鈴木卓四郎「憲兵下士官」より |
著者鈴木卓四郎氏は、大正8年(1919年)生れ。昭和15年(1940年)憲兵上等兵となり、南支那派遣軍に転属となりました。それから終戦までの間、主として海南島で憲兵業務に携わりました。 敗戦後筆者は「戦犯容疑者」として勾留されましたが、結局は不起訴釈放となり、昭和22年6月、復員しています。 1974年、氏は新人物往来社より、当時の回想録を出版しました。数々の興味深いエピソードが登場しますが、その中から5つを選び、以下、紹介していきます。 最初は、昭和15年の南寧撤退時のエピソードです。「防諜上の見地から」留置場に収容していた「女子供を含む百名以上」の「留置人」に対して、軍より、「防諜上処刑すべきである」との命令が出されました。 結果としては、現場将校の命令拒否により全員助命されましたが、日本軍撤退時には、このような乱暴な命令が出されることもあったようです。
次は、いわゆる「厳重処分」の体験談です。
続いては、「厳重処分予定者」に逃亡されてしまったという、軍人としての将来を断たれかねない失敗談です。 報告を受けた上官はどう対応したか。なんと、「本日厳重処分した」ということにして、「逃亡」の事実を隠蔽するように指示します。笑っていいのか悪いのか・・・。
しかしこの「厳重処分」なるもの、必ずしも十分な取調べを尽したものでもありませんでした。「分隊の功績成果をあげるため」、必要以上の「厳重処分」を行なった例もあったようです。 「罪状の明確なもの」4名だけを「厳重処分」の対象として申告した筆者に対して、上位者は、「今月は十八年の最初の月として少なくとも十人は予定していた」という乱暴極まりない理由をもって、 「犯罪事実が明確でなかった」保留取調者5名まで、合わせて「厳重処分者」として申請するように指示します。 筆者は反対しましたが、結果としては上位者の意向が通り、この5名も「厳重処分予定者」として申請されることになりました。
次は、「憲兵による拷問死」の事例です。以下のエピソードからは、「拷問」が日常的に行なわれていたことが伺えます。
その他にも、アヘン汚染の実態、中国側によるテロ事件、台湾人の石緑鉱山への強制連行など、興味深いエピソードが随所に登場します。当時の「普通の戦地憲兵」の実態を知る上で、貴重な記録であると言えるでしょう。 最後に、表紙扉の「筆者のことば」を紹介します。
(2008.7.6.)
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