「日本軍の軍紀」ー憲兵の認識


 「憲兵」は、「日本軍の不軍紀行動」を取り締まる立場にありました。それだけに現地の実態にも詳しかったようで、当時中国に派遣されていた憲兵たちの回想録等を見ると、「日本軍の不軍紀行動」に触れたものを散見します。

 ここでは、日中戦争全般にわたる、憲兵たちのそのような記録を、何点か紹介します。

上砂勝七「憲兵三十一年」より

 南京攻略のため、柳川軍が編成され、二十有余隻の船団を組んで、堂々杭州湾李宅の浜に敵前上陸を敢行し、「日軍百万杭州北岸に上陸す」のアドバルーンを揚げたのは、昭和十二年十二月五日の払暁であった。

 そして息をもつかず、金山、嘉興、湖州の敵の前進部隊を撃破しつつ、南京へ、南京へと前進を続けたのである。

 上海派遣軍司令官は松井石根大将(A級戦犯で絞首刑)で、南京攻撃のため、朝香宮の指揮する軍を東の方から、柳川中将の率いる軍を南方から進めたので、柳川軍としては朝香宮軍に連繋して、遅れをとらないように、 朝香宮の軍は何日、何処の線を突破して前進、何日何処の陣地を攻撃と情報の入る度に、作戦参謀はあせり気味だった。

 或る日、柳川軍の幕僚会議が開かれた席上、作戦課長藤本鉄熊大佐(ノモンハン当時少将)から、南京一番乗りは、わが柳川軍に於いて占める意気を以って急攻急進したい、このためには後方連絡線の確保や、兵糧弾薬の補給も、 これに伴うよう計画されたいという提案が出た。

 南船北馬は中国の通り言葉で、柳川軍の行動した地方はクリーク(小さい運河)が多いので有名である。

 又特に、上陸地点に注ぐ銭塘江は世界で有数の潮の干満差の激しい場所とて、船団は無事杭州湾頭に碇を下し、 部隊は攻撃前進に移ったものの、兵器、弾薬、糧食などの揚陸作業が順調に捗らず、一部の輸送船は揚陸のため呉淋へ回航し、 上海経由で追及したような情況であったから、第一線部隊の携行糧秣は瞬く間に無くなり、 補給は続かず、全く「糧食を敵による」戦法に出なけれはならない有様であって、勢い徴発によったのである。

 然しこの徴発たるや、徴発令に基く正当な徴発は、現地官民共に四散しているため実行不可能で、自然無断徴用の形となり、色々の弊害を伴った。

 この情勢を見ていた軍経理部長は、 「こんな無茶な作戦計画があるものか、こんな計画では到底経理部長としては補給担当の責任は持てないから、離任して内地へ帰えらして貰う」といきりたった程で、 参謀長田辺盛武少将の口添えでその場はおさまったが、この作戦とこれに伴う補給とは、なかく調和の困難なものであった。

 昔、宇治川の戦いに於ける、佐々木高網と梶原景季との先陣争いは有名な語り草であるが、こんな心理は、古今相通ずるものがあると痛感したことである。

 右の如く軍の前進に伴い、いろいろの事件も増えて来るので、この取締りには容易ならない苦心をしたが、何分数個師団二十万の大軍に配属された憲兵の数僅かに百名足らずでは、如何とも方法が無い。

 補助憲兵の配属を申し出ても、駐留中ならば聞いてもくれようが、敵を前にしての攻撃前進中では、各部隊とも一兵でも多くを望んでいるのであるから、こちらの希望は容れられず、 僅かに現行犯で目に余る者を取押える程度で、然も前進又前進の最中のこととて、軍法会議の開設はなく、一部の者は所属の部隊に引渡して監視させ、一部は憲兵隊で連れて歩き、南京さして進んだのである。

 この状態が東京の中央部に伝わったので、時の参謀総長閑院宮閣下から「軍紀粛正に関する訓示」が出された。

 戦域が逐次拡大し、作戦兵力の増大に伴って、その要員の多数が教育不十分な新募又は召集の将兵を以って充たされるようになると、思いがけぬ非行が益々無雑作に行われるようになる。これには、指揮統率者の責任は固よりのことだが、 わが国民の一般的教養の如何に低いかを痛感させられた。

 皇軍々々と叫ばれていたが、これでは皇軍が聞いてあきれる状態であったので、憲兵は山地を占領する都度、その都市村落の入口や要所に露骨な字句や、故に逆用される虞れある文句を避けて、婉曲に日本兵に告ぐと題し、 火災予防、盗難排除、住民愛護の三項を大きく書いて掲示した。

 或る部隊長が憲兵に向い、「今度附いて来た憲兵は日本軍の憲兵か支那軍の憲兵か。取締りがやかまし過ぎるぞ」と詰問するのに、 憲兵が答えて「皇軍らしさに欠けるところがなけれは、日本の憲兵となり、さもなくば支那の憲兵と思われるでしょう」といったことがある。

 皇軍が皇軍らしい行動に、些かの欠けるところがなかったなら、数万の金品を使って宣撫したり、百万言を用いて演説するよりも、住民は自ら軍を信頼し皇威に服したであろうに、遺憾なことであった。

 柳川軍は南京入城式が終ると、上海の西南方杭州の占領に転進を命ぜられ、十二月十五日南京を出発して二十八日杭州に無血入城し、ここに初めて軍法会議を開き、拘禁所を設けた。(P175-P178)

*上砂勝七氏は、1918年10月、歩兵中尉より憲兵に転科。1943年8月、陸軍少将。終戦時、台湾憲兵隊司令官。
 


井上源吉「戦地憲兵」より

 水上警察

 
昭和十五年二月一日、水上憲兵隊とともに中国側に水上警察が新設されることになった。しばらくのあいだ南派遣所長を勤めていた私は、憲兵隊の所長兼中国側警察(署長・徐錫光)の指導官として転勤した。 管轄区域は上流の接敵地点生米街(ションミーチェ)から、下流はバンヨウ湖にそそぐ河口までの贛江流域である。

 準備された船は、中国側は十トン程度の蒸気船で、 憲兵隊は八気筒のトラックエンジンをすえつけた長さ五メートルほどのモーターボート一隻と、工兵隊から配属された上陸用鉄丹二隻との計四隻であった。 憲兵隊は主として流域の治安維持、中国側は中国人の水上輸送の保護と取り締りにあたった。

 今まで贛江を往復する日本軍輸送船の乗組員たちによる掠奪暴行などにおびえていた流域の住民たちは、私たちの巡回船を欣喜雀躍して迎えた。 この地域の治安は急速に回復し、日本軍にたいする農産物の補給も 順調に行なわれるようになった。

 ところが河川とはいえ贛江の川幅は広いため波があらく、強風の日は小さな舟なので何回となく転覆の危険にさらされ、なかなかいいことばかりではなかった。

 私たちが流域の村落を巡回してみて判明した日本軍用船乗組兵たちによるこれまでの悪行は、枚挙にいとまがなかった。 豚、ニワトリなど農畜産物の掠奪はほとんど連日のように行なわれ、水牛などは用もないのに面白半分に射殺されていた。

 住民たちがとくに恐れていたのは、婦女子にたいする暴行で、現地で強姦するばかりでなく、 ときには船中へ拉致して連れ去り、用済みになると遠方の江岸へ上陸させて置き去りにすることもあった。このなかの数人はついに帰還しなかったという。

 戦争というものがいかに人間をくるわせ、狂暴化させるものか、思うだに悪寒をおぼえるものだった。(P144)

*井上源吉氏は、1937年3月応召、北支那駐屯軍歩兵第一連隊に入営。1938年5月東京陸軍憲兵学校を卒業後、中国各地を転任、終戦時陸軍憲兵曹長。


 
宮崎清隆氏「憲兵 軍法会議」より

 殺人、強姦、掠奪部隊


 同年(「ゆう」注 1945年)の春四月、大陸湖南の戦線にも、桃の花びらがひとひらふたひら、軍衣に舞い落ちる頃となった。

 突如、のどかな夢を破るかの如く、(藤兵団第三十九師団)最後の攻勢は、老河口作戦で始まった。

 私は、藤兵団戦闘司令所、参謀部に兵団長佐々中将及び参謀長草野大佐の護衛憲兵兼伝令として配属を命ぜられた。作戦は当陽を出発、荊門より漢水のほとりを席捲して宜城、南陽方面より一挙に嚢陽、樊城を陥入しれ、 雨の日も風の日も山河を越えて進められた。

 私は支那服に拳銃一挺、わらじぱきという軽装で戦野を駈け廻り、兵団司令部の首脳部の身辺護衛と連絡を兼ねて、戦闘で殺気立った兵隊たちの犯罪予防に多忙を極めた。

 私は主として兵団長、参謀長に随行し、又憲兵隊で蒐集した情報を参謀長に報告して側面から作戦を有利に展開するなど、護衛任務も多種多様であった。

 そしてわが部隊が部落や都市に進攻した場合は、常に部隊に先がけ、わが軍に対する謀略危害予防の万全を期し、警備治安情報の積極的蒐集にのりだすとともに、部隊の軍紀風紀の確立につとめ、 宿営の夜などは、土地の婦女子を強姦しようとしている兵隊を発見し、これを強姦未遂として摘発したり、また家屋の物蔭に婦女を四、五名で輪姦中の兵隊を、現行犯として検挙したり、さらに、 付近の良民の家屋に立ち入り、物色したあげく家具器物を破壊し、最後に放火しようとマッチに点火する寸前、これを取り押さえたり、ある時には戦火に追われ逃けゆく住民を刺殺して金品を掠奪しようと相談中、私が支那服で通りかかったため、 支那人と間違えられ危うく一命を友軍の銃剣の錆とされようとして、これら下士官、兵を逮捕するなど、作戦間は攻守ともに多忙な激務に追われるのである。 (P114)




 ふと見ると、内務班の外壁にある板が二、三枚外れていたので、そこから床下に忍び込んで、様子をうかがった。班内の話し声は手にとるように聞えてくる。

 すぐ私の頭上の床板一枚を通して四、五人の兵隊の奇声が流れてくる・・・・:。

「俺の姑娘はきれいだったなあ・・・」

「いや、お前の方より俺の方がきれいだったよ。しかし俺の方は人妻だったからなあ・・・」

「こんど討伐に行ったら、始娘はあと回しにして、金や時計、衣類等の金になるものを物色するよ」

 こんな、果しもない会話を繰返えしていた。私にとっては、これは聞き逃がすことのできない強姦掠奪の犯罪を構成する証言である。

 このようなことが、まるで長き戦場生活に明け暮れする、兵隊たちの役得ででもあるかのように誇らしげに、公然と、しかも将来の犯行計画まで語られている。


 この部隊の不軍紀は、この一場面が如実に物語っている。しかし軍紀犯を長く取扱ってきた私は、あながち下級な兵隊ばかりを責めるわけにはゆかないものがあると思うこともある。

 軍政、作戦地用兵問題は別として、かかる犯罪行為に対して、 一部の兵の良心が、麻痺してしまった直接間接の原因は、長期間生命をかけた前線生活の環境による結果でもあったろう。 (P118-P119)

 かくして、これが犯罪発覚の端緒となり、ここに事件発生地の、荊門憲兵分遣隊長河西憲兵准尉の指揮下に入り私を捜査主任として、私の所属、 当陽憲兵分隊の総員をあげて大西、板垣、前田の各上等兵を各憲兵の捜査手段において厳重なる取調べを開始した。

 捜査取調べが進むにつれて、私が最初予期したような簡単な事件として処理するには余りにも稀有の悪質な重大犯罪が隠蔽されていた。

 すなわち、彼ら三名を首謀者とする一団は、部隊間にあっては、 平気で上官暴行、上官侮辱、脅迫等の行為をなし、一歩外に出ると作戦討伐にこじつけ、上官の命令に反して、監視の目を誤魔化し、殺傷、脅迫などの悪虐非道の手段をもちいて、 中国婦人や姑娘を平然と強姦または輪姦していたのである。

 またこれに付随して、無辜の中国良民の家屋に放火し破壊して、金品衣類などを掠奪したり、詐欺、横領、恐喝、窃盗の手段によって相当多額の金品を手に入れ、これをすべて賭博、飲酒、 あるいは慰安遊興費に使っていたことが判明したのであった。

 これを称して『朱家埠事件』という。 (P122)

*宮崎清隆氏は、日本大学法学部・経済学部卒。元陸軍憲兵曹長として、第二次世界大戦中、中国大陸に従軍。終戦まで作戦参加。本書執筆当時(1967年)は、鉄道弘済会調査役編集長。
 

(2004.12.19)

 
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