盧溝橋事件

 中国共産党陰謀説


 ネットに「盧溝橋事件」が登場する時、必ずといっていいほど持ち出されるのが、いわゆる「中国共産党陰謀説」です。

 しばしば混同されるのですが、「陰謀説」には、

<タイプ1> そもそも「盧溝橋の第一発」は、中国共産党の陰謀であった。

<タイプ2> 「第一発」の犯人が誰であったかはともかく、中国共産党は中国が日本と戦争に突入することを望んでおり、そのために「事件」の拡大過程において「陰謀」を張り巡らせた。


という二つの型があります。

 掲示板などでは、<タイプ1>と<タイプ2>の違いを意識しないまま、根拠の薄い方である<タイプ1>の主張を行なってしまう方が多いようです。

 私見では、<タイプ1>は、根拠が薄い、極言すれば一種の「伝説」に近いもの、と言ってよいと思います。

 <タイプ2>については、中国共産党が「事態の拡大」を望んでいたこと、中国側の現地軍である「第二十九軍」に多数の秘密党員を送り込んでいたことまでは「事実」と言うことはできても、果してそれが「陰謀」と呼べるレベルのものであるかどうかは微妙、ということになろうかと考えます。

 以下、「陰謀説」について、その根拠とされているデータ群を個別に検討していきましょう。



< 目 次 >


 
タイプ1
<その1>
 葛西氏の見た「戦士政治課本」

 葛西氏が見た中国人民解放軍の『戦士政治課本』なるテキストに、「七七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」との記述があった、というものです。

 ネットでは、最もポピュラーな「陰謀論」でしょう。

葛西純一『新資料 盧溝橋事件』より

 序に代えて

① 私が盧溝橋事件の仕掛人は中国共産党(北方局第一書記胡服こと劉少奇)であると初めて知ったのは、一九四九年(昭24)十月一日の北京政権誕生直後、河南省洛陽市西宮に駐屯する中国人民解放軍第四野戦軍後勤軍械部(兵器弾薬部)第三保管処に現役将校(正連級、日本の大尉に相当)として勤務している時であった。

 その頃、閉された中国大陸は『人民中国』の誕生にわきかえっていた。

 中国人民解放軍総政治部発行のポケット版『戦士政治課本』(兵士教育用の初級革命教科書で、内容はいずれも中国共産党の偉大さを教えるものばかり)は、
七・七事変(葛西注=中国では盧溝橋事件を一般にそう呼ぶ)は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもので、これによってわが党を滅亡させようと第六次反共戦を準備していた蒋介石南京反動政府は、世界有数の精強を誇る日本陸軍と戦わざるを得なくなった。その結果、滅亡したのは中国共産党ではなく蒋介石南京反動政府と日本帝国主義であった」

 と堂々と述べ、また次の記述もあった。
「同志諸君、このように中国共産党はいかに滅亡の瀬戸際に立たされても、断じて滅亡することはない。マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリン主義、毛沢東思想で武装された中国共産党は、限りなき手段を有する不滅の政党である。諸君はいかなる困難に直面しようとも、中国共産党を信じ、無産階級と人民の利益を守るため前進しなけれはならない」

 昭和28年から翌29年(一九五三〜五四)にかけて、いわゆる中共帰国船(興安丸、白山丸、自竜丸)で約三万二千人の日本人が帰国したが、「国共内戦で帰国のチャンスを失った日本人居留民」と北京放送の伝えたあの日本人たちは、実は中国革命戦争に八年間も従軍した革命者なのであった。

 彼ら三万二千人は殆んどが中国語の『戦士政治課本』を読みこなせたし、或る者は、

「日中戦争が中国共産党の仕組んだものだったとは・・・」

と憤慨もした。


 しかし、帰国後は誰もそのことを口にしなかった。

 第一、八年間も遅れて帰国したのでは食うのに追われたし、一部の者は日本共産党に入党して『日本人民共和国』の指導者を夢み、或る者はいとも要領よく『日中友好貿易』で一山当てようと走りまわった。

 ごく少数だが、逆に日本軍部の在中国犯罪を書いて原稿料を稼ぐ者もいた。

 要するに大部分の中共帰国者は食うのに追われ、一部の者は時流に流され(或いは進んで迎合し)、誰一人として盧溝橋事件が中国共産党の仕掛けた高等戦術であると中共軍内で公言されている事実を、国民に語ろうとはしなかったのである。

(P6〜P7)
 


   しかし、このテキストは、葛西氏以外に現物を確認した人は誰もいないようです。秦郁彦氏が、そのあたりの経緯を詳述しています。

秦郁彦『昭和史の謎を追う 上 』より

第七章 盧溝橋事件(下)

 (略)

 著者によれば、一九四九年末、洛陽勤務時代に中共軍兵士へ無料で配布される「戦士政治課本」なる「ポケット版の薄っペらな教本」を読んだ。「救国英雄・劉少奇同志」という題名だったそうである。

 引用された内容はすでに紹介したものと同工異曲なので省略するが、いずれも日本訳の要旨で、中国語の原文やその写真版があればぜひ拝見したいものだが、それを見た人はいないようだ。

 しかも同じ本に一間一答の形式で、
 その証拠文献を今見せて貰えないか。
 今は所持していないが、某所に保管してある。もし北京政府が「そうした事実はない」とシラを切ることがあれば、内外記者団に公開するし、私は北京と対決する。
 というくだりがあるのを見ると、著者は帰国のさい、現物を持ち帰ったととれる。

 筆者はついに葛西に会う機会がなかったが、名越二荒之助は生前に本人に会って申し入れたところ、「銀行の貸金庫に入っている」といわれ、現物は見せてくれなかったそうである。

 晩年の葛西と親しかった人に戦争中、北支那方面軍の特務機関員だった塩田喬がいる。

 塩田の記憶によると、葛西は半月刊紙『れいめい新聞』を発行し、中共謀略説を書きまくっていたが、周恩来が二百万円で買収に来たのを断わったため、いつ殺されるかわからない、と話していたそうだ。

 そのうち現物は「君にゆずる」と約束したが、見せてもらわないうちに急病で亡くなってしまい、未亡人と一緒に心当りの貸金庫を探したが、見つからなかったという。

 もはや政治課本の現物が出現する可能性はなく、むしろ現物は持ち帰っていない、あったとしても葛西は洛陽時代にそれらしい記述を読んで、おぼろげな記憶を頼りに復元を試みたのではあるまいか、と筆者は推測する。

(『昭和史の謎を追う 上 』 P154〜P155)


 なおその後、『戦士政治課本』というテキストは、存在自体は確認されたようではあります。ただし、内容は依然として「不詳」とのことです。

安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』より

 第四は、『抗日戦士政治課本』の存在が確認されたことである。

 この本については、かつて葛西純一氏が、『新資料盧溝橋事件』(成祥出版社、一九七四年)において、人民解放軍総政治部『戦士政治課本』の盧溝橋事件記述を「中国共産党謀略」説の論拠の一つとしてあげて以来、その所在が注目されていたが、中共中央文献研究室編『毛沢東年譜』中巻(人民出版社、文献出版社、一九九三年)の二三二頁の注にこの本についての言及が見られる。

 
しかし、その内容については不祥。

(P207〜P208)

 いずれにしても、「三万二千人」が見たテキストであるにも関わらず「内容」について言及しているのは葛西氏だけ、かつその記述を他に確認した人がいない以上は、これを「決定的証拠」とすることはできないでしょう。



2009.8.15追記

 その後、中国国内で、「戦士政治課本」に関する記事が掲載されたようです。私には現物は確認できませんので、『出版ニュース』掲載の記事から紹介します。

『海外出版レポート 中国』より

蘆溝橋事件の下手人は劉少奇? 島崎英威

 広東省最大の夕刊紙「羊城晩報」の5月15日版に面白い記事が掲載された。

 曰く「盧溝橋事件を引き起こしたのは中国共産党の幹部・劉少奇元国家主席であったとする日本人の説に対して、中国共産党側のいい加減な記録が原因になっている」と報じた。日本人の説とは、主に葛西純一著『新資料 盧溝橋事件』(1974年、成祥出版社刊行)を指しているようだ。

(中略)


「荒唐無稽」ではあるが

 羊城晩報の論説は、「盧溝橋事件は共産党が画策した。その責任者は劉少奇であった」とする日本側の説を「荒唐無稽」としながらも、「日本側が論拠もなしに、このような主張はしない」と認めている点が面白い。

 当時劉少奇は5月に北京から延安に戻っており、北京で盧溝橋事件を引き起こした可能性はないとする。

 ただし、日本側が論拠とした『戦士政治課本』は、確かに「劉少奇が盧溝橋で日本軍と戦った」と書いてあると認めている。

 羊城晩報はこの間の事情を「事実を無視した政治資料が、中国に災いをもたらした」として説明している、論説は『戦士政治課本』の記述は、「中国人の伝統的ないい加減さであり、物語を作って兵士を鼓舞しようとする伝統的なやりかたである」と論じている。

 さらに「日本人はまじめだ。相手側が自らの指導者がやったと書いている以上確実な証拠だと考える」と主張している。

(『出版ニュース』 2009年6月下旬号 P27)



 これを見ると、「戦士政治課本」に「劉少奇」の名が出てきたことは事実であるようです。

 しかしその内容は、上を見る限り「劉少奇が盧溝橋で日本軍と戦った」までで、葛西氏の言うように「七・七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」とまで踏み込んで書いてあるかは、不明です。

 そして上の記事によれば、当時劉少奇は北京にはいなかったはずです。

 秦郁彦氏も、 「しかし、その劉は一九三七年四月、延安へ引きあげ、五月の全国代表者会議と白区代表者会議に出席、報告したあと北京周辺には戻っていない」と述べています。

 結局のところ、「戦士政治課本」の記述に根拠はない、ということになるでしょう。
 

タイプ1
<その2>
 中国共産党の「通電」

 盧溝橋事件の翌日8日には、もう中国共産党が全国に向けて「抗日」を呼びかける「通電」を流していた、とするものです。

 あまりのタイミングの良さから、中国共産党は事前に「事件」が起きることを察知していたのではないか、という主張が行なわれていますが・・・。

 まず、「通電」の内容を見ます。

『中共中央 日本軍の蘆溝橋進攻に際しての通電』

  全国の各新聞社・各団体・各軍隊・中国国民党・国民政府・軍事委員会および全国の同胞諸君。

 七月七日夜一〇時、日本は蘆溝橋において中国の駐屯軍馮治安部隊に対し攻撃を開始し、馮部隊に長辛店への撤退を要求した。

 馮部隊では衝突の発生を許さなかったため、目下双方はまだにらみあいをつづけている。

 蘆溝橋における日本侵略者のこの挑戦的行為の結果、ただちに大規模な侵略戦争にまで拡大されるか、あるいは外交的圧迫という状況をつくりあげ、それによって将来における侵略戦争への導入とするかのいずれをとわず、北平・天津と華北に対する日本侵略者の武力侵略の危険性はきわめて重大なものとなった。

 この危険な情勢はわれわれに、これまでの日本帝国主義による対華新認識・新政策といった空論が中国に対する新攻撃の準備を隠す煙幕にすぎなかったことを教えている。中国共産党は、すでに早くから全国の同胞にこの点をはっきりと指摘してきたが、今やこの煙幕は取り除かれた。日本帝国主義の北平・天津と華北に対する武力による占領の危険は、すでに一人ひとりの中国人の目前にまで迫っている。

 全国の同胞諸君! 北平・天津危うし、華北危うし、中華民族危うし。全国民族が抗戦を実行してのみ、われわれの活路がある! 

 われわれに攻撃してくる日本軍に対しただちに断固たる反撃を加えるよう要求するとともに、新たな大事変に即応する準備をただちにすすめるよう要求する。

 全国の人びとは上下をとわず、日本侵略者に一時的な和平や安息を求めようとするいかなる希望や思惑をもただちに放棄しなければならない。

 全国の同胞諸君! われわれは、馮治安部隊の英雄的抗戦を称賛し支持しなければならず、われわれは、国土と存亡をともにするという華北当局の宣言を称賛し支持しなければならない。

 われわれは、宋哲元将軍がただちに二九軍全軍を動員して前線に赴き応戦することを要求する。

 われわれは、南京中央政府がただちに二九軍に適切な援助を与えるとともに、ただちに全国民衆の愛国運動を開放し民衆の抗戦士気を発揚させるよう、また、ただちに全国の陸海空軍を動員して抗戦の準備をととのえ、中国領内に潜伏している漢奸・売国奴らと日本侵略者のすべてのスパイをただちに一掃し、後方を強固にするよう要求する。

 われわれは、全国人民が全力をあげて神聖な抗日自衛戦争を支援するよう要求する。

 われわれのスローガンは―

 武装して北平・天津を防衛しよう!
 華北を防衛しよう!
 寸土たりとも日本帝国主義の中国占領を許さない!
 国土防衛のためには最後の血の一滴まで捧げよう!
 全国の同胞・政府・軍隊は団結して民族統一戦線の堅固な長裁を築きあげ日本侵略者の侵略に抵抗しよう!
 国共両党は親密に合作し、日本侵略者の新たな攻撃に抵抗し、日本侵略者を中国から追い出そう!

中国共産党中央委員会
一九三七年七月八日

(日本国際問題研究所中国部会編『中国共産党史資料集 第8巻』 P434〜P435)


   この「通電」を、「中国共産党陰謀説」の疑惑の大きな根拠であるとしているのが、岡野篤夫氏です。

岡野篤夫『蘆溝橋事件の実相』より

 七月八日にこの電報を延安から全国に発信したとすると、まずその手回しのよさと電文の行きとどいていることに一驚を喫せざるを得ない。

(略)

 この通電はあらかじめ準備されていたのではないかと思わざるを得ない。とすると蘆溝橋の一発もあらかじめわかっていたのではないか。

 
打ち合せ通り実行したという通知があり次第、それっとばかりにかねて用意の電文を発信出来たのではないか。(P282、P283)


 しかしそもそも、電報は「八日付」とはなっているものの、本当に八日に発信されたのか。

 「全国各新聞社」や「各団体」などに対して発せられたはずなのですが、八日時点でこれを受電した、という中国国内の記録はないようです。

 安井三吉氏の研究によれば、実際に「通電」が世に出た記録が残るのは七月十三日以降とのことであり、これは日付を遡って作成された文書なのではないか、という疑いが持たれます。

安井三吉『盧溝橋事件』より

 しかしながら、この通電は、国民党地区のどの新聞社、団体、政府・党の機関でどのような反応を以て迎えられたのかは不明である。

 また、さまざまな回想録にも、八日あるいは九日に、この電報を受け取ったとか、あるいはこれに関するニュースを聞いたという話が出てこない。

 ・・・この通電が一般の人々の目に触れるのは 七月十三日の後のことと言えよう。 (P286〜P287)

*「ゆう」注 厳密に言えば、当時外務省にいた上村伸一氏が、八日の朝に「通電」を目にして、「昨夜の発砲は中国共産党の仕業だなと直感した」との記述を残しています(『破滅への道』P67)。これに対して安井氏は、『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』の中で、当時同じく外務省にいて「事件の拡大防止」に力を尽くした石射猪太郎氏がこの件については何も記録していないこと、外務省の内部文書に「通電」のことが登場するのが七月二○日以降でありそれ以前に外務省がこれを把握していた気配がないことから、これは上村氏の記憶違いであろう、と推定しています。


 秦郁彦氏も、種々のデータを検討した上で、「通電が多くの読者に伝わったのは、十二−十三日頃と推定してむりはないと思う」(『盧溝橋事件』P280)と、安井氏に賛意を表します。


 またこの電文は、内容的にも、従来の中国共産党の主張の範囲を超えるものではありませんでした。例えこの「通電」が実際に八日に発せられたものだとしても、中国共産党が「事件」を予め察知していた、とまで言い切ることはできないでしょう。

秦郁彦『昭和史の謎を追う 上』より

 この通電がどんな手順で発出されたかは不明だが、事件の詳細がはっきりしない早い時点だったため、従来から中共謀略説の有力な傍証として、しばしば引用されてきた。

 だが、通電の主旨は以前から中共党が主張してきた路線の延長線上にある。

 試みに中共党北方局が、事件の一年前に発した「抗日救国宣言」(一九三六・三・一〇)を見ると、「日本帝国主義は、単に華北を奪わんとするのみならず、全中国を奪い取り、中国の独占を企図している」とか「すべて団結して売国賊蒋介石を討伐し、中国から日本をたたき出せ!」とか「抗日連軍を組織しろ」のような表現が散見される。

 七月八日の通電と比較すれば、蒋政権、宋哲元政権に対する姿勢が抗日連軍の成立によって変っただけで、抗日を軸とする対日基本姿勢にはいささかの変化も見られないのである。

 通電の早さと激越性から第一発の犯人に結びつけるのは、いささか無理というものだろう。


(P171)


安井三吉『盧溝橋事件』より

 中共が、保安あるいは延安から、中国の各地各機関に「通電」を打つということは、これまでもしばしば行なってきたことである。・・・この「通電」を以て「中共謀略説」を云々することはあまり根拠がないと言うべきであろう。

(P289〜P290)



タイプ1
<その3>
 桂鎮雄氏の証言

  桂氏は、極東軍事裁判で、弁護側証人として証言台に立ちました。その時の、体験談です。
 
桂鎮雄『盧溝橋事件 真犯人は中共だ』 より

(支那駐屯歩兵第二連隊陸軍中尉)

 昭和二十二年四月、筆者は東條、梅津両被告の弁護側証人として呼び出され、二十一日渋谷区西原の指定宿舎へ着いた。

 そこには私の元連隊長萱嶋中将(四月二十五日出廷)や元ニ九軍顧問桜井徳太郎中将(四月二十二日出廷)らが先着していた。

 桜井氏から聞いたところでは ― 、

 中国側梅汝■判事の要請で、私に求められる証言は二つ。一つは盧溝橋事件、いま一つは、いわゆる通州事件との事であった。すぐ証言の準備にかかった。

 ところが二日後の二十三日夕刻、梅判事が宿舎へ来て会議が聞かれた。

 そして曰く、

 「桂証人は盧溝橋の証言をとりやめ、通州事件のみを証言せよ」

 私は驚いた。理由を聞いたが答えてくれないまま、判事は急いで立ち去った。

 四月二十五日、筆者は証人席に立った。通州事件のみの証言を求められ、筆者の口供書をレヴィン弁護人が代読した。

 反対訊問は少く、ウエップ裁判長から訴因四つ全部の採用を宣告せられ、退廷を命じられた。

 その場でキーナン検事を睨みあげ、東條、梅津被告ら全員の方に、最敬礼しながら「頑張って下さい」とお訣れをした。

 二階の傍聴席に河辺旅団長の姿が映った時、巣鴨プリズンから釈放された事を知って喜んだ。

 後で知った事であるが ― 筆者が、盧溝橋事件の証言を拒否された直接の動機は、その直前に中共の劉少奇副主席が、

「七・七事件の仕掛人は中国共産党で、現地責任者はこの俺だった」

と証拠を示して西側記者団に発表した事に因ったものだった。慌てたのは法廷検事団で巣鴨プリズンに拘置中の河辺、牟田口両氏は理由も告げられずに釈放されたとの事であった。


 この事件は中国側が、柳条溝の二の舞いとして日本軍の謀略を立証すベく凡ゆる資料と証人とを繰り出した。

 秦徳純という前二九軍長にして、現国防部次長〈昭和二十一年七月二十二日証人台に立った〉ですら、日本軍の謀略はもとより、日本軍が先に発包したと言う証拠も示し得ずタジタジとなっていた。

 弁護側は、「中国側の発砲に交って暗夜、両軍対峠の中間に潜入した中共軍が日支双方へ同時発射をしたのではないか」と主張し、その証人として筆者を出廷せしめんとしたその矢先に、劉少奇の声明が発表せられて検事側の敗けが決定的となったわけである。

 その結果、検事、判事側の会議で、盧溝橋審議は、これ以上は不問とし筆者の証言は不要となったと思われる。河辺正三元旅団長はあとで、

「あれほど日本の不利を暴露した東京裁判でも、日本側発砲の事実を唯一回も証拠づける事が出来なかった。日本軍が先に発包(ママ)しなかった事は天地神明に寄って私は断言する」

といわれた。

(『文藝春秋』1988年7月号 P132〜P133)



 しかし、これに対して秦氏は、「妄想以外の何物でもなさそうだ」と手厳しい評価を下しています。

 まずそもそも、このような「記者会見」の記録がどこにも存在しないようです。

 さらに、「記者会見」を開いたはずの劉少奇は、当時、「山間の悪路を逃避中」だったと推定され、「記者会見どころではなかった」と見られる、とのことです。
 
秦郁彦『昭和史の謎を追う 上 』 より

 東京裁判の桂証言

 桂は陸士四十六期生、盧溝橋事件の頃、陸軍中尉で支那駐屯歩兵第二連隊に所属していた元少佐である。

 この連隊は天津に駐屯していて、事件発生から二十日後に北京周辺へ前進、冀東カイライ政府の保安隊が反乱を起こし日本人居留民を殺害したいわゆる通州事件(七月二十九日)に出動した。

 盧溝橋事件の当事者ではないが、氏が奥野論文とセットの形で『文藝書秋』の一九八八年七月号に寄稿した「盧溝橋事件真犯人は中共だ ― 私は東京裁判で本件の証言を中止させられた」の要旨を紹介しておこう。
 
1 桂は一九四七年四月、東京裁判に東条、梅津両被告の弁護側証人として呼び出され、盧溝橋、通州両事件の証言準備にかかった。

2 四月二十三日、中国の梅検事が宿舎に来て、理由を説明せず、盧溝橋の証言を中止するよう求めた。二十五日、通州事件について法廷で証言した。証言中、二階の傍聴席に河辺旅団長の姿を見た。

3 後で知ったが、証言中止の理由は、その直前に中共の劉少奇副主席が「七・七事件の仕掛人は中国共産党で、現地責任者はこの俺だった」と証拠を示して西側記者団に発表したためであった。

4 劉少奇発表にあわてた法廷検事団は、直ちに巣鴨プリズンに拘置中の河辺、牟田口(盧溝橋の現場にいた支那駐屯歩兵旅団長と歩兵第一連隊長)の両人を理由も告げずに釈放した。

5 以上の体験は葛西純一の著書を読んで符合することがわかった。

6 昨年訪中した同期生の三岡健次郎に余秋里(前解放軍総政治部主任)へ、「政治課本」をもらってくれと依頼したが、拒絶された。

 
 さて、この桂論文が成り立つものかどうか、検討してみる。

 まず、1、2だが、東京裁判の速記録によると、この時期に河辺正三(巣鴨プリズン拘置中)、橋本群(支那駐屯軍参謀長)、桜井徳太郎(第二九軍顧問)の三人が出廷して、盧溝橋事件について証言している。

 いずれも事件直後の七月九日から数度にわたり対峠している日中両軍の中間で、両軍に向かって射撃したり、爆竹をあげて挑発を試みた者があり、両軍が共同調査で確認したと述べ、とくに橋本証人は「これは中国学生か共産分子らしいとの風聞を耳にした」と容疑者を指名している。

 桂談によると、彼はその時に旧知の桜井から同主旨の証言を求められたという。

「私は現場にいなかったし、初耳の話だし、なぜ第一連隊の人に証言させないんですか」と聞くと、桜井は「第一連隊には適当な人が見つからんのだ」と答えた。

 桂は偽証する後ろめたさに悩んだが、二日後に証言不要となってほっとしたそうである。

 証言中止と河辺、牟田口釈放の理由を聞いたのは桜井の口からだが、桂はなぜ劉少奇の記者会見なるものが新聞に出ないのか、ふしぎに思い、それから三十年後、思い出して新聞の縮刷版をくってみたが、やはり発見できなかったという。

 では日本の新聞が掲載しなかったとしても、この種の記者会見や発表がありえたかとなると、まずありえないと考えてよい。

 
なぜなら、この時期の中共党は国共停戦が破裂して首都の延安を胡宗南の国府軍に占領され、毛沢東以下の幹部は周辺の山間部に四散していて、 記者会見どころではなかったからだ。

 彭徳懐の回顧録によると、毛は三月十八日夕方首都防衛を彭に任せて小型機に乗り延安を離れたが、翌十九日に延安は陥落、奪回するまでに一年を要した。

 このとき党中央委員会は二手に分れ、劉少奇は朱徳らとともに、難行軍ののち河北省平山県に移ったらしい。

 有名な紅軍の大長征ほどではないにしても 、桂証言の時機に劉は山間の難路を逃避中だったはずである。

 河辺、牟田口の釈放に関する記述も完全な誤認であろう。

 一九四五年十二月に逮捕拘留された河辺が巣鴨から釈放されたのは四七年九月、牟田口の方は四六年九月英軍の戦犯容疑でシンガポールへ送られ、四八年三月十二日、呉へ送還(いずれも当時の新聞報道)されているから、劉少奇発言との因果関係は成りたたぬ。

 このように見てくると、桂説は妄想以外の何ものでもなさそうだが、火のないところに煙は立たぬとすれば、誤認、誤伝を生み出す何らかの実体があったのではないか、とも考えられる。

 そこで少し視角を変え、広い意味での中共謀略説らしきものがありえたかどうか、もう少し 追究を続けてみたい。

(『昭和史の謎を追う 上 』P155〜P158)
 




タイプ1
<その4>
  「成功了」の電報

2009.2.28追記分 本コンテンツ作成当時は、あまりにマイナーな説であるために無視していたのですが、ネットの掲示板でこの説を取り上げている方を見かけましたので、念のために触れておきます。

 平尾治という方が記した、『或る特種情報機関長の手記-我が青春のひととき−』に、北京から延安の中国共産党軍司令部に対して「成功了(うまくいった)」という無線が流れたのを傍受した、というエピソードが登場します。

 このエピソードを、「中国共産党陰謀論者」である坂本夏男氏が取り上げています。

坂本夏男『盧溝橋事件勃発についての一検証』より

 天津の支那駐屯軍司令部内に設置された特種情報班は、無線による情報収集に任じていたが、その一通信手は、蘆溝橋事件が発生した七月七日の深夜、北京大学構内と思われる通信所より延安の中共軍司令部の電台に対し、緊急無線により、平文の明碼(秘密でない電信の数字番号、中国では数字を用いて送信)で、「2052 0501 0055」(成功了−うまくいった」と三回連続して反復送信しているのを傍受した。

 該通信所よりの送信者、送信の情報源及び情報経路等は不明であるが、その情報源の関係者は、前述の七日午後十時四十分頃の第八中隊仮設敵の空包発射と同中隊後方からの中国軍の実弾発砲とをもって、日中両軍を衝突させることに成功した、と判断したのであろう。

 右の緊急無線送信は、盧溝橋事件の背後関係を究明する際、有力な手掛かりとなる。(P17-P18)



これに対しては、安井三吉氏の反論が、明快です。

安井三吉『柳条湖事件から盧溝橋事件へ』より

 しかし、この電報は、平尾氏自身が「傍受」したものではなく、後年、北支那方面軍勤務当時、氏の上司であった秋富繁次郎大佐から聞いた話によるものである。

 この「一通信手」とは、平尾氏でもなければ秋富氏のことでもないのである。

 そして、このような話は、当時の軍関係者の回想、文書のなかにはまったく出てこない。

 もし、支那駐屯軍がこのような事実を把握していたら、当然反中共宣伝に利用したはずである。そうしたことがないということは、このような話が事実であったかどうかを疑わせるものである。


 当時、平津地区と延安との無線連絡は、華北連絡局のルートで、天津の劉仲容(劉紹嚢?)の家でなされていたことは、関係者の証言によって明らかにされている。

 しかし、「七月七日の深夜」(平尾氏の原文では、「深夜」とのみある)といえば、事件発生からせいぜい一時間以内のことで、一体、盧溝橋の現場と「北京大学」の間は、どうやって連絡したのであろうか?

 「空砲発射」と「実弾射撃」とは、ほんの数秒、せいぜい数分の間のことで、以後は八日午前三時二五分の「発砲」まで、日中両軍の間には何の問題も発生していない。

 「成功了」などといえるものではないだろう。


 それに、中国共産党員がこのように重要な連絡を「明碼」で打つなどとは考えられないことである。

(中略)

 平尾氏の回想録を以て、中共「計画」説の根拠とするのは飛躍があるといわざるをえない。

(P233-P234)

 情報が「また聞き」であること、他の資料には一切登場しないこと、またそもそも「七月七日深夜」では「成功了」というような段階にないこと、から、平尾氏の記述は根拠が薄いものであると考えられます。


<付記>

 上記の他に、学会や論壇の議論では見かけないにもかかわらず、ネットの世界でのみ散発的に目にする主張があります。

 例えば2005年夏、ネットに、「2005年7月3日、中国のTV局北京電視台の番組「社会透視」で、盧溝橋事件は、第二十九軍に潜入していた共産党員『吉星文』『張克侠』らが引き起こしたと報道された」旨の情報が流れました。

 その後の詳報を待ってみたのですが、2006年2月現在に至るまで、これ以上の情報は聞こえてきません。これでは、そもそもこの文が「報道」なるものの内容を正確に伝えたものであったかどうか、検証すら困難です。

 また、仮に上記報道が行なわれたことが事実だとしても、これだけでは、「報道」の情報源が信頼できるのかどうかもはっきりせず、また情報の内容も曖昧である感は免れません。

 この書き方からは「第一発」を画策したかのようにも読めますが、「共産党員」が事件の中で具体的にどのような役割を果たしたのかが明らかにされない限りは、これを「事実」として断定するのは尚早でしょう。

 実際に番組を見たわけではありませんので確言はできませんが、「タイプ2」の議論である可能性もあるように思われます。

 現在の中国においては、「抗日戦争を煽ったこと」はむしろ「功績」であり、「自慢話」として語られます。この話も、「根拠のない自慢話」程度に捉えておくのが無難かもしれません。

 余談ですが、「南京事件」では中国側証言を「信頼できない」として黙殺する方々が、このような「自慢話証言」については何の疑問もなく「事実」として受け入れてしまうことは、私には奇妙なものに思われます。

 なお、フォローがなかったためか、2006年2月の時点では、この論はほとんど見かけなくなっています。



 「第一発」の犯人については、現在かなり研究が進んでいるものの、今のところでは「決定的に明らかになった」という段階にはありません。

 その中で最も有力なのが「日本側の演習射撃に刺激された、中国側第二十九軍兵士の偶発的射撃」説であり、事件の流れを見ると、これが最も自然な説明でしょう。

*七日午後十時四十分の「第一発」から八日午前五時三十分の「最初の衝突」に至る経緯については、「盧溝橋事件 「第一発」問題」 「盧溝橋事件 最初の衝突」にまとめてありますので、併せてご覧ください。

 「陰謀説」としては、中国側は「日本軍の陰謀」説を主張し、一方日本の側には、ここまで見てきたように「中国共産党の陰謀」説があります。

 しかしどちらも、決定打に欠ける感は免れません。後者は「結果として中国共産党が利益を得た」という「結果論」からのスタートである、という見方も可能かもしれません。



 以上、「タイプ1」の、「第一発=中国共産党陰謀説」に対しては、次の江口圭一氏の記述をもって「結論」としても差支えないと考えます。

江口圭一『盧溝橋事件』より

 日本軍が機会あれば中国軍に一撃をくわえたいと念じ、奇襲攻撃の準備に余念がなかったこと、中国軍が警戒心をつのらせ、もし攻撃を受ければ断固として応戦する準備をととのえていたこと、事件前日の七月六日に、中国側をひときわ緊張させるなんらかの情報かデマが流れたらしいこと―は確認できる。

 しかし翌七日の事件が、日中いずれかの事前の計画にもとづいて、謀略的におこされたことを確証するような事実は、こんにちまでまったくみいだされていない。 (P17)





タイプ2
<その1>
 清華大学生の「爆竹」

   次に、「タイプ2」の、「事件の拡大過程における中国共産党の役割」をめぐる議論に話を移します。

 ただしこちらについては、「実は二十九軍内に多数の中国共産党員が潜入していた」以上の具体的な議論は、ほとんど聞かれません。「陰謀」と呼ぶにふさわしいのは、ほとんど唯一、寺平氏らが残すこのエピソードぐらいでしょう。

寺平忠輔『盧溝橋事件』より

 二十二日の午後、便衣をまとった十名ばかりの密偵が、北京城広安門を出た。彼等は赤藤分隊長から示された経路を、問題の中間地区に向って進んで行った。

 これら密偵の報告を綜合すると、彼等は薄暮ごろ現地に着いて、早速付近の住民から情報を集めた。すると、銃声砲声の正体というのは  ―  。

 「日が暮れると、このころ毎晩のように、便衣をつけた青年十名ばかりがこの部落に入り込んで参ります。そして村はずれの落花生畑で、土炮と爆竹を盛んにパンパンやり始めるのです。なんの目的であんな騒ぎをやるのか、私共には皆目見当がつきません。今日もやがて、もうボツボツ集って来るころでしょうよ」

 密偵は憲兵の指図に従って高梁畑の中に身をひそめた。今日は満月らしく、やがて東の空がボー ッと赤味を帯び始めてきた。と、住民がいった通り、八時ごろになると、十名余りの便衣が一列の縦隊で部落の陰から姿を現わし、黙々、落花生畑の方に進んで行く。

 やがて彼等は畑の真中で一塊りになって、何やら支度にとりかかった。そして用意が整うと、指揮者らしい男の合図に従って、間もなく爆竹が点火された。

 パンパンパンパン・・・・・ けたたましい響と共に発する閃光!  鼻をつく煙硝のにおい!  おびただしい白煙が濛濛(もうもう)として地を這った。

 この時、密偵は高梁畑の中から一斉に姿を現わし、たちまちその数名を逮捕した。

 彼等は密偵を二十九軍側の便衣とでも感違いしたらしく、リーダー格の一人が極めて率直に「我々は学生です。救国のためにこうして日本軍の側面を脅威してるところです。許して下さい」 と弁解した。

 彼等は北京の西北、万寿山街道にある清華大学の学生を中心とし、共産系の指導の下に、日華両軍交戦地帯の真っ唯中に潜入し、土炮や爆竹で両軍を刺激する事によって、事変の拡大を企てていた事がハッキりした。

 彼等の背後関係には、共産党の全国総工会書記、中共北方局主任、劉少奇などが采配を振っている事も判明した。「七月十三日、大紅門事件の起った日の真夜中すぎ、永定門外でドンドンパリパリやったのも、やっぱりお前達の仕業だろう ? 」

 との問いに対し、彼等自身ではなかったが、同類がやった事も白状した。

 赤藤分隊長は電話で私に「日本軍も二十九軍も、どうやらこうした共産系に踊らされている感が多分にありますね。これを放ったらかしておいたら、いくら不拡大だの停戦交渉だのいったって、片っ端からみんな突き崩されてしまいます。この際何とか一つ、抜本的対策の手を考え出さんといけませんな」と語った。

 事実、事変対策としては、責任者の謝罪や処罰、そういった形式的の問題よりも、今や潜行的に抗日工作を展開している、赤色策動の摘発弾圧、これこそより以上優先しなければならぬ、極めて重要な措置ではないかと痛感させられるのだった。

(寺平忠輔『盧溝橋事件』P286〜P287)


今井武夫『支那事変の回想』より

 斥候は曹家バイ附近で待機した甲斐あって、 一団の男女学生が爆竹を鳴らす現場をおさえ、直ちにその数人を逮捕したら、学生達は始め斥候を彼等の同国人と感違いしたらしく、

われわれは北方局の命令に従ってやっているのに、何故邪魔するか。

と、威丈高かに喰ってかかる一幕もあった。

 <当時斥候の調査報告を聞いた憲兵隊長の赤藤庄次少佐と特務機関の寺平大尉は、北方局とか、その責任者劉少奇とかいう氏名に大して関心を払わなかったが、今にして思えぱ、劉少奇こそ現在世に時めく中共政府主席その人である。

(同書 P42〜P43)


 両者の記述を見ると、赤藤少佐、寺平大佐が聞いた「斥候の調査報告」が、このエピソードの情報源であったようです。

 ただし秦氏などは、このエピソードに対して、「史実として確定するには証拠不足とせざるをえない」という評価を下しています。
  
秦郁彦『昭和史の謎を追う 上 』 より

 さて、問題の挑発策動について詳細を記録しているほとんど唯一の文献は、当時の北京特務機関補佐官で、余生を盧溝橋事件の解明に捧げた寺平忠輔大尉(のちに中佐)の『盧溝橋事件』(読売新聞社、一九七〇)である。

 寺平によると、第一回は七月十三日夜半に起きている。北京の永定門外で激しい銃声が聞こえたという通報があり、寺平が翌日憲兵に聞きこみをさせると、七、八人の便衣の中国人が、使用禁止の爆竹や土地を盛んに打ちあげたものと判明したが、意図は不明のままで終った。

 二度目は、七月十九、二十日の両夜、北京南西郊に当る盧溝橋駅の北東三キロ、八宝山の南南東三キロ付近の曹家墳という小集落の付近で起きている。

 七月十一日、日中両軍の間に現地停戦協定が成立していらい、日本軍は一文字山から盧溝橋駅付近、中国第二九軍は八宝山を最前線としてにらみあい、支那駐屯軍・北京特務機関 と冀察政務委員会との間で外交解決のための交渉が進行していた。

 問題の集落は両軍の中間地点に当っていたから、双方とも挑発的な不法射撃を加えられたといきりたったのは当然だろう。そこで双方の停戦委員が二十一日夜派遣されて警戒していると、またも謎の銃声が同じ方向から聞こえ、誰かの策動と推定された。

 交会法で概略の位置をたしかめた寺平は、北京憲兵分隊の赤藤庄次少佐に調査を依頼、赤藤は汐海茂曹長の指揮する私服憲兵と中国人密偵数人を現場に張りこませた。

 そして二十二日夜、曹家墳集落付近で爆竹をあげはじめた一団の男女学生のうち数人を逮捕した。

 
疲らは密偵を二九軍側の便衣とでも勘ちがいしたらしく、リーダー格の一人が「我々は学生です 。救国のためにこうして日本軍の側面を脅威しているところです」と弁明した。取り調べの結果、清華大学の学生を中心に、停戦地帯に潜入、土地や 爆竹で両軍を刺激することで、事変の拡大を企てていたことがはっきりしたという。

 そのころ、北京憲兵分隊にいた荒木和夫(著書に『北京憲兵と支那事変』)や大使館付陸軍武官補佐官の今井武夫少佐(著書に『支那事変の回想』)も、同趣旨のことを記述し、犯人は中国共産党北方局(責任者は劉少奇)の指令で動いたと自白した、と書いているが、学生の氏名も陳述書も残っておらず、本人のその後の行方もはっきりしていない。

 たしかに学生の「自白内容」は「劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動をもって党中央の指令を実行した」とする政治課本の記述にそっくりだが、後者の存在があやふやであるだけに、史実として確定するには証拠不足とせざるをえない 。

(P158〜P160)


また秦氏は、『諸君!』2000年2月号の座談会「歴史と歴史認識」で、次のような発言も行っています。

座談会『歴史と歴史認識』 より

 ただ、この記録には学生の名前は記入されていない。取調べの調書もないし、新聞発表もしていないから、 逆に陸軍の特務機関が共産系を装ってやったとも考えられるんです。

(『諸君!』2000年2月号 P81)


 以上をまとめると、

1.「爆竹事件」については、複数の「犯人候補」が存在し、中国共産党を「犯人」と決めつけることはできない。

2.「劉少奇の指示」を受けて「爆竹事件」を起こした、とする「精華大学生」のエピソードは、「斥候」からの伝聞に過ぎず、史実として確定するには証拠不足である。


ということになるでしょうか。  さらに言えば、実際にはこの「策動」なるものは「事件」の拡大に何の貢献もできず、「失敗」に終わっていることを付言しておきます。



<付記>

 この議論に関係しますが、2005年春頃、このような書き込みをネットのあちこちで目にするようになりました。

「周恩来も1949年10月1日の中華人民共和国成立当日に『我々の軍隊が発砲したから、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害した』旨の発言をしている」

 この話はネットの中の「伝言ゲーム」で広がったものらしく、ほとんどの投稿はその出典をスルーしていました。私も確認に苦労しましたが、どうやら元の文はこれであったようです。

山内一正『「唐決」を嗤って過ごせるか』より

 中共政権が支那本土を掌握したとき(一九四九年十月一日中華人民共和国成立宣言の際)、周恩来は誇らしげに言った。「あのとき(支那事変勃発当時)我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍の両方に(夜闇にまぎれて)鉄砲を射ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定成立を妨げたのが、我々(中国共産党)に今日の栄光を齎した起因である。

(『動向』平成6年5月 第1539号 P25)


 念のためですが、別にこれは「盧溝橋」を主テーマにした論稿ではありません。よくもまあ、最初の紹介者はこんな名も知られていない雑誌の十年以上も前の文章を「発掘」したな、と「感心」します。

 関連部分は、これで全部。山内氏は出典も根拠も挙げておらず、この周恩来発言のソースを確認するのは困難です。私は、国会図書館を訪れた際、「周恩来」の名のつく書物を片っ端から借り出して「1949年10月1日周恩来演説」の内容の確認を試みましたが、発見することはできませんでした。

*辛うじて、梨本祐平氏の著作「周恩来」で、周恩来がこの日になんらかの「演説」を行った事実だけは確認することができました。ただし内容は、「新政府の外交方針」です。
梨本祐平『周恩来』より

 (「ゆう」注 毛沢東主席就任宣言のあと)このあと、周恩来が起って、共同綱領第五六条の、「中華人民共和国の中央人民政府は、国民党反動分子と関係を絶ち、中華人民共和国に対し、友好的態度をとる外国政府と、平等互恵および相互の領土と、主権に対する尊重の基礎の上に交渉し、外交関係を結ぶことができる」とあるのにもとづいて、新政府の外交方針を、次のように宣言した。

 「中華人民政府は、中国人民の総意によって選ばれ、中国人民を代表し得る唯一の政府であり、残存反動勢力の仮政府によって、国際連合に派遣されている代表は、中国人民を代表する資格がない。これは中国人民が、国の主人として、全世界に向ってなす厳粛なる宣言である。これが根本的変化を遂げた、中国の政治情勢の実際条件に、完全に合致し、全国における人民の共通の意思と希望とを反映するものである。アメリカ帝国主義の走狗たる国民党の反動分子は、この国民的裏切り、内戦および独裁の政策の故に、全国を通じて、人民から打ち棄てられた。」

(同書 P134)


 私が調べた範囲では、「中国共産党陰謀説」の論者でこの「周恩来発言」なるものを根拠として取上げている方は皆無です。この発言が事実であるとすれば、なぜ誰も取り上げないのか、不思議に思うところではあります。

 さらに、この発言は寺平氏の紹介するエピソードを想起させますが、寺平氏に従えば、「精華大学生」は、「爆竹を鳴らし」ただけでした。彼らが「発砲」を行った、という記録は存在しません。

 また、「今日の栄光を齎した起因」になるどころか、この「陰謀」は、日本側に暴露してしまったことにより、完全な失敗に終わっていたはずです。

 「発言」が仮に事実であったとしても、その「内容」は、中国共産党の「放言に近い自慢話」の域を出るものではない、と思われます。

以上まとめると、

1.この「周恩来発言」の存在自体、確認困難な怪しげなものである。また、アカデミズムの世界の「陰謀論者」たちが、これに触れないのも不自然。

2.もし仮にこの通りの「発言」が存在したとしても、明らかに史実と異なるもので、信頼に価しない。「中国共産党の怪しげな自慢話」程度に捉えておくのが無難である。

というところでしょうか。

 その後、この話はネットでの「流行」を終えたようで、2006年2月現在では、ほとんど見かけなくなりました。



2010.6.10追記

 安井三吉氏が、『歴史科学』2008年12月号の『盧溝橋事件研究の現状と課題』の中で、この点についてコメントしています。

安井三吉『盧溝橋事件研究の現状と課題』より

 ここで『検証』(「ゆう」注 日本青年会議所「日本の魂」創造グループ近現代史検証委員会『近現代史検証報告書』)がまず根拠としている点は、一九四九年一〇月一日、中華人民共和国式典で、周恩来と劉少奇が行ったという演説である。『検証』は次のように書いている。

昭和二十四年(一九四九年)一〇月一日、中華人民共和国宣言の際、周恩来首相は誇らしげに、「あの時、我々の軍隊が日本軍と中国国民党軍の両方に鉄砲を撃ち込み、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨げたのが、我々に今日の栄光をもたらした起因である」と語った。

 また、毛沢東に次ぐナンバー2だった劉少奇(後に国家主席)は、「盧溝橋事件によって、蒋介石と日本の軍国主義を両方とも滅亡させることができた。中国軍(中国共産党軍)にとってはまさに思うつぼだったのである」と演説している。・・・」

(略)

 周恩来と劉少奇の演説とは、一体どのような資料に基づくものか? 演説であれば、それは何万という人々が耳にしたはずであり、記録に留められているはずである。典拠を示してほしいところである。

(『歴史科学』2008年12月号 P3-P4)

 結局今日に至るも、誰も「典拠」を示せないでいるようです。
 
 
タイプ2
<その2>
 コミンテルンの指令

 事件の背後には「コミンテルンの指令」があった。これまた、ネットでは「人気商品」のひとつでしょう。

 しかしこのコミンテルン文書の存在が事実だったとしても、これは、コミンテルンが「全面的衝突」までに事件を拡大させることを指令したものに過ぎず、「陰謀」の根拠にはなりえません。

 その「要点」は、以下のようなものであると伝えられます。
 
波多野乾一編 『中国共産党史 資料集成』 第七巻 より

 かくて事変勃発後一週日を出でざるに、コミンテルンの指令は櫛の歯を引くがごとく中国共産党に達した。その要点は左記のごとくである。

(一)あくまで局地解決を避け、日支の全面的衝突に導かなければならぬ。

(二)右の目的を貫徹するため、あらゆる手段を利用すべく、局地解決(例へば北支を分離せしめることに依つて戦争を回避するの類) 日本への譲歩に依つて、支那の解放運動を裏切らうとする要人を抹殺してもよい。

(三)下層民衆階級に工作し、これをして行動を起さしめ、国民政府をして戦争開始のやむなきに立ち到らしめなければならぬ。

(四)党は対日ボイコットを全支那に拡大しなければならぬ。日本を援助せんとする第三国に対しては、ボイコットを以て威嚇する必要がある。

(五)紅軍は国民政府軍と協力する一方、バルチザン的行動に出でなければならぬ。

(六)党は国民政府軍下級幹部、下士官、兵士並びに大衆を獲得し、国民党を凌駕する党勢に達しなければならぬ。

(同書 P334)



 ちなみに、この資料についての、秦氏のコメントです。

秦郁彦『盧溝橋事件』より

 波多野乾一『資料集成中国共産党史』第七巻(三三四ページ)、伊達宗義『中国共産党略史』(一四四ページ ) は、盧溝橋事件直後に中共党へ送られたコミンテルンの指令なるものの要旨を記述している。

 出所は、一九三九年十月に印刷された興亜院政務部(担当者は嘱託原口健三)「コミンテルン並に蘇聯邦の対支政策に関する基本資料」(極秘)という内部印刷物と思われる。


 指令の要旨は、(1)あくまで局地解決を避け、日支の全面衝突に導かなければならぬ、(2)局地解決、日本への譲歩により支那の解放運動を裏切ろうとする要人を抹殺してよい、(3)下層民衆工作を進め、国府を開戦へ追いこむ、(4)対日ボイコットの強化、(5)紅軍は国府軍と協力してパルチザン行動をとる、(6)この機に党勢を拡張する、のようなもので「中共党はこの指令に基づき、周恩来を蒋と会見させ、国共合作、紅軍改編を申入れたとしている」(九〇−九一ページ)。

 ただし日付をふくめ情報の出所は明らかにされておらず、『コミンテルン資料集』第六巻(大月書店、一九八三)にも見当らない。

 真偽は不明だが、当時の中共党がとった方針と大差のない内容とは言えよう。


(同書 P280)


 出所は興亜院の「内部印刷物」であり、実際にこのような「指令」が存在したのかどうかということすら、確認が難しいようです。

 また、存在していたとしても、「当時の中共党がとった方針と大差のない内容」であり、「陰謀」の存在を裏付けるものとは言い難いでしょう。


 

タイプ2
<その3>

 張克侠の作戦プラン

 第二十九軍副参謀長であった張克侠が、実は中国共産党員で、「盧溝橋事件」を策謀した、という説です。中村黎氏が詳しく紹介しています。

中村粲『大東亜戦争への道』より

中国側資料が告白した陰謀

 最近ある中国側資料が公表された。事件五十周年の昭和六十二年五月、中国人民大学出版社から発行された『盧溝橋事変風雲篇』(武月星、林治波、林華、劉友于著)である。

 その中に事件直前に於ける中国第二十九軍の対日戦争計画について詳細な記述があるが、紙幅の都合上、略記すれば次の如くである。

 昭和十二年五月、宛平県城には一個中隊と大隊本部があつたが、同月下旬、城外に三個中隊が増駐、六月には盧溝橋西南の長辛店に二個大隊が増派された。

 この頃、永走河左岸堤防の十個のトーチカを掘り出して整備した。第二十九軍は軍事訓練強化の他、部隊の抗日救国政治教育を推進した。

 同年四、五月、第二十九軍は具体的な対日作戦計画を立てた。

 右計画は張樾亭二十九軍参謀長が作成したもので、国民政府の主張に基づき”必要時には北平を撤収して実力を保存し、全国の抗戦を待つ”といふ消極的なものだつた。だが、これに反対したのが二十九軍副参謀長の張克俠であつた。

 彼は”攻撃を以て守備となす”(以攻為守)積極的な日本軍撃滅計画を別に策定し、推進したのである。(以下省略)

 では張克俠とは何者だつたのか。彼こそ、中共中央から直接に指令を受ける秘密共産党員であつた。

 
張克俠と中国共産党との関係については、昭和六十一年九月新華書店北京発行所から出版された『北京地区抗戦史料』」所収の「劉少奇同志の第二十九軍に対する統一戦線工作に関する史実の検討」なる一文が、張克俠自身の回顧談を含め、中共の遠大なる秘密工作のほぼ全容を伝へてゐるので、その一部分を紹介しよう。

 張克俠(本名=張樹菓)は大正十二年馮玉祥の部隊に入隊、昭和四年中国共産党に入党して特別党員となり、中共中央と直接に連絡しつつ、長期に亙つて西北軍中に潜伏を続けて機会を待つた。昭和九年張自忠の三十八師参謀長及び二十九軍副参謀長となつた。

 その後、中共中央と張克侠との連絡は蕭明(戦後、北京市総工会主席、昭和三十四年病死)が当った。その後、(昭和十一年から十三年まで)劉少奇は中共中央代表、北方局書記で、北支での抗日民族統一戦線を推進し、抗日ゲリラ戦展開の工作に従事してゐた。

 さて張克俠の立てた積極的対日作戦計画とは、二十九軍十万の兵力をいくつかの集団軍に編成し、北京、天津、チャハルの三戦区に分け、この地区に分散配置してゐる日本軍を撃滅した後、機を見て山海関に出撃、関外の領土即ち満洲を奪回しようとするものだつた。

 張克倹はこの作戦計画を蕭明を経て党に報告、間もなく蕭明は「党組織がこの作戦計画を承認、同意したのでその通り執行してよい」と書いたメモを張に手渡した。

 右計画を見て支持を与へ同意した党指導者は北方局主任の劉少奇書記であつたと張克供は認めてゐる。


 斯くして張克侠は宋哲元と二十九軍将兵の抗日を積極的に推進し、盧溝橋で奮起させ抗戦八年の序幕を開いたのである―と。

 語るに落ちる、とはこのことであらう。即ち、我が支那駐屯軍に対する全面的攻撃作戦を計画してゐたのが二十九軍副参謀長の要職にあつた賽党貞・張克供であり、その計画を承認し実行を指示したのが中共中央を代表してゐた北方局主任・劉少奇であつたのだ。

 七月二十九日に平津地方を平定した我が歩兵旅団司令部が、八月八日北平に入城した際、冀察綏靖(すいぜい)公署参謀処の書類綴の中に、北平付近に分散駐屯する日本軍を各個撃破する二十九軍特別演習実施計画書(五月二十三日といふ実施日を記入した作戦要図添付)を発見してゐるが、これが或いは張克俠の起案に基づく作戦計画だつたのかも知れない。

 では右の対日撃計画と盧溝橋事件との関係はどうなのか。筆者はかう推論する。最初の不法射撃は二十九軍中の先走つた共産分子か抗日分子によるものであつたかも知れない。だが以後の執拗な射撃は、中共中央の承認の下に張克俠の積極的な対日作戦計画を発動実施したものではあるまいか、と。

 
云ひ換へれば、偶発的な不法射撃が、中国共産党による既定の対日戦争計画を始動させたのかも知れないと。盧溝橋事件の真相は、結局その辺に落着くのではないかと筆者は考へる。

(P394〜P396)
 

 中村氏は、二十九軍副参謀であった張克侠が秘密共産党員であったこと、また、その張が、劉少奇の承認の下、積極的な対日作戦計画を策定した事実に言及しています。

 これ自体は『盧溝橋事件風雲篇』に記述されている通りなのでしょうが、これはせいぜい、張が日本における「拡大派」と同じような役割を果たしいてた、ということの「証明」にとどまります。

 中村氏は、最後の段落で、突然これを「以降の執拗な射撃は・・・張克侠の積極的な対日作戦計画を発動実施したものではあるまいか」という「推論」に飛躍していますが、これはやや乱暴な論であると言わざるを得ません。

 なお上に見られる通り、中村氏も、「あるまいか、と」「かも知れないと」と、慎重に断定を避けています。

 いずれにしても、これは「中国共産党陰謀説」の具体的証拠というレベルにはないように思われます。


 安井氏は、中村氏と同じ主張を行なう坂本夏男氏に対して、次のような批判を加えています。
 
安井三吉氏『盧溝橋事件に関するいわゆる「中国共産党計画」説』より

 しかし、もしこのような「作戦計画」の存在をもって、「中国軍計画」説の根拠とするなら、支那駐屯軍の司令部が、一九三六年九月に策定した「昭和十一年度北支那占領統治計画」の存在をもって、「日本軍計画」説のいっそう有力な根拠と主張してもかまわないはずである。(中略)

 さらに、張克侠の「作戦計画」をもって、「中共計画」説の根拠とするなら、それに先立って国民政府参謀本部が策定した「民国廿六年度国防作戦計画」をもって、国民政府の「計画」説を主張することもできたはずである。

(『季刊中国』1994年夏季号 P9〜P10)

 確かに、「作戦文書」の存在のみをもって「陰謀」の根拠としてしまうのであれば、同じような論法で、「日本軍計画説」なり「中国国民党計画説」なりを主張することも可能となってしまうでしょう。




 さらに秦郁彦氏は、当時の中国共産党北方局の要人の動きを追う中で、肝心の時期に「首謀者」であるはずの劉少奇が北平を留守にしていた事実を指摘しています。

秦郁彦『昭和史の謎を追う 上』 より

 最近の北京側文献がそろって強調しているのは、天津のフランス租界と北京大学図書館を根城に、学生工作や二九軍工作を組織した劉少奇の指導的役割である。

 ついでに書くと、欧米のジャーナリストとして初めて延安を紹介したエドガー・スノーの潜行をお膳立てしたのも、劉少奇であった。

 しかし、その劉は一九三七年四月、延安へ引きあげ、五月の全国代表者会議と白区代表者会議に出席、報告したあと北京周辺には戻っていない。

 このとき同行した北方局組織部長の彭真(のち北京市長)らも延安にとどまった。

 この時期の中共党は張聞天(総書記)、秦邦憲(中央組織部長)らのソ連派が主流を占め、毛沢東の最高権力は必ずしも確立していなかった。

 李天民の『劉少奇伝』によると、毛は五月の会議で切迫した対日戦にゲリラ戦術で対抗する路線を主張した劉少奇を支持し、両人の関係は緊密だったという。

 ともあれ、七月七日夜の「盧溝橋の第一発」を、劉少奇が現場で指導する位置にいなかったことはたしかだろう。

(P167〜P170)

 そもそも「影の実行者」であるはずの劉少奇が、この時期延安に引き上げていたわけです。「張克侠の作戦プラン」を「陰謀説」の根拠とするのは、説得力が薄い議論でしょう。
 

 以上、「中国共産党陰謀説」をめぐる論議状況を見てきました。

 既に見てきたとおり、いくつかの「論拠」は存在しますが、いずれも決定打とするには不十分、と考えてよいと思います。現時点の研究では、せいぜい「疑惑」のレベルにとどまる、と見ておくのが無難でしょう。

 また、「第一発」問題と、事件後の拡大過程の問題とは、明確に分離する必要があるでしょう。私見では、「第一発」自体に「中国共産党」が絡んでいた可能性はほとんど存在しないように思われます。

 焦点となるのは、事件後の「拡大過程」で「中国共産党」が果たした役割です。

 「抗日」を目指した「中国共産党」が「拡大」を望んでいたことは事実でしょうが、表立った宣伝行動はあっても、「陰謀」「謀略」と呼べるレベルの陰湿な行動があったのかどうか。

 私見では、「陰謀」を証明する決定打は今のところ存在しない、と見るのが妥当であると考えます。

 「第二十九軍」に多数の共産党員が潜入していたことは事実だとしても、これは単に、「二十九軍内において中国共産党が一定の影響力を発揮していた」というだけの話であり、「陰謀」という表現にはややそぐわないものであるように思われます。

 
日本と同様、中国軍内部に「拡大派」と「不拡大派」の対立があり、中国共産党党員グループはその一方の「拡大派」に属していた、というだけのことでしょう。

 なお、『蒋介石秘録』によれば、第二十九軍軍長宋哲元が最終的に「抗戦」を決心するのは、南京から送り込まれた国民党将軍熊斌の説得によるものである、とのことです。中国共産党党員グループの役割を、過大に評価する必要もないでしょう。

(2004.10.4記 2006.2.21 増補全面改訂)


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