汪兆銘 その理想と現実
2 「南京政府」の樹立


目  次


汪兆銘 その理想と現実 1 裏切られた「撤兵」の約束

1 「訣別」を決意するまで

2 重光堂会談

3 裏切られた「撤兵」の約束

4 「新勢力」構想の挫折



汪兆銘 その理想と現実 2 「南京政府」の樹立(本稿)

1 「新政府」樹立の決意

2 厳しい「和平」条件

3 高宗武らの離脱

4 「新政府」は成立したが・・・




 「新政府」樹立の決意


 これまで見てきたように、重慶脱出後、ハノイへ向かった汪兆銘らは、近衛首相の突然の辞任により、「梯子を外された」形になります。彼らは、和平運動の「次の一手」を見いだせぬまま、そのまましばらくハノイに滞在します。

そんな汪兆銘にとって転機となったのが、腹心、曾仲鳴の暗殺事件でした。

『汪精衛自叙伝』より

 三月二十一日の午前二時、わたくしは曾仲鳴夫妻と、寝苦しいまま深夜まで語り耽つてゐた。(P216)

 その時仲鳴は『先生一統の和平派が河内(ハノイ)に脱出したことを、重慶では外遊するのだと宣伝してゐますが、さういふデマの効果があるうちはともかく、なくなれば必ず先生はじめわれわれの生命を狙ひに来るでせう。先生の身体は中国四億の人民のもので、先生個人のものではない。どうぞ御用心下さい』

と夫妻で部屋に引き取ったが、五分と経たないうちに塀の外でピストルの音がした。

 わたくしは眼をつぶつて凝つとしてゐたが、機関銃のダダダダといふ音と共に仲鳴夫妻がやられた。


 『生きてくれ君璧、生きてわたしの代りに汪先生の力になつてくれ』と朱に塗つた仲鳴は叫びつづけてゐた。そして有名な『国事は汪先生にあり、家事は我が妻にあり、今や我れ何等心配すべき事なし』といふ遺言を残して逝つた。

 仲鳴は妻の君璧女士を庇はんとして、機関銃弾を七八十発も受けて殆れたのだ。幸に夫人は助かつたがわたくしは尚ほ春秋に富む曾仲鳴を、わたくしの身代りにしたことを慟哭したのであつた。

 犯人は藍衣社系の現役軍人で王老僑と推知された。(後上海で捕へられ処刑された) (P217)



  曾の暗殺は、汪に大きな衝撃を与えました。汪は「黒幕」と見られる蒋介石への怒りを顕わにし、蒋に対抗する政府の樹立を決意します。

  日本側もまた、ハノイでは汪の安全が確保できないことを懸念し、影佐禎昭・犬養健に命じて、汪をハノイから脱出させます。脱出後、上海へ向かう船の中で、汪はその決意を、影佐にこう語りました。


影佐禎昭『曾走路我記』より

 汪氏とは爾後上海に至る間日々屡々会談をしたのであるが、その間に於て汪精衛氏の自分及犬養氏に語った重要なることは概ね左の通りである。

 第一点は汪氏日く

 「従来和平運動の展開は国民党員を中心とする和平団体を組織し言論を以て重慶の抗日理論の非なるを所以を指摘し和平が支那を救ひ東亜を救ふ唯一の方法であろうといふことを宣揚し逐次和平陣営を拡大し究局に於て重度を転向せしめやうと云ふ案で進んで来たがよくよく考へるに言論のみにては重慶政府を転向せしむることは甚だ困難である。

 寧ろ百歩を進めて和平政府を樹立して叙上言論による重慶の啓発工作以外に更に日支提携すればこれだけ好く行く 従つて抗戦は無意義であるといふことを事実を以て証明しこれによつて輿論の帰趨を問ひ重慶政府の動向を和平に転ずるの外なきに至らしむる方が適当であらう
といふ結論に達した。

 従つてもしも貴国政府に於て異存がなければ従来の計画を変更し和平政府樹立の計画に変更したい希望を持って居る。」と。(P365)

 

 要するに、新政府を樹立して日本と和平条約を結ぶことによって、中国−日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待する、という構想です。


 ただしこれは、重慶脱出時の構想と、根本的に異なるものでした。

 当初汪は、日本の占領地の外に新政府を樹立して、蒋政府に対抗する「第三勢力」を築き上げる計画だったはずです。しかしその計画が不可能となった今となっては、日本の占領地を間借りしてそこに政府をつくる、という何とも屈辱的な方法しかなくなってしまったのです。


 今さらそんなことをやって、成功の見通しがあるのか。「汪兆銘工作」の当事者であるはずの今井武夫すら、悩みを見せます。

今井武夫『支那事変の回想』より

 この頃私は、汪兆銘の南京に政府を樹立する構想に対し、その成果に懸念を感じ、必ずしも賛意をあらわしかねていた。

 元来重光堂会談に於ける高宗武の主張は、政権樹立に当っては日本軍の占領地域を忌避して、極力雲南、貴州、、広東、広西等の日本軍未占領地を選ぴ、汪派の軍隊を以て之れを占拠し、重慶の抗戦国民政府に対立して和平政府を樹立する如く揚言していたに拘らず、遽かに方針を変更し、進んで日本軍占領区域内の南京に国民政府を樹立しては、所謂傀儡政権に堕し、従来の臨時、維新両政府と何等選ぶところがなくなり、果して事変解決に寄与するか、或いは寧ろ全面和平の障碍となるか不明にして、大いに検討する必要があった。

 たとえ汪の主張の如く重慶側に働きかけて、彼等の抗戦政策を転向させるように施策するにしても、汪政権が自ら傀儡政府となっては、彼も亦国を売るものとして、国民大衆の指弾する所となりかねない。

 
殷鑑遠からず、北京臨時政府の王克敏や、南京維新政府の梁鴻志の轍を履むのではないかと恐れたので、上海で汪の腹案を聞いた時、私は事の意外に驚き、その考の一端を述べて、周佛海や梅思平と討議した。(P96)


今井は「上策とは云い難いが次善策」と思い直し、汪政府構想に協力することになりますが、従来汪兆銘工作の中心にあった西義顕などは、完全に批判的な立場に転じます。

西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より

 少なくとも、日本軍の占領地域に政府をつくる場合に比べ、自主性を維持することが比較にならぬはど容易であり、最後の自由行動権はそこなわれることなく保留される。(P245-P246)

 日本軍の占領地域に政府をつくる場合は、そうはいかない。生殺与奪の権は完全に日本軍の手中に握られるのである。いわば日本軍の捕虜になるのである。 何を苦しんで、みずから進んで日本軍の捕虜になる必要があるのか。

(P246)


田尻愛義の批判は、さらに痛烈です。

『田尻愛義回想録』より

 日本の占領地では北京の王克敏にせよ、南京の梁鴻志にせよ、占領地の行政のために日本に協力しているのであって、別に蒋介石に対抗するためではない。 ところが汪が重慶脱出前には占領地の傀儡政府を嫌いながら今になって占領地の政府を統合して自分がその長になろうというのは一体何と解釈していいのか。

 私に言わせれば、彼には自分の一身の利害があるだけで、もう中国、中国人のための平和幸福の目標をすてている。 全占領地域にわたる政府をつくりたいというのは蒋との対抗意識の現れ以外の何ものでもない。しかも自分をも裏切るばかりか、占領地の中国人を欺くことにもなる。(P71)


 ともかくも、汪は新政府設立を決意しました。しかしこれは、日本に対して抵抗を続ける重慶政府から見ると、敵陣営に投降するに等しい「裏切り行為」です。

 どうしたら「漢奸」の汚名を着ることなしに「政府」を設立できるのか ― 汪の苦悩が始まります。




 厳しい「和平」条件


1939年10月より、いよいよ汪兆銘と日本側との、和平条件をめぐる交渉が開始されます。

 しかし日本側が示した条件は、予想外に強硬なものでした。それは、日本側の交渉当事者ですら、愕然とせざるをえないものでした。


影佐禎昭『曾走路我記』より


 自分は近衛声明の具体化されたものは即ち昭和十三年の暮決定を与へられた「日支関係調整方針」であつて要すればこれに「戦時下の過渡的弁法」を附加する程度のものと予想して居たのである。

 然るに十月初興亜院会議決定事項として堀場中佐及平井主計中佐の持参せる交渉原案を見るに及び自分は暗然たるを禁じ得なかつた。


 「日支関係調整方針」及「戦時下の過渡的弁法」は自分の予想の如く指示されたが其の以外にこれに便乗附加せられた条項の少くないのは一驚した。

 例へば普北十三県を蒙彊に編入せんとするが如き北支政務委員会の権限を著しく拡張せんとするが如き重要鉄道を日本側に委任経営せしめんとするが如き防共的永久駐兵の区域を著しく拡張せんとするが如き海南島に対する権益を設定せんとするが如きは如何に見ても近衛声明より逸脱するものであると思はざるを得ない。

 堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた。(P376)

(みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収)


今井武夫『支那事変の回想』より

 この内約は日本側にあっては、近衛第三次声明の基本政策たる日支新関係調整方針に基づき、十月初め既に日本側試案を決定したが、 権益思想に依り新たに政府各省から便乗追加された条項も少くなく、忌憚なく言って、帝国主義的構想を露骨に暴露した要求と言う外ない代ろ物であった。

 即ち一例を挙げれば、日本軍の傀儡たる蒙彊政権の境域を拡張したり、又日本軍の指導力の浸透していた華北政府の権限の拡大を図ったり、或いは鉄道の経営権を日本側に委託せしめようとしたり、日本軍の駐兵区域を増大したりした。

 更に甚しきは海軍側から海軍独自で突然新たに、海南島に日本海軍の権益を設定せんと、秘密裡に協議を図る等何れも重光堂に於て日華双方が協議決定した日華協議記録に違背し、近衛第三次声明の精神を逸脱するもので、 その理由は常に戦時特例として、臨時的な必要だと言うにあった。(P103)



犬養健『揚子江は今も流れている』より


 東京の興亜院から汪精衛に対して実に過酷な和平条件をつきつけて来たからである。(P199)

 「やあ、遅くなりました。それが問題の『内約』かね」

 私も早速浴衣一枚に着替えながら、影佐の背中に声をかけた。

 「首尾はどうです。よほど手厳しい内容のものか」

 「うむ。手厳しいにも何にも、話にならんのだ。―勿論わしも今は戦争がつづいていることだから、この『内約』にも多少は戦時の過渡期の取り定めというような条件が入ると覚悟はしていたがね。

 今ここで読んで見ると、この書類の七割ぐらいはその戦時の要求というやつで埋まっているのだ。そのうえ、秘密協定の手厳しいのが、あちこちに八ヵ所も臆面なくのさばっている始末だ。

 これじゃあ和平実現どころじゃない。汪さんは中国国民に不明を恥じて詫びなけれはならんよ。執筆者の堀場中佐でさえ、あまりひどいので、冷却期を置いて再検討しようと主張しているそうだ。

 とにかく、近衛さんも興亜院などという大変な役所をつくってしまったものだな」(P200)


岡田酉次『日中戦争裏方記』より

 今にしてこれを思えば、これは明らかに汪派の和平工作にあらかじめ死刑の宣告を与えたものとも見ることができる。少なくとも工作の将来に致命傷を与えてしまったことは、その後の経過に徴し明らかであろう。(P209)


 これ以降、汪側は、少しでも条件を緩やかなものにするため、苦心の交渉を重ねることになります。

 しかし交渉は難航し、12月25日には、途方に暮れた汪は、ついに「交渉打ち切り」すら申出するに至ります。

影佐禎昭『曾走路我記』より

 尚十四年十月二十五日交渉停頓して一時決裂の危機に逢着した。汪氏は自分の来印(ママ)を促し悲痛な面持を以て語つて曰く

「貴下を初めとし梅華堂の諸君が交渉の結果を近衛声明に成べく近づけんと努力し大乗的の態度に出て居ることは自分の衷心感謝に堪へない所である。

 併し乍ら御承知の如く日本側の提議された原案は実は近衛声明と距ること頗る遠くその為に同志の中には失望を感じて既に落伍するものもあつたし、又今後も落伍者を見んとするような状況に立ち到つた。

 其後交渉により修正を見るに至つたと雖今日支両委員会の間に於て交渉の停頓して居る事項は凡て自分の和平運動に対する致命的の問題のみである。

 又貴下がこの上和平運動を成立させる為にこれ等主要問題につき譲歩されるといふことになれば貴下自らが日本政府に対して重大なる責任を負はなければならぬといふことになり之亦自分の忍び難いところである。

 仍て本交渉は寧ろ打切つてはどうかと思ふ。
固より自分が和平を旨とするといふことは信念として変るところはないのであるが唯政府樹立の形式に依る方法を中止してはどうかと思ふ」と。(P378)

(みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収)


この時は、影佐の説得により、汪はとりあえずは翻意し、交渉は継続されることになりました。そして結局、当初の条件を幾分緩和した形で、交渉は妥結しました。

しかしそこに、とんでもない事件が起こります。



 高宗武らの離脱


 高宗武は、1934年、28歳の若さにして国民党政府の亜州司長(日本の「外務省アジア局長」に相当)に就任。1938年5月には松本重治らの導きにより日本を極秘訪問、板垣陸相らと「和平」をめぐる話し合いを行いました。

 この時高宗武は、中国国民党内部にも汪兆銘らの「和平派」が存在することを伝え、日本側に和平への希望を与えました。これはのち「汪兆銘工作」に発展しましたが、結果として「和平」は実現せず、国民党の反蒋グループが離脱したというだけの結果に終ってしまったことは、先のコンテンツでも見てきた通りです。


 高宗武は、早い時期から「汪兆銘工作」の中国側の中心的存在として活動していました。しかし高は、その工作の「変質」に、心を痛めざるをえませんでした。

西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より

 昭和十四年十二月の旅行の際、高宗武に招待されて、しみじみと話し合ったことがある。この運動のきっかけをつくったのは、松本と高だが、 樹立する政権は日本の傀儡になってはならないということを、誰よりも明確に主張していたのも、高だったのだ

 そんなこともあって、汪兆銘と一緒に東京に来た際も、宿舎を別にされたり、日本の軍人のなかには彼を「斬る」などと息巻く者までいた。

 彼は僕を招待した席でしみじみとこういうんだ。

「このままでは僕は同胞に合わせる顔がありません。われわれは、大変なあやまちをおかしたのではないでしょうか」

 正直にいって、僕は何と答えていいか、わからなかったよ。(P167)


 そして高は、ついに汪グループからの離脱を決意します。そして、あまりに過酷な日本側の条件を、国民党系新聞『大公報』に持ち込み、世界に暴露してしまったのです。

 高の暴露が、汪グループに与えた衝撃は、計り知れないものがありました。周仏海が泣き出す様子を書いた、神尾茂の記述がリアルです。


神尾茂『香港日記』より

一月二十三日(火)
  清水、矢野、犬養、小池、扇、波多の七人で海光寺で昼食してゐると、二時頃迎賓館より犬養君に電話があつて、周佛海が来るといふ。十分もたたない中に同氏座に在り

「実に残念だ、憤激に堪へない」

とて二三枚の罫紙に書いたものをポケットから出し

「日本の皆様に済まない、私は泣いた」

と言ひつつ犬養氏に渡す。今受取つたばかりの大公報の記事全文を伝へた電報だ。周は頭を垂れて両眼に涙をためてゐたが、彼は感極まつてすすり泣き、終に泣き出してしまつた。

 大公報の記事は高宗武、陶希聖が、国家のためにこの秘密協定全文を暴露すると称して、投書した形になつてゐる。協定全文は秘かに撮影して、国民政府に送つたといふことも書いてある。

 聞けば十二月に入つて関係書類を一晩持つて帰つたことがあつたといふ。この時から高は今日の毒計を考へてゐたものに違ひない。(P177)

 周曰く

「汪先生は三回忠告した、それ以上は言ふことが出来なかつた。この運動は私と梅さんと、陶希聖と高宗武と四人が協力して進めて来たものだ。二人に叛かれて二人になつてしまつた。実に残念だ」

と泣く。(P177-P178)

 座に在るもの皆粛然、慰むるに言葉なし。(P178)


 周も、その日記の中で、「二匹のクズはいつか必ず殺してやる」と、感情の高ぶりを隠そうとしません。

『周佛海日記』より

一月二十二日


 昼食後上海からの無線電を受け取るが、高、陶のクズどもが香港で条件をすべてを発表したとのこと、憤慨の極みなり。 影佐が釆て、大局には関わりないとして、余から汪先生にそのことを伝えて安心させるよう勧められた。彼の意図は余を慰めることにあるのだが、その内心も苛立つことこの上なしの情況である。

 三時に青島に着き、汪先生に従って海軍の艦艇に乗って上陸する。ついで汪先生の代理として当地の中日各責任当局をそれぞれ訪問し、さらに影佐と蒙古問題を協議する。

 夕食後、汪先生が同行した幹部を集めて会議を開き、会議への各種対応策を協議する。

 晩に思平と高、陶の件で話し合うが、憤慨の余り一睡も出来なかった。上海に戻ったら長文の声明を発表して内容の説明と我々の態度を明らかにして全国民の耳目を正すことにしよう。 高、陶の二匹のクズはいつか必ず殺してやる。(P151)



 実を言えば高が暴露した文書は、汪兆銘側の努力によりやや緩和された最終案ではなく、日本側が思い切り高飛車な要求をぶつけてきた、当初案でした。日本側と汪は、そのことを指摘して反撃を試みますが、もはや世界への衝撃を薄めようもありません。

 汪が日本の傀儡となろうとしている― このイメージは中国国民の間に完全に定着してしまいました。
*余談ですが、28歳の若さで国民党政府「亜州司長」の地位を得、その後「汪兆銘工作」の影でこれだけの活躍をした高宗武は、これを最後に「引退」してしまいます。 彼の表舞台での人生は、30歳代前半という若さで終わってしまったわけです。その後高はアメリカに渡り、しばらくは貧困に苦しみましたが、タイピストの妻の「内助の功」もあり、晩年は悠々自適の生活を送ったと伝えられます。(1996年没)



「新政府」は成立したが・・・


 1940年3月30日、紆余曲折の末、ともかくも汪兆銘政府は発足しました。ただし、汪は「国民党の正統はこちらにある」と主張していたため、新政府設立にあたり、「南京遷都」という形式をとります。

『汪精衛自叙伝』より

南京還都


 東亜新建設の基礎たるべき中華民国政府還都典礼は、三月三十日午前十時から桃の花かをる南京国民政府大礼堂において挙行された。

 定刻国民政府主席代理たるわたくしをはじめ、立法院長陳公博、司法院長温宗尭、考試院長王揖唐、監察院長梁鴻志等新政府諸員は席につき、式典は国家奏楽をもつて開始された。

 孫総理の遺嘱朗読につぎ中央壇上に立つたわたくしは、感激に溢れる歴史的遷都宣言を行つた。

 青天白日満地紅旗のもと、国民政府は和平の実現と憲政の実施の二大方針を掲げて、再び首都南京に帰還し、この日をもつて中華民国唯一の合法的中央政府たるべき旨を宣言した。

 中日の全面的和平実現への組織はここに固められ、新生中国は力強くその第一歩を踏出したのである。(P270-P271)


 汪はこう書きましたが、関係者は、新政府の前途困難を思わずにはいられませんでした。

金雄白『同生共死の実体』より

 しかし、汪政権成立のこの日の演説は、なんの特別の印象ものこっていない。彼の声はとても低く、生彩を欠いて力がなかった。おそらく彼の一生のうち、最も失敗した演説であったろう。(P109-P110)


 かつて汪兆銘工作を進めた「同志」、西義顕も、式典への出席を謝絶しました。

西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より

ちなみに、汪兆銘の南京政府が南京遷都の形式で成立したのは、昭和十五年(一九四〇)四月三十日のことである。

日本政府は、阿部信行特派大使を派遣して盛大にその式典を祝った。汪兆銘から、私に対しても、伊藤芳男を介して、祝賀式典参列の招待があったが、私は、式服の準備がないからとの措辞で謝絶した。(P270)


 初期に高宗武と会見するなど、「工作」に一定の関わりを持った西園寺公一も、同様でした。

西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より

 汪兆銘政権は、昭和十五年三月に樹立されている。彼は、日本に裏切られ、当初の構想とはまったく異なる「新政権」の首班となったわけだ。

 南京では盛大な式典が行なわれたらしい。僕も汪さんから招待されたが、とても行く気になれなかった。だからわざと日をずらして、式典の数日後、南京へ入ったんだ。(P169)


新政府の実態については、初期から「工作」に関わり、新政府発足後も「顧問」という形で汪に協力した影佐が、こんなことを書いています。

影佐禎昭『曾走路我記』より

 汪政府成立後其の傘下に来り投じた者は非常に多数に上るが其の質に至りては真に玉石混淆であった。(P384)

 自分の観る所では真に和平の信念に燃えて居る人々は上層部では汪氏以下十指を以て数へ得る過ぎないのではあるまいかと思ふ。


 而して自分の意外とする所は下級の官吏、軍人中に此信念を抱いて居る者が案外少くなかつたことである。 其の他大部の者に至りては信念とか見識を持て汪政府に参加したものではなく其の日暮しで今日を以て明日の去就を卜し得ない者も少からざる様見受けられた。(P384-P385)

 然るに新政府が成立しても全般の雰囲気が前と余り変り栄へが目立たないものであるから真面目ながら性急なる青年官吏軍人等は悶々の情に堪へぬが此煩悶を解いて呉れる様な上官が少ない。

 斯くて意気銷沈して和平運動の前途を悲観し或は運動からの離脱を志す者も生ずるに至つた。(P385)

(みすず書房『現代史資料13 日中戦争5』所収)


 下級官吏には「理想」を失わないものも案外いたが、肝心の上層部はほとんどが「理想」を失っている。これでは、新政府が「和平運動」に力を持てるはずもありません。

 結局のところ、汪の和平構想は、失敗に終わりました。以降汪は、放置すれば横暴になりがちな日本側から、少しでも民衆を守ることに心を砕くことになります。




 ここまで見てきた経緯から明らかな通り、汪兆銘は、蒋介石に対抗するだけの、政治家として力量を欠いていたことは事実です。

 しかしこの状況を生んだ原因を、汪兆銘の側にだけに求めるのは酷でしょう。工作に関わった民間人は、口々に、汪兆銘を「悲劇」に追いやった日本政府、軍部を批判します。

 西園寺公一回顧録『過ぎ去りし、昭和』より

 汪兆銘政権は、日本の軍部がつくったようなものだった。 でも、日本政府がこの政権を「承認」するのは、この年の十一月だ。何故、即座に 「承認」ということにならなかったかといえば、 汪兆銘政権ができても局面打開の手がかりにならないことがはっきりしていたからなのだ。

この間、日本が何をやっていたかといえば、水面下で蒋介石政府と和平交渉していたんだな。それがことごとく失敗した後に、自分の手でつくった政権を「承認」したというわけさ。ずいぶんひどい話だよ。(P170)

 水面下の交渉の一つに、宋子文の実弟・宋子良と陸軍参謀本部の鈴木卓爾中佐との交渉がある。このことについて、僕が関係しているようにいわれているらしいが、間違いだ。僕はこの交渉にはまったく、無関係だ。(P170-P171)

 汪兆銘は日米戦争が始まってしばらくすると病気になり、名古屋の病院に入院した。

 そして、昭和十九年にここで亡くなっている。不幸な死にかただったな。(P171)


西義顕『悲劇の証人:日華和平工作秘史』より

 かくては、いかに偉大な革命家とても何事をなしうるものであろうか。

  日本の指導者のそれほどまでの低劣さとは知らず、種々奔走し、汪兆銘重慶脱出の契機をつくったひとり、大悲劇の因をつくった私らの愚劣さ、またたとうべきものもなく、 今はなき汪兆銘に対しては謝すべきことばも知らないのであり、回想するだに慨嘆の極みであるが、この物語は、順序として、日本の軍閥と属僚政府がいかに程度の低い存在であったかを再説せざるをえないのである。(P226)


犬養健『揚子江は今も流れている』より

 結局一番ひどい目に会ったのは汪精衛であって、 もともと「蒋を相手にせず」と言ってしまった近衛の失言の穴埋めに、代理役として引き出したのだという先入主が、どうしても陸軍の脳裡にあるから、和平条約の内容をきめる両国の交渉委員の折衝に際しても、最上の条件を汪に与える気は毛頭ない。

 そういう立派な御馳走ほ蒋自身が乗り出した時の「取って置き」のものであって、汪には勿体ないという考え方である。

 これでは汪の立場も台無しである。度重なる日本陸軍の違約と冷遇に直面して、汪は生涯の政治力をも使い果してしまった。彼は名古屋の帝大病院に入院して、手術失敗の結果、やがて死んで行った。(P313)


 善意の政治家であった汪を「悲劇」に追い込んだ原因は、日本側のあまりに場当たり的・無責任な対応にあった。
そのように判断すべきところでしょう。


(2009.2.23)
  
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