汪兆銘(汪精衛)は、日中戦争開戦当時、国民政府内で蒋介石に次ぐNo2でした。しかしのち、蒋介石と訣別して、最終的には日本の傀儡政権の長を務めるに至ります。
汪兆銘は、中国では、「漢奸」、すなわち民族の裏切り者としての評価を受けています。しかしその一方、汪が、少なくとも主観的には、「善意で中国民衆のために行動していた」という側面も否定できません。
善意の政治家であったはずの汪兆銘が、なぜ日本の傀儡政権である「南京国民政府」の長となり、中国側から「漢奸」の謗りを受けるに至ったのか。本コンテンツでは、この経緯を追ってみることにします。
目 次
汪兆銘 その理想と現実 1 裏切られた「撤兵」の約束(本稿)
1 「訣別」を決意するまで
2 重光堂会談
3 裏切られた「撤兵」の約束
4 「新勢力」構想の挫折
「対日抗戦派」主流の国民党政府内にあって、早い時期から「日本と早期に和平すべし」と主張していたのが、汪兆銘です。その動機は、戦争の長期化に伴う中国国民の苦しみを見ていられなくなったから、といいます。
『汪精衛自叙伝』より
わたくしは首都南京陥落前から、已に和平のため何とかしなければらなぬと焦慮してゐたが、徹底抗戦の声は全土にあふれ、抗戦熱に燃えさかつてゐる秋ではあり、
わたくしの実権が蒋政権陣営内に於て極めて微弱であつたから、わたくしの和平態度は勿論、当国を動かすことは不可能であつた。
しかし、わたくしの絶えず胸中を往来するものは、中国の国家と国民のことである。被占領地域は日に増し拡大し、重要海港と交通路線は悉く喪失し、財政はいよいよ窮乏して、戦禍にあへぐ四億の大衆は、塗炭の苦に沈淪してゐる。
(P176)
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中国では「徹底抗戦」ムードが主流であるが、戦局は不利になる一方で、四億の民衆は「塗炭の苦」にある。自分としては、「和平」を求めたい。
しかしこのスタンスは、「抗戦派」優位の国民党政府内にあって、大変なリスクを伴います。のち汪兆銘政府のNo2となった周佛海は、のち汪政府に参画したジャーナリスト金雄白に対して、このように語っています。
金雄白『同生共死の実体』より
(周仏海の談話)
だが当時の世論は、すでにある種の野心をもった人びとによって左右されていた。高調子の意見が最高原則とされて、和を談ずるものは、攻撃の目標とされた。すなわち漢奸である。(P24)
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日中関係史の専門家、劉傑氏の分析も同様です。
劉傑『漢奸裁判』より
問題は、日本が期待した「親日派」が、中国ではどのように評価されたかということである。
汪兆銘自身は、日本に対する「一面抵抗、一面交渉」(抵抗もするが、交渉もする)を主張したために、一度凶弾に倒れた人間である。 つまり、中国人のなかでは、侵略者日本との妥協や交渉は、国を裏切る行為であり、そのようなことに手を染める人間は「売国奴」以外の何ものでもないのである。
(まえがき P4-5) |
侵略者日本との妥協と交渉を行うような人物は、「売国奴」以外の何ものでもない― 汪兆銘が「和平」を主張したのは、こんな雰囲気の中でのことでした。
やがて汪は、日本側の平和運動家たちと親交があった高宗武らを通じて、日本側が汪に「和平」の期待をかけていることを知ります。 それに自信を得たのか、1938年10月頃から、汪は、蒋の「抗戦」方針に公然と反旗を翻すに至りました。
汪は、ロイター記者との会談の中で、「和平」の考えを表明します。
『汪精衛自叙伝』より
民国二十七年(昭和十三年)十月十二日、日本軍南支上陸の報道を手にした、わたくしは和平に対する信念をロイテルの記者に向つて発表した。
『若し日本提出の和議条件が、中国国家の生存を妨げなければ、吾人は之を接受して討論の基礎とすべきであり、然らざれば即ち調停の余地はない。一切は日本の提出する条件を見て論定すべきである』
と。この声明が、蒋政権内に重大なる反響を捲き起こしたことはいふまでもなかつた。
(P193) |
続いて、日本政府の「近衛第二次声明」が、汪と蒋介石との衝突が決定的になるきっかけを作ります。
近衛第二次声明(1938年11月13日)
今や陛下の御稜威に依り帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定した。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず。然れども、尚お同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが潰滅を見るまで、帝国は断じて矛を収むることなし。
帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に存す。
この新秩序の建設は日満支三国相携え、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立すを以て根幹とし、 東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。
帝国が支那に望む所はこの東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応えむことを期待す。
固より国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改善して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。
帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜新情勢に適応すペきを信じて疑わず。就中盟邦諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。
惟うに東亜に於げる新秩序の建設は我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り、万難を排して斯業の達成に邁進せざるペからず。
誠に政府は帝国不動の方針と決意を声明す
(今井武夫『支那事変の回想』P77) |
日本と満州国と「支那」が手を携え、東亜を安定させ、新秩序をつくっていこう。いわゆる「東亜新秩序」の考えを、初めて闡明にしたものでした。
同時に、「国民政府」であっても、「人」を変えれば「新秩序の建設」への参加を許す、と、さりげなく国民政府の内部分裂を促しています。汪兆銘の存在を意識したものであることは、間違いありません。
この声明に対して、自分の退任を示唆された蒋介石が反発するのは、当然のことでしょう。
『蒋介石秘録12 日中全面戦争』より
その翌日、日本の首相・近衛文麿は、日本の戦争目的が「東亜新秩序」の建設にあることを内外に明らかにした。いわゆる第二次近衛声明である。
この声明は、さきの「国民政府を相手とせず」を修正、「日満支三国相携え、政治、経済、文化等にわたり、互助連環の関係を樹立する」ために、国民政府が政策を転換し、人的構成をかえて参加するならば「あえてこれを拒否するにあらず」と、
中国の内部分裂を呼びかけるものであった。(P189-P190)
『この声明は、まさに"五光十色" "矛盾百出"、内にはその国民をだまし、外には世界友邦をあざむき、さらに中国国民にたいして、 魅惑、麻酔、恫喝の毒計をほしいままにしようとするものである』(「敵国の陰謀を摘発し、抗戦国策を明らかにする」 (一九三八・十二)
(P189-P190)
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一方汪は、近衛声明への支持を表明し、蒋介石と衝突します。その具体的な成り行きは『汪精衛自叙伝』と『蒋介石秘録』で微妙に異なりますが、ここでは両方を併記します。
『蒋介石秘録12 日中全面戦争』より
ところが汪兆銘は、この声明が重慶の新聞に報じられるやいなや、その新聞をふりかざし「この声明をもとに日本と講和談判をはじめるべきだ」とあからさまに唱え出したのである。 そ
のような汪に、日本の声明がいかに陰謀毒計を含んでいるかをこんこんと説いてきかせたが、汪がすでに日本と内通し、裏切り工作をはじめていることには気付かなかった。(P190)
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『汪精衛自叙伝』より
十一月三日、武漢陥落後の新態勢に対処するため、日本政府は「帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦之に存す。
固より国民政府と雖も、従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更生の実を挙げ、新秩序の建設に来り参ずるに於ては、敢て之を拒否するものにあらず」との決意を表明した。
之に対して十二月十三日(「ゆう」注 「十一月」の誤りか)、重慶に於ては党記念週間式が挙行され、蒋介石は次の如く演説してゐる。
『中国抗戦の前途には益々光明が輝いてゐる。各戦線に於ける国共軍は、山地に退いて日軍の進撃を阻み、地形益々有利である。之を要するに、抗戦よく全国の統一を行ひ、
誠意を以て国家民衆を団結せしむれば、如何なる強敵と雖も畏るるに足りないのである』
と抗戦到底の決意を闡明した。
この蒋の宣言は、明かにわたくしの和平勧告に対する答辞であり、同時にあてこすりでもあつた。わたくしは赫怒して、十六日、蒋と二人会食の際、口を極めて蒋の不誠意を面責した。
『国家民族を滅亡に瀕せしめたのは国民党の責任である。我等は速やかに連袂辞職して、罪を天下に謝すべきである』
とさへ痛言した。
蒋は恬然として『我等が辞すれば、一体誰が責任を負ふのか?』と反撥した。二人の論争は満面朱を注いで、掴みかからんばかりの気勢であつたが、 その裡に蒋は酔余、寝室に入つたのでわたくしも、最早重慶脱出の外途なしと決意した。
(P197-198)
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11月26日の会談が、二人を分かつ決定的な場面であったことは、双方一致しています。そしてステージは、日本側と汪側で、「いかに汪の重慶脱出の環境を整えるか」を協議する場面に移ります。
蒋介石との訣別を決断した汪兆銘を、日本がいかに受け入れるか。その条件についての話し合いが、上海にて、中国側と日本側との間で行われることになります。
この会合は、会談が行われた地名から「重光堂会談」と呼ばれました。
話し合いに参加したメンバーを見ます。
西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より
重光堂会談は、あまりにも抽象的な近衛第二次声明の内容をもっと具体化し、日本政府に和平決意をいっそう明確にすることを迫るとともに、 すでに和平調停勢力として立上らなければならないと決意している汪兆銘一派には、日本政府の真意を徹底させ、さらに、その大義名分たるに値するよう、近衛第二次声明を付加修正することを目的とする、
日華双方同志の細目協議のために催された会同であった。
出席者は次のとおり。
中国側 高宗武、梅思平、周隆痒
日本側 犬養健、伊藤芳男、西義顕、今井武夫、影佐禎昭
(P212)
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犬養健は、当時衆議院議員。伊藤芳男、西義顕は、早くから和平運動に関わってきたメンバーです。この民間人三名に加えて、陸軍を代表して今井武夫、影佐禎昭がメンバーに名を連ねます。
さて、この会合で最も重要なテーマとなったのが、日本軍の「撤兵」問題でした。
中国側は「蒙疆地帯」以外から日本軍が全面撤兵することを主張します。そして日本側も、この要望を受け入れました。>これは汪側にとっても、誇るべき一大成果であったでしょう。
西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より
ところで、中国側同志も、この「方針」に原則的には異議あることなく、彼らは、ただ、防共というやむをえない目的のために、
一時的にもせよ、日本側の駐兵が認められる地域は蒙疆地帯だけに厳しく制限されなければならないことを強く主張し、他の地域は撤退技術の許す限り速かに撤兵することを日本政府に公約せしむべきことを強調したのである。
これは、中国民族主義の建前を尊重する意味において、まことに当然な話である。そこで、影佐・今井ともにこれを容れて、この会談の重要な結論として、明確にこの条項を規定した。
この防共駐兵地区の具体的明示と、撤兵に関する条項を明確に取上げたこととが、重光堂会談の最大の眼目とみらるべきものであった。(P213)
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会談は11月20日まで続き、次のような「合意」がまとまりました。
日華協議記録
昭和十三年十一月二十日、日本側影佐禎昭、今井武夫の両名は、中国側高宗武、梅思平の両名と、左記の如き内容を協議成立せり。
左記
第一、日華両国は共産主義を排撃すると共に、侵略的諸勢力より東亜を解放し、東亜新秩序建設の共同理想を実現せんが為め、相互に公正なる関係に於て、軍事、政治、経済、文化、教育等の諸関係を律し善隣友好、共同防共、経済提携の実を挙げ強固に結合す。
之れがため、左記条件を決定す。
第一条、日華防共協定を締結す。 其の内容は日独伊防共協定に準じて、相互協力を律し、且日本軍の防共駐屯を認め、内蒙地方を防共特殊地域となす。
第二条、中国は満洲国を承認す。
第三条、中国は日本人に中国内地に於ける居住、営業の自由を承認し、日本は在華治外法権の撤廃を許容す。又日本は在華租界の返還をも考慮す。
第四条、日華経済提携は互恵平等の原則に立ち、密に経済合作の実を挙げて日本の優先権を認め、特に華北資源の開発利用に関しては、日本に特別の便利を供与す。
第五条、中国は事変の為生じたる在華日本居留民の損害を補償するを要するも、日本は戦費の賠償を要求せず
第六条、協約以外の日本軍は、日華両国の平和克復後即時撤退を開始す。
但し中国内地の治安恢復と共に、二年以内に完全に撤兵を完了し、中国は本期間に治安の確立を保証し、且駐兵地点は相方会議の上之れを決定す。
第二、日本政府に於て右時局解決条件を発表せば、汪精衛等中国側同志は直ちに蒋介石との絶縁を闡明し、且東亜新秩序建設の為め、日華提携並に反共政策を声明すると共に、機を見て新政府を樹立す。
昭和十三年十一月二十日
日本側 影佐禎昭
今井武夫 中国側 高宗武
梅思平
(今井武夫『支那事変の回想』P80-P81) |
簡単に言えば、中国側の「満洲国承認」と日本側の「二年以内の完全撤兵」とのバーター、ということになるでしょう。 この合意は、「戦勝国」であるはずの日本が、領土も賠償も要求しないという、ある意味画期的なものでした。
同時に中国側は、汪兆銘脱出以降の具体的な行動計画を提示します。
中国側挙事予定計画
第一、発動
一、上海に於て日華両側の代表間に和平解決条件を交渉し、万一成立すれば梅思平は上海より香港を経て昆明に至る。
二、日本政府が右条件を確実に承認すれば中国側連絡者により在重慶の汪兆銘に伝達する。 汪は一両日後陳公博、陶希聖等の同志幹部と共に、口実を設け重慶を脱出して昆明に赴むく。
三、汪昆明到着後、日本政府は時機を見て日華和平解決条件を公表す
四、汪は蒋介石との関係断絶を声明し、即日飛行機で河内に、次で香港に向う
五、汪は香港到着後、東亜新秩序設定のため日本に呼応して時局収拾の声明を発表す。 同時に同志国民党員の連名を以て反蒋声明を発表し、中国国民並に国外華僑に対し和平運動を開始す。
六、汪声明に呼応し先ず雲南軍が反蒋独立し、次で四川軍呼応す。(P82) 雲南の龍雲並に四川軍将領は既に同志として堅き盟約があるが、四川には中央直系軍三箇師入省しあるため、
先ず雲南より起義するものとす。(P82-P83)
尚お広東軍其の他戦線にある軍隊にも、本運動に諒解あるもの少からざるも、中央軍に監視されあるため、成るべく其の起義を延期せしむ。
七、日本軍は右軍事行動に対し、中央軍の討伐を困難ならしめる如く協力し、為し得れば中央軍を遮断するため貴州方面に追撃を希望す。
第二、新政府の樹立及び其の政策
一、汪兆銘は同志を傘下に糾合し雲南、四川等日本軍の未占領地域に新政府を樹立して、軍隊を編成す。
二、日本軍の一部を撤兵し、広西及び広東の両省を新政府の地盤に加う。
三、新政府は東亜新秩序設定の政策を明かにし、日華提携政策を発表して、平和運動を開始す。
四、軍隊は五乃至十師を編成す。
五、軍事其の他の教官を日本より招聘し東亜新秩序主義を教育し、人材を養成す。
(今井武夫『支那事変の回想』P82-P83) |
広東省、広西省、雲南省、四川省の四省にまたがる広大な地域に、新政府を樹立する。この雄大な構想が実現したら、既に中国領土の大半を失っている蒋介石政府に十分対抗できる政権になります。
汪の構想通り、そのまま重慶を「和平」に巻き込んでしまう可能性も、十分に考えられます。汪側によれば、各省政府の長に対する「根回し」も済んでいるようです。ここまでのところは、汪の行動に一定の合理性を認めることが可能でしょう。
しかし現実は、汪が思い描いたようには進展しませんでした。
*ただし、工作を進めていた日本陸軍の思惑は、「和平」よりもむしろ、重慶政府を分裂させて「蒋介石を降服に陥れる」謀略工作にあった、とも伝えられます。(『田尻愛義回想録』P67)
**念のためですが、「謀略」というのはあくまで「日本陸軍の思惑」であり、西義顕、犬養健、松本重治らの民間人グループの運動の目的は、
汪グループと同様、あくまで純粋に「和平実現」にありました。この意味で、陸軍グループと民間人グループとの間には、微妙な温度差があった、ということができるでしょう。
なおのちに述べる通り、彼ら民間人グループは、1940年3月の「汪兆銘政府」樹立に対しては批判的な見解に転じるに至っています。
和平条件としての「日本軍の撤兵」は、まさに交渉のキーポイントでした。汪が国民党政府を飛び出す決心ができたのも、これがあってのことでしょう。
松本重治『近衛時代』(上)より
なお、重光堂会談において、中国側で最も重点をおいて力説したのは、外ならぬ撤兵の問題であった。
それは防共駐屯地域を内蒙古に限定し、かつ駐兵の期間を限定すること、もう一つ、その他の地域からの撤兵期限を確定すること、などであった。そして日本側の駐兵を主に、撤兵を従とする主張に対抗して、
撤兵問題は本協定の眼目だ、と主張して譲らなかった。(P46-P47)
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そして1938年12月18日、汪はついに重慶を脱出しました。そして昆明を経由して、ハノイへ飛びます。
近衛首相は、汪の脱出に呼応して、「第三次近衛声明」を発出します。汪側は、当然のことながら、当初の合意通り、近衛が「撤兵」を表明することを期待します。
しかしこの声明からは、「撤兵」の約束がなぜかすっかり消えていました。
犬養健『揚子江は今も流れている』より
目につくことは、前述のとおり、「日本軍が治安の恢復につれて二年以内に撤兵する」という大切な箇条が、全く落されていることである。
しかも日本軍の撤兵の引き換え条件のようになっている内蒙の防共駐屯の方だけが強調して採用されているので、一層恰好がわるい。
なるほど領土の不要求とか、賠償金の不要求、それに外国租界の返還や治外法権の撤廃などは、重光堂での約束のとおりに発表されていて、たしかに中国人の共鳴を得るだろうが、 一番大切な撤兵の約束がキレイに落されているようでは、汪の和平運動の行く先も思いやられる。
―私は失望した。
(P105)
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なぜ「撤兵」の二文字が消えてしまったのか。犬養はこう書きます。
*犬養健は、犬養毅元首相の三男。当時は衆議院議員を務めていました。戦後は吉田内閣の下で法務大臣を務めています。
犬養健『揚子江は今も流れている』より
ところが、ここに大きな障害が待ち受けていた。というのは、先日のように大阪の旅先で首相声明を行う場合は、単に新聞記者会見の席上での談話発表という形をとるのだから、
その声明のあらましの筋を陸軍海軍外務の三大臣と打ち合わせれば、それで事足りたのであるが、今度の場合は正式の声明文であったため、三つの省が持ち合いで文章を作らなければならなくなった。
それで、十二月十二日の正午から三省の係官がその作業にとりかかったが、真っ先に肝心の参謀本部で内部の意見が割れてしまったので声明文の調整どころではない。
かれこれ徒らに時間がたつうちに首相官邸の窓に西日が差し、それが、次第にうすれて暮色に変りはじめた。私はさすがに気がかりになり、参謀本部に電話をかけて影佐を捜した。
すると、五分もたたぬうちに影佐の方から電話をかけて来た。影佐は用心深く、人のいない別室から電話にかかったのである。
その話によると、参謀本部の最も重要な地位に新しく転任して来たばかりの留永少将が、日本軍の撤兵の時期を明示することを強く反対しているために、まだ内部の調整がまとまらぬのだということであった。
その留永少将の言うには、たとえ前任者が認可の印を押したとしても、自分は拘束されぬ。 いやしくも戦勝国が撤兵の時期を戦敗国に約束するなどという不名誉な発表は断じて許さぬ。前線で苦労している将兵に申し訳がない。自分の在任する限り絶対に反対だ。こういう勢いだということである。
私は落胆して秘書官室の隅のソファに寝ころんでしまった。
(P101-P102) |
参謀本部の新メンバーが、折角の「合意」をぶちこわしてしまったわけです。
これは、日本政府の汪に対する重大な裏切りでした。汪にとっても、「撤兵」の密約を反古にされたことは、大きな打撃になります。
この「裏切り」は、運動に参画していた民間人メンバーにも、大きな失望を与えました。
松本重治『近衛時代』(上)より
しかし、十二月二十三日付の新聞に報道された近衛声明文のどこを見ても、撤兵の二字がないことを発見して、私は愕然とした。
声明は、「特定地点に日本軍の防共のための駐屯を認める」ことに触れていたが、「特定地点以外の全中国からの日本軍の撤兵」ということには触れてなかった。
私は和平運動の将来に、暗い影を感じた。
これまで私は、撤兵を和平のポイントとみて、和平運動を撤兵条件づきの和平運動として、やって来た。私が高君と初めて撤兵問題を話し合ったとき、まず日本政府は撤兵方針を定め、中国に向かって声明を発する。
そこから和平運動を開始しよう、との手順をきめた。
そのとき、憶い出すのだが、高君は私に、「いますぐ撤兵しなくてもいいんだ、ただ、撤兵する方針だと、声明してくれたら、それだけで、われわれの和平運動は有力化する」と、いい切った。
ところが、近衛声明のどこにも、撤兵の二字がないとなれば、なんのためにこれまで運動をやってきたか分からないことになってしまう、と西義顕君は怒り、私も憤慨した。
近衛声明から撤兵の二字が消えていた疑問には、日本の誰も、どの新聞も問題にしなかった。
私は十二月初めに福民病院を退院し、その月末に発表のあったときは、まだ寝たり起きたりの状態で、なにしようもなかった。「ああ、これでもう、汪兆銘がせっかく出てきたが、駄目だなあ」と思った。
(P47-P48)
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西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より
だが、欺くといえば、日本こそ汪兆銘を欺いていたのである。というのは、後日発表される第三次近衛声明は、重光堂会談がせっかく明確にした肝心な防共駐兵地区および撤兵の項については、 またまた、これを抽象化して、蒙疆という具体的明示を避けて、「特定地点」と逃げ、また
撤兵に関する字句を全然省略してしまっているのである。
この点の明示があると信じたればこそ、汪兆銘は重慶脱出の最後的決意をするのである。そういう重大な点を、粗略に扱った意味において、
日本の当局者は、日華事変の意義性質を知らずして日華事変を取扱っていたのであり、近衛も板垣もついに同罪であり、断じて日本を救う器ではなかったのである。(P217)
日本の指導者のそれほどまでの低劣さとは知らず、種々奔走し、汪兆銘重慶脱出の契機をつくったひとり、大悲劇の因をつくった私らの愚劣さ、またたとうべきものもなく、
今はなき汪兆銘に対しては謝すべきことばも知らないのであり、回想するだに慨嘆の極みであるが、この物語は、順序として、日本の軍閥と属僚政府がいかに程度の低い存在であったかを再説せざるをえないのである。(P226)
いわんや、撤兵条項を削除するに至っては、もう完全に落第である。この点においては、後日、東条政府が、国家よりも陸軍の大陸駐兵を重しとして、日米交渉を破棄してしまった態度と五十歩百歩である。
日華事変が成るも成らないも、日本が撤兵を約束するかしないかの一点にかかっており、あとの条件などはどうでもよかったのだといっても過言でなかったほどの肝心な要点をはずして、 日華国交調整を考えたというところに、近衛政府がもう実は中国問題を論ずる資格がなかった政府であることを意味している。
もちろん、撤兵ということは、国内の人心に影響するとか、出征作戦部隊の士気に関するとかいうことは、弁解にも問題にもならないことで、そういう口実で、その肝心な条項をはずしたこと自体、日華事変の性質を甘く解していた証拠であった。
(P229) |
汪側の高宗武の要望に基き香港総領事に就任していた田尻愛義も、「重大な不信行為」と評しています。
『田尻愛義回想録』より
和平後遅くとも二年内に防共駐兵を撤退することという影佐、高宗武間の日華協議記録は現実の近衛声明には現われなかった。重大な不信行為であったが、
軍の撤兵に未練な心理と態度は昭和二十年の敗戦まで少しも変るところはなかった。(P67)
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しかし、汪兆銘を襲った困難は、これだけではありませんでした。
汪の「新政府樹立」構想の前提には、「雲南、四川省等の合流」がありました。これさえ実現すれば、汪の新政府は、日本軍の占領地に頼ることもなく、十分に重慶政府に対抗できるものになったでしょう。
しかし結局、雲南、四川等が重慶政府から離脱することはありませんでした。そして汪構想への参加者も、予想外の少数にとどまりました。
松本重治『近衛時代』(上)より
汪兆銘はかねてから、決起した場合、陳済棠、何健、龍雲、張発圭、陳素農ら軍・政界の要人がいち早く参加するだろうと期待していた。しかし彼らはその場にのぞんでもなんらの動きもみせなかった。
また、従来汪派の精鋭と目されていた彭学沛、張道藩、甘乃光、王世杰らさえ、汪兆銘の主張には耳をふさぐ有様であった。
さらに、汪兆銘は、蒋介石が彼の建策を拒否する場合には、日本占領地域以外の区域に、蒋介石と対抗して和平運動の根拠地をつくろうという構想をもっていたのだが、ひそかに期待をかけていた、
かつて汪兆銘支持を表明していた軍隊さえ、一兵の参加もなかった。
(P56-P57)
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この背景には、汪の「指導者」としての資質に疑問が持たれていた、ということもあったかもしれません。そして日本側は、明らかにその汪の実力を、過大評価していました。
『田尻愛義回想録』より
香港の一般には、汪のような裏切者は「大事をなさず」という空気がみなぎってきた。重慶の宣伝もあったのだが、中外からともどもに汪不信頼の絡印が押されたのである。
汪の重慶脱出は成功したが、平和宣伝の重慶工作に当らすという目的は重慶によって潰されたわけであった。(P69-P70)
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中村豊一 『知られざる宇垣・孔秘密会談』より
汪兆銘はたしかに立派な人でその対共産党観には敬服すべきものがあり、当時日本より更に恐ろしい共産党の脅威を説いていた。
しかしいくら立派でも、何かやるためには実際に政治力があるかどうかということを考えねばならぬ。当時重慶政府における汪兆銘の地位は非常に微弱であって、ある人は、「詩文を弄ぶ貧客の如し」と評していた。
汪兆銘の口ききで誰一人として官職につくことはできないといつた程度のものであった。
ところが日本の軍部は、何かしでかす政治力があると買いかぶつたのである。
(別冊知性 昭和31年12月号「秘められた昭和史」所収 P264) |
こうして、汪構想の実現は困難の度を加えます。
そして決定的なダメ押し打となったのが、近衛首相の、突然の辞任でした。
松本重治『近衛時代』(上)より
私の熱海滞在中にさらにもう一つ、汪さんの側、日本の側双方の和平運動にとって、とどめを刺されたと思える大事件が起った。
一月四日近衛内閣が総辞職し、平沼騏一郎内閣の成立、といった政変である。形ばかりは、近衛さんが無任所大臣として平沼内閣に留任した。しかしこれは、要するに、汪兆銘の和平運動に対する日本側の当事者として
、近衛さんが平沼内閣に残るということで、表面を糊塗したわけだった。この政変が、汪兆銘をどんなに落胆させたか、想像に難くなかった。
どうして近衛さんは、せっかく汪兆銘が重慶から出てきて、「さあ、これから和平運動をやろう」としているとき、それも汪さんが出てきてからまだ二十日になるかならぬうちに、自分で辞表を出して
、内閣を投げだしてしまったのか。これじゃあ、まるで自分で汪さんの梯子をはずしたようなもので、ぜんぜん頼むに足る姿勢ではないじゃないか、と私は近衛さんに甚しい不満を持った。 これでは、和平運動は駄目だ、と私は思った。(P58)
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交渉を進めていた当の相手側が、突然舞台から降りてしまいました。これでは、汪が国民党政府から脱出したことは、完全な無駄になってしまいます。
撤兵の約束の反故、汪への同調者の少なさに加えて、近衛の内閣投げ出し ― かくして「蒋介石政府に対抗できる新勢力」構想は、当面のところ、完全に頓挫することになりました。
(2009.2.23)
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