鈴木卓四郎「憲兵下士官」より


 著者鈴木卓四郎氏は、大正8年(1919年)生れ。昭和15年(1940年)憲兵上等兵となり、南支那派遣軍に転属となりました。それから終戦までの間、主として海南島で憲兵業務に携わりました。 敗戦後筆者は「戦犯容疑者」として勾留されましたが、結局は不起訴釈放となり、昭和22年6月、復員しています。

 1974年、氏は新人物往来社より、当時の回想録を出版しました。数々の興味深いエピソードが登場しますが、その中から5つを選び、以下、紹介していきます。




 最初は、昭和15年の南寧撤退時のエピソードです。「防諜上の見地から」留置場に収容していた「女子供を含む百名以上」の「留置人」に対して、軍より、「防諜上処刑すべきである」との命令が出されました。 結果としては、現場将校の命令拒否により全員助命されましたが、日本軍撤退時には、このような乱暴な命令が出されることもあったようです。

転進作戦

 三好少佐以下の主力が、再び南寧に帰って来たのは(「ゆう」注 昭和十五年)十月の初句であった。既に次期作戦の準備は始まっていた。 日本軍の海路より進駐した西村支隊と西原監視団の駐留によって、中国側はさらに奥地の昆明ルートを開いたため、広西公路を押える南寧占領の意気は失われた。(P28)

 次期作戦とは南寧から撤退する作戦であった。作戦の名称は、南寧転進作戦というが、明らかに撤退作戦であった。だが軍の撤収は進攻以上の困難がともなうものである。(P28-P29)

 作戦X日(二十二軍司令部が南寧を出発する日)は十月三十日と決定された。我々は軍司令部と共に出発するものと思っていた。

 だが、全く予想もせざる問題が起った。それは五十余名を超える留置人と、在留邦人が使用していた現地人の処置であった。邦人引揚げの際は、防諜上の見地から一応保護の名目で留置場に収容していた。その数は女子供を含む百名以上にも達していた。

 軍としては、防諜上、処刑すべきであるとの方針だった。
だが此の命令を拒否したのは三好隊長であった。 たとえ敵性住民として捕われたものであっても、犯罪事実の明確でないものを処刑することは、国際法に違反することではあるし、ましてや、軍または在留邦人に協力してきた善良なる中国人を処刑することは許されるべきではない。

 それのみか、敵側は我が方に収容されている人員が如何なる処置をうけるのか監視しているものと見なければならない。かりにも処刑の如き強硬手段に訴えた場合は、無益な刺激を与えるのみか、撤退作戦其のものが至難となり、犠牲が多くなると思わねばならない。

 三好少佐の正論に押えられ、二十二軍の参謀部は其の処置を憲兵隊に一任した。但し、X日プラス三日、即ち十一月二日〇時、後衛尖兵大隊が市内を撤収するまで、此の百五十余人を監視し釈放せざることを条件とした。

  此の軍から附された条件の下に、三好少佐は百五十余人の留置人を最後まで監視すべきものの人選をした。川北曹長を長とし、下士官以下五名、補助憲兵五名、計十名の川北隊と名乗る監視隊が出来た。幸か不幸か私も其の一員として加わることになった。(P29)




 次は、いわゆる「厳重処分」の体験談です。

 
処刑者

 「今日の午後から、厳重処分を実施するから、勤務に支障のないものは、必ず出るように」と、警務主任の土井曹長から指示があった。

 厳重処分とは警察用語の「厳重注意」「厳重説諭」の如きものと考えていた。しかし、どうもそんな生易しいものでないことが判った。それは留置場に収容されている現地人を処刑する、文字通りの厳重処分のことであった。

 正午過ぎ、警務主任以下、新拝命の兵長、補助憲兵を含む二十名ばかり、庁舎の中庭、留置場前に集まっていた。既に処刑を受けるべき留置人五十人ばかり、二台のトラックに乗せられていた。 二十歳から五十歳位まで、青年から初老まで、農民もあれば、商人風もあり、果ては一見して敵側の軍人と判るものもいる、種々…雑多であった。

 しかし、ぼうぼうと伸びた髪やひげ、青白くやせた顔色は、長時間の留置場生活を物語っていた。鉄帽を背負い、銃に着剣した補助憲兵が車上にあって警戒していた。処刑執行者たる我々警務係十余名は、三台自のトラックに乗って市内に出た。

 維新路−恵愛路−大東路等、市内の繁華街を二時間以上も引き廻して処刑場たる白雲山のふもとに到着した。一月の末、二月の初めといえば、内地の晩秋のように、夏衣には肌寒く感じられた。 緑の木一本ない、荒涼たる山麓には人影は勿論、生物の息さえ聞えぬ静寂きであった。

 先発の特高係員と補憲の手によって、刑場は準備されていた。刑場といっても、ただ山麓に、二米四方の深さ二米の穴を二つ掘っただけであった。(P35)

 警務主任の命令のもとに、後手に縛られた処刑者は次々とトラックから下ろされ、処刑場から二十米位後方に並べられた。死を観念したのか、一言の言葉も片言の訴えもない蒼白の顔色には、重苦しい沈黙が流れていた。 むしろ、無実を訴え、死を忌む号泣の方がどれほどの緊張感をやわらげてくれるだろうか。あらかじめ用意していた白布で、目隠しをしようとしたら、甘んじて受けるものもいたが、頑強にこばむ者もいた。(P35-P36)

 「只今より、刑を執行する。四名ずつ連れてこい」と、刑の執行を命令する、土井曹長の声は緊張にふるえていた。 最初の四名の処刑者が介添の補憲に連れられて、一歩踏み出した時、突然誰からともなく一斉に『抗日戦線の歌』が合唱された。

 「止めんか、歌を止めろ」

 我々が必至で止めさせようとしたが、死を目前にした彼等は止めようとはしなかった。益々声を高く、狂気のように、隣同志と肩をぶつけ合うもの、縛られた後手を上下に振り動かすもの等、目前に迫る死を恐れているのか、喜んでいるのかわからぬ光景であった。 狂気の合唱はしばらく続いたが、歌いつかれたのか漸く終った。

 四人一組の受刑者は介添に支えられて、穴の側に正座すると、日本刀をかまえて後に立った執行者が、呼吸を合わせて、打ち下せば其の瞬間、頚動脈からほとばしる血液は、二条の噴水のように上った。首の離れた胴体は一瞬立上るが如くして、前の穴はどうと落ちていく。 或いは未熟な腕に、切り損じて軍刀の下にうめいている声、時折りひびく小銃の音は、未だこと切れぬ者に対する止めの銃声であった。

 合唱につかれたのか、絶望に叫ぶ力がなくなったのか、一時は静まり返っていた受刑者の一人が大きな声で泣き叫んだのが合図のように、処刑を待つ二十人ばかりが一時に声をあげて、わめき、泣きだした。(P36)

 此れが此の世のことか、此の世の白日の下で行なわれることであろうか。己のなすべき術も忘れて呆然と立っているだけであった。戦闘中だったらまだしも、全然無抵抗なものを処刑するには余りにも残酷すぎるような気がした。

 此の凄惨な状況にたえかねて私は周囲を警戒する警戒班に廻った。何時間位かかったろうか。漸く処刑が終った。さしも深かった二つの穴も七分通り埋まっていた。 死屍るいるいというべきか折重なり、積重なった死体に掘り上げた土をかぶせるのもそこそこに、三台のトラックに分乗して現場を立ち去った。

 真赤に染めた夕日は、ついさっきまで流されていた血の色にも似ていた。はるか右手の白雲飛行場からは、一機、二機と編隊を組んで北西をさして飛んでいく。黄昏の広州市には灯がともった。にくしみ合う敵と味方が雑居して、今日も又不安定な平和を保っていた。

 聞けばこの厳重処分は、各分隊毎に、二ヶ月に一回、実施しているとのことだ。彼等の身分は一体何であろうか。彼等は俘虜であろうか、いや、俘虜ならば、陸戦法規で俘虜としての特権を受けるべきである。

 私は其の夜は当直であった。退屈さと其の疑問に、永久書類(占領地の法規・軍令・内規を綴った書類)を引き出してみた。

 矢張り、彼等は俘虜でなかった。敵側の諜報員・謀略員・遊撃匪等で、占領地域の治安を撹乱させ、或いは日本軍事施設破壊のため潜入した、いわゆる第五列であって、俘虜としての待遇を受ける資格を保持していなかった。 彼等にしてみれば武運ったなく憲兵に検挙されたものであった。しかし祖国に捧げたと思えば諦めのつくことであろうか。(P37)

 彼等を厳重処分という極刑にする根拠は、軍令によって定められていた。 憲兵分隊長は犯罪事実の明瞭なるものは、南支那派遣憲兵隊長に申請して其の許可を受けて厳重処分を実施することが出来る、但し海南島・汕頭分隊長は現地司令官の許可を受けることになっていた。

 一応形式的には、憲兵部隊長・現地司令官の許可にはなっているが、事実は第一線の分隊長が其の権を握り、其の権を操作、実行するのは憲兵下士官であった。(P37-P38)

 これが敗戦後、中国大陸における憲兵の大量虐殺、或いは合法殺人事件として、官、憲兵部隊長の戦犯の有力原因となった悪名高い軍令であった。(P38)




 続いては、「厳重処分予定者」に逃亡されてしまったという、軍人としての将来を断たれかねない失敗談です。

 報告を受けた上官はどう対応したか。なんと、「本日厳重処分した」ということにして、「逃亡」の事実を隠蔽するように指示します。笑っていいのか悪いのか・・・。

警備の弱体化

 兵力の不足による警察権の弱体は、部外に対してだけではなく隊内にも大きな影響を及ぼした。特に私は此の兵力の不足により、留置人の逃亡の責任を負わねばならない羽目になったことであった。 留置人・囚人の逃亡責任を関われた警察官・看守のみじめさは、其の職にあった者、其の経験のある者でなければわからない。

 特に軍人であり、警察官である我々が、留置人を逃がした場合は、其の将来は致命的なものであった。

 十月から十一月の晩秋に入れば、さすが南国の海口市も、ビールから酒と、漸く落ち着きを取戻したような気候になる。 そんな時のある日、前半夜(終業時から十二時まで)の当直を終えて、後半夜(十二時から翌朝始業時まで)の当直である高田兵長に申し送り、当直室で一杯の酒をやり、ぐっすりと眠った。

 何時間くらい経ったろうか。(P71)

 「鈴木軍曹殿」と呼ぶ声にハッと目を覚ました。直感的に事故を感じて、あわてて入って来た高田兵長の顔には、ただならぬものがあった。「留置人が逃げました。それも厳重処分予定者二名です。」(P71-P72)

 高田兵長の側には、留置場監視の補助憲兵の一等兵が悄然と立っていた。

 私は事務室から三十米位離れている留置場に走った。留置場は普通の支那家屋を改造したものであった。扉にも、錠にも異状がなかった。しかし、昨夜まで確かに居た二名の留置人は煙のように消えていた。

 不思議に思って中に入り、径十センチくらいの丸太格子を一本一本点検した。矢張り原因はあった。一番奥の一本は何んの抵抗もなくはずれ、約三十センチの空間が出来た。其の場には、現地中国人の使用する、長さ十五センチばかりの細いのこぎりの刃が落ちていた。 留置人は、留置場監視の眼を盗んで、格子を切り、すきを見て逃亡したことがわかった。

 処罰・重謹慎、私は一瞬気の遠くなる思いであった。将校への昇進は勿論、曹長への進級さヘ当分は望めぬこととなった。私自身に将校になれる能力と素質があるとは思っていない。 しかし一度は軍隊に入ったものは、誰にしても将校を目標として努力しているのだ。其の希望はたたれ、処罰を受け、軍人としての生命を断たれるとなれば平静になれというのは無理であった。

 漸く落ち着きを取戻し、高田兵長と二名の補憲に、責任は自分にある故軽率な振舞はせぬようにと、きびしく命令して隊長室に入った。事故の顛末を詳細に報告し、其の罪を謝罪して、責任は私一人に止め、関係者三名には累を及ぼさぬように懇願した。

 暫く瞑目していた三田少尉は口を開いた。

 「お前ら四名の責任は、隊長たる己の責任である。姑息な手段かも知れないが、逃亡の事実はないものとし、本日厳重処分をしたとして、隊本部に報告せよ。補憲に対しては後日厳重に注意しておく。帰って休むがよい。」(P72)

 私は初めて人の情、上官の情愛を感じた。感動に落ちる涙を押えながら、事務室に帰った。改めて事故の原因を考えた。確かに海口市の泰平に馴れた軍紀の弛緩が原因とはいえ、最も大きな原因は兵力の減少であった。 従来までは二名、三交代(六名)の留置場監視勤務であった。

 だが収容留置人が少なくなったとはいえ、一名二交代(二名)と人員が減った現在としては、当然おこるべくして、おこったようなものである。部外よりの圧迫、部内の兵力の不足による警察権は大きくゆれた。

 後日の話ではあるが、終戦後三田少尉(大尉に昇進)と共に私も戦犯に指名された。「鈴木、海南島で処刑しなかったことは、結果的には良かったな」と当時を述懐する三田大尉の胸には、複雑なものが含んでいたようだった。(P73)





 しかしこの「厳重処分」なるもの、必ずしも十分な取調べを尽したものでもありませんでした。「分隊の功績成果をあげるため」、必要以上の「厳重処分」を行なった例もあったようです。

 「罪状の明確なもの」4名だけを「厳重処分」の対象として申告した筆者に対して、上位者は、「今月は十八年の最初の月として少なくとも十人は予定していた」という乱暴極まりない理由をもって、 「犯罪事実が明確でなかった」保留取調者5名まで、合わせて「厳重処分者」として申請するように指示します。

 筆者は反対しましたが、結果としては上位者の意向が通り、この5名も「厳重処分予定者」として申請されることになりました。

左遷

 警務主任の井徳軍曹から、留置場整理係をやるようにとの命令を受けたのは、正月気分のようやくとれた一月中旬であった。資料として渡された部厚い留置人名簿を手にした時は、背に刃を刺されたような気に襲われた。(P101-P102)

 憲兵隊には必ず留置場というものがあった。其の規模は、其の分隊の編成によって、多少の差はあったが、二十名から五十名程度を収容するものが普通であった。もっとも南支で一番大きい中央分隊などは、二百名以上も収容できる刑務所のような大きなものもあった。 当時の江門分隊には、二十名収容のものが二つと、独房と日本人専用のものと五十名位の設備があって、常に二、三十名位は収容していた。

 収監するものは、原則として現地中国人の軍に対する反逆行為・軍用物の破壊工作・謀報謀略等、要するに軍の存立に不利な行動をする敵側の潜入分子、または敵性住民であった。 それが検挙責任者の転属とか、長期出張とかで取調べもせず、未解決のまま、一ヶ月も二ヶ月も留置されているのも珍らしくなかった。

 此の忘れられた留置人を取調べ、釈放すべきもの、中国側に移送すべきもの、或いは厳重処分にすべきものとに分け、整理するのが留置場整理係(正式職名はなく、我々は俗にそう呼んでいた)の本来の任務であった。

 だが問題は其の陰にあった。分隊の功績成果をあげるため、或いは憲兵個人の名誉のために、本来ならば当然釈放されるべきものに、適当な罪名を付けて厳重処分を申請するのであった。 其の適当な留置人を選び、適当な罪名を付けるのが整理係である取調官の本来の任務以上の任務であった。(P102)

 好奇心とか、功名心にかられて、進んで此の任務に就くものもいたが、無実の囚人に死刑の判決文を起草するような、此の仕事を良識のあるものは殆んど敬遠したものであった。私も以前に命令があったが、なんとか理屈をつけて体よく逃げた。

 だが今度は観念した。河本伍長の忠告にもかかわらず、井徳主任とは着任早々から感情がうまくいかなかった。彼は二、三ヶ月前内地から増員され、まだ内地憲兵気分がとれていなかった。 中野の憲兵学校の三期生という意識が強く、「内地では」「憲兵学校では」と、ロに上らせて優越感を誇っていた。

 "二期の差があっても、俺だって軍曹であり、五期生だぞ。昨日や今日外地に来て、何がわかるものか"と、多少の軽侮していたのが、彼の勘にさわったらしく、ことごとに意見が対立した。 嫌な任務ではあったが、避けられぬ関門であり、一度や二度は必ず通らねばならない任務と覚悟はしていたものの、井徳主任の職務を笠に着た高圧的な命令に強い反発心が湧いた。

 "やりますよ。だがお前の功績を上げるため無実の住民の犠牲は許さないぞ"と、決心して、取調補助の河井伍長と警戒兵の補助憲兵、通訳に対して、公正なる取調べをするため、

○拷問は絶対やらない
○検挙責任者の居ないものは直ちに釈放
○日本軍に関係のない犯罪者は中国側に移送
○証拠のないものは保留として、今一度証拠を集め、再び取調べをすること

 以上のことを指示して、一人でも多く釈放し厳重処分者は一名でも少なくするようにした。

 軍法会議、軍律会議に送致するものとは違って、取調べは簡単なものであった。形式的な聴取書をとり、取調官の意見を附して隊長に提出し、其の許可を得ればよいのであった。

 しかし、簡単といっても、三十余人の取調べは一日や二日で出来るものではなかった。漸く書類をまとめ、井徳主任に提出したのは一週間以上も経ってからだった。(P103-P104)

 最後まで目を通した井徳軍曹の声は怒りにふるえていた。

「鈴木軍曹、これでは全員釈放ではないか」

 彼の爆弾を予想していたので、別段驚かなかった。

「そうです。厳重処分予定者の者から罪状の明確なもの四人だけ申請することにしました。保留再取調のものが五入居りましたが、犯罪事実が明確でなかったから、中国側に移送するのが適当と思います。」

「厳重処分者は、たった四人か。今月は十八年の最初の月として少なくとも十人は予定していた。それが四人では話にならん。保留者五人全部厳重処分者として隊本部に申請せよ。」

 余りの暴論にいささか興奮した私は、「井徳軍曹殿、無実の住民を犠牲にしてまでも功績をあげなければなりませんか。私は、そんな馬鹿なことはできません」と不謹慎な言葉を吐いてしまった。

「鈴木、馬鹿とは何か。それが上官に対する言葉か」と私以上に興奮した彼の、柔道三段の右手が左のほおにとんできた。

 不意の暴力によろめく身体を漸くささえて、「上官である井徳軍曹殿を馬鹿と言ったのではありません。裏付ける証拠もなければ、自白もないものを、ただ一回の取調べで極刑にすることが馬鹿なことだと言っただけです。 憲兵拝命して四年、初めて私的制裁を受けました。それが職務上の意見の相違からとは心外です。私の取調べ方法に不満でしたら、他のものと交代させて下さい。」

 敬礼も会釈もせず、井徳軍曹に背を向けて事務室を出ようとした。(P104)

「鈴木、貴様は上官を侮辱する気か」と、荒々しい言葉と共に追いかけてきて、再び暴力を振おうとした。

「鈴木軍曹、言葉を慎しめ。井徳軍曹も暴力を振うのはやめよ。」

 低いが、貫録というか、ドスのきいた特高主任の富樫曹長の声でさわぎは漸く納まった。

 当然とはいえ、私の言葉が問題となった。同列同級とはいえ、命令権のある主任者に穏当でない言葉を吐いたことであった。 しかしそれよりも大きな問題となったのは、鈴木軍曹を井徳軍曹の下に勤務させておいた場合、今後如何なることが起るやも知れないということであった。

 私に対する処分は、其れから二、三日後の日日命令となって出た。

陸軍憲兵軍曹鈴木卓四郎
右の者、二月一日付を以って、中山憲兵分遣隊附を命ず。依って最近の便船を以って中山市に至り分遣隊長の指揮に入るべし。


 現代流にいえば、本店の営業課次席から、支店の営業課次席に格下げ、左遷されたようなものであった。でも私としては意外に軽い処分であった。

 場合によっては、一週間位の重謹慎は覚悟していたが、単なる異動で済んだのは、外地に来て日の浅い井徳軍曹の"軍令憲兵なにものぞ 勅令憲兵の腕を見せてやるぞ"と気負って、功をあせり、上にも下にも好意がもたれていなかったことが大きな理由であった。(P105)

私に代って特高係の某軍曹の再取調べによって、保留者五名全員が厳重処分予定者として申請された。公正な取調べを望んだ私の完全なる敗北であった。 だが、即時釈放、中国側移送は全員認められたのは、僅かながら慰めになった。(P105-P106)





次は、「憲兵による拷問死」の事例です。以下のエピソードからは、「拷問」が日常的に行なわれていたことが伺えます。

抗議

 事件が起ったのは、曹長に進級する直前だったから二十年の一月の末か、二月の初めであった。事件の二、三日前、警務係で県政府の幹部である「李渉外課長」を逮捕し取調べ中であると警務主任から特高主任に連絡があった。

 対中国人関係は主として特高で取扱っていたし、特に中国機関に対しては慎重を期して、たとえ職員の行動に多少の疑惑があっても、逮捕、監禁などの強硬手段は避けていた。 それにもかかわらず、事もあろうに渉外関係を一手に握る李課長を逮捕したことについては、特高職員としては大きな不満があった。しかし、警務主任が班長の須賀准尉(中村隊長は本部に長期出張)の許可を得ての逮捕だから文句のつけようがなかった。

 朝礼が終った九時頃、軍服を特務服に着替え、勤務に出ようとして留置場の隣にある取調室の前を通った。其の時、取調室の中から大きな怒号の声が聞えてきた。「随分早くからやっているな。誰だろう」と軽い気分で中をのぞいた。(P195)

 私はその場を見た瞬間、「はっ」とした。我々が心配している李渉外課長の取調べを楢原伍長がやっているではないか。李課長は、乱れきった髪をふるわせて、怒りに燃える手で床をたたきながら、怒号のような声で抗弁していた。 上流階級のみに許される羊皮の長衣は破れ、過酷な取調べを物語る紫色にはれあがった傷の下からは、卑しからぬ顔がありありとのぞかれた。(P195-P196)

「楢原どうした、止めんか」

 倒れるようにうずくまっている李課長を抱き起して椅子に坐らせた。

「警務主任、班長の命令で取調べをやっているのです。関係のないものは文句を言わないで下さい」

「何に、関係がない、文句を言うなとは何事だ。遊匪や土匪ではないぞ。いやしくも県政府の高官ではないか。こんなひどい取調べをする奴があるか」

「これがひどい取調べですか。満州では、此のくらいは取調べの部類には入まりせんよ」と私の意見を容れようとしないのみか、 更に拷問の「死の十字架」(拷問中の拷問で遊土匪の取調べ以外には禁止されていた)の準備を始めようとした。

「ここは満州ではない。南支那だぞ。警務主任には俺から話しておくから、此れ以上の拷問をやっては駄目だ」と強く念を押したが返事はなかった。

 事務室に来たが警務主任がいなかった。若い伍長にすぐ探して来るように命ずると共に、須賀准尉に速やかに楢原伍長の取調べを中止するように要請した。 しかし、須賀准尉は「警務主任の金城曹長がやらせているのだから、心配することはないだろう」と軍曹のくせに、生意気なことを言うなとばかりの言い方であった。

「此の無能准尉、問題が起きたって俺は知らぬぞ」と口の中でつぶやきながら、自分の机に坐った。(P196)

 私の予想は三十分後に起った。あわただしく入ってきた楢原伍長の顔は真蒼であった。

「取調べ中の李課長が今死にました」
と班長に報告する声はふるえ、とぎれがちであった。

 事の重大さを知ったのか、須賀准尉も顔色を変えて立ち上った。特高席の我々も一せいに立ち上って楢原をとりまいた。

「金城はどうした、金城曹長はどうしたのだ。まだ連絡がとれないのか」と、部下に命令する須賀准尉の声も興奮にふるえていた。

「死んだのではないだろう。楢原、お前が殺したのだ。此の馬鹿野郎が」と、大きな声で皮肉った。

 悄然として首をたれる彼の姿にはつい三十分まえまでのような傲慢な態度は一つもみられなかった。

「楢原伍長、大変なことになったな。責任はとってもらうぞ」

 無責任な須賀准尉の言葉に、むらむらと反抗心がおきてきた。

「班長殿、直接責任は確かに楢原伍長にあるけれど、其の大部分は班長殿にあると思います」

「何に、班長の俺に責任があるというのか」

「そうですよ。今から三十分前、此のような事故が起るから、取調べを中止して下さるように報告したのではありませんか。それを今更知らなかったとは、余りにも無責任ではありませんか」

 事故による興奮よりも、一軍曹である私の言葉に度を失った班長は、

「鈴木、貴様は上官に向って」

 すっくと立ち上って、握りしめた右手で机を強くたたいた。(P197)

 「鈴木軍曹、言葉を慎しめよ」特高主任の富樫曹長の声に己を取り戻して、「どうも済みませんでした。興奮していたものですから」と軽く頭を下げて、あやまりながらも、責任をのがれようとする須賀准尉に対する不満を押えることが出来なかった。(P197-P198)

 李課長の死体は、取調べ室から南向きの廊下に移されていた。手首、足首は紫色にはれあがり、麻なわで強く縛りつけられた跡が歴然としていた。 更に顔から上半身にかけて、水につかったようにぬれているのは、「死の十字架」の拷問死によることを物語っていた。

 あれ程注意し、強く中止を命じたのに、敢てやったのは、私に対する意地からでなかったか。私としても以前からの悪感情がなかったら、たとえ警務、特高の系統的差があっても、中止させることが出来たであったろう。 なぜあの時班長に対してもっと強く中止を要請しなかったのか、とはげしい後悔の念が湧いて来た。

 李課長の獄死は予想以上の反響をまねいた。敵地区発行の新聞はもとより、和平地区の新聞も一斉に、憲兵隊の処置を不満として連日のように攻撃した。

 更に省政府の強い抗議を受けた軍司令部からは、真相究明のため調査員が派遣された。出張中の中村中尉は二度と江門市に帰って来なかったし、中心人物の楢原伍長は、広東の隊本部に召喚されたまま、我々の前には再び姿を現わさなかった。 当時の責任者であった須賀准尉は三月一日附で予備役となり、内地に帰還した。

 事件は一応解決したかのように見えたが、政府機関や和平軍の日本軍に対する不信感は、此の事件を契機として、新会県のみならず南支軍占領全域に拡がった。和平機関職員の敵地への逃亡或いは和平派軍の集団逃亡等の数は、二倍或いは三倍となった。 心ない下級下士官の愚にもつかない感情のもつれから、二重三重の事件をひきおこし軍の占領政策に背いたことを今更ながら悔やまれてならない。(P198)



その他にも、アヘン汚染の実態、中国側によるテロ事件、台湾人の石緑鉱山への強制連行など、興味深いエピソードが随所に登場します。当時の「普通の戦地憲兵」の実態を知る上で、貴重な記録であると言えるでしょう。




最後に、表紙扉の「筆者のことば」を紹介します。


著者のことば

 昭和十三年から二十二年までの十年間は、私の人生の一部分ではあるが、ある意味においては大部分かもしれない。

 戦後、幾多の戦記が出版され、その中には憲兵を取材とした戦誌もまた少なくない。諜報、謀略に華々しく活躍する姿がえがかれているが、私にはにわかに釈然としないものがあった。

 果して、これが憲兵の本領であり、真実の姿であろうか。巡察、取締、あるいは情報収集等、軍の蔭にあって、地道に歩んだ憲兵こそ大部分でなかったろうか。

 平凡な一下士官として、当時を回想し、真実の一端でも、世の中の人に理解していただければと、この一文をまとめたしだいいです。 内容は粗雑きわまるものですが、偽りも、誇張もなく、あくまでも事実そのままを伝えようとだけ努力いたしました。

(2008.7.6.)


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