盧溝橋事件 中国共産党陰謀説 |
ネットに「盧溝橋事件」が登場する時、必ずといっていいほど持ち出されるのが、いわゆる「中国共産党陰謀説」です。 しばしば混同されるのですが、「陰謀説」には、 <タイプ1> そもそも「盧溝橋の第一発」は、中国共産党の陰謀であった。 という二つの型があります。 掲示板などでは、<タイプ1>と<タイプ2>の違いを意識しないまま、根拠の薄い方である<タイプ1>の主張を行なってしまう方が多いようです。 私見では、<タイプ1>は、根拠が薄い、極言すれば一種の「伝説」に近いもの、と言ってよいと思います。 <タイプ2>については、中国共産党が「事態の拡大」を望んでいたこと、中国側の現地軍である「第二十九軍」に多数の秘密党員を送り込んでいたことまでは「事実」と言うことはできても、果してそれが「陰謀」と呼べるレベルのものであるかどうかは微妙、ということになろうかと考えます。 以下、「陰謀説」について、その根拠とされているデータ群を個別に検討していきましょう。 < 目 次 >
タイプ1 <その1> 葛西氏の見た「戦士政治課本」
タイプ1 <その2> 中国共産党の「通電」 タイプ1 <その3> 桂鎮雄氏の証言 タイプ1 <その4> 「成功了」の電報 タイプ2 <その1> 精華大学生の「爆竹」 タイプ2 <その2> コミンテルンの指令 タイプ2 <その3> 張克侠の作戦プラン
葛西氏が見た中国人民解放軍の『戦士政治課本』なるテキストに、「七七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」との記述があった、というものです。 ネットでは、最もポピュラーな「陰謀論」でしょう。
しかし、このテキストは、葛西氏以外に現物を確認した人は誰もいないようです。秦郁彦氏が、そのあたりの経緯を詳述しています。
なおその後、『戦士政治課本』というテキストは、存在自体は確認されたようではあります。ただし、内容は依然として「不詳」とのことです。
いずれにしても、「三万二千人」が見たテキストであるにも関わらず「内容」について言及しているのは葛西氏だけ、かつその記述を他に確認した人がいない以上は、これを「決定的証拠」とすることはできないでしょう。 2009.8.15追記 その後、中国国内で、「戦士政治課本」に関する記事が掲載されたようです。私には現物は確認できませんので、『出版ニュース』掲載の記事から紹介します。
これを見ると、「戦士政治課本」に「劉少奇」の名が出てきたことは事実であるようです。 しかしその内容は、上を見る限り「劉少奇が盧溝橋で日本軍と戦った」までで、葛西氏の言うように「七・七事変は劉少奇同志の指揮する抗日救国学生の一隊が決死的行動を以って党中央の指令を実行したもの」とまで踏み込んで書いてあるかは、不明です。 そして上の記事によれば、当時劉少奇は北京にはいなかったはずです。 秦郁彦氏も、 「しかし、その劉は一九三七年四月、延安へ引きあげ、五月の全国代表者会議と白区代表者会議に出席、報告したあと北京周辺には戻っていない」と述べています。 結局のところ、「戦士政治課本」の記述に根拠はない、ということになるでしょう。
盧溝橋事件の翌日8日には、もう中国共産党が全国に向けて「抗日」を呼びかける「通電」を流していた、とするものです。 あまりのタイミングの良さから、中国共産党は事前に「事件」が起きることを察知していたのではないか、という主張が行なわれていますが・・・。 まず、「通電」の内容を見ます。
この「通電」を、「中国共産党陰謀説」の疑惑の大きな根拠であるとしているのが、岡野篤夫氏です。
しかしそもそも、電報は「八日付」とはなっているものの、本当に八日に発信されたのか。 「全国各新聞社」や「各団体」などに対して発せられたはずなのですが、八日時点でこれを受電した、という中国国内の記録はないようです。 安井三吉氏の研究によれば、実際に「通電」が世に出た記録が残るのは七月十三日以降とのことであり、これは日付を遡って作成された文書なのではないか、という疑いが持たれます。
秦郁彦氏も、種々のデータを検討した上で、「通電が多くの読者に伝わったのは、十二−十三日頃と推定してむりはないと思う」(『盧溝橋事件』P280)と、安井氏に賛意を表します。 またこの電文は、内容的にも、従来の中国共産党の主張の範囲を超えるものではありませんでした。例えこの「通電」が実際に八日に発せられたものだとしても、中国共産党が「事件」を予め察知していた、とまで言い切ることはできないでしょう。
桂氏は、極東軍事裁判で、弁護側証人として証言台に立ちました。その時の、体験談です。
しかし、これに対して秦氏は、「妄想以外の何物でもなさそうだ」と手厳しい評価を下しています。 まずそもそも、このような「記者会見」の記録がどこにも存在しないようです。 さらに、「記者会見」を開いたはずの劉少奇は、当時、「山間の悪路を逃避中」だったと推定され、「記者会見どころではなかった」と見られる、とのことです。
*2009.2.28追記分 本コンテンツ作成当時は、あまりにマイナーな説であるために無視していたのですが、ネットの掲示板でこの説を取り上げている方を見かけましたので、念のために触れておきます。 平尾治という方が記した、『或る特種情報機関長の手記-我が青春のひととき−』に、北京から延安の中国共産党軍司令部に対して「成功了(うまくいった)」という無線が流れたのを傍受した、というエピソードが登場します。 このエピソードを、「中国共産党陰謀論者」である坂本夏男氏が取り上げています。
これに対しては、安井三吉氏の反論が、明快です。
情報が「また聞き」であること、他の資料には一切登場しないこと、またそもそも「七月七日深夜」では「成功了」というような段階にないこと、から、平尾氏の記述は根拠が薄いものであると考えられます。 <付記> 上記の他に、学会や論壇の議論では見かけないにもかかわらず、ネットの世界でのみ散発的に目にする主張があります。 例えば2005年夏、ネットに、「2005年7月3日、中国のTV局北京電視台の番組「社会透視」で、盧溝橋事件は、第二十九軍に潜入していた共産党員『吉星文』『張克侠』らが引き起こしたと報道された」旨の情報が流れました。 その後の詳報を待ってみたのですが、2006年2月現在に至るまで、これ以上の情報は聞こえてきません。これでは、そもそもこの文が「報道」なるものの内容を正確に伝えたものであったかどうか、検証すら困難です。 また、仮に上記報道が行なわれたことが事実だとしても、これだけでは、「報道」の情報源が信頼できるのかどうかもはっきりせず、また情報の内容も曖昧である感は免れません。 この書き方からは「第一発」を画策したかのようにも読めますが、「共産党員」が事件の中で具体的にどのような役割を果たしたのかが明らかにされない限りは、これを「事実」として断定するのは尚早でしょう。 実際に番組を見たわけではありませんので確言はできませんが、「タイプ2」の議論である可能性もあるように思われます。 現在の中国においては、「抗日戦争を煽ったこと」はむしろ「功績」であり、「自慢話」として語られます。この話も、「根拠のない自慢話」程度に捉えておくのが無難かもしれません。 余談ですが、「南京事件」では中国側証言を「信頼できない」として黙殺する方々が、このような「自慢話証言」については何の疑問もなく「事実」として受け入れてしまうことは、私には奇妙なものに思われます。 なお、フォローがなかったためか、2006年2月の時点では、この論はほとんど見かけなくなっています。 「第一発」の犯人については、現在かなり研究が進んでいるものの、今のところでは「決定的に明らかになった」という段階にはありません。 その中で最も有力なのが「日本側の演習射撃に刺激された、中国側第二十九軍兵士の偶発的射撃」説であり、事件の流れを見ると、これが最も自然な説明でしょう。 *七日午後十時四十分の「第一発」から八日午前五時三十分の「最初の衝突」に至る経緯については、「盧溝橋事件 「第一発」問題」 「盧溝橋事件 最初の衝突」にまとめてありますので、併せてご覧ください。 「陰謀説」としては、中国側は「日本軍の陰謀」説を主張し、一方日本の側には、ここまで見てきたように「中国共産党の陰謀」説があります。 しかしどちらも、決定打に欠ける感は免れません。後者は「結果として中国共産党が利益を得た」という「結果論」からのスタートである、という見方も可能かもしれません。 以上、「タイプ1」の、「第一発=中国共産党陰謀説」に対しては、次の江口圭一氏の記述をもって「結論」としても差支えないと考えます。
次に、「タイプ2」の、「事件の拡大過程における中国共産党の役割」をめぐる議論に話を移します。 ただしこちらについては、「実は二十九軍内に多数の中国共産党員が潜入していた」以上の具体的な議論は、ほとんど聞かれません。「陰謀」と呼ぶにふさわしいのは、ほとんど唯一、寺平氏らが残すこのエピソードぐらいでしょう。
両者の記述を見ると、赤藤少佐、寺平大佐が聞いた「斥候の調査報告」が、このエピソードの情報源であったようです。 ただし秦氏などは、このエピソードに対して、「史実として確定するには証拠不足とせざるをえない」という評価を下しています。
また秦氏は、『諸君!』2000年2月号の座談会「歴史と歴史認識」で、次のような発言も行っています。
以上をまとめると、 1.「爆竹事件」については、複数の「犯人候補」が存在し、中国共産党を「犯人」と決めつけることはできない。 2.「劉少奇の指示」を受けて「爆竹事件」を起こした、とする「精華大学生」のエピソードは、「斥候」からの伝聞に過ぎず、史実として確定するには証拠不足である。 ということになるでしょうか。 さらに言えば、実際にはこの「策動」なるものは「事件」の拡大に何の貢献もできず、「失敗」に終わっていることを付言しておきます。 <付記> この議論に関係しますが、2005年春頃、このような書き込みをネットのあちこちで目にするようになりました。 「周恩来も1949年10月1日の中華人民共和国成立当日に『我々の軍隊が発砲したから、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害した』旨の発言をしている」 この話はネットの中の「伝言ゲーム」で広がったものらしく、ほとんどの投稿はその出典をスルーしていました。私も確認に苦労しましたが、どうやら元の文はこれであったようです。
念のためですが、別にこれは「盧溝橋」を主テーマにした論稿ではありません。よくもまあ、最初の紹介者はこんな名も知られていない雑誌の十年以上も前の文章を「発掘」したな、と「感心」します。 関連部分は、これで全部。山内氏は出典も根拠も挙げておらず、この周恩来発言のソースを確認するのは困難です。私は、国会図書館を訪れた際、「周恩来」の名のつく書物を片っ端から借り出して「1949年10月1日周恩来演説」の内容の確認を試みましたが、発見することはできませんでした。 *辛うじて、梨本祐平氏の著作「周恩来」で、周恩来がこの日になんらかの「演説」を行った事実だけは確認することができました。ただし内容は、「新政府の外交方針」です。
私が調べた範囲では、「中国共産党陰謀説」の論者でこの「周恩来発言」なるものを根拠として取上げている方は皆無です。この発言が事実であるとすれば、なぜ誰も取り上げないのか、不思議に思うところではあります。 さらに、この発言は寺平氏の紹介するエピソードを想起させますが、寺平氏に従えば、「精華大学生」は、「爆竹を鳴らし」ただけでした。彼らが「発砲」を行った、という記録は存在しません。 また、「今日の栄光を齎した起因」になるどころか、この「陰謀」は、日本側に暴露してしまったことにより、完全な失敗に終わっていたはずです。 「発言」が仮に事実であったとしても、その「内容」は、中国共産党の「放言に近い自慢話」の域を出るものではない、と思われます。 以上まとめると、 1.この「周恩来発言」の存在自体、確認困難な怪しげなものである。また、アカデミズムの世界の「陰謀論者」たちが、これに触れないのも不自然。 2.もし仮にこの通りの「発言」が存在したとしても、明らかに史実と異なるもので、信頼に価しない。「中国共産党の怪しげな自慢話」程度に捉えておくのが無難である。 というところでしょうか。 その後、この話はネットでの「流行」を終えたようで、2006年2月現在では、ほとんど見かけなくなりました。 2010.6.10追記 安井三吉氏が、『歴史科学』2008年12月号の『盧溝橋事件研究の現状と課題』の中で、この点についてコメントしています。
結局今日に至るも、誰も「典拠」を示せないでいるようです。
事件の背後には「コミンテルンの指令」があった。これまた、ネットでは「人気商品」のひとつでしょう。 しかしこのコミンテルン文書の存在が事実だったとしても、これは、コミンテルンが「全面的衝突」までに事件を拡大させることを指令したものに過ぎず、「陰謀」の根拠にはなりえません。 その「要点」は、以下のようなものであると伝えられます。
ちなみに、この資料についての、秦氏のコメントです。
出所は興亜院の「内部印刷物」であり、実際にこのような「指令」が存在したのかどうかということすら、確認が難しいようです。 また、存在していたとしても、「当時の中共党がとった方針と大差のない内容」であり、「陰謀」の存在を裏付けるものとは言い難いでしょう。
第二十九軍副参謀長であった張克侠が、実は中国共産党員で、「盧溝橋事件」を策謀した、という説です。中村黎氏が詳しく紹介しています。
中村氏は、二十九軍副参謀であった張克侠が秘密共産党員であったこと、また、その張が、劉少奇の承認の下、積極的な対日作戦計画を策定した事実に言及しています。 これ自体は『盧溝橋事件風雲篇』に記述されている通りなのでしょうが、これはせいぜい、張が日本における「拡大派」と同じような役割を果たしいてた、ということの「証明」にとどまります。 中村氏は、最後の段落で、突然これを「以降の執拗な射撃は・・・張克侠の積極的な対日作戦計画を発動実施したものではあるまいか」という「推論」に飛躍していますが、これはやや乱暴な論であると言わざるを得ません。 なお上に見られる通り、中村氏も、「あるまいか、と」「かも知れないと」と、慎重に断定を避けています。 いずれにしても、これは「中国共産党陰謀説」の具体的証拠というレベルにはないように思われます。 安井氏は、中村氏と同じ主張を行なう坂本夏男氏に対して、次のような批判を加えています。
確かに、「作戦文書」の存在のみをもって「陰謀」の根拠としてしまうのであれば、同じような論法で、「日本軍計画説」なり「中国国民党計画説」なりを主張することも可能となってしまうでしょう。 さらに秦郁彦氏は、当時の中国共産党北方局の要人の動きを追う中で、肝心の時期に「首謀者」であるはずの劉少奇が北平を留守にしていた事実を指摘しています。
そもそも「影の実行者」であるはずの劉少奇が、この時期延安に引き上げていたわけです。「張克侠の作戦プラン」を「陰謀説」の根拠とするのは、説得力が薄い議論でしょう。 以上、「中国共産党陰謀説」をめぐる論議状況を見てきました。 既に見てきたとおり、いくつかの「論拠」は存在しますが、いずれも決定打とするには不十分、と考えてよいと思います。現時点の研究では、せいぜい「疑惑」のレベルにとどまる、と見ておくのが無難でしょう。 また、「第一発」問題と、事件後の拡大過程の問題とは、明確に分離する必要があるでしょう。私見では、「第一発」自体に「中国共産党」が絡んでいた可能性はほとんど存在しないように思われます。 焦点となるのは、事件後の「拡大過程」で「中国共産党」が果たした役割です。 「抗日」を目指した「中国共産党」が「拡大」を望んでいたことは事実でしょうが、表立った宣伝行動はあっても、「陰謀」「謀略」と呼べるレベルの陰湿な行動があったのかどうか。 私見では、「陰謀」を証明する決定打は今のところ存在しない、と見るのが妥当であると考えます。 「第二十九軍」に多数の共産党員が潜入していたことは事実だとしても、これは単に、「二十九軍内において中国共産党が一定の影響力を発揮していた」というだけの話であり、「陰謀」という表現にはややそぐわないものであるように思われます。 日本と同様、中国軍内部に「拡大派」と「不拡大派」の対立があり、中国共産党党員グループはその一方の「拡大派」に属していた、というだけのことでしょう。 なお、『蒋介石秘録』によれば、第二十九軍軍長宋哲元が最終的に「抗戦」を決心するのは、南京から送り込まれた国民党将軍熊斌の説得によるものである、とのことです。中国共産党党員グループの役割を、過大に評価する必要もないでしょう。 (2004.10.4記 2006.2.21 増補全面改訂)
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