汪兆銘 その理想と現実 2 「南京政府」の樹立 |
目 次 汪兆銘 その理想と現実 1 裏切られた「撤兵」の約束 1 「訣別」を決意するまで 2 重光堂会談 3 裏切られた「撤兵」の約束 4 「新勢力」構想の挫折
これまで見てきたように、重慶脱出後、ハノイへ向かった汪兆銘らは、近衛首相の突然の辞任により、「梯子を外された」形になります。彼らは、和平運動の「次の一手」を見いだせぬまま、そのまましばらくハノイに滞在します。 そんな汪兆銘にとって転機となったのが、腹心、曾仲鳴の暗殺事件でした。
曾の暗殺は、汪に大きな衝撃を与えました。汪は「黒幕」と見られる蒋介石への怒りを顕わにし、蒋に対抗する政府の樹立を決意します。 日本側もまた、ハノイでは汪の安全が確保できないことを懸念し、影佐禎昭・犬養健に命じて、汪をハノイから脱出させます。脱出後、上海へ向かう船の中で、汪はその決意を、影佐にこう語りました。
要するに、新政府を樹立して日本と和平条約を結ぶことによって、中国−日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待する、という構想です。 ただしこれは、重慶脱出時の構想と、根本的に異なるものでした。 当初汪は、日本の占領地の外に新政府を樹立して、蒋政府に対抗する「第三勢力」を築き上げる計画だったはずです。しかしその計画が不可能となった今となっては、日本の占領地を間借りしてそこに政府をつくる、という何とも屈辱的な方法しかなくなってしまったのです。 今さらそんなことをやって、成功の見通しがあるのか。「汪兆銘工作」の当事者であるはずの今井武夫すら、悩みを見せます。
今井は「上策とは云い難いが次善策」と思い直し、汪政府構想に協力することになりますが、従来汪兆銘工作の中心にあった西義顕などは、完全に批判的な立場に転じます。
田尻愛義の批判は、さらに痛烈です。
ともかくも、汪は新政府設立を決意しました。しかしこれは、日本に対して抵抗を続ける重慶政府から見ると、敵陣営に投降するに等しい「裏切り行為」です。 どうしたら「漢奸」の汚名を着ることなしに「政府」を設立できるのか ― 汪の苦悩が始まります。
1939年10月より、いよいよ汪兆銘と日本側との、和平条件をめぐる交渉が開始されます。 しかし日本側が示した条件は、予想外に強硬なものでした。それは、日本側の交渉当事者ですら、愕然とせざるをえないものでした。
これ以降、汪側は、少しでも条件を緩やかなものにするため、苦心の交渉を重ねることになります。 しかし交渉は難航し、12月25日には、途方に暮れた汪は、ついに「交渉打ち切り」すら申出するに至ります。
この時は、影佐の説得により、汪はとりあえずは翻意し、交渉は継続されることになりました。そして結局、当初の条件を幾分緩和した形で、交渉は妥結しました。 しかしそこに、とんでもない事件が起こります。
高宗武は、1934年、28歳の若さにして国民党政府の亜州司長(日本の「外務省アジア局長」に相当)に就任。1938年5月には松本重治らの導きにより日本を極秘訪問、板垣陸相らと「和平」をめぐる話し合いを行いました。 この時高宗武は、中国国民党内部にも汪兆銘らの「和平派」が存在することを伝え、日本側に和平への希望を与えました。これはのち「汪兆銘工作」に発展しましたが、結果として「和平」は実現せず、国民党の反蒋グループが離脱したというだけの結果に終ってしまったことは、先のコンテンツでも見てきた通りです。 高宗武は、早い時期から「汪兆銘工作」の中国側の中心的存在として活動していました。しかし高は、その工作の「変質」に、心を痛めざるをえませんでした。
そして高は、ついに汪グループからの離脱を決意します。そして、あまりに過酷な日本側の条件を、国民党系新聞『大公報』に持ち込み、世界に暴露してしまったのです。 高の暴露が、汪グループに与えた衝撃は、計り知れないものがありました。周仏海が泣き出す様子を書いた、神尾茂の記述がリアルです。
周も、その日記の中で、「二匹のクズはいつか必ず殺してやる」と、感情の高ぶりを隠そうとしません。
実を言えば高が暴露した文書は、汪兆銘側の努力によりやや緩和された最終案ではなく、日本側が思い切り高飛車な要求をぶつけてきた、当初案でした。日本側と汪は、そのことを指摘して反撃を試みますが、もはや世界への衝撃を薄めようもありません。 汪が日本の傀儡となろうとしている― このイメージは中国国民の間に完全に定着してしまいました。 *余談ですが、28歳の若さで国民党政府「亜州司長」の地位を得、その後「汪兆銘工作」の影でこれだけの活躍をした高宗武は、これを最後に「引退」してしまいます。 彼の表舞台での人生は、30歳代前半という若さで終わってしまったわけです。その後高はアメリカに渡り、しばらくは貧困に苦しみましたが、タイピストの妻の「内助の功」もあり、晩年は悠々自適の生活を送ったと伝えられます。(1996年没)
1940年3月30日、紆余曲折の末、ともかくも汪兆銘政府は発足しました。ただし、汪は「国民党の正統はこちらにある」と主張していたため、新政府設立にあたり、「南京遷都」という形式をとります。
汪はこう書きましたが、関係者は、新政府の前途困難を思わずにはいられませんでした。
かつて汪兆銘工作を進めた「同志」、西義顕も、式典への出席を謝絶しました。
初期に高宗武と会見するなど、「工作」に一定の関わりを持った西園寺公一も、同様でした。
新政府の実態については、初期から「工作」に関わり、新政府発足後も「顧問」という形で汪に協力した影佐が、こんなことを書いています。
下級官吏には「理想」を失わないものも案外いたが、肝心の上層部はほとんどが「理想」を失っている。これでは、新政府が「和平運動」に力を持てるはずもありません。 結局のところ、汪の和平構想は、失敗に終わりました。以降汪は、放置すれば横暴になりがちな日本側から、少しでも民衆を守ることに心を砕くことになります。 ここまで見てきた経緯から明らかな通り、汪兆銘は、蒋介石に対抗するだけの、政治家として力量を欠いていたことは事実です。 しかしこの状況を生んだ原因を、汪兆銘の側にだけに求めるのは酷でしょう。工作に関わった民間人は、口々に、汪兆銘を「悲劇」に追いやった日本政府、軍部を批判します。
善意の政治家であった汪を「悲劇」に追い込んだ原因は、日本側のあまりに場当たり的・無責任な対応にあった。そのように判断すべきところでしょう。 (2009.2.23)
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