた。

 この時、逃げることが出来ても途中で死んでしまった者もおり、完全に逃げることが出来たのは30〜40名であったと思う。・・・・

(小林実氏 『「平頂山事件」考』=『中国研究月報』1985年9月号)
 


 そして現場指揮官であった井上中尉は、襲撃事件で死去した渡辺氏の遺族のもとに、「ご主人のあだはとりました」との報告を行っていたようです。

『平頂山虐殺事件と私の両親』より

(略)

 九月十五日は日満議定書が調印された日。中国の抗日勢力がこの日に満洲のエネルギー最大の供給源、撫順炭鉱に一撃を加えたのであろう。撫順は一個中隊の守備隊がいるだけだった。

 攻撃は守備隊が最も警戒度を低く見ていた炭鉱住宅街の南側楊柏堡を中心に加えられた。ゲリラはこの方面の村に潜入集結し、夜半に行動を開始したと見られる。

 楊柏堡から日本人居住の市街まで二、三キロしかない。 日本側は採炭所周辺居住者は坑内や公会堂に避難させ、青年団員や中学三年生以上を招集して市街地への侵入を阻止した。

 小学生だった私はこのとき父寛一を失った。敵襲の中心楊柏堡採炭所長であり同方面の防備隊の司令であったため、深夜の急襲に単身かけつけ匪賊に刺されたのである。

  三十六カ所の槍傷を受け、火薬庫の前にアンペラの上に寝かされているのが見つかった。

 この戦闘で満鉄社員三人も戦死、二人負傷。家族も三人死傷している。

 守備隊の井上中尉が通夜に来て「ご主人のあだはとりました」と報告した。母と女学生の姉が聞いている。

 しかしそれがあの平頂山の村民皆殺しだったとは思いもしなかった、と母は言っていた。 「あんなむごいことを、あんなことまでしてほしくはなかった」と母が身を縮めて言ったのを覚えている。

 戦闘の場にステッキ一本持って出て行った父を殺した敵。しかしウラをかかれて日本人を殺されたからといって非戦闘員の婦女子まで皆殺しにするのは、人間の良心が許さなかったのだ。

 その母も七年前に死んだ。証人はなくなってゆく。

(与野市 渡辺槙夫 64 会社役員)

(『朝日新聞』1987年8月19日朝刊 第4面 「戦争 テーマ談話室」より)
 



 さて続いて、「事件」の事後処理、またその影響に話を移します。「事件」直後の「現場」は、こんな感じであったと伝えられます。

『リポート「撫順」1932』より

 事件後、現場に入った炭砿職員の山下貞は手記にその模様を次のように記している。

 (略)

 焼けた平頂山部落は土壁だけが残り例外なしに焼き尽くされて居た。

 只一つ関帝廟か何か知らぬがお堂が無事に残り、その壁にクレヨンで画いた仏画が貼ってあったのではぎ、取って持ち帰った。仏心でお堂には放火しなかったらしい。

 N中尉が大量虐殺し埋めた所ヘ行くと人の焼けたにおいと重油のにおいが鼻をつく。埋めた死体の上を歩くと何段か積み重なって居るので、ブカブカと足が浮き上るように感じた。

  あちらこちらに硬直した脚や腕が土の上に突き出て居た。


 その埋めた広さと積み重なった厚さで死体の数を概算すると七百五十人から千人であろうと計算した。

 何れも非戦闘員である。或は強制されて案内をした者もあったろうし極少数の内通者が居たかも知れないがこの村、この崖下の惨状を見てとんでもない大虐殺をしたものだと呵然としてこの惨劇現場を去った。 ( 『手記・敗戦地獄・撫順』)

(P97〜P98)


 日本軍の放火により部落は焼き尽くされ、近くの現場には死体が充満している。そして次には、この現場の「死体処理」が問題となります。死体処理に関わった当時の満鉄社員の証言を、ふたつ紹介しましょう。

久野健太郎氏「 朔風挑戦三十年」より

 この時銃殺された屍体を覆い隠すために、守備隊の命により時の在郷軍人が多数召集され、 ショベルを振って土砂による隠蔽作業に黙々と従事せざるを得なかったのが、井上中尉の独断専行による平頂山皆殺し事件の全貌である。

 自分は渡辺所長の殉職の現場を知って居り、この土砂による隠蔽作業終了後山頂を取り巻く、高圧鉄条網構築作業の施工責任者の一員だったので、現場の実体を知る者の一人ということが出来る。(P55)

*「ゆう」注 「井上中尉の独断専行」との語が見えますが、「独断専行」なのか、あるいは「川上大尉」等の上官が関与していたのか、ということをめぐり、今日でも「論争」が続いています。

久米庚子氏『平頂山事件とその終末』より

 当時私ども日本人社員もこの事件については「軍も困ったことをしてくれたものだ」と密かにこぼしながら、 防護隊員の手で死体に重油をかけて火葬にし崖の上に火薬をしかけて土砂を崩しこれを葬ったのであった。(『撫順炭砿終戦の記』 P74)
 

 最終的には「ダイナマイト」による死体隠滅が行なわれたようです。そしてこの「現場」が戦後掘り返されて、その場所に「平頂山殉難同胞遺骨館」が建設されたのは、皆さんご承知の事実でしょう。



 さて、「事件」が炭鉱労働者などの中国人に与えたショックは、大変なものでした。戦後、最初に「事件」を日本国内に伝えた森島守人氏は、「職場を捨てて集団的に引き揚げている」苦力たちの存在を報告しています。

森島守人氏 『陰謀・暗殺・軍刀』より

 新聞掲載を禁止していたため公にはならなかったが、昭和七年の十月撫順でも目にあまる満人婦女子の大虐殺事件があった。

 撫順警察から炭砿の苦力が職場を捨てて集団的に引き揚げている、徒歩で線路づたいに華北へ向かっているとの報告に接したので、真相を取調べると、同地守備隊の一大尉が、 匪賊を匿うたとの廉で、部落の婦女子を集めて機関銃で掃討射殺したとのことであった。

 この事件のあった少し前、内地の一新聞に満洲へ出征した一大尉の夫人が、夫君に後顧の憂いなく御奉公するようにとの遺書を残して白装束で自害したとの記事があり、戦時婦人の典型だとて評判になっているむねを伝えていたが、 件の大尉こそこの夫人の夫であった。

 当時インターナショナル・ニュゥズのハンター奉天特派員のみがこの事件を打電したが、ハンターは平素から外人特派員間で仲間はずれになっていたため、「ハーストの与太」として別に問題にならなかった。

 私は苦力が河北や山東へ着くころ、問題化すると考えていたが、はたして一ヵ月ばかりたつと撫順の大虐殺事件として中国新聞を大々的に賑わした。

 南京の総領事館は、私からの電報で真相に通じていながら、かえって中国新聞の大虐殺として外交部に正式に抗議していたが、公の問題とならない以上、成るべくこの種の事柄は、闇から闇に葬ろうと考えていた当時の心境を考えて、 慚愧の至りに堪えないし、こんな考え方がけっきょく日本を毒したものであった。

 太平洋戦争の数々の虐殺事件も帰するところ、日本人の正義感の低下に胚胎していた。(P84〜P85)

*筆者は、当時奉天総領事館勤務。


 小林実氏も、森島氏の記述を検証しています。

『リポート「撫順」1932』より

 しかし、調べてみると、撫順では想像をこえた混乱が起こっていた。それほど、平頂山の惨殺事件は在撫中国人に大きな衝撃を与えた。

 九月末から十月にかけて、撫順を逃れ華北に向かった中国人は、一万を越したものと推定される。

 事件の報道を禁止されていた新聞でさえ、「撫順を離れた中国人老工は全体の三分の一以上」と報じている。

(P95〜P96)


 ここにいたら、いつ殺されるかわからない。この事件は、一時、炭鉱の操業に影響を与えるほどの恐怖心を、中国人従業員に与えました。



 この「事件」は中国国内の新聞などに報道され、一時は国連の場でも問題にされかけますが、日本側は「事件」を否定し、とりあえずはうやむやになります。「事件」が蒸し返されたのは、終戦後の「戦犯裁判」でのことでした。

 しかしその時、軍の関係者は既にこの地を去っていました。「事件」に責任のなかったはずの民間人の満鉄関係者が、その巻き添えを食うことになります。


原勢二『炎は消えず』より

 日本人に対する報復の火の手

 しかしながらその平静は、長くは続かなかった。日本人の罪過に対する追求が叫ばれたし、日本人に対する制裁報復の手が伸びて来たのである。

 なかでも、平頂山虐殺事件は、中国人に対して日本人の犯した最大の罪業として、彼等の復讐心はこれに集中、その詮索の手は研ぎ澄ました鋭い槍先の様に、不気味であった。

  そうして遂に、二十二年六月、容疑者として、久保炭砿長以下十名の民間人が逮捕されるに至った。日本人送還を前にして人々は恐怖におののいた。

 前に述べたとおり、平頂山に於ける中国民衆の殺戮は明らかなる事実ではあったが、しかしこの事件は、土匪の襲撃に対する撫順守備隊の報復であり、炭砿当局の何等関与しなかったことである、 軍の命令によって炭砿は、その後始末をさせられただけであった。

 誅罰さるべきは某中尉であったが、軍関係者は、その後の長い戦争によって各地に離散し、消息は不明であった。

 真犯人を逸した中国側の憤懣は、ついに炭砿側に鉾先を向け、久保炭砿長をはじめ、十名の上に爆発した。国民党政府奉天軍事法廷は、屍体毀損その他の罪をもって七名に死刑を宣告した。

 終戦直後各地域で行なわれた戦犯裁判は、この奉天の場合と似たり寄ったりで、その処刑者の中には、無実の罪に問われた者が多かったという。

 これは戦勝者の単なる復讐の生賛となったものであり、 また一つには、日本人同志、上官や権力者の巧みな責任転稼の対象者となった犠牲者たちであった。(P196〜P197)

 彼らの「処刑」が冤罪であったことは、今日では定説となっています。



 最後に、秦郁彦氏らの編纂になる「世界戦争犯罪史事典」の記述を紹介します。最もスタンダードな視点からのコンパクトな「まとめ」である、と見ることができるでしょう。

「世界戦争犯罪史事典」より

 平頂山事件

 満州事変勃発の一周年、満州国建国から半年後にあたる一九三二(昭和七)年九月、満鉄の撫順炭鉱を警備する日本軍守備隊が、近くの平頂山集落の中国人住民を大量殺害した事件。

 事件の誘因は九月一五日深夜から翌一六日未明にかけて、元小学校長の王彫軒(第一一路軍司令)がひきいる約二〇〇〇人の反満抗日ゲリラ(遼寧民衆自衛軍)が撫順炭鉱を襲撃したことにある。

 この時期に反満抗日ゲリラは急増しつつあり、総数三〇万人に達していたといわれ、日本軍は抗日ゲリラとの戦闘に明け暮れ、消耗をしいられる日々がつづいていた。

 日本側でも、ある程度、ゲリラの襲撃を予想していたようである。九月八日の段階で日本軍の騎馬斥候が包囲攻撃されて、捕虜となった軍曹が惨殺され、さらしものにされた。 こ

 のため、撫順守備隊(独立守備隊第二大隊第二中隊、中隊長川上精一大尉)ばかりでなく、在郷軍人で構成された防備隊と警察隊が共同して警備態勢を布いていた。

 九月一三日、ゲリラの先遣隊が到着、抗日ゲリラ側は、部隊を東部・中部・西部の三つの攻撃隊に分け、楊柏堡採炭事務所と日本人社宅を襲撃、日本軍守備隊を撃滅したのち、市街地を攻撃占領する計画を立てていた。

 しかし戦闘は、梁錫福副司令の率いる大刀会を中心に構成された中部攻撃隊のみが襲撃に成功、家屋施設に放火したものの、鉱区深く侵入しすぎたため、火力に勝る日本側に包囲、撃退された。

 この襲撃で、渡辺寛一楊柏堡採炭所長ら日本人職員など五人が殺害され(別に重傷六人)、工場および日本人家屋などが焼失した。被害総額は、二一万八一二五円、時価に直して約一億七〇〇〇万円とされる。

 襲撃に対応して撫順守備隊は九月一六日正午頃、ゲリラが出撃した楊柏堡村付近の平頂山集落をゲリラをかくまったとして包囲し、以後の見せしめのため掃討した。

 いわゆる平頂山事件は、撫順守備隊の井上小隊(四十数人)が平頂山集落の全住民を一ヵ所に集めて、機関銃掃射により殺害した虐殺事件である

 そして、残された死体は、死体の山を築き、重油をかけて焼いたものの処理しきれず、 翌日にダイナマイトで崖を爆破して土石の下に埋めた。

 住民の被害者総数は、中国側の推算で三〇〇〇人ともいわれ(日本側は四〇〇ないし八〇〇人と主張)、約四〇〇世帯の集落が一夜のうちに消滅したとされる。
  
 この虐殺は、久保孚(まこと)炭坑次長、山下満男撫順公署参事官の反対を押しきって川上大尉が主導したとされるが、大尉は不在だったともいわれ、真相は明らかでない。

 日本側の記録のなかでは、川上中隊の第一小隊長井上清一中尉を、 出征に際して夫人が後顧の憂いなきよう自刃したという「美談」にからめ、首謀者とする記述もあるが、彼がこれだけの規模の掃討戦を指揮したかは疑問である。

 本事件は、一九三二年一一月二四日、ジュネーヴの国際連盟で中国の顧維釣首席代表が問題にしたが、日本側の強硬な態度と中国側の追及不足でうやむやとなり、川上大尉も事件から七カ月後に撫順を離れ、真相は隠蔽された。

 平頂山事件は、日本の敗戦後、生存者の証言等によりはじめて内外に知られ、ソ連に続いて撫順を接収した国民政府のもとで一九四八年四月一七日、国民政府主席東北行轅審判戦犯軍事法廷において、 前述の久保、山下の両人を含む撫順炭坑職員六人と撫順警察署警察官一人の合計七人が死刑判決をうけ、銃殺刑に処せられた。

 この七人は、直接の下手人ではなかったが、国民政府と中国共産党との対立のなかで、刑の執行が急がれた。

 重要な証人でもあった川上元大尉は一九四六年六月一二日、宮城県荒浜から戦犯容疑者として東京へ連行される直前、 服毒自殺している。

 このため虐殺の事実は、その遺跡から判明するものの、実行過程については明らかにできないままとなっている。

 現在、現地には、平頂山殉難同胞記念碑(一九五一年建立)とともに平頂山殉難同胞遺骨館があり(一九七二年九月一六日開館)、掘り出されたままの遺骨群を展示している。

 二〇〇二年六月二八日、東京地裁は、事件の生残り(当時は四−八歳)三人の国家賠償請求を棄却した。(小池聖一)

 
(2007.1.13)

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